ボブ・ウィアが亡くなったと家族が発表していました。享年78歳。昨年7月がんを宣告され、それは克服したものの、隠れていた肺の疾患があった由。Dead.net にはデヴィッド・レミュー、ミッキー・ハート、ジェリィ・ガルシアの遺族、グレアム・レシュ(フィルの息子)、ブルース・ホーンスビィ、それに誰かわかりませんが JohnBo なる人物の弔辞が出ています。ビル・クロイツマンからのものが無いのは気になります。

2026-01-16 追記
 今朝見たら、クロイツマンが長文を寄せていました。かれにしか書けないことも多々あり。他にも追悼文が追加されています。コメント欄も興味深いです。


 グレイトフル・デッドの創設メンバー、いわゆるコア・メンバーの最年少。ジェリィ・ガルシアの5歳下。1963年の大晦日、サンフランシスコの街を友人と歩いていたウィアは聞えてきたバンジョーの音に誘われて、ある楽器店に入ります。バンジョーを弾いていたのがガルシア。当時ベイエリア随一のバンジョー弾きと目されていました。ウィアは持っていたギターで合わせ、2人は意気投合して、ジャグ・バンド Mother McCree's Uptown Jug Champions を結成します。これがやがて The Warlocks となり、Grateful Dead となるのはすでに歴史です。

 The Warlocks の創設メンバーはガルシア、ウィアとロン・ピグペン・ロカナン、それにビル・クロイツマン。ピグペンは途中退場し、最後まで通したのがガルシア、ウィア、クロイツマン。うちクロイツマンは一度病欠しています。グレイトフル・デッドの全てのショウに出た「皆勤賞」はガルシアとウィアのみでした。むろん、容易なことではなく、一度などふらふらで、〈Playing In The Band〉の最初と最後だけステージに上がったこともありました。ガルシアも喉頭炎で声が出ないまま、ショウを続けたことがあります。

 メンバー中の最年少として、当初かれは「みそっかす」ないし「ボーヤ」の扱いを受けていたらしい。もっとも当人はそれを苦にした気配はありません。1969年にはピグペンとともに、バンドを離れることが真しやかに伝えられます。実際2人を排除する動きもあったようですが、結局バンドは69年から1970年にかけて路線を転換し、ほとんど別のバンドに生まれかわります。新しいバンドはガルシア—ウィアを軸としたアメリカーナ・デッドでした。従来のバンドはピグペン—レシュを軸とした前衛サイケ・ブルース・デッドと言っておきます。

 以後、ウィアの役割は大きくなってゆき、ステージ上のバンマスになります。ガルシアにソロを促したり、全体のジャムの潮時をはかってまとめに入る合図を出すのはウィアでした。

 デッドは30年のキャリアのうちにバンドとして大きく変化しています。それとともにメンバーも各々に変化しました。その中で最も大きく変化したのがウィアです。ギタリストとしてもシンガーとしてもその成長を追うのも愉しい。個人的には1970年代後半、やはり先日78歳で亡くなったドナ・ジーン・ガチョーとのデュエットがデッドを聴く最も大きな愉しみの一つです。

 ジョン・ペリィ・バーロゥとのコンビはロバート・ハンター&ジェリィ・ガルシアのコンビと対照的な歌作りで、デッドのレパートリィを豊かにしました。デッドを貫く「双極の原理」の顕著な現れの一つです。

 デッドがアメリカ音楽界のトリックスターであるとすれば、ウィアはその中のトリックスターであるともいえます。かれは根っからのいたずら好き、何かきっかけがあれば、いたずらをせずにいられない性格に見えます。対象がリスクの高いものになるほどいたずらをしかけたくなる。かれはディスクレシアであったそうですが、それすらもトリックスターとしての性格の現れと見えてきます。

 ポスト・デッドでウィアは良い年のとり方をしていたと思います。たとえばこの〈Loose Lucy〉の歌唱。



 元来ガルシアの持ち歌で、デッド現役時代にウィアが唄うことは考えられませんでした。これを聴くと、あるいはずっと好きでうたいたかったのかともみえます。とはいえ、ガルシアの歌唱にどうにもかなうはずもないことも自覚していたでしょう。ここではガルシアにはできなかった形でうたっています。

 メンバーのうち、ガルシアは別として回想録を出していないのはウィアだけです。今後出ることがあるのか。書いていて欲しいと願うのはあたしひとりだけではないはず。他のメンバーやクルーとは全く違った感覚を備えていたとみえるウィアが自分の体験をどう見ていたかはぜひ知りたいものです。

 ウィアは死を人生に対する報酬とみなしていました。文字通りの冥福を祈るものです。合掌。(ゆ)