昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。

 1978年からは2本、

29日リリースの 1978-04-21, Rupp Arena, Lexington, KY からの〈Truckin’> Playing In The Band
23日リリースの 1978-05-17, Uptown Theatre, Chicago, IL から〈Lazy Lightning> Supplication〉。

 どちらも04月06日フロリダ州タンパから始まる春のツアー中のショウで、後者の05月17日はツアー千秋楽です。

 この年のできごととしては09月14〜16日のエジプトはギザのピラミッドとスフィンクス脇でのショウがあります。これと並び、時代を画する点ではずっと重要であるものに大晦日、ウィンターランド最後の公演があります。

 1978年は年頭から始動し、01月06日から02月03日まで17公演というツアーからスタートします。ショウの総計は80本。レパートリィは86曲。新曲にはまずバーロゥ&ウィアの〈I Need a Miracle〉、ハンター&ガルシアの〈Shakedown Street〉〈Stagger Lee〉〈If I Had The World To Give〉。ドナの〈From The Heart Of Me〉。〈If I Had The World To Give〉は3回しか演奏されませんでしたが、他はいずれも定番になります。ドナの曲は翌年02月のガチョー夫妻の脱退までではあります。

 11月には《Shakedown Street》がリリースされ、これらの新曲が収められました。名目上のプロデューサーはローウェル・ジョージで、おかげで制作過程はお世辞にも順調とはいかず、おまけに完成前にジョージは自分のバンドのツアーに出てしまいます。これもリリース当初の売行きはさほどよくありませんでした。もっともこの頃にはデッドのショウのチケットの会場周辺のダフ屋による相場は額面の5倍になっています。レコードの売行とショウの人気はまるで別物なのでした。

Shakedown Street (Dig)
Grateful Dead
Grateful Dead / Wea
2006-03-07



 エジプト遠征ではバンドとクルーだけでなく、観客も一緒に行くことになります。初日の最前列には当時のサダト大統領夫人とその取巻きもいましたが、聴衆のほとんどはアメリカやヨーロッパから飛んでいったデッドヘッドと、その時たまたまエジプト周辺にいたアメリカンたちでした。遠征費用を賄うためライヴ・アルバムも企画されていましたが、録音を聴いたガルシアは即座にダメを出します。とはいえ、その後、2008年に出た後ろの2日間の音源の抜粋を聴くと、どうしてこれがアタマからダメだったのか、首をかしげます。

 ウィンターランドのショウは恒例の年越しショウの一本ではありますが、このヴェニュー最後のコンサートとして、まったく特別なものとなりました。「サタデー・ナイト・ライブ」に出演して仲良くなったブルーズ・ブラザーズに加えてニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが前座をつとめ、真夜中に登場したデッドは延々朝まで三部にわたって演奏を続けて、終演後、聴衆にはビュッフェ形式の朝食がふるまわれました。この模様は、少なくともデッドのパートは《The Closing Of Winterland》として CD4枚組、DVD2枚組でリリースされました。一本のショウとしては長いショウの多いデッドのものでも最長の一つです。内容もすばらしい。

グレイトフル・デッド/クロージング・オブ・ウィンターランド【2DVD:日本語字幕付】
グレイトフル・デット
ヤマハミュージックアンドビジュアルズ
2013-12-18



 この年に始まったこととして第二部半ばに drums と space がはさまる形が定まったことがあります。聴衆の一部にはトイレ・タイムと心得る人たちもいましたが、録音は通常の楽曲演奏同様じっくり耳を傾ける価値は十分にあります。drums は1980年代後期に MIDI の導入によってサウンド、手法とも格段に多様性を増し、Rhythm Devils と呼ばれるようになります。といってそれ以前がつまらないわけではもちろんありません。

 ドラムスのない、フロントの4人だけによる space も、様々に変化していきます。1960年代から70年代初めには〈Dark Star〉や〈Playing In The Band〉〈The Other One〉など長いジャムに展開される曲で現れていた形が、この頃からここに集約され、楽曲内のジャムはデッド流ロック・ジャズになってゆく傾向が見てとれます。それにしても space のような、まったくの即興、それもフリー・ジャズなどとは対照的に比較的静かな、瞑想的なパートをショウの不可欠の要素として組込んだのは、まことにユニークなやり方です。同時にこのパートはクリエイターとしてこの集団がいかに大きく豊かな想像力、イマジネーションを備えていたかをまざまざと思い知らせてくれます。たとえば Dark Star Orchestra のようなコピー・バンドもショウの再現の一環として space をやりますが、比べるのも気の毒なくらいです。

 さて、まずは 1978-05-17, Uptown Theatre, Chicago, IL から〈Lazy Lightning> Supplication〉です。

 曲はバーロゥ&ウィアのコンビによるもので、このペアは1976年06月03日、オレゴン州ポートランドで初演。〈Lazy Lightning〉は1984年10月31日、バークリィまで、111回演奏。〈Supplication〉はその後単独で演奏され、1993年05月24日、マウンテン・ヴューまで124回演奏。スタジオ盤はウィアの個人プロジェクト Kingfish の1976年03月リリースのデビュー・アルバム冒頭です。デッドのこうした組曲は後から組合わせたものと、初めから組曲として作られているものがあります。もっとも後者は〈The Other One〉や〈Let It Grow〉のようにその一部が独立して演奏されるようになることが多いようにも見えます。

 ちなみに1976年06月03日には他に〈Might As Well〉〈Samson and Delilah〉〈The Wheel〉と、一挙に5曲がデビューしています。

 この05月17日では第一部のクローザーです。なお、この日のショウからは第二部2曲目〈Friend of the Devil〉が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 1978年前半は2度目のピークである前年1977年の流れで、バンドは好調を維持しています。ただ、デッドのアーカイヴ管理人デヴィッド・レミューによれば、この年4月下旬の10日ほどの休みの間に演奏の質が変わり、1977年のタイトな演奏から、ずっとゆるく、ルーズな手触りの1978年版の演奏になります。

 この日は〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉から〈Franklin's Tower〉という珍しいメドレーで始まります。〈Franklin's Tower〉は通常〈Help on the Way> Slipknot!〉との組曲で演奏されますが、時々、独立でも演奏されました。〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉はもともととぼけた、ユーモラスな曲ですが、ここではぐっとくだけた演奏。ゆるいですが、ダレているわけではなく、魅力的な音楽になっているのがデッドたるところ。春風駘蕩というと言い過ぎでしょうが、その気分も漂います。

 この時期には定番となっている〈Me and My Uncle> Big River〉のメドレー、続く〈It Must Have Been The Roses〉というカントリー・ソングの並びでも、緊迫感より、絶妙の呼吸の漫才を見ているけしき。ドナとウィアの声の組合せには魔法があります。ここでの〈Looks Like Rain〉はその好例。そしてオープナーと対をなすおとぼけソング〈Tennessee Jed〉はベスト・ヴァージョン。ガルシアは歌うのを大いに愉しんでいますし、ギターはほとんど落語のノリ。レシュの弦が切れるのも、台本に「ここで弦が切れる」と書かれているようにさえ聞えます。

 こうなると場合によっては聴いていて胃が痛くなるようなこともある〈Lazy Lightning> Supplication〉のペアも、軽々と浮揚し、燦々と明るい陽光のもと、牧神たちが遊んでいます。ガルシアのギターは広い音域を駆使して、ジャズ・ギターとして聴いても第一級でしょう。

 1977年のデッド史上、最もひき締まった演奏はもちろん最高ですが、この時期特有のいい具合にゆるんだ演奏もまたデッドというユニットの面白さを放っています。(ゆ)