西嶋氏のベースは結構聴いている。林正樹氏とよく組まれているから、林氏の録音を集めて片っ端から聴いたときに、何度も出てきた。デュオのものもある。ピアノとのデュオという点では同じだが、むろん、全然違う。
ライヴも一度見ている。もう10年前になる。パブロ・シーグレルが独りで来日して、バンドネオンとギターとベースがバック・バンドを勤めた時のベースが西嶋氏だった。バンドネオンが北村聡、ギターに鬼怒無月というメンバー。その時のことはブログに書いている。
読みなおすと、この時も西嶋氏はアルコを駆使していたようだ。バンドネオンはともかく、鬼怒さんのギターよりも尖っていたと聞えたのだから、かなりなものだ。
今回はこのアルコが実によく歌う。コントラバスとピアノのデュオとなると、ピアノが主にメロディを奏で、ベースがそれに合わせる形になるのが普通かもしれないが、今回はむしろベースが主役。shezoo さんの曲でも、アルコでメロディを奏でる時間の方が長い。
そして、ふだんは低音でビートを刻んだり、コーラスやカウンター・メロディをつけたりしている楽器が、メインでメロディを歌うのは、実はまことに美味しいのだ。ということは、先日の Music For Isolation のライヴでも実感したことだ。あの時はチューバとバスクラだった。どちらも管楽器であることをあらためて思い知らされたけれど、今回はコントラバスもそもそも弦楽器であることを思いしらされたことである。
それに低音楽器が奏でるメロディは、いつものメロディ楽器が奏でる時とは別の顔を見せる。思いこみかもしれないが、より本質に近いと聞える。楽器の音の美しさがはがれ落ちて、メロディそのものが本来備えている美しさが現われでる。いわばすっぴんの美しさだ。
コントラバスのアルコはまた倍音が豊冨だ。すっぴんで初めて肌の美しさ、肌理の細かさや滑らかさ、健康な色合いが見えるように、メロディから自然に湧き出る倍音が、それは心地良い。と同時に、その響きは聴き手を引き込む。こちらもごく自然に耳を傾け、全身が耳になって聴き込んでいる。
この効果が最も顕著に現れたのは4曲目の shezoo さんの〈Dies Irae: 神々の骨〉だ。この曲は二連符というか、二つ一組の音からなる短かいフレーズを延々と繰返し奏でつづけて、演奏する側にも聴く側にもたいへんな集中力を要求する。二つの音は同じ時もあり、上がったり下がったりすることもある。いつも終るとふうーっとため息が出る。それからじわじわと浄化された感覚が湧いてくる。聴いている間はずっとサスペンス、宙吊り状態だ。コントラバスのアルコは、そこにごくほんのりと笑みを加える。ビンビンに緊張しきっているのに、同時に笑みが浮かんでくる。のどか、と言うと言い過ぎだろう。しかし、張っていながらゆるいのだ。緊張と弛緩が同時に併存する。音楽の最高の瞬間だ。
そしてよく見れば、コントラバスは擦弦楽器の中で最も表現力が豊かだ。他の擦弦楽器は弦を弾く奏法はあるけれども、副えもので、弓で擦って音を出すための楽器だ。コントラバスは弦を擦ってもいいし、弾いてもいいし、あるいは叩いてもいい。主に即興のパートで、弓で弦を軽く、また強く叩くのがアクセントになっている。あるいは弦を弓で軽く撫でて、風の音を出す。
アルコばかりではない。弾くときの響き、弾いた瞬間の音と、そこから消えようとして消えきらずに伸びてゆく響きにも、やはり吸引力がある。いつもはライヴでも眼をつむって聴くのだが、今回は弦を弾く指の動きに眼を奪われて、ずっと見ていた。ギターを指の腹で弾く人もいるが、コントラバスを弾くのは指に限られるだろうし、弾く弦の太さはギターの比ではない。そして見ているとその指自体がコントラバス用に変容しているともみえてくる。指の腹が固くなり、楽器の一部、いわば肉体でできたピックのようになっているとも思える。インド古典音楽の楽器の名手は皆、そのように指や手が変形して楽器の一部になっているそうだ。
そもそもコントラバスの音をこんなに明瞭に聞けたのは初めて、という気がする。演奏者の技量、楽器の質、そして演奏の場の響きが一体となっていたと思われる。楽器からせいぜい3メートルの至近距離ということもあった。shezoo 流即興が1回あった、その時でも、ピアノの音に負けることがない。
面白いのはピアノの最低音はコントラバスよりも低い。そこで5曲目の shezoo さんの〈砂漠の狐〉では、ピアノの最低音と高域の音の間にコントラバスの音がはさまれる。
今回は「触れない指:架空映画音楽を集めて」というタイトル。演奏するそれぞれの曲を架空の映画のための音楽と見立て、プログラムには曲名、作曲者とともに、その曲の対象となった架空の映画のタイトルが書かれている。作曲した方が、その映画がどんなものかも説明する。shezoo さんの曲が5曲、西嶋氏の曲が6曲。それに shezoo さんの持ちこんだ曲としてシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』の1曲。計12曲。アンコール無し。
どちからというと曲がまずあって、その曲にふさわしい映画のタイトルをまず考え、それから映画の内容を考える、という形。もっとも西嶋氏の選曲は前の晩の深夜になって決まったので、映画の内容については、演奏するその場で即興で考えていたようでもある。それもまた面白し。
shezoo さんの曲は、もともと架空の、というよりはどこか別の次元には実際にある映画のための音楽に聞えるものが多い。だから、これはこういう映画の音楽です、と言われると、なるほどとすとんと納得されてしまう。この点で今回一番の傑作だったのは、上記〈Dies Irae〉だ。これは本来ラテン語で「怒りの日」すなわちキリスト教などの最後の審判の日をさす。映画のタイトルは『終焉の日』で、これはこの世の終りの日に、あなたは何をするかを撮ったものだそうで、ラスト・シーンは、小さな女の子が、これを食べながら死んでいきたいと、一杯のうどんをすする。
西嶋氏の曲はより抽象的で、前衛的でもある。こちらの映画のベストは後半2曲目〈12 cuartos〉、「12の部屋」という意味で、映画のタイトルは『望蜃館』。各々に趣向が異なる部屋が12あるホテルないし宿が舞台の、ほとんどホラー映画らしい。宿の部屋は多種多様な人びとがそこを一時的に占有しては入れ替わる、たいへん不思議で異様な空間だ。曲も落ちつきどころがない、どこか箍の外れたもの。
映画としては後半4曲目〈Muro de Stono〉も面白い。エスペラント語で「石の壁」という意味だそうで、映画はどこまでも伸びている石の壁に沿って、ただひたすら歩いてゆく、というもの。ひどくそそられるが、音楽はどちらかというと普通の映画音楽的。
ラストの西嶋氏の〈千鳥の空〉は shezoo さんが大変に好んで、あちこちでカヴァーしている由。作曲者本人と演奏するのはこれが初めて。確かに、聴いた覚えがある。佳曲だ。
今回は西嶋氏のベースにばかり耳がいってしまったけれど、shezoo さんのピアノもそのベースとしっかり対話し、サポートしていた。その点では普通の関係とは逆だが、西嶋氏のベースはそれに十分値する。この形はもっと聴きたい。架空映画音楽でもいいし、別の、よりフリーな形でもいい。録音もぜひ欲しい。shezoo さんは次々に魅力的な相手と魅力的な音楽をやってくれるけれど、どれもこれも、録音が欲しくなる。あの西嶋氏のベースをきちんと録るのは至難の技だろうし、録れたとして、それをまっとうに再生するのもまた難しいだろう。だからこそ、録音が欲しくもなる。
ここはこれまで池袋からてくてく歩いてきたのだが、あらためて地図を見ると、副都心線の雑司ヶ谷の駅がすぐ近くにあることに気がついた。新宿三丁目から歩く方が、池袋まで歩くよりも何かと都合がいい。次は、このルートで来て、これも今回発見した茗荷茶屋+Chachat でお昼を食べることにしよう。(ゆ)
西嶋徹: contrabass
shezoo: piano
セット・リスト
A
1. Fluid / 西嶋徹 / 『空隙』
2. Sky mirror / shezoo / 『天穹の鏡』
3. 大きな箱 / 西嶋徹 / 『明日から来た犬』
4. Dies Irae for Gods' Bones / shezoo / 『終焉の日』
5. 砂漠の狐 / shezoo / 『ほんとうにたいせつなもの』
6. DUNES / 西嶋徹 / 『灰色の風』
B
1. O alter Duft/ Schonberg / 『月に憑かれたピエロ、故郷に』
2. 12 cuartos / 西嶋徹 / 『望蜃館』
3. Lotus flower / shezoo / 『けがれた世界の清らかな』
4. Muro de Stono / 西嶋徹 / 『ソフィーの庭』
5. Moons / shezoo / 『月はいくつある』
6. 千鳥の空 / 西嶋徹 / 『おかえり』
2022-07-17, エル・チョクロ、雑司ヶ谷、東京
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