著者 Ray Robertson はカナダの作家だ。デトロイトのすぐ東のオンタリオ州チャタムに育ち、今はトロントをベースにしている。これまでに小説が9冊、ノンフィクションが4冊、詩集が1冊ある。これは5冊目のノンフィクションになる。

 この本はアメリカ人には書けない。カナダに生まれ育った人間だからこそ書き、また書けたものだ。それによって、これはおよそグレイトフル・デッドについて書かれたもので最もすぐれた本の1冊になった。文章だけとりだせば、最もすぐれたものだ。ほとんど文学と言っていい。

 ほとんど、というのはグレイトフル・デッドについて書くとき、人はデッドヘッドにならざるをえないからである。デッドヘッドが書くものは普遍的にならない。文学になるためにはどこかで普遍に突破しなければならないが、デッドヘッドにはそれはできない。デッドヘッドにとってはグレイトフル・デッドが、その音楽が宇宙の中心であり、すべてである。普遍などというしろものとは縁が無い。

 著者は最後におれはデッドヘッドだと宣言している。これもまたカナダの人間ならではだ。アメリカ人はそんな宣言はしない。カナダの人間は宣言する必要がある。一方でこの宣言によっても、この本は限りなく文学に近づいている。

 人はなろうと思ってデッドヘッドになるわけではない。自分の意志で左右できるものではない。そもそも、デッドヘッドとはなりたいと人が望むものには含まれない。あるいは、望む望まないの前に、存在を知らない。なってしまって初めてそういうものがいることに気づく。

 あたしなどは自分がデッドヘッドであることに、この本を読むまで気づかなかった。

 この本は副題にあるように、ボーナス・トラックとして挙げられたものを含めて51本のショウを語ることでグレイトフル・デッドを語ろうとしている。ショウについての記述の中に、バンドの成り立ちやメンバーの状態、周囲のコンテクストなどを混ぜ込んでゆく。一本ずつ時代を追って読み進めれば、デッドとその音楽が身近に感じられるようになる。

 はずはないんだなあ、これが。

 デッドの音楽、グレイトフル・デッドという現象は、そんなに容易く飲み込めるような、浅いものではない。ここに書かれていることを理解し、うなずいたり、反発したりするには、すでに相当にデッドとその音楽に入れ込んでいる必要がある。これはグレイトフル・デッドの世界への入門書ではない。デッドへの入門書など書けないのだ。告白すれば、そのことがわかったのはこの本を読んだ効用の一つだった。

 グレイトフル・デッドは入門したり、手引きに従って入ってゆけるものではない。それぞれが、それぞれのきっかけで出逢い、引き込まれ、ハマり込み、そしてある日気がつくとデッドヘッドになっている。

 人はデッドの音楽をおよそ人の生み出した最高の音楽とみなすか、こんなものはゴミでしかないと吐き捨てるかのどちらかになる。中間はない。

 この本はデッドヘッドからデッドへのラヴレターであり、宣言書である。1972〜74年を最高とするという宣言だ。この宣言が意味を持つのはデッドヘッドに対してだけである。グレイトフル・デッドの世界の外では何の意味もない。または、全く違う意味になる。。

 あたしはこの宣言に反発する。してしまう。自分が反発しているのを発見して、自分もまた著者と同様、デッドヘッドであると覚った。覚らざるをえなかった。その事実を否応なくつきつけられた。

 だが、その宣言のやり方には感心した。させられた。デッドに関する本として可能な限り文学に近づいていることは認めざるをえなかった。

 著者があたしの前に現れたのは、今年の冬、今年最初の《Dave's Picks》のライナーの書き手としてだ。次には今年のビッグボックス《Here Comes Sunshine》でもメインのライナーを書いていた。一読して、アーカイヴ・シリーズのプロデューサー、デヴィッド・レミューがロバートソンを起用した意図はわかった。文章が違う。文章だけで読めるのである。

 ライナーというのは通常中身で支えられている。読者にとって何らかの形で新しい情報、あるいは既存の情報の新たな解釈が提供されることが肝心だ。それを伝える文章は伝えられるべき情報が的確に伝わればいい。むしろまずはそれを目指す。文章そのものの美しさ、味わい、面白さは考慮から外していい。

 ロバートソンのライナーにはスタイルがある。独自の表現スタイルがある。一文読めばそれとわかる個性がある。文章を読むだけの愉しみを味わえる。これがグレイトフル・デッドについての文章でなければ、純粋に文章だけを読んで愉しむこともできると思える。

 こういうスタイル、スタイルのあり方の文章によってデッドについて書かれたものはこれまで無かった。あたしの読んできたものの中には無かった。もっともデッドに夢中になった初めの頃は何を読んでも目新しい事実、情報ばかりだったから、まずはそれらを消化するのに懸命で、文章の良し悪しなど目もくれなかった恨みはある。とはいえ、ここまでの質の文章があれば気がついていたはずだ。

 これまでデッドについて書いてきた人びとはいずれもまず何よりもデッドヘッドである。つまり若い頃からのデッドヘッドだ。すなわち、自分はなにものであるかの1番目にデッドヘッドがくる人びとだ。この人たちは作家になろうなどとは望まない。文章を書くことに命を賭けようとは思わない。デッドヘッドは書く人ではない。聴く人、踊る人、意識を変革しようとする人、その他の人ではあるだろう。しかし書くことが三度の飯より好きな人にはならない。デッドヘッドが三度の飯より好きなのはますデッドの音楽を聴くことだ。

 これまでデッドについて書いた人間で書くことが仕事であるという点で最も作家に近いのはデニス・マクナリーであろう。かれによるバンドの公式伝記 A Long Strange Trip は質の良い、つまり読んで楽しい文章で書かれている。しかしかれは本質的には学者だ。文学を書こうとしてはいない。
 《30 Trips Around The Sun》につけた史上最長のライナー・ノートの執筆者ニコラス・メリウェザーもやはり学者である。それにあそこでは歴史ですらない、それ以前の年代記を作ることに専念している。

 ロバートソンの文章は違う。ロバートソンが文学を書こうとしているわけではない。書くものが書き手の意図からは離れて、どうしても文学になろうとしてしまうという意味でかれは作家である。

 加えてかれがデッドヘッドになるのは47歳の時。彼にとってデッドヘッドは何番目かのアイデンティティである。デッドヘッドである前に作家なのだ。その作家がデッドについて書けば、それはどうしても文学に近づいてしまう。これまでに無かったデッド本がかくして生まれた。

 ここでは作家とデッドヘッドが文章の主導権を握ろうとして格闘している。文章は右に振れ、左に揺らぎ、天空にかけのぼろうとして、真逆さまに転落し、また這い上がる。その軌跡が一個の文学になろうとするその瞬間、横殴りの一発に吹っ飛ぶ。これを読んでいる、読まされている、読まずにはいられないでいるこちらは、翻弄されながら、自らのグレイトフル・デッドの像を重ね合わせる。嫌でもその像が浮かんできて、二重写しになってしまう。

 1972〜74年のデッドが最高であること。そのこと自体は目くじら立てることではない。ドナの声がデッドとして空前絶後の輝きをデッドの音楽に加えていたという主張にもその通りと諸手を上げよう。

 しかし、とあたしの中のデッドヘッドは髪の毛をふり乱し、拳を机に叩きつける。これは違う。これはグレイトフル・デッドじゃない。

 いや、あたしのグレイトフル・デッドがどんな姿かを開陳するのはここではやめておく。

 グレイトフル・デッドを語る方法として、50本のショウをたどるというのが有効であることは証明された。デッドはスタジオ盤をいくら聞いてもわからない、その片鱗でも摑もうというのなら、まずショウを、一本丸々のショウを何本も、少なくとも50本は聴く必要がある。デッドヘッドにとっては自明のことであるこのことも改めて証明された。

 さて、ではここに選ばれた51本を改めて聴きなおしてやろうではないか。

 そして、あたしのグレイトフル・デッドを提示してやろうではないか。(ゆ)