02月17日・木
Dark Breakers, C. S. E. Cooney、ザ・バンド全曲解説, 五十嵐正、着。
Dark Breakers は既出2篇も大幅に改訂、拡張している、と巻末の著者ノートにある。この2篇は10年前に書いたもので、一昨年 Tor.com から出た Desdemona And The Deep の水準と長さに合わせる必要があった。今回加えられたのは、短かめのノヴェラ1篇と短篇2篇で、これらは最近の作。
五十嵐さんの本は、デッド本の参考になるか、と思って買ってみた。〈The Nigth They Drove Old Dixies Down〉の項目に目を通す。お手本にしたいほど良く書けていると思う。しかし、デッドにはこの手法は使えない。デッドの「全曲解説」をするとすれば、アルバムの枠をはずして、タイトルのアルファベット順か、あるいは演奏回数の多い順にするしかない。《Built To Last》以降にデビューした曲は当然バンド在世中の公式アルバムには入っていないし、デッドにおいてはカヴァー曲はオリジナルと同様に重要だが、これまたどこにも入っていないものが多すぎる。逆にスタジオ盤に収録されながら、ライヴでは一度も演奏されなかった曲もある。
数からいえば、300曲とすれば、ほぼ漏れは無かろう。1曲1,000字でトータル30万字。400字詰750枚。でも、重要曲は千字では収まらないし、メンバーのバイオとか、バンドの歴史とか、あれこれ加えて、まあ、千枚は超えますね。
としてみても、それでデッドの総体が摑めるか。デッドの「作品」はアルバムではなく、個々の曲でもなく、1本1本のショウになる。一連のツアー、ランとしてのまとまりもある。曲からのアプローチは縦糸に相当する。横糸は2300本余りのショウだ。だから、少なくとも、公式に全体がリリースされているアーカイヴ音源を対象として、そちらからのアプローチも必要になる。つまり、最低で2冊必要だ。
さらに、デッドを生み出し、デッドが生み出したアメリカの社会という観点もある。これはむしろ社会学の範疇で、音楽からは離れるかもしれない。あたしの手に余ることは確かだ。Jesse Jarnow の Heads を翻訳できれば、足掛かりにはなりそうだ。
##本日のグレイトフル・デッド
02月17日には1968年から1988年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1968 Selland Arena, Fresno, CA
3.50ドル。開場7時半、開演8時半。共演カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ、Valley Fever。デッドが先に演奏、とショウのプロモーターの一人は言うが、客の一人はデッドが最後としている。〈Good Morning Little Schoolgirl〉をやり、それからプロモーターによれば〈Turn On Yoru Lovelight〉、客によれば〈Viola Lee Blues〉を延々と演って終り。ガルシア公式サイトではデッドは最後で、演ったのは TOYL としている。
Valley Fever は地元のバンドの由。
〈Turn On Your Lovelight〉は日時場所が明確なものとしては1967年08月05日、トロントで初演。1972年05月24日ロンドンを最後に、一度レパートリィから落ちる。1981年10月16日、オランダで復活。1984年07月07日以後再び定番となり、最後は1995年06月19日、ニュー・ジャージー州イースト・ラザフォード。計349回演奏。演奏回数順では26位。当初はピグペンの持ち歌で、後年はウィアが歌う。なお "Turn On Yoru Lovelight" と "Turn On Your Love Light" の二通りのスペルがある。オリジナルのボビー・ブランドのリリースや、その他のほとんどのカヴァーでは後者のスペル。デッドも初めは後者を使っていたが、後、"Lovelight" を使うようになる。
ショウでは後半の盛り上がるところで演奏されることが多い。〈Good Lovin'〉とならんで、ピグペンが即興でうたう「ラップ」を展開する曲でたいていは長い演奏になる。後期のウィアがヴォーカルをとる時期では、器楽演奏の比重が増え、やはり長いジャムが展開される。
原曲は Joseph Scott & Deadric Malone が1961年に書いた。スコットは1961年から68年まで、ボビー・ブランドが仕事をしたバンドリーダーでアレンジャー。マローンはレコード・レーベルのオーナー経営者 Don Robey の筆名で、おそらく曲作りに実際に関ってはいない。ブランドはスコットの編曲で1961年に吹き込み、その年末にリリースされて、翌年初め、R&Bチャートで2位になっている。カヴァーは多く、ヴァン・モリソンのゼムやグレッグ・オールマン、ジェリー・リー・ルイス、トム・ジョーンズ、バリー・ゴールドバーグ、エドガー・ウィンターなどもやっている。
2. 1973 St. Paul Auditorium, St. Paul, MN
第一部の半ばでスイッチが入ったらしい。第二部半ばで、〈Here Comes Sunshine> China Cat Sunflower> I Know You Rider〉という、この時だけの組合せが出る。HCS から CCS への移行があまりに見事なので、これがその後繰返されなかったのは不思議と John J. Wood が DeadBase XI で書いている。
〈Here Comes Sunshine〉はハンター&ガルシアの曲。この年02月09日スタンフォード大学のショウでデビュー。1年後、1974年02月23日に一度レパートリィから落ち、1992年12月06日に復活。以後、最後まで演奏された。計66回演奏。スタジオ盤は《Wake Of The Flood》収録。アルバムのタイトルはこの曲の歌詞冒頭から。
歌詞は例によって意味がとりにくいが、象徴としてのノアの洪水が底流にあると思われる。洪水をもたらした雨がやみ、雲が切れて陽光がさしこんでくる情景。ハンターによれば、1949年のワシントン州の洪水に遭遇し、父親に見捨てられて、他人の家に仮寓した体験を歌っている。ちなみにハンターは母親の再婚相手の姓。この曲がデビューしたパロ・アルトは、ハンターが両親とともに転居して、一度は入ったコネティカット大学をドロップアウトしてまで戻った地だ。
3. 1979 Oakland Coliseum Arena, Oakland, CA
前売7.50ドル、当日8.50ドル。開演8時。ガチョー夫妻最後のショウ。後任のブレント・ミドランドにアンサンブルに入る準備期間を与えるため、04月22日までショウは休む。
DeadBase XI の Mike Dulgushkin によれば、このショウの時点ではガチョー夫妻がこれで脱けることを聴衆は知らなかった。
1970年代はデッドにとって最も幸福な時期で、それを支えた要素の一つはガチョー夫妻の存在である、というのがあたしの見立て。もう一つの要素は、メンバーが30代で、十分なエネルギーを保ちながら、ミュージシャンとして、バンドとして成熟していることだ。1年半、ショウを休んだことも、結果としてはベストの形になった。
デッドヘッドにドナ・ヘイターは多いが、ドナの声は70年代デッドにユニークなカラーを与えている。とりわけ、休止期以後のハーモニーは、デッドの歌の最も美しい情景を生みだす。単純にシンガーとして見れば、おそらくデッドのうたい手の中ではトップだろう。ここで脱けることがなければ、ドナがリード・ヴォーカルをとる曲が主要なレパートリィの一部として聴けたかもしれない。ドナの後継がデッドに現れなかったのは、ガルシアが1980年代以降、自分のバンドには女性コーラス陣を欠かさなかったこととは対照的であり、いろいろな意味で興味深い。
キースはデッドにおいて鍵盤の地位を明瞭に確立した。それ以前のピグペンにしても、トム・コンスタンティンにしても、バンドに不可欠ではあっても、リスナーにとっては重要ではなかった。キースのピアノは他のメンバー、とりわけガルシアにとって無くてはならないものになっただけでなく、バンド全体の音楽のなかで存在を主張し、積極的にジャムにからんで、リスナーからも注目される。ショウにあって、かれのスタインウェイはステージ上で目立った。
それだけに、1972年08月27日のヴェネタでのショウを収めた映画 "Sunshine Daydream" において、音は聞えるのに、かれの姿が画面に全く登場しないのは故意としか思えず、不審でもある。ショウの音源と共にリリースされた DVD の版は再編集されているとのことだが、オリジナルの版は見ていないので、そちらではキースが映っているのかはわからない。しかし、キースはすでに死んでいるわけだし、2013年のリリースの時点でその映像を削らなければならない理由は見当らない。このドキュメンタリーはその他の点ではまことに面白いものであるので、余計その穴が目立つ。
4. 1982 Warfield Theatre, San Francisco, CA
25ドル。開演8時。同じヴェニュー2日連続の2日目。すばらしいショウの由。この2日間はベネフィットのためとニコラス・メリウェザーは言うが、何のためかは不明。
5. 1988 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
開演7時。良いショウの由。(ゆ)
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