クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 ポール・ブレディのCD4枚組ボックス・セット《The Archive》が出ています。ライヴ音源やデモ、コラボレーションなど、未発表やレアものを集めたものだそうです。全体はLP盤サイズのケースに入り、このサイズで60ページの本が付きます。限定1,200セット。レコード会社直販価格は9,900円。送料は4,200円。Proper Music にも出ていますが、直販の方が若干安いです。下記サイトにはトラック・リストもあります。



 内容の選択と並べはブレディ本人がやったようで、本人曰く、これはファンのためのもので、万人のためのものではない。ファンは急いだ方がいいでしょう。アマゾンにはまだ出てません。(ゆ)

 スコットランド出身で、現代英語圏の伝統音楽最大のレジェンドの1人であるディック・ゴーハン Dick Gaughan のボックス・セット企画のクラウドファンディングが始まっています。

 言い出しっぺはコリン・ハーパー Colin Harper。ハーパーが企画を立てるきっかけを与えたのはロビン・ドランスフィールド Robin Dransfield。ハーパーの呼びかけでオーディオ・マスタリングや映像補修の専門家などからなるチームが立ち上がりました。

 内容は1969年から84年までのオーディオを収めたCD7枚組と、1970〜91年のライヴ動画を収めた DVD 1枚の計8枚のディスクに、ブックレットが2冊付きます。ブックレットの1冊は Graeme Thomson による1万語(邦訳400字詰原稿用紙約80枚=32,000字)のライナー、もう1冊はイアン・A・アンダースンとコリン・ハーパー各々による2本のロング・インタヴュー。

 CDには計126トラック、約9時間の音源、DVD には計30トラック、2時間の動画が収められます。音源のうち未発表が83トラック。うち43トラックは BBC での録音、40トラックがその他のライヴ音源。

 Gaughan (1978) と A Different Kind Of Love Song (1983) の2枚は丸々全部。Coppers & Brass (1977) と Parallel Lines (1982) から選抜。後者はアンディ・アーヴァインとの共作で、2人が半分ずつやっているので、ゴーハンの分はおそらく全部と期待。

 1975年から81年までのスタジオ・アルバムから9トラック。

 それに1981年カリフォルニア州バークリーでのアメリカでの初ライヴのほぼ全部。

 既発表のトラックはすべてリマスタリングされます。

 なお、この本体とは別に Kickstarter では Live In Belfast というディスクの付いたプレッジもあります。本体の目標は1,000セット、付録つきの方は500セットです。2025-03-27 22:00 現在、付録つきの方は残り50セットを切っています。


 ディック・ゴーハン自身について説明する必要があるかもしれません。ゴーハンの音楽はごくわずかしかストリーミングで聴くことができず、その質もあまり良くない状態です。そのため、ハーパーも認めるように、ゴーハンがいかに偉大なシンガーであり、ギタリストであり、パフォーマーであるか、広く知られてはいません。これはまったく許されざることであります。このボックス・セットはその穴を埋め、正当に評価しなおし、そして闘病しているゴーハンに財政的支援を行うものです。

 2016年9月、ゴーハンはそれまでに脳梗塞の発作が起きたために演奏ができなくなったとして、以後すべての公演をキャンセルしました。翌月 MRI で梗塞の事実が判明し、翌年2月から理学療法を始めましたが、再び演奏活動できるようになる見通しは立っていません。

 あたしがこの企画に興奮するのは、大量の未発表録音、録画ももちろんですが、1972年のレコード・デビュー以前の音源が入っていることです。72年の《No More Forever》こそは、あたしが最初に買った数枚の「トラッド」のレコードの1枚であり、ブリテンそしてアイルランドの伝統音楽の世界に否も応もなく引きずりこんでくれたものでした。彼の声とギター、そしてごくわずかに入るアリィ・ベインのフィドルのみから成るその世界は、ほとんど暗鬱なまでに昏く張りつめていて、同時に異様なほどのなまめかしい精気に満ちていました。それは当時、まったくの「異界」から響いてくるように思われました。この音はギターにちがいないが、そのギターを作っている木や弦は、われわれの世界のものとは違うのではないか。

 そしてその声。表はビロード、ではない天鵞絨のような手触りなのに、その下にはおそろしく硬いものが確固としてあるために、表面が滑らかというよりも細かい孔が無数にあいているような感覚。加えて抜き身の刃が喉に仕込まれているかのようにドスが効いています。これに少しでも似た声など、音楽以外でもそれまでまったく聴いたことがありませんでした。基準からまったく外れているのに、耳について離れない声。入ってくるのは耳からにしても、体の最も奥の隅にまでまっすぐ浸透していく声。その後も、響きが少し似ているかと思うことがあるくらいで、ゴーハンの声はユニークであり続けています。

 この声とギターが生みだす「異界」は陰鬱で厳しくはあっても、脅やかし、威圧してくる気配はかけらもありません。桃源郷とは言えませんが、鬱蒼とした森にはほのかな明るさが地の底から滲みでています。

 次に驚いたのは1977年の《Coppers & Brass》です。これは全篇スコティッシュやアイリッシュのダンス・チューンを、アコースティック・ギター1本で演奏したもの。フィドルやフルートやパイプや蛇腹やではありふれていますが、アルバム1枚丸々アコースティック・ギターのみのダンス・チューン集は寡聞にして他に知りません。アーティ・マッグリンのファーストが近いでしょうか。トニー・マクマナスにも優れたダンス・チューン演奏がありますが、アルバム1枚全部はやっていません。

 アコースティック・ギター・アルバムは無数にありますし、ダンス・チューンを演奏したものも少なくありませんが、ほぼギターの単音弾きだけでここまでダイナミックにダンス・チューンをまさに踊りの音楽として演奏してのけ、しかもそれをアルバム1枚分やっているのは、他に無いと思います。これが出た当時、あたしはまだダンス・チューンに開眼しておらず、ダンス・チューンだけのアルバムは敬して遠ざけていましたが、ゴーハンのアルバムという、ただそれだけの理由でこれを聴き、びっくり仰天したものです。

 ゴーハンのアルバムについて書きだすときりがありませんが、1枚だけあげろと言われれば、1981年の《Handful Of Earth》に留めをさします。実際、現在、最も簡単に聴けるのはこのアルバムです。ゴーハン、何者と問われるならば、これを聴いてみてくださいと答えます。シンガーとして、ギタリストとして、ここにはディック・ゴーハンの全てが最も研ぎすまされて輝いています。同時にこれはそれまでのかれのキャリアの総決算でもあります。このアルバムを頂点として、この後、アンディ・アーヴァインとの共作を間にはさんで出した《A Different Kind Of Love Song》1983で、その音楽は大きくベクトルを変えます。それまで伝統歌や他人の歌のカヴァーで通してきたのが、ここでは全篇オリジナルで固めてきたからです。今回のボックス・セットが1984年を区切りとしているのも、そのことを反映しています。

 ゴーハンの影響ということになると、あたしの手には負えません。あたしの目ないし耳からすると、ゴーハンのような声の持ち主もいないし、あんな風に歌えるうたい手もいないし、あんな風に弾けるギタリストもいません。唯一無二の存在として屹立しています。つまり、ゴーハン流の伝統歌や伝統音楽演奏をしている人は聴いたことがありません。一方で、彼の存在とその音楽は形の上ではなく、精神の土台の部分に絶大な影響を与えているのではないか、という推測はできます。しかし、こういう影響関係は実証が難しい。たとえあるミュージシャンがあの人に影響を受けたと証言したとしても、その内実はなかなかわからないものです。

 ということで、このクラウドファンディングは絶好のタイミングで出現しました。付録ないしおまけ付きの場合、送料含めて110GBP は安い金額ではありませんが、この内容からすれば、いわゆる「コスパ抜群」とあたしは思います。(ゆ)

 デッドの今年のビッグ・ボックスが発表になりました。今年はバンドの活動開始60周年で、50周年に次ぐ大きなものになっています。タイトルは《Enjoy The Ride》。CD60枚組。価格は599.98USD。日本までの送料は50USD で、計649.98USD です。発売は05月30日。6,000セット限定。



 今回のテーマはヴェニュー、会場です。デッドが一度でも演奏したことのあるヴェニューは総数645ヶ所。50人も入れば一杯だったというサンフランシスコの The Matrix(DeadBase 50 によれば収容人数104)から、収容人数6万超のシカゴ、ソルジャーズ・フィールド・スタジアムまで、サイズも形態も実に様々です。その中でも、バンドにもリスナーにも人気があり、名演、名ショウの舞台となったものがいくつかあります。そうしたヴェニューを20ヶ所選び、それぞれからの名演でキャリアを展望する、というもの。収録されたショウは以下の通り。

Avalon Ballroom, San Francisco, CA (4/5/69) – Cassette
Fillmore West, San Francisco, CA (6/5/69)
Fillmore West, San Francisco, CA (6/7/69)
Fillmore West, San Francisco, CA (6/8/69)
Capitol Theatre, Port Chester, NY (2/24/71)
Capitol Theatre, Port Chester, NY (2/20/71)
Fillmore East, New York, NY (4/25/71)
Fillmore East, New York, NY (4/27/71)
Boston Music Hall, Boston, MA (9/15/72)
Boston Music Hall, Boston, MA (9/16/72)
Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY (3/16/73)
Winterland, San Francisco, CA (3/20/77)
Philadelphia Spectrum, Philadelphia, PA (5/13/78)
Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO (8/12/79)
Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI (8/23/80) SBD無し
Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI (7/11/81)
Hartford Civic Center, Hartford, CT (3/14/81)
Hampton Coliseum, Hampton, VA (5/1/81)
Frost Amphitheatre, Stanford University, Palo Alto, CA (8/20/83) SBD無し
Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA (7/13/84)
Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA (11/21/85)
Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA (11/22/85)
Madison Square Garden, New York City, NY (9/16/87)
Deer Creek Music Center, Noblesville, IN (7/15/89)
Oakland Coliseum Arena, Oakland, CA (12/27/89)
Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA (5/12/91)
Capital Centre, Landover MD (3/17/93)
Capital Centre, Landover MD (9/15/82)
Boston Garden, Boston, MA (10/3/94)

 このうち17本はショウ全体の完全版ですが、 Fillmore West、Fillmore East、 Boston Music Hall の3ヶ所は複数のショウからの組合せです。

 なお、1969-04-05 の Avalon Ballroom はカセット・テープで収められます。

 ご覧の通り、1980年代のショウが多数、収録されています。これまでこの時期、とりわけ80年代前半は公式リリースが少ないので、あたしは大歓迎。1980-08-23と 1983-08-20 は Archive.org に SBD がアップロードされていません。まあ、他の時期、1970年代などはすでに多数公式リリースされていて、未使用のショウが少ないこともあるのでしょう。

 ライナーは Jesse Jarnow、David Lemiuex、それに The Owsley Stanley Foundation。

 あたしは当然即予約しようとしました。んが、日本円で10万を超えるせいか、クレジットカード不正使用の疑いで停止したとの通知がカード会社から来ました。本人のものであれば、もう一度買ってくれ。やれやれ。(ゆ)

 一昨日、2月26日にダブリンの Vicar Street で行われた RTE Radio 1 Folk Awards の今年の授賞式で、生涯業績賞を贈られたドーナル・ラニィへのクリスティ・ムーアの祝辞全文が Journal of Music のサイトに上がっています。



 ドーナルの最も古くからの友人であるムーアはドーナルの全キャリアについて語っていますが、とりわけ興味深いのはごく若い頃の話、Emmet Spicland 以前のドーナルの活動です。この時期はおそらく録音も無いでしょうが、ドーナル・ラニィは一朝一夕で生まれたわけではないこと、そしてやはりドーナルは初めからドーナルだったことがわかります。当然といえば当然ですが、こうして具体的な名前まであげて語られると、その事実があらためて重みをもってきます。

 もう1つ、プランクシティからボシィ・バンドへドーナルが移った時のショックがいかに大きかったかも伝わってきます。直接ボシィ・バンドへ移ったわけではないことも興味深い。

 さすがムーアとあたしが思ったのは、ドーナルがフランク・ハートを援けて作ったアルバムにわざわざ言及していることです。歌うたいとしてのムーアの面目躍如です。ムーアとしてはああいうアルバムを自分も作りたかったが、自分にはできないこともわかっているのでしょう。

 ハート&ラニィの6枚のアルバムは、ドーナルのものとしては最も地味な性質のものではありますが、かれの全業績の中でも最高峰の1つ、プランクシティ〜ボシィ・バンドとモザイク、クールフィンと並ぶ、見方によってはそれらをも凌ぐ傑作だと思います。

 ドーナルがゲイリー・ムーアとリアム・オ・フリンと3人でセッションし、しかもバンジョーを弾いたというのもいい話です。バンジョーではないけれど、ここでバンジョーを弾いていてもおかしくない一例。(ゆ)



 今年の RTE Radio 1 Folk Awards の Life Achievement Award が ドーナル・ラニィに授与されることが発表されました

 この賞のこれまでの受賞者はトゥリーナ・ニ・ゴゥナル、メアリ・ブラック、クリスティ・ムーア、スティーヴ・クーニー、モイヤ・ブレナン、アンディ・アーヴァイン。錚々たるメンバーですが、ドーナルこそは誰よりもこの賞にふさわしいと思います。

 授賞式は今月26日で、ドーナルは新しいグループ Donal Lunny's Darkhorse をそこで披露するそうです。

 そういえば、パンデミック前でしたっけ、このバンドのアルバム製作資金をクラウドファンディングしていて、あたしも参加しましたが、その後、どうなってんだろう。(ゆ)


 8月4〜11日までウェクスフォドで開かれたアイルランド伝統音楽の競技会フラー・キョールのハープ、スロー・エアの12-15歳部門で日本から参加した あだち・りあ さんが優勝したそうな。

 ジュニア部門とはいえ、また200以上ある部門別の一つとはいえ、日本から参加した人が優勝したのは初めてでしょう。ジュニアで参加というのも、そういう人が出る時代になったわけで、そのこと自体がなかなか凄い。

 チャンスがあれば、どこかでご本人の演奏を聴いてみたいものです。(ゆ)


 本日の OED Recently added に 'bodhran'。掌か木製スティックで叩く、とある。手で叩く時は掌ではなく、軽く曲げた指の関節、たいていは第一関節の外側を当てるはず。この語義を書いた人はイングランド人かな。

 語源はアイルランド語からだが、そのアイルランド語そのものの語源は不明とし、サンスクリット語の badhira 聾 に関係があるかもしれないとしているのは興味深い。

 用例の最古は1867年、イングランド植民地の方言語彙集で、ウェクスフォド州のものとして挙げられている。ここでの意味はドラム、タンバリン。次は1910の P. W. ジョイスで、小麦を運んだり、計ったりする篩の形の容器で、時にタンバリンの代わりに使われるとしている。1976年の用例は Daily Telegraph 掲載のレコードないしコンサートのクレジットらしく、ドーナル・ラニィの名前と担当が並んでいるなかにある。ドーナルの名前が OED に載るのは初めてではないか。


 HiBy の DAP RS2 用のファームウェアの最新版 1.3 が出ていました。出たのは4月上旬らしい。

 アップデート・ファイル・ダウンロード先リンク

 変更点は

Darwin V2 フィルターの追加
再生の際の問題の修正
様々なバグ・フィックス

 ダウンロードされたファイル RS2.upt をマイクロSDカードのトップ・レベルにコピーし、スロット1、正面から見て左側に入れて、起動。

 システム設定 > ファームウェア・アップデート > 確定をタップすると、アップデートが始まり、終ると自動で再起動します。メニューのデバイスについてをタップするとファームウェアのヴァージョンを確認できます。

 追加になったフィルターというのはメニューの Darwin をタップすると出てくるリストの一番上、デジタルフィルターでしょう。タップすると、見たこともない項目がずらりと出てきます。しかし、説明は見つかりません。なぞ。設定して音がどう変わるか、試行錯誤するしかないようです。またそれも楽しからずや。

 R2R を登載した DAP も各社出してきてますが、どれも高いんですよね。RS2のこの価格は奇跡的。青歯など無線をばっさり捨てたおかげでしょう。Bluetooth は載せるとライセンス料を払わなければならんそうな。おかげでファームウェアは手動でアップデートする必要があるわけですけど、そんなことは枝葉末節。

 そろそろ後継機種が出てもおかしくはないですが、Darwin とマイクロSDカード・スロット2個は死守してほしい。(ゆ)

RS2 HiBy デジタルオーディオプレーヤー(ブラック) HiBy Music
RS2 HiBy デジタルオーディオプレーヤー(ブラック) HiBy Music

 Fintan Vallely の編纂になる "Companion To Irish Traditional Music" の第三版がついに刊行されました。



Companion to Irish Traditional Music
Vallely, Dr Fintan
Cork University Press
2024-05-21



 アイルランド伝統音楽の百科事典。人名、楽器、歌、スタイル、ローカル性、ダンス、歴史、およそアイリッシュ・ミュージックについてのありとあらゆることが適確に、詳細に述べられてます。一家に一冊、揃えましょう。大学、高校、その他のサークルの部室にも1冊は置きましょう。

 英語が読めない? なに、書いてあることはアイリッシュ・ミュージックに関することです。難解な理論や深遠な哲学が語られているわけではありません。英語は平明だし、半分はすでに知っていること。そこからもう半歩踏みこもうとする時、大きな助けになってくれます。外国語に上達する極意は、好きなことについて書いてある文章を読むことです。

 初版が1999年、第二版が2011年。13年ぶりの改訂です。200人以上の執筆者が1400項目について書いた1,000頁。社会の変化をとりこみ、アイルランド国外でのアイリッシュ・ミュージック活動によりスペースを割いている由。電子版もいずれ出るはずですが、紙の本には電子版にはないメリットがあります。それはどんな音でも合成できるシンセサイザーに対する普通の楽器です。

 編者のフィンタン・ヴァレリーはルナサのキリアン・ヴァレリーや、コンサティーナのナイアル・ヴァレリーの、えーと、いとこだったか叔父さんだったか、とにかく血縁。本人もフルートをよくして、CDも出してます。諷刺歌を作ったり歌ったりもしてます。つまりは音楽をよく知っていて、なおかつこういう本を編纂できる人でもある。こういう人がいてアイリッシュ・ミュージックはラッキーです。(ゆ)

 Axell Grell が Drop と共同開発していたヘッドフォンがいよいよ出来上がり、予約受付が開始されています。



 通常399USDのところ、今なら349USD。さらに、送料もサービスです。チェック・アウトで20ドル加算されますが、後で返金されました。あたしは paypal を使いました。

 まだ製造中で、発送は2カ月先。

 なお、1,000台限定だそうです。

 アクセル・グレルはゼンハイザーでHD800シリーズを作った人物。イヤフォンの IE800もかれの仕事です。ゼンハイザーの民生部門が売却された前後にゼンハイザーを辞めて独立したと記憶します。そこで出したのはイヤフォンで、ヘッドフォンは独立後はこれが初めてのはず。  > Neuman NDH30 がかれの仕事でした。





 HD800シリーズはドライバーが耳に対してまっすぐではなく、前方から斜めに角度がつけられてますけど、今回はそれをさらに徹底しているようです。



 Head-Fi のジュードがグレルにインタビューしているビデオ。グレルが手に持っているのがドライバー。大きなドライバーの中に、偏ってもう一つ小さなドライバーが着いてます。

 オープン・バックですが、低域は密閉型と同じくらいあるらしい。ジュードが低域の豊かさに驚いてます。

 グレルによれば、人は低域を耳だけでなく、頭をはじめとした体でも聴いているので、そこに配慮したそうな。

 計画が発表された時から楽しみにしてました。円安ですが、そんなことは言ってられません。(ゆ)

 スコットランド音楽の「ナショナル」・レーベル Greentrax Records の創設者 Ian D. Green が今月10日に亡くなったそうです。1934年にスコットランド北東部インヴァネスの東の Forres に生まれて、享年90歳でした。死因は公表されていません。



 こんにちのスコットランド音楽の隆盛の少なくとも半分、実質的にはその大部分をグリーンの活動に負うと言って言い過ぎではありません。Greentrax Records が無ければシューグルニフティもピートボッグ・フェアリーズもデビューはずっと遅れたか、あるいはそもそも世に出られたかどうか、あやしいところがあります。Simon Thoumire が Hands Up Trad の追悼記事で書いているように、新人発掘にグリーンは特異な才能を発揮しました。才能ある新人を拾いあげるだけでなく、レコードを出すこととそのプロモーションを通じて確実にかれらの音楽の価値を広めました。ECM のように、Greentrax から出るものならば買って聴く価値があると認められました。

 Greentrax Records からのリリースにもお世話になりましたが、個人的にはグリーンが Greentrax を設立する前からやっていた Discount Folk Records の存在がありがたかったです。スコットランドの伝統音楽やフォーク・ミュージック、フォーク・ロックのレコードを買えるところとして頼りにしていました。むろんネットなどまだ無い頃で、初めの頃はファックスでやりとりしていたと思います。一番最初、1980年代半ばはたぶん手紙だったでしょう。

 一方 Greentrax がリリースするタイトルの幅はひじょうに広く、スコットランド音楽の最先端から、エディンバラ大学スコットランド研究所が出していたアーカイヴ録音のシリーズや、ハイランド・パイプの芸術音楽 piobaireachd ピブロックの名手たちの貴重な音源まで出していました。ケープ・ブレトンはじめ北米のスコットランド系ミュージシャンもいます。グリーンの懐の深さがしのばれます。

 グリーンの職業はエディンバラ警察の警察官でした。1960年代に Edinburgh Police Folk Club を作ったというのもいかにもスコットランドらしいです。さらに Edinburgh Folk Club の創設メンバーであり、スコットランド音楽の雑誌 Sandy Bell’s Broadsheet の編集にも関りました。The Living Tradition はこの雑誌の後継者でありました。ちなみに Sandy Bell はエディンバラの有名な音楽パブで、ここでのライヴを集めたオムニバスも出ています。

 グリーン本人はミュージシャンではなかったそうですが、その貢献はどんなミュージシャンよりも大きいものがあります。スコットランドの音楽を教えてくれた師匠の一人として、感謝をこめて、ご冥福をお祈りします。合掌。(ゆ)

 HiBy の DAP、RS2 のファームウェアに 1.1が出ています。

 変更点は
1. ショートカット・メニューのカスタマイズ。ドロップダウン・メニューとクイック・アクセスをカスタマイズできるようになった。
2. DSD 再生の最適化。
3. 「フォーマット」のカテゴリーを「アルバム・アーティスト」に変更。
4. 様々なバグ・フィックス。

 アップデートの方法。
イ. ダウンロードした zip ファイルを解凍。
ロ. できたフォルダの中の RS2.upt ファイルをマイクロSDカードのルート=最上層にコピー。
ハ. このマイクロSDカードを #1 のスロット、つまり正面から見て左側のスロットに挿入。
ニ. システム設定> ファームウェア・アップデート(一番下)をタップ。「確定」をタップ。

 これでアップデートが始まります。無事終ると自動で再起動します。(ゆ)

 macOS Sonoma 14.0 でも AquaSKK は問題なく使える。

 毎度のことながらほっとする。

 入力ソースを変更するごとにカーソルのあるところに小さくアイコンが出る。ちょとわずらわしいが、切る方法がわからない。

 ついでながら、ドックの「最近使ったアプリ」が正常に動作するようになった。ドックを再起動しなくてもすむ。(ゆ)

2023-09-30追記
 ドックの「最近使ったアプリ」はやはりダメで、Mac を一度眠らせたりすると、再起動しないと正常に動作しない。

 ベルリンで開かれたコンシューマ向け電子機器の見本市 IFA でデノンが CEOL N-12 なるCDレシーバーを発表したそうな。
 


 CDプレーヤー、FMラジオ、ストリーマーが一体になっている。WiFi、イーサネット、Bluetooth でつなげられる。AirPlay2、Tidal、Amazon Music HD、Spotify などを聴くことができる。Bandcamp もOKだろう。USB入力もあるから、NAS 内のオーディオ・ファイルも再生できる。HDMI ARC をサポートしてテレビにもつなげられる。ヨーロッパでは10月01日、699EUR で発売。そのまま換算すれば11万円強。

 あたし的に問題なのはモデル名が "CEOL" であること。知ってる人は知ってるが、これはアイルランド語やスコティッシュ・ゲール語で「音楽」を意味することば。デノンにアイリッシュ・ミュージックのファンがいるのか、は別として、アイリッシュ・ミュージックやスコティッシュ・ミュージックを聴くにふさわしいマシンなのか。

 どこかで試聴できればいいんだが、こういう大手メーカーのマスプロ製品をまっとうに試聴するのは案外難しい。試聴機を借りられればベストだが、そういうシステムがあるかどうか。問合わせてみるか。(ゆ)

 チーフテンズのフィドラー、ショーン・キーンが亡くなった。享年76。7日日曜日の朝、突然のことだったそうな。心臓が悪いとのことだったから、何らかの発作が起きたのか。

 これでチーフテンズで残るはケヴィン・コネフとマット・モロイの二人になった。

 ショーンのフィドルはバンドの華だった。チーフテンズの歴代メンバーは全員が一騎当千のヴィルチュオーソだったけれど、ショーン・キーンのフィドルとマット・モロイのフルートはその中でも抜きんでた存在だった。そして、この二人は技量の点でも音楽家としてのスケールの大きさの点でも伯仲していた。ただ、マットにはどこか「求道者」の面影がある一方で、ショーンは明るいのだ。

 美男子というのとは少し違うが、背筋をすっくと伸ばしてフィドルを弾く姿は、バンド随一の長身がさらに伸びたようで、誰かがギリシャ神話の神のどれかが地上に降りたったようと言っていたのは当を得ている。後光がさしていると言ってもいい。表面いたって生真面目だが、その芯にはユーモアのセンスが潜んでもいる。

 そして、そのフィドルの華麗さ。圧倒的なテクニックを存分に披露しながら、それがまったく鼻につかず、テクだけで魂のない演奏に決してならない。アイリッシュ・ミュージックは実はジャズ同様、「テクニックのくびき」がきついものだが、また一方でテクニックだけいくら秀でても、たとえばセッションの「道場破り」をやるような人間は評価されない。

 ショーンのフィドルは華麗なテクニックにあふれながら、同時にその伝統を今に担い、バンドの仲間たちと、リスナーとこれをわかちあえる歓びに満ちて、輝いている。マットがテクだけだとか、輝いていないというわけではもちろんなく、これはもう性格の違いだ。チーフテンズの顔といえばパディ・モローニだが、チーフテンズの音楽の上での顔はショーン・キーンのフィドルなのだ。モローニだって、その気になれば有数のパイパーだが、音楽の上でそれを前面に押し出すことはしなかった。

 ショーン・キーンのフィドルがチーフテンズの音楽の顔であることの一つの象徴は《In China》のラスト・トラック〈China to Hong Kong〉冒頭のフィドルだけの演奏だ。中国のどこかの伝統曲とおぼしき曲をアイリッシュ・ミュージックのスタイルで弾いて、しかも一個の曲として聴かせてしまうトゥル・ド・フォースだ。異なる伝統同士の異種交配のひとつの理想、ひとつの究極だ。

 ショーン・キーンにはチーフテンズ以外にもソロや、マット・モロイとの共演の録音がある。そこではチーフテンズとは別の、伝統のコアにより近い演奏が聴ける。ショーン個人としては、むしろこちらの方が本来やりたかったこととも思える。こうしたソロ・アルバムを作ることで、チーフテンズとのバランスをとっていたのかもしれない。

 76歳という享年は今の時代若いと思えるが、チーフテンズの一員としての活動やソロ・アルバムによって与えてくれた恩恵ははかりしれない。心からの感謝を捧げるばかりだ。(ゆ)

 夕食後、虫の知らせか、めずらしく Twitter をながめているとあらひろこさんの訃報が入ってくる。闘病されていた由。とすると昨年11月に「ノルディック・ウーマン」のステージで見たのが最後。ステージではご病気の様子などはカケラも無く、すばらしい音楽の一翼を担っていた。

 あらさんの生は何度か見ているはずだが、記録に残っているのは2019年10月、馬頭琴の嵯峨治彦さんのデュオ Rauma にハープの木村林太郎さんが加わった時のものだけだ。あれは実にすばらしかった。

 今でこそカンテレもごく普通の楽器で、本朝では本国フィンランド以外で、フィンランドとは無縁の地域としては演奏者人口が最も多い、と他ならぬあらさんに伺った。そうなったことには、あらさんの尽力が大きいのだろう。単に演奏し、作曲する音楽家としての活動にとどまらない、器の大きなところが、あらさんには感じられた。ごく浅いおつきあいしかしていないのに、そう感じられるくらいだ。

 どんなものであれ、異邦の文物が根を下ろすには、それにとらわれたことを幸運としてすべてを捧げる人間が必要だ。

 ご自身の音楽にも器の大きなところは出ている。伝統に深く掘りすすみながら、同時に外からの要素を大胆に注入する。馬頭琴とのデュオというのは、伝統の外にいるからこそ可能なのだし、また伝統にしっかりと根をおろしているからこそ、そこから生まれる音楽に魂が宿る。一方で、鍛えられたバランス感覚と、冒険を愉しむ勇敢さを必要とする危うい綱渡りでもある。そういうことができる人間を一言でいえば、スケールの大きな英雄だ。

 あらさんの音楽を初めて聴いたのはいつだったろう。たぶん2007年のセカンドの《Moon Drops》ではなかったか。2004年のファーストの《Garden》は後追いというかすかな記憶がある。手許に残された音楽はあまりに少ないが、どれも珠玉と呼ぶにふさわしい。

 人は来り、人は去る。されど、音楽は残る。(ゆ)

 Peatix からの知らせで、マイケル・ルーニィ、ジューン・マコーマックとミュージック・ジェネレーション・リーシュ・ハープアンサンブルの公演の知らせ。パンデミック前に松岡莉子さんが手掛けていた企画が、二度の延期を経て、ようやく実現したものの由。ルーニィとマコーマックの夫妻だけでも必見だが、九人編成のハープ・アンサンブルが一緒なのはますます逃せない。即座にチケットを購入。






 Dead.net から今年のビッグボックス《Here Comes Sunshine 1973》の案内がきたので、早速注文。送料70ドル。計256.98USD。円安がまた進行しているし、送料は相変わらずだが、やむをえん。


 
 収録されるショウは以下の5本。CD17枚組とダウンロード。

1973-05-13, Iowa State Fairgrounds, Des Moines, IA
 第一部クローザー〈Playing in the Band〉が2010年の《30 Days Of Dead》でリリース。
 
1973-05-20, Campus Stadium, University Of California, Santa Barbara, CA

1973-05-26, Kezar Stadium, San Francisco, CA
 第二部6曲目〈Box or Rain〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリース。

1973-06-09, RFK Stadium, Washington, DC

1973-06-10, RFK Stadium, Washington, DC
 第一部クローザー前〈Bird Song〉が2011年の、第二部4曲目〈Here Comes Sunshine〉が2017年の《30 Days Of Dead》で、第三部オープナー〈It Takes A Lot To Laugh It Takes A Train To Cry〉が《Postcards Of The Hanging》で、各々リリース。

 この06-10のショウが独立でCD4枚組、LP8枚組で各々リリース。

 この5本は4月2日までの春のツアーと6月22日からの夏のツアーの間の時期で、この期間、ショウはこれで全部。

 RFK Stadium の2日間はオールマン・ブラザーズ・バンドとの双頭ヘッドで、ダグ・ザームとウェット・ウィリーが前座。9日はデッドが先、10日はデッドが後。10日第3部にはマール・ソーンダース、ディッキー・ベッツ、ブッチ・トラックスが参加。

 ライナー執筆陣の一人 Ray Robertson は《Dave's Picks, Vol. 45》に続いての登場で、あのライナーはなかなか良かったので楽しみ。(ゆ)

 バンド結成60周年記念で出ていたクラダ・レコードからのチーフテンズの旧譜10枚の国内盤がめでたく来週03月15日に発売になります。ちょうどセント・パトリック・ディの週末ですね。

ザ・チーフタンズ 1 (UHQCD)
ザ・チーフタンズ
Universal Music
2023-03-15

 

 いずれも国内初CD化で、リマスタリングされており、おまけに「高音質CD」だそうです。これらはもともと録音もよいので、その点でも楽しめるはずです。

 今回再発されるのは1963年のファースト・アルバムから1986年の《Ballad Of The Irish Horses》までで、ヴァン・モリソンとの《Irish Heartbeat》以降の、コラボレーション路線のチーフテンズに親しんできたリスナーには、かれらだけの音楽が新鮮に聞えるのではないでしょうか。ファーストから《Bonapart's Retreat》までは、バンドの進化がよくわかりますし、《Year Of The French》や《Ballad Of The Irish Horses》では、オーケストラとの共演が楽しめます。《Year Of The French》はなぜか本国でもずっとCD化されていなかったものです。

イヤー・オブ・ザ・フレンチ (UHQCD)
ザ・チーフタンズ
Universal Music
2023-03-15



 以前にも書きましたが、このライナーを書くために、あらためてファーストから集中的に聴いて、かれらの凄さにあらためて感嘆しました。まさに、チーフテンズの前にチーフテンズ無く、チーフテンズの後にチーフテンズ無し。こういうバンドはもう二度と出ないでしょう。

 言い換えれば、これはあくまでもチーフテンズの音楽であって、アイリッシュ・ミュージック、アイルランドの伝統音楽をベースにはしていますし、アイリッシュ・ミュージック以外からは絶対に出てこないものではあるでしょうが、アイリッシュ・ミュージックそのものではありません。伝統音楽の一部とも言えない。

 それでもなお、これこそがアイリッシュ・ミュージックであるというパディ・モローニの主張を敷衍するならば、そう、デューク・エリントンの音楽もまたジャズの一環であるという意味で、チーフテンズの音楽もアイリッシュ・ミュージックの一環であるとは言えます。

 ただ、ジャズにおけるエリントンよりも、チーフテンズの音楽はアイリッシュ・ミュージックをある方向にぎりぎりまで展開したものではあります。それは最先端であると同時に、この先はもう無い袋小路でもあります。後継者もいません。今後もまず現れそうにありません。現れるとすれば、むしろクラシックの側からとも思えますが、クラシックの人たちの関心は別の方に向いています。

 ということはあたしのようなすれっからしの寝言であって、リスナーとしては、ここに現れた成果に無心に聴きほれるのが一番ではあります。なんといっても、ここには、純朴であると同時にこの上なく洗練された、唯一無二の美しさをたたえた音楽がたっぷり詰まっています。

 ひとつお断わり。この再発の日本語ライナーでも「マイケル・タブリディ」とあるべきところが「マイケル・タルビディ」になってしまっています。前に出た《60周年記念ベスト盤》のオリジナルの英語ライナーが Michael Tubridy とあるべきところを Michael Turbidy としてしまっていたために、そちらではそうなってしまいました。修正を申し入れてあったのですが、どういうわけか、やはり直っていませんでした。

 ですので、「マイケル・タルビディ」と印刷されているところは「マイケル・タブリディ」と読みかえてくださいますよう、お願いいたします。なお、本人はメンバーが写っている《3》のジャケットの右奥でフルートを抱えています。

ザ・チーフタンズ 3 (UHQCD)
ザ・チーフタンズ
Universal Music
2023-03-15



 もう一つ。来週土曜日のピーター・バラカンさんの「ウィークエンド・サンシャイン」でこの再発の特集が予定されています。あたしもゲストに呼ばれました。そこではこの再発とともに、Owsley Stanley Foundation から出た、《The Foxhunt: San Francisco, 1973 & 1976》からのライヴ音源からもかけようとバラカンさんとは話しています。(ゆ)



 シェイマス・ベグリーが73歳で亡くなったそうです。死因は公表されていません。

 ケリィのゲールタハトの有名な音楽一族出身の卓越したアコーディオン奏者で、まことに渋いシンガーでした。息子のブレンダンも父親に負けないアコーディオン奏者でシンガーとして活躍しています。妹の Seosaimhin も優れたシンガーです。

 あたしがこの人のことを知ったのは前世紀の末 Bringing It All Back Home のビデオで Steve Cooney とのデュオのライヴを見たときでした。どこかのパブの一角で、2人だけのアップ。静かに、おだやかに始まった演奏は、徐々に熱とスピードを加えてゆくのはまず予想されたところでありますが、それがいっかな止まりません。およそ人間業とも思えないレベルにまで達してもまだ止まらない。身も心も鷲摑みにされて、どこかこの世ならぬところに持ってゆかれました。

 この2人の組合せに匹敵するものはアイルランドでもそう滅多にあるものではない、ということはだんだんにわかってきました。今は YouTube に動画もたくさんアップされています。シェイマスはその後 Jim Murray、Tim Edey とも組んでいて、それらもすばらしいですが、クーニィとのデュオはやはり特別です。

 本業は農家で、会いにいったら、トラクターに乗っていた、という話を読んだこともあります。プロにはならなかった割には録音も多く、良い意味でのアマチュアリズムを貫いた人でもありました。(ゆ)

 検索しても出てこないので、念のために書いておく。AquaSKK は macOS Ventura でも問題なく動く。まことにありがたいことである。すべてのアプリで試したわけではないが、Jedit Ω、mi、CotEditor、Pages、egword universal 2、メール、Safari では問題ない。すべて最新ヴァージョン。AquaSKK は 4.7.4 (=4.7.3)。SNS やチャット・アプリは試していない。不悪。(ゆ)

08月18日・木
 中国四川省は水力発電が盛んで、全土の2割以上、1億5千万キロワットを発電しているが、旱魃で水量が減り、発電量も減っている。今後さらに減ると予想されることから大幅な電力制限を実施。「2022年8月14日に緊急宣言を発し、2022年8月15日〜2022年8月20日まで、電力を使用するすべての産業に対して生産の完全停止を要求」と伝えられる。

 やり方が凄いが、それだけ危機感が大きいのだろう。

 気候変動はこういう形でも現れる。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月18日には1970年から1991年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ共演。第一部アコースティック・デッド、第二部 NRPS、第三部エレクトリック・デッド。3時間半の完全またはそれに近いテープが残っているらしい。非常に良いショウのようだ。

 第一部5〜7曲目で〈Ripple〉〈Brokedown Palace〉〈Operator〉がデビュー。3曲とも《American Beauty》収録。

 〈Ripple〉はハンター&ガルシアの曲。1988年09月03日まで41回演奏。ほとんどがアコースティック・セットで演奏され、とりわけ1980年のウォーフィールドとラジオシティでのレジデンス公演で集中的に演奏された。1988年の最後の演奏の一つ前は1981年10月16日のオランダ。
 人気の高い曲で、実際佳曲と思うが、デッドでの演奏は必ずしも納得のゆくものではない。むしろ、ジェリィ・ガルシア・バンドでの演奏の方が良い。実際、JGB ではデッドでの演奏が事実上終った後の1982年04月10日から1992年05月09日まで、68回演奏している。ガルシアはこの曲についてはデッドよりも、JGB やジェリィ・ガルシア・アコースティック・バンドで演る方がうまくいくと判断したのだろう。

 〈Brokedown Palace〉もハンター&ガルシアの曲録。こちらは1995年06月25日まで、220回演奏。演奏回数順では75位。〈Franklin's Tower〉よりも1回少なく、〈Cold Rain And Snow〉よりも4回多い。1980年以降はたいていクローザーないしアンコールで演奏された。こういう歌をお涙頂戴にならないで演奏するのがデッドの真骨頂。
 タイトルは英語としては破格で、普通なら "Broken-down" となるはずだが、スタインベックの Cannery Row(缶詰横丁) に出てくる、ホームレスたちが居座った大きな倉庫か納屋の呼び名が原典。福武文庫版の邦訳では「ドヤ御殿」。

 〈Operator〉はピグペンの作詞作曲。この年の11月08日まで4回しか演奏されなかった。


2. 1987 Compton Terrace Amphitheatre, Tempe, AZ
 火曜日。16ドル。開演7時半。ガルシアの昏睡からの回復後、1990年春に向かって登ってゆくこの時期にまったくダメなショウはまず無い。

3. 1989 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時。レックス財団のベネフィット。
 ここでは悪いショウが無いらしい。第二部 space 後の〈Crazy Finger> I Need a Miracle> Stella Blue〉という並びはこの時だけで、そのことでさらにすばらしくなった。

4. 1991 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演5時。ブルース・ホーンスビィ参加。
 この3日間とその前の Cal Expo での3日間の6本で演奏した106曲はすべて違う。1曲も同じ曲を繰返していない。
 第一部5曲目〈Beat It on down the Line〉で、一度終りかけたところでホーンスビィがいかにもやめたくないという調子でまたやりだし、他のメンバーは顔も見合せてにやりとして後に続いた。(ゆ)

08月17日・水
 アイルランドのカトリック教会がローマ教皇庁に、女性、LGBT+、離婚・再婚者をはじめとする、従来、教会主流からは外されてきた人びとへの態度をよりインクルーシヴなものに変更し、僧侶への禁欲・独身の強制を廃止するよう求める文書を送った、というのはいささか衝撃的なニュース。それだけ危機感が強く、そこまで追いつめられてもいる、ということだろう。そういうことに積極的にならないと、社会から、とりわけ若い世代から時代遅れの遺物として見捨てられるという危機感だ。アイルランドの社会が短期間にいかにドラスティックに変化しているかを、裏面から浮彫りにしてもいる。

 来年秋に予定されている宗教会議への準備文書とのことだが、第二ヴァチカン会議に匹敵する、あるいはそれ以上の大改革がなされるかどうか。ヨーロッパの一部や北米のカトリックは賛同するかもしれないが、中南米も含めたラテン諸国やアフリカではどうだろうか。わが国のカトリック教会はどうか。

 アングリカン・チャーチでも、アメリカなどの教会が女性主教就任を求めたのに対して、国別信徒数では今や世界最大のナイジェリアの教会が反対し、分裂を恐れてカンタベリ大主教がアメリカの教会にそう急ぐなとなだめたという話もあった。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月17日には1970年から1991年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ共演。第一部アコースティック・デッド、第二部 NRPS、第三部エレクトリック・デッド。残っているセット・リストはテープに基くもので不完全。また当のテープが本当にこのショウのものかにも疑問が持たれている。

 ただ、第一部で〈Truckin'〉がデビューしたことは確かなようだ。ロバート・ハンター作詞、曲はジェリィ・ガルシア、フィル・レシュ、ボブ・ウィアの共作。1995年07月06日まで、計527回演奏。演奏回数順では7位。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉のペアよりも4回少なく、〈Jack Straw〉よりも51回多い。ペアをそれぞれ1曲と数えれば8位。つまり500回以上演奏されたのは全部で7ないし8曲。スタジオ盤は《American Beauty》収録。

 全米を走りまわる長距離トラック・ドライバーに託して、ツアーに明け暮れするバンドの喜怒哀楽を歌う。バンドのメンバーは飛行機で移動することも多いが、楽器・機材はトラックで運ばれたから、トラッキングはバンドとクルーの実感でもあっただろう。

 ロード・ムービーの趣。ビートもフリーウェイを駆ける大型トラック、というよりも、むしろ鉄道のレールの音を連想する。その点では、デッドの祖先の一つであるホーボー、貨物列車で移動した放浪の詩人たちへのオマージュも見える。

 ひとしきり歌を歌った後、長い集団即興=ジャムになることが多い。この曲の場合、ガルシアが細かくシンプルなパッセージで階段を昇るように音階を上がってゆき、頂点に達したところで、フル・バンドで「ドーン」と沈みこむという型が組込まれるようになる。これが決まった時の快感はデッドを聴く醍醐味の一つ。また、この型がだんだんできてゆくのを聴くのも愉しい。

 ガルシアによれば、ハンターの書く詞は当初は歌として演奏することをあまり考えておらず、曲をつけるのも、演奏するのもやり難いことが多かった。バンドのツアーに同行するようになって、ハンターの詞が変わってきて、この曲は詞と曲がうまくはまった最初の例の一つ。


2. 1980 Kansas City Municipal Auditorium, Kansas City, MO
 日曜日。09月06日までの16本のツアーの2本目。
 締まったショウらしい。

3. 1989 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。ヴェニュー隣の駐車場にもスピーカーが置かれて、700人ぐらいがそこで音楽に合わせて踊った。
 この時期のショウに駄作無し。

4. 1991 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。20ドル。開演7時。ブルース・ホーンスビィ参加。
 90年代でも最高のショウの1本の由。(ゆ)

08月11日・木
 地殻の大陸塊の起源が巨大隕石の衝突にあるという仮説が当っている証拠が初めて見つかった、という話。むろん、KT境界を作ったものの遙かずっと前の隕石だし、たぶん、1個や2個ではないだろう。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月11日には1967年と1987年にショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1967 Grande Ballroom, Detroit, MI
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。
 共演 Rationals, Southbound Freeway, Bishops, Ashmollyan Quintet。
 セット・リストは不明。
 共演は地元のローカル・バンドらしい。Rationals は1964年にミシガン州アン・アーバーで結成され、ローカルのヒットを何枚か出すが、全米市場には出られなかった。リード・シンガー、Scott Morgan はブラッド・スエット&ティアーズに誘われるも断わる。1970年に初のフル・アルバムを出して解散。
 Southbound Freeway はカナダ・アルバータ州エドモントンで1964年か65年頃に結成された。
 Ashmollyan Quintet はデトロイトのバンドらしい。このヴェニューに出るバンドの前座を勤めていたようだ。デッドの他、トラフィックやファグズなどの名前がある。
 Bishops は同名のアクトが多数あって不明。この時期のものは出てこない。
 「グランディー・ボールルーム」と読むこのヴェニューは収容人数1,837のダンス・ホールで、1928年建設当初は1階に商店が入り、2階以上がダンス・ホールだった。1966年に地元のラジオ局 DJ Russ Gibb が取得する。ギブはフィルモアのデトロイト版を造ろうとして、サンフランシスコやヨーロッパなどからバンドを呼び、また地元のアクトの育成にも努める。1972年に閉鎖されるまで、ここはデトロイトにおけるヒッピー/カウンター・カルチュアの中心となる。60年代の名のあるロック・アクトは軒並みここでやっている。ストゥージズはハウス・バンドだった。MC5もホーム・ベースとした。ロックだけでなく、コルトレーンやサン・ラなども出演した。
 デッドはここでこの2日間と翌年12月01日の3回、演奏している。

2. 1987 Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO
 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。9.35ドル。開演7時。雨天決行。
 ここではいつも良いショウをするが、その中では出来がそれほどではないらしい。第二部は少し持ち直す。(ゆ)

08月03日・水
 Mick Moloney がニューヨークで77歳で亡くなったそうです。

 アイルランドとアメリカを往ったり来たりするアイリッシュ・ミュージックのミュージシャンは少なくありませんが、アイルランドからアメリカに渡って腰を据えたのは珍しく、さらに現在のアメリカのアイリッシュ・ミュージックの発展に貢献したことではまず右に出る人はいないでしょう。彼がいなければ、あるいはアメリカに腰を据えなければ、チェリッシュ・ザ・レディースやソーラスは生まれなかったと思われます。

 1944年リムリック生まれ。音楽に目覚めるのはウィーヴァーズやアルマナック・シンガーズの録音を聞いたことで、そこから生まれ故郷周辺、とりわけシュリーヴ・ルークラの伝統歌謡とダンス・チューンに向かいます。

 ぼくが彼の名前を知るのはジョンストンズに参加してからです。そこではポール・ブレディのギターとともに、マンドリンで、後にプランクシティが完成させる「対位法的」バッキングやアレンジを始めています。もっともその前にドーナル・ラニィらとともに Emmet Spiceland をやっていたことを、JOM の追悼記事で指摘されました。これはブラザーズ・フォーに代表される「カレッジ・フォーク」をアイルランドで試みた初期のグループの一つで、アイルランドではヒットもしています。

 1973年にアメリカに移住。この頃はアメリカではまだアイリッシュ・ミュージックは移民共同体内部のものでした。様相が変わるのはモローニによればアレックス・ヘイリーの『ルーツ』です。これはアフリカ系アメリカ人である自分の「ルーツ」を探った本で一大ベストセラーになるとともに、他の民族集団が各々のルーツに関心を向けるきっかけにもなります。アメリカが多様なルーツを各々にもつ移民集団から成る社会であるという認識が定着するのもこれがきっかけだそうです。各民族集団の文化的活動への公的資金援助も増え、アイルランド系はすでに組織化されたものが多かったために、その恩恵を受けた由。

 1980年代前半はアイルランドは不況で、アメリカへの移民が増え、ミュージシャンも多数移住します。ミホール・オ・ドーナルとトゥリーナ・ニ・ゴゥナルの兄妹や、後にアルタンのメンバーとして来日もするダヒィ・スプロール、さらにはケヴィン・バークなどが代表です。こうした人びとの刺激もあり、アメリカのアイリッシュ・ミュージックはこの時期ルネサンスを迎えます。ミック・モローニはその中心にあって、演奏、制作、メディア、研究のあらゆる分野でこのルネサンスを推進しました。

 ソロ・アルバム《Strings Attached》を出し、The Green Fields Of America を結成してツアーし、チェリッシュ・ザ・レディースが誕生するきっかけとなったコンサートを主導し、シェイマス・イーガンのソロ・ファースト《Traditional Music Of Ireland》や、アイリーン・アイヴァーズとジョン・ウィーランのデュオ・アルバム《Fresh Takes》をプロデュースします。

 1992年にフォークロアとフォークライフの博士号を取得。アメリカにおけるアイリッシュ・ミュージックの歴史の研究家としてニューヨーク大学教授などを歴任。その業績にはアメリカ、アイルランドから表彰されています。2014年には TG4 の Gradam も受けています。

 個人的にはジョンストンズ時代の溌剌とした演奏と、1980年代、Robbie O'Connell と Jimmy Keane と出した《There Were Roses》のアルバムが忘れがたいです。

 まずは天国に行って、愉しく音楽していることを祈ります。合掌。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月03日には1967年から1994年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1967 O'Keefe Center, Toronto, ON, Canada
 木曜日。このヴェニュー6日連続のランの4日目。ジェファーソン・エアプレイン、ルーク&ジ・アポスルズ共演。
 セット・リスト不明。

2. 1968 The Hippodrome, San Diego, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。3ドル。開演8時半。カーリィ・クックズ・ハーディガーディ・バンド、マヤ共演。
 セット・リスト不明。
 James "Curley" Cooke は1944年ウィスコンシン生まれで2011年ワシントン州で死んだブルーズ・ギタリストのようだが、このバンド名では出てこない。この時期にハーディガーディをフィーチュアしていたとすれば、少なくとも20年は時代に先んじている。ハーディガーディでブルーズをやっているのは、まだ聞いたことがない。
 Maya もこの時代のミュージシャンは不明。

3. 1969 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。バレー・アフロ・ハイチ、アルバート・コリンズ共演。
 サックスが〈Dark Star〉に参加し、他の曲にヴァイオリンも参加しているが、誰かは不明。サックスはチャールズ・ロイド、ヴァイオリンは David LaFlamme または Michael White が推測されている。

4. 1982 Starlight Theatre, Kansas City, MO
 火曜日。
 ヴェニューは屋外のアンフィシアターで、コンサートの他、演劇、ミュージカルにも使われ、音響が良い。デッドのサウンドはすばらしかった、と Tom Van Sant が DeadBase XI で書いている。ショウも決定的な出来。

5. 1994 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開場5時、開演7時。トラフィック前座。
 第一部4曲目〈El Paso〉でウィアがアコースティック・ギター。
 DeadBase XI でのこのショウについての記事で、John W. Scott はデッドのヴィデオ・ディレクター Bob Hartnett へのインタヴューを載せている。これは実に興味深い。一つには、デッドのショウは音楽だけでなく、照明や映写イメージも含めた、総合的な作品になっていた。当時すでにU2の ZooTV ツアーやローリング・ストーンズのコンサートなどもそうした「総合芸術」になっていたが、デッドのものは、その中でも最先端の機材と技術と素材を駆使したものであることが、このインタヴューからわかる。
 ハートネットはキャンディス・ブライトマンと協力して、会場のビデオ画面に映しだすヴィジュアルを指揮していた。バンドが演奏する曲に合わせたイメージを映しだす。あらかじめ大量の素材をいくつかのセットにしたものをレーザーディスクに用意しておいて、演奏に応じて送りだす。デッドの音楽は何がどれくらいの長さ演奏されるのか、事前にはまったくわからないのだから、照明とスクリムのイメージ担当のブライトマンにしても、ビデオ・スクリーン担当のハートネットにしても、その仕事は難しいなどというレベルではない。06月のラスヴェガスではヴィジュアル組は本番3日前に現地に入って、入念にリハーサルをしている。
 ラスヴェガスでは暑さのために、機器がどんどん壊れた。このビデオ・プロジェクティングのチームはステージの下に陣取る。精神的、物理的ないくつもの理由からここがベストの配置なのだが、気温の上がり方は半端ではない。
 この年、この08月初旬まで炎熱の夏のツアーが組まれたのは、サッカーのワールド・カップ・アメリカ大会のためでもある。デッドのヴェニューはワールド・カップの試合会場と重なるところが多く、そのあおりでスケジュールはかなり無理の大きいものになった。
 このジャイアンツ・スタジアムでは初めて、屋外のステージでバンドのためのエアコン・システムが組まれた。特別仕立てのものだが、クルーやスタッフにはその恩恵は及ばない。
 インタヴューの最中、クルー、スタッフへの放送が入る。トラフィックのステージにガルシアが参加する可能性がある、それに備えて、トラフィックの最後の2曲では全員配置につくように、という指示だった。必ず入るとわかっているわけではなく、入るかもしれないというだけで、全員が用意している。
 ショウそのものは、スコットの記憶では前座のトラフィックの演奏ばかりが記憶に残るものだった。
 ベテランのデッドヘッドたちには我慢のならない出来かもしれない。しかし、バンド・メンバーだけでなく、デッドヘッドたちもまた老いてはいなかったか。少なくとも若くはない。(ゆ)

07月25日・月
 朝、起きると、深夜、吉田文夫氏が亡くなったという知らせが、名古屋の平手さんからメールで来ていた。あの平手さんがメールを送ってくるのはよほどのことだ。吉田氏は平手さんが主催している滋賀県高島町でのアイリッシュ・ミュージック・キャンプの常連でもあったから、平手さんにとっては喪失感は大きいだろう。あたしはついに会うことがかなわなかった。もう一昨年になるか、25周年ということで初めてでかけたキャンプには、吉田氏は体調不良で見えなかった。がんの治療をしていることは聞いていた。

 吉田氏は関西でアイルランドやスコットランドなどの伝統音楽を演奏する草分けの1人だった。関東のあたしらの前にはシ・フォークのメンバーとして現れた。シ・フォークは札幌のハード・トゥ・ファインドとともに、まだ誰もアイリッシュ・ミュージックのアの字も知らない頃から、その音楽を演奏し、レコードを出していた稀少な存在だった。この手の音楽を愛好する人間の絶対数、といっても当時はタカの知れたものだが、その数はおそらく一番多かったかもしれないが、関東にはなぜかそうしたグループ、バンドが生まれなかったから、あたしらはハード・トゥ・ファインドやシ・フォークに憧れと羨望の眼差しを送っていたものだ。その頃はライヴに行くという習慣がまったく無かったので、どちらにしてもツアーで来られていたのかもしれないが、バンドとしての生を見ることはなかった。

 今世紀も10年代に入る頃から、国内のアイリッシュ・ミュージック演奏者が爆発的に出てきたとき、吉田氏の名前に再会する。関西の演奏者を集めた Celtsittolke のイベントとオムニバス・アルバムだ。東京でトシバウロンが Tokyo Irish Company のオムニバス・アルバムを作るのとほぼ同時だったはずだ。

 Celtsittolke には正直仰天した。その多彩なメンバーと多様な音楽性に目を瞠り、熱気にあてられた。関東にはない、猥雑なエネルギーが沸騰していた。関東の演奏家はその点では皆さんまじめで、行儀が良い。関西の人たちは、伝統に敬意を払いながらも、俺らあたしら、勝手にやりたいようにやるもんね、とふりきっている。そのアティテュードが音楽の上でも良い結果を生んでいる。アイリッシュ・ミュージックの伝統は、ちっとやそっと、揺さぶったところで、どうにかなるようなヤワなものではない。どんなものが、どのように来ても、あっさりと呑みこんでゆるがない。強靭で柔軟なのだ。そのことを、関西の人たちはどうやってかはわからないが、ちゃんとわきまえているようでもある。少なくとも吉田氏はわきまえていたようだ。Celtsittolke はそうした吉田氏が長年積み重ねてきたものが花開いたと見えた。

 結局、その生演奏にも接しえず、言葉をかわしたこともなかったあたしが、吉田氏について思い出を語ることはできない。今はただ、先駆者の一人として、いい年のとり方をされたのではないかと遠くから推察するだけだ。アイリッシュ・ミュージックやスコットランドの伝統音楽と出逢い、ハマりこんだことは人生において歓びだったと思いながら旅立たれたことを願うのみである。合掌。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月25日には1972、74、82年の3本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1972 Paramount Theatre, Portland, OR
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。シアトル、ポートランドのミニ・ツアー。どちらも "Paramount Theatre"。シアトルのには "Northwest" がついているが。
 ピークのこの年らしいショウの1本という。

2. 1974 International Amphitheatre, Chicago, IL
 木曜日。二部としてレシュとラギンの〈Seastones〉が演奏された。
 第三部9・10曲目、〈Uncle John's Band> U.S. Blues〉が2015年の、第一部3曲目〈Black-Throated Wind〉が2016年の、第一部2曲目の〈Loose Lucy〉が2019年の、アンコール〈Ship Of Fools〉が2020年の、〈Loose Lucy; Black-Throated Wind〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。つまり5曲がリリースされていることになる。
 きっちりした演奏。Wall of Sound の時期で音は良い。この日の録音はベースがはっきり聞える。ウィアのギターが小さめ。キースはこの頃にはすでにピアノだけではなく、オルガンも弾いている。
 この5曲はどちらかというと歌を聞かせる曲で、ガルシアは曲ごとに歌い方を変えている。〈Loose Lucy〉ではメリハリをつけ、〈Uncle John's Band〉ではややラフに、時にメロディを変え、〈Ship Of Fools〉ではごく丁寧に。〈U.S. Blues〉はギアがちょっとはずれて、歌詞が不安定。結局、ちゃんとケリを着けはする。
 〈Black-Throated Wind〉はウィアの独壇場になる曲。良い曲なのだが、ウィアの曲は時に、きっちりと構成が決まっていて、崩しようがないことがある。これはその典型。ずっと聴いていると、だんだん息が詰まってくる。

3. 1982 Compton Terrace Amphitheatre, Tempe, AZ
 日曜日。10ドル。開演7時半。
 1週間ぶりのショウで夏のツアーのスタート。08月10日までの12本。アリゾナ、コロラド、テキサス、オクラホマ、ミズーリ、ミネソタ、ウィスコンシン、アイオワを回る。
 ショウは良いものだそうだ。(ゆ)

 なんと、デニス・カヒルが亡くなってしまいました。パディ・モローニの死去にも驚きましたが、こちらはまさしく青天の霹靂。いったい、何があったのか。享年68歳。あたしと1歳しか違わないではないか。死因は公表されていません。やすらかに亡くなった、ということだけ。重い病気ではあったのでしょう。

 いや、しかし、これは痛い。惜しい。The Gloaming はどうなるのだ。その他でもマーティン・ヘイズのプロジェクトには欠かせない人だったのに。ヘイズの喪失感は想像するのも怖いほどですが、単にファンであるこちらも茫然としてしまいます。

 かれのギターはアイリッシュ・ミュージックのギターとして革命的だったけれど、それ以上に、マーティン・ヘイズの音楽を現代の、アイリッシュ・ミュージックの伝統の外の世界とつないだことが大きい。ヘイズのフィドルもまたカヒルのギターを受けて、伝統のコアにしっかり根を下ろしながら、なおかつ同時に現代の、最先端の音楽にもなりえていました。《Live In Siattle》に捉えられた30分のメドレーはカヒルのギターがなくては生まれなかったでしょう。The Gloaming でバートレットのピアノとヘイズのフィドル、オ・リオナードの歌をカヒルのギターがつないでいます。

 それはカヒル本人の精進の賜物でしょう。かれ自身、アイルランドの音楽伝統の外から入ってきて、その最もコアに近いものの一つであるヘイズのフィドルに真向から、愚直に向き合うことで、外と内をつなぐ術を編み出し、身につけていったと思われます。かれは自分が伝統のコアそのものになれないことを承知の上で、あえてそこと自分のいる外をつなぐことに徹したと見えます。こういう人はやはり稀です。

 アイリッシュ・ミュージックに魅せられた人間は、たいてい、そのコアに入ることを目指します。それが不可能だとわかっていても目指します。そうさせるものがアイリッシュ・ミュージックにはあります。カヒルもおそらくその誘惑にかられたはずです。しかし、どうやってかその誘惑を斥けて、つなぐことに徹していました。あるいはギターという楽器の性格が後押しをしていたかもしれない。それにしてもです。

 The Gloaming や Martin Hays Quartet がどう展開してゆくかは、とても愉しみにしていたのですが、カヒルが脱けるとなると、活動そのものが停止するのではないかと危惧します。

 人が死ぬのは常、とわかっているつもりでも、なんで、いま、あなたが死ぬのだ、とわめきたくなることはあります。ご冥福を、などとも言いたくない時があるものです。あたしなどがうろたえてもどうしようもありませんが、なんともショックです。(ゆ)

06月16日・木
 ニュースを追いかけているわけでもないのに BTS の活動停止の話は否応なく耳目に入ってくる。ポピュラー音楽の1グループが解散するわけでもない、活動停止するというだけで、一般のニュースとして流れるというのも珍しいことだろう。

 これを聞いてあたしが連想したのはグレイトフル・デッドの hiatus、あたしが「大休止」と呼んでいる時期のことだ。デビューから10年近く経った1974年11月から1976年05月までの1年7ヶ月、バンドとしてのツアーをやめたのだ。この間にグレイトフル・デッドのメンバーが揃って行なったショウは1975年の4本だけである。

 この大休止によってデッドは溜まっていた各種の負債を整理し、新たな創造力をとりもどし、充電したエネルギーをもって、前人未踏の音楽を生み出してゆく。活動再開した1976年から1977年、1978年は、グレイトフル・デッドがバンドとして最も実り多い、最も幸福な時期だ。この大休止のおかげで、デッドはその後1995年まで、疾走し続けることができた。

 一方、ジェリィ・ガルシア、ボブ・ウィア、ミッキー・ハートを初めとして、メンバーはそれぞれソロ活動に精を出す。その成果は復帰後の音楽だけでなく、ツアーの方法論の改善にも大きく貢献する。

 もちろん、デッドと BTS では天の時も地の利もまるで異なるわけだが、バンドとしての活動がメンバーの意図を超えて暴走しはじめ、自分たちが何をやっているのかわからなくなったために、とにかく一度止まることにした、という点は共通している。

 この場合、ポイントとなるのは、バンドとしての活動を停止することを、バンド自身がイニシアティヴをとって決め、実行したことだ。外的要因、ありていにいえば、お呼びがかからなくなって、ツアーをしようにもできなくなったわけではない。何らかのスキャンダルから逃げるためでもない。レコード会社のプロモーション戦略の一環でもない。

 1974年当時のデッドはすでにアメリカ最高のライヴ・バンドの一つとしての地位を確立して、人気は右肩上がりだった。そこで止まるということは、途方もなく大きなエネルギーを必要としたにちがいない。不安といえば、バンド自身、当のメンバーたちが最も不安だったろう。かれらにとっては、バンドでライヴ演奏をすることが、とにもかくにも、どんなことよりも大事なことだったのだ。

 その不安を乗り越え、様々な圧力に耐え、小さくない犠牲を払いながらも、とにかく止めた。後からみれば、それによって得たものは、表現不能なまでに大きなものだった。大休止から復帰したグレイトフル・デッドは、コアの部分はそのままに、まったく新たなバンドとして生まれ変わる。

 アルテスの鈴木さんがハマったというので、BTS の名は知っていたし、いずれそのうち、と思ってはいたが、こうなるとあらためて興味が湧いてくる。あるいはむしろ、かれらが無事復帰するか、できたとしてどう変わっているかは、結構気になる。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月16日には1974年から1993年まで5本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版2本。

1. 1974 State Fairgrounds, Des Moines, IA
 日曜日。6.50ドル。三部構成。第一部からクローザー前の〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉、第二部の全部が《Road Trips, Vol. 2, No. 3》で、第三部から6曲がそのボーナス・ディスクでリリースされた。半分強がリリースされたことになる。

2. 1985 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。15ドル。開演3時。
 第二部6曲目、drums 直前で〈Cryptical Envelopment〉が13年ぶりに復活。この後、この年09月まで4回演奏されて、完全引退する。この曲は〈The Other One〉の原形である組曲〈That's It for the Other One〉の最初と最後のパート。ここでは〈The Other One〉に続く形で演奏された。

3. 1990 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時。
 《View From The Vault III》で DVD と CD で全体がリリースされた。
 このヴェニューはビル・グレアムが設計し、真上から見ると、デッドのロゴの頭蓋骨をかたどっている。柿落しもデッドの予定だったが、ガルシアの昏睡でパーになり、替わりにフリオ・イグレシアスにお鉢が回った。グレアムが設計しただけあって、音響も良く、トイレの数が多く、いろいろな意味で良い会場だそうだ。

4. 1991 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 日曜日。このヴェニュー2日連続の初日。25ドル。開場5時、開演7時。リトル・フィート前座。
 全体が《Giants Stadium 1987, 1989, 1991》でリリースされた。
 とにかく暑い日で、リトル・フィートも良かったそうだ。

5. 1993 Freedom Hall, Louisville, KY
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。24.50ドル。開演7時。
 第二部が良い由。(ゆ)

06月06日・月
 Kelly Joe Phelps の訃報。形はブルーズ、カントリーだったが、かれの音楽は表面的なジャンル分けを超えていた。およそ人間が音楽として表現できるかぎりのものがぞろりと剥出しになる。それがたまたまブルーズやカントリーに聞える、というだけだ。

 フェルプスの音楽を聴くことは、吹きさらしの断崖絶壁か、おそろしく高い塔のてっぺんに立たされるような体験だ。むろん、怖い。しかし、そもそも音楽は怖いものであることをそっと、しかし有無を言わせず突きつけられる。

 似たような立ち位置の人にボブ・ブロッツマンがいる。しかし、ブロッツマンの音楽はあくまでも島の音楽で、だから底抜けに愉しい。フェルプスの音楽は大陸の音楽で、だからどこまでも厳しい。

 その厳しさにさらされたくて、また聴くことになるだろう。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月06日には1967年から1993年まで6本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 火曜日。このヴェニュー10日連続のランの6日目。セット・リスト不明。

2. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー5日連続のランの2日目。3.50ドル。Jr ウォーカー、Glass Family 共演。
 第一部とされている6曲80分弱のテープがあるが、むろん、これは一部だろう。ここにエルヴィン・ビショップが参加。うち1曲〈Checkin' Up On My Baby〉ではビショップがヴォーカル。
 ガルシアがこの日、ヤクでヘロヘロになり、ステージに立てなかったので、ビショップが替わりに出たとも言われる。
 Jr Walker は本名 Autry DeWalt Mixon Jr. (1931 – 1995)、アーカンソー出身のサックス奏者で歌も歌う。1960年代にモータウンから Jr Walker & the All Stars として何枚もヒットを出し、1969年にも〈What Does It Take (To Win Your Love)〉がトップ5に入った。
 Glass Family は West Los Angeles で結成されたサイケデリック・ロック・バンドのことだろう。この年ワーナーからアルバムを出している。バンド名はサリンジャーの諸短篇に出てくる虚構の一家からとったものと思われる。1970年代にはディスコ・バンドに転身したそうだ。

3. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー4日連続のランの3日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、サザン・カンフォート共演。3.50ドル。第一部はアコースティック・セット。
 第二部11曲目〈Attics Of My Life〉が《The Golden Road》収録の《American Beauty》ボーナス・トラックでリリースされた。

4. 1991 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。23.50ドル。開演7時。
 デッドとしては平均的できちっとしたショウだが、突破したところは無い由。

5. 1992 Rich Stadium, Orchard Park, NY
 土曜日。開演6時。

6. 1993 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。28.50ドル、開場4時、開演6時。スティング前座。スティングは前日も前座に出ている。スティングの1曲にドン・ヘンリーが一節だけ参加。また別の曲にガルシアが参加。
 終日雨が降っていて、開演直前陽がさしてきた。それでオープナーは〈Here Comes Sunshine〉。(ゆ)

05月17日・月
 アイルランドのシンガー Sean Garvey が今月6日に亡くなったそうです。1952年ケリィ州 Cahersiveen 生まれ。享年69歳。60代で亡くなると若いと思ってしまう今日この頃ではあります。

 ガーヴィーは若い頃から歌いはじめていますが、本格的に歌うようになったのは教師の資格をとりにダブリンに出てきてからで、ひと頃はパディ・キーナンと The Pavees というバンドもやっていたそうです。後、コネマラのスピッダルに住み、コネマラのシャン・ノース・シンガーたちの影響を受け、アイルランド語でも歌いはじめます。

 1990年代後半以降、ダブリンに住み、The Cobblestone でジョニィ・モイニハンやイリン・パイパーの Nollaig Mac Carthaigh と定期的にセッションしていました。2006年にケリィにもどり、TG4 の Gradam Ceoil singer of the year を受賞しました。

 ぼくがこの人を知ったのは1998年に出たファースト・アルバム《ON dTALAMH AMACH (Out Of The Ground)》でした。2003年にセカンド《The Bonny Bunch of Roses》を出していますが、未聴。昔『ユリイカ』に書いた「アイルランド伝統歌の二十枚」にファーストをとりあげていたので、追悼の意味を込めて再録します。
 文中に出てくる、アーチー・フィッシャー、フランク・ハートやティム・デネヒィについては、もう少し余裕ができてから書いてみたいところです。

 なお、このファーストは本人がヴォーカルの他、フルート、ホィッスル、バンジョー、マウス・オルガン、ギターを担当して、まったくの独りで作っています。

Sean Garvey  ON dTALAMH AMACH (Out of the Ground); Harry Stottle HS 010, 1998
 フランク・ハートの友人でもあり、またしてもケリィ出身のこのシンガーもテクノロジーの恩恵で姿を現した秘宝の一人。写真からすればおそらくは現在五十代後半から六十代だろう。声といいギター・スタイルといい、スコットランドの名シンガー、アーチー・フィッシャーを想わせる人だが、歌からたちのぼる味わいもまた共通のものがある。ティム・デネヒィ同様、ケリィの伝統にしっかりと足をつけて揺るがない。生涯の大部分を野外で過ごしたであろう風雪に鍛えられた風貌にふさわしい声は、一方でなまなかなことでは崩れないねばり強さを備え、一語一語土に植付けるようにうたう。タイトル通り、土に根ざした声が土に根を張る歌をうたう。やがてその声が帰るであろう土はあくまでもアイルランドの土だが、また地球の土でもあり、今これを聞くものの足元の土に繋がる。この邦の伝統音楽を聴きつづけてきたことを何者かに感謝したくなる瞬間だ。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月17日には1968年から1981年まで6本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版2本。

1. 1968 Shrine Exhibition Hall, Los Angeles, CA
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。セット・リスト不明。

2. 1970 Fairfield University, Fairfield, CT
 日曜日。このショウは実際には行われなかった、という説もある。この1週間前にドアーズがここでコンサートをしており、それによって大学当局は「望ましからざる」ことを避けるため、この公演をキャンセルした、という。詳細不明。

3. 1974 P.N.E. Coliseum, Vancouver, BC, Canada
 金曜日。コマンダー・コディ&ヒズ・ロスト・プラネット・エアメン前座。
 第二部4曲目〈Money Money〉が《Beyond Description》所収の《From The Mars Hotel》のボーナス・トラックで、続く5・6曲目〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2011年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 第二部4曲目で〈Money Money〉がデビュー。バーロゥ&ウィアの曲。この後、19日、21日と3回だけ演奏。スタジオ盤は《From The Mars Hotel》収録。3回しか演奏されなかったのに、そのすべてが《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》でリリースされた。
 ここでの演奏を聴くとドナの存在が前提の曲のように思える。

4. 1977 University Of Alabama, Tuscaloosa, AL
 火曜日。
 第一部6曲目〈Jack-A-Roe〉が《Fallout From The Phil Zone》で、10曲目〈High Time〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《May 1977》で全体がリリースされた。
 この春のツアーのどのショウでは余裕がある。テンポがことさら遅いとも思えないが、ほんのわずかゆっくりで、ためにアップテンポの曲でも歌にも演奏にも無闇に先を急がないゆったりしたところがって、それがまた音楽を豊饒にしている。このショウはその余裕が他よりも大きいように感じる。アンコールの〈Sugar Magnolia〉ではその感覚がより強く、この曲そのものだけでなく、ショウ全体の味わいも深くしている。
 この時期全体に言えることだが、ガルシアのギターがほんとうにすばらしい。ソロも伴奏も実に充実している。この日はとりわけ2曲目の〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉、5曲目〈Jack Straw〉、7曲目〈Looks Like Rain〉、そして第一部クローザーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉特に前者、第二部〈Estimated Prophet〉。第二部2曲目〈Bertha〉のような、いつもはソロを展開しない曲でも見事なギターを聴かせる。
 これまたいつものことだが、デッドの場合、こういうガルシアのソロが、それだけ突出することはほとんど無い。バンド全体の演奏の一部で、だからこそ、ガルシアのソロが面白いと全体が面白くなる。全員がそれぞれに冴えていて、それが一つにまとまっている。1977年春のデッドは実に幸せそうで、それを聴くこちらも幸せになる。
 大休止から復帰後、特にこの1977年以後のデッドのショウは大休止以前よりもコンパクトになり、2時間半が普通になるが、このショウはその中では珍しく CD で3時間を超えている。やっていて気持ちが良かったのだろう。ハイライトは第一部クローザーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉で、どちらも13分、合計で26分超。ベスト・ヴァージョンの一つ。〈Looks Like Rain〉もベスト・ヴァージョンと言ってよく、どちらかというと第一部の方が充実している。
 次は1日置いて、アトランタのフォックス・シアター。

5. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL
 水曜日。9.50ドル。開演8時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第二部2曲目〈Friend Of The Devil〉が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 アンコール〈Werewolves Of London〉がことさらに良かった由。

6. 1981 Onondaga Auditorium, Syracuse, NY
 日曜日。開演7時。(ゆ)

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