02月03日・木
妹の祥月命日とて、墓参りに行く。
2年前、卵管から始まったがんで死んだ妹は樹木葬を選んだ。言葉は聞いたことはあったが、実際にどういうものかは知らなかった。もっとも方式がこれと決まっているわけではなく、場所によって多少手順が異なるようではある。妹が選んだところのものは、芝生に円筒が埋められていて、灰を骨壺から専用の袋に移し、この袋を地中の円筒に入れ、土をかぶせる。1本の円筒に4人分まで入れられる。こういう方式だから、ペットの灰も一緒に入れることができる。樹木葬用とされている墓地はすでに半分ほどが埋まっていて、ペットも一緒の墓も結構な割合であるようだ。墓標などは無く、埋めた場所の手前の石板に名前が彫られている。ここには入る予定の人間の名前も彫られているが、寺の墓のように、まだ生きている人間の名前が朱く塗ってあることはない。ここでは生者も死者も区別がない。しかも戒名などではなく、生前の名前だ。ペットも共に入っている人は名前の横に印がある。
つまり、土に還って、樹木の養分になる、という意味で樹木葬なのだろう。芝生の周りには様々な樹が植えられているが、墓地自体はまだ新しく、樹々もそれほど大きくはない。それでも春になれば、いろいろな花が咲くはずだ。
真冬の平日の昼間とて、他に墓参する人の姿もほとんど無い。こういう方式だから、花は買っていったが、線香は持っていかなかった。埋葬には立ち合ったから、どこに埋まっているかはわかるが、一面芝生で徴があるわけでもない。手を合わせたものの、拝む対象が芝生ではいささか拍子抜けする。本人は満足なのだろうが、残された者には一抹の寂しさというか、手持ち無沙汰になる。中には、重い墓石の下には入りたくないと、樹木葬を選ぶ人もいるそうだが、死んでしまったら重いもなにもわからんのではないか。
古人の墓を訊ねあるき、お参りりして掃除したり、記録をとったりする人を「掃苔家」と呼ぶそうだが、相手が樹木葬を選んでしまっていては、「掃苔」もできまい。やはり、何か墓標はあってほしい、というのは、生き残ったものの身勝手だろうか。
インド人には墓が無い。灰にしてガンジスに流すからだ。そのインド人も、ガンジーにだけは墓を作った。
第二次世界大戦後最大のドイツ語作家の一人ウーヴェ・ヨーンゾンは、晩年テムズ河口シェピィ島に棲み、ここで死んで島の墓地に墓がある。墓の上に平らに置かれた石板にはただその名前だけが彫られている。生没年すら無い。それでもやはり墓標はある。その前に立って、名前の彫られた板を見下ろすことができる。
もっとも、ではあたしは墓標が欲しいかと訊かれれば、別に欲しくはない。あたしは欲しくはないが、墓標は死者のためのものではなく、生きていかなくてはならない者たちのためにある。葬式をどうするか、墓はどうするかは、生きのこった者の課題だ。生きのこった者は、葬式のやり方や墓の心配をすることで、空いた穴を埋めようとする。だから、どう埋められるかは、生きてゆくはずの人間たちの好きにまかせればいい。死んだ人間にはどちらにしても違いはない。もっとも、死んだ人間が仏教徒で、その葬式をキリスト教やヒンドゥー教のやり方でやるのは、死者に対するリスペクトに欠けるというものだ。死者に対する敬意さえはっきり示されれば、あとはどんな形でやっても、故人が化けて出ることはないはずだ。
樹木葬にはもう一つ、家から離れる意味がある。寺の墓は家のものだ。先祖代々の墓だ。そこに入れるのは家が認めた者だけだ。樹木葬ならば、誰とでも一緒に入れる。ペットもOKだ。一緒に入る人間を選ぶこともできる。後からの押しかけを死者に拒むことはできまいが、家の墓なら、生前嫌いぬいていた人間と同じ墓にならざるをえないこともあろう。妹が樹木葬を選んだのは、あるいはそちらの意味の方が大きかったかとも思う。ならば、墓参りで手持ち無沙汰になるくらいのことは、たいしたことではない。
##本日のグレイトフル・デッド
02月03日には1968年から1979年まで4本のショウをしている。公式リリースは1本。
1. 1968 Crystal Ballroom, Portland, OR
このヴェニュー2日連続の2日目。
〈That's It for the Other One〉が演奏され、〈The Other One〉のその後標準になる歌詞が初めて歌われる。この歌では「カウボーイ・ニール」としてニール・キャサディが歌われるが、そのキャサディがこの日、亡くなった。バンドがそれを知るのは、ツアーから戻った後だった。
2. 1969 Guthrie Theatre, Minneapolis, MN%
存在が疑問視されているが、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジを前座として行われたと、トム・コンスタンティンはリストアップしている由。
3. 1978 Dane County Coliseum, Madison, WI
第一部のオープナー〈Cold Rain And Snow〉とクローザー〈The Music Never Stopped〉を含む5曲と第二部の3曲目〈Estimated Prophet〉からアンコール〈Johnny B. Goode〉までが《Dick's Picks, Vol. 18》でリリースされた。
《Dick's Picks, Vol. 18》はここからの3日間からの抜粋。この日と05日の各々半分強に、04日から2曲加えている。
全体がリリースされなかったのにはそれなりの理由があろうが、まったく惜しい。とはいえこれだけでもすばらしいショウで、01月22日よりもさらに全体の油がよく回っている。絶好調の時のデッドのみに可能な世界。1977年の、引き締まった演奏はそのままだが、たとえばバートン・ホールを中心とした春のツアーやその後のウィンターランドの頃の演奏とはまた変わってきている。音楽の流れ方がわずかだが決定的に違う。あちらが華麗なら、こちらは流麗と言おうか。
ガルシアの喉の調子はまだ万全ではなく、曲によってかすれる。途中、良くなるが、第二部ではまたかすれる。
しかし、そんなことはまったく気にならないくらい、ギターがノリまくっている。 〈They Love Each Other〉の間奏、〈Looks Like Rain〉のコーラスでのウィアとドナのヴォーカルとの掛合い、そしてクローザーの〈The Music Never Stopped〉と、第一部から聴き所が多いが、第二部の〈Estimated Prophet〉では、そのギターに神が降りてきている。このギターはジャズとしか呼びようがないが、バンド全体としてみれば、これはジャズではない。ロックでもない。グレイトフル・デッド・ミュージックとでも呼ぶしかない。しかし、もう何でもいい。スケール一杯に使い、ロックやジャズのエレクトリック・ギターの表現、語彙、フレーズを残らず動員し、技術的にはとりわけ難しくはない、むしろ、誰でも弾けそうな、しかしデッドのガルシアにしか弾けないギターを続ける。デッドを聴く醍醐味、ここにあり。その後もまったく勢いは衰えないが、〈Playing In The Band〉では、半ばでそのガルシアのギターが消え、ピアノ、ベース、ウィア、ドラマーになるところが、実にこの曲らしく、もうたまらん。この曲ではなぜか、ガルシアのギターが突出することがまず無い。キースも元気で、1年後に脱けるとは到底思えない。
4. 1979 Market Square Arena, Indianapolis, IN
ここから11日のセント・ルイスまで中西部を回る。キース・ガチョー最後のツアー。
このショウでは〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が1年以上の間を空けて演奏された。さらに〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉〈Estimated Prophet> Eyes Of The World〉という、デッドのレパートリィでも最も面白く、人気も高いペアが3組、揃い踏みという稀なことが起きた。(ゆ)
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