クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

カテゴリ: News

 Axell Grell が Drop と共同開発していたヘッドフォンがいよいよ出来上がり、予約受付が開始されています。



 通常399USDのところ、今なら349USD。さらに、送料もサービスです。チェック・アウトで20ドル加算されますが、後で返金されました。あたしは paypal を使いました。

 まだ製造中で、発送は2カ月先。

 なお、1,000台限定だそうです。

 アクセル・グレルはゼンハイザーでHD800シリーズを作った人物。イヤフォンの IE800もかれの仕事です。ゼンハイザーの民生部門が売却された前後にゼンハイザーを辞めて独立したと記憶します。そこで出したのはイヤフォンで、ヘッドフォンは独立後はこれが初めてのはず。  > Neuman NDH30 がかれの仕事でした。





 HD800シリーズはドライバーが耳に対してまっすぐではなく、前方から斜めに角度がつけられてますけど、今回はそれをさらに徹底しているようです。



 Head-Fi のジュードがグレルにインタビューしているビデオ。グレルが手に持っているのがドライバー。大きなドライバーの中に、偏ってもう一つ小さなドライバーが着いてます。

 オープン・バックですが、低域は密閉型と同じくらいあるらしい。ジュードが低域の豊かさに驚いてます。

 グレルによれば、人は低域を耳だけでなく、頭をはじめとした体でも聴いているので、そこに配慮したそうな。

 計画が発表された時から楽しみにしてました。円安ですが、そんなことは言ってられません。(ゆ)

 スコットランド音楽の「ナショナル」・レーベル Greentrax Records の創設者 Ian D. Green が今月10日に亡くなったそうです。1934年にスコットランド北東部インヴァネスの東の Forres に生まれて、享年90歳でした。死因は公表されていません。



 こんにちのスコットランド音楽の隆盛の少なくとも半分、実質的にはその大部分をグリーンの活動に負うと言って言い過ぎではありません。Greentrax Records が無ければシューグルニフティもピートボッグ・フェアリーズもデビューはずっと遅れたか、あるいはそもそも世に出られたかどうか、あやしいところがあります。Simon Thoumire が Hands Up Trad の追悼記事で書いているように、新人発掘にグリーンは特異な才能を発揮しました。才能ある新人を拾いあげるだけでなく、レコードを出すこととそのプロモーションを通じて確実にかれらの音楽の価値を広めました。ECM のように、Greentrax から出るものならば買って聴く価値があると認められました。

 Greentrax Records からのリリースにもお世話になりましたが、個人的にはグリーンが Greentrax を設立する前からやっていた Discount Folk Records の存在がありがたかったです。スコットランドの伝統音楽やフォーク・ミュージック、フォーク・ロックのレコードを買えるところとして頼りにしていました。むろんネットなどまだ無い頃で、初めの頃はファックスでやりとりしていたと思います。一番最初、1980年代半ばはたぶん手紙だったでしょう。

 一方 Greentrax がリリースするタイトルの幅はひじょうに広く、スコットランド音楽の最先端から、エディンバラ大学スコットランド研究所が出していたアーカイヴ録音のシリーズや、ハイランド・パイプの芸術音楽 piobaireachd ピブロックの名手たちの貴重な音源まで出していました。ケープ・ブレトンはじめ北米のスコットランド系ミュージシャンもいます。グリーンの懐の深さがしのばれます。

 グリーンの職業はエディンバラ警察の警察官でした。1960年代に Edinburgh Police Folk Club を作ったというのもいかにもスコットランドらしいです。さらに Edinburgh Folk Club の創設メンバーであり、スコットランド音楽の雑誌 Sandy Bell’s Broadsheet の編集にも関りました。The Living Tradition はこの雑誌の後継者でありました。ちなみに Sandy Bell はエディンバラの有名な音楽パブで、ここでのライヴを集めたオムニバスも出ています。

 グリーン本人はミュージシャンではなかったそうですが、その貢献はどんなミュージシャンよりも大きいものがあります。スコットランドの音楽を教えてくれた師匠の一人として、感謝をこめて、ご冥福をお祈りします。合掌。(ゆ)

 HiBy の DAP、RS2 のファームウェアに 1.1が出ています。

 変更点は
1. ショートカット・メニューのカスタマイズ。ドロップダウン・メニューとクイック・アクセスをカスタマイズできるようになった。
2. DSD 再生の最適化。
3. 「フォーマット」のカテゴリーを「アルバム・アーティスト」に変更。
4. 様々なバグ・フィックス。

 アップデートの方法。
イ. ダウンロードした zip ファイルを解凍。
ロ. できたフォルダの中の RS2.upt ファイルをマイクロSDカードのルート=最上層にコピー。
ハ. このマイクロSDカードを #1 のスロット、つまり正面から見て左側のスロットに挿入。
ニ. システム設定> ファームウェア・アップデート(一番下)をタップ。「確定」をタップ。

 これでアップデートが始まります。無事終ると自動で再起動します。(ゆ)

 macOS Sonoma 14.0 でも AquaSKK は問題なく使える。

 毎度のことながらほっとする。

 入力ソースを変更するごとにカーソルのあるところに小さくアイコンが出る。ちょとわずらわしいが、切る方法がわからない。

 ついでながら、ドックの「最近使ったアプリ」が正常に動作するようになった。ドックを再起動しなくてもすむ。(ゆ)

2023-09-30追記
 ドックの「最近使ったアプリ」はやはりダメで、Mac を一度眠らせたりすると、再起動しないと正常に動作しない。

 ベルリンで開かれたコンシューマ向け電子機器の見本市 IFA でデノンが CEOL N-12 なるCDレシーバーを発表したそうな。
 


 CDプレーヤー、FMラジオ、ストリーマーが一体になっている。WiFi、イーサネット、Bluetooth でつなげられる。AirPlay2、Tidal、Amazon Music HD、Spotify などを聴くことができる。Bandcamp もOKだろう。USB入力もあるから、NAS 内のオーディオ・ファイルも再生できる。HDMI ARC をサポートしてテレビにもつなげられる。ヨーロッパでは10月01日、699EUR で発売。そのまま換算すれば11万円強。

 あたし的に問題なのはモデル名が "CEOL" であること。知ってる人は知ってるが、これはアイルランド語やスコティッシュ・ゲール語で「音楽」を意味することば。デノンにアイリッシュ・ミュージックのファンがいるのか、は別として、アイリッシュ・ミュージックやスコティッシュ・ミュージックを聴くにふさわしいマシンなのか。

 どこかで試聴できればいいんだが、こういう大手メーカーのマスプロ製品をまっとうに試聴するのは案外難しい。試聴機を借りられればベストだが、そういうシステムがあるかどうか。問合わせてみるか。(ゆ)

 チーフテンズのフィドラー、ショーン・キーンが亡くなった。享年76。7日日曜日の朝、突然のことだったそうな。心臓が悪いとのことだったから、何らかの発作が起きたのか。

 これでチーフテンズで残るはケヴィン・コネフとマット・モロイの二人になった。

 ショーンのフィドルはバンドの華だった。チーフテンズの歴代メンバーは全員が一騎当千のヴィルチュオーソだったけれど、ショーン・キーンのフィドルとマット・モロイのフルートはその中でも抜きんでた存在だった。そして、この二人は技量の点でも音楽家としてのスケールの大きさの点でも伯仲していた。ただ、マットにはどこか「求道者」の面影がある一方で、ショーンは明るいのだ。

 美男子というのとは少し違うが、背筋をすっくと伸ばしてフィドルを弾く姿は、バンド随一の長身がさらに伸びたようで、誰かがギリシャ神話の神のどれかが地上に降りたったようと言っていたのは当を得ている。後光がさしていると言ってもいい。表面いたって生真面目だが、その芯にはユーモアのセンスが潜んでもいる。

 そして、そのフィドルの華麗さ。圧倒的なテクニックを存分に披露しながら、それがまったく鼻につかず、テクだけで魂のない演奏に決してならない。アイリッシュ・ミュージックは実はジャズ同様、「テクニックのくびき」がきついものだが、また一方でテクニックだけいくら秀でても、たとえばセッションの「道場破り」をやるような人間は評価されない。

 ショーンのフィドルは華麗なテクニックにあふれながら、同時にその伝統を今に担い、バンドの仲間たちと、リスナーとこれをわかちあえる歓びに満ちて、輝いている。マットがテクだけだとか、輝いていないというわけではもちろんなく、これはもう性格の違いだ。チーフテンズの顔といえばパディ・モローニだが、チーフテンズの音楽の上での顔はショーン・キーンのフィドルなのだ。モローニだって、その気になれば有数のパイパーだが、音楽の上でそれを前面に押し出すことはしなかった。

 ショーン・キーンのフィドルがチーフテンズの音楽の顔であることの一つの象徴は《In China》のラスト・トラック〈China to Hong Kong〉冒頭のフィドルだけの演奏だ。中国のどこかの伝統曲とおぼしき曲をアイリッシュ・ミュージックのスタイルで弾いて、しかも一個の曲として聴かせてしまうトゥル・ド・フォースだ。異なる伝統同士の異種交配のひとつの理想、ひとつの究極だ。

 ショーン・キーンにはチーフテンズ以外にもソロや、マット・モロイとの共演の録音がある。そこではチーフテンズとは別の、伝統のコアにより近い演奏が聴ける。ショーン個人としては、むしろこちらの方が本来やりたかったこととも思える。こうしたソロ・アルバムを作ることで、チーフテンズとのバランスをとっていたのかもしれない。

 76歳という享年は今の時代若いと思えるが、チーフテンズの一員としての活動やソロ・アルバムによって与えてくれた恩恵ははかりしれない。心からの感謝を捧げるばかりだ。(ゆ)

 夕食後、虫の知らせか、めずらしく Twitter をながめているとあらひろこさんの訃報が入ってくる。闘病されていた由。とすると昨年11月に「ノルディック・ウーマン」のステージで見たのが最後。ステージではご病気の様子などはカケラも無く、すばらしい音楽の一翼を担っていた。

 あらさんの生は何度か見ているはずだが、記録に残っているのは2019年10月、馬頭琴の嵯峨治彦さんのデュオ Rauma にハープの木村林太郎さんが加わった時のものだけだ。あれは実にすばらしかった。

 今でこそカンテレもごく普通の楽器で、本朝では本国フィンランド以外で、フィンランドとは無縁の地域としては演奏者人口が最も多い、と他ならぬあらさんに伺った。そうなったことには、あらさんの尽力が大きいのだろう。単に演奏し、作曲する音楽家としての活動にとどまらない、器の大きなところが、あらさんには感じられた。ごく浅いおつきあいしかしていないのに、そう感じられるくらいだ。

 どんなものであれ、異邦の文物が根を下ろすには、それにとらわれたことを幸運としてすべてを捧げる人間が必要だ。

 ご自身の音楽にも器の大きなところは出ている。伝統に深く掘りすすみながら、同時に外からの要素を大胆に注入する。馬頭琴とのデュオというのは、伝統の外にいるからこそ可能なのだし、また伝統にしっかりと根をおろしているからこそ、そこから生まれる音楽に魂が宿る。一方で、鍛えられたバランス感覚と、冒険を愉しむ勇敢さを必要とする危うい綱渡りでもある。そういうことができる人間を一言でいえば、スケールの大きな英雄だ。

 あらさんの音楽を初めて聴いたのはいつだったろう。たぶん2007年のセカンドの《Moon Drops》ではなかったか。2004年のファーストの《Garden》は後追いというかすかな記憶がある。手許に残された音楽はあまりに少ないが、どれも珠玉と呼ぶにふさわしい。

 人は来り、人は去る。されど、音楽は残る。(ゆ)

 Peatix からの知らせで、マイケル・ルーニィ、ジューン・マコーマックとミュージック・ジェネレーション・リーシュ・ハープアンサンブルの公演の知らせ。パンデミック前に松岡莉子さんが手掛けていた企画が、二度の延期を経て、ようやく実現したものの由。ルーニィとマコーマックの夫妻だけでも必見だが、九人編成のハープ・アンサンブルが一緒なのはますます逃せない。即座にチケットを購入。






 Dead.net から今年のビッグボックス《Here Comes Sunshine 1973》の案内がきたので、早速注文。送料70ドル。計256.98USD。円安がまた進行しているし、送料は相変わらずだが、やむをえん。


 
 収録されるショウは以下の5本。CD17枚組とダウンロード。

1973-05-13, Iowa State Fairgrounds, Des Moines, IA
 第一部クローザー〈Playing in the Band〉が2010年の《30 Days Of Dead》でリリース。
 
1973-05-20, Campus Stadium, University Of California, Santa Barbara, CA

1973-05-26, Kezar Stadium, San Francisco, CA
 第二部6曲目〈Box or Rain〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリース。

1973-06-09, RFK Stadium, Washington, DC

1973-06-10, RFK Stadium, Washington, DC
 第一部クローザー前〈Bird Song〉が2011年の、第二部4曲目〈Here Comes Sunshine〉が2017年の《30 Days Of Dead》で、第三部オープナー〈It Takes A Lot To Laugh It Takes A Train To Cry〉が《Postcards Of The Hanging》で、各々リリース。

 この06-10のショウが独立でCD4枚組、LP8枚組で各々リリース。

 この5本は4月2日までの春のツアーと6月22日からの夏のツアーの間の時期で、この期間、ショウはこれで全部。

 RFK Stadium の2日間はオールマン・ブラザーズ・バンドとの双頭ヘッドで、ダグ・ザームとウェット・ウィリーが前座。9日はデッドが先、10日はデッドが後。10日第3部にはマール・ソーンダース、ディッキー・ベッツ、ブッチ・トラックスが参加。

 ライナー執筆陣の一人 Ray Robertson は《Dave's Picks, Vol. 45》に続いての登場で、あのライナーはなかなか良かったので楽しみ。(ゆ)

 バンド結成60周年記念で出ていたクラダ・レコードからのチーフテンズの旧譜10枚の国内盤がめでたく来週03月15日に発売になります。ちょうどセント・パトリック・ディの週末ですね。

ザ・チーフタンズ 1 (UHQCD)
ザ・チーフタンズ
Universal Music
2023-03-15

 

 いずれも国内初CD化で、リマスタリングされており、おまけに「高音質CD」だそうです。これらはもともと録音もよいので、その点でも楽しめるはずです。

 今回再発されるのは1963年のファースト・アルバムから1986年の《Ballad Of The Irish Horses》までで、ヴァン・モリソンとの《Irish Heartbeat》以降の、コラボレーション路線のチーフテンズに親しんできたリスナーには、かれらだけの音楽が新鮮に聞えるのではないでしょうか。ファーストから《Bonapart's Retreat》までは、バンドの進化がよくわかりますし、《Year Of The French》や《Ballad Of The Irish Horses》では、オーケストラとの共演が楽しめます。《Year Of The French》はなぜか本国でもずっとCD化されていなかったものです。

イヤー・オブ・ザ・フレンチ (UHQCD)
ザ・チーフタンズ
Universal Music
2023-03-15



 以前にも書きましたが、このライナーを書くために、あらためてファーストから集中的に聴いて、かれらの凄さにあらためて感嘆しました。まさに、チーフテンズの前にチーフテンズ無く、チーフテンズの後にチーフテンズ無し。こういうバンドはもう二度と出ないでしょう。

 言い換えれば、これはあくまでもチーフテンズの音楽であって、アイリッシュ・ミュージック、アイルランドの伝統音楽をベースにはしていますし、アイリッシュ・ミュージック以外からは絶対に出てこないものではあるでしょうが、アイリッシュ・ミュージックそのものではありません。伝統音楽の一部とも言えない。

 それでもなお、これこそがアイリッシュ・ミュージックであるというパディ・モローニの主張を敷衍するならば、そう、デューク・エリントンの音楽もまたジャズの一環であるという意味で、チーフテンズの音楽もアイリッシュ・ミュージックの一環であるとは言えます。

 ただ、ジャズにおけるエリントンよりも、チーフテンズの音楽はアイリッシュ・ミュージックをある方向にぎりぎりまで展開したものではあります。それは最先端であると同時に、この先はもう無い袋小路でもあります。後継者もいません。今後もまず現れそうにありません。現れるとすれば、むしろクラシックの側からとも思えますが、クラシックの人たちの関心は別の方に向いています。

 ということはあたしのようなすれっからしの寝言であって、リスナーとしては、ここに現れた成果に無心に聴きほれるのが一番ではあります。なんといっても、ここには、純朴であると同時にこの上なく洗練された、唯一無二の美しさをたたえた音楽がたっぷり詰まっています。

 ひとつお断わり。この再発の日本語ライナーでも「マイケル・タブリディ」とあるべきところが「マイケル・タルビディ」になってしまっています。前に出た《60周年記念ベスト盤》のオリジナルの英語ライナーが Michael Tubridy とあるべきところを Michael Turbidy としてしまっていたために、そちらではそうなってしまいました。修正を申し入れてあったのですが、どういうわけか、やはり直っていませんでした。

 ですので、「マイケル・タルビディ」と印刷されているところは「マイケル・タブリディ」と読みかえてくださいますよう、お願いいたします。なお、本人はメンバーが写っている《3》のジャケットの右奥でフルートを抱えています。

ザ・チーフタンズ 3 (UHQCD)
ザ・チーフタンズ
Universal Music
2023-03-15



 もう一つ。来週土曜日のピーター・バラカンさんの「ウィークエンド・サンシャイン」でこの再発の特集が予定されています。あたしもゲストに呼ばれました。そこではこの再発とともに、Owsley Stanley Foundation から出た、《The Foxhunt: San Francisco, 1973 & 1976》からのライヴ音源からもかけようとバラカンさんとは話しています。(ゆ)



 シェイマス・ベグリーが73歳で亡くなったそうです。死因は公表されていません。

 ケリィのゲールタハトの有名な音楽一族出身の卓越したアコーディオン奏者で、まことに渋いシンガーでした。息子のブレンダンも父親に負けないアコーディオン奏者でシンガーとして活躍しています。妹の Seosaimhin も優れたシンガーです。

 あたしがこの人のことを知ったのは前世紀の末 Bringing It All Back Home のビデオで Steve Cooney とのデュオのライヴを見たときでした。どこかのパブの一角で、2人だけのアップ。静かに、おだやかに始まった演奏は、徐々に熱とスピードを加えてゆくのはまず予想されたところでありますが、それがいっかな止まりません。およそ人間業とも思えないレベルにまで達してもまだ止まらない。身も心も鷲摑みにされて、どこかこの世ならぬところに持ってゆかれました。

 この2人の組合せに匹敵するものはアイルランドでもそう滅多にあるものではない、ということはだんだんにわかってきました。今は YouTube に動画もたくさんアップされています。シェイマスはその後 Jim Murray、Tim Edey とも組んでいて、それらもすばらしいですが、クーニィとのデュオはやはり特別です。

 本業は農家で、会いにいったら、トラクターに乗っていた、という話を読んだこともあります。プロにはならなかった割には録音も多く、良い意味でのアマチュアリズムを貫いた人でもありました。(ゆ)

 検索しても出てこないので、念のために書いておく。AquaSKK は macOS Ventura でも問題なく動く。まことにありがたいことである。すべてのアプリで試したわけではないが、Jedit Ω、mi、CotEditor、Pages、egword universal 2、メール、Safari では問題ない。すべて最新ヴァージョン。AquaSKK は 4.7.4 (=4.7.3)。SNS やチャット・アプリは試していない。不悪。(ゆ)

08月18日・木
 中国四川省は水力発電が盛んで、全土の2割以上、1億5千万キロワットを発電しているが、旱魃で水量が減り、発電量も減っている。今後さらに減ると予想されることから大幅な電力制限を実施。「2022年8月14日に緊急宣言を発し、2022年8月15日〜2022年8月20日まで、電力を使用するすべての産業に対して生産の完全停止を要求」と伝えられる。

 やり方が凄いが、それだけ危機感が大きいのだろう。

 気候変動はこういう形でも現れる。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月18日には1970年から1991年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ共演。第一部アコースティック・デッド、第二部 NRPS、第三部エレクトリック・デッド。3時間半の完全またはそれに近いテープが残っているらしい。非常に良いショウのようだ。

 第一部5〜7曲目で〈Ripple〉〈Brokedown Palace〉〈Operator〉がデビュー。3曲とも《American Beauty》収録。

 〈Ripple〉はハンター&ガルシアの曲。1988年09月03日まで41回演奏。ほとんどがアコースティック・セットで演奏され、とりわけ1980年のウォーフィールドとラジオシティでのレジデンス公演で集中的に演奏された。1988年の最後の演奏の一つ前は1981年10月16日のオランダ。
 人気の高い曲で、実際佳曲と思うが、デッドでの演奏は必ずしも納得のゆくものではない。むしろ、ジェリィ・ガルシア・バンドでの演奏の方が良い。実際、JGB ではデッドでの演奏が事実上終った後の1982年04月10日から1992年05月09日まで、68回演奏している。ガルシアはこの曲についてはデッドよりも、JGB やジェリィ・ガルシア・アコースティック・バンドで演る方がうまくいくと判断したのだろう。

 〈Brokedown Palace〉もハンター&ガルシアの曲録。こちらは1995年06月25日まで、220回演奏。演奏回数順では75位。〈Franklin's Tower〉よりも1回少なく、〈Cold Rain And Snow〉よりも4回多い。1980年以降はたいていクローザーないしアンコールで演奏された。こういう歌をお涙頂戴にならないで演奏するのがデッドの真骨頂。
 タイトルは英語としては破格で、普通なら "Broken-down" となるはずだが、スタインベックの Cannery Row(缶詰横丁) に出てくる、ホームレスたちが居座った大きな倉庫か納屋の呼び名が原典。福武文庫版の邦訳では「ドヤ御殿」。

 〈Operator〉はピグペンの作詞作曲。この年の11月08日まで4回しか演奏されなかった。


2. 1987 Compton Terrace Amphitheatre, Tempe, AZ
 火曜日。16ドル。開演7時半。ガルシアの昏睡からの回復後、1990年春に向かって登ってゆくこの時期にまったくダメなショウはまず無い。

3. 1989 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時。レックス財団のベネフィット。
 ここでは悪いショウが無いらしい。第二部 space 後の〈Crazy Finger> I Need a Miracle> Stella Blue〉という並びはこの時だけで、そのことでさらにすばらしくなった。

4. 1991 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演5時。ブルース・ホーンスビィ参加。
 この3日間とその前の Cal Expo での3日間の6本で演奏した106曲はすべて違う。1曲も同じ曲を繰返していない。
 第一部5曲目〈Beat It on down the Line〉で、一度終りかけたところでホーンスビィがいかにもやめたくないという調子でまたやりだし、他のメンバーは顔も見合せてにやりとして後に続いた。(ゆ)

08月17日・水
 アイルランドのカトリック教会がローマ教皇庁に、女性、LGBT+、離婚・再婚者をはじめとする、従来、教会主流からは外されてきた人びとへの態度をよりインクルーシヴなものに変更し、僧侶への禁欲・独身の強制を廃止するよう求める文書を送った、というのはいささか衝撃的なニュース。それだけ危機感が強く、そこまで追いつめられてもいる、ということだろう。そういうことに積極的にならないと、社会から、とりわけ若い世代から時代遅れの遺物として見捨てられるという危機感だ。アイルランドの社会が短期間にいかにドラスティックに変化しているかを、裏面から浮彫りにしてもいる。

 来年秋に予定されている宗教会議への準備文書とのことだが、第二ヴァチカン会議に匹敵する、あるいはそれ以上の大改革がなされるかどうか。ヨーロッパの一部や北米のカトリックは賛同するかもしれないが、中南米も含めたラテン諸国やアフリカではどうだろうか。わが国のカトリック教会はどうか。

 アングリカン・チャーチでも、アメリカなどの教会が女性主教就任を求めたのに対して、国別信徒数では今や世界最大のナイジェリアの教会が反対し、分裂を恐れてカンタベリ大主教がアメリカの教会にそう急ぐなとなだめたという話もあった。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月17日には1970年から1991年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ共演。第一部アコースティック・デッド、第二部 NRPS、第三部エレクトリック・デッド。残っているセット・リストはテープに基くもので不完全。また当のテープが本当にこのショウのものかにも疑問が持たれている。

 ただ、第一部で〈Truckin'〉がデビューしたことは確かなようだ。ロバート・ハンター作詞、曲はジェリィ・ガルシア、フィル・レシュ、ボブ・ウィアの共作。1995年07月06日まで、計527回演奏。演奏回数順では7位。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉のペアよりも4回少なく、〈Jack Straw〉よりも51回多い。ペアをそれぞれ1曲と数えれば8位。つまり500回以上演奏されたのは全部で7ないし8曲。スタジオ盤は《American Beauty》収録。

 全米を走りまわる長距離トラック・ドライバーに託して、ツアーに明け暮れするバンドの喜怒哀楽を歌う。バンドのメンバーは飛行機で移動することも多いが、楽器・機材はトラックで運ばれたから、トラッキングはバンドとクルーの実感でもあっただろう。

 ロード・ムービーの趣。ビートもフリーウェイを駆ける大型トラック、というよりも、むしろ鉄道のレールの音を連想する。その点では、デッドの祖先の一つであるホーボー、貨物列車で移動した放浪の詩人たちへのオマージュも見える。

 ひとしきり歌を歌った後、長い集団即興=ジャムになることが多い。この曲の場合、ガルシアが細かくシンプルなパッセージで階段を昇るように音階を上がってゆき、頂点に達したところで、フル・バンドで「ドーン」と沈みこむという型が組込まれるようになる。これが決まった時の快感はデッドを聴く醍醐味の一つ。また、この型がだんだんできてゆくのを聴くのも愉しい。

 ガルシアによれば、ハンターの書く詞は当初は歌として演奏することをあまり考えておらず、曲をつけるのも、演奏するのもやり難いことが多かった。バンドのツアーに同行するようになって、ハンターの詞が変わってきて、この曲は詞と曲がうまくはまった最初の例の一つ。


2. 1980 Kansas City Municipal Auditorium, Kansas City, MO
 日曜日。09月06日までの16本のツアーの2本目。
 締まったショウらしい。

3. 1989 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。ヴェニュー隣の駐車場にもスピーカーが置かれて、700人ぐらいがそこで音楽に合わせて踊った。
 この時期のショウに駄作無し。

4. 1991 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。20ドル。開演7時。ブルース・ホーンスビィ参加。
 90年代でも最高のショウの1本の由。(ゆ)

08月11日・木
 地殻の大陸塊の起源が巨大隕石の衝突にあるという仮説が当っている証拠が初めて見つかった、という話。むろん、KT境界を作ったものの遙かずっと前の隕石だし、たぶん、1個や2個ではないだろう。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月11日には1967年と1987年にショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1967 Grande Ballroom, Detroit, MI
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。
 共演 Rationals, Southbound Freeway, Bishops, Ashmollyan Quintet。
 セット・リストは不明。
 共演は地元のローカル・バンドらしい。Rationals は1964年にミシガン州アン・アーバーで結成され、ローカルのヒットを何枚か出すが、全米市場には出られなかった。リード・シンガー、Scott Morgan はブラッド・スエット&ティアーズに誘われるも断わる。1970年に初のフル・アルバムを出して解散。
 Southbound Freeway はカナダ・アルバータ州エドモントンで1964年か65年頃に結成された。
 Ashmollyan Quintet はデトロイトのバンドらしい。このヴェニューに出るバンドの前座を勤めていたようだ。デッドの他、トラフィックやファグズなどの名前がある。
 Bishops は同名のアクトが多数あって不明。この時期のものは出てこない。
 「グランディー・ボールルーム」と読むこのヴェニューは収容人数1,837のダンス・ホールで、1928年建設当初は1階に商店が入り、2階以上がダンス・ホールだった。1966年に地元のラジオ局 DJ Russ Gibb が取得する。ギブはフィルモアのデトロイト版を造ろうとして、サンフランシスコやヨーロッパなどからバンドを呼び、また地元のアクトの育成にも努める。1972年に閉鎖されるまで、ここはデトロイトにおけるヒッピー/カウンター・カルチュアの中心となる。60年代の名のあるロック・アクトは軒並みここでやっている。ストゥージズはハウス・バンドだった。MC5もホーム・ベースとした。ロックだけでなく、コルトレーンやサン・ラなども出演した。
 デッドはここでこの2日間と翌年12月01日の3回、演奏している。

2. 1987 Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO
 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。9.35ドル。開演7時。雨天決行。
 ここではいつも良いショウをするが、その中では出来がそれほどではないらしい。第二部は少し持ち直す。(ゆ)

08月03日・水
 Mick Moloney がニューヨークで77歳で亡くなったそうです。

 アイルランドとアメリカを往ったり来たりするアイリッシュ・ミュージックのミュージシャンは少なくありませんが、アイルランドからアメリカに渡って腰を据えたのは珍しく、さらに現在のアメリカのアイリッシュ・ミュージックの発展に貢献したことではまず右に出る人はいないでしょう。彼がいなければ、あるいはアメリカに腰を据えなければ、チェリッシュ・ザ・レディースやソーラスは生まれなかったと思われます。

 1944年リムリック生まれ。音楽に目覚めるのはウィーヴァーズやアルマナック・シンガーズの録音を聞いたことで、そこから生まれ故郷周辺、とりわけシュリーヴ・ルークラの伝統歌謡とダンス・チューンに向かいます。

 ぼくが彼の名前を知るのはジョンストンズに参加してからです。そこではポール・ブレディのギターとともに、マンドリンで、後にプランクシティが完成させる「対位法的」バッキングやアレンジを始めています。もっともその前にドーナル・ラニィらとともに Emmet Spiceland をやっていたことを、JOM の追悼記事で指摘されました。これはブラザーズ・フォーに代表される「カレッジ・フォーク」をアイルランドで試みた初期のグループの一つで、アイルランドではヒットもしています。

 1973年にアメリカに移住。この頃はアメリカではまだアイリッシュ・ミュージックは移民共同体内部のものでした。様相が変わるのはモローニによればアレックス・ヘイリーの『ルーツ』です。これはアフリカ系アメリカ人である自分の「ルーツ」を探った本で一大ベストセラーになるとともに、他の民族集団が各々のルーツに関心を向けるきっかけにもなります。アメリカが多様なルーツを各々にもつ移民集団から成る社会であるという認識が定着するのもこれがきっかけだそうです。各民族集団の文化的活動への公的資金援助も増え、アイルランド系はすでに組織化されたものが多かったために、その恩恵を受けた由。

 1980年代前半はアイルランドは不況で、アメリカへの移民が増え、ミュージシャンも多数移住します。ミホール・オ・ドーナルとトゥリーナ・ニ・ゴゥナルの兄妹や、後にアルタンのメンバーとして来日もするダヒィ・スプロール、さらにはケヴィン・バークなどが代表です。こうした人びとの刺激もあり、アメリカのアイリッシュ・ミュージックはこの時期ルネサンスを迎えます。ミック・モローニはその中心にあって、演奏、制作、メディア、研究のあらゆる分野でこのルネサンスを推進しました。

 ソロ・アルバム《Strings Attached》を出し、The Green Fields Of America を結成してツアーし、チェリッシュ・ザ・レディースが誕生するきっかけとなったコンサートを主導し、シェイマス・イーガンのソロ・ファースト《Traditional Music Of Ireland》や、アイリーン・アイヴァーズとジョン・ウィーランのデュオ・アルバム《Fresh Takes》をプロデュースします。

 1992年にフォークロアとフォークライフの博士号を取得。アメリカにおけるアイリッシュ・ミュージックの歴史の研究家としてニューヨーク大学教授などを歴任。その業績にはアメリカ、アイルランドから表彰されています。2014年には TG4 の Gradam も受けています。

 個人的にはジョンストンズ時代の溌剌とした演奏と、1980年代、Robbie O'Connell と Jimmy Keane と出した《There Were Roses》のアルバムが忘れがたいです。

 まずは天国に行って、愉しく音楽していることを祈ります。合掌。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月03日には1967年から1994年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1967 O'Keefe Center, Toronto, ON, Canada
 木曜日。このヴェニュー6日連続のランの4日目。ジェファーソン・エアプレイン、ルーク&ジ・アポスルズ共演。
 セット・リスト不明。

2. 1968 The Hippodrome, San Diego, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。3ドル。開演8時半。カーリィ・クックズ・ハーディガーディ・バンド、マヤ共演。
 セット・リスト不明。
 James "Curley" Cooke は1944年ウィスコンシン生まれで2011年ワシントン州で死んだブルーズ・ギタリストのようだが、このバンド名では出てこない。この時期にハーディガーディをフィーチュアしていたとすれば、少なくとも20年は時代に先んじている。ハーディガーディでブルーズをやっているのは、まだ聞いたことがない。
 Maya もこの時代のミュージシャンは不明。

3. 1969 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。バレー・アフロ・ハイチ、アルバート・コリンズ共演。
 サックスが〈Dark Star〉に参加し、他の曲にヴァイオリンも参加しているが、誰かは不明。サックスはチャールズ・ロイド、ヴァイオリンは David LaFlamme または Michael White が推測されている。

4. 1982 Starlight Theatre, Kansas City, MO
 火曜日。
 ヴェニューは屋外のアンフィシアターで、コンサートの他、演劇、ミュージカルにも使われ、音響が良い。デッドのサウンドはすばらしかった、と Tom Van Sant が DeadBase XI で書いている。ショウも決定的な出来。

5. 1994 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開場5時、開演7時。トラフィック前座。
 第一部4曲目〈El Paso〉でウィアがアコースティック・ギター。
 DeadBase XI でのこのショウについての記事で、John W. Scott はデッドのヴィデオ・ディレクター Bob Hartnett へのインタヴューを載せている。これは実に興味深い。一つには、デッドのショウは音楽だけでなく、照明や映写イメージも含めた、総合的な作品になっていた。当時すでにU2の ZooTV ツアーやローリング・ストーンズのコンサートなどもそうした「総合芸術」になっていたが、デッドのものは、その中でも最先端の機材と技術と素材を駆使したものであることが、このインタヴューからわかる。
 ハートネットはキャンディス・ブライトマンと協力して、会場のビデオ画面に映しだすヴィジュアルを指揮していた。バンドが演奏する曲に合わせたイメージを映しだす。あらかじめ大量の素材をいくつかのセットにしたものをレーザーディスクに用意しておいて、演奏に応じて送りだす。デッドの音楽は何がどれくらいの長さ演奏されるのか、事前にはまったくわからないのだから、照明とスクリムのイメージ担当のブライトマンにしても、ビデオ・スクリーン担当のハートネットにしても、その仕事は難しいなどというレベルではない。06月のラスヴェガスではヴィジュアル組は本番3日前に現地に入って、入念にリハーサルをしている。
 ラスヴェガスでは暑さのために、機器がどんどん壊れた。このビデオ・プロジェクティングのチームはステージの下に陣取る。精神的、物理的ないくつもの理由からここがベストの配置なのだが、気温の上がり方は半端ではない。
 この年、この08月初旬まで炎熱の夏のツアーが組まれたのは、サッカーのワールド・カップ・アメリカ大会のためでもある。デッドのヴェニューはワールド・カップの試合会場と重なるところが多く、そのあおりでスケジュールはかなり無理の大きいものになった。
 このジャイアンツ・スタジアムでは初めて、屋外のステージでバンドのためのエアコン・システムが組まれた。特別仕立てのものだが、クルーやスタッフにはその恩恵は及ばない。
 インタヴューの最中、クルー、スタッフへの放送が入る。トラフィックのステージにガルシアが参加する可能性がある、それに備えて、トラフィックの最後の2曲では全員配置につくように、という指示だった。必ず入るとわかっているわけではなく、入るかもしれないというだけで、全員が用意している。
 ショウそのものは、スコットの記憶では前座のトラフィックの演奏ばかりが記憶に残るものだった。
 ベテランのデッドヘッドたちには我慢のならない出来かもしれない。しかし、バンド・メンバーだけでなく、デッドヘッドたちもまた老いてはいなかったか。少なくとも若くはない。(ゆ)

07月25日・月
 朝、起きると、深夜、吉田文夫氏が亡くなったという知らせが、名古屋の平手さんからメールで来ていた。あの平手さんがメールを送ってくるのはよほどのことだ。吉田氏は平手さんが主催している滋賀県高島町でのアイリッシュ・ミュージック・キャンプの常連でもあったから、平手さんにとっては喪失感は大きいだろう。あたしはついに会うことがかなわなかった。もう一昨年になるか、25周年ということで初めてでかけたキャンプには、吉田氏は体調不良で見えなかった。がんの治療をしていることは聞いていた。

 吉田氏は関西でアイルランドやスコットランドなどの伝統音楽を演奏する草分けの1人だった。関東のあたしらの前にはシ・フォークのメンバーとして現れた。シ・フォークは札幌のハード・トゥ・ファインドとともに、まだ誰もアイリッシュ・ミュージックのアの字も知らない頃から、その音楽を演奏し、レコードを出していた稀少な存在だった。この手の音楽を愛好する人間の絶対数、といっても当時はタカの知れたものだが、その数はおそらく一番多かったかもしれないが、関東にはなぜかそうしたグループ、バンドが生まれなかったから、あたしらはハード・トゥ・ファインドやシ・フォークに憧れと羨望の眼差しを送っていたものだ。その頃はライヴに行くという習慣がまったく無かったので、どちらにしてもツアーで来られていたのかもしれないが、バンドとしての生を見ることはなかった。

 今世紀も10年代に入る頃から、国内のアイリッシュ・ミュージック演奏者が爆発的に出てきたとき、吉田氏の名前に再会する。関西の演奏者を集めた Celtsittolke のイベントとオムニバス・アルバムだ。東京でトシバウロンが Tokyo Irish Company のオムニバス・アルバムを作るのとほぼ同時だったはずだ。

 Celtsittolke には正直仰天した。その多彩なメンバーと多様な音楽性に目を瞠り、熱気にあてられた。関東にはない、猥雑なエネルギーが沸騰していた。関東の演奏家はその点では皆さんまじめで、行儀が良い。関西の人たちは、伝統に敬意を払いながらも、俺らあたしら、勝手にやりたいようにやるもんね、とふりきっている。そのアティテュードが音楽の上でも良い結果を生んでいる。アイリッシュ・ミュージックの伝統は、ちっとやそっと、揺さぶったところで、どうにかなるようなヤワなものではない。どんなものが、どのように来ても、あっさりと呑みこんでゆるがない。強靭で柔軟なのだ。そのことを、関西の人たちはどうやってかはわからないが、ちゃんとわきまえているようでもある。少なくとも吉田氏はわきまえていたようだ。Celtsittolke はそうした吉田氏が長年積み重ねてきたものが花開いたと見えた。

 結局、その生演奏にも接しえず、言葉をかわしたこともなかったあたしが、吉田氏について思い出を語ることはできない。今はただ、先駆者の一人として、いい年のとり方をされたのではないかと遠くから推察するだけだ。アイリッシュ・ミュージックやスコットランドの伝統音楽と出逢い、ハマりこんだことは人生において歓びだったと思いながら旅立たれたことを願うのみである。合掌。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月25日には1972、74、82年の3本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1972 Paramount Theatre, Portland, OR
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。シアトル、ポートランドのミニ・ツアー。どちらも "Paramount Theatre"。シアトルのには "Northwest" がついているが。
 ピークのこの年らしいショウの1本という。

2. 1974 International Amphitheatre, Chicago, IL
 木曜日。二部としてレシュとラギンの〈Seastones〉が演奏された。
 第三部9・10曲目、〈Uncle John's Band> U.S. Blues〉が2015年の、第一部3曲目〈Black-Throated Wind〉が2016年の、第一部2曲目の〈Loose Lucy〉が2019年の、アンコール〈Ship Of Fools〉が2020年の、〈Loose Lucy; Black-Throated Wind〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。つまり5曲がリリースされていることになる。
 きっちりした演奏。Wall of Sound の時期で音は良い。この日の録音はベースがはっきり聞える。ウィアのギターが小さめ。キースはこの頃にはすでにピアノだけではなく、オルガンも弾いている。
 この5曲はどちらかというと歌を聞かせる曲で、ガルシアは曲ごとに歌い方を変えている。〈Loose Lucy〉ではメリハリをつけ、〈Uncle John's Band〉ではややラフに、時にメロディを変え、〈Ship Of Fools〉ではごく丁寧に。〈U.S. Blues〉はギアがちょっとはずれて、歌詞が不安定。結局、ちゃんとケリを着けはする。
 〈Black-Throated Wind〉はウィアの独壇場になる曲。良い曲なのだが、ウィアの曲は時に、きっちりと構成が決まっていて、崩しようがないことがある。これはその典型。ずっと聴いていると、だんだん息が詰まってくる。

3. 1982 Compton Terrace Amphitheatre, Tempe, AZ
 日曜日。10ドル。開演7時半。
 1週間ぶりのショウで夏のツアーのスタート。08月10日までの12本。アリゾナ、コロラド、テキサス、オクラホマ、ミズーリ、ミネソタ、ウィスコンシン、アイオワを回る。
 ショウは良いものだそうだ。(ゆ)

 なんと、デニス・カヒルが亡くなってしまいました。パディ・モローニの死去にも驚きましたが、こちらはまさしく青天の霹靂。いったい、何があったのか。享年68歳。あたしと1歳しか違わないではないか。死因は公表されていません。やすらかに亡くなった、ということだけ。重い病気ではあったのでしょう。

 いや、しかし、これは痛い。惜しい。The Gloaming はどうなるのだ。その他でもマーティン・ヘイズのプロジェクトには欠かせない人だったのに。ヘイズの喪失感は想像するのも怖いほどですが、単にファンであるこちらも茫然としてしまいます。

 かれのギターはアイリッシュ・ミュージックのギターとして革命的だったけれど、それ以上に、マーティン・ヘイズの音楽を現代の、アイリッシュ・ミュージックの伝統の外の世界とつないだことが大きい。ヘイズのフィドルもまたカヒルのギターを受けて、伝統のコアにしっかり根を下ろしながら、なおかつ同時に現代の、最先端の音楽にもなりえていました。《Live In Siattle》に捉えられた30分のメドレーはカヒルのギターがなくては生まれなかったでしょう。The Gloaming でバートレットのピアノとヘイズのフィドル、オ・リオナードの歌をカヒルのギターがつないでいます。

 それはカヒル本人の精進の賜物でしょう。かれ自身、アイルランドの音楽伝統の外から入ってきて、その最もコアに近いものの一つであるヘイズのフィドルに真向から、愚直に向き合うことで、外と内をつなぐ術を編み出し、身につけていったと思われます。かれは自分が伝統のコアそのものになれないことを承知の上で、あえてそこと自分のいる外をつなぐことに徹したと見えます。こういう人はやはり稀です。

 アイリッシュ・ミュージックに魅せられた人間は、たいてい、そのコアに入ることを目指します。それが不可能だとわかっていても目指します。そうさせるものがアイリッシュ・ミュージックにはあります。カヒルもおそらくその誘惑にかられたはずです。しかし、どうやってかその誘惑を斥けて、つなぐことに徹していました。あるいはギターという楽器の性格が後押しをしていたかもしれない。それにしてもです。

 The Gloaming や Martin Hays Quartet がどう展開してゆくかは、とても愉しみにしていたのですが、カヒルが脱けるとなると、活動そのものが停止するのではないかと危惧します。

 人が死ぬのは常、とわかっているつもりでも、なんで、いま、あなたが死ぬのだ、とわめきたくなることはあります。ご冥福を、などとも言いたくない時があるものです。あたしなどがうろたえてもどうしようもありませんが、なんともショックです。(ゆ)

06月16日・木
 ニュースを追いかけているわけでもないのに BTS の活動停止の話は否応なく耳目に入ってくる。ポピュラー音楽の1グループが解散するわけでもない、活動停止するというだけで、一般のニュースとして流れるというのも珍しいことだろう。

 これを聞いてあたしが連想したのはグレイトフル・デッドの hiatus、あたしが「大休止」と呼んでいる時期のことだ。デビューから10年近く経った1974年11月から1976年05月までの1年7ヶ月、バンドとしてのツアーをやめたのだ。この間にグレイトフル・デッドのメンバーが揃って行なったショウは1975年の4本だけである。

 この大休止によってデッドは溜まっていた各種の負債を整理し、新たな創造力をとりもどし、充電したエネルギーをもって、前人未踏の音楽を生み出してゆく。活動再開した1976年から1977年、1978年は、グレイトフル・デッドがバンドとして最も実り多い、最も幸福な時期だ。この大休止のおかげで、デッドはその後1995年まで、疾走し続けることができた。

 一方、ジェリィ・ガルシア、ボブ・ウィア、ミッキー・ハートを初めとして、メンバーはそれぞれソロ活動に精を出す。その成果は復帰後の音楽だけでなく、ツアーの方法論の改善にも大きく貢献する。

 もちろん、デッドと BTS では天の時も地の利もまるで異なるわけだが、バンドとしての活動がメンバーの意図を超えて暴走しはじめ、自分たちが何をやっているのかわからなくなったために、とにかく一度止まることにした、という点は共通している。

 この場合、ポイントとなるのは、バンドとしての活動を停止することを、バンド自身がイニシアティヴをとって決め、実行したことだ。外的要因、ありていにいえば、お呼びがかからなくなって、ツアーをしようにもできなくなったわけではない。何らかのスキャンダルから逃げるためでもない。レコード会社のプロモーション戦略の一環でもない。

 1974年当時のデッドはすでにアメリカ最高のライヴ・バンドの一つとしての地位を確立して、人気は右肩上がりだった。そこで止まるということは、途方もなく大きなエネルギーを必要としたにちがいない。不安といえば、バンド自身、当のメンバーたちが最も不安だったろう。かれらにとっては、バンドでライヴ演奏をすることが、とにもかくにも、どんなことよりも大事なことだったのだ。

 その不安を乗り越え、様々な圧力に耐え、小さくない犠牲を払いながらも、とにかく止めた。後からみれば、それによって得たものは、表現不能なまでに大きなものだった。大休止から復帰したグレイトフル・デッドは、コアの部分はそのままに、まったく新たなバンドとして生まれ変わる。

 アルテスの鈴木さんがハマったというので、BTS の名は知っていたし、いずれそのうち、と思ってはいたが、こうなるとあらためて興味が湧いてくる。あるいはむしろ、かれらが無事復帰するか、できたとしてどう変わっているかは、結構気になる。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月16日には1974年から1993年まで5本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版2本。

1. 1974 State Fairgrounds, Des Moines, IA
 日曜日。6.50ドル。三部構成。第一部からクローザー前の〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉、第二部の全部が《Road Trips, Vol. 2, No. 3》で、第三部から6曲がそのボーナス・ディスクでリリースされた。半分強がリリースされたことになる。

2. 1985 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。15ドル。開演3時。
 第二部6曲目、drums 直前で〈Cryptical Envelopment〉が13年ぶりに復活。この後、この年09月まで4回演奏されて、完全引退する。この曲は〈The Other One〉の原形である組曲〈That's It for the Other One〉の最初と最後のパート。ここでは〈The Other One〉に続く形で演奏された。

3. 1990 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時。
 《View From The Vault III》で DVD と CD で全体がリリースされた。
 このヴェニューはビル・グレアムが設計し、真上から見ると、デッドのロゴの頭蓋骨をかたどっている。柿落しもデッドの予定だったが、ガルシアの昏睡でパーになり、替わりにフリオ・イグレシアスにお鉢が回った。グレアムが設計しただけあって、音響も良く、トイレの数が多く、いろいろな意味で良い会場だそうだ。

4. 1991 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 日曜日。このヴェニュー2日連続の初日。25ドル。開場5時、開演7時。リトル・フィート前座。
 全体が《Giants Stadium 1987, 1989, 1991》でリリースされた。
 とにかく暑い日で、リトル・フィートも良かったそうだ。

5. 1993 Freedom Hall, Louisville, KY
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。24.50ドル。開演7時。
 第二部が良い由。(ゆ)

06月06日・月
 Kelly Joe Phelps の訃報。形はブルーズ、カントリーだったが、かれの音楽は表面的なジャンル分けを超えていた。およそ人間が音楽として表現できるかぎりのものがぞろりと剥出しになる。それがたまたまブルーズやカントリーに聞える、というだけだ。

 フェルプスの音楽を聴くことは、吹きさらしの断崖絶壁か、おそろしく高い塔のてっぺんに立たされるような体験だ。むろん、怖い。しかし、そもそも音楽は怖いものであることをそっと、しかし有無を言わせず突きつけられる。

 似たような立ち位置の人にボブ・ブロッツマンがいる。しかし、ブロッツマンの音楽はあくまでも島の音楽で、だから底抜けに愉しい。フェルプスの音楽は大陸の音楽で、だからどこまでも厳しい。

 その厳しさにさらされたくて、また聴くことになるだろう。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月06日には1967年から1993年まで6本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 火曜日。このヴェニュー10日連続のランの6日目。セット・リスト不明。

2. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー5日連続のランの2日目。3.50ドル。Jr ウォーカー、Glass Family 共演。
 第一部とされている6曲80分弱のテープがあるが、むろん、これは一部だろう。ここにエルヴィン・ビショップが参加。うち1曲〈Checkin' Up On My Baby〉ではビショップがヴォーカル。
 ガルシアがこの日、ヤクでヘロヘロになり、ステージに立てなかったので、ビショップが替わりに出たとも言われる。
 Jr Walker は本名 Autry DeWalt Mixon Jr. (1931 – 1995)、アーカンソー出身のサックス奏者で歌も歌う。1960年代にモータウンから Jr Walker & the All Stars として何枚もヒットを出し、1969年にも〈What Does It Take (To Win Your Love)〉がトップ5に入った。
 Glass Family は West Los Angeles で結成されたサイケデリック・ロック・バンドのことだろう。この年ワーナーからアルバムを出している。バンド名はサリンジャーの諸短篇に出てくる虚構の一家からとったものと思われる。1970年代にはディスコ・バンドに転身したそうだ。

3. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー4日連続のランの3日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、サザン・カンフォート共演。3.50ドル。第一部はアコースティック・セット。
 第二部11曲目〈Attics Of My Life〉が《The Golden Road》収録の《American Beauty》ボーナス・トラックでリリースされた。

4. 1991 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。23.50ドル。開演7時。
 デッドとしては平均的できちっとしたショウだが、突破したところは無い由。

5. 1992 Rich Stadium, Orchard Park, NY
 土曜日。開演6時。

6. 1993 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。28.50ドル、開場4時、開演6時。スティング前座。スティングは前日も前座に出ている。スティングの1曲にドン・ヘンリーが一節だけ参加。また別の曲にガルシアが参加。
 終日雨が降っていて、開演直前陽がさしてきた。それでオープナーは〈Here Comes Sunshine〉。(ゆ)

05月17日・月
 アイルランドのシンガー Sean Garvey が今月6日に亡くなったそうです。1952年ケリィ州 Cahersiveen 生まれ。享年69歳。60代で亡くなると若いと思ってしまう今日この頃ではあります。

 ガーヴィーは若い頃から歌いはじめていますが、本格的に歌うようになったのは教師の資格をとりにダブリンに出てきてからで、ひと頃はパディ・キーナンと The Pavees というバンドもやっていたそうです。後、コネマラのスピッダルに住み、コネマラのシャン・ノース・シンガーたちの影響を受け、アイルランド語でも歌いはじめます。

 1990年代後半以降、ダブリンに住み、The Cobblestone でジョニィ・モイニハンやイリン・パイパーの Nollaig Mac Carthaigh と定期的にセッションしていました。2006年にケリィにもどり、TG4 の Gradam Ceoil singer of the year を受賞しました。

 ぼくがこの人を知ったのは1998年に出たファースト・アルバム《ON dTALAMH AMACH (Out Of The Ground)》でした。2003年にセカンド《The Bonny Bunch of Roses》を出していますが、未聴。昔『ユリイカ』に書いた「アイルランド伝統歌の二十枚」にファーストをとりあげていたので、追悼の意味を込めて再録します。
 文中に出てくる、アーチー・フィッシャー、フランク・ハートやティム・デネヒィについては、もう少し余裕ができてから書いてみたいところです。

 なお、このファーストは本人がヴォーカルの他、フルート、ホィッスル、バンジョー、マウス・オルガン、ギターを担当して、まったくの独りで作っています。

Sean Garvey  ON dTALAMH AMACH (Out of the Ground); Harry Stottle HS 010, 1998
 フランク・ハートの友人でもあり、またしてもケリィ出身のこのシンガーもテクノロジーの恩恵で姿を現した秘宝の一人。写真からすればおそらくは現在五十代後半から六十代だろう。声といいギター・スタイルといい、スコットランドの名シンガー、アーチー・フィッシャーを想わせる人だが、歌からたちのぼる味わいもまた共通のものがある。ティム・デネヒィ同様、ケリィの伝統にしっかりと足をつけて揺るがない。生涯の大部分を野外で過ごしたであろう風雪に鍛えられた風貌にふさわしい声は、一方でなまなかなことでは崩れないねばり強さを備え、一語一語土に植付けるようにうたう。タイトル通り、土に根ざした声が土に根を張る歌をうたう。やがてその声が帰るであろう土はあくまでもアイルランドの土だが、また地球の土でもあり、今これを聞くものの足元の土に繋がる。この邦の伝統音楽を聴きつづけてきたことを何者かに感謝したくなる瞬間だ。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月17日には1968年から1981年まで6本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版2本。

1. 1968 Shrine Exhibition Hall, Los Angeles, CA
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。セット・リスト不明。

2. 1970 Fairfield University, Fairfield, CT
 日曜日。このショウは実際には行われなかった、という説もある。この1週間前にドアーズがここでコンサートをしており、それによって大学当局は「望ましからざる」ことを避けるため、この公演をキャンセルした、という。詳細不明。

3. 1974 P.N.E. Coliseum, Vancouver, BC, Canada
 金曜日。コマンダー・コディ&ヒズ・ロスト・プラネット・エアメン前座。
 第二部4曲目〈Money Money〉が《Beyond Description》所収の《From The Mars Hotel》のボーナス・トラックで、続く5・6曲目〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2011年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 第二部4曲目で〈Money Money〉がデビュー。バーロゥ&ウィアの曲。この後、19日、21日と3回だけ演奏。スタジオ盤は《From The Mars Hotel》収録。3回しか演奏されなかったのに、そのすべてが《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》でリリースされた。
 ここでの演奏を聴くとドナの存在が前提の曲のように思える。

4. 1977 University Of Alabama, Tuscaloosa, AL
 火曜日。
 第一部6曲目〈Jack-A-Roe〉が《Fallout From The Phil Zone》で、10曲目〈High Time〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《May 1977》で全体がリリースされた。
 この春のツアーのどのショウでは余裕がある。テンポがことさら遅いとも思えないが、ほんのわずかゆっくりで、ためにアップテンポの曲でも歌にも演奏にも無闇に先を急がないゆったりしたところがって、それがまた音楽を豊饒にしている。このショウはその余裕が他よりも大きいように感じる。アンコールの〈Sugar Magnolia〉ではその感覚がより強く、この曲そのものだけでなく、ショウ全体の味わいも深くしている。
 この時期全体に言えることだが、ガルシアのギターがほんとうにすばらしい。ソロも伴奏も実に充実している。この日はとりわけ2曲目の〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉、5曲目〈Jack Straw〉、7曲目〈Looks Like Rain〉、そして第一部クローザーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉特に前者、第二部〈Estimated Prophet〉。第二部2曲目〈Bertha〉のような、いつもはソロを展開しない曲でも見事なギターを聴かせる。
 これまたいつものことだが、デッドの場合、こういうガルシアのソロが、それだけ突出することはほとんど無い。バンド全体の演奏の一部で、だからこそ、ガルシアのソロが面白いと全体が面白くなる。全員がそれぞれに冴えていて、それが一つにまとまっている。1977年春のデッドは実に幸せそうで、それを聴くこちらも幸せになる。
 大休止から復帰後、特にこの1977年以後のデッドのショウは大休止以前よりもコンパクトになり、2時間半が普通になるが、このショウはその中では珍しく CD で3時間を超えている。やっていて気持ちが良かったのだろう。ハイライトは第一部クローザーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉で、どちらも13分、合計で26分超。ベスト・ヴァージョンの一つ。〈Looks Like Rain〉もベスト・ヴァージョンと言ってよく、どちらかというと第一部の方が充実している。
 次は1日置いて、アトランタのフォックス・シアター。

5. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL
 水曜日。9.50ドル。開演8時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第二部2曲目〈Friend Of The Devil〉が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 アンコール〈Werewolves Of London〉がことさらに良かった由。

6. 1981 Onondaga Auditorium, Syracuse, NY
 日曜日。開演7時。(ゆ)

0406日・水

 アイルランドのアーティストへのベーシック・インカム制度のパイロット版申請受付開始。1週間325EUR を3年間もらえる。アーティストまたはアートに関わる労働者で、申請して受給資格審査を通った中から抽選で2,000人が対象。支給されたものには課税されるが、税金の額はケース・バイ・ケースで異なる。これ以外に稼ぐのはもちろんOK。

 325EUR x54=年額17,550EURx2,000=35,100,000EUR。現在のレートで47.5億。

 わが国に置きかえてみる。人口比からすれば、共和国は現在人口500万。わが国が12,000万。24倍。48,000人。1,140億円。アート、芸術が国として生きてゆくのに不可欠であるという認識が、わが国に果してあるか。



##本日のグレイトフル・デッド

 0406日には1969年から1994年まで9本のショウをしている。公式リリースは2本。うち完全版1本。


1. 1969 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 日曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。バークレーの KPFA-FM で放送された。前夜、ヴェニューの終演時刻を超えたため、〈Viola Lee Blues〉の途中でコンセントを抜かれた。が、ヴォーカル・マイクは生きていたらしく、その後で2曲、ア・カペラで歌った。


2. 1971 Manhattan Center, New York, NY

 火曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。5ドル。開演8時。第一部8曲目〈Playing In The Band〉が《Skull & Roses》で、その前の〈Oh Boy〉〈I'm A Hog For You Baby〉が《Skull & Roses》の2003 CD版でリリースされた。

 〈Oh Boy〉はこの日が初演。1981-12-12まで計5回演奏。Sonny West Bill Tilghman の作詞作曲。バディ・ホリー&ザ・クリケッツが195710月に〈Not Fade Away〉のシングルB面でリリース。

 〈I'm A Hog For You Baby〉は1966-01-08初演で、これが3回目で最後の演奏。作詞作曲のクレジットは Jerry Leiber & Mike Stoller


3. 1978 Curtis Hixon Convention Hall, Tampa, FL

 木曜日。開演8時。


4. 1982 Spectrum, Philadelphia, PA

 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。10.50ドル。開演7時。《Road Trips, Vol.4 No.4》で全体がリリースされた。


5. 1984 Aladdin Hotel Theatre, Las Vegas, NV

 金曜日。14ドル。開演8時。


6. 1985 The Spectrum, Philadelphia, PA

 土曜日。このヴェニュー3日連続の初日。13.50ドル。開演5時。この頃、毎年冬になるとガルシアは喉頭炎をわずらい、春先は声を嗄らしている。この時も声がほとんど出なかった。


7. 1987 Brendan Byrne Arena, East Rutherford , NJ

  月曜日。このヴェニュー2日連続の初日。17.50ドル。開演7時半。〈Dancin' in the Street〉の最後の演奏。


8. 1989 Crisler Arena, University of Michigan, Ann Arbor, MI

 木曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演7時。


9. 1994 Miami Arena, Miami, FL

 水曜日。このヴェニュー3日連続の初日。25ドル。開演7時半。会場周辺は当時全米でも最悪のゲットーだった由。フロリダは「デッド・カントリー」の一つだ。(ゆ)


0326日・土

 今年の TG4 Gradam Ceoil Award が発表され、ドロレス・ケーンが生涯業績賞を受賞。ようやく、という感じが無いでもないが、とにかく受賞はめでたい。今さらといえば、スカラ・ブレイもグループ賞を受賞。メインの受賞者はパディ・グラッキン。となると、今年はこの賞の25周年ということで、あげそこなっていた人たちにあげる意味もあるのか、などというのはゲスのカングリというものであろう。何にしてもめでたい。



##本日のグレイトフル・デッド

 0326日には1967年から1995年まで、9本のショウをしている。公式リリースは5本。うち完全版3本。


01. 1967 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 日曜日。この日についてはポスターが残っており、共演としてクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、Johnny Hammond & His Screaming NighthawksRobert Baker が上げられている。デッドがヘッドライナー。

 David Sorochty によれば Oakland Tribune 1967-03-26日付に記事があり、そちらでの共演者はチャールズ・ロイド・カルテットと The Virginians としているが、DeadBase 50 はこれを誤りとしている。


02. 1968 Melodyland Theatre, Anaheim, CA

 火曜日。このショウについては存在を疑問視する向きもある一方で、DeadBase XI には John Crutchfield 15歳でこれを見た時のレポートを書いている。0308日と09日のこのヴェニューでのショウについては、LA Free Press の広告で確認されているが、こちらについては、少数の証言のみではある。

 ジェファーソン・エアプレインの前座で、内容はこの時期の典型的なものだったようだ。


03. 1972 Academy of Music, New York, NY

 土曜日。このヴェニュー7本連続のランの5本目。5.50ドル。開演8時。全体が《Dave's Picks, Vol. 14》でリリースされた。


04. 1973 Baltimore Civic Center, Baltimore, MD

 月曜日。6.50ドル。開演7時。第一部2曲目〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉が2011年と2021年の、11曲目〈Brown-Eyed Women〉が2017年の各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。


05. 1983 Aladdin Hotel Theatre, Las Vegas, NV

 土曜日。14ドル。開演7時。オープナーの〈Jack Straw〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


06. 1987 Civic Center, Hartford, CT

 木曜日。15.50ドル。開演7時半。第二部4曲目〈He’s Gone〉が2010年の、第一部クローザー前の〈Bird Song〉が2017年の各々《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Dave’s Picks, Vol. 36》で全体がリリースされた。


07. 1988 Hartford Civic Center, Hartford, CT

 木曜日。15.50ドル。開演7時半。


08. 1990 Knickerbocker Arena, Albany, NY

 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。開演7時半。第一部オープナーからの3曲とクローザーの2曲、それにアンコールが《Dozin' At The Knick》でリリースされた後、全体が《Spring 1990》でリリースされた。

 春のツアー10本目。これで4箇所を3日ないし2日の連続公演で回ってきているが、そろそろ疲れが出てくる。このショウの後半はその疲れの影響と思われるものが現れる。とりわけバンドの1番弱い部分、ガルシアに影響が大きい。この時、ガルシアは47歳だが、外見は年上のレシュよりよほど老けて見える。ほとんど60代といってもいいくらいだ。ガルシアは生命を使いはたして死んだのだというバラカンさんの指摘は正鵠を射ていると思う。毎晩ステージの上で「絶えず流れ落ちてくる流砂を片脚だけで一輪車をこいで登ろうとする」ことを続けるのは、身も心も削ることではあろう。

 それでもそうした影響が最小限で、ショウとしては前2日ほどのピークではないが、デッドの水準としても高いところに留まるのがこの春のツアーである。とりわけ第一部は、ここだけとれば前2日を凌ぐとも言える出来だ。

 久しぶりにホットでアグレッシヴな〈Hell In A Bucket〉でスタートするが、ラフにはならず、タイトに締まる。そのまま突走らず、〈Dupree's Diamond Blues〉でタメるところが見事。ゆったりしたテンポでガルシアは歌詞をはっきり発音する。宝石店強盗で裁かれる話をユーモラスに演奏するのがデッドの身上。ガルシアの後でミドランドがピアノ・ソロをとり、ワン・コーラスやったところで終るつもりが、もっとやれと促されたか、さらにワン・コーラス。こういうソロはもっと聞きたい。次のミドランドの〈Just A Little Light〉も18日よりもかっちりとして出来がいい。このツアーの16日に復活して2度目の演奏である〈Black-Throated Wind〉では、ウィアの歌の裏でガルシアが弾くギターがすばらしい。この歌は1990年のこの一時期だけ、歌詞がかなり変わっている。次の〈Big Railroad Blues〉は1年半ぶりの登場で、次はまた1年半後なのだが、楽しいロックンロール。ガルシア、ミドランドのハモンド、またガルシアと、活き活きしたソロが続く。〈Picasso Moon〉ではこれまた久しぶりにレシュが低域のハーモニーをつける。この後も数曲で参加する。ここでも後半のガルシアのソロが面白い。ガルシアのギターは次の〈Row Jimmy〉でも好調で、MIDI で音を二重にし、裏の音は幕を張るようだ。後半レゲエのビートになってはずみ、一層ユーモラスになる。第一部は〈Blow Away〉で盛り上がって締める。

 この日は珍しい曲をやろうとしているのか、第二部オープナーは〈Built To Last〉。計18回演奏でこれが最後。これも好調の時にやってみてうまくゆくか試したのかもしれない。ほぼ生音の Drums、やはり面白い Space まで高水準の演奏が続く。乱れが現れるのは、〈Dear Mr. Fantasy〉から次の曲へ移るところで、一瞬だがためらうような感じになる。結局スティーヴィー・ウィンウッドを続けて〈Gimme Some Lovin'〉になって、流れは維持される。問題といえるのはクローザーの〈Morning Dew〉。ここではガルシアはギターが離陸せず、代わりに歌で聞かせる。ガルシアの疲れをカヴァーするように、ドラムスが積極的になって、劇的な盛り上げをする。いささかラフだが、クライマックスとしてはちょうどよい。

 ガルシアはくたびれてはいるものの、このツアーを通じて歌唱はすばらしく、アンコールの〈Brokedown Palace〉も申し分ない。この曲はそもそも、インプロを展開するものでもない。


09. 1995 The Omni, Atlanta, GA

 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時半。(ゆ)


 30日午後に母が亡くなった、とイライザ・カーシィがツイートしていました。イライザの母ならばノーマ・ウォータースン。イングランドのフォーク・ミュージックの無冠の女王とも言われる傑出したうたい手であります。

 ノーマはまず弟妹の Mike Elaine (Lal)、それにいとこの John Harrison との The Watersons の一員として姿を現します。4人は出身地、北イングランドの伝統歌をアカペラ・コーラスで歌い、1960年代、ブリテンのフォーク・リヴァイヴァル新世代の登場を告げ、後続の若者たちに衝撃を与えたのでした。60年代後半、ヨークシャーのある街で、自分たちのギグを終えたザ・フーがウォータースンズが歌っているところを探して聴きにきた、という話も伝えられています。

 ぼくがウォータースンズを初めて聴いたのは1977年の《Sound, Sound Your Instruments Of Joy》でした。ちょうど、ブリテンの伝統音楽に入れこみだしたばかりの頃で、その精妙かつ野趣あふれるハーモニーに夢中になったのでした。これはイングランドの教会で日常的に歌われてきた聖歌を集めた1枚ですが、説教臭さも抹香臭さもかけらもなく、まじりけのない歓びに溢れた、美しい歌が詰まっているアルバムです。聖歌集だということさえ、当初はわからず、伝統的なクリスマス・ソング集だとばかり思いこんでいました。実際、そう聴いてもかまわないものでもありましょう。


 

 続いてノーマが妹のラルとの二人の名義で出した《A True Hearted Girl》はまたがらりと趣が変わって、軽やかな風に吹かれるような歌を集めていて、こちらも当時、よく聴いたものです。

 とはいえ、一人の独立したうたい手としてノーマを見直したのはずっと下って1996年、ハンニバルから出た《Norma Waterson》でした。名伯楽 John Chelew のプロデュースのもと、リチャード・トンプソン、ダニィ・トンプソン、Benmont Tench に、なんとロジャー・スワロゥという、これ以上は考えられない鉄壁の布陣をバックに、悠々と、のびのびと、歌いたいうたを天空に解きはなつその声に、完全にノックアウトされたのでした。就中、冒頭の1曲〈Black Muddy River〉の名曲名唱名演名録音にはまったく我を忘れて聴きほれたものです。曲がロバート・ハンター&ジェリィ・ガルシアの作になることはクレジットを見ればわかりましたが、それがグレイトフル・デッドのレパートリィの中でどういう位置にあるのか、多少とも承知するのは何年も後のことです。ノーマ自身、それが誰の歌であるか、知らないままに歌いだした、とライナーにありました。ある日誰からともなく送られてきていたカセット・テープに入っていて、ただいい曲だとレパートリィに加えたのだそうです。

Norma Waterson
Waterson, Norma
Hannibal
1996-06-11

 

 この人は年をとるにしたがって、存在感が大きくなっていきました。セカンド、サードとソロを出し、一方で 夫マーティン・カーシィと娘イライザとのユニット Waterson: Carthy の一員として、あるいは再生ウォータースンズのメンバーとして、その評価は上がる一方で、ついにはマーティンの叙勲とともに、一家はイングランド・フォーク・シーンのロイヤル・ファミリーとまで呼ばれるようになりました。それには、English Folk Dance and Song Society 会長にもなったイライザの活躍もさることながら、いわば女族長としてのノーマのごく自然な威厳ある佇まいも寄与していたようにも思えます。

 生前最後の録音はイライザとの2010年のアルバム《Gift》から生まれた Gift Band との2018年の《Anchor》になりました。

Anchor
Waterson, Norma / Carthy, Eliza & Gift Band
Topic
2018-06-01

 

 先日、イライザはパンデミックによって一家が困窮しているとして、ファンに財政支援を訴えていました。そこではノーマが肺炎で入院しているともありました。ここ数年、いくつかの病気を患い、2010年には一時昏睡に陥ってもいたそうです。

 弟マイクは2011年に、妹ラルは1998年に亡くなっています。

 自分でも思いの外、衝撃が大きくて、すぐにはノーマの歌を聴きかえす気にもなれません。今はまず冥福を祈るばかりです。合掌。



0131日・月

##本日のグレイトフル・デッド

 0131日には1969年から1978年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1969 Kinetic Playground, Chicago, IL

 5ドル。開場7時半。閉場午前3時。このヴェニュー2日連続の初日。シカゴ初見参。1981年まではほぼ毎年のようにシカゴでショウをしている。Grassroots 共演。セット・リスト無し。

 ポスターでは Grassroots と一語で、これが The Grass Roots と同一であるかはわからない。後者は1966年にデビューしたブルー・アイド・ソウルのグループとウィキペディアにある。こちらは1967年に〈Let's Live for Today〉というベスト10ヒットをもっている。

 ポスターには1月下旬から3月上旬までの出演者が日付とともに掲げられている。デッドとグラスルーツの前は Buddy Rich OrchestraBuddy Miles ExpressRotary Connection。後はヴァニラ・ファッジ、レッド・ツェッペリン、ジェスロ・タル。以下、ティム・ハーディン、スピリット、The Move。ジェフ・ベック、サヴォイ・ブラウン、マザー・アース。ポール・バターフィールド、B・B・キング。ポール・バターフィールド、ボブ・シーガー・システム。ジョン・メイオール、リッチー・ヘヴンス。チケット代金、開場、閉場時刻はすべて同じ。


2. 1970 The Warehouse, New Orleans, LA

 このヴェニュー3日連続の2日目。フリートウッド・マック、ザ・フロック前座。

 8曲演奏されたところで、レシュのアンプがトラブルにみまわれ、5曲25分ほど、アコースティックで演奏され、またエレクトリックにもどってさらに5曲、40分ほど演奏される。


3. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL

 9.50ドル。開演8時。このヴェニュー3日連続の中日。最高のショウの一つだった由。この後のショウの録音を聴けば、容易に想像がつく。(ゆ)


1107日・日

 アメリカでは本のための紙も布も製本用の糊も本を運ぶトラックの運転手も足らず、出版がどんどん遅れている。大手中小を問わないそうだ。

 昨日は仕事で一緒になった人から恐しい話を聞く。その人はスタジオ用やコンシューマ用の音響機器を設計・製造する仕事をしているのだが、モノ不足がハンパではない。不足しているのは半導体だけではなく、いろいろな部品、コネクター類も欠品や納期未定になっている。象徴的なのはノイトリックのバランス・コネクタ。半導体だけでなく、世界的に樹脂が不足している。つまりプラスティックが無い。原因は最大の生産国であるアメリカの生産量が落ちているためらしい。なぜ、落ちているのかはわからない。アルミの値段も暴騰している。これはパソコンなどにも跳ねかえるだろう。今のノート・パソコンのボディはたいていアルミの塊からの削りだしだ。

 こちらでできる防衛策は、今のうちに買える中で、一番良いものを買っておくことか。そしてそれをできるだけ長く使うようにする。

 リスクはできるだけ分散して小さくするのが基本だ。でかい蓄電池を1個買うよりも、携帯用バッテリーをいくつも持つ。

 そこまでひどくはならないだろう、と期待したいが、そういう期待は往々にしてはずれる。



##本日のグレイトフル・デッド

 1107日には1968年から1987年まで6本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1968 Fillmore West, San Francisco, CA

 ポスターとチケットが残っているが、セット・リスト不明。


2. 1969 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 2時間弱の一本勝負の録音が出回っているが、元が2セットだったか一本勝負だったかは不明。ラストの〈Turn On Your Lovelight〉が《Dick’s Picks, Vol. 16》で、その前の〈That's It for the Other One〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 前者はピグペンの持ち歌だが、ここではウィアがよく対抗し、バンドのインストもかなりなもの。後者はやや荒いところもないことはないが、いい演奏。

 始まって3曲目に〈The Star Spangled Banner〉が短かく演奏されたらしい。スライド・ホィッスルでの演奏で、誰がやったのか不明。


3. 1970 Capitol Theater, Port Chester, NY

 4日連続の3日目。この日もエレクトリック・セットを二つやっている。


4. 1971 Harding Theatre, San Francisco, CA

 このヴェニュー2日目。3ドル。 二晩とも4時間15分のショウ。こちらはFM放送されてブートが出回っている。

 会場は1階500、2階300の小劇場。頭もたれまで付いた座席が快適。〈Dark Star〉と〈The Other One〉が共に演奏されるのは珍しい。


5. 1985 Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY

 このヴェニュー2日連続の1日目。どちらも同じくらい良い由。


6. 1987 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 このヴェニュー3日連続の中日。開演8時。稀有なことにアンコール三度。(ゆ)


 アイルランドのシンガー・ソング・ライター、Sean Tyrrell の訃報が入ってきました。1030日夜死去。享年78歳。
 

 1943年ゴールウェイ生まれ。1960年代からフォーク・クラブで歌いはじめ、1968年にニューヨークに渡り、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンで活動します。サンフランシスコ、ニュー・ハンプシャーに移り、Apples In Winter というグループに参加。1975年1枚アルバムを出します。

 その年、アイルランドに戻り、クレアのバレンに住みつき、1978年、National University Ireland Galway に職を得ます。また、隣近所だったデイヴィ・スピラーンと演奏するようになり、そのアルバム2枚に参加もします。《Shadow Hunter》と、たぶん《Atlantic Bridge》と思います。前者は確認しましたが、後者は行方不明。

 アイルランドでのかれの評価は ‘Cuirt an Mhean Oiche (The Midnight Court)’ という詩に曲をつけたことが大きいようです。この詩は Brian Merriman または Brian Mac Giolla Meidhre (c. 1747 – 1805) というクレアの農民で寺子屋教師が残したもので、アイルランド語のコミカルな詩として最高のものとされています。フランソワ・ラブレーの作品に比されることもあるそうな。この詩は1,200行に及ぶ長篇で、ティラルはこれをバラッド・オペラに仕立て、1992年に上演されて好評を博しました。先日亡くなった Mary McPartlan も出演した由。

 1994年にデビュー・アルバム《Cry Of A Dreamer》を、当時ばりばり元気だった Hannibal Records からリリース。ぼくがかれの歌を聴いたのもこれが初めてでした。朴訥と形容したくなるような、ごつごつと一語一語言葉を打ちこんでくるような歌と、やはりぽつりぽつりと弾くマンドーラの伴奏は強い印象を受けました。以後2014年の《Moonlight on Galway Bay》まで、5枚のアルバムがあります。いずれも質の高い佳作ですが、とりわけセカンドの《The Orchard》は傑作。

Cry of a Dreamer
Tyrrell, Sean
Hannibal
1996-01-16


 一方で、バンジョーも達者でフィドルの Kevin Glackin、パイプの Ronan Browne とのアルバムや、地元のフィドラーとのライヴ盤や、フルート、ホィッスル、ヴィオラを操る人たちと The Medal Hunters の名前で出したライヴ盤があります。この最後のものはやはりトリオで、おそらくセッションをほぼそのまま録音したものらしい。3人とも名人達人というわけではありませんが、味があり、耳を惹かれます。

 アイルランドの現大統領マイケル・ヒギンズとは Universty College Galway の同窓だったそうで、追悼の言葉を発表しています。

 すぐれたシンガーの星の数ほどいるアイルランドでも、なぜかぼくには最もアイルランド的と感じられるうたい手でした。オリジナルやカヴァーが多いのですが、深く下ろした根っこからたち登ってくるような歌です。美声でもないし、耳に快いスタイルでもありませんけど、ずっと聴いていたくなる。今夜は久しぶりにかれの歌に浸って、追悼しようと思います。合掌。(ゆ)



 今度はスコットランドのロビン・モートンが亡くなったという知らせです。今月1日、81歳。突然の死去だった模様。追悼記事がここにあります。

 この記事は丁寧で、ちゃんと略歴から書いてくれていて、おかげでモートンがノーザン・アイルランドのアーマー州ポータダウンの出身だとか、スコットランド最高のハーパーの一人 Alison Kinnaird の旦那だとか、初めて知りました。

 ロビン・モートンはまず The Boys of the Lough のメンバーとしてぼくらの前に現れますが、ぼくらが最も恩恵を受けたのは Temple Records の主宰者、プロデューサーとしてでした。スコットランドで最も初期の伝統音楽専門レーベルとして、テンプルは一歩踏みこんだ世界を開いてくれました。スコットランドの音楽にぼくらは Topic Trailer からのアルバムによってまず親しんだわけですが、クラルサッハやスコティッシュ・ゲール語歌謡など、そこには無い側面の音楽を伝えてくれたのがテンプルでした。

 上記追悼記事によると、父親の影響でまずジャズに親しみ、コルネットを学びます。ヒーローはルイ・アームストロング。ジェリー・ロール・モートンが芸名で、何らのつながりもないことを残念がっていました。ベルファストでジャズやブルーズのレコードを買っていた店はヴァン・モリソンも常連だったそうです。スキッフルからブルーズ、さらにアパラチアの音楽に至り、遡る形でアイルランドの音楽も発見します。

 本業は精神障害者専門のソーシャル・ワーカーで、ロンドンで資格をとり、そちらの仕事も続けていたようです。

 資格をもって故郷にもどると、Ulster Folk Club を起ち上げ、これは Ulster Folk Music Society に発展します。ここで Cathal McConnell と出逢い、ギター、バゥロン、コンサティーナを演奏するようになります。またクラブのゲストに招いたことからイワン・マッコール&ペギー・シーガーの知己を得て、イングランド、スコットランドとつながりができます。1967年、カハル・マッコネルとフィドラーの Tommy Gunn The Boys of the Lough の原型をつくります。バンドの名前は3人でこのタイトルのリールを演奏した時に生まれました。

 1970年にエディンバラに移住。精神異常治療の博士号をとるためでしたが、音楽の仕事が忙しくなって、ついに博士号は断念。

 一方ボーイズ・オヴ・ザ・ロックはガンが辞めたため、アリィ・ベインと当時その相棒だったハーモニカの Mike Whellans を加え、さらにウィーランズがディック・ゴーハンに交替します。1973年、トレイラーから出たデビュー・アルバムはこの編成でした。ジャケット左からゴーハン、ベイン、マッコネル、モートン。

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 このバンドはアイルランド、シェトランド、スコットランドのミュージシャンによる最初の混成バンドでした。今や、スコットランド音楽の大御所的存在のアリィ・ベインのキャリアはここに始まります。10年後、アイルランドやスコットランドの伝統音楽を演奏する初めてのオーセンティックなミュージシャンとして来日した時、モートンはいませんでしたが、アリィ・ベインのフィドルとカハル・マッコネルのフルートに、ぼくらが受けた衝撃は大きく深いものでした。

 モートンは1970年代、ボーイズをやりながら、ミドロジアン州テンプルの古い教会を自宅兼スタジオに改造します。Topic の録音エンジニア、プロデューサーとして、たとえばゴーハン畢生の傑作《Handful Of Earth》などを作りながら、Topic が出さないようなスコットランドのディープな音楽をこのスタジオで録音し、テンプル・レコードからリリースしたのでした。夫人のアリスン・キナードのハープ、Flora MacNeilChristine Primrose のガーリック歌謡、さらにはスコットランド伝統音楽をスイングで料理したユニークなバンド Jock Tamson's Barins などが代表です。

 プロデューサーとして最大の貢献はバトルフィールド・バンドを育て、スコットランドを代表する、そう、スコットランドのチーフテンズとも言うべき存在に押し上げたことでしょう。

 エディンバラに移る前にモートンは Folksongs Sung In Ulster, Mercer Press を出していますが、最後になった仕事もアルスターの歌のコレクションで、完成間近だったそうです。周囲が引きついで、出版される計画だそうです。

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 Folksongs Sung In Ulster の序文で、モートンは面白いことを書いています。この本ははじめ Ulster Songs と題することを考えていた。ただ、そうすると、収録された歌の一部はアルスターの歌ではないではないかと指摘する人もいるかもしれない。そういう歌はアルスターが舞台ではない点では確かにそうだ。しかし、こういう見方は、伝統歌の伝わり方や社会の中での役割からして、不必要なまでに料簡が狭すぎる。アルスターが舞台ではない、たとえばイングランドから伝わった歌の中にはまた、ヨーロッパ大陸の古い歌にまで遡れるものもある。とすれば、これはイングランドの伝統歌と呼ぶべきか、あるいはヨーロッパの伝統歌と呼ぶべきか、あるいは他の名前を考えるか。それならアルスターで歌われているのだから、アルスターの歌でいいではないか。世界の中のこのアルスターという地域の人びとにとってそれらの歌は何か訴えるものがあって、その伝統に入った。であれば、歌がどこの起源であれ、それはアルスターの歌だろう。

 ここには伝統というものがある限定された地域で初めて意味をもつことと、それは常にその外部と広く遠くつながっているという認識があります。伝統を相手にするとき、一見矛盾するこのことを忘れないでおくことが肝要でしょう。

 モートンはこの序文でもうひとつ、このタイトルがこれらの歌は実際に歌われている、生きた歌であることも示唆していることも強調しています。実際、この本は収録された50曲すべてに対して、どこの誰から採録したかのリストがあります。こうして紙に印刷するのは歌うためのヒント、シンガーにとっては素材となり、歌っていない人にとっては歌うことへの誘いとなることを願ってのことでした。モートンがその後の活動で示してくれたのは、この生きている伝統、生きてほざいている伝統の姿です。

 スコットランド音楽、そしてアルスターの歌の紹介に縁の下の力持ちとしてモートンは大きな存在でした。現在のスコットランド音楽の活況はかれが築いた土台の上に建っていると言って、言い過ぎではないでしょう。ぼくらの音楽生活を豊かにしてくれた先達に、心からの感謝を捧げます。合掌。(ゆ)



##本日のグレイトフル・デッド

 1024日には1969年から1990年まで、6本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1969 Winterland Arena, San Francisco, CA

 2日連続の1日目。3.50ドル。共演ジェファーソン・エアプレイン、Sons of Champlin。1時間弱のショウ。

 Sons of Champlin 1965年にマリン郡で Bill Champlin が中心になって結成。シャンプリンは後、シカゴに参加する。サンズ・オヴ・シャンプリンはホーン・セクションを備え、ギタリストはジャズの素養があり、シャンプリンはブルー・アイド・ソウルの一角と言えるシンガーだった。60年代、サンフランシスコ・シーンを、ジェファーソン・エアプレイン、デッドなどとともに代表する。つまり、この日はシスコのメジャー・バンド3つが揃い踏みしたわけだ。この日の順番はダグ・カーショウ、サンズ・オヴ・シャンプリン、デッド、エアプレイン。この3日前、1021日にジャック・ケルアックが死んでいる。


2. 1970 Kiel Opera House, St. Louis, MO

 この施設は Kiel Auditorium と同じ建物で、二つのホールが背中合わせに造られており、間の仕切りを取り払って、一つのホールとして使うこともできた。オペラ・ハウスはその半分の片方の名前。もう片方と全体はオーディトリアムと呼ばれた。先日出た《Listen To The River》ボックス・セットに収められた197310月末のショウはこの大きく使う方で、9,300人収容。このオーディトリアムにデッドは1969-02-06に出ている。その時はアイアン・バタフライの前座だった。

 この日の第一部はガルシア入りのニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。第二部が2時間弱のエレクトリック・デッド。オープナーの〈Dancing In The Street〉がすごかったらしい。


3. 1971 Easttown Theatre, Detroit, MI

 このヴェニュー2日目。前半9・10曲目〈Black Peter; Candyman〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 スロー・バラードの〈Black Peter〉をこれだけゆっくり歌って、この歌のベスト版と言える歌唱を聞かせるガルシアは大したうたい手だ。巧い下手の範疇ではない。

 〈Candyman〉との間にピアノの小さなトラブルを治す間があり、テープが一度切れて、途中から始まる。これは他の形では出せないだろう。《30 Days Of Dead》はこういう、演奏自体はすばらしいが、録音にちょっとした傷があって、正式なCDの形では出せないものが聴けるのが嬉しい。 こちらもいつもよりかなりスロー・テンポ。ガルシア熱唱。


4. 1972 Performing Arts Center, Milwaukee, WI

 2日連続の2日目。まずまずのショウの由。


5. 1979 Springfield Civic Center Arena, Springfield, MA

 8.50ドル。7時半開演。12月上旬まで続く秋のツアーの初日。この年は珍しく年初からツアーに出て、2月17日で打ち上げ。この日でキースとドナが離脱する。代わりの鍵盤要員はすでにウィアのバンド Bobby and the Midnites にいたブレント・ミドランドとガルシアとウィアは当りをつけてはいたが、デッドに参加するのはそう簡単なことではない。ミドランドが加わってのショウの最初は4月22日になる。以来このショウはミドランドにとって25本目。

 後半オープナーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 頭が一瞬切れているようだ。わずかに遅めのテンポ。こりゃあ、ベスト版の一つ。こういう演奏をされるともう降参するしかない。このペアがバンドにもファンにも人気があるのは、こういう演奏がとび出すからだ。レシュが〈Fire On The Mountain〉のリフを始めても、ガルシアはいっかな演奏をやめず、他のメンバーも乗ってゆく。ミドランドははじめオルガンで参戦するが、今一つ音が負けると見て、シンセに切替え、〈Fire〉に入ってからは電子ピアノになって、後半、ソロもとる。コーダになってテンポが上がり、切迫感がにじむ。これぞデッドを聴く醍醐味。23分間のトリップ。


6. 1990 Sporthalle, Hamburg, Germany

 ドイツ最終日。かちっとした良いショウだった由。〈Help On The Way >Slipknot! > Franklin's Tower〉は今回のヨーロッパ・ツアーで唯一ここだけの演奏。ここから始まる後半は最後まで全部つながった。(ゆ)


 パディ・モローニの訃報は晴天の霹靂だった。死因はどこにも出ていないようだ。Irish Times には比較的最近のビデオがあるから、あるいは突然のことだったのかもしれない。

 先日の「ショーン・オ・リアダ没後50周年記念コンサート」のキョールトリ・クーラン再編にモローニが参加しなかったことについて、オ・リアダの息子との確執を憶測したけれど、あるいは健康状態もあったのかもしれない。あの時、不在の原因としてモローニの健康を思いつかなかったのは、かれが死ぬなどということは考えられなかったからだ。他が全員死に絶えようと、モローニだけは生きのこって、唯一人チーフテンズをやっていると思いこんでいた。こんなに早く、というのが訃報を知っての最初の反応だった。


 パディ・モローニがやったことのプラスマイナスは評価が難しい。見る角度によってプラスにもマイナスにもなるからだ。まあ、ものごとはそもそもそういうものであるのだろう。それにしても、かれの場合、プラスとマイナスの差がひどく大きい。

 出発点においてチーフテンズが革命であったことは間違いない。そもそもお手本としたキョールトリ・クーランが革命的だったからだ。モローニはクリエイターではない。アレンジャーであり、プロデューサーだ。オ・リアダが始めたことをアレンジし、チーフテンズとして提示した。クラシカルの高踏をフォーク・ミュージック本来の親しみやすさに置き換え、歌を排することで、よりインターナショナルな性格を持たせた。たとえ生きていたとしても、オ・リアダにはそういうことはできなかっただろう。クラシックとしてより洗練させることはできたかもしれないが、それはアイリッシュ・ミュージックとはまったく別のものになったはずだ。

 チーフテンズもアイリッシュ・ミュージックのグループとは言えない。ダブリナーズ、プランクシティ、ボシィ・バンドのようなアイリッシュ・ミュージックのバンドと、キョールトリ・クーランのようなクラシック・アンサンブルの中間にある。もちろんこの位置付けは後からのもので、モローニが当初からそれを意図してわけではないだろう。かれはかれなりに、自分がやりたいこと、面白いだろうと思ったことをやろうとした。キョールトリ・クーランを手本としたのは、それが手近にあったことと、オ・リアダが目指したことを、モローニもまた目指そうとしたからだろう。それが結果としてチーフテンズをアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間に置くことになった。

 当初はしかしむしろモローニは自分なりのアイリッシュ・ミュージックのアンサンブルを構想したと見える。チーフテンズだけでやっていた時はそうだ。1977年頃までだ。《Live!》は今聴いても十分衝撃的だ。アイリッシュ・ミュージックのアルバムの一つの究極の姿と言ってもいい。

Live!
The Chieftains
CBS
1977T

 

 チーフテンズがアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間にあり、様々な他の音楽とのコラボレーションに使えるといつモローニが気がついたのかはわからない。少なくとも中国に行く前に確信していたことは明らかだ。そして以後、モローニはチーフテンズのマーケットをコラボレーションによって拡大することに邁進する。その際、ポリシーとしたことは二つ。チーフテンズの音楽、レパートリィと手法は変えないこと、そしてチーフテンズの音楽を「アイリッシュ・ミュージック」として売り込むこと。それによってモローニはチーフテンズをビジネスとして成功させる。

 チーフテンズのコンサートは判で押したようにいつも同じだ。やる曲も順番も演奏も時間も MC もすべてまったく変わらない。わが国以外でチーフテンズのコンサートを見たことはないから言明はできないが、場所によって多少変えていただろうことは想像はつく。ただ、基本は同じだっただろう。そして共演する相手に変化がある。録音はもっと手間暇をかけられるし、テーマも立てやすいから、もっとヴァリエーションを作れる。チーフテンズのコンサートは何度か見れば、後は見ても見なくても大して違いはなくなる。もっとも、その違いが無いことを確認するために見るというのはありえた。録音の方には繰返し聴くに値するものがある。

 ただし、録音にしても変わるのはモチーフや構成、共演のアレンジで、チーフテンズの音楽そのものはコンサートと同じく、いつもまったく同じだ。変わらないことによって、どんな音楽が来ても、共演できる。そして誰と一緒にやっても、それは否応なくチーフテンズの音楽になる。

 モローニのやったことのマイナス面の最大のものは、チーフテンズの音楽をアイリッシュ・ミュージックそのものとして売り込んだことだろう。この場合チーフテンズの音楽以外はアイリッシュ・ミュージックでは無いことも暗黙ながら当然のこととして含まれた。チーフテンズの音楽がアイリッシュ・ミュージックの位相の一つだったことはまちがいない。しかし、アイリッシュ・ミュージックの中心にいたことは一度も無かった。むしろアイリッシュ・ミュージックの中では最も中心から遠いところにいて、1970年代末以降はどんどん離れていった。Irish Times でのモローニの追悼記事が「音楽」欄の中でも「クラシカル」に置かれていることは象徴的だ。チーフテンズの音楽は「チーフテンズ(チーフタンズ)」というブランドの商品だった。それをイコール・アイリッシュ・ミュージックとして売り込むことに成功したことで、商品としてのアイリッシュ・ミュージックのイメージが「チーフテンズ(チーフタンズ)」になった。


 チーフテンズを続けていることは、モローニにとって幸せだっただろうか。幸せではないなどとは本人は口が裂けても言わなかったはずだ。幸せかどうかはもはや問題にならないレベルになっていたのでもあるだろう。そう問うことには意味が無いのかもしれない。

 しかし、一箇の音楽家としてのパディ・モローニを思うとき、チーフテンズを始めてしまったことは本人にとっても不運なことだったのではないか、と思ってしまう。アイリッシュ・ミュージックの傑出した演奏家として大成する道もとれたのではないか、と思ってしまう。

 パディ・モローニはパイパーとして、そしてそれ以上にホィッスル・プレーヤーとして、他人の追随を許さない存在だった。と、あたしには見える。《The Drones And The Chanters: Irish Pipering》Vol. 1 でかれのソロ・パイプを聴くと、少なくとも1枚はソロのフル・アルバムを作って欲しかった。そしてショーン・ポッツとの共作ながら、彼の個人名義での唯一のアルバム《Tin Whistle》に聴かれるかれのホィッスル演奏は、未だに肩を並べるものも、否、近づくものすら存在しない。この二つの録音は、まぎれもなくアイリッシュ・ミュージックの真髄であり、とりわけ後者はその極北に屹立している。

 あたしが訳したチーフテンズの公式伝記の末尾近く、パディがダブリンのパイパーズ・クラブのセッションに参加するシーンがある。久しぶりに参加して、ひたすらパイプを吹きまくり、パディは指がツりそうになる。たまたまそこへフィドラーのショーン・キーンが現れ、セッションにいるパディを見て、大声でけしかけ、励ます。どうした、パディ。もっとやれえ。パディはあらためてチャンターを手にとる。そこでのパディはそれは幸せそうに見える。だからショーン・キーンも嬉しくなって思わず声をかけたのだろう。


 さらば、パディ・モローニ。チーフテンズはこれでめでたく終演を迎え、一つの時代が終った。あなたはクリスチャンのはずだから、天国に行って、楽しく、誰はばかることなく、大好きなパイプやホィッスルを思う存分吹いていることを祈る。合掌。(ゆ)


9月20日・月

 チェコ出身のベーシスト George Mraz 16日に77歳で亡くなったそうで、同じくチェコのピアニスト Emil Viklicky LondonJazzNews に追悼文を書いている。それを見て、ムラーツがヴィクリツキィとシンガーでツィンバロン奏者の Zuzana Lapčikova 、それに Billy Hart のドラムスで作ったチェコの伝統歌謡集(とヴィクリツキィは言う)Morava》をアマゾンで注文。Jerry's Smilin': A Guitar Tribute To The Grateful Dead, Damia Timoner も一緒に注文。後者はスペインのギタリストによるソロ・ギターのデッド・トリビュート集だそうだ。
 

Morava
George Mraz
Milestone




 ムラーツがチェコを離れたのは、1968年、進攻したソ連軍の戦車に父親を殺されたからだ、と本人から直接聞いた、ヴィクリツキィが書いている。ムラーツの父親が乗っていた市電に前方不注意のソ連軍の戦車が突込み、窓を突き破った大砲に頭を強打された。父親はその前の駅で乗ってきたお婆さんに席を譲って立った、その直後のことだった。事件は占領軍のこととてチェコ警察は捜査を禁じられた。

 ムラーツは同年中にまずドイツに徃き、アメリカに渡り、ボストンのバークリーに行く。着いた日にレギュラーの仕事を提供された。その後ニューヨークに移る。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月20日には1968年から1993年まで、10本のショウをしている。公式リリースは2本。


01. 1968 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA

 単独のショウではなく、Steve Miller, Ace of Cups が共演。25分を超える〈Drums〉には Vince Delgado Shankar Ghosh も参加。前者は後にハートのバンド Diga にも参加するパーカッショニスト。現在も現役。後者は2016年、80歳で亡くなったタブラ奏者。アリ・アクバル・カーンのパートナーとして1960年代アメリカで活動を始めている。アリ・アクバル・カーンのライヴをアウズレィ・スタンリィが録音した音源が出ているなあ。Bear's Sonic Jounrals のシリーズがこんなに出てるとは知らなんだ。

Bears Sonic Journals: That Which Colors The Mind
Ali Akbar Khan
Owsley Stanley
2020-12-18


02. 1970 Fillmore East, New York, NY

 前半最後から2曲目〈New Speedway Boogie〉が2010年、最初の《30 Days Of Dead》でリリースされた。あたしはこの年はまだデッドにハマる前で、持っていない。

 18日からのレジデンス公演3日目で、第1部アコースティック・デッド、第2部 New Riders Of The Purple Sage、第3部エレクトリック・デッド。ただ、上記〈New Speedway Boogie〉ではガルシアがエレクトリック・ギターを持っている由。ガルシアは一部の曲でピアノも弾いているらしい。この日のアコースティック・セットでは一部の曲でデヴィッド・グリスマンがマンドリンで参加。NRPS のデヴィッド・ネルスンもマンドリンを弾いている。

03. 1973 The Spectrum, Philadelphia, PA

 2日連続ここでのショウの初日。料金6ドル。後半一部にジョー・エリスとマーティン・フィエロが参加。チケットの売行が悪く、バンドはやる気がなくて、後半は4曲だけ。

04. 1974 Palais des Sports, Paris, France

 ヨーロッパ・ツアー、パリでの2日間の初日。ツアーにつきもののトラブルが噴き出したらしい。

05. 1982 Madison Square Garden, New York , NY

 3度めの MSG 2日連続の初日。料金13.50ドル。

06. 1987 Madison Square Garden, NY

 5本連続の最終日。料金17.50ドル。

07. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の6本目。

08. 1990 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の千秋楽。後半の大部分が《Road Trips, Vol. 2, No. 1》に収録された。収録された分だけで1時間半を超え、後半全体では2時間近かった由。〈Dark Star〉の途中で〈Playing in the Band〉の「返り」があるが、その前半は前夜の演奏。CD ではそれがわかるように並べられている。〈Throwing Stone〉のジャムのテンションの高さ。

 《Road Trips, Vol. 2, No. 1》では〈Truckin'〉〈China > Rider〉からすばらしい演奏が続く。〈Dark Star〉も全キャリアを通じてのベストの一つに数えたい。ホーンスビィのおかげもあるのだろうが、ウェルニクも踏ん張っていて、ミドランドの穴は埋めようがないが、デッド健在を強烈に訴える。

09. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 9年ぶりのボストン・ガーデン6本連続の初日。ブルース・ホーンスビィ参加。ピアノとアコーディオン。後半冒頭〈Help on the Way > Slipknot!〉と来て、その次が〈Franklin's Tower〉ではなく〈Fire on the Mountain〉だったので、大歓声が湧いた。またアンコールが珍しくも〈Turn On Your Lovelight〉で、アンコールとしてはこれが最後となった。

10. 1993 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の4本目。後半の〈Space〉とその次の次〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉にエディ・ブリッケルが参加。見事なヴォーカルを聞かせた由。〈Space〉では、しばらくポケットに手をつっこんだまま耳を傾けていたが、やおら途中から歌う、というよりラップを始めたのが、音楽とモロにからんでいた由。この人、あたしはぜーんぜん知らなんだが、こういうことができるとなると聴いてみたくなる。(ゆ)


 古い知人からもう何年も放置している Mixi にメッセージが来て、驚いた。中身を見て、一瞬茫然となる。ナンシ・グリフィスの訃報だった。


 ナンシを知ったのは何がきっかけだったか、もう完全に忘却の彼方だが、たぶん1990年前後ではなかったか。リアルタイムで買ったアルバムとして確実に覚えているのは Late Night Grande Hotel, 1991だ。けれどその時にはファーストから一応揃えて聴きくるっていた。あるいは Kate Wolf あたりと何らかのつながりで知ったか。






 あたしはある特定のミュージシャンに入れこむことが無い。もちろん、他より好きな人や人たちはいるけれど、身も世もなく惚れこんで、他に何も見えなくなるということがない。そういうあたしにとって最もアイドルに近い存在がナンシだった。一時はナンシ様だった。


 アイドルは皆そうだろうが、どこがどう良いのだ、とは言えない。彼女の声はおそらく好き嫌いが別れるだろう。個性は結構シャープだけど、一見、際立ったものではない。でも、この人の歌う歌、作る歌、そしてその歌い方は、まさにあたしのために作り、歌ってくれていると感じられてしまう。そういう親密な感覚を覚えたのは、この人だけだった。後追いではあったけれど、ほぼ同世代ということもあっただろう。


 MCA 時代も悪くはなく、中でも Storms, 1989 は Glyn Johns のプロデュースということもあり、佳作だと思う。優秀録音盤としても有名で、後からアナログを買った。とはいえ、やはりデビューからの初期4枚があたしにとってのナンシ様だ。初めは Once In A Very Blue Moon と Last Of The True Believers の2枚だったけど、後になって、ファーストがやたら好きになって、こればかり聴いていた。でも、ナンシの曲を一つ挙げろと言われれば、Once in a very blue moon ではある。


Storms [Analog]
Griffith, Nanci
Mca
1989-08-03




Last of the True Believers
Griffith, Nanci
Philo / Umgd
1990-10-25


There's a Light Beyond These Woods
Griffith, Nanci
Philo / Umgd
2002-01-08



 ナンシのピークはやはり Other Voices, Other Rooms だろう。グラミーも獲ったけど、これはもう歴史に残る。狙った通りにうまく行ったものが、狙いを遙かに跳びこえてしまったほとんど奇蹟のようなアルバム。一方で、あまりに凄すぎて、他のものが全部霞んでしまう。本人もその後足を引っぱられる。それでも、この1枚を作ったことだけで、たとえて言えば、ここにもゲスト参加しているエミルー・ハリスの全キャリアに比肩できる。






 と書いてしまうとけれどこのアルバムの聴きやすさを裏切るだろう。親しみやすく、いつでも聴けるし、BGM にもなれば、思いきり真剣に聴きこむこともできる。そして、いつどこでどんな聴き方をしても、ああ、いい音楽だったと思える。でも、よくよく見直すと凄いアルバムなのだ。アメリカン・ミュージックのオマージュでもあり、一つの総決算でもあり、そう、ここには音楽の神様が降りている。選曲、演奏、録音、プロデュース、アルバムのデザイン、ライナー、まったく隙が無い。隙が無いのに、窮屈でない。音楽とは本来、こうあるべきという理想の姿。この頃のジム・ルーニィは実にいい仕事をしているけれど、かれにとっても頂点の一つではあるだろう。


 ここにも Ralph McTell の名曲 From Clare to Here があるけれど、ナンシはアイルランドが大好きで、カントリー大好きのアイリッシュもナンシが大好きで、ひと頃、1年の半分をダブリンに住んでいたこともある。チーフテンズとツアーもし、ライヴ盤もある。


An Irish Evening
Chieftains
Sbme Special Mkts.
1992-01-28



 今世紀に入ってからはすっかりご無沙汰してしまって、ラスト・アルバムも持っていない。それが2012年。サイトを見ても、コロナの前からライヴもほとんどしておらず、あるいは病気だろうかと思っていた。死因は公表されていない。これを機会に、あらためて、あの声と、テキサス訛にひたってみよう。合掌。(ゆ)



2021-08-17追記
 Irish Times に追悼記事が出ていた。それによると 1996年に乳がん、1998年に甲状腺がんと診断されていた由。さらにドゥプウィートレン攣縮症という徐々に中指と薬指が掌の方へ曲る病気のため、指を自由に動かせなくなっていたそうな。
 

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