あたしが創刊号に原稿を書いた文芸誌『jem』が第2号を発行するためにクラウドファンディングをしています。
創刊号にも韓国における日本文学の受容に関するインタビューと記事があって、かなり面白かったのですが、第2号はさらに範囲を拡げて、アラビア語圏や東欧、東南アジアなども含む各地での日本文学の現地語への翻訳やその受容の状況を探ることを目指しています。
創刊号に記事を書く過程で編集長などと話をするなかで、日本の現代文学、それもこれまでのような三島とか安部とか川端とか、あるいは漱石などといった大物よりも、今の女性の書き手の作品翻訳が欧米でブームになっていると聞いて驚いたことがあります。ここのところマイブームの左川ちかもその恩恵で知りました。この人は英訳から始まった海外での翻訳がどんどん広まって国内でもあらためて評価されたそうですが、あたしにとっては鶴田錦史、横山勝也に代表される伝統邦楽にフランスの Ocora 盤で初めて出逢ってのめりこんだのに共通します。昔六本木にあった WAVE で、アナログ盤に遭遇したのでした。
この二人が武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』の邦楽器奏者ということは後に知るので、アナログのエサ箱で見たときには、誰だ、これは、とクエスチョン・マークが頭の上にいくつも踊ったものでした。
同様に、今海外で売れている日本語ネイティヴの女性の書き手たちは、もう数十年もごくわずかの例外を除いて国産の小説を読んでいないあたしにとっては、まったく未知の人たちばかりで、それもまた新鮮ではあります。
そういう状況がいわゆる西欧、北米だけでなく、世界の各地で起きている、というのはまた面白い。どこが面白がられているのか、にも興味がわきます。
わが国文化の産物として海外でウケているのが、アニメ、マンガだけではない、というのも心強い。アニメ、マンガがまずいというのではなく、それだけに偏るのは、やはり「偏向」というのものです。ヴィジュアルでは不可能で、言葉によって初めて表現できる、伝えられるものは小さくないわけですから。
もちろん夜郎自大的に自慢するというよりも、文化の相互交流が面白いわけです。我々の思いもよらないところを面白がり、まったく思いつきもしない読み方がされるのが愉しい。それを自分たちの自画像とは違うと切り捨てるのではなく、自分では見ることができないところを見せてくれていると感謝したい。
こういう外からの視点、外から見た姿は、自分たちがどこにどのように置かれているかを冷静に把握することにも大いに役に立ちます。
ということで、自分が原稿を書いたからというのではなく、あたしとしてもこの雑誌は応援したい。いや、実際に応援もしますが、どうか、我と思わん方々にも応援をしていただきたい。どうぞ、よしなにお願いもうしあげます。
以下、余談。
この雑誌は昔ならば同人誌、コミケ流のではなく、筒井康隆が『大いなる助走』で描いたような、文学青年、中年たちの集う同人誌の一種に数えられるものなんでしょうが、今はプロとアマの境目が曖昧になっている、または溶融していることも、あたしには興味深いことであります。書くことで食べていればプロ、書くためにカネを注ぎこむのがアマ、という境界も崩れているらしい。友人のマンガ編集者によれば、生業は別に持ち、空き時間やあるいは作った時間に描いたマンガをアマゾンなどで自己出版する人が増えているそうな。作品の質はフルタイムで描いているマンガ家の作品に退けをとらない。すると、こういう描き手、書き手はプロなのか、アマなのか。一方、コミケで販売するいわゆる同人誌だけに描いたり、書いたりして、それで食べている人もいる。
つまり、出版界において既存の版元のルートは、いくつもある「作物(さくもつ (c) 大西巨人)」の流通ルートの一つにすぎなくなっている。
このことは出版物だけでなく、音楽の世界でも宅録の産物と設備の整ったスタジオから生みだされるもののレベルに違いがなくなっている。録音やミキシング、マスタリングなどはまだ職人芸が求められるので、プロというのは一応の意味を保っていますが、かつてのように、レコード会社に拾われることは複数の目標の一つでしかなくなっている。
視覚と聴覚を通じて受容されるメディアはデジタル化されたために、専門技術が拡散して、コストが下がり、クリエイターは創作活動に割けるリソースが増えています。五感のうち、味覚、触角、嗅覚は記録できない。だから、料理はまだプロとアマの違いが明瞭です。デジタル化できない料理は AI の手にも負えません。
たぶん料理がデジタル化できないことは、人間にとってはいいことなんでしょう。一方で、視覚と聴覚に訴える表現活動は、それに全人生を注ぎこまなくても、質を高めることが可能になりました。質の高い作品を生みだすためには、かつては他のことはすべて犠牲にしなければならなかった。あるいは、否応なく犠牲になっていた。今や、片手間で、とは言いませんが、その気になれば、パートタイムでも傑作をものにできるようになりました。必ずできるとはむろん限りませんが、可能ではあります。
小説や絵、動画において、AI に「作らせる」ことの是非が問題になっていますが、いずれは AI の「援けを借りる」のは当たり前になるでしょう。AI を使いこなすためには適切なプロンプトを考えることが肝要であるように、創作活動、表現活動において AI を使いこなすには、そのためのコツが必要になるので、ひょっとするとその使い方そのものが「作品」になるかもしれない。それとも料理の「レシピ」のようなものになるのでしょうか。(ゆ)

コメント
コメント一覧 (2)
でも、ああいう作品の英訳、アイルランド語訳はまず出ないでしょうねえ。