百合ヶ丘駅前のジャズ喫茶「轍」での村井さんのレコード・リスニング・イベント。

 チャーリー・パーカーはまだよくわからない。凄いとは思う。そのソロの突拍子の無さもわかる。同時代の他の人たちとはいかにかけ離れたことをやっていたか、思い知らされたこともある。しかし、面白いと心の底から納得できたことがない。たぶんまだ聴くのが足らないのだ。パーカーは1曲が短すぎる。だから何度も聴かねばならない。いーぐるの後藤さんがやったように、毎日時間を決めて浴びるように聴いていると、ある日霧が晴れるように、あるいは天啓のように、その神髄を実感できるのだろう。たぶん。そうできるという保証はない。後藤さんのように、ジャズ喫茶で生きてゆくというような、退くに退かれぬ動機がないと、なかなかできるものではない。あたしはまたそこまでパーカーにやむをやまれぬものを感じられない。

 今回村井さんは2、3曲ずつまとめてかけた。生誕百周年記念で出た十インチ盤の片面全部とか半分とかの形だ。トータル18曲。これだけまとめてパーカーを聴くこともあまりないでしょうともおっしゃる。ジャズ喫茶ではまずかからない。パーカーはジャズ・マニアでも敬して遠ざける。

 もっともそうなってくると、天邪鬼のあたしは、よーし、パーカー聴いてやろうじゃないか、という気になる。

 パーカーが敬して遠ざけられる理由の一つは、パーカーの音楽がリスナーを集中させることにあるらしい。たいていの人はジャズをリラックスするために聞くようだ。そのことは植草甚一も書いていた記憶がある。ジャズが例えばポップスやロックにくらべて格段にゆるい音楽であることは実感している。ポップスは3分間でリスナーを捕まえなければならない。ジャズはヒットを狙わないし、3分間という制約もない。

 一方パーカーはSP片面3分間に可能とは思えないほどの即興をぶち込んでくる。おそらく本人としてはそうせずにはいられなかったのだろう。メロディがあふれてきて、早く出せと責めたてる、という風ではなかったか。即興をしない方が苦しいのだ。パーカーの録音を聴いているとそうきこえることがある。自律的に音楽を演奏しているというよりも、あふれてくるものを流し出すのに精一杯と見える。音楽にパーカーが使われている。他のこと、例えば食事とか、健康とか、人間としてのつきあいとか気にかけている余裕がない。自分の中から生まれてきてしまう音楽をひたすら吐きだす。それを続けるためにアルコールとドラッグに頼る。検死した医師が肉体年齢50代と言ったそうだが、音楽にこき使われた末の結果ではなかったか。

 それで思いだすのはジェリィ・ガルシアだ。彼はパーカーの34歳よりは20年近く長く生きて、53歳で死んだが、50代になった時には60代かそれ以上に見えた。共作者のロバート・ハンターによれば、ガルシアは自分は長生きしないと自覚していたそうだ。パーカーもまた長生きはできないとわかっていて、できる限り早く、吐き出せるだけ吐きだそうとしていた、ように見える。もし彼がLP時代まで長生きしていたとしても、10分になるような演奏はできなかったにちがいないとも思えてくる。

 パーカーの音楽はジャズを変え、それ以後ジャズをやっていますと言うほどの人間はプロアマ問わずパーカーの影響のもとにある、と村井さんは言う。ということはジャズを聴く人間もまたパーカーの影響のもとにある。ジャズを聴こうという人間は、好むと好まざるとにかかわらず、パーカーを聴いていることになる。

 とはいうものの、パーカーそのものを聴くよりも、パーカーの影響を受けた人たちの音楽の方が面白いと感じるリスナーの方が多そうだ。本当に巧い人は人気が出ない、適当にヘタの方がウケるものだ、とは、あたしの音楽の師匠のひとり、星川京児の言葉だ。あたしもそういう一人ではあって、この日も前半のパーカー18連発よりも、後半のマクリーン、ウッズ、ナベサダの三人の方が面白く、この三人はもっと聴こうという気になる。

 マクリーンとウッズはパーカーの11歳下、ナベサダは13歳下。マクリーンとウッズはパーカーの生も聴いていたはずだ。ナベサダがパーカーに接するのは戦後のはずで、録音を通じてだろう。

 村井さんは3人3曲ずつ、パーカーの影響の濃いものと、より後期の独自色が出てきた時期の録音を選んだ。我ながら興味深かったのは、後の方が面白かったことだ。やはりね。

 マクリーンは以前 Billy Gault というピアニストのつながりで、1975年の The Cosmic Brotherhood のアルバムを面白く聴いたことがある。今日もパーカーの直接の影響から脱した1962年の 〈Rene〉が良かった。この後、オーネット・コールマンとも共演するそうだから聴いてみよう。

 フィル・ウッズは1957年の2曲の後の1975年の〈Chelsea Bridge〉と〈Johnny Hodges〉のメドレーの、特に後半のジョニィ・ホッジズがいい。

 ナベサダは時間がなくなって、1976年と2023年の2曲。これは圧倒的に2023年の〈Peace〉。ウクライナ戦争が始まってからライヴでは必ず演奏している由。93歳でばりばり現役といいうだけではないのだ。前回聴いたチック・コリア、ヴィトウス、ディジョネットとのフリーはあまりの良さに CD を買ってしまったが、ナベサダはちゃんと聴こう。にしてもジャズはレコードが多すぎる。

 こういう人たちを聴いて楽しむにつけても、パーカーはやはり聴かねばならない。だいたいわかるまでに時間がかかるものはホンモノだ。聴いてぱっとわかって好き嫌いが出るというのは、実は底が浅い。忘れるのもすぐだし、忘れていい。

 パーカーは忘れるわけにはいかない。ジャズの本質を成している。少なくとも本質の不可欠の一部を成している。多少とも身を入れてジャズを聴こうというのなら、パーカーは避けて通れない。神棚に上げておくわけにもいかない。パーカーを敬して遠ざけることは、わたしにはジャズはわかりませんと宣言することに等しい。パーカーは面白いと心底感じる必要がある。そこまで行けるか。あたしにジャズがわかるか。

 音楽にはどのジャンルにも、そうした「踏み絵」になるアーティストがいるのではないか。クラシックならさしづめハイドンだろうか。ロックならザ・フーまたはキンクスはどうだろう。(ゆ)