カテゴリ: News
HiBy RS2 ファームウェア 1.1
Sonoma と AquaSKK
2023-09-30追記
ドックの「最近使ったアプリ」はやはりダメで、Mac を一度眠らせたりすると、再起動しないと正常に動作しない。
Denon Ceol N-12
R.I.P. Sean Keane
あらひろこさん
マイケル・ルーニィ、ジューン・マコーマックとミュージック・ジェネレーション・リーシュ・ハープアンサンブル来日
グレイトフル・デッド、今年のビッグボックス
1973-05-26, Kezar Stadium, San Francisco, CA
1973-06-09, RFK Stadium, Washington, DC
1973-06-10, RFK Stadium, Washington, DC
この5本は4月2日までの春のツアーと6月22日からの夏のツアーの間の時期で、この期間、ショウはこれで全部。
ライナー執筆陣の一人 Ray Robertson は《Dave's Picks, Vol. 45》に続いての登場で、あのライナーはなかなか良かったので楽しみ。(ゆ)
The Chieftains クラダ盤再発
RIP Seamus Begley (Bheaglaoich)
macOS Ventura と AquaSKK
温暖化による旱魃で電力不足
アイルランドのカトリック教会が革命的変化を求める
大陸は隕石落下でできた
R.I.P. Mick Moloney
吉田文夫氏
RIP Dennis Cahill
アイリッシュ・ミュージックに魅せられた人間は、たいてい、そのコアに入ることを目指します。それが不可能だとわかっていても目指します。そうさせるものがアイリッシュ・ミュージックにはあります。カヒルもおそらくその誘惑にかられたはずです。しかし、どうやってかその誘惑を斥けて、つなぐことに徹していました。あるいはギターという楽器の性格が後押しをしていたかもしれない。それにしてもです。
BTS の活動停止
RIP Kelly Joe Phelps
RIP Sean Garvey
アイルランドのアーティストへのベーシック・インカム制度
04月06日・水
アイルランドのアーティストへのベーシック・インカム制度のパイロット版申請受付開始。1週間325EUR を3年間もらえる。アーティストまたはアートに関わる労働者で、申請して受給資格審査を通った中から抽選で2,000人が対象。支給されたものには課税されるが、税金の額はケース・バイ・ケースで異なる。これ以外に稼ぐのはもちろんOK。
325EUR x54=年額17,550EUR。x2,000=35,100,000EUR。現在のレートで47.5億。
わが国に置きかえてみる。人口比からすれば、共和国は現在人口500万。わが国が12,000万。24倍。48,000人。1,140億円。アート、芸術が国として生きてゆくのに不可欠であるという認識が、わが国に果してあるか。
##本日のグレイトフル・デッド
04月06日には1969年から1994年まで9本のショウをしている。公式リリースは2本。うち完全版1本。
1. 1969 Avalon Ballroom, San Francisco, CA
日曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。バークレーの KPFA-FM で放送された。前夜、ヴェニューの終演時刻を超えたため、〈Viola Lee Blues〉の途中でコンセントを抜かれた。が、ヴォーカル・マイクは生きていたらしく、その後で2曲、ア・カペラで歌った。
2. 1971 Manhattan Center, New York, NY
火曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。5ドル。開演8時。第一部8曲目〈Playing In The Band〉が《Skull & Roses》で、その前の〈Oh Boy〉〈I'm A Hog For You Baby〉が《Skull & Roses》の2003年 CD版でリリースされた。
〈Oh Boy〉はこの日が初演。1981-12-12まで計5回演奏。Sonny West と Bill Tilghman の作詞作曲。バディ・ホリー&ザ・クリケッツが1957年10月に〈Not Fade Away〉のシングルB面でリリース。
〈I'm A Hog For You Baby〉は1966-01-08初演で、これが3回目で最後の演奏。作詞作曲のクレジットは Jerry Leiber & Mike Stoller。
3. 1978 Curtis Hixon Convention Hall, Tampa, FL
木曜日。開演8時。
4. 1982 Spectrum, Philadelphia, PA
火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。10.50ドル。開演7時。《Road Trips, Vol.4 No.4》で全体がリリースされた。
5. 1984 Aladdin Hotel Theatre, Las Vegas, NV
金曜日。14ドル。開演8時。
6. 1985 The Spectrum, Philadelphia, PA
土曜日。このヴェニュー3日連続の初日。13.50ドル。開演5時。この頃、毎年冬になるとガルシアは喉頭炎をわずらい、春先は声を嗄らしている。この時も声がほとんど出なかった。
7. 1987 Brendan Byrne Arena, East Rutherford , NJ
月曜日。このヴェニュー2日連続の初日。17.50ドル。開演7時半。〈Dancin' in the Street〉の最後の演奏。
8. 1989 Crisler Arena, University of Michigan, Ann Arbor, MI
木曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演7時。
9. 1994 Miami Arena, Miami, FL
水曜日。このヴェニュー3日連続の初日。25ドル。開演7時半。会場周辺は当時全米でも最悪のゲットーだった由。フロリダは「デッド・カントリー」の一つだ。(ゆ)
TG4 Gradam Ceoil Award
03月26日・土
今年の TG4 Gradam Ceoil Award が発表され、ドロレス・ケーンが生涯業績賞を受賞。ようやく、という感じが無いでもないが、とにかく受賞はめでたい。今さらといえば、スカラ・ブレイもグループ賞を受賞。メインの受賞者はパディ・グラッキン。となると、今年はこの賞の25周年ということで、あげそこなっていた人たちにあげる意味もあるのか、などというのはゲスのカングリというものであろう。何にしてもめでたい。
##本日のグレイトフル・デッド
03月26日には1967年から1995年まで、9本のショウをしている。公式リリースは5本。うち完全版3本。
01. 1967 Avalon Ballroom, San Francisco, CA
日曜日。この日についてはポスターが残っており、共演としてクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、Johnny Hammond & His Screaming Nighthawks、Robert Baker が上げられている。デッドがヘッドライナー。
David Sorochty によれば Oakland Tribune 1967-03-26日付に記事があり、そちらでの共演者はチャールズ・ロイド・カルテットと The Virginians としているが、DeadBase 50 はこれを誤りとしている。
02. 1968 Melodyland Theatre, Anaheim, CA
火曜日。このショウについては存在を疑問視する向きもある一方で、DeadBase XI には John Crutchfield が15歳でこれを見た時のレポートを書いている。03月08日と09日のこのヴェニューでのショウについては、LA Free Press の広告で確認されているが、こちらについては、少数の証言のみではある。
ジェファーソン・エアプレインの前座で、内容はこの時期の典型的なものだったようだ。
03. 1972 Academy of Music, New York, NY
土曜日。このヴェニュー7本連続のランの5本目。5.50ドル。開演8時。全体が《Dave's Picks, Vol. 14》でリリースされた。
04. 1973 Baltimore Civic Center, Baltimore, MD
月曜日。6.50ドル。開演7時。第一部2曲目〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉が2011年と2021年の、11曲目〈Brown-Eyed Women〉が2017年の各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。
05. 1983 Aladdin Hotel Theatre, Las Vegas, NV
土曜日。14ドル。開演7時。オープナーの〈Jack Straw〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
06. 1987 Civic Center, Hartford, CT
木曜日。15.50ドル。開演7時半。第二部4曲目〈He’s Gone〉が2010年の、第一部クローザー前の〈Bird Song〉が2017年の各々《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Dave’s Picks, Vol. 36》で全体がリリースされた。
07. 1988 Hartford Civic Center, Hartford, CT
木曜日。15.50ドル。開演7時半。
08. 1990 Knickerbocker Arena, Albany, NY
月曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。開演7時半。第一部オープナーからの3曲とクローザーの2曲、それにアンコールが《Dozin' At The Knick》でリリースされた後、全体が《Spring 1990》でリリースされた。
春のツアー10本目。これで4箇所を3日ないし2日の連続公演で回ってきているが、そろそろ疲れが出てくる。このショウの後半はその疲れの影響と思われるものが現れる。とりわけバンドの1番弱い部分、ガルシアに影響が大きい。この時、ガルシアは47歳だが、外見は年上のレシュよりよほど老けて見える。ほとんど60代といってもいいくらいだ。ガルシアは生命を使いはたして死んだのだというバラカンさんの指摘は正鵠を射ていると思う。毎晩ステージの上で「絶えず流れ落ちてくる流砂を片脚だけで一輪車をこいで登ろうとする」ことを続けるのは、身も心も削ることではあろう。
それでもそうした影響が最小限で、ショウとしては前2日ほどのピークではないが、デッドの水準としても高いところに留まるのがこの春のツアーである。とりわけ第一部は、ここだけとれば前2日を凌ぐとも言える出来だ。
久しぶりにホットでアグレッシヴな〈Hell In A Bucket〉でスタートするが、ラフにはならず、タイトに締まる。そのまま突走らず、〈Dupree's Diamond Blues〉でタメるところが見事。ゆったりしたテンポでガルシアは歌詞をはっきり発音する。宝石店強盗で裁かれる話をユーモラスに演奏するのがデッドの身上。ガルシアの後でミドランドがピアノ・ソロをとり、ワン・コーラスやったところで終るつもりが、もっとやれと促されたか、さらにワン・コーラス。こういうソロはもっと聞きたい。次のミドランドの〈Just A Little Light〉も18日よりもかっちりとして出来がいい。このツアーの16日に復活して2度目の演奏である〈Black-Throated Wind〉では、ウィアの歌の裏でガルシアが弾くギターがすばらしい。この歌は1990年のこの一時期だけ、歌詞がかなり変わっている。次の〈Big Railroad Blues〉は1年半ぶりの登場で、次はまた1年半後なのだが、楽しいロックンロール。ガルシア、ミドランドのハモンド、またガルシアと、活き活きしたソロが続く。〈Picasso Moon〉ではこれまた久しぶりにレシュが低域のハーモニーをつける。この後も数曲で参加する。ここでも後半のガルシアのソロが面白い。ガルシアのギターは次の〈Row Jimmy〉でも好調で、MIDI で音を二重にし、裏の音は幕を張るようだ。後半レゲエのビートになってはずみ、一層ユーモラスになる。第一部は〈Blow Away〉で盛り上がって締める。
この日は珍しい曲をやろうとしているのか、第二部オープナーは〈Built To Last〉。計18回演奏でこれが最後。これも好調の時にやってみてうまくゆくか試したのかもしれない。ほぼ生音の Drums、やはり面白い Space まで高水準の演奏が続く。乱れが現れるのは、〈Dear Mr. Fantasy〉から次の曲へ移るところで、一瞬だがためらうような感じになる。結局スティーヴィー・ウィンウッドを続けて〈Gimme Some Lovin'〉になって、流れは維持される。問題といえるのはクローザーの〈Morning Dew〉。ここではガルシアはギターが離陸せず、代わりに歌で聞かせる。ガルシアの疲れをカヴァーするように、ドラムスが積極的になって、劇的な盛り上げをする。いささかラフだが、クライマックスとしてはちょうどよい。
ガルシアはくたびれてはいるものの、このツアーを通じて歌唱はすばらしく、アンコールの〈Brokedown Palace〉も申し分ない。この曲はそもそも、インプロを展開するものでもない。
09. 1995 The Omni, Atlanta, GA
日曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時半。(ゆ)
Norma Waterson (1939-2022)
30日午後に母が亡くなった、とイライザ・カーシィがツイートしていました。イライザの母ならばノーマ・ウォータースン。イングランドのフォーク・ミュージックの無冠の女王とも言われる傑出したうたい手であります。
ノーマはまず弟妹の Mike と Elaine (Lal)、それにいとこの John Harrison との The Watersons の一員として姿を現します。4人は出身地、北イングランドの伝統歌をアカペラ・コーラスで歌い、1960年代、ブリテンのフォーク・リヴァイヴァル新世代の登場を告げ、後続の若者たちに衝撃を与えたのでした。60年代後半、ヨークシャーのある街で、自分たちのギグを終えたザ・フーがウォータースンズが歌っているところを探して聴きにきた、という話も伝えられています。
ぼくがウォータースンズを初めて聴いたのは1977年の《Sound, Sound Your Instruments Of Joy》でした。ちょうど、ブリテンの伝統音楽に入れこみだしたばかりの頃で、その精妙かつ野趣あふれるハーモニーに夢中になったのでした。これはイングランドの教会で日常的に歌われてきた聖歌を集めた1枚ですが、説教臭さも抹香臭さもかけらもなく、まじりけのない歓びに溢れた、美しい歌が詰まっているアルバムです。聖歌集だということさえ、当初はわからず、伝統的なクリスマス・ソング集だとばかり思いこんでいました。実際、そう聴いてもかまわないものでもありましょう。
続いてノーマが妹のラルとの二人の名義で出した《A True Hearted Girl》はまたがらりと趣が変わって、軽やかな風に吹かれるような歌を集めていて、こちらも当時、よく聴いたものです。
とはいえ、一人の独立したうたい手としてノーマを見直したのはずっと下って1996年、ハンニバルから出た《Norma Waterson》でした。名伯楽 John Chelew のプロデュースのもと、リチャード・トンプソン、ダニィ・トンプソン、Benmont Tench に、なんとロジャー・スワロゥという、これ以上は考えられない鉄壁の布陣をバックに、悠々と、のびのびと、歌いたいうたを天空に解きはなつその声に、完全にノックアウトされたのでした。就中、冒頭の1曲〈Black Muddy River〉の名曲名唱名演名録音にはまったく我を忘れて聴きほれたものです。曲がロバート・ハンター&ジェリィ・ガルシアの作になることはクレジットを見ればわかりましたが、それがグレイトフル・デッドのレパートリィの中でどういう位置にあるのか、多少とも承知するのは何年も後のことです。ノーマ自身、それが誰の歌であるか、知らないままに歌いだした、とライナーにありました。ある日誰からともなく送られてきていたカセット・テープに入っていて、ただいい曲だとレパートリィに加えたのだそうです。
この人は年をとるにしたがって、存在感が大きくなっていきました。セカンド、サードとソロを出し、一方で 夫マーティン・カーシィと娘イライザとのユニット Waterson: Carthy の一員として、あるいは再生ウォータースンズのメンバーとして、その評価は上がる一方で、ついにはマーティンの叙勲とともに、一家はイングランド・フォーク・シーンのロイヤル・ファミリーとまで呼ばれるようになりました。それには、English Folk Dance and Song Society 会長にもなったイライザの活躍もさることながら、いわば女族長としてのノーマのごく自然な威厳ある佇まいも寄与していたようにも思えます。
生前最後の録音はイライザとの2010年のアルバム《Gift》から生まれた Gift Band との2018年の《Anchor》になりました。
先日、イライザはパンデミックによって一家が困窮しているとして、ファンに財政支援を訴えていました。そこではノーマが肺炎で入院しているともありました。ここ数年、いくつかの病気を患い、2010年には一時昏睡に陥ってもいたそうです。
弟マイクは2011年に、妹ラルは1998年に亡くなっています。
自分でも思いの外、衝撃が大きくて、すぐにはノーマの歌を聴きかえす気にもなれません。今はまず冥福を祈るばかりです。合掌。
01月31日・月
##本日のグレイトフル・デッド
01月31日には1969年から1978年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1969 Kinetic Playground, Chicago, IL
5ドル。開場7時半。閉場午前3時。このヴェニュー2日連続の初日。シカゴ初見参。1981年まではほぼ毎年のようにシカゴでショウをしている。Grassroots 共演。セット・リスト無し。
ポスターでは Grassroots と一語で、これが The Grass Roots と同一であるかはわからない。後者は1966年にデビューしたブルー・アイド・ソウルのグループとウィキペディアにある。こちらは1967年に〈Let's Live for Today〉というベスト10ヒットをもっている。
ポスターには1月下旬から3月上旬までの出演者が日付とともに掲げられている。デッドとグラスルーツの前は Buddy Rich Orchestra、Buddy Miles Express、Rotary Connection。後はヴァニラ・ファッジ、レッド・ツェッペリン、ジェスロ・タル。以下、ティム・ハーディン、スピリット、The Move。ジェフ・ベック、サヴォイ・ブラウン、マザー・アース。ポール・バターフィールド、B・B・キング。ポール・バターフィールド、ボブ・シーガー・システム。ジョン・メイオール、リッチー・ヘヴンス。チケット代金、開場、閉場時刻はすべて同じ。
2. 1970 The Warehouse, New Orleans, LA
このヴェニュー3日連続の2日目。フリートウッド・マック、ザ・フロック前座。
8曲演奏されたところで、レシュのアンプがトラブルにみまわれ、5曲25分ほど、アコースティックで演奏され、またエレクトリックにもどってさらに5曲、40分ほど演奏される。
3. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL
9.50ドル。開演8時。このヴェニュー3日連続の中日。最高のショウの一つだった由。この後のショウの録音を聴けば、容易に想像がつく。(ゆ)
モノの不足
11月07日・日
アメリカでは本のための紙も布も製本用の糊も本を運ぶトラックの運転手も足らず、出版がどんどん遅れている。大手中小を問わないそうだ。
昨日は仕事で一緒になった人から恐しい話を聞く。その人はスタジオ用やコンシューマ用の音響機器を設計・製造する仕事をしているのだが、モノ不足がハンパではない。不足しているのは半導体だけではなく、いろいろな部品、コネクター類も欠品や納期未定になっている。象徴的なのはノイトリックのバランス・コネクタ。半導体だけでなく、世界的に樹脂が不足している。つまりプラスティックが無い。原因は最大の生産国であるアメリカの生産量が落ちているためらしい。なぜ、落ちているのかはわからない。アルミの値段も暴騰している。これはパソコンなどにも跳ねかえるだろう。今のノート・パソコンのボディはたいていアルミの塊からの削りだしだ。
こちらでできる防衛策は、今のうちに買える中で、一番良いものを買っておくことか。そしてそれをできるだけ長く使うようにする。
リスクはできるだけ分散して小さくするのが基本だ。でかい蓄電池を1個買うよりも、携帯用バッテリーをいくつも持つ。
そこまでひどくはならないだろう、と期待したいが、そういう期待は往々にしてはずれる。
##本日のグレイトフル・デッド
11月07日には1968年から1987年まで6本のショウをしている。公式リリースは1本。
1. 1968 Fillmore West, San Francisco, CA
ポスターとチケットが残っているが、セット・リスト不明。
2. 1969 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
2時間弱の一本勝負の録音が出回っているが、元が2セットだったか一本勝負だったかは不明。ラストの〈Turn On Your Lovelight〉が《Dick’s Picks, Vol. 16》で、その前の〈That's It for the Other One〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
前者はピグペンの持ち歌だが、ここではウィアがよく対抗し、バンドのインストもかなりなもの。後者はやや荒いところもないことはないが、いい演奏。
始まって3曲目に〈The Star Spangled Banner〉が短かく演奏されたらしい。スライド・ホィッスルでの演奏で、誰がやったのか不明。
3. 1970 Capitol Theater, Port Chester, NY
4日連続の3日目。この日もエレクトリック・セットを二つやっている。
4. 1971 Harding Theatre, San Francisco, CA
このヴェニュー2日目。3ドル。 二晩とも4時間15分のショウ。こちらはFM放送されてブートが出回っている。
会場は1階500、2階300の小劇場。頭もたれまで付いた座席が快適。〈Dark Star〉と〈The Other One〉が共に演奏されるのは珍しい。
5. 1985 Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY
このヴェニュー2日連続の1日目。どちらも同じくらい良い由。
6. 1987 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
このヴェニュー3日連続の中日。開演8時。稀有なことにアンコール三度。(ゆ)
RIP Sean Tyrrell
アイルランドのシンガー・ソング・ライター、Sean Tyrrell の訃報が入ってきました。10月30日夜死去。享年78歳。
1943年ゴールウェイ生まれ。1960年代からフォーク・クラブで歌いはじめ、1968年にニューヨークに渡り、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンで活動します。サンフランシスコ、ニュー・ハンプシャーに移り、Apples In Winter というグループに参加。1975年1枚アルバムを出します。
その年、アイルランドに戻り、クレアのバレンに住みつき、1978年、National University Ireland Galway に職を得ます。また、隣近所だったデイヴィ・スピラーンと演奏するようになり、そのアルバム2枚に参加もします。《Shadow Hunter》と、たぶん《Atlantic Bridge》と思います。前者は確認しましたが、後者は行方不明。
アイルランドでのかれの評価は ‘Cuirt an Mhean Oiche (The Midnight Court)’ という詩に曲をつけたことが大きいようです。この詩は Brian Merriman または Brian Mac Giolla Meidhre (c. 1747 – 1805) というクレアの農民で寺子屋教師が残したもので、アイルランド語のコミカルな詩として最高のものとされています。フランソワ・ラブレーの作品に比されることもあるそうな。この詩は1,200行に及ぶ長篇で、ティラルはこれをバラッド・オペラに仕立て、1992年に上演されて好評を博しました。先日亡くなった Mary McPartlan も出演した由。
1994年にデビュー・アルバム《Cry Of A Dreamer》を、当時ばりばり元気だった Hannibal Records からリリース。ぼくがかれの歌を聴いたのもこれが初めてでした。朴訥と形容したくなるような、ごつごつと一語一語言葉を打ちこんでくるような歌と、やはりぽつりぽつりと弾くマンドーラの伴奏は強い印象を受けました。以後2014年の《Moonlight on Galway Bay》まで、5枚のアルバムがあります。いずれも質の高い佳作ですが、とりわけセカンドの《The Orchard》は傑作。
一方で、バンジョーも達者でフィドルの Kevin Glackin、パイプの Ronan Browne とのアルバムや、地元のフィドラーとのライヴ盤や、フルート、ホィッスル、ヴィオラを操る人たちと The Medal Hunters の名前で出したライヴ盤があります。この最後のものはやはりトリオで、おそらくセッションをほぼそのまま録音したものらしい。3人とも名人達人というわけではありませんが、味があり、耳を惹かれます。
アイルランドの現大統領マイケル・ヒギンズとは Universty College Galway の同窓だったそうで、追悼の言葉を発表しています。
すぐれたシンガーの星の数ほどいるアイルランドでも、なぜかぼくには最もアイルランド的と感じられるうたい手でした。オリジナルやカヴァーが多いのですが、深く下ろした根っこからたち登ってくるような歌です。美声でもないし、耳に快いスタイルでもありませんけど、ずっと聴いていたくなる。今夜は久しぶりにかれの歌に浸って、追悼しようと思います。合掌。(ゆ)
RIP Robin Morton (1939-2021)
今度はスコットランドのロビン・モートンが亡くなったという知らせです。今月1日、81歳。突然の死去だった模様。追悼記事がここにあります。
この記事は丁寧で、ちゃんと略歴から書いてくれていて、おかげでモートンがノーザン・アイルランドのアーマー州ポータダウンの出身だとか、スコットランド最高のハーパーの一人 Alison Kinnaird の旦那だとか、初めて知りました。
ロビン・モートンはまず The Boys of the Lough のメンバーとしてぼくらの前に現れますが、ぼくらが最も恩恵を受けたのは Temple Records の主宰者、プロデューサーとしてでした。スコットランドで最も初期の伝統音楽専門レーベルとして、テンプルは一歩踏みこんだ世界を開いてくれました。スコットランドの音楽にぼくらは Topic や Trailer からのアルバムによってまず親しんだわけですが、クラルサッハやスコティッシュ・ゲール語歌謡など、そこには無い側面の音楽を伝えてくれたのがテンプルでした。
上記追悼記事によると、父親の影響でまずジャズに親しみ、コルネットを学びます。ヒーローはルイ・アームストロング。ジェリー・ロール・モートンが芸名で、何らのつながりもないことを残念がっていました。ベルファストでジャズやブルーズのレコードを買っていた店はヴァン・モリソンも常連だったそうです。スキッフルからブルーズ、さらにアパラチアの音楽に至り、遡る形でアイルランドの音楽も発見します。
本業は精神障害者専門のソーシャル・ワーカーで、ロンドンで資格をとり、そちらの仕事も続けていたようです。
資格をもって故郷にもどると、Ulster Folk Club を起ち上げ、これは Ulster Folk Music Society に発展します。ここで Cathal McConnell と出逢い、ギター、バゥロン、コンサティーナを演奏するようになります。またクラブのゲストに招いたことからイワン・マッコール&ペギー・シーガーの知己を得て、イングランド、スコットランドとつながりができます。1967年、カハル・マッコネルとフィドラーの Tommy Gunn と The Boys of the Lough の原型をつくります。バンドの名前は3人でこのタイトルのリールを演奏した時に生まれました。
1970年にエディンバラに移住。精神異常治療の博士号をとるためでしたが、音楽の仕事が忙しくなって、ついに博士号は断念。
一方ボーイズ・オヴ・ザ・ロックはガンが辞めたため、アリィ・ベインと当時その相棒だったハーモニカの Mike Whellans を加え、さらにウィーランズがディック・ゴーハンに交替します。1973年、トレイラーから出たデビュー・アルバムはこの編成でした。ジャケット左からゴーハン、ベイン、マッコネル、モートン。
このバンドはアイルランド、シェトランド、スコットランドのミュージシャンによる最初の混成バンドでした。今や、スコットランド音楽の大御所的存在のアリィ・ベインのキャリアはここに始まります。10年後、アイルランドやスコットランドの伝統音楽を演奏する初めてのオーセンティックなミュージシャンとして来日した時、モートンはいませんでしたが、アリィ・ベインのフィドルとカハル・マッコネルのフルートに、ぼくらが受けた衝撃は大きく深いものでした。
モートンは1970年代、ボーイズをやりながら、ミドロジアン州テンプルの古い教会を自宅兼スタジオに改造します。Topic の録音エンジニア、プロデューサーとして、たとえばゴーハン畢生の傑作《Handful Of Earth》などを作りながら、Topic が出さないようなスコットランドのディープな音楽をこのスタジオで録音し、テンプル・レコードからリリースしたのでした。夫人のアリスン・キナードのハープ、Flora MacNeil、Christine Primrose のガーリック歌謡、さらにはスコットランド伝統音楽をスイングで料理したユニークなバンド Jock Tamson's Barins などが代表です。
プロデューサーとして最大の貢献はバトルフィールド・バンドを育て、スコットランドを代表する、そう、スコットランドのチーフテンズとも言うべき存在に押し上げたことでしょう。
エディンバラに移る前にモートンは Folksongs Sung In Ulster, Mercer Press を出していますが、最後になった仕事もアルスターの歌のコレクションで、完成間近だったそうです。周囲が引きついで、出版される計画だそうです。
Folksongs Sung In Ulster の序文で、モートンは面白いことを書いています。この本ははじめ Ulster Songs と題することを考えていた。ただ、そうすると、収録された歌の一部はアルスターの歌ではないではないかと指摘する人もいるかもしれない。そういう歌はアルスターが舞台ではない点では確かにそうだ。しかし、こういう見方は、伝統歌の伝わり方や社会の中での役割からして、不必要なまでに料簡が狭すぎる。アルスターが舞台ではない、たとえばイングランドから伝わった歌の中にはまた、ヨーロッパ大陸の古い歌にまで遡れるものもある。とすれば、これはイングランドの伝統歌と呼ぶべきか、あるいはヨーロッパの伝統歌と呼ぶべきか、あるいは他の名前を考えるか。それならアルスターで歌われているのだから、アルスターの歌でいいではないか。世界の中のこのアルスターという地域の人びとにとってそれらの歌は何か訴えるものがあって、その伝統に入った。であれば、歌がどこの起源であれ、それはアルスターの歌だろう。
ここには伝統というものがある限定された地域で初めて意味をもつことと、それは常にその外部と広く遠くつながっているという認識があります。伝統を相手にするとき、一見矛盾するこのことを忘れないでおくことが肝要でしょう。
モートンはこの序文でもうひとつ、このタイトルがこれらの歌は実際に歌われている、生きた歌であることも示唆していることも強調しています。実際、この本は収録された50曲すべてに対して、どこの誰から採録したかのリストがあります。こうして紙に印刷するのは歌うためのヒント、シンガーにとっては素材となり、歌っていない人にとっては歌うことへの誘いとなることを願ってのことでした。モートンがその後の活動で示してくれたのは、この生きている伝統、生きてほざいている伝統の姿です。
スコットランド音楽、そしてアルスターの歌の紹介に縁の下の力持ちとしてモートンは大きな存在でした。現在のスコットランド音楽の活況はかれが築いた土台の上に建っていると言って、言い過ぎではないでしょう。ぼくらの音楽生活を豊かにしてくれた先達に、心からの感謝を捧げます。合掌。(ゆ)
##本日のグレイトフル・デッド
10月24日には1969年から1990年まで、6本のショウをしている。公式リリースは2本。
1. 1969 Winterland Arena, San Francisco, CA
2日連続の1日目。3.50ドル。共演ジェファーソン・エアプレイン、Sons of Champlin。1時間弱のショウ。
Sons of Champlin は1965年にマリン郡で Bill Champlin が中心になって結成。シャンプリンは後、シカゴに参加する。サンズ・オヴ・シャンプリンはホーン・セクションを備え、ギタリストはジャズの素養があり、シャンプリンはブルー・アイド・ソウルの一角と言えるシンガーだった。60年代、サンフランシスコ・シーンを、ジェファーソン・エアプレイン、デッドなどとともに代表する。つまり、この日はシスコのメジャー・バンド3つが揃い踏みしたわけだ。この日の順番はダグ・カーショウ、サンズ・オヴ・シャンプリン、デッド、エアプレイン。この3日前、10月21日にジャック・ケルアックが死んでいる。
2. 1970 Kiel Opera House, St. Louis, MO
この施設は Kiel Auditorium と同じ建物で、二つのホールが背中合わせに造られており、間の仕切りを取り払って、一つのホールとして使うこともできた。オペラ・ハウスはその半分の片方の名前。もう片方と全体はオーディトリアムと呼ばれた。先日出た《Listen To The River》ボックス・セットに収められた1973年10月末のショウはこの大きく使う方で、9,300人収容。このオーディトリアムにデッドは1969-02-06に出ている。その時はアイアン・バタフライの前座だった。
この日の第一部はガルシア入りのニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。第二部が2時間弱のエレクトリック・デッド。オープナーの〈Dancing In The Street〉がすごかったらしい。
3. 1971 Easttown Theatre, Detroit, MI
このヴェニュー2日目。前半9・10曲目〈Black Peter; Candyman〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
スロー・バラードの〈Black Peter〉をこれだけゆっくり歌って、この歌のベスト版と言える歌唱を聞かせるガルシアは大したうたい手だ。巧い下手の範疇ではない。
〈Candyman〉との間にピアノの小さなトラブルを治す間があり、テープが一度切れて、途中から始まる。これは他の形では出せないだろう。《30 Days Of Dead》はこういう、演奏自体はすばらしいが、録音にちょっとした傷があって、正式なCDの形では出せないものが聴けるのが嬉しい。 こちらもいつもよりかなりスロー・テンポ。ガルシア熱唱。
4. 1972 Performing Arts Center, Milwaukee, WI
2日連続の2日目。まずまずのショウの由。
5. 1979 Springfield Civic Center Arena, Springfield, MA
8.50ドル。7時半開演。12月上旬まで続く秋のツアーの初日。この年は珍しく年初からツアーに出て、2月17日で打ち上げ。この日でキースとドナが離脱する。代わりの鍵盤要員はすでにウィアのバンド Bobby and the Midnites にいたブレント・ミドランドとガルシアとウィアは当りをつけてはいたが、デッドに参加するのはそう簡単なことではない。ミドランドが加わってのショウの最初は4月22日になる。以来このショウはミドランドにとって25本目。
後半オープナーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
頭が一瞬切れているようだ。わずかに遅めのテンポ。こりゃあ、ベスト版の一つ。こういう演奏をされるともう降参するしかない。このペアがバンドにもファンにも人気があるのは、こういう演奏がとび出すからだ。レシュが〈Fire On The Mountain〉のリフを始めても、ガルシアはいっかな演奏をやめず、他のメンバーも乗ってゆく。ミドランドははじめオルガンで参戦するが、今一つ音が負けると見て、シンセに切替え、〈Fire〉に入ってからは電子ピアノになって、後半、ソロもとる。コーダになってテンポが上がり、切迫感がにじむ。これぞデッドを聴く醍醐味。23分間のトリップ。
6. 1990 Sporthalle, Hamburg, Germany
ドイツ最終日。かちっとした良いショウだった由。〈Help On The Way >Slipknot! > Franklin's Tower〉は今回のヨーロッパ・ツアーで唯一ここだけの演奏。ここから始まる後半は最後まで全部つながった。(ゆ)
RIP Paddy Molony (1938-2021)
パディ・モローニの訃報は晴天の霹靂だった。死因はどこにも出ていないようだ。Irish Times には比較的最近のビデオがあるから、あるいは突然のことだったのかもしれない。
先日の「ショーン・オ・リアダ没後50周年記念コンサート」のキョールトリ・クーラン再編にモローニが参加しなかったことについて、オ・リアダの息子との確執を憶測したけれど、あるいは健康状態もあったのかもしれない。あの時、不在の原因としてモローニの健康を思いつかなかったのは、かれが死ぬなどということは考えられなかったからだ。他が全員死に絶えようと、モローニだけは生きのこって、唯一人チーフテンズをやっていると思いこんでいた。こんなに早く、というのが訃報を知っての最初の反応だった。
パディ・モローニがやったことのプラスマイナスは評価が難しい。見る角度によってプラスにもマイナスにもなるからだ。まあ、ものごとはそもそもそういうものであるのだろう。それにしても、かれの場合、プラスとマイナスの差がひどく大きい。
出発点においてチーフテンズが革命であったことは間違いない。そもそもお手本としたキョールトリ・クーランが革命的だったからだ。モローニはクリエイターではない。アレンジャーであり、プロデューサーだ。オ・リアダが始めたことをアレンジし、チーフテンズとして提示した。クラシカルの高踏をフォーク・ミュージック本来の親しみやすさに置き換え、歌を排することで、よりインターナショナルな性格を持たせた。たとえ生きていたとしても、オ・リアダにはそういうことはできなかっただろう。クラシックとしてより洗練させることはできたかもしれないが、それはアイリッシュ・ミュージックとはまったく別のものになったはずだ。
チーフテンズもアイリッシュ・ミュージックのグループとは言えない。ダブリナーズ、プランクシティ、ボシィ・バンドのようなアイリッシュ・ミュージックのバンドと、キョールトリ・クーランのようなクラシック・アンサンブルの中間にある。もちろんこの位置付けは後からのもので、モローニが当初からそれを意図してわけではないだろう。かれはかれなりに、自分がやりたいこと、面白いだろうと思ったことをやろうとした。キョールトリ・クーランを手本としたのは、それが手近にあったことと、オ・リアダが目指したことを、モローニもまた目指そうとしたからだろう。それが結果としてチーフテンズをアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間に置くことになった。
当初はしかしむしろモローニは自分なりのアイリッシュ・ミュージックのアンサンブルを構想したと見える。チーフテンズだけでやっていた時はそうだ。1977年頃までだ。《Live!》は今聴いても十分衝撃的だ。アイリッシュ・ミュージックのアルバムの一つの究極の姿と言ってもいい。
チーフテンズがアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間にあり、様々な他の音楽とのコラボレーションに使えるといつモローニが気がついたのかはわからない。少なくとも中国に行く前に確信していたことは明らかだ。そして以後、モローニはチーフテンズのマーケットをコラボレーションによって拡大することに邁進する。その際、ポリシーとしたことは二つ。チーフテンズの音楽、レパートリィと手法は変えないこと、そしてチーフテンズの音楽を「アイリッシュ・ミュージック」として売り込むこと。それによってモローニはチーフテンズをビジネスとして成功させる。
チーフテンズのコンサートは判で押したようにいつも同じだ。やる曲も順番も演奏も時間も MC もすべてまったく変わらない。わが国以外でチーフテンズのコンサートを見たことはないから言明はできないが、場所によって多少変えていただろうことは想像はつく。ただ、基本は同じだっただろう。そして共演する相手に変化がある。録音はもっと手間暇をかけられるし、テーマも立てやすいから、もっとヴァリエーションを作れる。チーフテンズのコンサートは何度か見れば、後は見ても見なくても大して違いはなくなる。もっとも、その違いが無いことを確認するために見るというのはありえた。録音の方には繰返し聴くに値するものがある。
ただし、録音にしても変わるのはモチーフや構成、共演のアレンジで、チーフテンズの音楽そのものはコンサートと同じく、いつもまったく同じだ。変わらないことによって、どんな音楽が来ても、共演できる。そして誰と一緒にやっても、それは否応なくチーフテンズの音楽になる。
モローニのやったことのマイナス面の最大のものは、チーフテンズの音楽をアイリッシュ・ミュージックそのものとして売り込んだことだろう。この場合チーフテンズの音楽以外はアイリッシュ・ミュージックでは無いことも暗黙ながら当然のこととして含まれた。チーフテンズの音楽がアイリッシュ・ミュージックの位相の一つだったことはまちがいない。しかし、アイリッシュ・ミュージックの中心にいたことは一度も無かった。むしろアイリッシュ・ミュージックの中では最も中心から遠いところにいて、1970年代末以降はどんどん離れていった。Irish Times でのモローニの追悼記事が「音楽」欄の中でも「クラシカル」に置かれていることは象徴的だ。チーフテンズの音楽は「チーフテンズ(チーフタンズ)」というブランドの商品だった。それをイコール・アイリッシュ・ミュージックとして売り込むことに成功したことで、商品としてのアイリッシュ・ミュージックのイメージが「チーフテンズ(チーフタンズ)」になった。
チーフテンズを続けていることは、モローニにとって幸せだっただろうか。幸せではないなどとは本人は口が裂けても言わなかったはずだ。幸せかどうかはもはや問題にならないレベルになっていたのでもあるだろう。そう問うことには意味が無いのかもしれない。
しかし、一箇の音楽家としてのパディ・モローニを思うとき、チーフテンズを始めてしまったことは本人にとっても不運なことだったのではないか、と思ってしまう。アイリッシュ・ミュージックの傑出した演奏家として大成する道もとれたのではないか、と思ってしまう。
パディ・モローニはパイパーとして、そしてそれ以上にホィッスル・プレーヤーとして、他人の追随を許さない存在だった。と、あたしには見える。《The Drones And The Chanters: Irish Pipering》Vol. 1 でかれのソロ・パイプを聴くと、少なくとも1枚はソロのフル・アルバムを作って欲しかった。そしてショーン・ポッツとの共作ながら、彼の個人名義での唯一のアルバム《Tin Whistle》に聴かれるかれのホィッスル演奏は、未だに肩を並べるものも、否、近づくものすら存在しない。この二つの録音は、まぎれもなくアイリッシュ・ミュージックの真髄であり、とりわけ後者はその極北に屹立している。
あたしが訳したチーフテンズの公式伝記の末尾近く、パディがダブリンのパイパーズ・クラブのセッションに参加するシーンがある。久しぶりに参加して、ひたすらパイプを吹きまくり、パディは指がツりそうになる。たまたまそこへフィドラーのショーン・キーンが現れ、セッションにいるパディを見て、大声でけしかけ、励ます。どうした、パディ。もっとやれえ。パディはあらためてチャンターを手にとる。そこでのパディはそれは幸せそうに見える。だからショーン・キーンも嬉しくなって思わず声をかけたのだろう。
さらば、パディ・モローニ。チーフテンズはこれでめでたく終演を迎え、一つの時代が終った。あなたはクリスチャンのはずだから、天国に行って、楽しく、誰はばかることなく、大好きなパイプやホィッスルを思う存分吹いていることを祈る。合掌。(ゆ)
R.I.P. George Mraz (1944-2021)
9月20日・月
チェコ出身のベーシスト George Mraz が16日に77歳で亡くなったそうで、同じくチェコのピアニスト Emil Viklicky が LondonJazzNews に追悼文を書いている。それを見て、ムラーツがヴィクリツキィとシンガーでツィンバロン奏者の Zuzana Lapčikova 、それに Billy Hart のドラムスで作ったチェコの伝統歌謡集(とヴィクリツキィは言う)《Morava》をアマゾンで注文。Jerry's Smilin': A Guitar Tribute To The Grateful Dead, Damia Timoner も一緒に注文。後者はスペインのギタリストによるソロ・ギターのデッド・トリビュート集だそうだ。
ムラーツがチェコを離れたのは、1968年、進攻したソ連軍の戦車に父親を殺されたからだ、と本人から直接聞いた、ヴィクリツキィが書いている。ムラーツの父親が乗っていた市電に前方不注意のソ連軍の戦車が突込み、窓を突き破った大砲に頭を強打された。父親はその前の駅で乗ってきたお婆さんに席を譲って立った、その直後のことだった。事件は占領軍のこととてチェコ警察は捜査を禁じられた。
ムラーツは同年中にまずドイツに徃き、アメリカに渡り、ボストンのバークリーに行く。着いた日にレギュラーの仕事を提供された。その後ニューヨークに移る。
##本日のグレイトフル・デッド
9月20日には1968年から1993年まで、10本のショウをしている。公式リリースは2本。
01. 1968 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA
単独のショウではなく、Steve Miller, Ace of Cups が共演。25分を超える〈Drums〉には Vince Delgado と Shankar Ghosh も参加。前者は後にハートのバンド Diga にも参加するパーカッショニスト。現在も現役。後者は2016年、80歳で亡くなったタブラ奏者。アリ・アクバル・カーンのパートナーとして1960年代アメリカで活動を始めている。アリ・アクバル・カーンのライヴをアウズレィ・スタンリィが録音した音源が出ているなあ。Bear's Sonic Jounrals のシリーズがこんなに出てるとは知らなんだ。
02. 1970 Fillmore East, New York, NY
前半最後から2曲目〈New Speedway Boogie〉が2010年、最初の《30 Days Of Dead》でリリースされた。あたしはこの年はまだデッドにハマる前で、持っていない。
18日からのレジデンス公演3日目で、第1部アコースティック・デッド、第2部 New Riders Of The Purple Sage、第3部エレクトリック・デッド。ただ、上記〈New Speedway Boogie〉ではガルシアがエレクトリック・ギターを持っている由。ガルシアは一部の曲でピアノも弾いているらしい。この日のアコースティック・セットでは一部の曲でデヴィッド・グリスマンがマンドリンで参加。NRPS のデヴィッド・ネルスンもマンドリンを弾いている。
03. 1973 The Spectrum, Philadelphia, PA
2日連続ここでのショウの初日。料金6ドル。後半一部にジョー・エリスとマーティン・フィエロが参加。チケットの売行が悪く、バンドはやる気がなくて、後半は4曲だけ。
04. 1974 Palais des Sports, Paris, France
ヨーロッパ・ツアー、パリでの2日間の初日。ツアーにつきもののトラブルが噴き出したらしい。
05. 1982 Madison Square Garden, New York , NY
3度めの MSG 2日連続の初日。料金13.50ドル。
06. 1987 Madison Square Garden, NY
5本連続の最終日。料金17.50ドル。
07. 1988 Madison Square Garden, New York , NY
9本連続の6本目。
08. 1990 Madison Square Garden, New York , NY
6本連続の千秋楽。後半の大部分が《Road Trips, Vol. 2, No. 1》に収録された。収録された分だけで1時間半を超え、後半全体では2時間近かった由。〈Dark Star〉の途中で〈Playing in the Band〉の「返り」があるが、その前半は前夜の演奏。CD ではそれがわかるように並べられている。〈Throwing Stone〉のジャムのテンションの高さ。
《Road Trips, Vol. 2, No. 1》では〈Truckin'〉〈China > Rider〉からすばらしい演奏が続く。〈Dark Star〉も全キャリアを通じてのベストの一つに数えたい。ホーンスビィのおかげもあるのだろうが、ウェルニクも踏ん張っていて、ミドランドの穴は埋めようがないが、デッド健在を強烈に訴える。
09. 1991 Boston Garden, Boston, MA
9年ぶりのボストン・ガーデン6本連続の初日。ブルース・ホーンスビィ参加。ピアノとアコーディオン。後半冒頭〈Help on the Way > Slipknot!〉と来て、その次が〈Franklin's Tower〉ではなく〈Fire on the Mountain〉だったので、大歓声が湧いた。またアンコールが珍しくも〈Turn On Your Lovelight〉で、アンコールとしてはこれが最後となった。
10. 1993 Madison Square Garden, New York , NY
6本連続の4本目。後半の〈Space〉とその次の次〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉にエディ・ブリッケルが参加。見事なヴォーカルを聞かせた由。〈Space〉では、しばらくポケットに手をつっこんだまま耳を傾けていたが、やおら途中から歌う、というよりラップを始めたのが、音楽とモロにからんでいた由。この人、あたしはぜーんぜん知らなんだが、こういうことができるとなると聴いてみたくなる。(ゆ)
RIP Nanci Griffith
古い知人からもう何年も放置している Mixi にメッセージが来て、驚いた。中身を見て、一瞬茫然となる。ナンシ・グリフィスの訃報だった。
ナンシを知ったのは何がきっかけだったか、もう完全に忘却の彼方だが、たぶん1990年前後ではなかったか。リアルタイムで買ったアルバムとして確実に覚えているのは Late Night Grande Hotel, 1991だ。けれどその時にはファーストから一応揃えて聴きくるっていた。あるいは Kate Wolf あたりと何らかのつながりで知ったか。
あたしはある特定のミュージシャンに入れこむことが無い。もちろん、他より好きな人や人たちはいるけれど、身も世もなく惚れこんで、他に何も見えなくなるということがない。そういうあたしにとって最もアイドルに近い存在がナンシだった。一時はナンシ様だった。
アイドルは皆そうだろうが、どこがどう良いのだ、とは言えない。彼女の声はおそらく好き嫌いが別れるだろう。個性は結構シャープだけど、一見、際立ったものではない。でも、この人の歌う歌、作る歌、そしてその歌い方は、まさにあたしのために作り、歌ってくれていると感じられてしまう。そういう親密な感覚を覚えたのは、この人だけだった。後追いではあったけれど、ほぼ同世代ということもあっただろう。
MCA 時代も悪くはなく、中でも Storms, 1989 は Glyn Johns のプロデュースということもあり、佳作だと思う。優秀録音盤としても有名で、後からアナログを買った。とはいえ、やはりデビューからの初期4枚があたしにとってのナンシ様だ。初めは Once In A Very Blue Moon と Last Of The True Believers の2枚だったけど、後になって、ファーストがやたら好きになって、こればかり聴いていた。でも、ナンシの曲を一つ挙げろと言われれば、Once in a very blue moon ではある。
ナンシのピークはやはり Other Voices, Other Rooms だろう。グラミーも獲ったけど、これはもう歴史に残る。狙った通りにうまく行ったものが、狙いを遙かに跳びこえてしまったほとんど奇蹟のようなアルバム。一方で、あまりに凄すぎて、他のものが全部霞んでしまう。本人もその後足を引っぱられる。それでも、この1枚を作ったことだけで、たとえて言えば、ここにもゲスト参加しているエミルー・ハリスの全キャリアに比肩できる。
と書いてしまうとけれどこのアルバムの聴きやすさを裏切るだろう。親しみやすく、いつでも聴けるし、BGM にもなれば、思いきり真剣に聴きこむこともできる。そして、いつどこでどんな聴き方をしても、ああ、いい音楽だったと思える。でも、よくよく見直すと凄いアルバムなのだ。アメリカン・ミュージックのオマージュでもあり、一つの総決算でもあり、そう、ここには音楽の神様が降りている。選曲、演奏、録音、プロデュース、アルバムのデザイン、ライナー、まったく隙が無い。隙が無いのに、窮屈でない。音楽とは本来、こうあるべきという理想の姿。この頃のジム・ルーニィは実にいい仕事をしているけれど、かれにとっても頂点の一つではあるだろう。
ここにも Ralph McTell の名曲 From Clare to Here があるけれど、ナンシはアイルランドが大好きで、カントリー大好きのアイリッシュもナンシが大好きで、ひと頃、1年の半分をダブリンに住んでいたこともある。チーフテンズとツアーもし、ライヴ盤もある。
今世紀に入ってからはすっかりご無沙汰してしまって、ラスト・アルバムも持っていない。それが2012年。サイトを見ても、コロナの前からライヴもほとんどしておらず、あるいは病気だろうかと思っていた。死因は公表されていない。これを機会に、あらためて、あの声と、テキサス訛にひたってみよう。合掌。(ゆ)
2021-08-17追記
Irish Times に追悼記事が出ていた。それによると 1996年に乳がん、1998年に甲状腺がんと診断されていた由。さらにドゥプウィートレン攣縮症という徐々に中指と薬指が掌の方へ曲る病気のため、指を自由に動かせなくなっていたそうな。