まさか、こんなものが出ようとは。いや、その前にこんな録音があったとは、まったく意表を突かれました。Bear's Sonic Journal の一環として出たこの録音は1973年10月01日と1976年05月05日のサンフランシスコでのチーフテンズのライヴの各々全体を CD2枚組に収めたものです。

 このリリースはいろいろな意味でまことに興味深いものであります。

 まず、チーフテンズのライヴ音源として最も初期のものになります。それも1973年、サード・アルバムの年。デレク・ベルが加わって、楽器編成としては完成した時期。ライナーによれば、パディ・モローニの手許には1960年代からのアーカイヴ録音のテープもあるようですが、RTE や BBC も含めて、チーフテンズのアーカイヴ録音はまだほとんど出ていません。これを嚆矢として、今後、リリースされることを期待します。

 アイリッシュ・ミュージックのライヴのアーカイヴ録音は RTE や BBC などの放送用のリリースがほとんどで、1970年代前半のコンサート1本の全体が出るのは、あたしの知るかぎり、初めてです。

 次にこの1973年のアメリカ・ツアーの存在が明らかになり、それもその録音、しかも1本のコンサート全体の録音の形で明らかになったこと。チーフテンズが初めて渡米するのは1972年ですが、この時はニューヨークでのコンサート1回とラジオ、新聞・雑誌などのメディアでのプロモーションだけでした。公式伝記の『アイリッシュ・ハートビート』ではその次の渡米はここにその一端が収められた1976年のもので、1973年の初のアメリカ・ツアーは触れられていません。というよりも、1973年そのものがまるまる飛ばされています。

 ここに収められたのは、急遽決まったもので、すでに本体のツアーは終っています。サンフランシスコの前はボストンだったらしく、あるいはアメリカでもアイルランド系住民の多い都市を2、3個所だけ回ったとも考えられます。

 そして、これはより個人的なポイントですが、ジェリィ・ガルシアとチーフテンズの関係がついに明らかになったこと。もう一人のアメリカン・ミュージックの巨人フランク・ザッパとパディ・モローニの関係は『アイリッシュ・ハートビート』はじめ、あちこちで明らかになっていますが、グレイトフル・デッドないしジェリィ・ガルシアとのつながりはこれまで見えていませんでした。

 このライヴはその前日、ベイエリアの FMラジオ KSAN にチーフテンズが出演した際に、ジェリィ・ガルシアがそこに同席し、チーフテンズの演奏に感心したガルシアが、翌日の Old & In The Way のコンサートの前座に招いたのです。ガルシアはチーフテンズの泊まっているホテルに、ロック・ミュージシャンがよく使う、車長の長いリムジンを迎えによこし、これに乗りこもうとしているパディ・モローニの写真があるそうな。Old & In The Way のコンサートはベアすなわちアウズレィ・スタンリィが録音したものがライヴ・アルバムとしてリリースされてブルーグラスのアルバムとしては異例のベストセラーとなり、2013年には完全版も出ました。その前座のチーフテンズのステージも当然ベアは録音していた、というわけです。

 アウズレィ・スタンリィ (1935-2011) 通称ベアは LSD がまだ合法物質だった1960年代から、極上質の LSD を合成したことで有名ですが、グレイトフル・デッド初期のサウンド・エンジニアでもあり、またライヴの録音エンジニアとしても極めて優秀でした。1960年代から1970年代初頭のデッドのショウの録音で質のよい、まとまったものはたいていがベアの手になるものです。また音楽の趣味の広い人でもあり、デッドだけでなく、当時、ベイエリアで活動したり、やって来たりしたミュージシャンを片っ端から録音しています。その遺産が現在 "Bear's Sonic Journal" のシリーズとして、子息たちが運営するアウズレィ・スタンリィ財団の手によってリリースされていて、チーフテンズのこの録音もその一環です。

 実際この録音もまことに質の高いもので、名エンジニアのブライアン・マスターソンが、この録音を聴いて、ミスタ・スタンリーにはシャッポを脱ぐよ、と言った、と、ライナーの最後にあります。

 ガルシアがラジオに出たのは、当時デッドのロード・マネージャーだったサム・カトラーが作ったツアー会社 Out Of Town Tours で働いていたアイルランド人 Chesley Millikin が間をとりもったそうです。

 ガルシアはデッドの前にはブルーグラスに入れあげて、ビル・モンローの追っかけをし、ベイエリア随一のバンジョー奏者と言われたくらいです。当然、ブルーグラスのルーツにスコットランドの音楽があり、さらにはカントリーやアパラチア音楽のルーツにアイリッシュ・ミュージックがあることは承知していました。チーフテンズのレコードも聴いていたでしょう。当時クラダ・レコードはアメリカでの配給はされていませんでしたが、サンフランシスコにはアイリッシュ・コミュニティもあり、アイルランドのレコードも入っていたはずです。母方はアイルランド移民の子孫でもあり、ガルシアがアイルランドの伝統音楽をまったく聴いたことがなかったとは考えられません。

 少しでも縁がある人間とは共演したがるパディ・モローニのこと、ガルシアやデッドとの共演ももくろんだようですが、それはついに実現しませんでした。デッドの音楽とアイリッシュ・ミュージックの相性が良いことは、Wake The Deadという両者を合体したバンドを聴けばよくわかります。

 The Boarding House でのこのコンサートの時にも、チーフテンズと OAITW 各々のメンバーが相手のステージに出ることはありませんでした。アイリッシュ・ミュージックとブルーグラスでは近すぎて、たがいに遠慮したのかもしれません。デッドは後に、セント・パトリック・ディ記念のショウに、カリフォルニア州パサデナのアイリッシュ・バンドを前座に呼びますが、チーフテンズが前座に入ることはついにありませんでした。大物ミュージシャンがデッドの前座を勤めた1990年代でも無かったのは、1990年代前半はアイリッシュ・ミュージックが世界的に大いに盛り上がった時期で、チーフテンズがそのキャリアの中でも最も忙しかったこともあるのでしょう。

 一方、1976年の方は、チーフテンズ初の大々的北米ツアーで、この時のボストンとトロントの録音から翌1977年に傑作《Live!》がリリースされます。そのツアーの1本の2時間のコンサートを全部収めているのは貴重です。チーフテンズはバンドとして、その演奏能力のピークにあります。

 一つ不思議なのは、バゥロンがパダー・マーシアになっていることで、ライナーにあるゴールデン・ゲイト・ブリッジを背景にしたバンドの写真は1976年のものとされており、そこにはパダー・マーシアが映っています。メンバーの服装からしても、10月ではなく、5月でしょう。しかし、このツアーの録音から作られた上記《Live!》ではジャケットにはケヴィン・コネフが入っていて、クレジットもコネフです。

 考えられることはこのサンフランシスコのコンサートはツアーの初めで、まだマーシアがおり、ツアーの途中でコネフに交替して、ボストンとトロントではコネフだった、ということです。

 この時は、ベアはチーフテンズを録るために、会場の The Great American Music Hall に機材を抱えてやってきています。ベア自身、祖先はアパラチアの入植者たちにつながるそうで、マウンテン・ミュージック、オールドタイムなどに対する趣味を備えていました。

 こうしたことは子息でアウズレィ・スタンリィ財団を率いる Starfinder たちによるライナーに詳細に書かれています。このライナーはクラダ・レコードを創設し、チーフテンズ結成を仕掛け、パディ・モローニのパトロンとして大きな存在だったガレク・ブラウンとその家族、つまりギネス家にも光をあてていて、これまたたいへんに興味深い。

 演奏もすばらしい。特に1976年の方は、やはりこの時期がピークだとわかります。チーフテンズの音楽は基本的にスタジオ録音と同じですが、それでもライヴでの演奏は活きの良さの次元が違います。

 ソロもアンサンブルもとにかく音が活きています。たまたまかもしれませんが、あたしには目立って聞えたのがマーティン・フェイのフィドル。いろいろな意味で存在感が大きい。面白いこともやっています。

 加えてデレク・ベルのハープ。ベアの録音はその音をよく捉えています。クライマックスのカロラン・チューンのメドレーの1曲〈Carolan’s Farewell To Music〉のハープ・ソロ演奏は絶品で、こういう演奏を生で聴きたかったと思ったことであります。

 そして、コンサートの全体を聴けるのが、やはり愉しい。構成もよく考えられています。各メンバーを個々にフィーチュアするメドレーから始めて、アップテンポで湧かせる曲、スローでじっくり聴かせる曲を巧妙に織りまぜます。

 何よりも、バンドが演奏を心から愉しんでいるのがよくわかります。パディ・モローニの MC にも他のメンバーが盛んに茶々を入れます。言葉だけでなく、楽器でもやったりしています。皆よく笑います。これを聴いてしまうと、我々が見たステージはもう「お仕事」ですね。

 ゲストがいないのも気持ちがいい。バンドとしての性格、その音楽の特色がストレートに現れています。チーフテンズの録音を1枚選べと言われれば、これを選びたい。

 演奏、録音、そしてジャケット・デザイン、ライナーも含めたパッケージ、まさに三拍子揃った傑作。よくぞ録っておいてくれた、よくぞ出してくれた、と感謝の念が湧いてきます。おそらくパディ・モローニも、同じ想いを抱いたのではないか。リリースの許可をとるためもあって、スターファインダーたちはテープをもってウィックロウにモローニを訊ねます。モローニは近くに住むブライアン・マスターソンの自宅のスタジオで一緒にこの録音を聴いて、大喜びします。モローニが亡くなったのは、それからふた月と経っていませんでした。チーフテンズ結成60周年を寿ぐのに、これ以上の贈り物はないでしょう。(ゆ)