介護認定

02月21日・月

 母の介護認定に立ち会う。耳が遠くなるなどの加齢に伴う体の不具合はいろいろあるが、頭ははっきりしているのがよくわかる。今のところ要支援だが、要介護にはならないかもしれない。

 生きながらえれば、いずれあたしもこういうのを受けるようになるんだろう。幸い、わが親や祖父母でボケた者はいないから、頭だけは保つ可能性が高い。問題は目と耳。この二つは鍛える方法もないなあ。

 「アルジャーノンに花束を」の中篇版は、やはり後半の、主人公がクスリで増進された知能を失ってゆくところがヤマだが、年をとると読むのがだんだん辛くなる。


##本日のグレイトフル・デッド

 02月21日には1969年から1995年まで8本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版2本。

 Vince Welnick の誕生日。1951年アリゾナ州フェニックス生。2006年06月02日カリフォルニア州ソノマ郡死。享年55歳。死因は自殺。1990年07月、ブレント・ミドランドの急死を受けて、オーディションで選ばれ、メンバーとなる。同年09月07日初ステージ。1995年07月09日のラスト・ショウまで鍵盤とヴォーカルを担当。ジョン・ペリィ・バーロゥと組んで作曲もする。

 ウェルニクがミュージシャンとして一流だったとしても、グレイトフル・デッドに入ったことが果して幸せだったかどうか。

 デッドは毎回違うことをやろうとし、集団即興をめざした。そのためメンバー間の関係は通常のバンドとは比較にならないほど密接となる。実際、ロージィ・マッギィは回想録 Dancing With The Dead の中で、1960年代にすでにメンバー間の関係は恋人や妻ですら伺い知れず、間に入ることなど思いもよらないほど密接だったと述べている。そういう深くからみあった集団に、結成から四半世紀経って参加し、他のメンバーと「うまくやってゆく」には、ミュージシャンである前に一個の人間として、よほどの覚悟とコミュニケーション能力と、そしておそらく確固として確立した自己が必要だろう。そして、たとえそうした資質を十二分に備えていたとしても、さらにその上に、かなりの重圧も感じられただろう。他のメンバーとしては特に圧力をかけているつもりはなくとも、かれらとして当然のことをやることが、新メンバーには圧力になりうる。デニス・マクナリィはデッドの歴史を描いた著書 A Long Strange Trip の中で、参加して間もなく、あるショウの後で呆然と佇むウェルニクを見つけた時のことを書いている。その日のショウはひどい出来で、ウェルニクはそれが自分のせいだと思いこんでいたのだった。マクナリィはひどい出来のショウはバンドとして珍しいことではなく、ウェルニクの責任ではないことを言って聞かせる。

 ウェルニクは前任のミドランドとほぼ同世代で、加入したとき39歳。人生において冒険する年齡ではもはや無い。己の才能に自信をもち、デッドに新たな要素を持ち込む意気に燃えていたわけでもなかった。あの時のデッドに必要だったのは、おそらくそうした新しい血、若く、溌剌とした新人であったろう。しかし、ミドランドの死の衝撃は、残りのメンバー、就中ガルシアの保守化をもたらした。いわば安全牌を求めさせた。後継の人選において、やってみなはれをやってみる気にはどうしてもなれなかった。

 ウェルニクはリハーサルと録音による勉強で、レパートリィの各曲に詳細なノートを作り、それを持って初ステージに臨む。かれが目指したのは皆の足を引っ張らないことだった。ガルシアがブルース・ホーンスビィに参加を求めたのは、選んでしまったウェルニクにはミドランドの代役、つまり自分のソロの霊感の元としての役割が勤まらないことを覚ったためだったであろう。これは本来、ウェルニクからすれば屈辱でしかない。その場で辞表を叩きつけてもおかしくはなかった。しかし、かれはどうやらそういう性格ではなかったし、また貧困のどん底にあったのを、デッドに拾われて救われてもいた。辞めるわけにはいかなかった事情もある。

 ウェルニク時代のライヴ音源の公式リリースが少ないので、バランスのとれた評価をしにくいが、歴代鍵盤奏者のなかでデッドヘッド間の人気が最も低いことは確かだ。キースもミドランドもプラス・マイナスどちらの評価もあり、強い否定論者もいると同時に熱狂的に評価する者もいる。ウェルニクには、どちらにしても熱意が感じられない。むしろどう評価すべきか、決めかねているようでもある。

 聴いた範囲でのウェルニクは、衰えてゆくガルシアをカヴァーすることに努めている。新しいことを持ち込むよりも、欠けてゆくところを埋めようとしている。またそれがかれとしては等身大、背伸びせずにできる精一杯のところだったようにも見える。

 2002年に The Other One から除外されたことはウェルニクには大きなショックで、結局これがかれの命取りとなった。The Other One を「ファミリー再結集」とした4人におそらく悪気は無かっただろう。というよりも、おそらくはウェルニクはこのプロジェクトの当初からまったく考慮に入れられていなかったのではないか。かれらにとって「ファミリー」とは60年代から続いていた関係であり、1990年になって入ってきた者は一時的滞在者であって、家族とはみなしていなかったのだ。しかし、ウェルニクにしてみれば、グレイトフル・デッドの一員であったことは、人生最大の歓びであり、誇りであった。それを否定されたことは、人間として否定されたのと同じことだった。

 グレイトフル・デッドに出逢って、まずたいていの人間の人生は良い方に変わる。しかし、ずっと良いままである保証もまた無い。そして、良いままであるか、悪い方に変わるかには、当人のコントロールが及ばない。もう1度しかし、ウェルニクにしても、では、デッドに拾われない方が良かったかと訊かれれば、たとえ後でそういう仕打ちを受けるとわかっていたとしても、まず十中八九、拾われて良かったと答えるだろう。



1. 1969 Dream Bowl, Vallejo, CA

 このヴェニュー2日連続の初日。Country Weather、It's A Beautiful Day、サンズ・オヴ・シャンプリン、Blues Helping、サンタナ共演。第二部とアンコールのセット・リストが残る。ショウ自体は原始デッドの好例、と言う。

 It's A Beautiful Day の結成は1967年で、この年06月にファースト・アルバムをリリースする。

 Country Weather はサンフランシスコ郊外で1966年、高校生によって結成され、当初は The Virtues と名乗った。1967年、チェット・ヘルムズの薦めで改名し、オリジナルを作って演奏するようになる。正式な録音は無いが、1969年にプロモーション用に5曲録音している。1973年解散。

 Blues Helping という名のバンドは不明。


2. 1970 Civic Center Arena, San Antonio, TX

 開演6時。6ドル?。イッツ・ア・ビューティフル・デイ、ジョン・メイオール、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス共演。出演はこの順番で、デッドがトリ。セット・リストは不明だが、後半、原始デッドの定番をやり、〈Turn On Your Lovelight〉の途中で客電が点いたのは、いい加減終れとの合図らしい。


3. 1971 Capitol Theater, Port Chester, NY

 このヴェニュー6本連続の4本目。《Workingman’s Dead》50周年記念盤で全体がリリースされた。

 前2本同様、このショウもすばらしい。全体としてゆったりとしたうねりのあるショウ。テンポが遅めで、ガルシアのソロもくだけてメロウで、流れるようにうたう。このランでデビューした新曲はまだフォーマットが固まらず、手探りしてもいる。どれもコーダがあっさりしている。

 ピグペンの出番は3曲だが、どれも腰の入ったブルーズで、かれのハーモニカ、いやブルーズ・ハープもいい。第二部後半の〈Wharf Rat> Truckin'> Casey Jones> Good Lovin'〉の畳みかけは、決して急いではいないのだが、集中の度合いが高まってゆく。

 〈Good Lovin'〉で歌の後、クロイツマンが5分ほど、独りでドラムを叩く。あるいはハートが不在でも心配するな、というデモンストレーションの意味もあるかもしれない。ギターが小さく戻ってだんだん大きくなってジャムになる。ピグペンも戻って即興の歌をつらねる。このあたり、同じジャムでも前年の原始デッドとは明らかに変わっている。より複雑で洗練されて、音楽の中へもう一歩踏みこんでいる。

 〈Good Lovin'〉から間髪を入れずにウィアがコードをアコースティックの響きで弾きはじめる〈Uncle John's Band〉の風格には新生デッド、アメリカーナ・デッドへの手応えを感じる。


4. 1973 Assembly Hall, University Of Illinois, Champaign-Urbana, IL

 このヴェニュー2日連続の初日。第二部オープナー〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 なるほど良いヴァージョン。CCS 後半のジャムでウィアが渋いソロを聴かせる。ここはかれがリードをとる数少ないところだが、ここでは定型の結論のメロディに向かって霊感に満ちている。ガルシアがこれを軽く受け、徐々に引き継いで IKYR へ移る。メロディらしいメロディを弾かず、軽快に音を散らす。くー、たまらん。ラストのソロでは、中域でほぼ同じ音を繰返してから、高く飛翔する、ガルシア得意のパターン。


5. 1982 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA

 11.75ドル。開演8時。良いショウの由。

 サンフランシスコ、サンディエゴ、このロサンゼルスと回り、次は03月13日にネヴァダ州リノに飛ぶ。


6. 1991 Oakland County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー3日連続の最終日。第二部2・3曲目〈Uncle John's Band〉〈Terrapin Station〉、6曲目〈Eyes Of The World〉にアイアート・モレイラが参加。ホーンスビィはいないが、この年の五指に入るショウだそうだ。


7. 1993 Oakland Coliseum Arena, Oakland,, CA

 24ドル。開演7時。1月下旬の3日連続に続いて、再びここで3日連続のショウをする、その初日。マルディグラ祝賀。新曲デビューが3曲。第一部3・4曲目〈Lazy River Road〉〈Eternity〉と第二部オープナー〈Liberty〉。

 〈Lazy River Road〉はハンター&ガルシア。最後は1995年07月09日のラスト・ショウ。計65回演奏。スタジオ盤収録無し。

 〈Eternity〉はウィリー・ディクソンとボブ・ウィアの曲。1995年07月08日まで、計43回演奏。スタジオ盤収録無し。ベースの Rob Wasserman が《Trio》のアルバムを作った時、ウィアとディクソンを組み合わせた。スタジオでのセッションで、ウィアが思いついていたコードとメロディをディクソンに示し、ディクソンは気に入ってその場で詞を書いた。二人でさらに揉んで、ブリッジを加え、ディクソンが詞を整えて曲ができた。

 〈Liberty〉は1995年07月06日まで、計56回演奏。スタジオ盤はハンターのソロ《Liberty》収録。アンコールで演奏されることが多い。


8. 1995 Delta Center, Salt Lake City, UT

 28ドル。開演7時半。このヴェニュー3日連続の最終日。《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。

 オープナーの〈Salt Lake City〉はバーロゥ&ウィアの曲で、この時1度だけ演奏された。スタジオ盤はウィアのソロ《Heaven Help The Fool》収録。

 2015年にバンド結成50周年を記念してリリースされたビッグ・ボックス・セット《30 Trips Around The Sun》は、1966年から1995年までのデッドの30年を、各年1本ずつ代表するショウの完全版によって紡ごうとする企画で、《Europe '72: The Complete Recordings》と並んで、アーカイヴからのリリースとしてこれまでで最大規模のものだ。この日のショウは1995年で初めて全体がリリースされたショウで、この年のショウで全体がリリースされているのは、今のところ、この他には無い。ということはこの年のベストのショウと見ることができる。この録音については、以前、書いている

 1995年の悪評に対して、悪いものばかりではないことの証拠としてこのショウを挙げる向きもある。が、その場での体験はまた別だろう。デッドのショウを実際に体験しているか否かでも、捉え方は変わってくるだろう。まったくの後追いでこの録音を聴くかぎり、これがベストの出来であるならば、他のショウの出来は推して知るべしだ。《30 Trips Around The Sun》のショウを順番に聴いてきて、ここに至る時、そのいたたまれなさをどこに持っていけばいいのか、わからなくなってもだえる。このショウを再度聴きかえす気にはまだなれない。

 一方で、このショウはグレイトフル・デッドが常に前を、前だけを見て進んでいったことの証しでもある。あたしらは通常、未来に向かって背中を向け、後ろ向きに過去を見ながら後ずさってゆく。ところが、こいつらは過去をふり向くことをせず、顔をまっすぐ未来に向けて進んでいった。そこに何があるか、起きるか、わからないことをものともせずに、というよりは、わからないからこそ進んでみるという風情だ。その結果、かかっていることを意識しなかった圧力におし潰されてばったりと倒れた。そのまさに倒れようとする姿、倒れてゆく姿を捉えたものがこれである。なんと、こいつらは、自分たちが倒れようとしていることすら、自覚していないようだ。倒れおわり、2度と起きあがれないとわかって初めて、自分たちが倒れた、潰れたことに気がついた。生き残ったメンバーだけではない。ガルシア本人にしてからがそう見える。

 グレイトフル・デッドが過去をふり返らなかったというのは、過去を尊重しなかったというわけではない。先人たちが積みあげてきた遺産、伝統にはむしろ人一倍敬意を払っている。数多いカヴァー曲のいずれもが原型を止めないほど変えられている。オリジナルを作るのと同等の熱意をもってエネルギーを注ぎこみ、大切にくり返し演奏されている。それは過去を簒奪して商品化することではなく、自分たちもまた伝統の一部となることを目指している態度だ。その点では、デッドはアイリッシュ・ミュージックなどの伝統音楽の演奏家に立ち位置が近い。スタジオ録音の質の高さよりも、ライヴの、生演奏の場を確保し、その質を上げることを何よりも重視した点でも、伝統音楽家と呼んでいい。

 この日のショウでは、表面的な出来不出来とは別に、そうしたデッドの基本的性格が図らずも露わになる。それを確認するためにも、やはりこのショウはいずれ聴きなおさねばなるまい。(ゆ)