08月22日・月
図書館上の寿荘で COVID-19のワクチン接種4回目。モデルナ。比較的混んでいて、15分前に入って、接種そのものは1402終了。1417まで休憩して出る。注射された左腕上腕の筋肉、力が入ると痛い。頭がぼんやり。ものごとを考えられず。早々に寝る。
夜、寝る前に書庫の窓を閉めようとすると、草雲雀が鳴いている。
%本日のグレイトフル・デッド
08月22日には1968年から1993年まで4本のショウをしている。
1947年のこの日、Donna Jean Godchaux 旧姓 Thatcher がアラバマ州フロレンスに生まれた。夫キースをジェリィ・ガルシアに引き合わせてバンドに入れた後、コーラスとして参加を要請され、1971年大晦日に初ステージ。1979年02月17日を最後に、キースとともに離脱。
グレイトフル・デッドのメンバーの紅一点。デッドはジファーソン・エアプレインとは同僚だったし、ジャニス・ジョプリンとも仲が良かったが、女性を積極的に登用しようとはしなかった。60年代のイメージとは裏腹に、デッドの現場はかなりマッチョで、ウーマン・リブの考えからは程遠かった。バンド・メンバーのパートナーたちも、裏で各々のメンバーを支える役割に徹している。もっとも、サン・ラファルのオフィスを預るスタッフも含めて、この女性たちはかなり優秀で、彼女たちのサポートが無ければ、デッドは早々に潰れていただろう。見方を変えれば、そうした優秀な女性たちを周囲に集めたという点では、デッドのメンバーにも甲斐性があったと言えよう。
一方でガルシアは意志の強い女性に弱いところがある。ライヴ会場でドナがガルシアの袖をつかんで、夫のキースを売り込んだ、というより捩じ込んだという話は、相手がガルシア以外では成立しなかったろう。ピグペンに代わる鍵盤奏者を見つけるのが焦眉の急になっていたという事情はあったにしても、である。
ドナのおかげで、デッドはキースとともにドナという女性シンガーを手に入れ、それによってピグペンのバンドから決定的に離陸する。ドナの声は70年代デッドを特徴づける。〈Playing in the Band〉や 〈The Wheel〉、あるいは〈Looks Like Rain〉、〈Danicn' in the Street〉などの曲はドナの声が入ることで形を整える。一方〈Cassidy〉〈The Music Never Stopped〉などはドナの声を前提に作られているように聞える。あるいは1976-10-09 オークランド(Dick's Picks, 33)での〈One More Saturday Night〉のように、後ろで流す彼女のスキャットがうたに新たな様相を加えることもあった。
女声が入ることは、音楽をカラフルにする。音の性質が異なるし、発想も異なる。集団での演奏を旨とするデッドにあっては、他のメンバーとは違う角度からアプローチする。デッドを貫く「双極の原理」がここでも作用して、ドナの声とうたは、ジェリィ・ガルシア・バンドとは異なってバック・コーラスに留まらず、デッドの音楽をより複雑で豊饒なものにしている。ガルシアとウィアの声は必ずしも相性が良いとはいえないが、ドナの声がその間にはいって両者をつなぐ。それはまた他のメンバーへの刺激ともなった。ドナが参加していた間に1972年と1977年の2度、バンド史上のピークが生まれるのは偶然ではないだろう。そして全体としてみても、70年代はバンドが最も幸福な10年間だ。
ドナの歌唱スタイルは1974〜76年の休止期を境に変わる。休止期前は役割を定めかねているところがある。専用のモニター・スピーカーが用意されず、自分の声が聞えないので、とにかく大きく張りあげたという事情もあるようだ。休止期以後、それまでレシュが担当していた高域のハーモニーを肩代わりする。それによって力を抜くことを覚え、上記のスキャットのように、音楽の流れに見事に溶けこみ、ふくらませるようになる。参加する曲も大幅に増え、参加の仕方もより重要になる。また、ハーモニーは必ずしも上ではなく、ウィアが上でドナが下になることもある。1970年代後半のコーラスの美しさはデッドのキャリアの中でも輝いている。ドナを嫌うデッドヘッドは少なくないが、この時期には皆沈黙する。
1. 1968 Fillmore West, San Francisco, CA
木曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。カレイドスコープ、アルバート・コリンズ共演。3ドル。
第一部3曲、第二部6曲のセット・リストがあるが、テープによるものらしい。第一部はもう1曲やったという情報もある。
選曲、演奏は1969年のパターンが始まっている。
2. 1972 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA
月曜日。このヴェニュー4本連続の2本目。4.50ドル。開演7時。
これは DeadBase の編者の一人 Mike Dolgushkin の最初のショウで、そのレポートを書いている。これを見るまでに、ドルガシュキンはソロも含めてレコードは全部買い、テープも少し聴いていたから、何をやるかはだいたいわかっていた。それでも第一部後半の〈Playing In The Band〉と第二部の〈The Other One〉には有頂天になった。会場に入る前に比べて、一千倍も気分が良くなっていた。
3. 1987 Calavaras County Fairgrounds, Angel's Camp, CA
土曜日。このヴェニュー2日連続の初日。サンタナ、デヴィッド・リンドレー&エル・レヨ・エックス前座。開演3時。
第一部クローザー〈Good morning Little Scoolgirl〉〈In the Midnight Hour〉にサンタナが参加。
ショウ自体はすばらしい。
開演前、近くで第二次世界大戦中の双発機による模擬空中戦のショーがあり、ステージ裏に二人、パラシュート降下した。これに対する歓声を自分に対するものと勘違いしてガルシアは張り切った。
場所はオークランドのほぼ真東200キロの山の中の町。ここで 'Mountain Aire' という名称で10年続いた一連のコンサートの最後。
4. 1993 Autzen Stadium, University of Oregon, Eugene, OR
日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。インディゴ・ガールズ前座。26ドル。開演2時。
90年代ベストの1本、と言われる。オープナーの〈Jack Straw〉でギターの調子がおかしく、ウィアはギターを振り回して八つ当たり?したらしい。(ゆ)
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