上々颱風はついにライヴを見なかった。あの頃はライヴにゆく習慣が全く無かった。子どもが小さかったこともある。
ライヴどころか、レコードもセカンドの〈連れてってエリシオン〉にあまりにはまりこんで、そこから先に行かなかった。あたしは一つの曲にはまりこむことはほとんどないのだが、あの曲だけはズッポリとはまりこんで、他の曲もほとんど聴かなかった。自分だけでなく、子守歌にもした。曲をかけながら、抱っこしてゆすっていると、すぐに寝てくれたように記憶する。
もう、5、6年も前になるか、紅龍の《バルド》を聴いた時にはだから驚いた。悠揚迫らず、歌い込んだ歌をじっくりと歌う声が聴こえてきたからだ。
しかもなんという歌だったろう。まったくこんな歌を歌えるのは、世界でもこの人しかいないとわかるうたばかりだ。就中冒頭の〈旅芸人の歌〉には惚れこんだ。幸い、今回は他の曲も強烈で、こればかりにはまりこむまではいかなかった。生を聴きたい、と痛烈に思った。
バルドは「中有」の意味だろうか。死者が輪廻の次の生に移るとき一度通過するところ。
ステージに上がった紅龍はそのバルドから戻ってきたばかりのように見えた。うっかり足をふみいれたが、まだ自分は死んでないことを思い出して、とってかえした、が、まだ、完全にこの世に戻りきっていない。
曲の紹介もなく、いきなり歌いだす。ああ、そうだ、この声。録音で聴くよりも一層合っている。あたしのためにあつらえてくれた、というのは傲慢であろう。しかし、そうとしか言いようがないくらい、ぴったりと波長が合う。こういう声を聴きたいのだ。高すぎず、低すぎず、響きが深く、適度にざらついて、まったく何の抵抗もなく、胸の奥にまで入ってくる。その声を聴いているだけで幸せになる。永遠にこの声が続いてほしい。
しかもその歌は《バルド》冒頭のあの〈旅芸人の歌〉ではないか。もうそれだけで涙が出そうになる。
その昔、シェイン・マゴーワンのライヴを一度だけ見た。ロンドンのフェスティヴァルで、The Popes がバック。酒瓶を両手に持ち、かわるがわる口に運ぶのだが、すでにあまりに酔っていて、瓶の口が自分の口に届かず、酒はどぼどぼと胸に注がれる。それくらい酔っているのに、歌だけはちゃんと歌っている。The Popes もすばらしい腕達者揃いで、シンガーをみごとに盛り立てていた。
紅龍はむろん酔っぱらってはいない。なんでも半世紀飲みつづけてきた酒を断っているそうだが、かえってそのせいなのか、動作など頼りないところもあるが、やはり歌っているときの存在感には圧倒される。声の張り、力強さ、レコードからはいくぶん年をとったようでもあるが、衰えではなく、成熟に聞える。むしろ、うたい手としては一回り大きく聞える。
そして、《バルド》でも要になっていた永田雅代のピアノが、例によってうたい手を盛り立てる。どうしてこの人はこんなに相手を盛り立てるのか。英珠、奈加靖子、そしてこの紅龍と、タイプもスタイルもレパートリィもまったく異なるのに、単なる伴奏ではない、演奏の存在感もしっかりありながら、それが主人公を引き立てる。こうなると、この人だけの演奏を聴いてみたくなる。
なにしろ MC はほとんどなく、曲目紹介もしないから、聴いている時は、ああ、これは《バルド》に入っていると覚えはあるけれど、曲名はわからない。あたしはとにかく曲名を覚えるのが苦手だ。入っていない曲もいくつかあったように思うが、どれもこれも、この人の歌らしく、シンプルな歌で、それをまた何の飾りもつけず、シンプルに歌う。それだけで絶唱と呼びたくなる。
ラストは《バルド》でも最後の〈星が墜ちてくる〉。聴いているうちに自然に背筋が伸びる。しみじみ名曲だ。《バルド》を初めて聴いたとき、冒頭の〈旅芸人の歌〉と掉尾のこの歌に、「触れる前から血が出るほどに研ぎすまされたロマンチシズム」とあたしは書きつけていた。我ながらまともには意味をなさないが、しかし、感覚としては今も変わらない。生で聴くとそのロマンチシズムには、ただし、ずんと一本太い芯が通っていることもわかった。
アンコールもタイトルはわからない、「夢はおわっちゃいねえ」と歌う。そう、これが夢ならおわってくれるな。
しかし、むろん、ライヴは終る。もう一度しかし、次があるのだ。次は5月24日。同じラ・カーニャ。よし、行くべし、行くべし。(敬称略)(ゆ)
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