02月12日・土
アメリカで Apple のヘッドフォン、イヤフォンがヘッドフォン市場の半分、という調査結果という記事。
世界で Apple が Sony を抜いたのが2018年で、AirPods 発売前。これには iPhone 付属のイヤフォンも含まれていた。発売されたら、あっという間に他は置いてけぼりになった。というわけだ。
上記アメリカ国内の調査では、3位 Bose、以下、サムスン、JBL、Sony。日本なら Sony がもっと上で、Skullcandy や LE が落ちて、オーディオ・テクニカや Shure が入ってくるかもしれない。いずれにしても Apple のシェアはそう変わらないか、もっと大きい可能性も大きい。
Apple がマイナーだった頃、我々はシェアを大きくすることが目的ではない、と言っていた気もするが、今は、Apple 以外のイヤフォン、ヘッドフォン・メーカーがシェアよりもちゃんと利益を上げることが大事、なんだろう。Apple のシェアがさらに増えて、4分の3を超えるようになると、そうも言っていられなくなるか。しかし、今のところ、Apple の牙城を突き崩す方策は見えない。かつての Apple の場合、市場シェアが1割に満たなくても、その独自性で存在価値を主張できた。ウインドウズ以外の選択肢があることは価値があった。ヘッドフォン市場に限ったとしても、そのシェアが9割を超えるとなると、レゾン・デートルが問われた他のメーカー、ブランドに答えはあるのか。もちろん、Apple の完全独占にはならないとしても、他はデザイナー・ブランドかマニア向けハイエンドだけ、というのも問題ではないか。
余談だが、Apple は個人相手でシェアを広めている。Amazon も Google も同じ。Microsoft も個人を重視するようになって持ち直したのではなかったか。先日、車載用バッテリーの再利用を普及する業界団体が立ち上がったが、普及の相手をまず企業だと言っていた。しかし、企業、とりわけわが国の企業は先例の無いものには消極的だ。新しいものにはなかなか手を出さない。大容量の大型バッテリーがあれだけ売れてるんだから、まず個人を相手にする方が新しいものの普及には有利ではないのか。わが国の起業がなかなかうまくいかないのは、企業や自治体などを最初のターゲットにするからではないか。
##本日のグレイトフル・デッド
02月12日には1966年から1989年まで、6本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1966 Youth Opportunities Center, Compton, CA
トム・ウルフが『エレクトリック・クールエイド・アシッド・テスト』で描いた、ロサンゼルス、ワッツ地区のアシッド・テストがこれだと言われる。こちらはクロイツマンが回想録 Deal の中でも触れていて、実際に行われた。
2. 1967 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
リンカンの誕生日記念。共演モビー・グレープ、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、New Salvation Army Banned、Notes From The Underground。Council for Civic Unity のためのベネフィット。2ドル。セット・リスト不明。
New Salvation Army Banned は1967年にシアトルで結成された5人組。New Salvation Army Band として出演することもあり、キリスト教団の救世軍から訴えられもしている。サンフランシスコに移って、そのロック・シーンの一角をなした。1967年に Salvation に改称して同名のデビュー・アルバムを出し、翌年セカンドも出す。が、離陸できず、1970年解散。録音は残念ながらストリーミングにも無いようだ。YouTube に短かいクリップがあるが、音はナレーションのみで、音楽はわからない。Salvation という名のアーティストは無数といっていい程いる。
Notes From The Underground は1968年にバンド名を冠したアルバムが1枚あるバークレー出身の5人組。メンバーの一人 Fred Sokolow はバンジョー弾きで、後、ソロで活動する。バンド名はドストエフスキーの『地下室の手記』から。2011年に出た《Follow Me Down: Vanguard's Lost Psychedelic Era (1966-1970)》に2曲収録されている。これを聴くかぎりでは、楽曲、演奏は水準は超えている。鍵盤がリードなのはドアーズに通ずる。ドアーズの前座もしていた由。
《Notes From The Underground》というアルバムは複数あり、その1枚はメデスキ、マーティン&ウッドのファースト。というのは余談。
3. 1969 Fillmore East, New York, NY
ジャニス・ジョプリンの前座として2日連続の2日目。DeadBase XI のブルース・コットンのレポートはこの両日のどちらか、はっきりせず、コットンが聴いたとしている楽曲も、判明しているセット・リストには無い。セット・リストはテープによる遅番ショウのみなので、早番ショウでやった可能性はある。
遅番は〈Dark Star> St. Stephen> The Eleven〉というこの年の定番組曲から始まり、〈Alligator> Caution〉を経て〈And We Bid You Goodnight〉まで一気に突走る1時間強。原始デッドのエネルギーに溢れたものだそうだ。原始デッドが本当に熱くなった時のエネルギーは、その後2度と感じられないことは確か。
4. 1970 Ungano's Night Club, New York, NY
この前後はフィルモア・イーストでのショウで、たまたま空いていた日に、急遽設定されたギグだったらしい。この日のテープと称されるものが出回っているが、そのテープは実際には翌日のフィルモア・イーストの早番ショウの録音だ、というのが結論になっている。
5. 1986 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
16ドル。開演8時。この日も第二部半ばの Drums 以降クローザー〈Johnny B. Goode〉までネヴィル・ブラザーズが参加。この日はネヴィル・ブラザーズがデッドの後にやり、大いに盛り上がった。
6. 1989 Great Western Forum, Inglewood, CA
19.50ドル。開演6時。このヴェニュー2日連続の2日目。第一部クローザーの2曲〈How Long Blues〉〈Gimme Some Lovin'〉にスペンサー・デイヴィスが参加。第二部の前半オープナー〈Iko Iko〉から〈Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again〉までとアンコールにボブ・ディランがギターで参加し、〈Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again〉とアンコールの〈Knockin' On Heaven's Door〉ではヴォーカルもとった。第2部後半の〈The Other One〉に鼓童が参加。
鼓童は後2001年に20周年記念アルバム《Mondo Head》をミッキー・ハートがプロデュースした。このプロデュースのためにハートが来日したのが、デッドのメンバーが公式に来日した唯一の例。プライヴェートでは、親族が日本に住んでいるウィアが頻繁に来ているそうな。
〈Monkey and the Engineer〉の最後の演奏で唯一のエレクトリック・ヴァージョン。Jesse Fuller のカヴァーで、デッドの前のバンドの一つ Mother McCree's Uptown Jug Champions が1964年に演奏している。デッドでは1969年12月19日サンフランシスコで初演。1970年の大晦日で一度レパートリィから落ち、1980年09月05日、サンフランシスコのウォーフィールド・シアターのアコースティック・セットで復活。この時のサンフランシスコ、ニューオーリンズ、ニューヨークでのアコースティック・セットをフィーチュアしたレジデンス公演で集中的に演奏され、以後は散発的で、跳んでこの日が最後。計39回演奏。
ショウ全体としても、油が回って、引き締まったいいものの由。(ゆ)
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