どういうわけで能楽堂でやることになったのか知らないが、結果としてはまことにハマった企画だった。本人が能楽堂でやりたいと言ったのだろうか。
この企画のチラシを見るまではジル・アバップ Gilles Apap という人は全く知らなかった。元々はクラシックの人であるらしい。が、チェロのジョヴァンニ・ソッリマのように、クラシックだけやっていると退屈してしまうのかもしれない。ヴァイオリンを使う音楽なら何でもやりたがるし、またできてしまう。生で見て驚いたのはクラシックからアイリッシュへ、スウェディッシュへ、はたまたなんじゃもんじゃへ、いとも簡単に何の区切りもなくすっと転換してしまうことである。しかもその一つひとつがホンモノなのだ。借り物とか、ちょっとやってみましたとか、マネしてますというところがカケラもない。ネット上の動画を見る程度ではここまではわからなかった。むしろ、それらを見て、どことなくうさん臭ささえ感じていた。しかし、生は正直だ。あるいは生を見なければわからないのだろう。ソッリマだって生を見るまでは半信半疑だった。
アパップはとにかくヴァイオリンが好きで好きでたまらないのだろう。ヴァイオリンを弾くことが三度の飯より好きなのだ。
ところで今回演奏はすべて生音だった。クラシックならば当然だし、クラシック用の会場、たとえば上野の文化会館小ホールならば問題ないだろう。実際今回の演目をあそこで見て聴いてみたいと後で思ったことではある。それが実現したら頭から湯気を立てて怒る人もいるのだろうか。そんなことは時代錯誤でしかないが、しかしこれがあそこではなく、能楽堂で行われたことをあたしは喜ぶ。
能楽堂は生音が通るように造られているとみえる。舞台の上で発する音も声もよく聞える。河村さんが1曲ギターを弾きながら歌ったその声も言葉もギターはっきり聞えた。他の各々の楽器、ヴァイオリンにしてもチェロ、バンジョー、アコーディオン、皆明瞭でしかも不思議にバランスがとれている。どれかが大きすぎて他を隠すなんてこともない。
能楽堂の常で、客席は舞台から見て正面から右へ九十度の角度の中に設置されている。正面一番奥の舞台から見て右端、出入口のすぐ傍に座ったが、後であたしからは左側の、舞台を横から見る席でもよかったかと思った。途中休憩があったら移っていたところだ。
そう休憩無しで1時間半は優に超えていた。アパップはその間出ずっばりである。プログラムの組立ては、アパップがまず独りで出てきてひとしきり演奏してから、酒井絵美さんから順番に入れ替わり立ち替わりミュージシャンが出てくるのをアパップが迎えて共演する。出てくる人たち各々得意のジャンル、スタイルの音楽にアパップは悠々と合わせるのだ。
加えてこのコンサートに先立って行われたワークショップに参加した人たちの中からの志願者から成るサクラ・チェンバー・オーケストラが最初と最後に花を添えた。3歳ぐらいの子から年配者まで、5人ほどの未就学児を含む総勢20名ほどのグループ。
あたしとしては一番楽しみにしていた太田惠資氏が体調を崩して欠席してしまったのは実に残念だったが、その穴が穴と感じられないくらい充実していた。
トップバッターは酒井さん。ハーダンガー・フィドルでノルウェイをはじめとするスカンディナヴィアの音楽をしかけるのにアパップは余裕で応じる。ちゃんとハモってみせるのには舌を巻く。普通のフィドルでアイリッシュを始めるのにも平然とついてゆく。アパップはアイリッシュが好きらしく、やはりコンサートの数日前、都内の定期セッションにふらりと現われ、大いに楽しんだらしい。
続くは新倉瞳さん。こういうところに出てくるのはいかにも新倉さんらしい。ハンガリーかルーマニアのチューンをやってから、オペラの抜粋を2曲にヘンデルのパッサカリアというクラシックの選曲。アパップはクラシックは暗譜だ。堂々たるクラシック・ヴァイオリン。チェロとのデュエットはすばらしい。そして新倉さん得意のクレズマー、しかも歌う。アパップの楽器はたちまちクレズマー・フィドルになる。これまた楽譜なし。
三番手は山田拓斗&小寺拓実。フィドルとバンジョーのデュオ。オールドタイムからジャズのスタンダードをやるのだが、2人ともまあ上手い。アパップはまたするりと変身している。その変身がいかにも自然だ。今やっているこの音楽が好きで好きでたまらないのがよくわかる。
この辺りでようやく納得がいった。先に書いた、この人はヴァイオリンが大好きだということに。音楽のジャンルもスタイルも問わない。このカタチの楽器で演奏されるものならどんなものでも好きなのだ。そして自分も演奏しようとする。できてしまう。それも中途半端や借り物でなく、ホンモノとしてできてしまうのがこの人の異常なところだ。土台はクラシックだろう。クラシック・ヴァイオリンを学べばどんな音楽にも応用が利く。一方で、各々の伝統音楽特有のノリを身につけるには苦労するかもしれない。その点、アパップはそこも見事にノってゆく。これはあるいは天性のものかもしれない。
小寺氏のバンジョーに耳が引っぱられた。しかも実に端正な演奏で、もっと聴きたくなる。
次はアラン・パットン。ピアノ・アコーディオンを抱えてくる。まずは〈オー・シャンゼリーゼ〉日本語版。この人のライヴは一度見たことがある。この人も多才多芸。今回も後でノコギリ・ヴァイオリンを披露する。両刃の大きなノコギリを曲げながらヴァイオリンの弓でこする。曲げ具合で音階を出す。
磯部舞子さんが加わり、3人で舞台の上を回りながら演奏する。なにかよくわからないが底抜けに楽しい。
パットンと交替で河村博司さんが登場して1曲歌う。サポートするアパップと磯部さんのヴァイオリンがちゃんとハモっている。
2曲目は磯部さんのインストルメンタル。即興パートでは2人のヴァイオリンが変奏のかけ合いをする。いやスリリング。磯部さん、アパップとこういうので1枚作ってください。
ここで今日参加ならなかった太田氏に捧げるとして〈これが自由というものか〉を河村さんが音頭をとって歌う。ミュージシャンたちも加わる。
サクラ・チェンバー・オーケストラ再登場。磯部さんはアパップに何か一つ日本の曲をもって帰ってらいたいと考えて、自分としてはこれしかないと〈サクラ〉を選んだ。全員で演奏するのだが、ひとしきりやったところで酒井さんが進みでて北欧風にアレンジしてソロをとる。チーフテンズがコンサートの最後にいつもやっていたアレだ。引込むとまた全員で一小節。以下、ミュージシャンたちが各々の流儀でアレンジして聴かせる。山田&小寺、新倉、パットンはノコギリ・ヴァイオリン。アパップがクラシック調にアレンジ。締めは磯部&河村のコンビでロック調にかなりすっとんだアレンジ。最後に河村さんが音頭をとり、客席も一緒にうたって幕。
今回の企画はアパップに惚れこんでどうしても日本に呼びたいと磯部さんが奮闘して実現されたものと聞く。アパップにはそういう魅力がある、というのをまざまざと実感した。この形はかれの幅の広さと懐の深さ、音楽家としてのスケールの大きさを実感させてくれて大成功だと思う。たいへんではあろうが、ぜひ、再度来てもらって、今度はアパップ自身の音楽をじっくり味わってみたい。
磯部さんはじめ関係者の皆さん、まことにありがとうございました。(ゆ)


