0118日・火

 HiFiMAN JapanEdition XS を発表。国内価格税込6万弱は、なかなかやるな。しかし、諸般の事情というやつで、ここはガマン。


 図書館から借りた1冊『リマリックのブラッド・メルドー』を読みだす。ここ5年ほどのろのろと書きつづけているグレイトフル・デッド本にそろそろいい加減ケリをつけてまとめようとしている、その参考になるかと思って手にとった。最初の二章を読んで、あまり参考にはならないと思ったが、中身そのものは面白い。以前、中山康樹『マイルスを聞け!』も、参考になるかと思って読んでみて、やはり参考にならなかったけれど、やはり面白く、別の意味でいろいろ勉強になった。



 マイルス本にしても、このメルドー本にしても、それぞれ対象が異なるのだから、グレイトフル・デッド本を書く参考にならないのは当然ではある。それでも藁にもすがる思いで手にとるのは、それぞれの対象の扱い方は対象と格闘し、試行錯誤を重ねる中で見つけるしかない、その苦しさと不安をまぎらわせるためではある。それにしても、デッドはマイルスよりもメルドーよりもずっと大きく、底も見えない。いや、マイルスやメルドーが小さいわけではなく、かれらとデッドを比べるのは無限大の自乗と三乗を比べるようなものではあるが、それでもデッドの音楽の広がりと豊饒さと底の知れなさは、他のいかなる音楽よりも巨大だと感じる。

 面白いことのひとつは、牧野さんもチャーリー・パーカーを日夜聴きつづけて、ある日「開眼」した。この場合聴いていたのは駄作と言われる《Plays Cole Porter》。後藤さんによればパーカーの天才はフレージングなのだから、そこさえしっかりしていればいいわけだ。

 二人までも同じ経験をしているのなら、試してみる価値はある。ただ、今、あたしにチャーリー・パーカーが必要かは、検討しなくてはならない。パーカーがわかることは、デッドがわかるために必要だろうか。

 必要であるような気もする。あるミュージシャンをわかれば、それもとびきりトップ・クラスのミュージシャンをわかれば、他のとびきりのミュージシャンもわかりやすくなるだろう。

 一方で、後藤さんも牧野さんも、まだ若い、時間がたっぷりある頃にその体験をしている。あたしにそこまでの余裕は無い。これはクリティカルだ。とすれば、パーカーは諦めて、デッドを聴くしかない。

 デッドはもちろんまだよくわかっていないのだ。全体がぼんやり見えてきてはいるが、この山脈は高く、広く、深く、思わぬところにとんでもないものが潜んでいる。デッドの音楽がわかった、という感覚に到達できるかどうか。それこそ、日夜、デッドを聴きつづけてみての話だ。

 牧野さんはジャズを通じて、普遍的、根源的な問いに答えを出そうとする。あたしは大きなことは脇に置いて、グレイトフル・デッドの音楽のどこがどのようにすばらしいか、言葉で伝えようとする。むろん、それは不可能だ。そこにあえて挑むというとおこがましい、蟷螂の斧ですら無い、一寸の虫にも五分の魂か、蟻の一穴か。いや、実はそんな大それたものではなく、はじめからできないとわかっていることをやるのは気楽だというだけのことだ。できるわけではないんだから、どんなことをやってもいい。はじめから失敗なのだから、失敗を恐れる必要もない。できないとわかっているけれど、でもやりたい。だから、やる。それだけのこと。

 一つの方針として、できるだけ饒舌になろうということは決めている。そもそも、いくら言葉をならべてもできないことなのだから、簡潔にしようがない。できるかぎりしゃべりまくれば、そのなかのどこかに、何かがひっかかるかもしれない。

 牧野さんは出せる宛もない原稿を書きつづけて千枚になった。それは大変な量だが、しかし、それではデッドには足らない。まず倍の二千枚は必要だ。目指すは1万枚。400万字。どうせならキリのいいところで500万字。これもまず千枚も書けないだろう。だからできるだけ大風呂敷を広げておくにかぎる。

 デッドを聴けば聴くほど、それについて調べれば調べるほど、デッドの音楽は、アイリッシュ・ミュージックと同じ地平に立っている、と思えてくる。バッハのポリフォニーとデッドの集団即興のジャムが同じことをやっているのを敷衍すれば、バッハ、デッド、アイリッシュ・ミュージック(とそれにつながるブリテン諸島の伝統音楽)は同じところを目指している。バッハとデッドはポリフォニーでつながり、デッドとアイリッシュ・ミュージックはその音楽世界、コミュニティを核とする世界の在り方でつながる。アンサンブルの中での個の独立と、独立した個同士のからみあい、そこから生まれるものの共有、そして、それを源としての再生産。これはジャズにもつながりそうだが、あたしはジャズについては無知だから、積極的には触れない。ただ、デッドの音楽は限りなくジャズに近づくことがある。限りなく近づくけれど、ジャズそのものにはならない。それでも限りなく近づくから、どこかでジャズについても触れないわけにもいくまい。デッドが一線を画しながら近づくものが何か、どうしてどのようにそこに近づくのか、は重要な問いでもある。

 アイリッシュ・ミュージックを含めたブリテン諸島の伝統音楽とするが、いわば北海圏と呼ぶことはできそうだ。地中海圏と同様な意味でだ。イベリア半島北岸、ブルターニュ、デンマーク、スカンディナヴィア、バルト海沿岸までの大陸も含む。ただ、そこまで広げると手に余るから、とりあえずブリテン諸島ないしブリテン群島としておく。



##本日のグレイトフル・デッド

 0118日には1970年から1979年まで、3本のショウをしている。公式リリースは準完全版が1本。


1. 1970 Springer's Inn, Portland, OR

 このショウは前々日の金曜日にステージで発表された。1時間半の一本勝負。オープナーの〈Mama Tried〉と7曲目〈Me And My Uncle〉を除いて全体が《Download Series, Volume 02》でリリースされた。配信なので時間制限は無いから、省かれたのは録音そのものに難があったためだろう。

 短いがすばらしいショウ。4曲目〈Black Peter〉でスイッチが入った感じで、その次の〈Dancing In The Street〉が圧巻。後年のディスコ調のお気楽な演奏とは違って、ひどくゆっくりとしたテンポで、ほとんど禍々しいと呼べる空気に満ちる。ひとしきり歌があってからウィアが客席に「みんな踊れ」とけしかけるが、その後の演奏は、ほんとうにこれで踊れるのかと思えるくらいジャジーで、ビートもめだたない。ガルシアのギターは低域を這いまわって、渋いソロを聴かせる。前年と明らかに違ってきていて、フレーズが多様化し、次々にメロディが湧きでてくる。同じフレーズの繰返しがほとんど無い。次の〈Good Lovin'〉の前にウィアが時間制限があるから次の曲が最後と宣言する。が、それから4曲、40分やる。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉はもう少し後の、本当に展開しきるところへの途上。それでもガルシアのソロは聞き物。クローザー〈Turn On Your Lovelight〉は安定しないジャムが続き、この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。


2. 1978 Stockton Civic Auditorium, Stockton, CA

 自由席なので、土砂降りの雨の中、長蛇の列ができた。ショウはすばらしく、並んだ甲斐はあった。Space はウィアとドラマーたちで、Drums は無し。

 ストックトンはオークランドのほぼ真東、サクラメントのほぼ真南、ともに約75キロの街。サンフランシスコ湾の東、サスーン湾の東側に広がるサクラメントサン・ホアキン川デルタの東端。

 年初以来のカリフォルニア州内のツアーがここで一段落。次は22日にオレゴン大学に飛んで単独のショウをやった後、30日のシカゴからイリノイ、ウィスコンシン、アイオワへ短かいツアー。2月の大部分と3月一杯休んで4月初旬から5月半ばまで、春のツアーに出る。


3. 1979 Providence Civic Center, Providence, RI

 8.50ドル。開演8時。《Shakedown Street》がリリースされて初めてのこの地でのショウ。ローカルでこのアルバムがヒットしていたため、ひと眼でそれとわかる恰好をしたディスコのファンが多数来たが、お目当てのタイトル・チューンは演奏しなかったので、終演後、怒りくるっていた由。

 デッドはアルバムのサポートのためのツアーはしないので、リリースしたばかりの新譜からの曲をやるとは限らない。もっとも、このショウでは〈I Need A Miracle〉〈Good Lovin' 〉〈From The Heart Of Me〉と《Shakedown Street》収録曲を3曲やっている。

 〈Good Lovin' 〉は19660312日初演、おそらくはもっと前から演奏しているものを、13年経って、ここで初めてスタジオ録音した。カヴァー曲でスタジオ録音があるのは例外的だ。元々はピグペンの持ち歌で、かれが脱けた後は演奏されなかったが、ライヴ休止前の19741020日ウィンターランドでの「最後のショウ」で復活し、休止期後の197610月から最後までコンスタントに演奏されている。演奏回数425回。14位。ピグペンの持ち歌でかれがバンドを脱けてから復活したのは、これと〈Not Fade Away〉のみ。

 〈From the Heart of Me〉はドナの作詞作曲。19780831日、デンヴァー郊外のレッド・ロックス・アンフィシアターで初演。ガチョー夫妻参加の最後のショウである19790217日まで、計27回演奏。

 〈I Need A Miracle〉はバーロゥ&ウィアのコンビの曲。19780830日、同じレッド・ロックス・アンフィシアターで初演。19950630日ピッツバーグまで、272回演奏。

 デッドのショウは「奇蹟」が起きることで知られる。何らかの理由でチケットを買えなかった青年が会場の前に "I Need a Miracle" と書いた看板をもって座っていると、ビル・グレアムが自転車で乗りつけ、チケットと看板を交換して走り去る。チケットを渡された方は、口を開け、目を点にして、しばし茫然。幼ない頃性的虐待を繰り返し受け、収容施設からも追いだされた末、ショウの会場の駐車場でデッドヘッドのファミリーに出会って救われた少女。事故で数ヶ月意識不明だったあげく、デッドの録音を聞かせられて意識を回復し、ついには全快した男性。ショウの警備員は途中で演奏がやみ、聴衆が静かに別れて救急車を通し、急に産気づいた妊婦を乗せて走り去り、また聴衆が静かにもとにもどって演奏が始まる一部始終を目撃した。臨時のパシリとなってバンドのための買出しをした青年は、交通渋滞にまきこまれ、頼まれて買ったシンバルを乗せていたため、パニックに陥って路肩を爆走してハイウェイ・パトロールに捕まるが、事情を知った警官は会場までパトカーで先導してくれる。初めてのデッドのショウに間違ったチケットを持ってきたことに入口で気がついてあわてる女性に、後ろの中年男性が自分のチケットを譲って悠然と立ち去る。

 この歌で歌われている「奇蹟」はそうしたものとは別の類であるようだ。とはいえ、デッドヘッドは毎日とはいわなくても、ショウでは毎回「奇蹟」が起きるものと期待している。少なくとも期待してショウへ赴く。それに「奇蹟」はその場にいる全員に訪れるとはかぎらない。自分に「奇蹟」が来れば、それでいい。だから、この歌では、ウィアがマイクを客席に向けると、聴衆は力一杯 "I need a miracle every day!" とわめく。デッドが聴衆に歌わせるのは稀で、この曲と〈Throwing Stone〉だけ。どちらもウィアの曲。もちろん、聴衆はマイクを向けられなくても、いつも勝手に歌っている。ただ、この2曲ではバンドはその間演奏をやめて、聴衆だけに歌わせる。(ゆ)