07月06日・水
 広島の Egretta の円筒型スピーカーを見ると、タイムドメインや知名オーディオを連想せざるをえない。バング&オルフセンのスピーカーも最近はこの形だ。円筒型で、上に音を出す方式の普遍性の証でもあるのだろう。



 ここの一番小さなモデル TS-A200 はちょと面白そうだ。机の上やテレビの両脇にちょんと置ける。何よりもこのツラがいい。オーディオ製品にツラは大事だ。音のいい機器はいかにも良さそうなツラをしている。カッコいいデザインではない。

 試聴用レンタルをやっているから、聴いてみるか。買う予定はまったく無いけれど、音は聴いてみたい。スピーカーは試聴できるといっても、店で鳴っているのでは、自分の家とは条件が違いすぎて試聴にならない。借りて聴くのが一番。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月06日には1984年から1995年まで5本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1984 Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。
 見事なショウの由。

2. 1986 RFK Stadium, Washington, DC
 日曜日。このヴェニュー2日連続の初日。20ドル。開場正午、開演2時。ディラン&トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズとのツアー。
 演奏の順番はまずトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、これにディランが加わり、ディラン・ソロ、再び TP&HB がバック。最後がデッド。
 ディランを見に来て、デッドヘッドになってしまった少年もいた。それまでデッドは聴いたことがなく、このショウの翌日、《American Beauty》と《Workingman's Dead》を買ったという。

3. 1987 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA
 月曜日。16.75ドル。開演7時。
 第二部3曲目〈Iko Iko〉からアンコール〈Johnny B. Goode〉まで、drums> space を除いて、ネヴィル・ブラザーズのメンバーが参加。とりわけクローザー前の〈Knockin' On Heaven's Door〉が凄かった由。
 〈Iko Iko〉の次の〈Banana Boat Song (Day-O)〉はこれが初演。この年大晦日の年越しショウと2回だけ演奏された。大晦日にもネヴィル・ブラザーズが参加。
 曲はハリー・ベラフォンテのアルバム《Calypso》1956収録がおそらく最も有名。作曲者のクレジットは複数あり、何人もが関っているとされる。おそらくは伝統歌をアレンジしたのだろう。

0. 1987 In The Dark release
 この日《In The Dark》がリリースされた。

イン・ザ・ダーク
グレイトフル・デッド
ワーナーミュージック・ジャパン
2011-04-06


  《Go To Heaven》以来6年ぶり12作目のスタジオ盤。この年01月に、サン・ラファルの Marin Veterans Auditorium で録音。エンジニアは John Cutler, Guy Charbonneau。さらにサン・ラファルのボブ・ウィアのスタジオ Club Front で追加の録音が行われ、こちらのエンジニアとして Dan Healy, Jeff Sterling, Jeffrey Norman, David Roberts, Joe Gastwirt, Justin Kreutzmann がクレジットされている。

 観客を入れないライヴ形式で録音されたものに、スタジオで追加、修正を加え、ミキシング。通常の録音スタジオでは普段の実力を発揮できないバンドの苦心の末の工夫。

 ジャケットにはライヴ録音中たまたま遊びに来たビル・グレアムも入っている。

 トラック・リスト。
Side One
1. Touch Of Grey (Hunter+Garcia)           5:47
2. Hell In A Bucket (Barlow+Weir & Mydland)           5:35
3. When Push Comes To Shove (Hunter+Garcia)           4:05
4. West L.A. Fadeaway (Hunter+Garcia)           6:39

Side Two
5. Tons Of Steel (Mydland)           5:15
6. Throwing Stones (Barlow+Weir)           7:18
7. Black Muddy River (Hunter+Garcia)           5:58
          トータル40:58

 〈My Brother Esau〉がアルバムのカセット版のみに4曲目として収録。〈Touch of Grey〉シングルのB面に収められた。2004年拡大版に8曲目として収録。

 初演年月日順。
4 West L.A. Fadeaway           1982-08-28
1 Touch Of Grey           1982-09-15
6 Throwing Stones           1982-09-17
  My Brother Esau           1983-03-25
2 Hell in A Bucket           1983-05-13
5 Tons of Steel           1984-12-28
3 When Push Comes to Shove      1986-12-15
7 Black Muddy River           1986-12-15

 終演年月日順。
5 Tons of Steel           1987-09-23
  My Brother Esau           1987-10-03
3 When Push Comes to Shove   1989-07-17
4 West L.A. Fadeaway           1995-06-30
2 Hell in A Bucket           1995-06-30
6 Throwing Stones           1995-07-05
1 Touch Of Grey           1995-07-09
7 Black Muddy River           1995-07-09

 演奏回数順。
6 Throwing Stones           265
2 Hell in A Bucket           215
1 Touch Of Grey           195
4 West L.A. Fadeaway           140
  My Brother Esau           104
7 Black Muddy River           86
3 When Push Comes to Shove   58
5 Tons of Steel           29

 チャート・パフォーマンスはデッドのスタジオ盤の中で最も良く、ビルボードで6位。発売後、3ヶ月と経たない9月中にゴールドとプラチナ・ディスクを続けて獲得。
 ここからは4枚のシングルが出る。
 Touch of Grey; Billboard Hot 100 で9位。Mainstream Rock Tracks 1位。
 Hell in a Bucket; Mainstream Rock Tracks 3位。
 Throwing Stone; Mainstream Rock Tracks 15位。
 West L.A. Fadeaway; Mainstream Rock Tracks 40位。
 この〈Touch of Grey〉はデッド唯一のベスト10ヒットとなり、ガルシアの昏睡からの奇跡的な回復と相俟って、デッドの人気は従来のファン・ベースを大きく超えて、一気に拡大することになる。
 このことは通常のポピュラー・ミュージシャンの場合とは裏腹に、デッドにとっては様々な問題を引き起こした。見ようによっては、バンドの寿命を縮めた。タラレバを言うのは無意味ではあるが、この大ヒットが無かったら、ガルシアがあそこで死ぬことはなく、バンドは21世紀まで存続していたかもしれない。しかし、ある曲がヒットするかしないかは当のミュージシャンのコントロールの及ばない事象だ。〈Touch of Grey〉にしても、デビューはレコード・リリースの5年前だ。そのシングルが9位になったと聞かされて、ガルシアは心底恐怖の表情を浮かべた、と伝えられる。デニス・マクナリーはバンドの公式伝記 A Long Strange Trip の中で、もう1曲ヒットが出ていたら、その時点でバンドは潰れていただろうと記す。
 それまでのデッドのコミュニティは徐々に大きくなっていたから、後から来た人びとを同化吸収することができた。コミュニティのしきたりや暗黙のルールを伝え、入った方もそれに従った。《In The Dark》リリーズ後の拡大は急激で、新たに入ってきた人間の数が桁違いに多かった。あるいは新たに入った人間の方が、従来のファン・ベースを上回っていたかもしれない。ヒット曲から興味を持った人間は若年層が多く、他人の慣習やルールを尊重する気風も薄い。そういう人間たちがデッドのショウに来て、駐車場やキャンプ場でのマーケットや、ケミカルへの規制のゆるさに触れれば、混乱が起きるのは避けられない。一部はショウそっちのけで、ショウの周囲の "Shakedown Street" と呼ばれた青空マーケットを目的に集まる。ヴェニュー周辺の混乱が大きくなれば、ヴェニューのある地元の街の住人や当局が嫌うようになる。
 デッドのショウには、追いかけて移動するトラヴェル・ヘッドを中心に、周辺の州からも多数のデッドヘッドが集まるから、ヴェニューのある市や街には多額のカネが落とされた。コミケに向けて、都内の宿泊施設が満杯になり、会場周辺の商店からモノが無くなるのと同じだ。デッドヘッドはおおむね平和を好み、礼儀もわきまえ、教養も高く、他のロック・バンドのコンサートに集まる群衆に比べれば遙かに好ましい。だから、デッドのショウが来るのを大歓迎する市や街もある一方で、1960年代から脱け出してきたようなデッドヘッドの外観や、ケミカルがあたりまえに流通・消費されることに嫌悪感を示すところも多かった。若年層ファンの急増は、この後者も増やすことになる。
 さらに急増したファンの要求に答えようとすると、従来の規模のヴェニューでは小さすぎることにもなった。以後、デッドのショウのヴェニューは最低でも2万人収容できるようなスタジアムやアリーナ、屋外のアンフィシアターに限られるようになる。収入も増えるが、かかるコストと手間も格段に増える。また、バンドにとっても、あまりに大きな会場でやるのは、聴衆との交感が疎遠になるので、好みではない。デッドが最も好んだヴェニューのサイズは5,000前後だ。気に入っていたヴェニューでできなくなることは、バンドにとってストレスの溜まる原因にもなる。
 これに加え、チケットを持たずにやって来て、数を頼んでゲートやフェンスを破り、無理矢理ショウに押し入る Gate crasher 押し入り屋の問題も生じる。これが可能なのは、やはり会場が大きいためだ。押し入りはだんだんにひどくなり、ついには1995年07月02日の Deer Creek Music Center で大規模な押し入りが発生して、翌日のショウがキャンセルされる事態にまでなる。
 こうしたことはいずれもデッドやそのコミュニティにとっては迷惑以外のなにものでもない。古くからのデッドヘッドの一部はこの時期に急増した新たなファンを "Touchhead" の蔑称で呼んだ。
 1980年代末から1995年まで、デッドは毎年、音楽興行成績で常にベスト5以内に入っている。普通なら大成功と呼ばれるこの現象はデッドにとっては望んだものではなかった。むしろ、大きくなりすぎて、自分たちのコントロールが及ばなくなっていた。しかも、今回は1974年のように、止めることもできない。ガルシアの死とバンドの解散は時間の問題だった、と言うこともできなくはない。
 大成功にまつわる大きなマイナス面を乗り越えて生き延びているアーティストもいるわけで、望外の成功だけがデッドを殺したわけではない。そもそもの原因はガルシアのライフ・スタイルにもある。一方でそのライフ・スタイルはガルシアの創造力と表裏一体でもあった。

 アルバムそのものの内容、出来はまた別の話になる。収録曲は2曲を除いて最後まで演奏されたし、〈Throwing Stones〉はこの時期にデビューした曲の中ではダントツに回数が多い。バーロゥ&ウィアの代表作の一つと言っていい。演奏回数はそう多くないが、〈Black Muddy River〉はハンター&ガルシアのやはり代表作の一つと言えるだろう。デッドにハマる遙か以前、イングランドの伝統音楽のベテラン・シンガー、ノーマ・ウォータースンによるこの曲のカヴァーを聴いたときの衝撃は忘れられない。最初に聴いた時はデッドの曲とさえ知らなかった。この2曲を擁するだけでも、このアルバムの価値はある。
 演奏は確かに伸び伸びしている。ライヴ音源の感覚に近い。ところどころ加えられた効果音や追加のサウンドが新鮮に聞える。その一方で、A面は曲の印象がどれも似ている。ライヴ音源ではまったく異なる曲なのだが、ここではアレンジの型も共通だ。
 全体としては質の高い曲の質の高い演奏を質の高い録音で捕えた音盤。デッドのスタジオ盤はそれだけとりだせば、決して悪いものではない。むしろ、どれも質は高い。ただ、ライヴと比べてしまうと、まるで影が薄くなってしまう。アナログ時代のライヴ・アルバムはスタジオ盤と収録曲の重なりが少ない。これまた他のポピュラー音楽のライヴ・アルバムとは意味合いが異なる。だから、アルバムとしてリリースされるものだけ聴いていても、スタジオ盤とライヴの違いはわかりにくい。しかし、テープあるいは公式リリースされたライヴ音源を聞くと一聴瞭然だ。

 音楽を聴くかぎり、これだけがヒットするような違いはこれまでのスタジオ盤との間には見えない。ヒットするかしないかは音楽的内容とは関わりの無いところで決まるものなのだろう。


4. 1990 Cardinal Stadium, Louisville, KY
 金曜日。21.50ドル。開演4時。
 第二部4〜6曲目〈Standing on the Moon> He's Gone> KY Jam〉が《View From The Vault Soundtrack》でリリースされた。
 〈Standing on the Moon〉のガルシアの声はいささかくたぶれてはいるが、芯は通っている。おそらくこの歌として最も遅いテンポだが、これがベストないし精一杯速いようにも聞える。悪いわけではない。これほど遅くて、しっかり底を支えるのは凄い。ガルシアは一語一語噛みしめてうたう。ギター・ソロもメロディから遠く離れてよく遊ぶ。孤独を振り切ろうとしながら、今はこの場にいない相手に死にものぐるいで呼びかける。
 〈He's Gone〉は心弾むヴァージョン。奴がいなくなったことを歓ぶ歌。あんな奴と一緒でいるくらいなら、さっさと消してやれ、というくらいの意気。
 そして〈KY Jam〉が凄い。前の曲の流れでゆっくりとガルシアのギターで始まり、だんだんと集中の度合いが強くなり、ビートが速くなり、全員が対等にジャムる。テンションがそのまま着実に上がってゆく。メロディがあるようで無いようであるようだ。〈The Other One〉のリフに似たもの、あるいはそのヴァリエーション、遠いいとこが顔を出すこともある。
 このメドレーを聴くだけでも、このショウの出来の良さはよくわかる。何とか全体を出して欲しい。
 〈Truckin'〉が第二部の Drums> Space 後の後半に演奏されるのはこれが最後の由。

5. 1995 Riverport Amphitheater, Maryland Heights, MO
 木曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。28.50ドル。開演7時。
 第一部4・5曲目〈Me and My Uncle> Big River〉でウィアはアコースティック・ギター。
 これを入れてあと3本、と今はわかるが、当時、もう終りだと思っていたデッドヘッドがどれくらいいたか、やはり疑問だ。ネット上ではわかっていたという書き込みが多いのは、そう思うことでガルシアが死に、デッドがもういないことの虚脱感をまぎらわせようとする、とあたしには見える。このショウにも感動した人はいる。その感動はこれが最後という気分からでは、その時は無かったはずだ。
 Thomas Bellanca は DeadBase XI で、これはすばらしいショウで、ディア・クリークや、前日のキャンプ場での事故などのネガティヴな雰囲気を一掃してくれた、と書いている。ガルシアの調子もよく、90年代初めのような演奏をしていた。ウィア、レシュも積極的に演奏を引っ張った。こう書いたのはショウの直後で、その後の展開を知らない時だが、変更する必要は感じなかった、とも言う。これはおそらくベランカだけではないだろう。グレイトフル・デッドは最後まで、倒れるその瞬間まで、前を見すえて、進みつづけた、というのはこういうところだ。(ゆ)