そうそうこの声、とうたいだした途端に納得した。ぎっしりと実の詰まった、異界から響いてくると聞える声。行川さをりさんの声と性質が似ている。行川さんの声が低い方に膨らむのに対して小暮さんの声は高い方へ広がる。ただスイート・スポットは最高域ではなくて、その少し下にあるらしい。そこで伸ばされると空間全体が共鳴して、こちらの体の芯がそれに共鳴する。くー、たまりまへん。例えば前半5曲目コインブラ・ファドの〈別れのバラード〉、例えば後半オープナー〈赤い魚〉。

 この人には紅龍さんの新作《紅龍 / RADIO MANCHURIA [CD]》で出逢った。この人、何者?と永田さんに訊くと、ふふふ見にいらっしゃいとあの低い声で誘う。そりゃ、行かずばなるまい。

紅龍 / RADIO MANCHURIA [CD]
紅龍 / RADIO MANCHURIA [CD]

 ということでこの日、出かけていったわけだが、すばらしいうたい手はたくさんいるにしてもこの声は唯一無二。しかもその声をちゃんとコントロールしている。これだけの声を持てばそれに頼り、溺れてしまってもおかしくない。実際そういう人もいる。しかし小暮さんは声によりかからず、しっかり主体性をもって声を聴かせるのではなく、歌を聴かせる。だからこそ声が引きたつ。

 自身のギターと永田さんのピアノとピアニカ。ギターはアルペジオ主体でかき鳴らすことはほとんどない。控え目で効果的。しかしその気になれば相当に弾けるのではとも思える。

 永田さんのピアノはいつもながら適確かつ随所に驚きが仕組まれていて、ふっと耳を奪われる。今回はピアニカが面白い。リスボアの街角でピアニカを奏する盲目の老女をうたった歌の伴奏というだけではない。おまけに左手でピアノ、右手で肩からかけたピアニカという芸当もしてみせる。これが見せるだけでなく、聴かせる。

 小暮さんは元はファドに惹かれ、ポルトガルにも住んだことがあるらしい。松田美緒さんも確か元はファドを歌っていたのではなかったっけ。ファドの昏さは我々には親しみやすいのか。一方でスコットランドの歌の昏さに共感する人は多くないのう。

 松田さんも日本語の伝統歌をうたうようになり、あたしはそこで「発見」するわけだが、小暮さんは自作やカヴァーで日本語のうたを歌う。オリジナルも面白い。詞も曲もいい。オープナーの「さねかずら」は認知症の母親を歌っている。そこにりきみが無い。哀しみも同情も聞えない。ただ、そういう存在としてまるごと受け入れる。器が大きい。

 次の歌は「きみは何を持っているの」とうたうが、これは問いというより、相手の目を覚まし、引きつける刺戟のようだ。

 とはいえこの日のハイライトは後半4曲目、紅龍作の〈誰かが誰かを〉の絶唱。語尾をのばしてまわす、コブシまではいかないゆったりとまわすのにうっとりしてしまう。次のメアリ・ホプキンの〈悲しき天使〉の日本語版、高田渡の主治医だったという藤村直樹による詞のヴァージョンもいい。こうして日本語で聴いたからか、この歌のメロディはクレツマーであることにようやく気がついた。そしてアップテンポの〈蝶々〉、ラスト曲とハイライトが続く。

 アンコールはピアノだけのバックで初恋をうたう。声とともに言葉にならない感情が流れこんでくる。

 おなじみのアーティストの安定したパフォーマンスにひたるのも快感だが、鮮烈な初体験にまさるものもまた無い。それが最も好きなタイプの声をたっぷりと浴びるとなれば無上の天国。これで明日からまた生きていけるというものだ。ぜひまた生を聴きたいし、聴けるだろう。

 このすばらしいうたい手に引きあわせてくれた永田さんと紅龍さんに感謝。

 やはり人の声は最高だとあらためてかみしめながら、なぜか古着屋のやたら増えた下北沢の街を駅へ向かう。(ゆ)

小暮はな: vocals, guitar
永田雅代: piano, pianica