スコットランド出身で、現代英語圏の伝統音楽最大のレジェンドの1人であるディック・ゴーハン Dick Gaughan のボックス・セット企画のクラウドファンディングが始まっています。
言い出しっぺはコリン・ハーパー Colin Harper。ハーパーが企画を立てるきっかけを与えたのはロビン・ドランスフィールド Robin Dransfield。ハーパーの呼びかけでオーディオ・マスタリングや映像補修の専門家などからなるチームが立ち上がりました。
内容は1969年から84年までのオーディオを収めたCD7枚組と、1970〜91年のライヴ動画を収めた DVD 1枚の計8枚のディスクに、ブックレットが2冊付きます。ブックレットの1冊は Graeme Thomson による1万語(邦訳400字詰原稿用紙約80枚=32,000字)のライナー、もう1冊はイアン・A・アンダースンとコリン・ハーパー各々による2本のロング・インタヴュー。
CDには計126トラック、約9時間の音源、DVD には計30トラック、2時間の動画が収められます。音源のうち未発表が83トラック。うち43トラックは BBC での録音、40トラックがその他のライヴ音源。
Gaughan (1978) と A Different Kind Of Love Song (1983) の2枚は丸々全部。Coppers & Brass (1977) と Parallel Lines (1982) から選抜。後者はアンディ・アーヴァインとの共作で、2人が半分ずつやっているので、ゴーハンの分はおそらく全部と期待。
1975年から81年までのスタジオ・アルバムから9トラック。
それに1981年カリフォルニア州バークリーでのアメリカでの初ライヴのほぼ全部。
既発表のトラックはすべてリマスタリングされます。
なお、この本体とは別に Kickstarter では Live In Belfast というディスクの付いたプレッジもあります。本体の目標は1,000セット、付録つきの方は500セットです。2025-03-27 22:00 現在、付録つきの方は残り50セットを切っています。
ディック・ゴーハン自身について説明する必要があるかもしれません。ゴーハンの音楽はごくわずかしかストリーミングで聴くことができず、その質もあまり良くない状態です。そのため、ハーパーも認めるように、ゴーハンがいかに偉大なシンガーであり、ギタリストであり、パフォーマーであるか、広く知られてはいません。これはまったく許されざることであります。このボックス・セットはその穴を埋め、正当に評価しなおし、そして闘病しているゴーハンに財政的支援を行うものです。
2016年9月、ゴーハンはそれまでに脳梗塞の発作が起きたために演奏ができなくなったとして、以後すべての公演をキャンセルしました。翌月 MRI で梗塞の事実が判明し、翌年2月から理学療法を始めましたが、再び演奏活動できるようになる見通しは立っていません。
あたしがこの企画に興奮するのは、大量の未発表録音、録画ももちろんですが、1972年のレコード・デビュー以前の音源が入っていることです。72年の《No More Forever》こそは、あたしが最初に買った数枚の「トラッド」のレコードの1枚であり、ブリテンそしてアイルランドの伝統音楽の世界に否も応もなく引きずりこんでくれたものでした。彼の声とギター、そしてごくわずかに入るアリィ・ベインのフィドルのみから成るその世界は、ほとんど暗鬱なまでに昏く張りつめていて、同時に異様なほどのなまめかしい精気に満ちていました。それは当時、まったくの「異界」から響いてくるように思われました。この音はギターにちがいないが、そのギターを作っている木や弦は、われわれの世界のものとは違うのではないか。
そしてその声。表はビロード、ではない天鵞絨のような手触りなのに、その下にはおそろしく硬いものが確固としてあるために、表面が滑らかというよりも細かい孔が無数にあいているような感覚。加えて抜き身の刃が喉に仕込まれているかのようにドスが効いています。これに少しでも似た声など、音楽以外でもそれまでまったく聴いたことがありませんでした。基準からまったく外れているのに、耳について離れない声。入ってくるのは耳からにしても、体の最も奥の隅にまでまっすぐ浸透していく声。その後も、響きが少し似ているかと思うことがあるくらいで、ゴーハンの声はユニークであり続けています。
この声とギターが生みだす「異界」は陰鬱で厳しくはあっても、脅やかし、威圧してくる気配はかけらもありません。桃源郷とは言えませんが、鬱蒼とした森にはほのかな明るさが地の底から滲みでています。
次に驚いたのは1977年の《Coppers & Brass》です。これは全篇スコティッシュやアイリッシュのダンス・チューンを、アコースティック・ギター1本で演奏したもの。フィドルやフルートやパイプや蛇腹やではありふれていますが、アルバム1枚丸々アコースティック・ギターのみのダンス・チューン集は寡聞にして他に知りません。アーティ・マッグリンのファーストが近いでしょうか。トニー・マクマナスにも優れたダンス・チューン演奏がありますが、アルバム1枚全部はやっていません。
アコースティック・ギター・アルバムは無数にありますし、ダンス・チューンを演奏したものも少なくありませんが、ほぼギターの単音弾きだけでここまでダイナミックにダンス・チューンをまさに踊りの音楽として演奏してのけ、しかもそれをアルバム1枚分やっているのは、他に無いと思います。これが出た当時、あたしはまだダンス・チューンに開眼しておらず、ダンス・チューンだけのアルバムは敬して遠ざけていましたが、ゴーハンのアルバムという、ただそれだけの理由でこれを聴き、びっくり仰天したものです。
ゴーハンのアルバムについて書きだすときりがありませんが、1枚だけあげろと言われれば、1981年の《Handful Of Earth》に留めをさします。実際、現在、最も簡単に聴けるのはこのアルバムです。ゴーハン、何者と問われるならば、これを聴いてみてくださいと答えます。シンガーとして、ギタリストとして、ここにはディック・ゴーハンの全てが最も研ぎすまされて輝いています。同時にこれはそれまでのかれのキャリアの総決算でもあります。このアルバムを頂点として、この後、アンディ・アーヴァインとの共作を間にはさんで出した《A Different Kind Of Love Song》1983で、その音楽は大きくベクトルを変えます。それまで伝統歌や他人の歌のカヴァーで通してきたのが、ここでは全篇オリジナルで固めてきたからです。今回のボックス・セットが1984年を区切りとしているのも、そのことを反映しています。
ゴーハンの影響ということになると、あたしの手には負えません。あたしの目ないし耳からすると、ゴーハンのような声の持ち主もいないし、あんな風に歌えるうたい手もいないし、あんな風に弾けるギタリストもいません。唯一無二の存在として屹立しています。つまり、ゴーハン流の伝統歌や伝統音楽演奏をしている人は聴いたことがありません。一方で、彼の存在とその音楽は形の上ではなく、精神の土台の部分に絶大な影響を与えているのではないか、という推測はできます。しかし、こういう影響関係は実証が難しい。たとえあるミュージシャンがあの人に影響を受けたと証言したとしても、その内実はなかなかわからないものです。
ということで、このクラウドファンディングは絶好のタイミングで出現しました。付録ないしおまけ付きの場合、送料含めて110GBP は安い金額ではありませんが、この内容からすれば、いわゆる「コスパ抜群」とあたしは思います。(ゆ)
コメント
コメント一覧 (2)
涙チョチョギレました。
だたただ、感涙です。
4/1時点で既にベルファストライブ付きのは残っていなかったので、Box set + Live in the 70s (2CD) に寄付しました。
ワシらにとっては、こんな形でタイムマシーンが現実になるのであれば、10倍でも安い!…ですよね。
Dick もそうだけど、ワシらも長生きして良かった。
動画にあの Barbara Dickson さんが登場していたのも感激。
神様、仏様、Colin Harper です。🙏
反応の強さにハーパーもびっくり仰天していたけど、全世界ならこれくらいいて当然という気もします。