今年のサマソニのメインの出演者発表、と DM が来る。海外から招聘する22のアクトだそうだ。これまではまったく関心が湧かなかった。そんなものを聴くのに手間暇かけられるか、という反応がせいぜいだった。ところが、今はストリーミングというものがある。簡単に全部聴けてしまう。となると聴きたくなるのが人情というもの。
え、違う?
いや、あたしは聴きたくなってしまうのである。とにかく、名前も聞いたことのない人たちである。今売れっ子のはずである。そういう人たちはどんな音楽をやっているのか。来年はいないかもしれないではないか。いなくならないまでも、忘れられている可能性も小さくはなかろう。ここで聴かなければ、いつ聴く。
というわけで、この22のアクトの、Tidal や Apple Music で一番上に出てきたトラックを聴いてみた。こういうところでトップに出てくるのは、再生回数が一番多い、つまり今一番人気ということだろう。ほとんどは3分前後、長くて5分、一つだけ7分半があったが、ヒットするには長くてはいけないというのは、この百年、変わっていないらしい。
タイの Bright だけ、Tidal に無かったのは、英語で歌っていないからだろうか。Apple Music では曲名もタイ語表記で、そのままではまるでわからん。
22の中で面白いと思ったのが2つ。Olivia Dean と Jon Batiste。ディーンは英国、バティストがアメリカ。この2人だけは、やりたい音楽をやっている。他は全部、売りたい音楽をやっている。後者は音楽である前に商品だ。
もっともどれも商品としては一級である。売るためにカネをかけている。いろいろ工夫もしている。どれもヴォーカルがくっきりしっかり中央前面に据えられていて、インストルメンタルに埋もれることはまったく無い。聴かせたい焦点が明瞭だ。聴いていて不快にはならない。カネをやるからもう一度全部聴けと言われたら、聴いてもいいと思える。カネをもらっても二度と聴きたくないというものも、世の中にはごまんとある。
工夫の中でおっと思ったのは AJR の〈World’s Smallest Violin〉。短かいフレーズを繰返しながら、ヴァイオリンの音から始めてシームレスにどんどんといろいろな音に変えてゆく。テクノロジーを使うのに想像力を働かせている。ただ、それが売れるための工夫におわり、そこから新しいものが生まれてはいない。あるいは他にもっと展開しているのかもしれないが、そこまで追いかける気にはなれない。
全体の傾向として、アメリカのアーティストはそれぞれどこか際立って他と違うところがある。他人とは違うことをやろうとしていると見える。あるいは自然に否応なくやってしまう。UK のミュージシャンたちは他人と似ることを気にしない。同じようになるのを避けようとしない。Underworld は他と違うことをやっているようだが、7分半の曲を聴いているうちに気がつくと寝ていた。
UK の今のジャズはどれもこれもユニークで実に面白いのに、ポップスやロックはどれもこれも似たようなものになるのも、別の意味で面白い。やはりジャズはやりたい音楽なのだ。
米英以外の、イタリア、ノルウェイ、アイスランド、南アフリカとタイのミュージシャンは、言語も含めてそれぞれのローカルな要素は皆無と言っていい。タイだけはタイ語で歌っているところがローカルだが、それ以外はメロディもアレンジも演奏もすべてアメリカン・スタンダード。近所の中華料理屋の BGM でよくかかっている中国語以外はまったくアメリカのポップスというものと同じ。
22曲、1時間20分。時にはこういうことをやってみるのも無駄ではない。結論としては、Olivia Dean と Jon Batiste 以外は聴かなくてもいいということだが、それが確認できたのは収獲。とにかく聴いてみないことにはわからんのだから。そりゃ、そういうものだろうという推測はつくが、推測だけで切りすてるのはゴーマンであろう。それにこの2人のような発見もある。
もう一つ、Yoasobi や Ado のようなものばかりが世界で売れているわけではないこともわかった。その点ではヒット狙いのものは昔からあまり変わっていないようでもある。20世紀末からヒット曲がどれもこれも似たようなものになり、多様性が減ったという調査結果をシカゴ大学が出していたと記憶する。米英以外の地域、文化から出てくるものが、アメリカのヒット曲そっくりというのも、その傾向の現れだろう。
K-pop は少し違って、音楽とは別の、より土台に近いところのローカル性が現れていると見える。和魂洋才ならぬ韓魂洋才と言ってみるか。とすると、ここに出てくる米英以外の地域出身者たちは、魂までアメリカに売っている。こういう音楽をやるのに、各々の地域でやる必要も必然も無いだろう、とあたしなどには見える。どの地域にも立派に世界に通用するローカル音楽があるのに、と思ってしまうのは、また逆の偏見だろうか。(ゆ)