07月19日・火
終日、雨が降ったり止んだり。雨雲レーダーでみると、相模湾のあたりに黄色や赤の雲の帯が東西に伸びている。東は房総、三浦両半島の半ば、西は伊豆半島の付け根のあたりが覆われている。雨は強くなく、スポーツセンターのテニスコートでは、遊んでいる人たちも何組かいるくらいだが、こういう雨は歩くととりわけ速歩の時に顔に当るので歩きたくはない。郵便局と公民館への往復に止める。それだけで汗びっしょり。
公民館で1冊だけなぜか遅れていた井上ひさし『四千万歩の男』講談社文庫版第一巻を受け取る。これでようやく読みだせる。2008年04月、初代 Apple Watch を手に入れてつけだした記録で、今月初め、2,900万歩にこぎつけた。3,000万歩は順調にいけば10月半ば。4,000万歩は順調にいけば2026年。計測開始から18年。伊能忠敬は4,000万歩を17年で歩いている。1日平均6,443歩。そう多くもなさそうだが、忠敬は二歩一間で距離を測りながら歩いているし、いたるところで測量してもいる。
井上はこの忠敬の行為を愚直な意志のおかげとするが、人間、意志だけでこんなことはできない。こうすることが何らかの形で忠敬には歓びだったはずだ。愉しかったはずだ。かつての国内の国鉄路線全線乗車をした宮脇俊三に通じるところもある。井上も対象に倣って愚直に書いたというが、忠敬の細かい日常の一挙手一投足を書くことが愉しくなっていったにちがいない。いくら恰好の資料があるといっても、愉しくなければ、こんなに長くは書けまい。『四千万歩の男』は文庫版どれも600ページ超、5冊で3,200ページを超える、日本語では珍しい部類の長篇。井上の作品としても最長だろう。
文庫版第五巻巻末に著者自筆年譜がある。1977=昭和52年02月、著者43歳までのものではあるが、たいへんに面白い。続きがどこかにあるならぜひ読みたい。誕生ののっけから面白いが、最高なのは、1974=昭和49年04月「日本亭主図鑑」をめぐる騒動。
「ワイセツ罪で逮捕されたストリッパーと共闘もできずに、なにが女権論者か」という著者の問いに対してここでいう「女権論者」も答えているはずで、その答えは知りたい。
一方で、「女性にとって男性は対立物である、と考えるのは浅はかな二元論である。むしろ、世の中は、"賃金を払うもの" と "賃金をもらうもの" とに分かれていることに早く気づき、ともに手をたずさえて、"賃金を払うもの"と対抗しようではないか」という著者の訴えはまことに理にかなっているのだが、一点、見逃しているところがある。われらが国の男性は女性を前にすると、自分は "賃金を払うもの" であると思いこむ習性がある。この反応は後天的なものではあるかもしれないが、幼少時から刷りこまれているので、その根っ子はほとんど先天的な深さにまで達している。男性自身、そう反応していることを自覚しない。あなたも "賃金をもらうもの" ではないかと指摘すると、バカにするのかとキレたりもする。女性たちはそのことを嫌というほど思い知らされている。その男性からそんな呼びかけをされても、信用するわけにはいかない、と思うのは無理もない。
男性のその習性になぜ井上は気づかず、あたしは気づいているのか。それが年の功というものだろう。人間年をとると、性による違いが小さくなる。ともに無性に近づく。すると自分の若い頃の男性としてのふるまいが少しは客観的に見えてくる。井上も晩年にはわかっていたはずだ。
まあ、このことについては「日本亭主図鑑」を読んで、井上が上記の訴えをどのような形でしているか、確認してからにしよう。
%本日のグレイトフル・デッド
07月19日には1974年から1994年まで5本のショウをしている。公式リリースは4本、うち完全版2本。
0. Keith Godchaux Born
1948年のこの日、キース・ガチョーがシアトルに生まれる。1980年07月23日、マリン郡で交通事故で死去。
1971年09月にバンドに参加。ピアノ、キーボード担当。同年10月19日ミネアポリスで初ステージ。1979年02月17日を最後のステージとしてバンドを離脱。
1971年09月にバンドに参加。ピアノ、キーボード担当。同年10月19日ミネアポリスで初ステージ。1979年02月17日を最後のステージとしてバンドを離脱。
グレイトフル・デッドの音楽は歴代の鍵盤奏者によって性格が決定される。初代ピグペンではブルーズ・ロックが基調だったものが、キースによってより幅の広い、多彩なものとなり、他のいかなるロック・バンドからも際立つグレイトフル・デッド・サウンドを形成する。ブルーズが全く消えるわけではないが、深く埋め込まれてほとんどそれとはわからなくなり、代わってカントリーとロックンロール、それにジャズが基調となる。
ガルシアは偉大なプライム・ムーヴァー、第一発動者ではあったが、そうあり続けるために、自分の投げたものを受け止め、投げ返す相手を必要とした。ウィア、レシュ、クロイツマン、ハートは各々に重要な相手ではあったが、ガルシアが最も頼りにしていたのは鍵盤奏者である、というのがあたしの見立てだ。鍵盤奏者の出来如何によってその日のガルシアの調子が決まると言ってもいいくらいだ。他のメンバーの演奏にももちろん耳は傾けていたが、ガルシアのギター、とりわけそのソロは、鍵盤との対話だ。この形を開発し、展開してゆく、その相手がキースだった。ピグペンとの間ではそういう対話がまず無い。ピグペン時代のガルシアのソロは、鍵盤が相手ではなく、ウィアやレシュ、ドラマーたちに投げかけている。キースが登場するにいたって、ガルシアはインスピレーションを引き出すきっかけとして、キースの演奏を使うようになる。あるいは霊感の湧き出し方を測る物差し、さらには落ちないための支えともしてゆく。そして鍵盤奏者に頼るこの形は最後まで続くことになった。デッドに鍵盤奏者が必須だったのは、誰よりもガルシアが鍵盤奏者を必要としていたためである。
ガルシアがなぜ鍵盤奏者をソロの相手にしたか。1970年から Howard Wales, 続いて Merl Saunders と出会い、セッションをしたことがきっかけかもしれない。あるいは元々ガルシアには鍵盤奏者への嗜好があって、そうしたセッションを始めたのかもしれない。ソーンダースとの演奏をするようになって、ガルシアのギターは変わる。ソーンダースに「音楽」を教えられたことをガルシアは回想している。ギター・ソロを導き出す役割をデッドの中の鍵盤奏者に求める時、ピグペンでは役不足だったのだ。というよりも、ピグペンのオルガン演奏を形成するものは、すでにガルシアの中にもあるので、対話にならなかったのだろう。対話の相手になるには、自分の中には無いものが相手に有る必要があった。
キースの演奏の水準は参加直後の1972年のヨーロッパ・ツアーと1976年夏の復帰直後をピークとする。後者では複数の曲でソロをとってもいて、かなり良い。それが1978年になって急転直下したようにみえる。かれのソロが必ず入る〈Big River〉を年代順に聴いてゆくと、78年の後半からが深刻だ。デッドのように毎回、違うことをするというのは、もちろん容易なことではない。楽曲でソロをとる場合、創造性がモロに問われる。ガルシアのギター・ソロの変化はその意味では驚異的だ。それは才能だけではなく、自分の中の蓄積を絶えず補給すること、つまりインプットに努めていたことを意味する。ガルシアは音楽はおそろしく幅広いものを聴いていたし、映画も見たし、本も読んだ。あらゆる形で常にインプットしていた。キースの場合、そうしたインプットが不足していったのだろう。そうすると出るものも凡庸になるし、変化も小さくなる。デッドにあって、そういうことは逆に目立つ。当然自覚されたはずで、それを補うために、キースがとった一つの方策がガルシアのソロをコピーすることだった。当然これはガルシアが最も嫌がることだ。そうした音楽の上での不調はプライヴェートにも反映したのだろう。ドナとの関係も破綻してゆき、それがまたバンド活動に悪影響を及ぼしている。結局、1979年初頭、話合いの結果、ガチョー夫妻がそろってバンドを離れることに一同合意する。
キースにはいくつか好きなレパートリィがあったようだ。デッドの他のメンバーはあまり好き嫌いは出さない、というより嫌いなものは演奏しないが、キースの演奏には嫌いなものは出なくても、好きなところは出る時がある。〈Cassidy〉〈Friend of the Devil〉や〈Scarlet Begonias〉〈Help On The Way〉が代表的で、これらの曲での演奏はほぼ常に活き活きしている。〈Playing in the Band〉 は好みだが 〈Dark Star〉 は得意ではない。ロックンロールの曲でかれのピアノがソロをとることが多いが、あまり好きではないように聞える。
1. 1974, Selland Arena, Fresno, CA
金曜日。夏のツアー後半のレグのスタート。08月06日ルーズヴェルト・スタジアムまでの9本。
第二部、レシュとネッド・ラギンの〈Seastones〉後半にガルシア参加。
全体が《Dave's Picks, Vol. 17》でリリースされた。
とりわけ、第二部〈Weather Report Suite〉から〈Eyes Of The World〉へのジャムが異常なまでに良い。
2. 1987 Autzen Stadium, University of Oregon, Eugene, OR
日曜日。20ドル。開演2時。ディランとのツアーの一環。一部、二部、デッド。三部がデッドをバックにしたディラン。
第三部10曲目〈Queen Jane Approximately〉が《Dylan & The Dead》でリリースされた。
第三部オープナーで〈Maggie's Farm〉がデビュー。デッドはディラン抜きでもこの年その後数回演奏し、1990年10月に復活させて、1995年04月05日まで計43回演奏。デッドでのヴォーカルはウィア。スタジオ盤収録無し。原曲は1965年の《Bringing It All Back Home》所収。
〈Queen Jane Approximately〉かなりゆったりとしたテンポ。コーラスはガルシアとミドランド。最後、ディランはコーラスを歌わず、ガルシアとミドランドだけ、小さく繰返すのがかわいい。ディランもノッている。
1989, Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI
水曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。
第二部オープナー〈Box of Rain〉が《Fallout From The Phil Zone》で、第一部クローザーへの3曲〈West L.A. Fadeaway; Desolation Row> Deal〉が《Downhill From Here》で(動画のみ)、第二部2曲目の〈Foolish Heart〉が《Beyond Description》所収の《Built To Last》のボーナス・トラックで、リリースされた。
〈Box of Rain〉〈Foolish Heart〉どちらも力演。
前者では "box of rain" のフレーズの入る行をウィアとミドランドがコーラスを合わせるのが良い。レシュはそこはコーラスに任せる。
後者はすばらしい演奏。ガルシアも熱唱するし、後半のジャムが最高。ミドランドがシンセサイザーで素早いパッセージを連発する。この曲はミドランドあってのものという気がしてくる。
いずれ全体を出して欲しい。
1990 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
木曜日。開演7時。このヴェニュー2日連続の2日目。
2曲目〈They Love Each Other〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、アンコール〈U.S. Blues〉を除く全体が《Dave's Picks, Vol. 40》で、その〈U.S. Blues〉が《Dave's Pick, Vol. 41》でリリースされた。
のっけから前日より良いとわかる。オープナー〈Jack Straw〉の間奏でのガルシアのギター。もっとも、前日の方が良いという人もいる。とまれ、この2日間はミドランド・デッドの最後の輝きとして、繰返し聴かれるに値する。
1994 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
火曜日。24.50ドル。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの初日。
第一部4・5曲目〈Big River> Maggie's Farm〉でウィアがアコースティック・ギター。
可もなく不可もないショウらしい。(ゆ)
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