クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:アイルランド移民

9月14日・火

 グラント回想録11章は米墨戦争のクライマックス、メキシコ・シティへの攻撃を描き、その中で Churubusco の戦いにも触れる。この戦いはメキシコ・シティへの攻撃中最も激しい戦闘になり、アメリカ軍は一時前進を阻止される。ここでアメリカ軍に対抗したのは、移民出身の兵への軍隊内の差別に憤激して脱走し、メキシコ軍に加わった元アメリカ兵だった。中心になったのがアイルランドからの移民だったためメキシコ側で El Batallon de los San Patricios、アメリカから St. Patrick's Battalion と呼ばれた。この一件を音楽にしたのがチーフテンズ最後の傑作《San Patricio》。
 

San Patricio (W/Dvd) (Dlx) (Dig) (Ocrd)
Cooder, Ry
Hear Music
2010-03-09


The Annotated Memoirs of Ulysses S. Grant
Grant, Ulysses S.
Liveright Pub Corp
2018-11-27


 

 このチュルブスコの戦いの描写への注で、サメトはグラントの叙述が同時代の他のものと異なり、戦闘の準備と結果とその影響のみ記すと指摘し、これが ellipsis of battle と呼ばれる漢詩の技法で、戦闘中の英雄的行為の描写は詩に描く価値はないとして省略するものに似ているという。その詩の実例として屈原の "Battle" をアーサー・ウェイリーの訳で挙げている。この英訳はウェイリーが翻訳編集したアンソロジーからの引用。その原詩を求めて『楚辞』を借りたわけだが、調べたところ集中「九歌第二」の第十、国殤篇と判明。小南一郎による訳注の167pp.
 「国殤は、戦いの中で国のために死んだ兵士の霊。この場合は、戦闘馬車に乗った指揮官の霊。殤は天寿を全うせぬまま、非業に死んだ者の魂。あるいは祀る者のいない死者の霊。この篇は、そうした国殤の生前の勇敢な戦いぶりを歌って、その魂を慰めようとする鎮魂歌謡」

と注にある。

楚辞 (岩波文庫)
岩波書店
2021-06-16

 

 この邦訳によればウェイリーの英訳のうち、2ヶ所は疑義がある。それに "Battle" という訳題はいささかずれると言えるだろう。

 原詩の意図としては鎮魂にあって、戦闘描写の省略という手法があるとしても、ここではむしろ結果だろう。一方で、グラントがこの回想録を書いたのも、金を稼ぐことが第一の目的としても、それとともに鎮魂の意図もおそらくあったと推測できることが、図らずも明らかになる。

 グラントは南北戦争を連邦軍(北軍)の勝利に導いた名将ではあるが、戦争の本質的な残酷さをとにかく嫌いぬいていた。勝つためには残酷な結果を招くとわかっている命令を出すのをためらわなかったし、シャーマンの焦土作戦を支持してはいたものの、戦争は無いのがベストと考えてもいた。南北戦争に従軍した他の将軍たちが戦後次々に回想録を出すのを見ながら、かたくなに回想録執筆を拒んでいたのも、嫌いなことをやったのを回想などしたくなかったとも見える。それが、自らの死とそれによる家族の困窮に直面して執筆を決意したとき、死んだ人びとがどう戦ったかではなく、なぜ戦い、どういう結果を生んだかを記すことが何よりの供養と考えたとしても不思議はない。

 そして考えてみれば、戦争で殺された人びとを供養・鎮魂するのに、他の方法があるとも思えない。



##本日のグレイトフル・デッド

 9月14日は1974年から1993年まで7本のショウ。公式リリースは無し。


1. 1974 Olympiahalle, Munich, West Germany)

 2度目のヨーロッパ・ツアー(3度目のヨーロッパ遠征)はロンドン、ミュンヘン、パリの3ヶ所で、ミュンヘンはこの1日のみ。アンコール3度という出血大サービス。


2. 1978 Sphinx Theatre, Giza, Egypt

 デッドの海外遠征でおそらく最も有名なエジプト、ピラミッド脇での3日間の初日。当時デッドのマネージャーをしていた Richard Loren がバンドの休止中に観光で行ったピラミッドを見て、ここでデッドの演奏を見たいと思いついて始まった前代未聞、空前絶後の企画。この企画のため、デッドはそのキャリアで2度めの記者会見も行う。チーフテンズは西側のポピュラー音楽のバンドとしておそらく初めて中国に行ったが、ピラミッドには行かなかった。商売を考えたら、中国に行く方がよほど筋が通る。しかし、商売の常道には背を向けるのがデッドの常。エジプト政府公認ではあった(この初日には当時の大統領サダトの夫人が最前列で見ていた)が、財政援助されたとしても、元はとれなかったはずだし、その後の商売に貢献した形跡もない。ライヴ・アルバムを出す予定もあったが、帰国後、テープを聴いたガルシアは使えないと判断した。30年後の2008年になって《Rocking The Cradle》として出る。ただし、これには、ボーナス・ディスクを含めても、この初日の音源は1曲も採用されていない。この日はアンコール無し。

 まさにこのデッドのエジプト遠征中、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が、カーター米大統領の仲介でキャンプ・デーヴィッド山荘で会談し、歴史的合意に至っているのは、デッドにつきもののシンクロニシティの一つではある。

 エジプト遠征直前、デッドはロゥエル・ジョージをプロデューサーに迎えて《Shakedown Street》となるアルバムの根幹を録音している。


3. 1982 University Hall, University of Virginia, Charlottesville, VA

 大学でのショウでこの時期としては珍しくポスターが残っている。料金12.50ドル。


4. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 当時記録を作った最初の9本連続 MSG の初日。キングコングをフィーチュアしたポスターが面白い。料金20ドル。


5. 1990 Madison Square Garden, New York , NY

 この時は6本連続の初日。


6. 1991 Madison Square Garden, New York, NY

 2度目の MSG 9本連続の6本め。こういう時は3日やって1日休む。ブルース・ホーンスビィ参加。


7. 1993 The Spectrum, Philadelphia, PA

 3日連続の最終日。(ゆ)


 ふいー、今月の情報号を今日の正午に配信しました。未着の方はご一報を。

 情報が多すぎて、編集にも時間がかかり、「まぐまぐ!」で「本文が長すぎます」と蹴られては削っては繰り返し試すことが毎回。もう少し整理しなくてはいけないんでしょうが、一度載せるとなかなか削れません。

 とはいえ、載せたくて載せられない情報も結構出るようになってきたので、記述の形を変えることは考えねばならないでしょう。現在は日付と場所に、ものによってプラス・アルファの情報を加えていますが、ミュージシャンのウェブ・サイトへのリンクと、変更や追加があった旨を添える形にすることを検討中。

 情報だけだと、編集していても味気なくて、もう少し、なんつうか、おしゃべりの部分も増やしたい。

 その一方で、今の時代にメルマガというメディアがどこまで役に立つのか、あるいは存在意義があるのか、疑問も無きにしもあらず。まあ、10年まではつづけるつもりですが、その後はどうかなあ。

 とはいえ、ありがたいことに、千人からの受信者がいるメディアを、ある日ばっさりというのもどうかとは思うので、代わりになるものがあるのか、探してはいます。

 もっとも、性格からして、おつきあいいただける方々がいるかぎり、だらだらとつづけるかもしれません。


 話は変わりますが、アメリカ大統領選の民主党候補はどちらもアイルランドの血を引いているそうですが、特に副大統領候補のバイデン氏のご先祖は〈大飢饉〉を逃れてメイヨーからわたった一家だそうな。ひいおばあさんは、近所でただ一人アイルランド語が読み書きできたので、手紙の代読代筆を一手に引きうけていた由。

 ご本人が育ったのは全米でも最もアイリッシュの比率が高い都市のひとつペンシルヴェニア州スクラントンで、そこのアイリッシュ社会はカトリック教会を中心にした厳しい雰囲気のものだったようです。親族にも聖職者がぞろぞろいた。同じアイリッシュ系移民の社会でも、のちに移ったデラウェアのものはまたまったく違ったものでした。

 バイデン氏のヒーローは1798年反乱の中心人物ウルフ・トーンだそうで、自分はカトリックのアイルランド人だと思っているとのこと。

 1985年に雑誌 Irihs America に載ったインタヴューが Irish Voice のウェブ・サイトに再録されてます。

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