0103日・月

 昨年の最高の音楽体験は2月下旬、緊急事態が宣言される直前に2日間行われた『マタイ受難曲 2021』の公演だった。並はずれたライヴを体験した時は、呆然としてしまって、しばらく本を読んだり、音楽を聴いたりする気になれない。ずいぶん前、ニール・ヤングの初来日のステージを見た人が、その後数日間、まったく音楽を聴かないでいることに気がついた、と書いているのを見て、そういうものかなと思ったが、自分もライヴに通うようになるとよくわかる。shezoo さんの企画によるこの現代流『マタイ』のライヴはまさにそういう例外的な体験だった。あまりに大きくて、その時は感想を書こうとして書けなかった。昨年末、2日間のうちの2日目、日曜日の公演を収めた DVD がリリースされた。それを見ることで、あの時の記憶が甦ってきた。ようやく、あの公演について、なにほどかのことを書きつけることができそうだ。



 バッハの厖大な作品群の中で一つだけ挙げろと言われれば『マタイ』だと礒山雅も書いていた、その『マタイ』を shezoo さん流に大胆に現代的にやると聞いたのはもう何年も前だったと思う。それから何度か、そのための準備として、様々な編成、ミュージシャンで、個々の楽曲をライヴでやるのを聴いて、こりゃあ絶対面白くなると楽しみにしていた。ここ2年ほど、一昨年は COVID-19 パンデミックでライヴが制限されたが、本番を想定したメンバーによる一部の上演という趣旨のライヴもあって、さらに楽しみと期待が膨らんでいた。しかし、いざ、実際に演じられたものは、そうした期待を遙かに遙かに超えていたのだ。

 今回の『マタイ受難曲 2021』は、今、なぜ、この曲を演じるのか、をとことん追求したものだ。今を生きるあたしたちにとって、300年前に作られた音楽を演る、聴くことに何の意味があるのか、を徹底的に考えぬいている。この場合考えるというのはアタマだけでのことではない。音楽はすぐれて身体的、肉体的な芸術だ。ミュージシャンはそのカラダを使って音楽を表現する。だから、ここではアタマとともに、むしろそれ以上にカラダで考えている。実際にやってみて、うまくゆくかどうか確かめながら作っていっている。したがって音楽、とりわけライヴは一期一会であると同時に、これは、今回1回だけのものでもない。これは2021年版の『マタイ』であって、来年には来年の、再来年には再来年の、5年後、10年後にはその時の『マタイ』がありうる。あって欲しい。生きてある限りは、ライヴ会場に体を運んで聴くことができる限りは、それを体験したい。これを聴きながら死んでいけるなら、こんな幸せなことはない。

 話が先走った。バッハの『マタイ受難曲』を、この21世紀の、COVID-19 全世界同時パンデミックという、おそらくは人類史上初めての事態を生きねばならず、しかもその影響を最も深刻な形で蒙っている者として生きねばならない人間が、なぜこれをやるのか。それをとことん突きつめたところで、まず、演じる人びとがこれまでこの曲を演じてきた人たちとはまったく異なる類の音楽家たちだ。従来、この曲はクラシックの訓練を受けた人たちがクラシックの1曲として演じてきた。今回はクラシックの訓練を受けた人はほとんどいない。バンマスで言い出しっぺの shezoo さん、ヴァイオリンの西田けんたろう氏、ぐらいではないか。ほとんどの音楽家が、これに参加するまで『マタイ』そのものを聴いたこともなかったそうでもある。つまり、従来、この曲とは無縁の人たちだ。一方で、いずれもクラシックとは別のタイプ、ジャンルの音楽を真剣に追求してきてもいる。演っているタイプは違っても、音楽をなりわいとしていることは変わらない。そして、各々の分野において、第一級の音楽家でもある。

 次に楽器編成が従来のものとはかけ離れている。ヴァイオリンは1本だけだし、オーケストラと共通するのは他にはフルート、クラリネットだけだ。オルガンの代わりのキーボード、通奏低音的なピアノはあるにしても、クラシックとの共通項はそこまでだ。金管はサクソフォーン、低音はチューバが担当する。そして最も異色なのがバンドリンだ。しかしこのバンドリンがアンサンブルのキモを握っているのが、聴いているとわかってくる。ヴァオリンにメロディを重ねたり、ビートというよりアクセントを打ちこんだり、他の楽器とは容易に混じわらないサウンドが、異なる角度の響きを加えて音楽を重層化する。一方で端正なその響きは浮わつきを押え、全体に気品を添える。この1本を入れたのは天才的なアイデアだ。

 歌はこの音楽がクラシックでは無いことを、最も鮮明に浮きだたせるかもしれない。発声が違う。どこを強調し、どこを引っこめるかの判断が異なる。それでいて、『マタイ』の歌であることはまぎれもない。歌はすべてドイツ語で歌われる。歌う前にシンガーがこれから歌う歌のごく短かい要約を宣言する。4人のうたい手がどの歌を担当するか、どうやって決めたのかは興味深いところだが、どの歌も各々のうたい手にふさわしい。聴いてしまうと、他のうたい手が歌うことがちょっと考えられなくなるくらいに合っている。もちろん、別の人が歌えば、それはまた新たな顔を見せてくれるはずではあるのだが、聴いている間はそうは思えない。4人とも歌ってきたジャンルもレパートリィも異なり、スタイルも異なる。こういう人たちが歌うのを聴いていると、原曲の柔軟性と強靭さが尋常でないこともわかる。それはほとんど伝統歌謡に匹敵する。クラシックとはまったく異なる発声で、スタイルで歌われても、歌の美しさはしんしんと染みこんでくる。ほんとうに『マタイ』は名曲揃いだと納得する。させられる。

 ここで最も異質なのは、合唱をボーカロイドが担当していることだ。バンドリンの採用とならんで、これは今回最も冒険している部分だ。そして、あたしはこの試みは成功していると思う。こちらは何よりもはっきりと、現代性、同時代性を主張している。とともに、ユーモアの要素も浮上する。アレンジの妙なのか、ボーカロイド担当の方の腕なのか、ボーカロイドの合唱がアンサンブルとしっかり溶けあっている。現場ではわからなかったが、ビデオで見ると、ボーカロイドの合唱をライヴでアンサンブルに合わせるのは、そう簡単ではないらしいとわかる。ボーカロイドが歌っている時間を簡潔にしたのも成功の要因だろう。今回の演奏では、人間が歌う曲はすべて指定通りのリピートがされていた。基本的に原曲そのままを演奏して、足したり引いたりはしていない。その中で合唱だけはリピートをせずに、どれも短かい。まともに演奏すれば3時間を超える原曲を、合唱曲の省略で約2時間にまとめている。同時にボーカロイドという極端に異質なサウンドを使いすぎないことで、飽きられるのを防いでいる。

 原曲に足さず引かずが基本ではあるが、そこから逸脱していたのが、クラリネット、サックス各々による即興だ。どの曲で演っていたかはビデオを再見しないと言えないが、各々1曲ずつ演っていたはずだ。ただ、ジャズなどの即興とは異なり、アンサンブル全体は作曲された音楽を演奏している中で、そこから外れないように即興を展開している。ここだけはあたしには土曜日の方がうまくいっていたと思えるのだが、ビデオになっている日曜日が悪いわけではない。この試みは一見ひどくモダンに見える一方で、即興が音楽の本質にからむものである以上、バッハの時代にもこういうことがやられていなかった、とも言えないだろう。と、今回の演奏を視聴して思う。バッハのオルガン演奏自体、即興性が高く評価されていたともものの本にある。さらに、ここでもユーモアの感覚は湧いてくる。

 ユーモアの感覚は今回の演奏の脇役、というよりところどころにちょっと顔を出して、全体の雰囲気をやわらげる重要な役割を果している。これが意図したものか、企まずして備わったものかはわからない。あるいはユーモアと言うとあからさまに過ぎるかもしれない。エスプリだろうか。むしろ洒落、粋=いきと呼ぶ方がしっくりするとも思える。バンドリンの採用とそのサウンドにもこの感覚が漂う。そもそもこんな編成でやろうということ自体が、洒落なのだ。テーマも演奏もシリアスそのものではあるが、この洒落があることで、余裕が生まれ、膨らみが生まれる。

 そして、同時代性を、今、ここでこの曲を演ることの意義を最も強く打ち出すのが、新たに書きおろされた物語だ。原曲はマタイ福音書に語られた形でのイエス受難の物語だ。ここではその中の、イエスがペテロに対して、鶏が三度啼くまでにおまえは三度嘘をつくだろうと告げるエピソードを中心に据え、「人は嘘をつく」というテーマを立てる。イエス一人が捕えられるのではなく、イエスを捕えた側にいる我々全員が捕えられている形に逆転する。そこに現れる男は未来をもたらす救世主か、未来を断つフェイクか、をめぐって物語が語られる。

 ただ、この物語は十分に成功している、とはあたしには見えない。この状況にあって、『マタイ』をこの編成で、アレンジでやる意義を形にした物語を語ろうとする意図は壮とする。8割方は成功しているとも思う。しかし、音楽と物語が完全に溶けあって、新たな『マタイ受難曲』の物語が生まれている、とまでは言えない。

 この編成で、アレンジで、今、ここで『マタイ受難曲』を演るためには、新たな物語、新たな受難の物語が必要だ、というのも共鳴する。そこに新たな「イエス」が必要なのか、を問うているのもわかる。しかし「イエス」無きままに捕えられている我々が自らを解放するには、やはり何らかの犠牲が求められるだろう。代償なくしては、何も手に入らない。そこが音楽と完全に溶けあっていない。

 だから、聴きおわってみると、捕えられた我々の解放の物語は後景に退き、残るのは圧倒的な音楽のすばらしさなのだ。『マタイ受難曲』がいかに美しいメロディに満ち、音楽としての精妙きわまる構築物であるか、あらためて、まざまざと思い知らされることになる。

 もちろん、そのことだけでも十分ではある。この美しさの実感、人生最高の音楽体験をくぐり抜けたという感覚を味わうには、この編成とアレンジが必要なのだ。従来の編成でも感動はするだろうし、その感動は今回の感動と質において優劣があるわけでないだろう。けれども、今、ここで、この状況で『マタイ』を聴くには、クラシックではどこかが違うのだ。何かが決定的に不足する。

 バッハの音楽はクラシックの演奏家やリスナーの占有物ではないし、作曲家の占有物でもない。これだけの音楽をまとめあげたバッハには限りない敬意を捧げる。そうしておいて、今、ここで、パンデミックに生きる我々に『マタイ受難曲』がもたらしてくれるものは、我々にとってより身近に、より切実に、よりなじみ深い形で演奏されることで、最大限の力を発揮する。音楽の本質は励ましである。音楽は励ましてくれる。静かに、穏やかに、しかし粘りづよく。その最良の姿が、この『マタイ受難曲 2021』だ。
 

 言うに言われぬ困難な状況のなかで、これだけの音楽を作りあげ、体験させてくれた方々、音楽家、コンサートと配信のスタッフ、会場の関係者、その他すべての方々に、衷心よりの感謝をささげます。


西田夏奈子: エヴァンゲリスト・語り

千賀由紀子: エヴァンゲリスト・語り

松本泰子: vocal

石川真奈美: vocal

行川さをり: vocal

Noriko Suzuki: vocal

shezoo: piano, direction

西田けんたろう: violin

中瀬香寿子: flute

寺前浩之: bandolin

土井徳浩: clarinet

田中邦和: saxophone, 語り

佐藤桃: tuba

木村秀子: keyboards

酒井康志: vocaloid operation



##本日のグレイトフル・デッド

 0103日には1969年、1970年の2本、ショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA

 3ドル。4日連続の2日目。ブラッド・スエット&ティアーズ、スピリット共演。セット・リスト不明。


2. 1970 Fillmore East, New York, NY

 5.50ドル。開演8時。2日連続の2日目。共演 Lighthouse。《Dave's Picks, Vol. 30》と《Dave's Picks Bonus Disc 2019》で計15トラック、Early ShowLate Show 27曲のうち曲数にして半分強、時間にして約3分の2がリリースされた。

 この時期、サンフランシスコでは3ドルから3.50ドルの料金。ニューヨークは物価が高いということだろうか。(ゆ)