シナバー 辰砂都市 (創元SF文庫) [ エドワード・ブライアント ]
原著は1976年刊行。1970年代、それも後半はあたしのスイート・スポットだ。高校に上がるのが1970年。大学卒業が1978年。1970年代はあたしの「青春」である。あたしの好みはこの時期に形作られた。1970年にSFに出会う。1975年にブリテン・アイルランドの伝統音楽に出会う。どちらもその後のあたしの人生を規定する。だから1970年代の作物はあたしにとって永遠に新鮮だ。その時代の作物というだけで輝きを増す。
SFに関していえば、その頃はまだ英語圏、それもアメリカと UK 産が圧倒的だ。というよりも、レムやストルガツキー兄弟の例外はあるにしても、英米産しか我々の眼中には無かった。
その英米SFの1970年代は成熟の時代だ。60年代の「疾風怒濤」を受けて、70年代には以前とは質が転換した作品が出てくる。その媒体も雑誌からデーモン・ナイトの Orbit とテリィ・カーの Universe に代表される単行本シリーズになる。そこに載る作品は、当時では雑誌には載らない類、タイプのものだった。この傾向に最も鋭敏に反応したのはF&SF のエドワード・L・ファーマンだと思うが、それはまた別の話。1977年の『スターウォーズ革命』はその真の姿を70年代のうちはまだ現していない。
本書収録のうち「ジェイド・ブルー」と「クーガー・ルー・ランディスの伝説」は Universe で世に出ているが、前者はともかく、後者は雑誌には採用されなかっただろう。小説の体をなしていないというわけだ。
それにしても面白い。ほとんど一気読みに読んでしまった。連作とはいえ、一応独立の中短篇なのをいいことに、1日1本と決めて読みおわるのを遅くした。こんなに面白いんだったら、もっとずっと早くに読みたかった。しかし、すべての本にはそれぞれの人に読まれるべき時がある。
ブライアントも1、2本は読んでいるはずだが、記憶にない。むろん名前は知っている。本も目につけば買っていた。この話だって原書は持っている。例によって山のどこかに埋もれているが。しかし、入れこんだことはなかった。同時期にデビューに立ち会った書き手たち、ヴァーリィ、ロビンスン、シェパードなどに目がくらんでいたのかもしれない。
この中で一番身につまされたのは「何年ものちに」だ。これは老いの話だからだ。またしても、それにしてもだが、他人の翻訳を読むのが辛いことをあらためて思い知らされた。あちこちで、あたしならこうする、ああ、こうはしないなあ、と反応してしまう。するまいと思ってもしてしまう。これが浅倉さんとか伊藤さんとか、深町さんとか小尾さんとか、あるいはかつてSFを読みだした時にその面白さを教えてくれた沼澤洽治のような人ならそういうことはまずない。というのは、たぶん、こういう人たちの翻訳を読んでいたのが、こちらがまだ翻訳をするなどということを思いつきもしない時期だったからかもしれない。こういう人たちの翻訳を読んでSFを学んだし、翻訳された小説を読む術を身につけた。
しかし、自分で翻訳をなりわいとするようになると、他人の翻訳が読めなくなった。もったいないことに浅倉さんからは出るたびに献本をいただいたが、読んだことはほとんどない。何らかの事情で、どうしてもその本を読まねばならなくなったりすると、原書を読んだこともある。まあ、これも一種の自意識過剰というやつであろう。
この本も読んでいて、たいていは気にせずにすんだのだが、時折り引っかかった。そして引っかかる時は強烈に引っかかった。この「何年ものちに」というタイトルなどもその一つだ。あたしならこれは「歳月」としただろう。
この話はこの本への書下しである。集中最後に発表されたものだ。ここでの中心キャラクター、リア・サンドは最後の2本に出てくるが、それらが発表された時には、リアがこういう経験をしていることを読者は知らなかった。このことは結構大事ではないかと思う。シナバーの話を1本にまとめるにあたって、著者は他で触れられなかったシナバーのマイノリティについて書く必要を認めたわけだ。それを語るキャラクターとしてリアを選んだのはさすがだと思う。この話のためにリアを出しておいたわけではないだろう。そしてこの話がここに入ることによって、本全体が地に足のついたものになっている。
もっともだから身につまされたわけではない。それよりは今のあたしが直面している老いというものの一つの側面、いや、一つではない、これは様々な側面が重なって一つの形をとっているので、その形を描くことで裏に重なる多様な老いを暗示するからだ。そしてここに現れる老いは恐しい。この老いをあたしは実感している。若者よ、老いとはまさにこういうものなのだよ。
これを書いた時、著者は30歳前後。どこかでどうにかして老いを観察している。そこに書き手としての想像力を作用させた。そしてここに、この本の核にある目的、人間にとって時間とは何かを問うという目的が、剥出しになっているというと外れる気がする。この中で最も切実な形で現れている、ではどうだろう。だからこれがあることで、本全体が一度読んで、あーおもしろかった、はい次という扱いができないものになっている。物語全体が円環を描いてもどるように、読む者も否が応なく、もう一度初めから読むことになる。
「何年ものちに」以外の話でこれと対極をなすのはその一つ前の「ヘイズとヘテロ型女性」だ。この本はこの二つを焦点とした楕円というよりもひしゃげた球体だ。時間旅行はSFにとって最強のツールだが、それをこれほどスマートに使いこなした例を、あたしは他に知らない。これを書くことで著者はシナバーとは何かを摑んだと見える。それ以前には、シナバーという都市の存在を感得してはいるものの、その正体を手探りしている。「ヘイズとヘテロ型女性」のおかげで最後の2本を書いた、書けたわけだが、シリーズを1本に纏めるにあたって、足りないものがあることに気づく。臍になる話が無い。そこで「何年ものちに」が生まれる。
念のために言えば、シナバーは場所ではない。それは「どこか」にあるのではなく、「いつか」にある。強いて言えば1976年に存在するとも言えるが、読者がこの本を読むその時点にあると言う方が適切か。同時に遙か未来のいつかにも在る。たぶん、我々の生きているこの宇宙のいつかではあるだろう。
さて、もう一度読まねばならないが、今度は原書で読みたい。うーむ、いったい山のどこにあるだろう。ブライアントの本はまとめて縛ってあるはずだが、なんとか探しださねばならない。この本は電子版ではだめだ。紙の本で読みたいのである。(ゆ)

コメント
コメント一覧 (2)
エドワード・ブライアントは高校生の頃にSFマガジンで読んだ「八月の上昇気流」が今のところ唯一の機会です。
おかげさまで読後感がよかったことなど思いだし懐かしかったのですが、いかんせん数十年経っていて細部は忘却の彼方です・・
それはもうまったく覚えがありません。でもそれでしたら、この『シナバー』はブライアントに再度親しむには絶好だと思います。ブライアントのみならず、20世紀アメリカSFとして第一級です。