ポール・ブレディの演唱を見ながら、この人はソロの人なのだとつくづく思い知らされた。後半で山口洋が加わったが、ソロでこそ真価を発揮する2人のアーティストが親密に丁々発止をしているけしきだった。
そしてもう1人のソロ・パフォーマーを思出した。ディック・ゴーハンだ。伝統歌謡から出発し、キャリアの半ばでオリジナルを歌うことに転換した点でも共通する。唯一無二の特異な声と無類の歌のうまさ、そしてそれに見合うギターの技量。スコットランドのゴーハンとアイルランドのブレディは、各々の伝統音楽に片足を置きながら、あらためて自分の生きる時と場所に向きあい、そこに共鳴し、共に生きる人びとをあるいは鼓舞し、あるいな慰め、あるいた労るうたを作り歌っている。流行とはまったく別のところで「今」をうたってきた2人は、スコットランドとアイルランドの2つの文化を代表する、と言うよりも各々の文化を土台として、20世紀から21世紀の世界に屹立する巨人だ。残念ながらゴーハンの生に接することはもうできないが、キャリア前半を網羅するボックス・セットが出たところだ。
一方ブレディは78歳という年齡をまったく感じさせない、エネルギーに満ち満ちたうたとギターをたっぷりと聴かせてくれた。時折りピアノに座る以外は立ちっぱなしで、前に後ろに動く。
ヴォーカル用のマイクはよくある口をつけてうたうものではなく、角張った形のものが縦にやや低めに正面に立てられていた。ブレディはうたいながら、顔や上体を動かす。そういう動きを自由にできるようにするためか。拾う音は距離に比例するらしい。近づけば声は大きくなり、離れると小さくなる。そしてブレディのあの声、わずかにスモーキーで、ほど良い甘さを含んだテナーの声が実に自然に、まるでノーPAで聴いているように響く。声が出てくる位置も、PAのスピーカーからではなく、ブレディの口からだ。サウンド・エンジニアと設備のコラボレーションの賜物だろう。ギターは無線で飛ばしていたが、こちらもホンモノのアコギの音だった。
3回のアンコールまで含めれば、20曲はうたったろうか。前半クローザーの〈Arthur McBride〉、アンコール1曲目の〈ポンチャートレイン〉は別格として、前々日もうたった〈Blue World〉と〈Nothing but the same old story〉がハイライト。
後半オープナーから山口洋がギターで加わる。こちらはPAを通さず、ヴォーカル・マイクで拾っていたようだ。山口もブレディに劣らないギターの名手であることをあらためて確認する。山口のギターにブレディも興奮する。いま、ここでしかできない体験。いつまでも終ってくれるな。1曲だけコーラスを合わせていたのもすばらしく、もっと聴きたかった。クローザーの〈Home of Donegal〉で、交替で山口版を歌ったのはハイライトの一つだったが、ブレディと山口の声のハモりには音楽の神が宿っていると聞えた。
〈Home of Donegal〉が始まって、ああ、もうすぐ終りだとわかってから、ブレディの声に一段と集中していた。かれの年齡を考えれば、この声を生で聴けることは2度と無いだろう。アイルランドに行けば別かもしれないが、もう長距離の飛行に自分の体が耐えられない。生で聴けるのはこれが最後だ。ギターもさることながら、この人はやはり歌、声なのだ。マーティン・ヘイズがアイルランド随一のシンガーと太鼓判を押した、その声。ヴァン・モリソンを除いては肩を並べるものもない歌。そしてハマった時にはそのモリソンですら凌ぐうた。年齡を重ねて、文字通り年季の入った歌。そのうたに、声に耳をすます。流れこんでくるうたをひたすら呑みこむ。3番目のアンコール、ピアノ伴奏の〈Belong to you〉の最後の声が消えて茫然となった。
観光客でごった返す渋谷の街の雑沓を抜け、小田急の電車に揺られてしばらくしてから、あらためてポール・ブレディを聴こうという意欲が湧いてきた。数多いカヴァーまでも含めて、聴いてやろうじゃないか。敬称略。
追伸
ポール・ブレディを初め、ルナサ、ヴェーセン、メアリ・ブラックなど、たくさんのミュージシャンたちを招聘し、かれらの生演奏にひたらせてくれた野崎洋子さん@ミュージック・プラントはこのポール・ブレディ公演をもって引退されたと聞く。その恩恵をたっぷりと受けた身として、心からの感謝を捧げる。長い間、ま・こ・と・に・ありがとうございました。(ゆ)


