厚木が歴史に登場するのは平安末期。現在の市域から北隣の愛川町南東部にかけて毛利荘=もりのしょうがあった。毛利は「もり」で、「もうり」になるのは、戦国の安芸の家からの由。源義家の七男義隆の所領だった。義家の家は平治の乱で没落し、鎌倉初期にここは毛利景行の所領となったらしい。この人物がどこから来た何者か、わからない。景行は清川村に屋敷を構えたそうだ。なんであんな奥地にと今は思えるが、当時は立派な理由があったのだろう。今の国道413号線、津久井街道の往来が盛んだったのかもしれない。その頃、江戸はまだ無い。関東の中心はずっと北にある。
毛利景行は頼朝の挙兵に参加し、頼朝の鎌倉制圧後、毛利荘に戻ったらしい。1213年の和田合戦で敗死。毛利荘は大江広元に与えられる。四男・毛利季光が、毛利荘を領したようで、飯山に館を構えたらしい。清川村よりは下ってきた。季光も1247年の宝治合戦で敗死。季光の四男経光は乱に加わらず、しかも越後と安芸に所領を持っていたので、毛利氏は以後そちらで存続する。安芸の所領は承久の乱の際の活躍に対する恩賞。毛利荘は宝治合戦で勝った側の安達氏の安達盛長の所領となったと推定されている。飯山の清金剛寺に墓がある由。この盛長は鎌倉時代初期の人とは別人のようだ。1285年の霜月騒動で安達氏が滅び、毛利荘は得宗領となったらしい。南北朝から戦国の様子はよくわからない。
江戸時代には単一の藩が置かれることはなく、天領、旗本支配地、藩領に細分された。時代が下るにつれて、支配地の細分化が進み、相給化が進んだ。一つの村の内部が細かく分けられて、その各々を別々の領主すなわち幕府、旗本、藩のどれかが支配する形だ。幕末1867年に後に厚木市となる地域に存在した村は36あったとされるが、下野烏山藩、下総佐倉藩、武蔵金沢藩、相模小田原藩、相模荻野山中藩、それに幕府と複数の旗本の支配地が入り乱れている。このうち市域内に陣屋を置いていたのは、下野烏山藩(大久保氏)が今の厚木神社のあたり、相模小田原藩(大久保氏)支藩が中荻野村だった。
1871年の廃藩置県でこれら藩領はそのまま県とされた上、まとめられて1876年に神奈川県になる。1889年、町制施行で愛甲郡厚木町ができる。同時に各地域で複数の村が合併し、依知村・荻野村・小鮎村・玉川村・南毛利村、それに南側に大住郡相川村ができる。この時合併しなかった三田村・棚沢村・下川入村・妻田村・及川村・林村の諸村は1946年に合併して睦合村となる。そして1955年2月、厚木町、小鮎村・玉川村・南毛利村・睦合村は合併して厚木市となり、7月に依知村と中郡に所属が変わっていた相川村を編入。翌年北端の荻野村を編入して現在の市域になる。
1889年にできた南毛利村は温水村、長谷村、愛名村、愛甲村、恩名村、船子村、戸室村の七つの村の合併だった。温水村にはさらに高坪村、浅間山村、赤羽根村が含まれていた。現在の毛利台は愛名、長谷、高坪にまたがり、南毛利村の中では西端に近い。独立した丘で、北と西が愛名、東が高坪、南が長谷になる。
当然、合併前の各村に鎮守があった。
温水(ぬるみず)村 春日社
高坪村
浅間山村 浅間社
赤羽根村
恩名村 三島社
戸室村 子之(ねの)社
船子村 八幡社
愛甲村 熊野社
愛名村 諏訪社
長谷村 堰社
近隣の村の鎮守で比較的近いところのもの。
玉川村では
岡津古久村 子安社
小野村 小野社
小鮎村の
上古沢村 諏訪社
下古沢村 三島社
さらにより小さな社もいくつかある。
三島社 長谷
熊野社 高坪
赤城社 小野
小町社 小野
打越(おっこし)熊野社 上古沢
堰社旧跡 長谷
2018年、こういう社に初詣するようになったのはどういう心の変化だったか。年をとったからだろうか。大腸がんから生還できたからか。1990年代初めに厚木に転居してから、大山阿夫利神社にはパンデミックの間を除いて毎年初詣をしている。しかし、パンデミックの間、阿夫利社の代わりとして厚木神社に詣でた以外、他の神社を回ったことはほとんど無かった。
もっともその前、大腸がんの手術後、最初の抗がん剤投与を終えてから退院し、かみさんの実家にもどってから、その近くの神社に初詣するようにはなっていた。幸運をもたらしてくれた何ものかに感謝を表したいという気持ちがあったのだろう。その何ものかは神様かどうかもわからないが、八百万の神様は当面、その何ものかへ感謝を伝えるポータルとして手近だった。寺や教会では違う気がした。ああいうところがつながっている先に居る、または在るものはもう少し限定的であると感じる。どちらも、そんなことはない、仏は神は広大無辺、すべてを受けいれると言うけれど、そう言われると余計に限られているように感じる。
神社は何も言わない。一切何も言わない。ただ、そこにある。神社の社そのものは限定的で、その奥にあるのはローカルなものかもしれない。しかし、ローカルなものこそグローバルにつながり、ユニバーサルにもつながることは、散々経験している。感謝を捧げるべき何ものかがローカルなものか、グローバルなものか、ユニバーサルなものか、それすらわからない。しかし、感謝を捧げるポータルはローカルな方がふさわしい気がする。その方が確実に感謝が伝わる気がする。
ということで、正月にはこの中でも一番古いはずの小野神社(何せ式内社ということになっている)から始めて、すぐ近くの小町神社(小野小町を祀る)、そこから尾根を登った丘の頂上にある秋葉神社、そして長谷の堰神社とまず回るのを恒例にしている。途中の田圃の真ん中にある堰社旧跡の石碑にもお参りする。それからそれぞれの方角で1日に2つないし3つの社を回って、だいたい成人の日までに旧南毛利村の7つの鎮守を回り終えるようにする。その後、近隣の鎮守や鎮守以外の社を回る。今年は今日13日、岡津古久の子安社に参って、今年の初詣を一通り終えた。
2018年に初詣回りを始めた時には、どの神社もまったくの無人で扉は閉まり、参詣の人もまばらだった。この辺りの神社で宮司が常駐しているようなところは皆無である。どこも扉は閉まり、境内は閑散としている。正月とてその状況に変わりはなかった。
変化が起きたのは2021年で、小野神社で社殿の扉が開けられ、中に2、3人、人がいるのに驚いた。他の社でも人こそいないが、正月の飾りつけを改め、扉が開けられていた。秋葉社は社(やしろ)というよりは祠(ほこら)で、初めて行ったときはほとんど見捨てられているようだった。それとも知らず、登っていったらあったのだった。その祠が年々きれいになり、「秋葉神社」の名札も新たについた。
参詣する人も年々増えている。今年は小野社や堰社では短かいが列ができていた。もっとも元日に限られるようでもある。今年は2日に風邪をひき、他の社に回るのが遅れたが、どこも他には誰もいなかった。
旧南毛利村内の鎮守はどこも近くに家が建ちならぶ。住宅地の中という様相。船子の八幡社は隣に大きなマンションが建っている。例外は温水の春日社で、台地の上で畑に囲まれ、周囲に人家はまったく無い。一番近い家は数百メートル先だ。そのせいか、昨年の正月には、賽銭箱が二度に渡って盗まれたので設置を諦めた、賽銭は格子の間から中へ入れてくれ、と貼り紙がしてあった。今年は正面を大きく開けはなち、賽銭箱も小振りのものを置いてあった。
上記の諸社の中で拝殿が最も立派なのは恩名の三島社。最も神様がいそうで、聖所らしいと感じるのは上古沢の諏訪社。愛甲の熊野社には1380年の銘を持つ石灯籠、温水の春日社には1417年の銘を持つ石灯籠がある。熊野社のものは銘を持つ石灯籠としては、関東全域で最古のものの一つの由。
室町期にこういうものを造って寄進できる財力と技術力のある人たちがこの辺りにいたということになる。むろん石灯籠だけを造って寄進したわけではなかろう。社殿や神楽殿、その他付属の建物も同時に造られたはず。室町期のこの辺りの状況は不明だが、つまりはそれだけ強力な領主が不在だったのかもしれない。とすれば、豪農たちを中心とする自治組織が維持されていたという妄想が湧く。江戸時代に領地関係が錯綜していったのも、ひょっとすると幕府や藩の意向というよりも、農民たちがより有利な年貢条件を求めて、イニシアティヴをとっていた可能性も無くもなかろう。(ゆ)
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