西欧近代科学はこの宇宙の年齡を約143億年とつきとめた。人類の年齡はせいぜい100万年前。自分たちが住んでいる世界を把握・理解しよう、あるいはできるようになってからとすると、10万年ぐらいか。つまり、宇宙は人類とは無関係に存在している。人類が認識しようがしまいが、宇宙は存在していたし、いるし、これからもいくだろう。もっともそのことを科学がそれこそ認識しはじめたのは、せいぜいがここ200年ぐらいだ。
一方で、その10倍、2,000年ほど前に、宇宙は人間の認識によって存在すると捉え、まったく独力で、というのは専用の器具など使わずに、観察と論理だけで、認識によって捉えた宇宙の全体を構築した人たちがいた。ゴータマ・ブッダの仏教から出てきた「説一切有部」というグループの人びとだ。現在のカシミール、ガンダーラのあたりにいたらしい。この人びとが作った一連の書物が「アビダルマ」と呼ばれるものの半分をなす。個々のケースに即して教えたために、実際的断片的だったゴータマ・ブッダの教えを、普遍的に体系化する必要が出てきて、それを試みた書物群だ。その代表作に『アビダルマコーシャ』がある。漢訳タイトルの『具舎論』の名の方がわが国では通りがいい。世親=ヴァスバンドゥが書いたとされる。内容は「説一切有部」の主流にしたがう、仏教の目標である解脱=涅槃=悟りにいたるマニュアルである、と佐々木閑はいう。
エヴェレストに登るためのマニュアルのようなものだというのだ。そこに書かれていることは、まず第一にエヴェレストとその周辺のヒマラヤ地域についての地理、気象をはじめとする状況だ。その後に必要な装備、事前の訓練をはじめとする準備、そして実際の登山のやり方、となる。
『具舎論』も同様に、「悟りの山」登頂を目指す者のために、まず悟る場の状況が説明され、悟るために必要な装備、訓練のやり方が説明され、それからいくつものレベルを登ってゆく過程が述べられる。この通りにやっていけば、誰でも悟れる、というわけだ。
ところで悟るのはこの世でなされる。死ぬ時とか死んだ後での話ではない。仏教はもともと生きながらにして悟ることが目標で、ゴータマ・ブッダはそれを成しとげた。そして、自分がなしとげた悟りにいたるやり方を、やはり生きているうちに悟りたいと願う人びとに教えた。悟るすなわち涅槃に入るのは死んだ時としたのは後に出てきて中国、朝鮮、日本に伝わるいわゆる大乗仏教だ。
世親は大乗の完成者の一人とされるが、『具舎論』ではそういう自分の考えは一応抑えて、それ以前の説一切有部の理論を説いている。だから、悟るのはこの世での話で、となると悟る場の状況というのはつまりこの世の全体、全宇宙がどうなっているか、ということになる。その説明だけで『具舎論』の半分を占める。
『仏教は宇宙をどう見たか』はこの『具舎論』前半部分の記述を、仏教の宇宙のとらえ方に無知な人間に解説したエントリー本、入門書ということになる。使われている譬喩や説明の仕方、たとえば仏教用語をより現代的な表現で置き換える手法によって、アビダルマ仏教の宇宙の全体像をとても愉しく学ぶことができる。
二千年前のインドでは宇宙が人類より古いとか、人間とは無関係に存在しているなどとはわからない。説一切有部の人びとは人間が認識できる宇宙を全体と考え、その全体像を描いた。その際、ただ漠然と眺めたり、あることないこと考えたりしたわけではない。宇宙の全体像を描くのは、悟るためである。悟るための修行に必要なものとして描いた。悟るために修行を積んでゆくと見えてくる宇宙であり、悟りを目指すところから感じとれる宇宙だ。その点では、至極実際的でもある。修行してゆくと、どう見てもこういう風になっているとしか考えられないことがあったり、あるいは実際にそう感じとれる感覚があったりする。それを組み合わせ、足らないところ、隠れているところを推量し、論理の筋を通し、それをまた修行で確認し、という作業を重ねて構築したのが、アビダルマの宇宙だ。望遠鏡のような器具は使っていないかもしれないが、修行するココロとカラダは目一杯使っている。この宇宙は空想の産物ではなく、実際のデータの上に成り立っている。
こうして現れるアビダルマの宇宙は、いやあ、面白い。どこが面白いか。どこもかしこも面白い。どう、面白いか。さあ、それが難しい。とにかく、ほとんど一気読みしてしまった。
この世のものはほとんどが虚構ではある。仏教用語では「仮設」と書いて「けせつ」と読ませるのがこの虚構の存在だ。「家」「自動車」「地球」「私」「自我」、みんな仮設だ。表面に見えている、感じられるのはほとんどすべて仮設、この世は虚構世界だ。しかし、その奥に世界を形成する基本的な実在要素がある。これが75ある。宇宙は75の基本要素がさまざまに組合されてできている。繰返すが、「私」「自我」無意識も含めた我はその75の中には無い。「私」は虚構なのだ。これが面白いことの第一点。
面白いと思ったことの第二点は、この世界は瞬間瞬間に生成し、また消滅している、ということ。「刹那」はもともと仏教用語で、百分の1秒に相当するそうだが、とにかく人間の感覚では捉えられないその刹那の間に、全宇宙が生まれ、消滅している。それを繰り返している。
これを説明する映写機の譬喩は秀逸だ。映画のフィルムのひとコマずつはそれぞれ違う、まったく別のものだ。コマとコマの間の変化はごく小さいが、まったく同じではなく、まあ、時にはまったく同じこともあるだろうが、まずたいていは違っている。これが1秒に24コマ送られることで、コマの静止画が動画として見える。1コマは百分の4秒になる。全宇宙が巨大な映写機で映写される3D映画なわけだ。
普通の映写機と違うところがサイズは別としてもう一つある。映写機で映写されるフィルムは下に出てゆくのは1本のフィルムだが、上から入ってくるのは1本のフィルムではない。今映っている瞬間は現在だ。下に出ていったコマは過去である。上は未来になる。未来はあらかじめ決まっているわけではない。映写機の譬喩を使うなら、上には巨大な袋があって、その中ではばらばらなコマが舞っている。現在になる可能性のあるすべての未来がコマとして舞っている。中には絶対に現在にはならないと定まったコマもある。そのうち、現在になる可能性の最も大きなコマが袋の出口に近付いて、映写機のランプに照らされる1刹那前の位置、「正生位」にはまる。次の刹那に下に送られて現在となり、その時には次のコマが正生位にハマっていて、次の刹那には現在だった刹那は過去となり、正生位にハマっていたコマが降りて現在となる。
このどこが面白いかというと、まず未来も実在していること。現在がどうなるかは1刹那前に決まっていること。そして時間が実在しないこと。コマ、というのは75の実在要素すなわち「法=ダルマ」のうち、何らかの作用をする72の要素から成る全宇宙の姿だが、このコマの未来から正生位、現在、過去への移動を時間の経過と感じているだけなのだ。
いったいどういう修行をすれば、こういう構造が見えてくるのか、想像もつかないが、しかし、これは無から思いついたことではない、というところがまた面白い。ある時、修行の中で実際にそう見えた人が複数いたのだ。
面白いことをもう一つ。さっきココロとカラダと書いたが、アビダルマの宇宙ではあたしらが今捉えているような精神と肉体の分け方はしない。だいたい、どちらも実在の要素=法ではないから、もしあるとしても虚構だ。ではどう見るかというと、認識を中心に捉える。眼、耳、鼻、舌、身=皮膚の五つの受容器官と、意と呼ばれる五感以外の受容器官の六つの器官によって捕捉されたものをそれぞれに景色、音、匂い、味、接触・痒み・痛み・温度、記憶・思考として認識する作用が起こるのが「心=しん」であり、この認識に対する反応が起きるのが「心所=しんじょ」になる。このふたつは人間というまとまりの内部のどこかにある。どことは言えない。
ここでまた面白いのは、認識にはいわゆる外界からの刺激によるものだけでなく、我々が体内感覚と考えているものも含まれる。筋肉痛とか空腹感とか膀胱が一杯だとかいう認識、さらにはそうした認識に対する反応も、眼に映るものや匂いなどとまったく同列に扱われる。
ここは案外わかりにくいところだ。巻末の附論「仏教における精神と物質をめぐる誤解」にあるように、仏教学者として相当な業績をあげている人でさえ、うっかりすると西欧的な肉体・精神の捉え方に引きずられる。肉体・精神の捉え方はそれだけ吸引力が強いとも言えるけれど、その二分法はアビダルマ宇宙には存在しない。この宇宙は修行者が捉え、修行者のために説かれている。修行者は自己の身体的認識器官を制御し、それによって心・心所の状態を変移させ、煩悩と呼ばれる一群の作用を止めていって、最終的に煩悩がまったく起こらない状態にもってゆく。その状態が涅槃、悟りの山の頂上だ。ここにあるのは人間というひとまとまりの仮設だけで、肉体という「物質」とそれに宿る精神というようなものはどこにも無い。これもまた面白い。
他にも世親が自分のアイデアとして述べている「相続転変差別=そうぞくてんぺんしゃべつ」がカオス理論そのままだとか、仏教にとっての善悪は我々の倫理上のものとは違い、悟るのに役立つ、悟りに近づくことを助けるものが善であり、悟りの邪魔をするものが悪になる、とか、面白い話が続出する。後者は、ここで使われている例を引用すれば、坂道で重い荷車を押している老人を助けることは「業」を生み、悟ることのハードルを上げるから善ではない、というのだ。
仏教が葬式や仏事のためののほほんとしたものではなくて、切実な必要に応じようとするところに生まれ、精緻でラディカルな思想を生んできたことを知ったのは今年最もスリリングな収獲で、この本はその収獲をさらに豊かにしてくれた。この本にはその前身である『犀の角たち』があり、現在は『科学するブッダ:犀の角たち』として文庫にもなっている。これまた面白そうだ。本書も文庫だし、今回は図書館から借りたが、この内容なら買った方がいいとも思う。繰り返し参照したくなるはずだ。
それにしてもこのアビダルマ宇宙は、サイエンス・フィクション、ファンタジィの世界設定としても、ちょっとこれ以上のものはないんじゃないか。これは世親が一人で作ったものではなくて、説一切有部の学僧たちが、それも数百年にもなろうかという時間をかけて構築したものだ。いかに知的巨人でも、単独でこんなに完璧なものはできない。もちろん、仏教修行者にとってはリアルな現実そのものなわけだけれど、悟るのは到底ムリなあたしなどからすると、そういう「使い方」が湧いてきてしまう。誰か、これを使って書かないかなあ。
例えばコスモス映写機の未来の袋の中から望ましい未来のコマを引っぱってくる装置ないし方法を発明するとか、そういう能力を修行によって身につけるとか。「望ましい未来を引き寄せる能力」というのは、ビショップの『時の他に敵なし』の目立たない方のアイデアで、実はこちらが小説の本来の目的ではないかと思えるものだけれど、ビショップがこの映写機のアイデアを読んだわけではないだろう。このアイデアはわが国仏教学の先達の一人、木村泰賢 (1881-1930) が提示したものだから。ビショップは独自に思いついたか、あるいは似たようなアイデアをどこかで見たか。
%本日のグレイトフル・デッド
08月28日には1966年から1988年まで8本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1966 I.D.B.S. Hall, Pescadero, CA
日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。セット・リスト不明。
自転車レースと「フォーク・ロック・ダンス」の2日間のイベントの2日目。
2. 1967 Lindley Meadows, Golden Gate Park, San Francisco, CA
月曜日。ヘルス・エンジェルスのメンバー Chocolate George 追悼パーティーに出演。ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー共演。開演1時。セット・リスト不明。
手書きらしいポスターの裏には "Chocolate George Will Be Forever..." と書かれている。デッドがここで演奏したことで、確かにその名は長く記憶に留められることになった。
3. 1968 Avalon Ballroom, San Francisco, CA
水曜日。
ほとんど《Live Dead》そのもののセット・リスト。
4. 1969 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA
木曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。この日は Mickey Hart & the Hartbeats 名義らしい。ウィアとピグペン抜きで、ハワード・ウェールズが鍵盤で入っている。
1時間半弱のテープがある。
DeadBase XI の Paul Scotton のレポートによれば、ここは狭いホールの両端に高さ50センチほどのステージがあり、片方でバンドが演奏している間、もう片方でセッティングされていた。バンドの演奏が終ると、聴衆は回れ右をして次のバンドを聴く形。
出演はフェニックス、コマンダー・コディ、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、デッドの順。演奏していないバンドのメンバーが聴衆に混じって聴いていた。スコットンはそれと知らずに、たぶんコマンダー・コディの演奏中、レシュとおしゃべりしていた。デッドを見るのは初めてで、デッドが出てもそれとはわからなかった。
5. 1970 Thee Club, Los Angeles, CA
金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。セット・リスト不明。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ共演。
6. 1981 Long Beach Arena, Long Beach, CA
金曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。
第二部5曲目、drums 前で〈Never Trust A Woman〉がデビュー。ミドランドの作詞作曲。1990年07月23日まで計39回演奏。"Good Times" または "Good Times Blues" と呼ばれることもある。
全体にすばらしいが、とりわけ第二部が「モンスター」だそうだ。
7. 1982 Oregon Country Fairgrounds, Veneta, OR
土曜日。1972年08月27日のショウの10周年記念 "The Field Trip" というイベント。ロバート・クレイ・バンド、The Flying Karamazov Brothers、Strangers With Candy 共演。開場午前8時。開演午前10時。終演夕暮。
前の晩と翌日は雨が降ったが、この日だけは晴れて暖かかった。
第二部オープナーで〈Keep Your Day Job〉、3曲目で〈West L. A. Fadeaway〉がデビュー。
〈Keep Your Day Job〉はハンター&ガルシアの曲。1986年04月04日まで57回演奏。スタジオ盤収録無し。この曲はデッドヘッド、とりわけトラベルヘッドたちのライフスタイルを真向から批判するものととられて、猛烈な反発をくらい、レパートリィからはずされた。それでも4年間演奏しつづけているのは、さすがと言うべきか。
アプローチとしては〈Estimated Prophet〉と共通なのだが、こちらはあからさまに、いい加減定職についたらどうだ、と聞えることは確か。もっともトラベルヘッドの一部の生き方に目に余るものがあったことも同じくらい確かだろう。デッドヘッドとて人間の集団、中にはひどい人間もいたはずだ。
〈West L. A. Fadeaway〉もハンター&ガルシアの曲。1995年06月30日まで、計140回演奏。スタジオ盤は《In The Dark》収録。ボブ・ディランがコンサートでカヴァーしたことがあるそうだ。ディランも1枚ぐらい、デッドのカヴァー集を出してもいいんじゃないか。
The Flying Karamazov Brothers は1973年結成のジャグリングとお笑いのグループ。
Strangers With Candy はテレビのお笑い番組で、ポスターには名前があるが、どういう形で出たのかは不明。
8. 1988 Autzen Stadium, University of Oregon, Eugene, OR
日曜日。開演正午。ロバート・クレイ・バンドとジミー・クリフ前座。2番目に出たジミー・クリフは8歳くらいの息子を連れてきて、1曲共演した。どのセットも非常に良かったそうだ。(ゆ)
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