田川さんが今年2月に亡くなっていた、と今月13日になって版元の作品社が公表。その記事が15日の新聞朝刊に一斉に載った由。公表が半年後になったのは、それなりの事情があるのだろうが、他人がどうこう言うものでもない。
あたしとしては、とにかく、最晩年の田川さんの謦咳に接することができたのは生涯最高の経験の一つだった。月に一度の軽井沢往復は財布への負担はたいへんだったけれど、むろんカネでは換算できないものだった。毎回最高のライヴに行った気分。
浅倉さんの時もそうだったけれど、田川さんを追悼するには、線香の1本をあげるよりも、その著書、訳書をあらためて繙き、自分なりに消化することだろう。少なくなった残りの時間の小さくない部分を注ぎこんで惜しくはない。それに田川さんの本はどれもたいへんに面白い。内容は高度で、簡単に消化できるものではないけれど、読んでいる間はとにかく面白くてしかたがない。宮��市定の著作もそうだから、真に偉大な学者の書くものはそういうものなのだろう。
あの厖大な『新約聖書 訳と注』の注がそれはそれは面白いのは不思議だ。内容はどうしてこの訳文になるかの理由、決定のプロセスの解説である。新約聖書には原本は無い。残っているのは写本だけだ。成立後1世紀から2世紀以上経って作られた最古の写本が原本に最も近いわけだが、複数のそうした写本の内容が一致しないどころか真向から矛盾する箇所も少なくない。写本以外の史料なども援用しながら、どれが原本の本文として妥当か、様々な角度から比較検討して決定してゆくのが「正文批判」と呼ばれる作業。まずこれを徹底的にやっている。さらに、原文のギリシャ語を検討し、著者の誤用、癖などまで解明してゆく。加えて従来の訳との比較も行う。『黙示録』に顕著だが、誰が書いたかまで推定する。むろん個人を特定できるわけではないが、『黙示録』の場合、明らかに著者が二人いることを示す。
という内容ならば、話は重箱の隅をつつくように、微に入り、細を穿つものになり、専門的になる。普通なら退屈で1ページと読んでいられない、はずだ。それが息をもつかせず面白いのだ。思わずどんどん読んでしまう。やめられない。時の経つのも忘れる。独得の口調もあるかもしれないが、それよりもそこに展開されるドラマ、ほんのささいな文章の違いが秘めている壮大なドラマが、ぶわっと眼の前に開けるからではないか。
欧米の文物に多少とも関心があれば、キリスト教は避けて通れない。我々日本語ネイティヴは一神教を感覚的に受入れないから無意識のうちにも外して捉えようとするけれども、それは勘違いの元になる。一見、キリスト教のカケラも無いような作品でも、底の底にはキリスト教の価値観が流れている。我々にとって仏教、それも大乗仏教の世界の見方が無意識の底にあるのと同じだ。キリスト教について、とにもかくにも自分なりにケリをつけないかぎり、真相に近づくこともできない。幕末から明治期に欧米の文物をとりいれようとした先祖たちは、急ぐ必要もあって、やはりキリスト教は棚に上げたから、その把握には偏りがある。
田川さんはあたしにとってキリスト教について信頼できる師匠だ。キリスト教について詳しく研究しようという人はまず例外なく信徒だ。ということはキリスト教にとって不利と判断したことはどうしても表に出さなくなる。それも無意識にやることもある。外部からキリスト教について知りたいとアプローチする時に、これは困る。田川さんはクリスチャンとして、おそらく誰よりも真剣に深くキリスト教について調べ、考える一方で、キリスト教の信仰からは距離を置いていた。つまりキリスト教信条の根幹であるイエスの復活を信じていなかった。そこが非クリスチャンであるあたしは信頼できるところだ。キリスト教については、まずこの人が言っていることを土台にできる。中国史については宮��市定の言っていることが土台にできる。イスラームについては井筒俊彦の言っていることが土台にできる。それと同じレベルで、キリスト教について何か知りたかったら、まず田川さんにあたる。その点では、常々言っていた『新約聖書概論』よりも、あたしとしては田川さんによる原始キリスト教の歴史、イエスの死後、新約聖書が成立するあたりまでの通史を読みたかった。
神を信じないクリスチャンを自称していた田川さんが信じていたのはイエスその人の存在と行動の偉大さだ、とあたしは見る。ナザレのイエスと呼ばれる人物は人類の歴史上稀に見る、突出した存在だったので、かれがやったことを適確に理解し、その遺産を受けつぐことこそが、キリスト教徒がやるべきことであり、また可能なことである、と田川さんは言っていた、と思う。
イエスがどれくらい偉大であると田川さんは見ていたか。もちろん軽々な比較を田川さんがするはずもないが、たとえば仏陀やムハンマドよりも偉大だとみなしていたとあたしには思える。何よりもイエスはその行為によって殺されている。しかも、こういうことをやれば殺されるとわかっていながら、それをやった。せずにはいられなかった。あえてつけ加えれば、自分が殺されるありさまが後々伝わるような形で殺されるべく、ふるまった。
仏陀もムハンマドも畳の上で死んでいる。しかも死んだ時には、小さなものではあれ、自分に従う人々の集団をもち、その人たちに見守られて死んだ。イエスはただ独りで行動し、殺された時にも後に従う者は誰もいなかった。一番弟子すら、ともに殺されることを恐れて嘘をついて逃げている。いわゆる十二使徒がイエスの言動の意味を理解していなかったことは、新約聖書に繰返し述べられている。田川さんの訳による新約聖書には繰返し述べられている。
支持されることも、理解されることも自分からは求めず、ただ独りで行動し、殺された。その行動が克明に記録されて、二千年後にまで伝えられている、というような人間が他にいるか。政治家や王など権力を求める者などは最初から比べものにならない。強いて言えば、ガリレオとか、コペルニクスとか、ダーウィンとか、アインシュタインといった人たちだろう。少なくとも個人としては。
田川さんはこのイエスの偉大さとその行動の意味を適確に把握して伝えることが自分の使命だと考えていた。だから、田川さんの本を1冊あげろと言われれば『イエスという男』それも田川さんの言うように第二版だ。第二版にはコンゴの体験が入っているからだ。『新約聖書 訳と注』の仕事も、根幹にある動機は同じだ。『新約聖書』としてまとめられ、歴史的にそのまとまりで読まれてきている以上、全体を相手にせざるをえず、それはそれで豊饒な副産物を産んではいるけれども、田川さんとして何よりも四福音書をやりたかったのではないか。
![イエスという男 [ 田川 建三 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/6814/9784878936814_1_5.jpg?_ex=128x128)
イエスという男 [ 田川 建三 ]
イエスという男 [ 田川 建三 ]
というのは、やはり下司の勘繰りの類であろう。もっとも『新約聖書』をアンソロジーとして見たとき、いかにとっちらかった、出来の悪いものであるか、よくわかるのも田川さんの仕事の収獲の一つではある。
さようなら、田川さん。田川さんこそは、天国に行くべき人だと思います。審判の日まで待たずとも、直行できる人の一人であるとクリスチャンならぬぼくなどが言っても無意味かもしれませんが、それでも天国でのご冥福をお祈りいたします。合掌。(ゆ)

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