クロコダイルは久しぶりで、原宿から歩いていったら場所がわからなくなってうろうろしてしまった。おまけにカモノハシに頼んでおいた予約が通っておらず、一瞬、どうなることかと思った。が、ライヴそのもののすばらしさに、全部ふっ飛んだ。
思うに、歌にはそれにふさわしい形が決まっているのだ。少なくとも、初めて世に生まれでるにあたってふさわしい形がある。
一方ですぐれた歌はどんな形でうたわれても伝わるものでもある。無伴奏でも、フルオケ伴奏でも、ソロでもコーラスでも、フリー・リズムでもヒップホップでも。松浦湊の歌もいずれはそうやってカヴァーされていくだろう。いって欲しい。いくにちがいない。
それでも今は松浦自身のうたで聴くのが一番だ。そして、このバンド、ナスポンズの形で聴くのがベストである。と、ライヴを見て確信した。
松浦のソロもベストの形だ。とりわけソロのライヴはあの緩急の呼吸、ゆるみきったおしゃべりと、カンカンにひき締まった演奏の往来によって、比べるものもない。歌そのものの本質が露わにもなる。
だが、このバンド、この面子のバンドこそは、松浦の歌に次元の異なる飛翔力を与える。この乗物に乗るとき、松浦の歌はまさに千里を翔ける。ナスポンズは松浦の歌にとっての觔斗雲だ。同時にガンダムでもある。ナスポンズという衣をまとうことで、松浦の歌は超常的な能力を備えて、世界を満たし、その場にいる者ごと異世界へと転移する。ナスポンズの最初の音が鳴ったとたん、クロコダイルが占める時空はまるごと飛びたち、それぞれに異なる世界を経巡る旅に出る。レコードによってカラダに沁みこんでいるはずの歌が、まったく新たな世界としてたち現れる。
この面子でなければ、これは不可能だ。そう思わせる。ひとつにはメンバーのレベルが揃っている。全員が同じレベルというよりは、バランスがとれている。そして狂い方が、狂うベクトルがほぼ同じだ。もっともこの狂うベクトルは松浦の歌によって決まっているところも大きい。むしろ、松浦の歌に感応して狂うそのベクトルが同じ、というべきか。そしてどこまで狂うことができるかのレベルがそろっている、というべきなのだろう。このことは録音だけではわからない。生を、ライヴを見て、演奏している姿を見て、音を聴いて初めて感得できる。
最初から最後まで、顔はゆるみっぱなしだった。傍から見ればさぞかし呆けた様子だっただろう。〈アサリ〉も〈サバ〉も〈わっしょい〉ももちろんすばらしいが、ハイライトはまず〈喫茶店〉、そして買物のうた。さらに〈どうどう星めぐり〉で、松浦の狂気が炸裂する。
それにしても、つくづく音楽とは狂気の産物だとあらためて思う。音楽を作るとき、演るとき、人は狂っている。聴くときも少しは狂っている。聴くのは作者、演奏者の狂気のお裾分けにあずかる行為だ。少しだけ狂うことで、日常から外れる。日常から外れ、狂うことで正気を保つ。これがなければ、このクソったれな世界でまっとうに生きようとすることなどできるはずがない。そして松浦の歌はそのコトバと曲によって、クソったれな世界が正常であるフリをしていることを暴く。つまるところ、この世界で崩壊もせず暮らしているのだから、われわれは皆狂っているのだ。
金ぴか、きんきらきんのパンタロンとしか呼びようのない衣裳で松浦が出てきたときには一瞬ぎょっとなったが、歌いだしてしまえば、派手でもなんでもなく、その音楽にふさわしく、よく似合う。時間の経つのを忘れる体験をひさしぶりにする。
対バンの相手、玉響楽団はうつみようこを核にして、形の上はナスポンズと共通する。狂い方がナスポンズほど直接的ではない。うつみと松浦のキャラクター、世代の違いだろう。うつみのライヴは初体験で、なるほどさすがにと納得する。ちなみにベストは八代亜紀〈雨の慕情〉。実にカッコよかった。それにしても、この人とヒデ坊が並びたっていたメスカリン・ドライブはさぞかし凄かったにちがいない。ただ、あたしにはいささか音がデカすぎた。万一のために持っている FitEar の耳栓をしてちょうどよかった。おもしろいことに、ナスポンズはそこまで音がデカくなく、耳栓なしで聴いてもOKだった。
ナスポンズはほぼ月一でライヴを予定している。毎月はムリだがなるべくたくさん見ようと思う。当面次は9月。
夜も10時を過ぎると明治通りも人が少なくなっていた。めったにないほどひどくさわやかな気分で表参道の駅に向かって歩く。敬称略。(ゆ)
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