本間豊堂(尺八)
松浪千紫(箏、三絃、胡弓)
夜に岡大介さんのライヴに行くことにしていて、ダブル・ヘッダーにするか、さんざん迷ったのだが、やはりこれは見逃せないと、えいやと家を飛びだした。Winds Cafe でのライヴはまた格別なのだ。この日も期待通り、最高の演奏に加えて、思いもうけぬ余徳にあずかることができた。行くべきか行かぬべきか、迷った時には行くべし。
日曜の原宿は完全に観光地状態で、内外の観光客がいり乱れ、熱中症警戒アラート何のその。皆さん、元気に歩きまわり、また行列している。1時間前に原宿に着いたのだが、目当てにしていた明治通り・表参道交差点角のカフェはフロア全体が真暗。向い側は大々的再開発で大きなビルが建ち、内装・外装の工事が、日曜にもかかわらず進行中。労働条件は大丈夫なのかと気を回してしまう。たぶん、こちらのビルも建替えようというのだろう、他のフロアも暗くなっている。どこか、時間をつぶせるところはないかと裏道をうろうろするが、裏道も人の波。それでも、1軒、席の空いているカフェらしきものを見つけて入る。特に問題もなく座れて、コーヒーもちょっと遅かったが無事出てきて、まずまずのお味。後から入ってくる二人組などが、予約してるかとか訊かれているが、こちらは独りだし、老人で、追い出すのも哀れに思われたのだろう。どうも、あたしぐらいの年齡の人間は店内はおろか、外の通りでも他に見あたらない。
開場時刻になったので、カーサ・モーツァルトに行く。すでに半分ほど席が埋まっている。伝統邦楽の演奏会ということもあって、お客さんにも和服の人がいる。暑い中、ご苦労様です。プログラムはウエブ・サイトにもあって、前半、古典4曲。後半は現代曲4曲。アンコール無し。実際、終ったときには、演奏する方もくたくただったであろうが、こちらもお腹いっぱいではあった。量もたっぷりのフルコースを完食した気分。
本間氏はあたしは初見参だが、サイトの紹介ではたいへん面白いことをされているので愉しみである。もっとも、いま伝統邦楽に真剣に取組んでいるなら、伝統の外に出ようとしない、なんてことはまずないだろう。伝統に深く入れば入るほど、外との交流に積極的になる、というのは、多かれ少なかれ、世界中の伝統音楽で起きているのではないか。音楽そのものの質をより高め、そのために冒険をする点では、一般的なポピュラー音楽よりも、伝統音楽の方が遙かに面白くなっている。ヒット・チャートのための音楽は、どれもこれも同じことのくり返しに聞える。今をときめくアニソンも、昔の「テレビまんが主題歌」と呼ばれていた頃の楽曲とは、多様性とそこから生まれる面白さの点では比べものにならない。今のアニソンは売れてしまうから、逆に一定の枠からはずれることができなくなっているとも見える。どうせ売れるんだから、どんなことでもできる、やっていい、とはならないらしい。「テレビまんが主題歌」の頃は、楽曲単独で売れるとは誰も思わず、期待していなかったから、天衣無縫に何でもあり、やってみなはれ、だったのだ、きっと。
閑話休題。
前半の古典。オープナーは尺八の古典中の古典〈鶴の巣籠〉の独奏。同じ曲が演る人によってまったく違う曲になるのは伝統曲の醍醐味のひとつ。この曲のあたしの印象はどちらかというと静かに始まり、だんだん激しくなるというものだったが、本間氏の演奏は最初の一音からおそろしく尖っている。そして、ほとんどテンションが落ちずに最後まで突走る。ひょっとして、古典の師匠があの横山(ノヴェンバー・ステップス)勝也というのがバックにあるのか。
この曲だけでなく、他でも使うのだが、故意に音を細かく震わせるのをここぞというところで入れる。ヨーロッパの弦楽器のハーモニクス奏法に相当するようでもある。あるいは三絃のサワリの方が近いか。
それにしてもこのスペースでは尺八の音の響きがいい。箏も胡弓も三絃もやはりよく響く。30人からの聴衆が入ってもよく響く。春の津軽三味線の時も音がいいと感じたが、ふだん生ではあまり聴かない楽器だから響きの良さが強調されたのだろう。
2曲目から松浪千紫氏が加わり、まず尺八と箏の二重奏。八橋検校の〈乱〉、「みだれ」と読ませる。タイトル通り、めまぐるしく曲調が変わる。尺八が終始主メロで、箏があるいはカウンター・メロディ、あるいはハーモニー、時にはユニゾンと、これまためまぐるしく仕掛けを変える。これに似た感覚の曲を最近聴いたと思っていたら、後になって、そうだ、ラフマニノフのチェロ・ソナタだと思いあたった。ラフマニノフだけでなく、プーランクとかプロコフィエフとかのチェロ・ソナタも、こんな風にどんどん曲調が変わってゆく。ただ、ユニゾンはあまり無いようではある。ユニゾンは伝統音楽の専売特許なのだろうか。もっともクラシックの場合、ここまで音色やテクスチュアの異なる楽器が同時に演奏することはほとんど無い。音色が対極的な楽器のユニゾンは愉しい。
そして3曲目〈黒髪〉。松浪氏が三絃を持ち、尺八伴奏で唄う。これが良かった。地唄舞の地唄だそうだが、普段の話し声より音程を少し上げて、少し鼻にかけ、少し喉をすぼめた感じの独得の発声。後で訊いたらやはり発声の訓練はされるそうだ。わずかにくすみのかかった、けれども澄んだ声。唄の内容は、頼朝を政子にとられた女が、嫉妬に狂いながら深夜長い黒髪を梳かしている情景をうたった、とあたしには聞えた。むろん松浪氏の説明でそうと知れるので、唄われているのを聴く間は、どこまでもたおやかな歌唱に聴きほれていた。とはいえ、どこか鬼気迫るとまではいかなくても、なごやかさとかおだやかさとかとは一線を画した張りつめた唄に吸いこまれる。
古典のラスト〈鹿の遠音〉は尺八と胡弓の二重奏。胡弓は二胡とは別の、より古い形だそうだ。あるいは昔は今の胡弓も二胡もまとめて「胡弓」すなわち「胡」の弓奏楽器と呼んだのかもしれないという。三絃と同じ形の、一回り小さくした胴。ゆるゆるの弓。そして面白いのは、弓の角度は変えず、胴を回して低い方の弦を弾く。ほとんどは奏者から見て一番左の弦を弾いている。音量は小さいが、上品で、よく通る。演奏も面白く、たがいに相手のメロディを受け、くりかえしてから新たなメロディを奏でるのをくり返す。ブルターニュのカン・ハ・ディスカンみたいだ。最後だけユニゾンになる。
後半オープナーはいきなり世界初演の新作。会場にも来ておられたきのしたあいこ氏、とあたしには聞えた方に、本間、松浪両氏が委嘱した尺八と箏の二重奏のための〈海に月が沈む時〉。虚子の「海に入りて 生まれかわろう おぼろ月」の句がモチーフ、というよりも、この句に出会ってタイトルが決まったそうな。夜の海の幻想から、月が沈んで朝になり、現実に戻るイメージの由。曲は2019年にできあがっていたが、パンデミックのため演奏できず、この日がワールド・プレミアになった。なかなか面白い曲で、途中、箏が左手で胴を下から叩いてパーカッション効果を出す。もっとも現代曲らしく、一度聴いたくらいでは何がなにやらわからん。
次の〈朱へ……〉の作者沢田比河流は沢田忠男の子息。タイトルの「朱」は尺八の管の内部が朱色に塗ってあることをさすという。作者は父親に反撥してか、ロック・バンドをやっているそうで、この曲もロック調。これまた面白い。
3曲目〈明鏡〉の作者杵屋正邦は長唄の大家で、あたしでも名前くらいは聞いたことがある。松浪氏の地唄とは三絃でも違う楽器を使うが、ここではあえて地唄の中棹と尺八の二重奏。このあたりになると、こちらもくたびれてきて、ひたすら聴きほれている。
ラストは山本邦山の〈壱越〉。壱越とは本朝十二律の基音、洋楽ではニ音=D。その音がテーマになっているのだろうが、音程はさっぱりとれないから、そこはまったくわからん。尺八と箏の二重奏。邦山といえばあたしは尺八しか知らないが、箏も弾いたのだそうだ。だから邦山が箏のために書いた曲はとても弾きやすく、かつ弾き甲斐がある由。松浪氏もそうだが、伝統音楽をやる人はマルチも多い。津軽三味線の山中さんも尺八を吹く。能管、篠笛にゲムスホルンを吹く笛師もいる。これまたひたすら聴きほれるのみ。
古典曲と現代曲と言われても、シロウトには違いなんかわからない。古典は現代曲に聞えるし、現代曲は古典に聞える。伝統邦楽の敷居が高いとすればそこだろうか。一度や二度聴いたくらいでは、良いも悪いもわからない。伝統音楽はそもそもどこにあってもそういうもので、一聴、わっと飛びつけるものではない。アイリッシュのように、わっと飛びついて飛びつけたつもりが、実はヘリにもひっかかっていませんでした、なんてものもある。良さがわかって、共感できるようになるには、聴く方もそれなりの訓練と根気が必要だ。ただし、深入りしてある地点を越えると、今度はどこまでも引きずりこまれて、二度と戻れないことになる。伝統音楽はコワイ。
演っている方の姿勢も変わらない。本間氏は洋装で前半の古典は黒いシャツ、後半現代は白いシャツ。服は変わっても、演奏する際の姿勢は同じだし、楽曲に対するかまえも変わらない。和服の松浪氏はむろん変わらない。つまり、聴く方は視覚的な手がかりも無い。休憩が入るにせよ、また楽器の組合せは変わるにせよ、2時間たっぷり、半分ワケがわからないものを聴きつづけると、聴くだけでへとへとになる。
ただし、そのへとへとになる体験がたまらない。わからないからダメでも無い。わからないものはわからないまま、体に入ってくる。そこがいい。自分にわからないものは価値が無いというのは、ゴーマンである前に、自分の器はちっぽけなんですと告白しているのに等しい。とりわけ伝統音楽は生き残ってきているものだ。世の転変をくぐり抜けて、生き残っている。それだけで聴く価値はある。たとえ、一聴、わっと飛びつきたくことがなかったにしても、ワケがわからなかったにしても、自分の短かい一生分よりも長く生きのびているものには敬意をはらうべきだ。
現代曲にしても、そうして生き残ってきた伝統曲に対峙している。音楽として、楽曲の質において、生き残ってきた伝統曲と競りあわねばならない。現代曲が百年後に生き残っているかどうかはわからない。それは別の話だ。そうではなく、今この瞬間において勝負している。勝負を挑んでいる。その挑戦に立ち会うのは面白い。今この瞬間を生きている、そのことを実感する。
とりあえず松浪氏のウエブ・サイトでCDを注文する。本間氏はまだCDは作られていないようだ。「むつのを」に参加とあるが、手許にある「むつのを」のCD《五臓六腑》は1998年のリリースで、本間氏は参加されていない。その後レコードを出しているのかは不明。
終演後、松浪氏と歌舞伎の『阿古屋』の話になる。箏、三絃、胡弓をひとりで実際に演奏する演目で、玉三郎の当たり役。パンデミック前、歌舞伎座で玉三郎の演じるのを見られたのは一生の宝物。松浪氏も玉三郎のは見たとのことで、盛り上がった。もっとも松浪氏の松浪流は唄にも力を入れているそうで、次はぜひ唄を中心にした演目を Winds Cafe で見たいものだ。
予定を大幅に超過して、終演16時半。陽は傾いたが、人の波はまったく引かない。その間を縫って、次の会場、浅草へ向かうべく、表参道の駅へとてくてくと登っていった。(ゆ)
参考
歌舞伎座の玉三郎による『阿古屋』についての記事。
文楽の『阿古屋』についての記事。
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