0128日・金

 Mandy Morton のボックス・セットなんてものが出てきて、思わず注文してしまう。こういうの、ついつい買ってしまうなあ。Magic Ladyは結構よく聴いた覚えがある。スプリガンズよりも好みだった。スカンディナヴィアで成功して、アルバムを出していたとは知らなんだ。この人とか、Mae McKenna とか、Carole Pegg とか、一流とは言えないが、B級というわけでもない、中途半端といえばそうなんだが、でも各々にユニークなものをもっていて、忘れがたいレコードを残してくれている。

After The Storm: Complete Recordings
Morton, Mandy / Spriguns
Grapefruit
2022-02-11

 

 それで先日バートの諸作と一緒に Loren Auerbach のアルバムのデジタル版も買ってあったのを思い出して聴いてみる。

 後にバートと結婚して、おまけにほとんど相前後して亡くなって、今は同じ墓に葬られているそうだけど、この人の出現は「衝撃」だった。ミニ・アルバムとフル・アルバムがほとんどたて続けに出たのが1985年。というのは、あたしはワールド・ミュージックで盛り上がっていた時期で、アイリッシュ・ミュージックは全体としてはまだ沈滞していて、パキスタンやモロッコ、ペルシャ、中央アジアあたりに夢中になっていた。3 Mustaphas 3 のデビューも同じ頃で、これを『包』で取り上げたのは、日本語ではあたしが最初だったはずだ。"Folk Roots" のイアン・アンダースン編集長自ら直接大真面目にインタヴューした記事を載せていて、まんまとだまされたけど、今思えば、アンダースン自身、戦略的にやったことで、ムスタファズの意図はかなりの部分まで成功したと言っていいだろう。

 そこへまったく薮から棒に現れたオゥバックには「萌え」ましたね。表面的には Richard Newman というギタリストが全面的にサポートしているけれど、その時からバートがバックについてることはわかっていたという記憶がある。

 この人も一流と呼ぶのにはためらうけれど、このハスキー・ヴォイスだけで、あたしなどはもう降参しちゃう。バートと結婚して、バートのアルバムにも入っていたと思うが、結局自分ではその後、ついに録音はしなかったのは、やはり惜しい。あるいはむしろこの2枚をくり返し聴いてくれ、ここにはすべてがある、ということだろうか。実際、リアルタイムで買った直後、しばらくの間、この2枚ばかり聴いていた。今聴いても、魅力はまったく薄れていないのは嬉しい。

 その頃のバートはと言えば、1982年の《Heartbreak》、1985年の《From The Outside》、どちらも傑作だったが、あたしとしてはその後1990年にたて続けに出た《Sketches》と《The Ornament Tree》を、まさにバート・ヤンシュここにあり、という宣言として聴いていた。とりわけ後者で、今回、久しぶりにあらためて聴きなおして、最高傑作と呼びたくなった。一種、突きはなしたような、歌をぽんとほうり出すようなバートの歌唱は、聴きなれてくると、ごくわずかな変化を加えているのが聞えてきて、歌の表情ががらりと変わる。ギターもなんということはない地味なフレーズを繰返しているようなのに、ほんの少し変化させると急にカラフルになる。聞き慣れた〈The Rocky Road To Dublin〉が、いきなりジャズになったりする。デイヴ・ゴールダー畢生の名曲〈The January Man〉は、バートとしても何度めかの録音だと思うが、さあ名曲だぞ、聴け、というのではさらさらなくて、まるでそこいらにころがっている、誰も見向きもしないような歌を拾いあげるような歌い方だ。選曲はほとんどが伝統歌なので、これも伝統歌として歌っているのだろう。聴いている間はうっかり聞き流してしまいそうになるほどだが、後でじわじわと効いてくる。録音もいい。
 

 あたしはミュージシャンにしても作家にしても、あまりアイドルとして崇めたてまつらないのだが、バートについてはなぜか「断簡零墨」まで聴きたくなる。ジョン・レンボーンもアルバムが出れば買うけれど、我を忘れて夢中になることはない。ことギターについてはレンボーンの方が上だとあたしは思うが、「アコースティック・ギターのジミ・ヘンドリックス」などと言わせるものをバート・ヤンシュが持っている、というのはわかる気がする。

 ボックス・セットも来たことだし、あらためてバート・ヤンシュを聴くかな。デッドとバランスをとるにはちょうどいい。



##本日のグレイトフル・デッド

 0128日には1966年から1987年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1966 The Matrix, San Francisco, CA

 2日連続このヴェニューでの初日。共演ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、ザ・ローディング・ゾーン。セット・リスト不明。


2. 1967 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 このヴェニュー3日連続の2日目。クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス共演。セット・リスト不明。


3. 1987 San Francisco Civic Center, San Francisco, CA

 16.50ドル。開演8時。この年最初のショウ。春節に合わせたこのヴェニュー3日間の初日。ビートルズ〈Get Back〉の唯一の演奏だが、ウィアのヴォーカルがひどく、これをカヴァーしようとしてか、サウンド・エンジニアのダン・ヒーリィがその声にかけたエフェクトがさらに輪をかけてひどかった。その他にも、大きなミスや歌詞忘れが目立った。ガルシアは前年夏の糖尿病による昏睡から回復してステージにもどったのが前年12月半ばだから、調子がよくないのも無理はないと言える。

 ガルシアは復帰にもっと時間をかけるべきだったかもしれない。より十分な準備をすべきだった、とも言える。しかし、かれはガマンできなかったのだ。一応演奏ができ、歌がうたえるならば、ステージに立たずにはいられなかった。

 ガルシアはいろいろなものに中毒していた。ハード・ドラッグだけではなく、映画にも中毒していたし、サイエンス・フィクションにも中毒していたし、絵を描くことにも中毒していた。しかし、何よりも、どんな麻薬よりも中毒していたのは、人前で演奏することだった。グレイトフル・デッドとしてならばベストだが、それが何らかの理由でかなわない時には、自分のバンドでショウをし、ツアーをしていた。ガルシアの公式サイトではガルシアが生涯に行った記録に残る公演数を3,947本としている。うちデッドとしては2,313本だから、1,600本あまり、4割強は自分のプロジェクトによる。とにかく、ステージで演奏していないと不安でしかたがなかったのだ。

 スタートは吉兆ではなかったとしても、1987年という年はデッドにとっては新たなスタートの年になった。ガルシアの病気により、半年、ショウができなかったことは、バンドにとっては休止期と同様な回春作用をもたらした。ここから1990年春までは、右肩上がりにショウは良くなってゆく。1990年春のツアーは1972年、1977年と並ぶ三度目のピークであり、音楽の質は、あるいは空前にして絶後とも言える高さに到達する。

 1987年のショウは87本。1980年の89本に次ぎ、大休止からの復帰後では2位、1972年の86本よりも多い。このおかげもあってこの年の公演によって2,430万ドルを稼いで、年間第4位にランクされた。以後、最後の年1995年も含めて、ベスト5から落ちたことは無い。

 87本のうち、全体の公式リリースは4本。ほぼ全体の公式リリースは3本。

1987-03-26, Hartford Civic Center, Hartford, CT, Dave's 36

1987-03-27, Hartford Civic Center, Hartford, CT, Dave's 36

1987-07-12, Giants Stadium, East Rutherford, NJ, Giants Stadium

1987-07-24, Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA, View From The Vault (except Part 3 with Dylan)

1987-07-26, Anaheim Stadium, Anaheim, CA, View From The Vault (except Part 3 with Dylan)

1987-09-18, Madison Square Garden, New York, NY, 30 Trips Around The Sun

1987-12-31, Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA, Live To Air (except 5 tracks)

 07-1214はディランとのツアーでどちらも第一部・第二部のデッドだけの部分は完全収録。第三部のディランの入ったステージは一部が《Dylan & The Dead》でリリースされている。

 ガルシアが死の淵から生還し、デッドが復帰したことの影響は小さくない。ニコラス・メリウェザーは《30 Trips Around The Sun》の中で、ポール・マッカトニーのツアーへの復帰の直接の動機が、ガルシアの恢復と復帰だったことを記している。

 ツアーの面ではこの年、デッドはディランとスタジアム・ツアーをする。おかげでこの年のレパートリィ数は150曲に逹した。このツアーからは《Dylan & The Dead》がリリースされた。当時のレヴューでは軒並み酷評されて、「出すべきではなかった」とまで言われたが、今、聴いてみれば、見事な出来栄えで、どうしてそんなにボロクソに言われたのか、理解できない。同じものを聴いていたのか、とすら思える。われわれが音楽を聴くのは、つまるところコンテクストによるのだ、ということだろう。コンテクストが変われば、評価は正反対になる。

 また、このツアーのおかげで、以後、デッドのレパートリィにディラン・ナンバーが増え、1本のショウの中でディランの曲が複数、多い時には3曲演奏されるようにもなる。

 年初にこの春節ショウの後、2月一杯を休んで新譜の録音をする。Marin Vetrans Auditorium をスタジオとして、ライヴ形式で録音されたアルバムは0706日《In The Dark》としてリリースされ、9月までに100万枚以上を売り上げてゴールドとプラチナ・ディスクを同じ月に獲得する。さらに旧譜の《Shakedown Street》と《Terrapin Station》もゴールドになった。《In The Dark》からシングル・カットされた〈Touch of Grey〉はデッドの録音として唯一のトップ10ヒットともなる。デビューから22年を経て、デッドはついにメインストリームのビッグ・アクトとして認知されたのだ。それもデッドの側からは一切の妥協無しに。このことは別の問題も生むのだが、デッドは人気の高まりに応えるように音楽の質を上げてゆく。

 音楽面で1987年は新たな展開がある。MIDI の導入である。ミッキー・ハートが友人 Bob Bralove の支援を得て導入した MIDI は、またたく間に他のメンバーも採用するところとなり、デッドのサウンドを飛躍的に多彩にした。Drums Rhythm Devils に発展しただけでなく、ガルシアやウィアはギターからフルートやバスーンなどの管楽器の音を出しはじめる。ブララヴはデッドの前にスティーヴィー・ワンダーのコンピュータ音楽のディレクターを勤め、後には《Infrared Rose》もまとめる。(ゆ)