アイルランドのダンス・チューンを聴くとほっとするのはなぜだろう。アイルランドに生まれ育ったわけでもなく、アイリッシュ・ミュージックに生まれた時から、あるいは幼ない時からどっぷり漬かっていたわけでもない。アイリッシュ・ミュージックを聴きだしてそろそろ半世紀になるが、その間ずっとのべつまくなしに聴いていたわけでもない。

 アイリッシュ・ミュージックが好きなことは確かだが、どんな音楽よりも好きか、と言われると、そうだと応えるにはためらう。一番好きなことではスコットランドやイングランドの伝統歌にまず指を折る。グレイトフル・デッドが僅差で続く。あたしにとってアイリッシュ・ミュージックは三番手になる。

 それでもだ、アイリッシュ・ミュージックを聴くとふわっと肩の力がぬける。快い脱力感が頭から全身を降りてゆき、帰ってきた感覚が湧いてくる。この「帰ってきた」感覚は他の音楽ではあらわれない。デッドは一時停止していたのが再開した感覚。スコットランドやイングランドの伝統歌では帰郷ではなく再会になる。となると、アイリッシュ・ミュージックが帰ってゆくところになったのは、いつ頃、どうしてだろう。

 いつ頃というのは、おそらく、あくまでもおそらくだが、世紀の変わり目前後というのが候補になる。この前後、あたしはとにかくアイリッシュ・ミュージックを聴いていた。出てくるレコードを片っ端から買って、片っ端から聴いていた。まだCD全盛時代だ。本朝でアイリッシュ・ミュージックを演る人はいなかった。アイリッシュ・ミュージックを聴こうとすれば、CDを買って聴くしかなかった。それに出てくるレコードはどれもこれも輝いていた。むろん、すべてが名盤傑作であるはずはない。けれどもどこかにはっと背筋を伸ばすところがあり、そしてどのレコードにも、旬たけなわの音楽の輝きがあった。どの録音も、そこで聴ける音楽の質とは別のところできらきらぴかぴかしていた。ちょうど1970年前後のロックのアルバムに通じるところだ。だから、何を聴いても失望させられることはなかった。当然、次々に聴くように誘われる。2002年にダブリンに行った時、当時アルタンのマネージャーをやっていたトム・シャーロックと話していて、おまえ、よくそこまで聴いてるな、と言われたのは嬉しかった。アルタンのマネージャーの前には、まだレコード屋だったクラダ・レコードのマネージャーで、たぶん当時、アイリッシュ・ミュージックのレコードを誰よりも聴きこんでいた人間から言われたからだ。

 そうやってアイリッシュ・ミュージックにはまる中で、アイリッシュ・ミュージックへの帰属感、それが自分の帰ってゆく音楽という感覚が育っていったのだろう。あとのことはアイリッシュ・ミュージックの作用で、たまたまあたしの中にそれと共鳴するものがあったわけだ。

 須貝さんと木村さんの演奏が始まったとたん、ほおっと肩から力が抜けていった。これだよね、これ。これが最高というわけではない。こういう音楽にひたることが自分にとって一番自然に感じるだけのことだ。他の音楽を聴くときには、どこか緊張している。というのは強すぎる。ただ、音楽を聴く姿勢になっている。アイリッシュ・ミュージックは聴くのではない。流れこんでくる。水が低きに流れるようにカラダの中に流れこんでくる。おふたりの、むやみに先を急がない、ゆったりめのテンポもちょうどいい。リールでもたったかたったか駆けてゆくよりも、のんびりスキップしている気分。

 さらにユニゾンの快感。ハーモニーはむろん美しいし、ポリフォニーを追いかけるのは愉しい。ただ、それらは意識して聴くことになる。ただぼけっとしているだけでは美しくも、愉しくもならない。こちらから積極的に聴きこみ、聴きわける作業をしている。ユニゾン、とりわけアイリッシュのユニゾンはそうした意識的な操作が不要だ。水や風が合わさり、より太く、より中身が詰まって流れこんでくる。カラダの中により深く流れこんでくる。

 受け手の側にまったく何の労力も要らない、というわけでは、しかし、おそらく、無い。アイリッシュ・ミュージックを流れとして受けいれ、カラダの中に流れこんでくるのを自然に素直に味わうには、それなりの心構えといって強すぎれば、姿勢をとることが求められる。その姿勢は人によっても違うし、演奏する相手によっても変わってくる。そして、自分にとって最適の姿勢がどんなものかさぐりあて、相手によって調整することもできるようになるには、それなりに修練しなければならない。とはいえ、それはそう難しいことではない。できるかぎり多様な演奏をできるかぎり多く聴く。それに限る。

 リールから始まり、あたしには新鮮なジグが続いて、3曲目、今年の夏、アイルランドでのフラァナ・キョールに参加するという須貝さんがその競技会用に準備したスロー・エアからジグのセットがまずハイライト。これなら入賞間違い無し。とシロウトのあたしが言っても効き目はないが、組合せも演奏もいい。後は勝とうとか思わずに、このセットに魂を込めることだ、とマーティン・ヘイズなら言うにちがいない。次の木村さんのソロがまたいい。急がないリールを堂々とやる。いつものことだが、この日はソロのセットがどれも良かった。

 後半冒頭はギター抜きのデュオ。そう、今回もギターがサポートしている。松野直昭氏はお初にお目にかかるが、ギターは年季が入っている。前回のアニーと同じく、客席よりもミュージシャンに向かって演奏していて、時にかき消される。しかし聞える時の演奏は見事なもので、どういう経歴の方か、じっくりお話を伺いたかったが、この日は後に別件が控えていて、終演後すぐに飛びださねばならなかった。おそらくギターそのものはもう長いはずだ。松野氏のソロ・コーナーもあって、スロー・エアからジグにつなげる演奏を聴いてあたしはマーティン・シンプソンを連想したが、むろんそれだけではなさそうだ。

 ギターのサポートの入ったのも良いのだが、フルートとアコーディオンのデュオというのもまたいい。アイリッシュはこの点、ジャズなみに自由で、ほとんどどんな楽器の組合せも可能だが、誰でもいいわけではないのもまた当然だ。まあ、合わないデュオを聴かされたことは幸いにないから、デュオはいいものだ、と単純に信じている。

 リハーサルはもちろんしているわけだが、お客を前にした本番というのはまた違って、演奏は後になるほど良くなる。最後のジグ3曲、リール3曲、それぞれのメドレーが最高だった。ワルツからバーンダンスというアンコールも良かった。バーンダンスの方は〈Kaz Tehan's〉かな。

 前回、去年の5月、やはりここで聴いた時に比べると、力みが抜けているように思える。あの時は「愚直にアイリッシュをやります」と言って、その通りにごりごりとやっていて、それが快感だった。今回もすべてアイリッシュなのだが、ごりごりというよりはすらすらと、あたり前にやっている。だからすらすらと流れこんできたのだろう。

 このところ、録音でアイリッシュ・ミュージックを聴くことがほとんどない。ジャズやクラシックの室内楽やデッドばかり聴いている。だからだろう、生で聴くアイリッシュには、とりわけ「帰ってきた」感覚が強かった。8月の最終週末、須貝さんの住む山梨県北杜市でフェスティヴァルをするそうだ。琵琶湖はやはり遠いので、近いところに避暑も兼ねて行くべえ。世の中、ますますくそったれで、鮮度のいいアイリッシュで魂の洗濯をしなければやってられない。(ゆ)