活字がデジタル化されて、紙の雑誌が消滅への一途を辿っていると思われる今の時代に、一方で若い人たちが紙に印刷製本された媒体に惹かれているらしい。そうした「手作り」の雑誌や本を販売・交換する、活字版コミケとも言えそうな「文学フリマ」は回を重ねるごとに規模を拡大している。元々コミックのマーケットとして始まったコミケ自体でも活字メディアが出品されているとも聞く。

 右から左へ勝手に流れてゆくデジタル化されたデータ、情報ではなく、ゆったりと好みのペースで熟読玩味するための具体的なモノ、ブツを、人は求めるのだろうか。アメリカ大統領選挙投票日の翌日、ワシントン、D.C.でアメリカ最大の書店チェーン Barnes & Noble の大規模新店舗がオープンしたことを伝える Washington Post Book Club の記事でも、紙の本を手にとることの快感を訪れた人びとや書店関係者がそろって口にしていたと伝えている。

 若い友人から紙の雑誌に載せる原稿を書いてくれと言われた時、今の時代にわざわざ紙で雑誌を出す意義があるのか、と驚きと懸念がまず先に立った。しかし二人からほぼ同時に別々の雑誌にとなると、そういうことが一つの流れとしてあるのかもしれないと思えてくる。

 とまれ、頼まれれば嫌とは言えない性分、篠田一士ではないが、「一寸した誘いがあれば、すぐさま、それにのり、空言を弄し、駄文を草するといった為体」だ。もっとも篠田同様「本を読むしか能がないと思い定めて」はいるものの、読む量も読書の質も篠田には到底及びもつかないから、弄する空言も草する駄文も、篠田のものとは違って、文字通りの空言、駄文に過ぎないことも重々承知している。

 それでもいざ書きだしてみると、ひどく愉しい作業になった。むろん楽なわけではあるはずもないが、その苦労も含めて愉しいのである。もちろん初稿は紙に手で書いた。それが一番自分に合っているし、手で書くことが好きでもある。AquaSKK のおかげで候補を選ぶために流れを中断しなくてもすむから、キーボードで書くのも思考の速度にそれほど遅れず、愉しくなってきてはいるけれども、知的訓練を手で書くことでやってきているあたしには、手書きが何よりもしっくりくる。そうすると空言を弄し、駄文を草する行為は案外愉しいものだとあらためて思い知らされたものだ。

 その前に書くために読むことがまた愉しい。30年間、ひたすら『月曜閑談』を書くために週に5日を読むことに費したサント・ブーヴも、おそらくその作業、読んでは書き、書いては読む作業が愉しかったのではないか。そうでなければ、何十年も続けられるはずがない。読むのが愉しくなければ、読んだものについて書くのが愉しくなるはずはない。書くのが愉しくなければ読んで愉しくなるはずもない。そうして書いたものを他人が読んで愉しむかどうか、さらに、もとになった作品を読むのまで愉しくなるかどうかは書いたこちらのコントロールの及ばないところではある。ではあるものの、片方に書いたキャサリン・マクリーン作品にしても、もう片方のために選んだ25本の作品にもまったく箸にも棒にもかからない駄作は無いと信ずる。

 「キャサリン・マクリーンのために」書いたものは『カモガワGブックス Vol.5 特集:奇想とは何か?』に載っている。



 鯨井久志さんが訳された「シンドローム・ジョニー」の附録である。キャサリン・マクリーンのベスト盤を編むとすれば、ぜひ入れたい一篇だ。もっともマクリーンは作品数も少なく、どれもこれも水準は軽く超えているから、どうせ出すなら中短篇を網羅した全集にしたいものである。アメリカでもまだ無い。一度 NESFA Press の近刊予告に出たことがあるが、その後消えてしまった。

 もう一つが jem 創刊号のためのもの。「特集 未来視する女性作家たち」のうちの「海外SF短篇25」である。書きあがった原稿を、執筆を依頼してきた友人は面白がった。量について何も言われなかったので、感興の湧くままに書いていったら、常識外れの量になった。削れと言われることを承知で、というより期待しながら、とにかくどういう反応が返ってくるかとえいやっとそのまま送ってみた。すると削減無しで載せたいという返事がきて、また驚いた。あたしとしては恐縮するしかない。ともあれ書いた甲斐はあった。

 書いたことで見えてきたこと、学んだことはまた別の話だ。それはあたし個人の収獲で、今後の読書をより愉しいものにしてくれるだろう。とすれば、時には空言を弄し、駄文を草することも、まったくの無駄ではない。むしろ、読むことをより愉しいものにしてくれる作用もある。こともある。

 漫然と興味・関心の赴くままに読むのも愉しいが、一つのテーマ、問題意識をもって読むことはさらに愉しくなる、というのもあらためて思い知らされた。今回は漫然と読んできた経験を一つのテーマに沿って組みなおし、それに従って再読、あるいは三読ないしそれ以上したわけで、テーマを持って読むことと、再読三読することの相乗効果もあったかもしれない。

 なれば、次は一つの枠組みに沿って初読も含めて読んでみることを試してみたくなっている。折りしも「アーシュラ・K・ル・グィン小説賞」の今年の受賞作が発表になり、選考委員の1人だったケン・リウが、最終候補10冊はどれもいいから全部読め、と薦めてもいる。中で1作だけ、ニーヴォの Mammoths At The Gates だけは読んでいたし、Emily Tesh はこれから読む本のリストの上位に入れていたけれども、他の8本は未知の書き手だから、ちょうどいい。ちなみに中の1冊 Orbital by Samantha Harvey は、同じ jem 創刊号で書評されている。となると、さらに背中を押されるというものだ。



 とはいえ、その前に Steve Silberman の NeuroTribe を読まねばならない。「自閉症スペクトラム」と総称される現象の見方を「治る見込みの無い精神病のひとつ」から「人の個性の多様性のあらわれ」に転換させたと言われる本である。シルバーマンは名うてのデッドヘッドでもあって、今年のグレイトフル・デッドのビッグ・ボックス《Friends Of The Devil: April 1978》のライナーに感心したのが、この本の存在を知るきっかけだ。さらに Charles King がヘンデルの『メサイア』成立の歴史を描いた Every Valley  も控えていて、「ル・グィン小説賞」候補作ばかり読んでいるわけにもいかない。

 若い頃は小説ばかり読んで少しも飽きなかったが、年をとるにつれて小説以外のエッセイ、紀行、伝記、日記、書簡、回想録、歴史などのノンフィクションが面白くなってきた。文学として書かれたものばかりではない。

 たぶんそれは人生の階梯に合っているのだろう。若いうちは小説を読むことで現実には出会えない、自分たちとは異なった多種多様な人間と出会い、様々な世界の諸相を体験することが必要なのだ。体験が重なるにつれて、今棲んでいるこの世界の諸相が面白くなってくる。その上で肝要なことは、チャールズ・キングが Every Valley の序文で言うように、今の世界とは異なる世界、より望ましい、棲みたい世界を思い描き、その世界に近づこうと努めることだ。キングによれば、『メサイア』はヘンデルとチャールズ・ジェネンズが、かれらが棲んだ世界とは異なる世界を思い描こうとした努力の賜物ということになる。

 というわけで、その原稿が載った雑誌 jem 創刊号が12月1日に出る。現物を見たければ、その日開催される「文学フリマ東京39」に行けば見られるはずだ。書き手の何人かにも会えるかもしれない。あたしは残念ながらその日は所要で行けない。不悪。巻頭言、目次などはこちらで見られる。通販もされる。(ゆ)



jem 創刊号目次



jem 創刊号目次解説