クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:アイルランド

 チーフテンズのフィドラー、ショーン・キーンが亡くなった。享年76。7日日曜日の朝、突然のことだったそうな。心臓が悪いとのことだったから、何らかの発作が起きたのか。

 これでチーフテンズで残るはケヴィン・コネフとマット・モロイの二人になった。

 ショーンのフィドルはバンドの華だった。チーフテンズの歴代メンバーは全員が一騎当千のヴィルチュオーソだったけれど、ショーン・キーンのフィドルとマット・モロイのフルートはその中でも抜きんでた存在だった。そして、この二人は技量の点でも音楽家としてのスケールの大きさの点でも伯仲していた。ただ、マットにはどこか「求道者」の面影がある一方で、ショーンは明るいのだ。

 美男子というのとは少し違うが、背筋をすっくと伸ばしてフィドルを弾く姿は、バンド随一の長身がさらに伸びたようで、誰かがギリシャ神話の神のどれかが地上に降りたったようと言っていたのは当を得ている。後光がさしていると言ってもいい。表面いたって生真面目だが、その芯にはユーモアのセンスが潜んでもいる。

 そして、そのフィドルの華麗さ。圧倒的なテクニックを存分に披露しながら、それがまったく鼻につかず、テクだけで魂のない演奏に決してならない。アイリッシュ・ミュージックは実はジャズ同様、「テクニックのくびき」がきついものだが、また一方でテクニックだけいくら秀でても、たとえばセッションの「道場破り」をやるような人間は評価されない。

 ショーンのフィドルは華麗なテクニックにあふれながら、同時にその伝統を今に担い、バンドの仲間たちと、リスナーとこれをわかちあえる歓びに満ちて、輝いている。マットがテクだけだとか、輝いていないというわけではもちろんなく、これはもう性格の違いだ。チーフテンズの顔といえばパディ・モローニだが、チーフテンズの音楽の上での顔はショーン・キーンのフィドルなのだ。モローニだって、その気になれば有数のパイパーだが、音楽の上でそれを前面に押し出すことはしなかった。

 ショーン・キーンのフィドルがチーフテンズの音楽の顔であることの一つの象徴は《In China》のラスト・トラック〈China to Hong Kong〉冒頭のフィドルだけの演奏だ。中国のどこかの伝統曲とおぼしき曲をアイリッシュ・ミュージックのスタイルで弾いて、しかも一個の曲として聴かせてしまうトゥル・ド・フォースだ。異なる伝統同士の異種交配のひとつの理想、ひとつの究極だ。

 ショーン・キーンにはチーフテンズ以外にもソロや、マット・モロイとの共演の録音がある。そこではチーフテンズとは別の、伝統のコアにより近い演奏が聴ける。ショーン個人としては、むしろこちらの方が本来やりたかったこととも思える。こうしたソロ・アルバムを作ることで、チーフテンズとのバランスをとっていたのかもしれない。

 76歳という享年は今の時代若いと思えるが、チーフテンズの一員としての活動やソロ・アルバムによって与えてくれた恩恵ははかりしれない。心からの感謝を捧げるばかりだ。(ゆ)

 Peatix からの知らせで、マイケル・ルーニィ、ジューン・マコーマックとミュージック・ジェネレーション・リーシュ・ハープアンサンブルの公演の知らせ。パンデミック前に松岡莉子さんが手掛けていた企画が、二度の延期を経て、ようやく実現したものの由。ルーニィとマコーマックの夫妻だけでも必見だが、九人編成のハープ・アンサンブルが一緒なのはますます逃せない。即座にチケットを購入。






 とにかく寒かった。吹きつける風に、剥出しの頭と顔から体温がどんどん奪われてゆく。このままでは調子が悪くなるぞ、という予感すらしてくる。もう今日は帰ろうかと一瞬、思ったりもした。

 この日はたまたま歯の定期検診の日で、朝から出かけたが、着るものの選択をミスって、下半身がすうすうする。都内をあちこち歩きまわりながら、時折り、トイレに駆けこむ。仕上げに、足休めに入った喫茶店がCOVID-19対策でか入口の引き戸を少し開けていて、そこから吹きこむ風がモロにあたる席に座ってしまった。休むつもりが、体調が悪くなる方に向かってしまう。

 それでもライヴの会場に半分モーローとしながら向かったのは、やはりこのバンドの生はぜひとも見たかったからだ。関西ベースだから、こちらで生を見られるチャンスは逃せない。

 デビューとなるライヴ・アルバムを聴いたときから、とにかく、生で見、聴きたかった。なぜなら、このバンドは歌のバンドだからだ。アイリッシュやケルト系のバンドはどうしてもインスト中心になる。ジョンジョンフェスティバルやトリコロールは積極的に歌をレパートリィにとりいれている。トリコロールは《歌う日々》というアルバムまで作り、ライヴもしてくれたけれど、やはり軸足はインストルメンタルに置いている。歌をメインに据えて、どんな形であれ、人間の声を演奏の中心にしているバンドは他にはまだ無い。

 キモはその音楽がバンド、複数の声からなるところだ。奈加靖子さんはソロだし、アウラはア・カペラに絞っている。バンドというフォーマットはまた別の話になる。ソロ歌唱、複数の声による歌と器楽曲のいずれにも達者で自由に往来できる。

 あたしの場合、音楽の基本は歌なのである。歌が、人間の声が聞えて初めて耳がそちらに向きだす。アイリッシュ・ミュージックでも同じで、まず耳を惹かれたのはドロレス・ケーンやメアリ・ブラックやマレード・ニ・ウィニーの声だった。マレードとフランキィ・ケネディの《北の音楽》はアイリッシュ・ミュージックの深みに導いてくれた1枚だが、あそこにマレードの無伴奏歌唱がなかったら、あれほどの衝撃は感じなかっただろう。

Ceol Aduaidh
Frankie Kennedy
Traditions (Generic)
2011-09-20

 

 歌は必ずしも意味の通る歌詞を歌うものでなくてもいい。ハイランド・パイプの古典音楽ピブロックの練習法の一つとしてカンタラックがある。ピブロックは比較的シンプルなメロディをくり返しながら装飾音を入れてゆく形で、そのメロディと装飾音を師匠が声で演奏するのをそっくりマネすることで、楽器を使わずにまず曲をカラダに叩きこむ。パイプの名手はたいてがカンタラックも上手い。そしてその演奏にはパイプによるものとは別の味がある。

 みわトシ鉄心はまだカンタラックまでは手を出してはいないが、それ以外のアイルランドやブリテン島の音楽伝統にある声による演奏はほぼカヴァーしている。これは凄いことだ。こういうことができるのが伝統の外からアプローチしている強味なのだ。伝統の中にいる人たちには、シャン・ノースとシー・シャンティを一緒に歌うことは、できるできないの前に考えられない。

 中心になるのはやはりほりおみわさんである。この人の生を聴くのは初めてで、今回期待の中の期待だったが、その期待は簡単に超えられてしまった。

 みわさんの名前を意識したのはハープとピアノの上原奈未さんたちのグループ、シャナヒーが2013年に出したアルバム《LJUS》である。北欧の伝統歌、伝統曲を集めたこのアルバムの中で一際光っていたのが、河原のりこ氏がヴォーカルの〈かっこうとインガ・リタ〉とみわさんが歌う〈花嫁ロジー〉だ。この2曲は伝統歌を日本語化した上で歌われるが、その日本語の見事さとそれを今ここの歌として歌う歌唱の見事なことに、あたしは聴くたびに背筋に戦慄が走る。これに大喜びすると同時にいったいこの人たちは何者なのだ、という思いも湧いた。

Ljus
シャナヒー (Shanachie)
Smykke Boks
2013-04-10



 みわさんの声はそれから《Celtsittolke》のシリーズをはじめ、あちこちの録音で聴くチャンスがあり、その度に惚れなおしていた。だから、このバンドにその名前を見たときには小躍りして喜んだ。ついに、その声を存分に聴くことができる。実際、堂々たるリード・シンガーとして、ライヴ・アルバムでも十分にフィーチュアされている。しかし、そうなると余計に生で聴きたくなる。音楽は生が基本であるが、とりわけ人間の声は生で聴くと録音を聴くのとはまったく違う体験になる。

 歌い手が声を出そうとして吸いこむ息の音や細かいアーティキュレーションは録音の方がよくわかることもある。しかし、生の歌の体験はいささか次元が異なる。そこに人がいて歌っているのを目の当たりにすること、その存在を実感すること、声を歌を直接浴びること、その体験の効果は世界が変わると言ってもいい。ほんのわずかだが、確実に変わるのだ。

 今回あらためて思い知らされたのはシンガーとしてのみわさんの器の大きさだ。前半4曲目のシャン・ノースにまずノックアウトされる。こういう歌唱を今ここで聴けるとはまったく意表をつかれた。無伴奏でうたいだし、パイプのドローンが入り、パイプ・ソロのスロー・エア、そしてまた歌というアレンジもいい。かと思えば、シャンティ〈Leave Her Johnny〉での雄壮なリード・ヴォーカル。女性シンガーのリードによるシャンティは、女性がリードをとるモリス・ダンシングと同じく、従来伝統には無かった今世紀ならではの形。これまた今ここの歌である。ここでのみわさんの声と歌唱は第一級のバラッド歌いのものであるとあらためて思う。たとえば〈Grey Cock〉のような歌を聴いてみたい。ドロレス・ケーン&ジョン・フォークナーの《Broken Hearted I'll Wander》に〈Mouse Music〉として収められていて、伝統歌の異界に引きずりこまれた曲では、みわさんの声がドロレスそっくりに響く。前半ラストの〈Bucks of Oranmore〉のメロディに日本語の歌詞をのせた曲でのマジメにコミカルな歌におもわず顔がにやけてしまう。

 この歌では鉄心さんの前口上で始まり、トシさんが受ける。これがまたぴったり。何にぴったりかというと、とぼけぶりがハマっている。鉄心さんの飄々としたボケぶりとたたずまいは、いかにもアイルランドの田舎にいそうな感覚をかもしだす。村の外では誰もしらないけれど、村の中では知らぬもののいないパイプとホィッスルの名手という感覚だ。どんな音痴でも、音楽やダンスなんぞ縁はないと苦虫を噛みつぶした顔以外見せたことのない因業おやじでも、その笛を聴くと我知らず笑ったり踊ったりしてしまう、そういう名手だ。

 鉄心さんを知ったのは、もうかれこれ20年以上の昔、アンディ・アーヴァインとドーナル・ラニィが初めて来日し、その頃ドーナルと結婚していたヒデ坊こと伊丹英子さんの案内で1日一緒に京都散策した時、たしか竜安寺の後にその近くだった鉄心さんの家に皆で押しかけたときだった。その時はもっぱらホィッスルで、パイプはされていなかったと記憶する。もっとも人見知りするあたしは鉄心さんとはロクに言葉もかわせず、それきりしばし縁はなかった。名前と演奏に触れるのは、やはりケルトシットルケのオムニバスだ。鞴座というバンドは、どこかのほほんとした、でも締まるところはきっちり締まった、ちょっと不思議な面白さがあった。パンデミック前にライヴを見ることができて、ああ、なるほどと納得がいったものだ。

The First Quarter Moon
鞴座 Fuigodza
KETTLE RECORD
2019-02-17



 この日使っていたパイプは中津井真氏の作になるもので、パンデミックのおかげで宙に浮いていたものを幸運にも手に入れたのだそうだ。面白いのはリードの素材。本来の素材であるケーンでは温度・湿度の変化が大きいわが国の風土ではたいへんに扱いが難しい。とりわけ、冬の太平洋岸の乾燥にあうと演奏できなくなってしまうことも多い。そこで中津井氏はリードをスプルースで作る試みを始めたのだそうだ。おかげで格段に演奏がしやすくなったという。音はケーンに比べると軽くなる。ケーンよりも振動しやすいらしく、わずかの力で簡単に音が出て、その分、音も軽くなる由。

 これもずいぶん前、リアム・オ・フリンが来日して、インタヴューさせてもらった時、パイプを改良できるとしたらどこを改良したいかと訊ねたら、リードだと即答された。アイルランドでもリードの扱いには苦労していて、もっと楽にならないかと思い、プラスティックのリードも試してはみたものの使い物にはならない、と嘆いていた。もし中津井式スプルース・リードがうまくゆくとすれば、パイプの歴史に残る改良になるかもしれない。少なくとも、温度・湿度の変化の大きなところでパイプを演奏しようという人たちには朗報だろう。鉄心さんによれば、中国や韓国にはまだパイパーはいないようだが、インドネシアにはいるそうだ。

 鉄心さんのパイプ演奏はレギュレーターも駆使するが、派手にするために使うのではなく、ここぞというところにキメる使い方にみえる。時にはチャンターは左手だけで、右手でレギュレーターのレバーをピアノのキーのように押したりもする。スプルースのリードということもあるのか、音が明るい。すると曲も明るくなる。

 パイプも立派なものだが、ホィッスルを手にするとまた別人になる。笛が手の延長になる。ホィッスルの音は本来軽いものだが、鉄心さんのホィッスルの音にはそれとはまた違う軽みが聞える。音がにこにこしている。メアリー・ポピンズの笑いガスではないが、にこにこしてともすれば浮きあがろうとする。

 トシさんが歌うのを初めて生で聴いたのは、あれは何年前だったか、ニューオーリンズ音楽をやるバンドとジョンジョンフェスティバルの阿佐ヶ谷での対バン・ライヴの時だった。以来幾星霜、このみわトシ鉄心のライヴ・アルバムでも感心したが、歌の練度はまた一段と上がっている。後半リードをとった〈あなたのもとへ〉では、みわさんの一級の歌唱に比べても、それほど聴き劣りがしない。後半にはホーミーまで聴かせる。カルマンの岡林立哉さんから習ったのかな。これからもっと良くなるだろう。

 そもそもこのバンド自体が歌いたいというトシさんの欲求が原動力だ。それも単に歌を歌うというよりは、声による伝統音楽演奏のあらゆる形態をやりたいという、より大きな欲求である。リルティングやマウス・ミュージックだけでなく、スコットランドはヘブリディーズ諸島に伝わっていた waulking song、特産のツイードの布地を仕上げる際、布をテーブルなどに叩きつける作業のための歌は圧巻だった。これが元々どういう作業で、どのように歌われていたかはネット上に動画がたくさん上がっている。スコットランド移民の多いカナダのケープ・ブレトンにも milling frolics と呼ばれて伝わる。

 今回は中村大史さんがゲスト兼PA担当。サポート・ミュージシャンとしてバンドから頼んだのは、「自由にやってくれ」。その時々に、ブズーキかピアノ・アコーディオンか、ベストと思う楽器と形で参加する。こういう時の中村さんのセンスの良さは折紙つきで、でしゃばらずにメインの音楽を浮上させる。それでも、前半半ば、トシさんとのデュオでダンス・チューンを演奏したブズーキはすばらしかった。まず音がいい。きりっとして、なおかつふくらみがあり、サステインもよく伸びる。楽器が変わったかと思ったほど。その音にのる演奏の闊達、新鮮なことに心が洗われる。このデュオの形はもっと聴きたい。ジョンジョンフェスティバルでオーストラリアを回った時、たまたまじょんが不在の時、2人だけであるステージに出ることになったことを思い出してのことの由。この時の紹介は "Here is John John Orchestra!"。

 みわトシ鉄心の音楽はあたしにとっては望むかぎり理想に最も近い形だ。ライヴ・アルバムからは一枚も二枚も剥けていたのは当然ではあるが、これからどうなってゆくかも大変愉しみだ。もっともっといろいろな形の歌をうたってほしい。日本語の歌ももっと聴きたい。という期待はおそらくあっさりと超えられることだろう。

 それにしても、各々にキャリアもあるミュージシャンたち、それも世代の違うミュージシャンたちが、新たな形の音楽に乗り出すのを見るのは嬉しい。老けこむなと背中をどやされるようでもある。

 是政は西武・多摩線終点で、大昔にこのあたりのことを書いた随筆を読んだ記憶がそこはかとなくある。その頃はまさに東京のはずれで人家もなく、薄の原が拡がっていると書かれていたのではなかったか。今は府中市の一角で立派な都会、ではあるが、どこにもつながらず、これからもつながらない終着駅にはこの世の果ての寂寥感がまつわる。

 会場はそこからほど近い一角で、着いたときは真暗だから、この世の果ての原っぱのど真ん中にふいに浮きあがるように見えた。料理も酒もまことに結構で、もう少し近ければなあと思ったことでありました。

 帰りは是政橋で多摩川を渡り、南武線の南多摩まで歩いたのだが、昼間ほど寒いとは感じず、むしろ春の匂いが漂っていたようでもある。風が絶えていた。そしてなにより、ライヴで心身が温まったおかげだろう。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

みわトシ鉄心
ほりおみわ: vocals, guitar
トシバウロン: bodhran, percussion, vocals
金子鉄心: uillean pipes, whistle, low whistle, vocals

中村大史: bouzouki, piano accordion
 

 ようやく掲題の原稿を脱稿して、版元に渡したところです。

 Jonathan Bardon の A History Of Ireland In 250 Episodes, 2008 の全訳です。版元はアルテスパブリッシング。今年のセント・パトリック・ディ刊行はちょと難しいかなあ。




 バードンはノーザン・アイルランド出身の歴史家で、これは250本の短かい話をならべて、アイルランドに人間がやってきた紀元前7000年ないし6500年頃から1965年1月、当時の共和国首相(= ティーシャック)ショーン・レマスとノーザン・アイルランド首相テレンス・オニールの会合までを語った本です。

 歴史になるにはどれくらい時間的な距離が離れればいいのか。歴史家は通常50年、半世紀という数字を出します。直接の関係者が大部分死んでいるからでしょう。とすれば1960年代までは歴史として扱えることになり、本文を1965年でしめくくるのは適切ではあります。

 もともとは同題のラジオ番組があり、2006年から2007年にかけて、BBCアルスタのラジオで毎週月曜から金曜まで1回5分で放送されました。バードンはその放送台本を担当し、その台本をベースにして書物として仕上げています。ただし放送は240回、第二次世界大戦開戦を告げる英国首相ネヴィル・チェンバレンの国民向けラジオ放送で終りでした。バードンはその後に10本書き足して1965年までを描き、さらにエピローグで21世紀初頭までカヴァーしています。

 本書にはオーディオ・ブックもありますが、放送されたものをそのまま使っているので、そちらは240話までで終っています。単なる朗読ではないので、聞いて面白いですが、その点はご注意を。 

 1回5分ですから、各エピソードは短かく、さらっと読めます。放送を途中から聞いたり、時々聞いたりしても話がわかるように一話完結になってもいます。本の方もぱらりと開いたページから読めますし、頭から通読すればアイルランドの歴史を一通り読むことができます。

 一方、内容はかなり濃くて、ここで初めて公けになった史実もありますし、おなじみの事件に新たな角度から光があてられてもいます。14世紀にダーグ湖に巡礼に来たスペインはカナルーニャの騎士や17世紀末にコネマラまで入ったロンドンの書籍商の話などは、たぶん他では読めません。エピソードとはいえ、噂や伝説の類ではなく、書かれていることにはどんなに些細なことでもきちんとした裏付けがあります。歴史書として頼りになるものです。イースター蜂起のようなモノグラフが公刊されているものは別として、ほぼあらゆる点で、アイルランドの歴史についての日本語で読める文献としてはこれまでで最も詳しいものになります。

 短いエピソードを重ねる形は歴史書としてなかなか面白い効果を生んでもいます。通史としても読める一方で、一本のつながった筋のある物語というよりは、様々な要素が複雑にからみあって織りなされている様子が捉えやすくなることです。物語にのめり込むのではなく、一歩退いたところで冷静に見る余裕ができます。

 歴史は無数のできごと、要素が複雑多岐にからみあっているので、すっきり一本の物語にまとめようとするのは不可能、無理にそうしようとすると歪んでしまいます。最大の弊害は物語に落としこめない要素が排除されてしまうことです。そして歴史にとって本当に重要なことが、本筋とされる流れとは無関係に見える要素の方にあることは少なくありません。あるいは、一見傍流の、重要でもないと見えた要素が後になってみると、本筋だったこともよくあります。

 さらに加えて、ベースとする史料そのものからして、初めからバイアスがかかっているのが普通です。またどんなに避けようとしても、書いている本人の歴史をこう見たいという願望が忍びこみやすい。どんな人でも、人間である以上、そうした感情は生まれて当然なので、自分はそんなことはないと思っている人ほどその罠にはまるものです。通史を書くのは難しく、書く人間の力量が試されますし、本当に良い通史がめったにないのもわかります。

 この本では話は連続はしていますが、一本の筋にはなっていません。話が切りかわると、視点が変わりもします。歴史を織りなす何本もの筋があらわれてきます。著者もこの手法のメリットに味をしめたのでしょう、同様の手法でアイルランドとスコットランドの関係史も書いています。

 あたしは本が2008年に出たときに買って読んでみました。アイルランドの一冊本の通史は何冊も出てますが、どれがいいのかよくわからず、手を出しかねていたので、これはひょっとすると面白いかもと思いました。届いてまずその厚さにびっくりしましたが、読みだしてみると実に面白い。一話ずつは短かいので、ショートショートでも読む感覚。どんどんと読めてしまいます。史料の引用のやり方も巧い。ほとんど巻擱くあたわず、というくらいのめり込みました。

 ちょうどその頃はヒマでもあったので、自分の勉強のためにもと日本語に訳すことも始めてみました。可能な時には翻訳にまさる精読はありません。最初の訳稿がほぼできあがった頃、大腸がんが発覚して九死に一生を得る、同時に東日本大震災が重なるということがありました。恢復の日々の中で再度訳稿を読みなおして改訂するのが支えの1本にもなってくれました。

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 その後、訳したところで満足し、他の仕事も入ったりして、しばし原稿は眠らせていました。何かの雑談のおりだったか、もう記憶からはすっぽり落ちていますが、とにかくアルテスパブリッシングのSさんにこんなのがあるんだけどというような話をしたのでしょう。Sさんが乗ってきて、それはウチで出そうという話になったのがもう数年前。それならもう一度、きちんと出すつもりで見直さねばいけない、ということで、他の仕事の合間を縫って、ぼちぼちとやっていたわけです。その間、思いもかけず山川出版社から『アイルランド史』という日本語で読める信頼できる通史も出たので、固有名詞を中心に日本語の表記をこれに倣うようにする作業も入りました。昨年春も過ぎる頃になってようやくまとまった時間がとれるようになり、あらためて馬力をかけて改訂を進めて、ようやくまずはこれ以上よくできないというところまで来ました。
 アイルランドの歴史は海外との関係の歴史です。ことが島の中だけですむなんてことはまずありません。偽史である Lebor Gabala Erenn = アイルランド来寇の書が「史実」と長い間信じられていたのも、この島には繰返し波となって様々な人間たちがやってきたと語る内容が、アイルランドの人びとの皮膚感覚にマッチしたからでしょう。

 対照的に我々日本列島の住民は、列島の中だけで話がすむと思いたがる傾向があります。実は昔から列島の外との関係で中の事情も決まってきているわけですが、そうは思いたくない。アイルランドの歴史とならべてみると、よくわかります。もっともこの列島がもっと南に、たとえば今の沖縄本島の位置に本州がある形だったら、アイルランドのように大陸との関係が遙かに密接になっていたでしょう。今の位置は北に寄っていて、大陸との北の接点の先は文明の中心からはずっと離れ、人口も希薄でした。これが幸か不幸かは時代によって、見方によって変わってきます。

 アイルランドに戻れば、表面的にはその歴史はお隣りとの紛争の連続のようにも映りますが、必ずしも一方的な関係でもありません。また小さな島なのに、その中が一枚岩になったこともないのも興味深い。「うって一丸になろう」なんてことは思いつきもしない人たちなんですね、この島の住人は。常に何らかの形で異質な要素が複数併存していて、それがダイナミズムを生んでいます。つまり、この島では常にものごとや考えが流動していて、よどんで腐ることがありません。

 17世紀以降、アイルランドからは様々の形で大勢の人間が出てゆき、行った先で増えて、アイルランドの文化を伝えることになりました。出ていった人たちは望んで出たわけではありませんし、その苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったことは明らかですけれど、時間が経ってみると、ディアスポラは必ずしもマイナスの面ばかりでないこともまた明瞭です。むしろ、ディアスポラ無くして、現在のアイルランドの繁栄は無いとも言えそうです。その点ではユダヤ人が生きのびたのはディアスポラのおかげであることと軌を一にします。ひょっとすると、マイノリティが生きのびるにはディアスポラが不可欠なのかもしれません。少なくとも現在のアイリッシュ・ミュージックの繁栄はディアスポラのプラス面が現れた例の一つでもあります。

 アイルランドという面白い国、地域の歴史を愉しく通覧もできるし、ディテールに突込む入口にもなる本だと、あたしは思います。乞うご期待。(ゆ)

 シェイマス・ベグリーが73歳で亡くなったそうです。死因は公表されていません。

 ケリィのゲールタハトの有名な音楽一族出身の卓越したアコーディオン奏者で、まことに渋いシンガーでした。息子のブレンダンも父親に負けないアコーディオン奏者でシンガーとして活躍しています。妹の Seosaimhin も優れたシンガーです。

 あたしがこの人のことを知ったのは前世紀の末 Bringing It All Back Home のビデオで Steve Cooney とのデュオのライヴを見たときでした。どこかのパブの一角で、2人だけのアップ。静かに、おだやかに始まった演奏は、徐々に熱とスピードを加えてゆくのはまず予想されたところでありますが、それがいっかな止まりません。およそ人間業とも思えないレベルにまで達してもまだ止まらない。身も心も鷲摑みにされて、どこかこの世ならぬところに持ってゆかれました。

 この2人の組合せに匹敵するものはアイルランドでもそう滅多にあるものではない、ということはだんだんにわかってきました。今は YouTube に動画もたくさんアップされています。シェイマスはその後 Jim Murray、Tim Edey とも組んでいて、それらもすばらしいですが、クーニィとのデュオはやはり特別です。

 本業は農家で、会いにいったら、トラクターに乗っていた、という話を読んだこともあります。プロにはならなかった割には録音も多く、良い意味でのアマチュアリズムを貫いた人でもありました。(ゆ)

 ラティーナ電子版の "Best Album 2022" に寄稿しました。1週間ほど、フリーで見られます。その後は有料になるそうです。

 今年後半はグレイトフル・デッドしか聴かなかったので、ベスト・アルバムなんて選べるかなと危惧しましたが、拾いだしてみれば、やはりぞろぞろ出てきて、削るのに苦労しました。

 ストリーミング時代で「アルバム」という概念、枠組みは意味を失いつつある、と見えますけれども、いろいろな意味で便利なんでしょう、なかなかしぶといです。先日、JOM に出たアイリッシュ・ミュージックに起きて欲しい夢ベスト10の中にも、専門レーベル立上げが入ってました。

 もっとも、あたしなんぞも、CD とか買うけれど、聴くのはストリーミングでというのが多くなりました。Bandcamp で買う音源もストリーミングで聴いたりします。

 とまれ、今年もすばらしい音楽がたくさん聴けました。来年も音楽はたくさん生まれるはずで、こちらがいかに追いかけられるか、です。それも、肉体的に、つまり耳をいかに保たせるかが鍵になります。年をとるとはそういうことです。皆さまもくれぐれも耳はお大事に。(ゆ)

 さいとうさんのフィドル・ソロや、やはりさいとうさんの Jam Jumble のライヴは見ているが、ココペリーナとしてのライヴは初めて。アルバムとしては2枚目、フル・アルバムとしては初の《Tune The Steps》には惚れこんでいたから、ライヴはぜひ見たかった。パンデミックもあって、4年待つことになった。この年になると4年待てたことにまず歓んでしまう。

 生で聴くとまず音の芯が太い。さいとうさんのフィドルの音の芯がまず太いのだが、フルートとギターも芯がしっかりしている。

 面白いのはフルートと対照的にバンジョーがむしろ繊細だ。普通はもっと自己主張する楽器だが、ここでは片足を後ろに退いている。その響きとフィドルの音の混ざり具合が新鮮。

 線の太さと繊細さの対照はギターでも聞える。曲のイントロやつなぎのパート、フィドルまたはフルートのどちらかだけとのデュオの形では、かなり緻密な演奏なのが、トリオになってビートを支えると太くなる。

 もっとも、ギターという楽器はどちらも可能で、アニーにしても長尾さんにしても、やはり繊細さと線の太さが同居している。のだが、それに気付いたのがこのトリオを生で見たとき、というのも面白い。アイルランドやアメリカなどのギタリストにはあまりいないようにも思える。ミホール・オ・ドーナルはそうかな。

 録音ではイントロやつなぎを中心に、かなり大胆でモダンなアレンジをしている部分と、ギターにドライヴされるユニゾンで迫る部分の対比がこのバンドの肝に見えた。それは生でも確認できたのだが、曲のつなぎは2曲目の b から c へのようにさらに面白くなっている。

 生で気がついたのはメインの部分でもさいとうさんか岩浅氏のどちらかがメロディを演奏し、もう片方がそこからは外れて即興をしている。ドローンもよく使う。これをごく自然に、まるでそもそもこういう曲ですよ、と素知らぬ顔でやる。つまり対比させるというよりも、同じ地平でやっている。

 見方によってどちらにもとれる。ユニゾン主体の、実にオーセンティックな演奏にも聞えるし、少々無茶な実験もどんどんしてゆく前衛的演奏にも聞える。両極端が同居している。

 選曲にもそれは現れて、耳タコの定番曲と聴いた覚えのない新鮮な曲が入り乱れる。

 ひと言でいえば、よく遊んでいる。こんなに遊ぶアンサンブルを他に探せば、そう Flook! が近いか。ココペリーナの方が伝統曲を核にしているし、あえて言えばココペリーナの方が洗練されている。どこか上方の文化の匂いが漂う。

 歌が2曲。前半の〈青い月〉と後半の〈Hard Times Come Again No More〉。どちらも良いが、後者では他のお二人もコーラスを合わせたのがハイライト。チューンでのハイライトは後半冒頭〈Cup of Tea〉から〈Earl's Chair〉のメドレーに聴きほれる。

 今回は石崎元弥氏がバゥロンとパーカッションでサポート。これが実に良い。これまた、もともとカルテットだと言われてもまるで不思議がないほどアンサンブルに溶けこんでいた。後半冒頭、トリオでやったのもすっきりとさわやかだったが、石崎氏が入ると、演奏のダイナミズムのレベルが一段上がる。

 さいとうさんのフィドルのどっしりとした存在感に磨きがかかったようでもある。フィドルでもフルートでも、こういう肝っ玉母さん的なキャラはあたしの好みなのだ。ソロは別格だし、Jam Jumble も楽しいが、やはりココペリーナをもっと聴きたくなる。

 満席のお客さんにはミュージシャン仲間が顔を揃えていた。あたしのように楽器がまったくできない人間は2、3人ではなかったか。これもまたこのバンドの人徳であろう。(ゆ)

Cocopelina
さいとうともこ: fiddle, concertina, vocals
岩浅翔: banjo, whistle, flute, vocals
山本宏史: guitar, vocals

石崎元弥: bodhran, percussion, banjo

 ジョンジョンフェスティバルは一回り大きくなっていた。2年10ヶ月ぶりというライヴだとメンバーが認めなければ、実はパンデミックの間中、3人でどこか山の中か、それこそオーストラリアの奥地に籠って、ひたすら演奏していました、と言われても納得しただろう。それともパンデミックのない別の次元に行って、ライヴをしまくっていたのかもしれない。

 パンデミックは音楽に携わる人たちに平均(というものがあるとして)以上に大きな圧力をかけていたわけだが、その圧力を逆手にとって、精進を重ね、ミュージシャンとしてそれぞれ1枚も2枚も剥けた、ということなのだろう。その上で再び一緒になってみれば、その間のブランクはまったく無かったかのように、カチリとはまった。そうなると、各々が大きくなった分が合わさり、そこにバンドとしてと作用が働いて、1+1+1が4にも5にもそれ以上にもなる。逆に言えば、それだけ、休止前は頻繁にバンドとして演奏していたことでもある。

 このレベルの人たちに言うのはおかしいかもしれないが、3人ともそれぞれに巧くなっている。どこという個々に指摘できるようなものではなく、全体として伸びている。最初の曲が終る頃には、正直舌を巻いていた。あえて言えば、じょんのフィドルは細かい音のコントロールが隅々までよく効いている。アニーのギターのコード・ストロークの切れ味がさらに良くなっている。トシバゥロンの低音の響きの芯が太くなっている。

 そう聞えたのはあんたが老いぼれた証だといわれても返す言葉はないが、これだけは確かに言えるのは、歌が巧くなっている。まずじょんの英語。やはり日本語を話す相手は息子さんだけ、という環境にいれば、いやでも英語は巧くなる。英語が英語らしく聞えるのは、日本語ネイティヴの場合、発音そのものよりも呼吸が変わっているのだ。〈Sweet Forget-me-not〉でのじょんの息継ぎが英語話者のものなのだ。それは日本語の歌にも良い作用を及ぼして、〈思いいづれば〉でもラストの〈海へ〉でも、じょんの歌が映える。いよいよシンガーとしても一級といえるレベルになってきた。

 アニーもあちこちで歌っているし、トシさんは今最も中心にやっているみわトシ鉄心のトリオが歌中心のバンドでもあり、シンガーとしての精進を重ねていることが、ありありとわかる。たとえば、ラストの〈海へ〉のコーラス、就中アカペラ・コーラスには陶然となった。確かにこの歌は別れの歌、それも聴きようによっては、この世に別れを告げるとも聞こえる歌だが、陰々滅々にならず、むしろ後に生き残る者たちを鼓舞するとも聞える。とにかく今回は、歌の曲があたしにとってはハイライト。これらはこのまま録音されたものを繰り返し聴きたい。

 インストルメンタルは3人とも思いきりはじけていた。このトリオはなぜかそういう気にさせるらしい。他のバンドや組合せを見ているのはアニーが一番多いからその違いが一番よくわかるが、後の二人もおそらく、ジョンジョンフェスティバルでやる時は、他の組合せや演奏の場でやるときとは、様相が変わっているにちがいない。しかも今回は、溜まっていたものを爆発させる勢いがあった。それもだんだん強く大きくなっていった。スピードではパンデミック前の方が速かったかもしれないが、こんなに演奏がパワフルに聞えたことはない。まるでロックンロールのパワー・トリオだ。しかも演奏が粗くならない。力任せにハイスピードでやりながら、粗雑とは縁遠い。じょんのフィドルを筆頭に、細部までぴたりぴたりと決まってゆく。それでいて大きなグルーヴがぐうるりぐうるりと回ってくる。こんな演奏ができるのは、このバンドだけだ。

 そういうはじける曲と、じっくりとむしろ静かに聴かせる曲との対比もまた心憎い。こちらではトシさんの友人 Cameron Newell の作った〈トシ〉がハイライト。

 ダブル・アンコールの曲がまた良かった。〈Planxty Dermot Glogan〉。じょんのフィドルが高音で引っぱりながら少し音をずらすのがくう〜たまらん。

 「解散せずにすみました」とアニーが言うが、こうなればもう大丈夫。何年ブランクが空こうが、ジョンジョンフェスティバルは不滅です。とはいえ、できれば1年、いや半年ぐらいでまた演ってもらいたい。

 アンコールの1曲目は〈サリーガリー〉で盛り上げておいて、2曲目はしっとりと収める。のはこういう時の常道ではあるが、しかし、そう簡単に収まってはおらず、思っていた以上に興奮していたらしい。あるいは単純な興奮とは違うのかもしれない。終演後もどこか地に足がついていない感覚で、体の中が高ぶっていた。もっと生きろ、とどやされている気分。

 そう、もっとライヴを見よう。ジョンジョンフェスティバルは来年までは無いし、オーストラリアまで行くカネは無いが、アニーやトシさんのプロジェクトをもっと見に出かけよう。まずはみわトシ鉄心だが、信州、名古屋あたりまでなら何とかなるだろう。(ゆ)

ジョンジョンフェスティバル
じょん: fiddle, vocals
アニー: guitar, piano, vocals
トシバウロン: bodhran, percussion, vocals
 




 まさか、こんなものが出ようとは。いや、その前にこんな録音があったとは、まったく意表を突かれました。Bear's Sonic Journal の一環として出たこの録音は1973年10月01日と1976年05月05日のサンフランシスコでのチーフテンズのライヴの各々全体を CD2枚組に収めたものです。

 このリリースはいろいろな意味でまことに興味深いものであります。

 まず、チーフテンズのライヴ音源として最も初期のものになります。それも1973年、サード・アルバムの年。デレク・ベルが加わって、楽器編成としては完成した時期。ライナーによれば、パディ・モローニの手許には1960年代からのアーカイヴ録音のテープもあるようですが、RTE や BBC も含めて、チーフテンズのアーカイヴ録音はまだほとんど出ていません。これを嚆矢として、今後、リリースされることを期待します。

 アイリッシュ・ミュージックのライヴのアーカイヴ録音は RTE や BBC などの放送用のリリースがほとんどで、1970年代前半のコンサート1本の全体が出るのは、あたしの知るかぎり、初めてです。

 次にこの1973年のアメリカ・ツアーの存在が明らかになり、それもその録音、しかも1本のコンサート全体の録音の形で明らかになったこと。チーフテンズが初めて渡米するのは1972年ですが、この時はニューヨークでのコンサート1回とラジオ、新聞・雑誌などのメディアでのプロモーションだけでした。公式伝記の『アイリッシュ・ハートビート』ではその次の渡米はここにその一端が収められた1976年のもので、1973年の初のアメリカ・ツアーは触れられていません。というよりも、1973年そのものがまるまる飛ばされています。

 ここに収められたのは、急遽決まったもので、すでに本体のツアーは終っています。サンフランシスコの前はボストンだったらしく、あるいはアメリカでもアイルランド系住民の多い都市を2、3個所だけ回ったとも考えられます。

 そして、これはより個人的なポイントですが、ジェリィ・ガルシアとチーフテンズの関係がついに明らかになったこと。もう一人のアメリカン・ミュージックの巨人フランク・ザッパとパディ・モローニの関係は『アイリッシュ・ハートビート』はじめ、あちこちで明らかになっていますが、グレイトフル・デッドないしジェリィ・ガルシアとのつながりはこれまで見えていませんでした。

 このライヴはその前日、ベイエリアの FMラジオ KSAN にチーフテンズが出演した際に、ジェリィ・ガルシアがそこに同席し、チーフテンズの演奏に感心したガルシアが、翌日の Old & In The Way のコンサートの前座に招いたのです。ガルシアはチーフテンズの泊まっているホテルに、ロック・ミュージシャンがよく使う、車長の長いリムジンを迎えによこし、これに乗りこもうとしているパディ・モローニの写真があるそうな。Old & In The Way のコンサートはベアすなわちアウズレィ・スタンリィが録音したものがライヴ・アルバムとしてリリースされてブルーグラスのアルバムとしては異例のベストセラーとなり、2013年には完全版も出ました。その前座のチーフテンズのステージも当然ベアは録音していた、というわけです。

 アウズレィ・スタンリィ (1935-2011) 通称ベアは LSD がまだ合法物質だった1960年代から、極上質の LSD を合成したことで有名ですが、グレイトフル・デッド初期のサウンド・エンジニアでもあり、またライヴの録音エンジニアとしても極めて優秀でした。1960年代から1970年代初頭のデッドのショウの録音で質のよい、まとまったものはたいていがベアの手になるものです。また音楽の趣味の広い人でもあり、デッドだけでなく、当時、ベイエリアで活動したり、やって来たりしたミュージシャンを片っ端から録音しています。その遺産が現在 "Bear's Sonic Journal" のシリーズとして、子息たちが運営するアウズレィ・スタンリィ財団の手によってリリースされていて、チーフテンズのこの録音もその一環です。

 実際この録音もまことに質の高いもので、名エンジニアのブライアン・マスターソンが、この録音を聴いて、ミスタ・スタンリーにはシャッポを脱ぐよ、と言った、と、ライナーの最後にあります。

 ガルシアがラジオに出たのは、当時デッドのロード・マネージャーだったサム・カトラーが作ったツアー会社 Out Of Town Tours で働いていたアイルランド人 Chesley Millikin が間をとりもったそうです。

 ガルシアはデッドの前にはブルーグラスに入れあげて、ビル・モンローの追っかけをし、ベイエリア随一のバンジョー奏者と言われたくらいです。当然、ブルーグラスのルーツにスコットランドの音楽があり、さらにはカントリーやアパラチア音楽のルーツにアイリッシュ・ミュージックがあることは承知していました。チーフテンズのレコードも聴いていたでしょう。当時クラダ・レコードはアメリカでの配給はされていませんでしたが、サンフランシスコにはアイリッシュ・コミュニティもあり、アイルランドのレコードも入っていたはずです。母方はアイルランド移民の子孫でもあり、ガルシアがアイルランドの伝統音楽をまったく聴いたことがなかったとは考えられません。

 少しでも縁がある人間とは共演したがるパディ・モローニのこと、ガルシアやデッドとの共演ももくろんだようですが、それはついに実現しませんでした。デッドの音楽とアイリッシュ・ミュージックの相性が良いことは、Wake The Deadという両者を合体したバンドを聴けばよくわかります。

 The Boarding House でのこのコンサートの時にも、チーフテンズと OAITW 各々のメンバーが相手のステージに出ることはありませんでした。アイリッシュ・ミュージックとブルーグラスでは近すぎて、たがいに遠慮したのかもしれません。デッドは後に、セント・パトリック・ディ記念のショウに、カリフォルニア州パサデナのアイリッシュ・バンドを前座に呼びますが、チーフテンズが前座に入ることはついにありませんでした。大物ミュージシャンがデッドの前座を勤めた1990年代でも無かったのは、1990年代前半はアイリッシュ・ミュージックが世界的に大いに盛り上がった時期で、チーフテンズがそのキャリアの中でも最も忙しかったこともあるのでしょう。

 一方、1976年の方は、チーフテンズ初の大々的北米ツアーで、この時のボストンとトロントの録音から翌1977年に傑作《Live!》がリリースされます。そのツアーの1本の2時間のコンサートを全部収めているのは貴重です。チーフテンズはバンドとして、その演奏能力のピークにあります。

 一つ不思議なのは、バゥロンがパダー・マーシアになっていることで、ライナーにあるゴールデン・ゲイト・ブリッジを背景にしたバンドの写真は1976年のものとされており、そこにはパダー・マーシアが映っています。メンバーの服装からしても、10月ではなく、5月でしょう。しかし、このツアーの録音から作られた上記《Live!》ではジャケットにはケヴィン・コネフが入っていて、クレジットもコネフです。

 考えられることはこのサンフランシスコのコンサートはツアーの初めで、まだマーシアがおり、ツアーの途中でコネフに交替して、ボストンとトロントではコネフだった、ということです。

 この時は、ベアはチーフテンズを録るために、会場の The Great American Music Hall に機材を抱えてやってきています。ベア自身、祖先はアパラチアの入植者たちにつながるそうで、マウンテン・ミュージック、オールドタイムなどに対する趣味を備えていました。

 こうしたことは子息でアウズレィ・スタンリィ財団を率いる Starfinder たちによるライナーに詳細に書かれています。このライナーはクラダ・レコードを創設し、チーフテンズ結成を仕掛け、パディ・モローニのパトロンとして大きな存在だったガレク・ブラウンとその家族、つまりギネス家にも光をあてていて、これまたたいへんに興味深い。

 演奏もすばらしい。特に1976年の方は、やはりこの時期がピークだとわかります。チーフテンズの音楽は基本的にスタジオ録音と同じですが、それでもライヴでの演奏は活きの良さの次元が違います。

 ソロもアンサンブルもとにかく音が活きています。たまたまかもしれませんが、あたしには目立って聞えたのがマーティン・フェイのフィドル。いろいろな意味で存在感が大きい。面白いこともやっています。

 加えてデレク・ベルのハープ。ベアの録音はその音をよく捉えています。クライマックスのカロラン・チューンのメドレーの1曲〈Carolan’s Farewell To Music〉のハープ・ソロ演奏は絶品で、こういう演奏を生で聴きたかったと思ったことであります。

 そして、コンサートの全体を聴けるのが、やはり愉しい。構成もよく考えられています。各メンバーを個々にフィーチュアするメドレーから始めて、アップテンポで湧かせる曲、スローでじっくり聴かせる曲を巧妙に織りまぜます。

 何よりも、バンドが演奏を心から愉しんでいるのがよくわかります。パディ・モローニの MC にも他のメンバーが盛んに茶々を入れます。言葉だけでなく、楽器でもやったりしています。皆よく笑います。これを聴いてしまうと、我々が見たステージはもう「お仕事」ですね。

 ゲストがいないのも気持ちがいい。バンドとしての性格、その音楽の特色がストレートに現れています。チーフテンズの録音を1枚選べと言われれば、これを選びたい。

 演奏、録音、そしてジャケット・デザイン、ライナーも含めたパッケージ、まさに三拍子揃った傑作。よくぞ録っておいてくれた、よくぞ出してくれた、と感謝の念が湧いてきます。おそらくパディ・モローニも、同じ想いを抱いたのではないか。リリースの許可をとるためもあって、スターファインダーたちはテープをもってウィックロウにモローニを訊ねます。モローニは近くに住むブライアン・マスターソンの自宅のスタジオで一緒にこの録音を聴いて、大喜びします。モローニが亡くなったのは、それからふた月と経っていませんでした。チーフテンズ結成60周年を寿ぐのに、これ以上の贈り物はないでしょう。(ゆ)

 笛とハープは相性が良い。が、ありそうであまりない。マイケル・ルーニィ&ジューン・マコーマックというとびきりのデュオがいて、それで充分と言われるかもしれないが、相性の良い組合せはいくつあってもいい。梅田さんは須貝知世さんともやっていて、これがまた良いデュオだ。

 このデュオはもう5回目だそうで、いい感じに息が合っている。記録を見ると前回は3年前の9月下旬にやはりホメリで見ている。この時は矢島さんがアイルランドから帰国したばかりとのことでアイリッシュ中心だったが、今回はアイリッシュがほとんど無い。前日のムリウイでの若い4人のライヴがほぼアイリッシュのみだったのとは実に対照的で、これはまたこれで愉しい。

 スウェディッシュで始まり、おふたり各々のオリジナル、クレツマーにブルターニュ。マイケル・マクゴールドリックのやっていた曲、というのが一番アイリッシュに近いところ。どれもみな良い曲だけど、おふたりのオリジナルの良さが際立つ。異質の要素とおなじみの要素のバランスがちょうど良い、ということだろうか。3曲目にやった矢島さんの曲でまだタイトルが着いていない、作曲の日付で「2022年07月22日の1」と呼ばれている曲は、サンディ・デニーの曲を連想させて、嬉しくなる。

 矢島さんは金属フルート、ウッド・フルート、それにロゥホィッスルを使いわける。どういう基準で使いわけるのかはよくわからない。スウェディッシュやクレツマーは金属でやっている。梅田さんの na ba na のための曲は、一つは金属、もう一つはウッド。どちらにしても高域が綺麗に伸びて気持ちがよい。矢島さんの音、なのかもしれない。面白いことに、金属の方が響きがソフトで、ウッドの方がシャープに聞える。このフルートの風の音と、ハープの弦の金属の音の対比がまた快感。

 もっとも今回、何よりも気持ちが良かったのはロゥホィッスル。普通の、というか、これまで目にしている、たとえばデイヴィ・スピラーンやマイケル・マクゴールドリックが吹いている楽器よりも細身で、鮮やかな赤に塗られていて、鮮烈な音が出る。この楽器で演られると、それだけで、もうたまらん、へへえーと平伏したくなる。これでやった2曲、後半オープナーのマイケル・マクゴールドリックがやっていた曲とその次のブルターニュの曲がこの日のハイライト。ブルターニュのメドレーの3曲目がとりわけ面白い。

 マイケル・マクゴールドリックの曲では笛とハープがユニゾンする。梅田さんのハープは積極的にどんどん前に出るところが愉しく、この日も遠慮なくとばす。楽器の音も大きくて、ホメリという場がまたその音を増幅してもいるらしく、音量ではむしろフルートよりも大きく聞えるくらい。特に改造などはしていないそうだが、弾きこんでいることで、音が大きくなっていることはあるかもしれないという。同じメーカーの同じモデルでも、他の人の楽器とは別物になっているらしい。

 クローザーが矢島さんとアニーの共作。前半を矢島さん、後半をアニーが作ったそうで、夏の終りという感じをたたえる。今年の夏はまだまだ終りそうにないが、この後、ちょっと涼しくなったのは、この曲のご利益か。軽い響きの音で、映画『ファンタジア』のフェアリーの曲を思い出すような、透明な佳曲。

 前日が活きのいい、若さがそのまま音になったような新鮮な音楽で、この日はそこから少しおちついて、広い世界をあちこち見てまわっている感覚。ようやく、ライヴにまた少し慣れて、身が入るようになってきたようでもある。

 それにしても、だ、梅田さん、そろそろCDを作ってください。曲ごとにゲストを替えて「宴」にしてもいいんじゃないですか。(ゆ)

 言葉はあまりよくないかもしれないが、とれたての新鮮な音楽、というのが、しきりに湧いてきた。ひとつにはフルートの瀧澤晴美さんがリムリックの大学院を卒業して3日前に帰国された、その歓迎ライヴということがある。その卒業コンサートで演奏した曲を、ここでも演奏されたりする。

 瀧澤さんのフルートは、たとえば須貝知世さんのそれを思い浮かべてみると、やや線が細く、繊細な感じがする。一方でしなやかで、強靭なところもある。もっとも今回は隣が木村さんで、おまけに木村さんが「新兵器」のメロディオンを持ちこんできたから、その究極とも言える音の太さは強烈で、あれと並んでしまうと、どんな音でも細く聞えるかもしれない。それでも、ソロで、その卒業演奏の曲、曲名がよく聴きとれなかったが、Bobby Gardner の娘さんの曲で、とりわけラストのテンポを落としたところは、繊細かつ新鮮なみずみずしさがしたたるようだ。

 昨年10月末の Castle Island のイベントでのセッションで習ったというジグのセットは伝統曲とリズ・キャロルともう1曲、オリジナル曲の組合せが、実にモダンで新鮮に響く。リズ・キャロルが入ればなんでも新鮮になるところはあるにしても、もう一段レベルが上がって、モダンかつ新鮮になる。たぶん、曲の組合せの効果だろうが、今、アイルランドで演奏されているセットという事実も後押ししているかもしれない。

 レパートリィでも新鮮さは増幅される。2020年の Young Scottish Traditional Awards 受賞のパイパーの作った曲というだけで新鮮だが、〈Toss the Feathers〉のような曲が入ったセットすら、新鮮になるのは面白い。たぶんこういう新鮮な感覚は、ライヴでしかわからないだろうとも思う。これをまんま録音してみても、すり抜け落ちてしまうんじゃないか。

 メンバーが若いことも、新鮮な感覚に寄与しているとも思われる。木村さんが同年代のメンバーを集めたそうで、4人とも20代半ば。やはりこの時にしか出ない音、響きというのはあるものだ。かつて Oige のライヴ盤を聴いたとき、文字通り「青春」まっただなか、という響きに衝撃を受けたものだが、あの感覚が蘓える。むろん天の時も地の利も違うので、音楽が同じわけではないけれど、若いというのは特権的な魅力がある。年をとるとそういうところがよくわかる。

 このメンバーはダンス・チューンでは音のころがし方が快い。フルートは持続音で、あんまりころころところがる感じがしないものだが、どこがどういうものか、この日はジグもリールも、全体としてよくころがっていると聞えた。流れるよりはころがる感じ。ごろんごろんではなく、ころころころだ。この点も含めて、4曲目のホップ・ジグからの4曲のセットがこの日のハイライト。どれも佳曲で、しかも、だんだん良くなる。選曲の妙だ。

 選曲と組合せが巧いのは木村さんのメロディオン・ソロでも愉しかった。楽器の特性を活かす選曲でもある。

 木村さん以外、初体験というのも新鮮さを加えていたかもしれない。フィドルの福島さんはどっしりと腰の座った、安定感あふれる演奏で、頼もしい。どういうわけかわが国の一線で活躍しているフィドラーは女性がほとんどなので、小松大さんに続く男性の登場はうれしい。やはり両方そろっているのが理想だ。時間に余裕があるので、とやったソロも良かった。オープン・チューニングという「反則技」を使ったそうだが、スロー・エアからジグは、有名曲なのに初めて聴く気がした。

 杉野さんのギターは音数が少なめで、ミホール・オ・ドーナルとデニス・カヒルの合体のように聞える。やはりどちらかというとリスナーに向けてよりもプレーヤーに向けて演奏している。後で確認すると、高橋創さんがお手本だそうで、改めて納得。。

 前回の木村さんのライヴと同じく、アイリッシュばかりのセレクションも気持ちが良い。スコットランド人の曲も、アイルランドにいる幼い女の子のためだそうで、あまりスコティッシュの感じがしない。

 清流に浸かって、内も外もすっかり綺麗に洗われた気分。わずかにしても若返った感じすらある。まことにありがたい。ご馳走様でした。

木村穂波(ボタンアコーディオン、メロディオン)
福島開(フィドル)
瀧澤晴美(アイリッシュフルート)
杉野文俊(ギター)

08月19日・金
 Irish Times の Rhasidat Adeleke による女子400m のアイルランド記録更新のニュースの写真には驚いた。驚く方がおかしいのかもしれないが、遠くから見ていると前触れもなく現れて、驚いてしまう。



 トリコロールの国旗を背負うこの若い女性の姿に、アイルランドの今が凝縮している。

 アフリカ系日本人が、陸上の日本記録を破って日の丸を背負う日は来るだろうか。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月19日には1966年から1989年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。セット・リスト不明。ソプウィス・キャメル前座。

2. 1967 American Legion Hall, South Shore, Lake Tahoe, CA
 土曜日。セット・リスト不明。
 この年の夏、まだ50年代の眠りをむさぼっていたこの地に、突如、サンフランシスコからのアクトが一握り、やってきて演奏した。デッドの他にバッファロー・スプリングフィールドと The Electric Prunes がいた、という証言がある。

 デッドがタホ湖で演るのはこれが最初で、1週間後に、今度は North Shore で2日演り、翌年の02月と07月にもノース・ショアで2日間ずつショウをしている。

 The Electric Prunes は1965年にロサンゼルスで結成された5人組で、サイケデリアと初期のロック、それに独自の「フリーフォーム・ガレージ・ミュージック」が混淆した音楽をやっていた。1966年にリプリーズと契約し、3枚のアルバムを出すが、セカンドとサードはデヴィッド・ハシンガーがプロデューサーとして実権を握り、大部分が他のミュージシャンによって演奏されているという。ハシンガーはデッドには愛想を尽かして、アルバム制作を途中で投げだしたが、こういうこともやっていたわけだ。The Electric Prunes は1968年に解散。


3. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ共演。第一部アコースティック・デッド、第二部 NRPS、第三部エレクトリック・デッド。2時間半弱の全体のテープがある。
 興味深いのは第一部アコースティック・セットで40分で15曲やり、しかも〈Friend Of The Devil〉〈Candyman〉〈Truckin'〉〈Cumberland Blues〉〈New Speedway Boogie〉といった曲を含んでいる。こういう曲をアコースティックでやるのはこの時期だけだ。

4. 1980 Uptown Theatre, Chicago, IL
 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。
 第二部オープナーで〈Little Red Rooster〉がデビュー。
 伝統曲をウィリー・ディクソンがアレンジしたものとされるブルーズ・ナンバー。1995年07月09日まで272回演奏。演奏回数順で50位。〈I Need a Miracle〉と同数で、〈Let It Grow〉より3回少なく、〈Althea〉より1回多い。この曲ではウィアやミドランドもソロをとる。この曲でのウィアのソロはスライド・ギターであることも多く、ギタリストとしての実力がよくわかる。

 この時期、1980年前後にデビューした曲で演奏回数が多いものはいずれもウィアの持ち歌。〈Saint of Circumstances〉222回、〈Feel Like a Stranger〉207回、〈Throwing Stones〉265回、〈Hell in a Bucket〉215回。この時期はウィアが積極的に曲を作り、カヴァー曲を導入している。ガルシアの持ち歌で長く演奏されたのは〈Althea〉271回ぐらいだ。


5. 1989 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演5時。このヴェニューで最後のショウ。レックス 財団ベネフィット。
 この週末の次の月曜日は新学期のスタートで、大学当局はその前日の日曜にショウがあることを嫌って、この時の公演をキャンセルしようとした。最後の瞬間に、金曜から日曜の3日間を1日前倒しして、木曜から土曜にすることで妥協が成立した。日曜日のチケットは木曜日に振り替えられた。3日間とも KPFA ラジオで生中継された。
 このヴェニュー最後を飾るにふさわしいすばらしいショウで、とりわけ第二部が凄く、前半の〈Playing In The Band〉、後半の〈The Other One〉が頂点。と Stu Nixon が DeadBase XI で書いている。あまりに嬉しくなり、その喜びは何日もの間収まらなかった。

 うーむ、歓びが翌日くらいまで持ちこすことはあるが、何日も収まらない、という経験はした覚えがない。(ゆ)

08月17日・水
 アイルランドのカトリック教会がローマ教皇庁に、女性、LGBT+、離婚・再婚者をはじめとする、従来、教会主流からは外されてきた人びとへの態度をよりインクルーシヴなものに変更し、僧侶への禁欲・独身の強制を廃止するよう求める文書を送った、というのはいささか衝撃的なニュース。それだけ危機感が強く、そこまで追いつめられてもいる、ということだろう。そういうことに積極的にならないと、社会から、とりわけ若い世代から時代遅れの遺物として見捨てられるという危機感だ。アイルランドの社会が短期間にいかにドラスティックに変化しているかを、裏面から浮彫りにしてもいる。

 来年秋に予定されている宗教会議への準備文書とのことだが、第二ヴァチカン会議に匹敵する、あるいはそれ以上の大改革がなされるかどうか。ヨーロッパの一部や北米のカトリックは賛同するかもしれないが、中南米も含めたラテン諸国やアフリカではどうだろうか。わが国のカトリック教会はどうか。

 アングリカン・チャーチでも、アメリカなどの教会が女性主教就任を求めたのに対して、国別信徒数では今や世界最大のナイジェリアの教会が反対し、分裂を恐れてカンタベリ大主教がアメリカの教会にそう急ぐなとなだめたという話もあった。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月17日には1970年から1991年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ共演。第一部アコースティック・デッド、第二部 NRPS、第三部エレクトリック・デッド。残っているセット・リストはテープに基くもので不完全。また当のテープが本当にこのショウのものかにも疑問が持たれている。

 ただ、第一部で〈Truckin'〉がデビューしたことは確かなようだ。ロバート・ハンター作詞、曲はジェリィ・ガルシア、フィル・レシュ、ボブ・ウィアの共作。1995年07月06日まで、計527回演奏。演奏回数順では7位。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉のペアよりも4回少なく、〈Jack Straw〉よりも51回多い。ペアをそれぞれ1曲と数えれば8位。つまり500回以上演奏されたのは全部で7ないし8曲。スタジオ盤は《American Beauty》収録。

 全米を走りまわる長距離トラック・ドライバーに託して、ツアーに明け暮れするバンドの喜怒哀楽を歌う。バンドのメンバーは飛行機で移動することも多いが、楽器・機材はトラックで運ばれたから、トラッキングはバンドとクルーの実感でもあっただろう。

 ロード・ムービーの趣。ビートもフリーウェイを駆ける大型トラック、というよりも、むしろ鉄道のレールの音を連想する。その点では、デッドの祖先の一つであるホーボー、貨物列車で移動した放浪の詩人たちへのオマージュも見える。

 ひとしきり歌を歌った後、長い集団即興=ジャムになることが多い。この曲の場合、ガルシアが細かくシンプルなパッセージで階段を昇るように音階を上がってゆき、頂点に達したところで、フル・バンドで「ドーン」と沈みこむという型が組込まれるようになる。これが決まった時の快感はデッドを聴く醍醐味の一つ。また、この型がだんだんできてゆくのを聴くのも愉しい。

 ガルシアによれば、ハンターの書く詞は当初は歌として演奏することをあまり考えておらず、曲をつけるのも、演奏するのもやり難いことが多かった。バンドのツアーに同行するようになって、ハンターの詞が変わってきて、この曲は詞と曲がうまくはまった最初の例の一つ。


2. 1980 Kansas City Municipal Auditorium, Kansas City, MO
 日曜日。09月06日までの16本のツアーの2本目。
 締まったショウらしい。

3. 1989 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。ヴェニュー隣の駐車場にもスピーカーが置かれて、700人ぐらいがそこで音楽に合わせて踊った。
 この時期のショウに駄作無し。

4. 1991 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。20ドル。開演7時。ブルース・ホーンスビィ参加。
 90年代でも最高のショウの1本の由。(ゆ)

08月03日・水
 Mick Moloney がニューヨークで77歳で亡くなったそうです。

 アイルランドとアメリカを往ったり来たりするアイリッシュ・ミュージックのミュージシャンは少なくありませんが、アイルランドからアメリカに渡って腰を据えたのは珍しく、さらに現在のアメリカのアイリッシュ・ミュージックの発展に貢献したことではまず右に出る人はいないでしょう。彼がいなければ、あるいはアメリカに腰を据えなければ、チェリッシュ・ザ・レディースやソーラスは生まれなかったと思われます。

 1944年リムリック生まれ。音楽に目覚めるのはウィーヴァーズやアルマナック・シンガーズの録音を聞いたことで、そこから生まれ故郷周辺、とりわけシュリーヴ・ルークラの伝統歌謡とダンス・チューンに向かいます。

 ぼくが彼の名前を知るのはジョンストンズに参加してからです。そこではポール・ブレディのギターとともに、マンドリンで、後にプランクシティが完成させる「対位法的」バッキングやアレンジを始めています。もっともその前にドーナル・ラニィらとともに Emmet Spiceland をやっていたことを、JOM の追悼記事で指摘されました。これはブラザーズ・フォーに代表される「カレッジ・フォーク」をアイルランドで試みた初期のグループの一つで、アイルランドではヒットもしています。

 1973年にアメリカに移住。この頃はアメリカではまだアイリッシュ・ミュージックは移民共同体内部のものでした。様相が変わるのはモローニによればアレックス・ヘイリーの『ルーツ』です。これはアフリカ系アメリカ人である自分の「ルーツ」を探った本で一大ベストセラーになるとともに、他の民族集団が各々のルーツに関心を向けるきっかけにもなります。アメリカが多様なルーツを各々にもつ移民集団から成る社会であるという認識が定着するのもこれがきっかけだそうです。各民族集団の文化的活動への公的資金援助も増え、アイルランド系はすでに組織化されたものが多かったために、その恩恵を受けた由。

 1980年代前半はアイルランドは不況で、アメリカへの移民が増え、ミュージシャンも多数移住します。ミホール・オ・ドーナルとトゥリーナ・ニ・ゴゥナルの兄妹や、後にアルタンのメンバーとして来日もするダヒィ・スプロール、さらにはケヴィン・バークなどが代表です。こうした人びとの刺激もあり、アメリカのアイリッシュ・ミュージックはこの時期ルネサンスを迎えます。ミック・モローニはその中心にあって、演奏、制作、メディア、研究のあらゆる分野でこのルネサンスを推進しました。

 ソロ・アルバム《Strings Attached》を出し、The Green Fields Of America を結成してツアーし、チェリッシュ・ザ・レディースが誕生するきっかけとなったコンサートを主導し、シェイマス・イーガンのソロ・ファースト《Traditional Music Of Ireland》や、アイリーン・アイヴァーズとジョン・ウィーランのデュオ・アルバム《Fresh Takes》をプロデュースします。

 1992年にフォークロアとフォークライフの博士号を取得。アメリカにおけるアイリッシュ・ミュージックの歴史の研究家としてニューヨーク大学教授などを歴任。その業績にはアメリカ、アイルランドから表彰されています。2014年には TG4 の Gradam も受けています。

 個人的にはジョンストンズ時代の溌剌とした演奏と、1980年代、Robbie O'Connell と Jimmy Keane と出した《There Were Roses》のアルバムが忘れがたいです。

 まずは天国に行って、愉しく音楽していることを祈ります。合掌。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月03日には1967年から1994年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1967 O'Keefe Center, Toronto, ON, Canada
 木曜日。このヴェニュー6日連続のランの4日目。ジェファーソン・エアプレイン、ルーク&ジ・アポスルズ共演。
 セット・リスト不明。

2. 1968 The Hippodrome, San Diego, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。3ドル。開演8時半。カーリィ・クックズ・ハーディガーディ・バンド、マヤ共演。
 セット・リスト不明。
 James "Curley" Cooke は1944年ウィスコンシン生まれで2011年ワシントン州で死んだブルーズ・ギタリストのようだが、このバンド名では出てこない。この時期にハーディガーディをフィーチュアしていたとすれば、少なくとも20年は時代に先んじている。ハーディガーディでブルーズをやっているのは、まだ聞いたことがない。
 Maya もこの時代のミュージシャンは不明。

3. 1969 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。バレー・アフロ・ハイチ、アルバート・コリンズ共演。
 サックスが〈Dark Star〉に参加し、他の曲にヴァイオリンも参加しているが、誰かは不明。サックスはチャールズ・ロイド、ヴァイオリンは David LaFlamme または Michael White が推測されている。

4. 1982 Starlight Theatre, Kansas City, MO
 火曜日。
 ヴェニューは屋外のアンフィシアターで、コンサートの他、演劇、ミュージカルにも使われ、音響が良い。デッドのサウンドはすばらしかった、と Tom Van Sant が DeadBase XI で書いている。ショウも決定的な出来。

5. 1994 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開場5時、開演7時。トラフィック前座。
 第一部4曲目〈El Paso〉でウィアがアコースティック・ギター。
 DeadBase XI でのこのショウについての記事で、John W. Scott はデッドのヴィデオ・ディレクター Bob Hartnett へのインタヴューを載せている。これは実に興味深い。一つには、デッドのショウは音楽だけでなく、照明や映写イメージも含めた、総合的な作品になっていた。当時すでにU2の ZooTV ツアーやローリング・ストーンズのコンサートなどもそうした「総合芸術」になっていたが、デッドのものは、その中でも最先端の機材と技術と素材を駆使したものであることが、このインタヴューからわかる。
 ハートネットはキャンディス・ブライトマンと協力して、会場のビデオ画面に映しだすヴィジュアルを指揮していた。バンドが演奏する曲に合わせたイメージを映しだす。あらかじめ大量の素材をいくつかのセットにしたものをレーザーディスクに用意しておいて、演奏に応じて送りだす。デッドの音楽は何がどれくらいの長さ演奏されるのか、事前にはまったくわからないのだから、照明とスクリムのイメージ担当のブライトマンにしても、ビデオ・スクリーン担当のハートネットにしても、その仕事は難しいなどというレベルではない。06月のラスヴェガスではヴィジュアル組は本番3日前に現地に入って、入念にリハーサルをしている。
 ラスヴェガスでは暑さのために、機器がどんどん壊れた。このビデオ・プロジェクティングのチームはステージの下に陣取る。精神的、物理的ないくつもの理由からここがベストの配置なのだが、気温の上がり方は半端ではない。
 この年、この08月初旬まで炎熱の夏のツアーが組まれたのは、サッカーのワールド・カップ・アメリカ大会のためでもある。デッドのヴェニューはワールド・カップの試合会場と重なるところが多く、そのあおりでスケジュールはかなり無理の大きいものになった。
 このジャイアンツ・スタジアムでは初めて、屋外のステージでバンドのためのエアコン・システムが組まれた。特別仕立てのものだが、クルーやスタッフにはその恩恵は及ばない。
 インタヴューの最中、クルー、スタッフへの放送が入る。トラフィックのステージにガルシアが参加する可能性がある、それに備えて、トラフィックの最後の2曲では全員配置につくように、という指示だった。必ず入るとわかっているわけではなく、入るかもしれないというだけで、全員が用意している。
 ショウそのものは、スコットの記憶では前座のトラフィックの演奏ばかりが記憶に残るものだった。
 ベテランのデッドヘッドたちには我慢のならない出来かもしれない。しかし、バンド・メンバーだけでなく、デッドヘッドたちもまた老いてはいなかったか。少なくとも若くはない。(ゆ)

07月25日・月
 朝、起きると、深夜、吉田文夫氏が亡くなったという知らせが、名古屋の平手さんからメールで来ていた。あの平手さんがメールを送ってくるのはよほどのことだ。吉田氏は平手さんが主催している滋賀県高島町でのアイリッシュ・ミュージック・キャンプの常連でもあったから、平手さんにとっては喪失感は大きいだろう。あたしはついに会うことがかなわなかった。もう一昨年になるか、25周年ということで初めてでかけたキャンプには、吉田氏は体調不良で見えなかった。がんの治療をしていることは聞いていた。

 吉田氏は関西でアイルランドやスコットランドなどの伝統音楽を演奏する草分けの1人だった。関東のあたしらの前にはシ・フォークのメンバーとして現れた。シ・フォークは札幌のハード・トゥ・ファインドとともに、まだ誰もアイリッシュ・ミュージックのアの字も知らない頃から、その音楽を演奏し、レコードを出していた稀少な存在だった。この手の音楽を愛好する人間の絶対数、といっても当時はタカの知れたものだが、その数はおそらく一番多かったかもしれないが、関東にはなぜかそうしたグループ、バンドが生まれなかったから、あたしらはハード・トゥ・ファインドやシ・フォークに憧れと羨望の眼差しを送っていたものだ。その頃はライヴに行くという習慣がまったく無かったので、どちらにしてもツアーで来られていたのかもしれないが、バンドとしての生を見ることはなかった。

 今世紀も10年代に入る頃から、国内のアイリッシュ・ミュージック演奏者が爆発的に出てきたとき、吉田氏の名前に再会する。関西の演奏者を集めた Celtsittolke のイベントとオムニバス・アルバムだ。東京でトシバウロンが Tokyo Irish Company のオムニバス・アルバムを作るのとほぼ同時だったはずだ。

 Celtsittolke には正直仰天した。その多彩なメンバーと多様な音楽性に目を瞠り、熱気にあてられた。関東にはない、猥雑なエネルギーが沸騰していた。関東の演奏家はその点では皆さんまじめで、行儀が良い。関西の人たちは、伝統に敬意を払いながらも、俺らあたしら、勝手にやりたいようにやるもんね、とふりきっている。そのアティテュードが音楽の上でも良い結果を生んでいる。アイリッシュ・ミュージックの伝統は、ちっとやそっと、揺さぶったところで、どうにかなるようなヤワなものではない。どんなものが、どのように来ても、あっさりと呑みこんでゆるがない。強靭で柔軟なのだ。そのことを、関西の人たちはどうやってかはわからないが、ちゃんとわきまえているようでもある。少なくとも吉田氏はわきまえていたようだ。Celtsittolke はそうした吉田氏が長年積み重ねてきたものが花開いたと見えた。

 結局、その生演奏にも接しえず、言葉をかわしたこともなかったあたしが、吉田氏について思い出を語ることはできない。今はただ、先駆者の一人として、いい年のとり方をされたのではないかと遠くから推察するだけだ。アイリッシュ・ミュージックやスコットランドの伝統音楽と出逢い、ハマりこんだことは人生において歓びだったと思いながら旅立たれたことを願うのみである。合掌。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月25日には1972、74、82年の3本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1972 Paramount Theatre, Portland, OR
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。シアトル、ポートランドのミニ・ツアー。どちらも "Paramount Theatre"。シアトルのには "Northwest" がついているが。
 ピークのこの年らしいショウの1本という。

2. 1974 International Amphitheatre, Chicago, IL
 木曜日。二部としてレシュとラギンの〈Seastones〉が演奏された。
 第三部9・10曲目、〈Uncle John's Band> U.S. Blues〉が2015年の、第一部3曲目〈Black-Throated Wind〉が2016年の、第一部2曲目の〈Loose Lucy〉が2019年の、アンコール〈Ship Of Fools〉が2020年の、〈Loose Lucy; Black-Throated Wind〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。つまり5曲がリリースされていることになる。
 きっちりした演奏。Wall of Sound の時期で音は良い。この日の録音はベースがはっきり聞える。ウィアのギターが小さめ。キースはこの頃にはすでにピアノだけではなく、オルガンも弾いている。
 この5曲はどちらかというと歌を聞かせる曲で、ガルシアは曲ごとに歌い方を変えている。〈Loose Lucy〉ではメリハリをつけ、〈Uncle John's Band〉ではややラフに、時にメロディを変え、〈Ship Of Fools〉ではごく丁寧に。〈U.S. Blues〉はギアがちょっとはずれて、歌詞が不安定。結局、ちゃんとケリを着けはする。
 〈Black-Throated Wind〉はウィアの独壇場になる曲。良い曲なのだが、ウィアの曲は時に、きっちりと構成が決まっていて、崩しようがないことがある。これはその典型。ずっと聴いていると、だんだん息が詰まってくる。

3. 1982 Compton Terrace Amphitheatre, Tempe, AZ
 日曜日。10ドル。開演7時半。
 1週間ぶりのショウで夏のツアーのスタート。08月10日までの12本。アリゾナ、コロラド、テキサス、オクラホマ、ミズーリ、ミネソタ、ウィスコンシン、アイオワを回る。
 ショウは良いものだそうだ。(ゆ)

07月12日・火
 思いかえしてみれば実に2年半ぶりの生トリコロール。一昨年3月の下北沢・空飛ぶコブタ屋でのクーモリとの対バン以来。あの時は途方もなく愉しかった。諸般の事情でクーモリはその後ライヴをしていないそうだが、ぜひまたライヴを見たい。あの後、クーモリ関連のCDは手に入るかぎり全部買って聴いた。各々に面白く、良いアルバムだけれども、あのライヴの愉しさは到底録音では再現できない。

 いや、クーモリの話はさておいて、トリコロールである。あちこちでライヴはしているそうだが、東京はむしろ少なく、遠くに呼ばれている由。あたしはホメリもたぶん2年ぶりだ。嬉しくて、名物のサンドイッチも食べてしまった。

 毎回思うことだけれど、ここは本当に生音が良く聞える。演奏者にもよく聞えるそうだ。この幅の狭さがむしろメリットなのだろう。聴いている方には適度に音が増幅され、しかも、個々の音が明瞭にわかる。柔かい音は柔かく、シャープな音はあくまでも切れ味鋭どく、つまり、生楽器の生音が最も美しく響く。重なるときれいにハモってくれる。妙に混ざりあって濁ることがない。だからユニゾンがそれはそれは気持ち良い。フィドルとピアノ・アコーディオンのぴったりと重なった音に体が浮きあがる。浮きあがるだけではない。クローザーの〈アニヴァーサリー〉のメドレーの1曲目を聴いているうちに、わけもなく涙が出てきた。たぶん悲しみの涙ではなく、嬉し涙のはずだけど、そう言いきれないところもある。

 よく聞えるのはユニゾンだけではもちろん無い。3曲目〈Letter from Barcelona〉のアコーディオンの左手のベース、そしてギターのベース弦。フットワークの軽々とした低音もまたたとえようもなく気持ち良い。

 この日は新録に向けて準備中の曲からスタートする。オープナー〈Five Steps〉ではコーダのアコーディオンのフレーズが粋。次のまだタイトルの無い伝統曲メドレーは G のキーの曲を3曲つなげる。どれも割合有名な曲だが、あたしは曲のタイトルはどうしても覚えられない。オリジナルの一つ〈コンパニオ〉は、結婚式のウェルカム・ムービー用に作った曲だそうだが、何とも心浮きたつ曲。別にアップビートというわけではないのに、聴いていると気分が上々になる。昂揚感とはまた別の、おちついていながら、浮揚する。このやわらかいアッパーは、トリコロールの音楽の基本的な性格でもある。嫌なことも、重くのしかかっていることも、ひとまず洗いながされる。曲が終れば、あるいはライヴが終れば、また重くのしかかってくる圧力は復活するのだが、トリコロールの音楽を聴いた後では、前よりももう少し柔軟に、粘り強く対処していける。ような気になる。

 オリジナルの曲は一つのメロディを様々に料理することが多い。テンポを変え、楽器の組合せを変え、キーを変え、ビートの取り方を変え、いろいろと試し、テストしているようでもある。試行錯誤の段階はすでに過ぎていて、細部を詰めていると聞える。これは旨いと思うところも、それほどでもないかなと思うところも、両方あるけれど、終ってみるとどれもこれも美味しいという感覚だけが残る。

 アニーはアコーディオン、ブズーキに加えて、今回はホィッスルも1曲披露。長尾さんの〈Happy to Meet Again〉という曲で、切れ味のいい演奏をする。後半オープナーの〈Lucy〉のブズーキのカッティングがえらくカッコいい。中藤さんの〈Sky Road〉でもブズーキの使い方が面白い。「おうちでトリコロール」では長尾さんが新たに買ったシターン cittern を弾いていて、いい音がしていた。いずれ、ブズーキとシターンの競演も聴きたい。長尾さんのシターンはアイリッシュ・ブズーキよりも残響が深くて、サステインが長いようだ。ギリシャの丸底ブズーキに響きが近いが、もう少し低い方に伸びている気もする。

 弦楽器はどういうわけか、どれもこれも今のイラク、ペルシャあたりが起源で、そこから東西に伝わって、その土地土地で独自に発達したり、変形したりしている。ウードのギリシャ版であるブズーキはギリシャ経由でまっすぐアイルランドに来ているが、現代のシターンはイベリア半島に大きく回ってからイングランドに渡っている。中世に使われていた楽器の復元と言われるが、その元の楽器があたしにはよくわからん。ブズーキ、シターン、マンドーラ、今ではどれも似ている。カンランのトリタニさんによると、マンドーラは基準となるような仕様が無く、作る人が各々に勝手に、自分がいいと思うように作っているともいう。かれが使っているマンドーラは世界中に数十本しかないそうだ。言われるとあの音は他では聴いた覚えがない。

 〈アニヴァーサリー〉の前の〈盆ダンス〉に、客で来ていた矢島絵里子さんをアニーがいきなり呼びこむ。フルートが加わっての盆踊りビートのダンス・チューンは、いやあ愉しい。途中、それぞれに即興でソロもとる。すばらしい。矢島さんのCDが置いてあったので買う。帰ってみたら、彼女がやっていたストレス・フリーというデュオのCDを持っていた。フルートとハープでカロランや久石譲をやっている、なかなか面白い録音と記憶する。また聴いてみよう。

 アンコールは決めておらず、その場であれこれ話しあって〈マウス・マウス〉。〈Mouth of the Tobique〉をフィーチュアしたあれ。

 聴きながら「旱天の慈雨」という言葉が湧いてきた。このライヴのことをアニーから聞いたのは5月の須貝知世&木村穂波デュオのライヴで、その時も聴きながら、この言葉が湧いてきた。アイリッシュばかりで固めたあちらも良かったけれど、独自の世界を確立しているこのトリオの音楽はまた格別だ。おかげで乾ききっていたところが少し潤いを帯びてきたようでもある。新録も実に楽しみ。

 長尾さんとアニーは O'Jizo で今月末、カナダのフェスティヴァルに遠征する由。チェリッシュ・ザ・レディースがヘッドライナーの一つらしい。ひょっとするとジョーニー・マッデンと豊田さんの競演もあるかもしれない。感染者数が急増しているから、帰ってくる時がちょと心配。今でも入国は結構たいへんと聞いた。

 ライヴに来ると、いろいろと話も聞けるのが、また愉しい。秋に向けて、愉しみが増えてきた。出ると外は結構ヘヴィな雨だが、夏の雨は濡れるのも苦にならない。まったく久しぶりに終電に乗るのもさらにまた愉しからずや。(ゆ)

07月03日・日
 ITMA で "From The Bridge: A View of Irish traditional music in New York" というタイトルでニューヨークのアイリッシュ・ミュージックの足跡をたどるデジタル展示をしている。



 録音のある時代が対象で、19世紀末から現在にいたるほぼ100年間を五つの時期に分けている。

Early Years: 1870s-1900s
Recording Age 1920s
Post WWII Era
1970s-1990s Revival
Present Day

 それぞれにキーパースンの写真とテキストによる紹介と代表的録音を掲げる。テキストは英語だけど、ごくやさしい英語だし、興味を持って読めば、だいたいのところはわかるだろう。最低でも Google 翻訳にかければ、そんなにかけ離れた翻訳にはならないはずだ。

 それに他では見たこともない写真や、聞いたことのない音源もあって、突込んでいると、思わず時間が経つのも忘れる。あたしなどの知らない人たちもたくさんいて、興味は尽きない。

 個人的には最初の2つの章が一番面白い。この時期の音源はどれもこれも個性的だ。録音による伝統の継承がほとんど無いからだ。録音による伝統の継承の、その源になった音源だ。

 ニューヨークのアイリッシュ・ミュージックは、アイルランド国外での伝統音楽の継承と普及の一つのモデル・ケースにも見える。ここは19世紀後半からアイルランド移民の街になり、伝統音楽もそのコミュニティで栄える。1970年代以降、アイリッシュ・コミュニティの外から、アイリッシュ・ミュージックに関わる人たちが増えてくる。今では、マンハタンの一角に並んでいたアイリッシュ・パブは皆消えたが、ニューヨーク産のアイリッシュ・ミュージックが消滅したわけではない。ニューヨークは、アイリッシュ・ミュージックの伝統の中にユニークな位置を占めているのが、この展示を見、聞くとよくわかる。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月03日には1966年から1994年まで7本のショウをしている。公式リリースは6本、うち完全版が3本。

1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 日曜日。"Independence Boll" と言う3日間のイベントの最終日。Love と Group B が共演。一本勝負。
 14曲目〈Cream Puff War〉が2013年と2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。
 この日が初演とされる曲が4曲。
 7曲目〈Big Boss Man〉、9曲目〈Keep Rolling By〉、15曲目〈Don't Mess Up A Good Thing〉、17曲目〈Gangster Of Love〉。
 〈Big Boss Man〉は1995年07月06日まで計74回演奏。大半は1969年から71年にかけて演奏された。当初はピグペンの持ち歌。元歌は Jimmy Reed の1960年のシングル。クレジットは Al Smith & Luther Dixon。
 〈Keep Rolling By〉は伝統歌。記録に残っているこの曲の演奏はこの日だけ。《The Birth Of The Dead》に疑問符付きでこの年07月17日のものとされる録音が収録されているが、17日のものとされているセットリストには無い。
 〈Don't Mess Up A Good Thing〉もこの日の演奏が最初で最後。同じ録音が《Rare Cuts & Oddities 1966》にも収録されている。原曲は Oliver Sain の作詞作曲で、Fontella Bass and Bobby McClure 名義の1965年のシングル。この2人は当時 Oliver Sain Revue のメンバー。
 〈Gangster Of Love〉もこの日のみの演奏。原曲はジョニー・ギター・ワトソンの作詞作曲で、1957年のシングル。
 Group B というバンドは不明。

2. 1969 Reed's Ranch, Colorado Springs, CO
 木曜日。4ドル。開演8時半。一本勝負。共演アリス・クーパー、Zephyr。
 クローザー前の〈He Was A Friend Of Mine〉が2011年の、7曲目〈Casey Jones〉が2020年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 Zephyr は1969年コロラド州ボールダーで結成された5人組。ギタリスト、トミー・ボーリンの最初のバンドとして知られる。
 アリス・クーパーとデッドが同じステージに立っていたのも時代を感じさせる。この頃のロックは何でもありで、すべて同列だった。

3. 1970 McMahon Stadium, Calgary, AB, Canada
 金曜日。Trans Continental Pop Festival の一環。
 この日は、第一部アコースティック・セット、第二部ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、第三部エレクトリック・セットという構成で、NRPS にはガルシア、ウィア、レシュが入っていた、という証言がある。
 ここでは2日間コンサートがあり、翌日がジャニス・ジョプリンとザ・バンドだった。

4. 1978 St. Paul Civic Center Arena, St. Paul, MN
 月曜日。
 全体が《July 1978: The Complete Recordings》でリリースされた。

5. 1984 Starlight Theatre, Kansas City, MO
 火曜日。13.50ドル。開演8時。
 第二部オープナーの3曲〈Scarlet Begonias> Touch of Grey> Fire On The Mountain〉が2014年と2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 ダブってリリースしたくなるのもわかる演奏だけど、全体を出しておくれ。

6. 1988 Oxford Plains Speedway, Oxford, ME
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演5時。リトル・フィート前座。
 全体が《30 Trips Around The Sun》の1本としてリリースされた。
 第一部〈Bird Song〉の演奏中、パラプレーンないしエンジン付きパラグライダーが飛んできて、会場の上を舞った。やむなくバンドはジャムを切り上げて、セットを仕舞いにした。
 DeadBase XI の John W. Scott によれば、終演後、会場周辺で花火に点火する者が多数いて、中には相当に危険なものもあったそうな。

7. 1994 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。26.50ドル。開演5時。
 第二部2・3曲目〈Eyes of the World> Fire On The Mountain〉が2020年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 上記〈Eyes Of The World〉からガルシアが〈Fire〉のリフを始めたとき、ちょうど陽が山の端に沈んでゆくところだった。バンドがそれに合わせた。
 〈Fire On The Mountain〉は単独での演奏が12回ある。その最後。
 このメドレーはデッドとして一級の演奏で、ガルシアは声を絞りだすように歌うが、出すべきところはきちんと出ている。ギターも細かい音を連ねて面白く、バンドもこれによく反応している。後者への移行は、曲の行方が見えるのを待っているとこれが降りてきたけしき。これを聴いても、全体も良いとわかる。(ゆ)

 なんと、デニス・カヒルが亡くなってしまいました。パディ・モローニの死去にも驚きましたが、こちらはまさしく青天の霹靂。いったい、何があったのか。享年68歳。あたしと1歳しか違わないではないか。死因は公表されていません。やすらかに亡くなった、ということだけ。重い病気ではあったのでしょう。

 いや、しかし、これは痛い。惜しい。The Gloaming はどうなるのだ。その他でもマーティン・ヘイズのプロジェクトには欠かせない人だったのに。ヘイズの喪失感は想像するのも怖いほどですが、単にファンであるこちらも茫然としてしまいます。

 かれのギターはアイリッシュ・ミュージックのギターとして革命的だったけれど、それ以上に、マーティン・ヘイズの音楽を現代の、アイリッシュ・ミュージックの伝統の外の世界とつないだことが大きい。ヘイズのフィドルもまたカヒルのギターを受けて、伝統のコアにしっかり根を下ろしながら、なおかつ同時に現代の、最先端の音楽にもなりえていました。《Live In Siattle》に捉えられた30分のメドレーはカヒルのギターがなくては生まれなかったでしょう。The Gloaming でバートレットのピアノとヘイズのフィドル、オ・リオナードの歌をカヒルのギターがつないでいます。

 それはカヒル本人の精進の賜物でしょう。かれ自身、アイルランドの音楽伝統の外から入ってきて、その最もコアに近いものの一つであるヘイズのフィドルに真向から、愚直に向き合うことで、外と内をつなぐ術を編み出し、身につけていったと思われます。かれは自分が伝統のコアそのものになれないことを承知の上で、あえてそこと自分のいる外をつなぐことに徹したと見えます。こういう人はやはり稀です。

 アイリッシュ・ミュージックに魅せられた人間は、たいてい、そのコアに入ることを目指します。それが不可能だとわかっていても目指します。そうさせるものがアイリッシュ・ミュージックにはあります。カヒルもおそらくその誘惑にかられたはずです。しかし、どうやってかその誘惑を斥けて、つなぐことに徹していました。あるいはギターという楽器の性格が後押しをしていたかもしれない。それにしてもです。

 The Gloaming や Martin Hays Quartet がどう展開してゆくかは、とても愉しみにしていたのですが、カヒルが脱けるとなると、活動そのものが停止するのではないかと危惧します。

 人が死ぬのは常、とわかっているつもりでも、なんで、いま、あなたが死ぬのだ、とわめきたくなることはあります。ご冥福を、などとも言いたくない時があるものです。あたしなどがうろたえてもどうしようもありませんが、なんともショックです。(ゆ)

06月15日・水
 UK の音楽雑誌 The Living Tradition が次号145号をもって終刊すると最新144号巻頭で告知。無理もない。これまでよくも続けてくれものよ。ご苦労様。



 この雑誌の創刊は1993年で、Folk Roots 後の fRoots がその守備範囲をブリテン以外のルーツ・ミュージックにどんどんと拡大していったためにできた空白、つまりブリテン島内のルーツ・ミュージックに対象を絞った形だった。これは正直ありがたかったから飛びついた。

 加えてここは CD の通販も始めて、毎号、推薦盤のリストも一緒に送ってきたから、それを見て、ほとんど片端から注文できたのもありがたかった。これでずいぶんと新しいミュージシャンを教えられた。The Tradition Bearers という CD のシリーズも出した。かつての Bill Leader の Leader Records の精神を継承するもので、音楽の質の高さはどれも指折りのものだったから、これまた出れば買っていた。優れたシンガーでもある編集長 Pete Heywood の奥さん Heather Heywood のアルバムも1枚ある。

 本拠はグラスゴーの中心部からは少し外れたところだが、カヴァーするのはスコットランドだけでなく、イングランドやアイルランドまで拾っていた。ウェールズもときたまあった。アルタンやノーマ・ウォータースンのようなスターもいる一方で、地道に地元で活動している人たちもしっかりフォローしていた。セミプロだったり、ハイ・アマチュアだったりする人も含まれていた。

 こういうメディアは無くなってみると困る。紙の雑誌はやはり消え去る運命にあるのだろう。fRoots もそうだったが、この雑誌も電子版までは手が回らなかったようだ。FRUK のように、完全にオンラインでやるのではなくても、紙版をそのまま電子版にして、定期購読を募る道もあったのではないか、と今更ながら思う。その点では英国の雑誌はどうも上手ではない。もっとも音楽誌はそういう形は難しいのだろうか。

 とまれ、30年続けたということは、ピートもヒーザーももうかなりのお年のはずで、確かに次代にバトンを渡すのも当然ではある。まずは、心から感謝申し上げる。ありがとうございました。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月15日には1967年から1995年まで、8本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1967 Straight Theater, San Francisco, CA
 木曜日。このショウが実際にあったかどうかは疑問視されている。
 この頃のショウは、テープ、実際に見た人の証言、ポスター、チケット、新聞・雑誌などに出た広告や記事などから推定されている。あるいは今後、UCサンタ・クルーズの The Grateful Dead Archives の調査・研究から初期数年間の活動の詳細が明らかになるかもしれない。もっとも未だに出てきていないところを見ると、バンド自らがいつ、どこで、演ったかのリストを作っていたわけではどうやら無いようだ。メンバーや周囲の人間でそういうリストを作りそうなのはベアことアウズレィ・スタンリィだが、かれも録音はして、それについての記録はとっても、自分が録音しなかった、できなかったものについての記録はとっておらず、その証言は記憶に頼っているようにみえる。

2. 1968 Fillmore East, New York, NY
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。4ドル。早番、遅番があり、遅番ショウの開演8時。セット・リスト不明。

3. 1976 Beacon Theatre, New York, NY
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。《June 1976》で全体がリリースされた。

4. 1985 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。15ドル。開演5時。
 DeadBase XI の Phil DeGuere によれば、三連荘は中日がベストになることが多いそうで、これもその一つ。ガルシアのギターが凄かったそうだ。

5. 1990 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。31.50ドル。開演7時。
 第一部が特に良い由。

6. 1992 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 月曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。26.50ドル。開演7時。
 良いショウで、スパイク・リーが客席にいた。この晩、月蝕があったそうな。

7. 1993 Freedom Hall, Louisville, KY
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。

8. 1995 Franklin County Airport, Highgate, VT
 木曜日。37.25ドル。開演6時。ボブ・ディラン前座。
 夏のツアーの最後のレグ、07月09日シカゴまでの15本のスタート。ガルシアの状態はひどく、出来は最低という評価はおそらく「客観的」には妥当なところだろう。一方で、これが最初のショウである人びとにとっては、忘れがたい、貴重な記憶、宝物となっている。加えて、〈Box of Rain〉が Space の次に歌われたのは全部で4回しかなく、これがその最後の4回目になるそうだ。
 前座のディランはすばらしかった。
 DeadBase XI の John W. Scott のレポートは音楽そのものよりも、聴衆の質のひどさに幻滅している。チケットを持たず、持つ意志もない連中が多数詰めかけてフェンスを押し倒して入りこんだ。そうして入った連中はマナーもへったくれもなく、いうなれば「デッドヘッドの風上にも置けない」連中で、時に「フェイク・ヘッド」と呼ばれるような人間だったようだ。フェンスが押し倒されたとき、その支柱が何本か、トイレの個室の上に倒れ、中に閉じこめられた人びとが何人もいたという。(ゆ)

06月04日・土
 Tina Jordan Rees, 《Beatha》CD着。



 ランカシャー出身でリマリックでアイルランド伝統音楽を学び、現在はグラスゴーをベースに活動する人。フルートがメインでホィッスル、ピアノもよくする。これまでにも4枚、ダンス・チューンのアルバムを出しているが、今回は全曲自作で、ギター、ベース、バゥロンのサポートを得ている。初めクラウドファンディングで資金集めをした時に参加したから、先立ってファイルが来て、今回ようやくブツが来る。正式な一般発売は今月24日。

 中身はすばらしい。この人、作曲の才能があって、曲はどれも面白い佳曲揃い。中には名曲となりそうなものもある。楽器の腕も確かだし、明るく愉しく演奏するから、聴いていて気分が昂揚してくる。タイトルはアイルランド語、スコティッシュ・ゲール語の双方で「いのち」を意味する由。

 CD には各曲の背景も書かれていて、中には香港やタイのプーケット島に観光に行った印象を元にした曲もある。タイトル・チューンはやはりパンデミックがきっかけだろう。あたしもパンデミックをきっかけにあらためて「いのち」を身近に感じるようになった。

 このタイトルの発音は今一よくわからないが、デッドの定番ナンバー〈Bertha〉に通じるのがまた楽しい。こちらはデッドのオフィスで、スイッチが入ると勝手にあちこち動きまわる癖があった古い大型の扇風機の愛称。曲も明るく、ユーモラスな曲で、ショウのオープナーによく演奏される。「バーサ」がやってくるのは縁起が良いとされていて、「バーサ、きみはもうぼくのところへは来てくれないのか」と呼びかける。

 リースはこれから愉しい音楽をたくさん聴かせてくれるだろう。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月04日には1966年から1995年まで7本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続のの2日目。開演9時。共演クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、マザーズ。セット・リスト不明。

2. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 日曜日。このヴェニュー10日連続の4日目。セット・リスト不明。

3. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 木曜日。このヴェニュー4日連続のランの初日。3ドル。Southern Comfort、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ共演。
 第一部はアコースティック・デッド、第二部がエレクトリック・デッド。間にニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジのセットが入るのがこの時期の形。
 Southern Comfort はイアン・マシューズのあのバンドだろう。この年デビュー・アルバムを出している。
 第二部終り近く、ガルシアが客席に、俺たちがこれまでやったことのある曲で聴きたいものはあるかと訊ねた。〈It's All Over Now, Baby Blue〉と叫ぶと、レシュが指差して、笑みを浮かべた。という証言がある。アンコールがこの曲。

4. 1976 Paramount Theatre, Portland, OR
 金曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第一部11曲目で〈Mission In The Rain〉がデビュー。ハンター&ガルシアの曲。この月の29日シカゴまで5回だけ演奏され、その後はジェリィ・ガルシア・バンドのレパートリィとして演奏された。スタジオ盤はガルシアのソロ《Reflections》収録。

5. 1977 The Forum, Inglewood, CA
 土曜日。5.50, 6.50, 7.50ドル。開演7時。
 春のツアーとウィンターランド3日間の間に、ぽつんと独立したショウではあるが、出来としてはその両者と肩を並べる由。とりわけ第二部後半。

6. 1978 Campus Stadium, University Of California, Santa Barbara, CA
 日曜日。9.75ドル。開演12時。
 アンコール2曲目〈Sugar Magnolia〉が2010年の、第一部クローザー〈Jack Straw〉が2012年の、その一つ前〈Tennessee Jed〉が2019年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。どれも録音が良い。
 〈Jack Straw〉のクローザーは珍しい。
 第二部 Space でステージの上でオートバイが排気音を出した。
 Wah-Koo というバンドがまず演奏し、次にエルヴィン・ビショップが出てきて、そのアンコールでガルシアと Wah-Koo のリード・ギタリストが参加して、各々ソロをとった。次がウォレン・ジヴォン、そしてデッド。

7. 1995 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演5時。第一部6・7曲目〈Mama Tried> Mexicali Blues〉でウィアはアコースティック・ギター。
 ベイエリア最後のショウで、これが最後に見たショウになった人は多い。この時点では、まだ2ヶ月後にガルシアが死ぬことは誰にもわかっていないが、アンコール〈Brokedown Palace〉を歌うガルシアは自らの挽歌を歌っていたように見えたという。(ゆ)

06月03日・金
 カードが落ちないよと Tidal からメール。Tidal のアプリからサイトに行き、カードを更新しようとするが、郵便番号が正しくないとはじかれる。PayPal の選択肢があるのでそちらにするとOK。

 Bandcamp Friday とて散財。今回は Hannah Rarity、Stick In The Wheel、Maz O'Connor、Nick Hart 以外は全部初お目見え。
Hannah Rarity, To Have You Near
Fellow Pynins, Lady Mondegreen
Fern Maddie, Ghost Story
Fern Maddie, North Branch River
Iain Fraser, Gneiss
Stick In The Wheel, Perspectives on Tradition, CD と本。
Isla Ratcliff, The Castalia
Maz O'Connor, What I Wanted (new album)
Ceara Conway, CAOIN
Nick Hart Sings Ten English Folk Songs
Kinnaris Quintet, This Too
Mama's Broke, Narrow Line
Inni-K, Inion
Leleka, Sonce u Serci
Linda Sikhakhane, An Open Dialogue (Live in New York)
Linda Sikhakhane, Two Sides, One Mirror
Lauren Kinsella/ Tom Challenger/ Dave Smith


%本日のグレイトフル・デッド
 06月03日には1966年から1995年まで、5本のショウをしている。公式リリース無し。

1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演9時。共演クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、マザーズ。
 おたがいのステージに参加したわけではないだろうが、デッドとザッパが同じ日に同じステージに立っている。
 ザッパのインタヴュー集が出ているが、まあ、やめておこう。デッドだけで手一杯。茂木が訳したら読んでみるべ。

2. 1967 Pritchard Gym, State University Of New York, Stony Brook, NY
 土曜日。Lost Live Dead のブログへのロック・スカリーのコメントによれば、ニューヨークに着いてホテルにチェックインするところでおそらく保証金としてだろう、1,500ドルをとられた。これはツアーの費用のつもりだったから、カネが必要になり、Cafe Au Go Go から前借りをした。そこで半ばこっそりと、半ば資金調達のために組んだのがこのショウ。
 デニス・マクナリーの公式伝記によれば、このショウを組んだのはカフェ・ア・ゴーオーのオーナー Howard Solomon とストーニーブルックの学生活動委員会の委員長 Howie Klein。なのでスカリーが「こっそり stealth」というのはどういう意味か、よくわからない。
 ストーニーブルックはマンハタンからロングアイランドを東へ80キロほど行った街。島のほぼ中央の北岸になる。
 ソロモンは西海岸のシーンに共感していて、多数のバンドをニューヨークへ呼ぶことになる。
 クラインは学内のラジオ局で DJ をしており、また学生組織の長でロック雑誌 Crawdaddy! 編集長の Sandy Pearlman とも親しかった。クラインはデッドのファーストを大いに気に入り、これを強力にプッシュしていた。そのおかげもあってか、ロングアイランドは後にデッドにとって強固な地盤となる。
 とまれ、このショウはデッドにとって東海岸で初めて収入を伴うショウとなり、マクナリーによれば750ドルを稼いだ。マクナリーはこの数字をどこから得たか書いていないが、デッドのことだからこの時の収入やかかった費用を記した書類があるのだろう。
 この1967年06月を皮切りに、デッドは頻繁にニューヨークに通って、ショウを重ね、やがてニューヨークはサンフランシスコに次ぐ第2のホームタウンとなり、ファンの絶対数ではサンフランシスコを凌ぐと言われるようになる。このシスコ・ニューヨーク間の移動は当然飛行機によるが、バンドやクルー、スタッフなどおそらく20人は下らないと思われる一行がその度に飛行機で飛ぶことになる。当時の航空便の料金はそういうことが年に何度もできるほど安かったわけだ。今、同じことをしようとすれば、とんでもない額のカネがかかり、駆け出しのロック・バンドには到底不可能だろう。インターステイト(フリーウェイ)・システムとガソリン料金の安さと合わせて、アメリカの交通インフラの条件がデッドに幸いしている。
 おそらく、デッドだけではなく、1960年代から70年代にかけてのアメリカのポピュラー・アクトの発展には、移動コストがきわめて安かったことが背景にあるはずだ。

3. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 土曜日。このヴェニュー10日連続のランの3日目。セット・リスト不明。

4. 1976 Paramount Theatre, Portland, OR
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。1974年10月20日以来、1年8ヶ月ぶりにツアーに復帰したショウ。この間1975年には4本だけショウをしているが、いずれもベネフィット・コンサートへの参加や少数の招待客だけを相手にしたもの。ここで2本連続でウォームアップをした後、09日から東部とシカゴのツアーに出る。
 再生したバンドの新たな出発で、この日初演された曲が5曲。
 まずいきなりオープナーの〈Might As Well〉が初演。ハンター&ガルシアの曲で、1994-03-23まで計111回演奏。1970年のカナダの南端を東から西へ列車で移動しながらのコンサートとパーティー通称 Festival Express へのハンターからのトリビュート。スタジオ盤はガルシアの3作目のソロ・アルバム《Reflections》収録。
 第一部6・7曲目の〈Lazy Lightnin’> Supplication〉。どちらもバーロゥ&ウィアの曲。この2曲は最初から最後までほぼ常にペアで演奏され、1984-10-31まで114回演奏。後者は後、1993-05-24に一度独立で演奏される。この曲をベースにしたジャムは1985年以降、何度か演奏されている。スタジオ盤はやはりペアで、ウィアが参加したバンド Kingfish のファースト《Kingfish》所収。
 第二部オープナーで〈Samson And Delilah〉。伝統歌でウィアがアレンジにクレジットされている。録音により、ブラインド・ウィリー・ジョンソンやレヴェレンド・ゲイリー・デイヴィスが作者とされているケースもある。最も早い録音は1927年03月の Rev. T.E. Weems のものとされる。同年に少なくとも4種類の録音が出ている。ただし12月に出た2種は名義は異なるがブラインド・ウィリー・ジョンソンによる同じもの。デッドは1995-07-09まで363回演奏。演奏回数順では23位。〈Eyes of the World〉より18回少なく、〈Sugaree〉より2回多い。復帰後にデビューした曲としては〈Estimated Prophet〉の390回に次ぐ。スタジオ盤は《Terappin Station》収録。カヴァー曲でスタジオ盤収録は珍しい。
 アンコールの〈The Wheel〉も初演。ハンターの詞にガルシアとビル・クロイツマンが曲をつけた。1995-05-25まで258回演奏。演奏回数順で55位。〈Morning Dew〉より1回少なく、〈Fire on the Mountain〉より6回多い。歌詞からは仏教の輪廻の思想を連想する。スタジオ盤はガルシアのソロ・ファースト《Garcia》。このアルバムの録音エンジニア、ボブ・マシューズによれば、一同が別の曲のプレイバックを聴いていたときに、ハンターは1枚の大判の紙を壁に当てて、この曲の詞を一気に書いた。
 20ヶ月の大休止はバンドの音楽だけでなく、ビジネスのやり方においても変化をもたらした。最も大きなものはロッキーの東側のショウをこれ以後 John Scher が担当するようになったことだ。ロッキーの西側は相変わらずビル・グレアムの担当になる。
 シェアは大休止中にジェリィ・ガルシア・バンドのツアーを担当したことで、マネージャーのリチャード・ローレンと良い関係を結び、2人はよりスムーズでメリットの多いツアーのスタイルを編み出す。これをデッドのツアーにもあてはめることになる。(McNally, 494pp.)
 ショウ自体は新曲の新鮮さだけでなく、〈Cassidy〉や〈Dancin' on the Street〉など久しぶりの曲にも新たな活力が吹きこまれて、全体として良いものの由。オープナーの曲が始まったとたん、満員の1,500人の聴衆は総立ちとなって踊りくるったそうな。

5. 1995 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時。第一部クローザー〈Eternity〉でウィアがアコースティック・ギター。(ゆ)

05月27日・金
 リアム・オ・フリンの使っていたイリン・パイプはレオ・ロウサムから受け継いだもので、リアムの死後、どうなったのだろうと思っていたら、こんなところにあった。



 Colm Broderick & Patrick Finley - Achonry Lasses/Crooked Road to Dublin

 Colm Broderick の使っている楽器がそのユニットで、今は Na Piobairi Uilleann が管理しているらしく、Broderick に永久貸与されているそうな。かれがいかに将来を嘱望されているか、わかろうというものではある。

 ついでにというわけではないが、スコットランドの若手フィドラーの動画。ケープ・ブレトンに4ヶ月、滞在した間に習ったものの由。相棒のチェロがいい感じ。



The Three Mile Bridge' - Isla Ratcliff


##本日のグレイトフル・デッド
 05月27日には1965年から1993年まで3本のショウをしている。公式リリースは2本。

1. 1965 Magoo's Pizza Parlor, Menlo Park, CA
 木曜日。この頃はまだ The Warlocks の名乗り。DeadBase XI 記載のデータ。セット・リスト不明。

2. 1989 Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA
 土曜日。開演3時。"In Concert Aganist AIDS" と題された7日間のイベントの中の1日。デッドがヘッドライナーで、共演はジョン・フォガティ、トレイシー・チャップマン、ロス・ロボス、タワー・オヴ・パワー。スザンヌ・ヴェガとジョー・サトリアーニも出たという。また第一部5曲目〈Iko Iko〉から第二部4曲目 Drums 前の〈Truckin'〉までクラレンス・クレモンスが参加。ジョン・フォガティのステージにガルシアとウィアが参加した。クレモンスはフォガティのステージにも参加した由。
 第二部3曲目〈Blow Away〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 Fantasy Records が CCR との契約を盾にとって、フォガティが CCR時代の自分のオリジナルを歌うのを禁止しようとしたため、フォガティは10年以上にわたって法廷闘争をして、ようやく自分の歌を歌う権利を回復したところだった。かれはハイト・アシュベリー時代に、選挙権登録促進集会でガルシアと共演したことがあるとコメントした。フォガティの後ろでガルシアはにこにこしながら踊りまわり、〈Midnight Special〉のクライマックスで独得のフレーズを放ったから、フォガティはくるりと振り返ると "Oh, what a LICK!" とマイクに叫んだ。
 デッドのステージはすばらしく、ツェッペリンとサバスで育った1人の青年を熱心なデッドヘッドに変えた。

3. 1993 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。24.50ドル。開演7時。
 第一部オープナー〈Shakedown Street〉から6曲目〈When I Paint My Masterpiece〉まで、4曲目〈Beat It On Down The Line〉を除いて《Road Trips, Vol. 2, No. 4》で、第二部オープナー〈Picasso Moon〉から6曲目 Drums 前の〈Cassidy〉までとアンコール〈Gloria〉が、3曲目〈Wave To The Wind〉を除いて《Road Trips, Vol. 2, No. 4 Bonus Disc》で、リリースされた。全体の約半分強にあたる。(ゆ)

05月26日・木
 まず《Dave's Picks, Vol. 1》のアナログ・セットが発送通知から1ヶ月かかってようやくやって来た。このシリーズはジャケット・デザインが共通だけど、30センチ角のサイズはやはり迫力がある。一応収録時間を CD版と比べる。最大10数秒の幅でLPの方が長かったり、短かかったりする。アナログに収めるにあたって、カットしたところは無いようだ。5枚目のB面、Side 10 はブランク。

 John Crowley の新作 Flint And Mirror 着。なんと17世紀後半のテューダー朝によるアイルランド侵略が題材で、ヒュー・オニールとエリザベス一世がメイン・キャラの一角。こいつは早速読みたいが、さて、順番としては次の次だな。Tor からのハードカヴァーだが、造本が1970年代の Doubleday Science Fiction を思わせる。フォント、版組、紙の手触り、薄さ。意図的なものだろうか。後で Rivers Solomon, Sorrowland のハードカヴァー古書が着いたので、これと比べるとなおさらその感を強くする。Sorrowland の方は、これぞ今の造本。Doubleday Science Fiction がSFの発展に果した役割って小さくない、というより、あれは全米の図書館に入っていったのだから、相当に大きいんじゃないか。誰かまとめているのかね。雑誌の歴史はあるが、単行本出版の歴史はあたしは覚えがない。

Flint and Mirror
Crowley, John
Tor Books
2022-04-19


Sorrowland
Solomon, Rivers
Merky Books
2021-03-11



 クロウリーの謝辞を読んで、ネタ本の1冊 Sean O Faolain の The Great O'Neill も古書を注文。そういえばオフェイローンもいたのだ。この人も面白そうだ。Wikipedia によれば紋切り型にアイルランド文化を決めつける態度や検閲によってこれを守ろうとする姿勢に強硬に反対したコスモポリタンと、狂信的愛国主義者が同居しているらしい。しかし、この二つは同居が可能だ。むしろ誠実にアイルランドを愛そうとすれば、コスモポリタンにならざるをえない。いや、どこの国にせよ、誠実に国を愛そうとすれば、コスモポリタンにならざるをえない。自国の利益だけを考えていては国の存続を危くする。このことは20世紀の歴史を通じて明白になっている。新たな実例が目の前で進行中だ。オフェイローンは The Irish: A Character Study を昔読みかけたことがあった。あらためて読んでみよう。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月26日には1972年から1995年まで5本のショウをしている。公式リリースは4本、うち完全版2本、準完全版1本。。

1. 1972 Strand Lyceum, London, England
 金曜日。このヴェニュー4日連続の楽日。ヨーロッパ・ツアーの千秋楽。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 第二部オープナー〈Truckin'〉5曲目〈Morning Dew〉9曲目〈Ramble On Rose〉それにアンコール〈One More Saturday Night〉が《Europe '72》でリリースされた。全体が《Europe ’72: The Complete Recordings》でリリースされた。また第二部7曲目〈Sing Me Back Home〉が《Europe '72, Vol. 2》に収録された。
 31曲。CD で3時間43分。
 このショウは文句なくツアー最後を飾る最高のショウで、1972年というピークの年のベストの1本でもある。デッドは各々の時期によって音楽が変わるから、全体を通じてのベストというのは選び難いが、全キャリアを代表するショウであることも間違いない。また、ピグペンがメンバーとしてフルに参加した最後のショウでもある。一つの時代の終りを最高の形で示してもいる。これを境にデッドは別のバンドになってゆく。そちらの完成が1977年だ。
 この日は第一部にピグペンの持ち歌が集中している。第二部では一度も歌っていない。それだけ、体調が悪かったと思われる。とはいえ、歌っている4曲の歌唱は見事。体調が悪いなどとは微塵も感じさせない。これだけ聴けば、これがかれが歌う最後のショウであるなどとはまったくわからない。あるいは音楽をやり、こうしてバンドで歌うことで支えていたのかもしれない。晩年のボブ・マーリィのように。
 ピグペンのもの以外の歌はどれもこのツアーの総決算を聴かせる。〈Playing In The Band〉は展開の方向が定まり、ここから大休止前にかけて、モンスターに成長してゆく、その予兆が感じられる。もう一つの看板である〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉も、やはり展開の方向がほぼ決まって、これから面白くなるぞとわかる演奏だ。この日は第一部のクローザーとして〈Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad> Not Fade Away〉をやってしまう。やや軽いとも思えるが、それでもほとんど決定的な演奏。
 第二部では〈The Other One〉が〈Morning Dew〉を包みこみ、ほぼ完全に花の開ききった〈Sing Me Back Home〉とともに、ピークを作る。というよりも、オープナー〈Truckin'〉からクローザーの〈Casey Jones〉まで、テンションは上がりっぱなしだ。しかし勢いにまかせてというところはほとんど無く、常にクールなコントロールが効いていて、低く小さく抑えるところと、がんがん行くところの対比とタイミングはこれ以上のものは不可能だろう。こういうところがデッドのショウの面白いところで、勝手気儘にやっているようにみえて、その実、緻密な組立てをしている。たとえば〈Casey Jones〉は、最後に加速してゆく繰返しで、ラストがこれまでで最も速くなるまでになる。前日まではほとんどアンコールは無いが、さすがに最終日はアンコールをやる。ここでのガルシアのソロがすばらしい。
 このツアーからは《Europe '72》という、当時非常識なLP3枚組のライヴ盤が生まれ、デッドのアルバムで最高の売行をみせる。《Live/Dead》と並んで、グレイトフル・デッドというバンドを定義する作品となる。それが実は氷山の一角のカケラであった、とわかるのが《Europe ’72: The Complete Recordings》だ。一連のツアーの全体像が公式リリースされているのは、今のところ、これと1990年春のツアーの二つだけだ。この二つは、デッド30年のキャリアの前期と後期に立つピークをなす。
 あたしはこの22本のショウを聴くことでデッドにハマっていった。聴きだした時には、デッドって何者だ、と思いながら聴いていた。聴きおわった時には、もっと聴かずにはいられなくなっていた。グレイトフル・デッドの音楽とそれが生みだし、それを取り巻く広大な世界が垣間見えたからだ。それからひたすらショウの公式リリースを集め、聴きだした。「テープ」、今はネット上のファイルだが、「テープ」という概念はあたしにはまだ無かった。テープ文化はブートレグ文化とはまったく違う。グレイトフル・デッド特有の現象だ。
 これまで1個のバンドにここまでハマったことは無い。フランク・ザッパも公式に出ているものはすべて手に入れたが、こういうハマり方はしていない。
 1972年春は、原始デッドとアメリカーナ・デッドが合流し、完成し、そして次の位相へと転換するプロセスだ。22本のヨーロッパ・ツアーはそれを具体的な音楽として示している。これを聴くことは、グレイトフル・デッドというバンドがその思春期から青年期へと脱皮するプロセスを体験することでもある。
 そう見れば、この最後のロンドン4日間、とりわけ最終日のショウには、その後のバンドの音楽の姿が最高の形で現れている。

2. 1973 Kezar Stadium, San Francisco, CA
 土曜日。5.50ドル。開場10時。開演11時。デッドの登場午後2時。"Dancing On The Outdoor Green (DOG)" と題されたイベントで、デッドがヘッドライナー、ウェイロン・ジェニングズとニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが共演。スターターは NRPS でキース・ガチョーとマシュー・ケリーが参加。2番目がウェイロン・ジェニングズ。デッドは三部構成で4時間超のステージ。内容はすばらしく、この年のベストのショウの1本の由。
 第二部6曲目〈Box Of Rain〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 オープニングのウェイロン・ジェニングズのバンドのペダルスティール奏者 Ralph Mooney の演奏をガルシアが食い入るように見ていた由。
 元来は05月22日、23日の2日間として予定されていたもの。

3. 1977 Baltimore Civic Center, Baltimore, MD
 木曜日。第一部6曲目〈Passenger〉が2012年の、第二部2曲目〈High Time〉が2013年の、オープナー〈The Music Never Stopped〉が2014年の、第二部オープナー〈Samson and Delilah〉が2016年の、アンコール〈Uncle John's Band〉が2017年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Dave's Picks, Vol. 41》で全体がリリースされた。
 この CDケースに写真が掲載されたノートによると、
Crew Call: 10 AM
Sound Check: 4 PM
Door Open: 6 PM
Show Time: 7 PM
End Of Show: 11PM - STRICT CURFEW!!
とある。最後の音は午後11時までに鳴り終えなければならない。この注意書きが大文字でタイプされているのは、それだけ掟破りが多かったと思われる。この頃のデッドは1972、73年頃のように、やたらに長く演奏することはなくなっていたが、とにかくケツを決められるのが嫌いだったのだろう。この日、この制限が守られたかは定かではない。CD での時間は2時間54分。
 前日のリッチモンドからボルティモアまでは250キロ、車で2、3時間。移動日無し。翌日は移動日でコネティカット州ハートフォードまで、ボルティモアからは480キロ。このハートフォードが春のツアーの千秋楽。
 この日はどちらかというと第二部が良いショウの1本に聞える。第一部もすばらしいが、とんでもないと思えるところがまず無い。ほとんど坦々と演奏していると聞える。というのは贅沢なのだが、1977年春については、そういう贅沢も許される。では、悪いかといえば、むろんそんなことはなく、どの曲もすばらしい演奏が続く。ただ、どこか、きっちりと収まっているところはある。
 中ではオープニングの2曲、4曲目という早い位置の〈Sunrise〉、〈Brown-Eyed Women〉〈Looks Like Rain〉、そして〈New Minglewood Blues〉が突込んだ演奏を聴かせる。第二部では〈High Time〉の言葉をそっと置くようなコーラス、〈Big River〉のガルシアのソロ、〈Estimated Prophet〉後半の集団即興が聞き物。そして、〈Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad> Around and Around〉の畳みかけ。〈Not Fade Away〉のガルシアのギター・ソロは凄みすら感じさせる。ほとんどこの世のものとも思えない。〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉でもその調子が崩れない。ここでは基本として3人とも小さく歌い、"bad, bad, bad" とくり返すところだけ声を大きくする。だんだん力を入れてゆき、ついにはわめき、いきむ。その対照の妙。〈Around and Around〉でもガルシアのギターがすばらしい。アンコールの〈Uncle John's Band〉は、3人の歌の入り方がよく計算されている。1人で歌い、2人で歌い、3人目が加わり、また元にもどり、という具合。この曲のコーラスはドナがいた時期の後半が最も美しい。
 ああ、永遠の1977年春。

4. 1993 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時。レックス財団ベネフィット。
 《Road Trips, Vol. 2, No. 4》とそのボーナス・ディスクで第二部 Space を除く全体がリリースされた。
 第二部の中核〈Playing In The Band〉は1990年代で1、2を争うと言われる。

5. 1995 Memorial Stadium, Seattle, WA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。33.25ドル。開演5時。第一部クローザー前の〈Eternity〉でウィアがアコースティック・ギター。
 かなり良いショウの由。とりわけ第二部オープナー〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉が良いらしい。(ゆ)

05月25日・水
 Cormac Begley から新譜《B》のブツが到着。Bandcamp で買ったので、音源はすでにファイルの形で来ている。ブツを見て、んー、これは見たことがあるなあ、と調べてみると、同じベグリィの前作2017年の《Cormac Begley》がすでにこのコンサティーナの六角形の蛇腹の形のスリーブを採用している。今回は Bass & baritone consertina でひと回り大きい。やはり片側に内部の写真とライナー、反対側に曲解説。まあ、わかりやすいね。CD棚でもひときわ目立つ。しかし、この大きさだと、普通の CD棚には入らない。そこらに重ねておくしかない。
 
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##本日のグレイトフル・デッド
 05月25日には1966年から1995年まで8本のショウをしている。公式リリースは完全版2本。

1. 1966 Unknown Venue, San Francisco, CA
 水曜日。共演シャーラタンズ。とされているが、DeadBase XI では05-29かもしれない、としている。そちらもシャーラタンズ共演で、ポスターが残っている。

2. 1968 National Guard Armory, St. Louis, MO
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。セット・リスト不明。

3. 1972 Strand Lyceum, London, England
 木曜日。このヴェニュー4日連続のランの3日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 《Europe ’72: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 このツアーでの一つの決まりは第一部はガルシア、ウィア、ピグペン各々の持ち歌を交互にやることだ。ガルシアの曲で始めれば、次はウィアの曲、次はピグペン、次はまたガルシアという具合で、ツアーを通してこれを維持している。ひょっとすると、ピグペンがこの後バンドにいられるのも、それほど長くないと他のメンバーが覚悟していたものか。とまれ、このパターンはうまく働いて、ショウにリズムを生み、全体の質を上げる要因にもなっている。
 ここでは3周目で〈Jack Straw〉〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉の次がウィアの〈Me and Bobby McGhee〉で崩れるが、その後の〈Good Lovin'〉は15分を超えて、このツアーのベストの集団即興を生みだす。この曲ではガルシアがオルガンを弾いたりもする。これはちょっと面白いことで、デッドの音楽には鍵盤が不可欠なのだ。デッドヘッドの一部には、いわゆるコアの5人が真のデッドで、鍵盤奏者は付録のように見なす態度があるが、これは贔屓の引き倒しというものだ。自分たちの音楽に鍵盤が必要であることを、ガルシアも他のメンバーもわかっていて、だからこそ、ピグペンが常時出られなくなるとキースを入れたし、キースが抜けた後も、ミドランドが急死した時も、次の鍵盤奏者の準備ができるまではショウをしなかった。
 次の〈Playing In The Band〉は、ますます集団即興が深まって、ガルシアはほとんど何もやっていないようなのに、音楽そのものはすばらしい。
 ガルシアのギターは第二部に入ると俄然良くなり、面白いソロを頻発する。とりわけ〈Chinatown Shuffle〉〈Uncle John's Band〉〈Comes A Time〉〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉はベスト・ヴァージョン級。珍しや〈Sittin' On Top Of The World〉では、原始デッド時代との差に唖然とする。少なくともギタリストとしてのガルシアはほとんど別人だ。
 ガルシアのギターは1970年頃を境に変わりだし、この1972年にはその後のスタイルがほぼ出来上がっている。誰か検証しているだろうが、あたしの見立てでは、ハワード・ウェールズとマール・ソーンダースとの個人的セッションを始めたことがきっかけだ。ガルシア自身、ソーンダースからは音楽を教えられたと認めている。ポピュラーやジャズのスタンダードの曲と演奏のやり方を学ぶ。当時のロック・ミュージシャンはブルーズは聴いても、スタンダードは聴いていない。ガルシアが鍵盤奏者とのセッションを始めるのは、その不足を自覚したからではないか。
 1970年代を通じてガルシアはジャズに接近してゆき、1980年前後、最も近くなる。デッドの演奏もジャズの要素が大きくなり、何よりも1980年前後のガルシアのソロ・プロジェクト、Legion Of Mary はほとんどジャズ・バンドだ。
 1972年にはまだそこまでいかないが、同時代のロックのギターとはまったく別の道を歩んでいる。もっとも〈Wharf Rat〉から最高の形で遷移する〈Dark Star〉の特に前半はジャズとしか呼びようがない。そこからフリー・リズムになり、一度静かに抑えた歌が入り、その後、今度はベースが主導してジャズになる。音がだんだん大きくなって、最後は荒ぶるが、粗暴にはならない。
 いよいよ後1日。長いツアーの千秋楽を残すのみ。

4. 1974 Campus Stadium, University Of California, Santa Barbara, CA
 土曜日。6ドル。開演午前10時。共演マリア・マルダー、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。
 きれいに晴れた1日の、すばらしいショウの由。陽射しが強く、ひどい日焼けをした人もいたらしいが、ガルシアはなぜかタートルネックのセーターを着て、袖をまくりあげていた。Wall of Sound の時期で、共演者たちもその恩恵に与ったわけだ。

5. 1977 The Mosque, Richmond, VA
 水曜日。《Dave's Picks, Vol. 1》で全体がリリースされた。
 残念ながらこれは持っていない。あたしがデッドにハマるのは、これが出た2012年の夏で、まだ様子がよくわからなかった。後から中古盤を買うことを思いついた時にはすでにとんでもない高値になっていた。このシリーズを買いだすのは秋に出た《Vol. 3》からで、翌年からは年間予約する。
 《Dave's Picks》のシリーズは始まって10年を超えたが、未だに再発されていない。《Dick's Picks》は始まって10年経たないうちに CD が一般発売され、現在はファイルのダウンロード販売やストリーミングがされているが、《Dave's Picks》は当初出た CD のみで、中古盤が高いのはそのせいだろう。今年、《Vol. 1》がアナログで再発された。今後も続けるのかどうかはアナウンスされていないが、おそらく続けるだろう。スタートでは12,000枚発行だったものが、今や倍以上の25,000枚だから、初めの方を欲しい人間はたくさんいる。実際、《Vol. 1》のアナログ盤はあっという間に売り切れていた。あれの売行が良かったので、今回《Europe '72》の50周年記念でロンドン4日間のアナログ・ボックスを企画したのかもしれない。
 とまれ、そのアナログ盤の出荷通知が先月末に来て、ひと月かけてようやくブツが届いた。LP5枚組で、最後の Side 10 はブランク。さて、アナログを聴く環境を整備、つまりターンテーブルをちゃんと使えるようにしなければならない。点検・修理からもどってきたまま、放置してしまっている。アームの調整がちょと面倒なのだ。

6. 1992 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演5時。
 まずまずのショウの由。

7. 1993 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時。レックス財団ベネフィット。
 この3日間はかなり良いショウの由。

8. 1995 Memorial Stadium, Seattle, WA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。28.25ドル。開演5時。
 この3日間の中ではベストの由。(ゆ)

05月21日・土
 久しぶりのアイリッシュ。久しぶりの生音。それも極上の音楽で、パンデミックが始まって以来の喉の渇きをやっとのことで潤すことができた。終演後アニーが言っていた通り、こういう音楽をやっている人たちが身近にいる、時空を同じくして生きていることが心底嬉しい。アニーもまたその人たちの1人ではある。

 須貝さんからこういうライヴがあるんですけどとお誘いが来た時には二つ返事で行くと答えた。須貝さんが惚れこんだ相手なら悪いはずがない。それにたとえどんなに悪くなろうとも、須貝さんの笛を生で聴けるのなら、それだけで出かける価値はある。

 確かにライヴのためにでさえ、東京に行くのが怖い時期はあった。何より家族の事情で、症状が出ないとしてもウィルスを持って帰るようなリスクは冒せない。しかし、感染者数は減らないとはいえ、死者の数は減っているし、亡くなっている人たちにしてもウィルスだけが原因というわけでもない。明らかにひと頃よりウィルスの毒性は落ちている。だいたい感染力が強くなれば、毒性は薄まるものだ。家族は全員3度目のワクチン接種もすませた。ということで、チャンスがあればまた出かけようという気になっていた。

 木村穂波さんのアコーディオンは初体験。ちょうど1年前、同じムリウィでデュオとして初のライヴをされたそうだ。体験して、こういう人が現れたことに驚嘆もし、また嬉しくもなる。最初に思いだしたのはデイヴ・マネリィだ。木村さんはアイルランドで最晩年のトニー・マクマホンの生にも接してこられたそうだが、そのマクマホンが聴いても喜んだだろう。

 今日は愚直にアイリッシュを演ります、と言われる、まさにその通りに愚直にアイリッシュ・ミュージックに突込んでいる。脇目もふらず、まっすぐにその伝統のコアに向かって掘りすすんでいる。普通の楽器でもそう感じたのが、もう1台の少し大きめの E flat(でいいんですよね)の楽器に替えると、もう完全にアイルランドの世界になる。そして何よりも、それが少しも不自然でない。まるでここ世田谷でこの音楽をやって、目をつむればアイルランドにいるとしか思えなくなるのが、まったく不自然ではなくなる。雑念が無い。これもアニーが終演後に言っていたが、極上のセッションに立ち合っている気分だ。

 須貝さんのフルートがまた活き活きしている。これまでのライヴが活き活きしていなかったわけでは毛頭無いけれど、水を得た魚というか、本当に波長の合う相手を見つけた喜びがこぼれてくる。このライヴの前にケイリーの伴奏で3時間吹いてきて、ちょうどできあがったところ、というのもあるいは大きいのかもしれないが、そこでさらにアイリッシュの肝に直接触れるような演奏を引き出すものが、木村さんの演奏にあるとも思える。

 アニーがそれにギターまたはブズーキを曲によって持ち替えて伴奏をつけるのだが、本当に良い伴奏の常として、聴衆に聴かせるためよりも、演奏者を浮上させるために弾いている。生音だが、アコーディオンもフルートも音の小さな楽器ではなく、たとえばフィドルよりも大きいから、時に伴奏は聞えなくなるが、それは大したことではない。

 そのアニーも伴奏しているうちに自分も演奏したくなった、と言って、後半のオープニングに3曲、ギター・ソロを披露する。これがまた良かった。1曲目、聞き覚えのある曲だなあ、とても有名な曲だよなと思っていたら、マイケル・ルーニィの曲だった。2曲目はジョンジョンフェスティバルの〈サリー・ガリー〉、3曲目は長尾晃司さんの曲。そういえば、前半でアニーの作った曲〈Goodbye, May〉を2人が演奏したのはハイライト。パンデミック中に O'Jizo が出した《Music In Cube》収録の、これまた佳い曲だ。

MiC -Music in Cube-
O'Jizo
TOKYO IRISH COMPANY
2021-03-14


 須貝さん、木村さん、それぞれのソロのコーナーも良い。須貝さんはコンサティーナ。メドレーの2曲目〈Kaz Tehan's〉はあたしも大好きなので歓ぶ。木村さんの演奏はソロで聴くと、独得のタメがある。これまで聴いたわが国のネイティヴの演奏ではほとんど聴いたことがない。こういうのを聴くと、ソロでももっと聴いてみたくなる。

 どれもこれも、聴いている間は桃源郷にいる心持ち。とりわけ引きこまれたのは2曲目のジグのメドレーの2曲目〈Paddy Fahy's〉(と聞えた)と、後半3曲目リズ・キャロル関連のメドレーの2曲目。

 終演後、木村さんに少しお話しを伺えた。もともと歴史が好きでノーザン・アイルランド紛争の歴史を勉強していて、アイルランドに行ったのもそのための由。先日の、ノーザン・アイルランド議会選挙の結果で盛り上がってしまえたのは、歴史オタクのあたしとしては思いがけず嬉しかった。クラシックでピアノを始め、ピアノ・アコーディオンに行き、トリコロールを見て、アイリッシュとボタン・アコーディオンに転向。というキャリアの割りにアイリッシュ・ミュージックの真髄に誰よりも近づいているように聞えるのは、アイルランドの歴史に造詣が深いからだろうか。少なくとも木村さんの場合、歴史を勉強されていることがアイリッシュ・ミュージックへの理解と共感を深める支えになっていると思われる。

 アプローチは人さまざまだから、歴史の代わりに料理でも馬でもいいはずだが、アイリッシュ・ミュージックが音楽だけで完結しているわけではないことは、頭のどこかに入れておいた方が、アイリッシュ・ミュージックの奥へ入ってゆく際に少なからず助けになるはずだ。これがクラシックやジャズや、あるいはロックであるならば、音楽だけに突込んでいっても「突破」できないことはないだろうけれど、こと伝統音楽にあっては、音楽を支えているもの、それがよってきたるところと音楽は不可分、音楽はより大きなものの一部なのだ。極端な話、ふだん何を食べているかでも音楽は変わってくる。

 とまれ、このデュオの音楽はすばらしい。こんなにアイリッシュばかりごりごり演るのは滅多にありませんと終演後、須貝さんに言われて、ようやく確かにと納得したけれど、聴いている間はまるで意識していなかった。ただただ、いい音楽に浸りきっていた。この上はぜひぜひ録音を出していただきたい。とは、お2人にもお願いしたが、重ねてお願いする。あたしが生きて、ちゃんと音楽が聴けるうちに出してください。

 それにしてもアイリッシュはええ。生音はええ。耳が甦る気がする。須貝さん、木村さん、アニーに感謝感謝。それになぜか演奏しやすいらしい場を提供してくれているムリウィにもありがとうございます。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月21日には1968年から1995年まで8本のショウをしている。公式リリースは完全版1本にほぼ完全版1本の2本。

1. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
 火曜日。厳密にはデッドのショウとは言えない。参加したミュージシャンはガルシア、ハート、ヨウマ・カウコネン、ジャック・キャサディ、エルヴィン・ビショップ、スティーヴ・ミラー、ウィル・スカーレット。何らかのベネフィットで入場料1ドル。ポスターがあるそうだが、未見。

2. 1970 Pepperland, San Rafael, CA
 木曜日。ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーと共演し、〈Turn On Your Lovelight〉にジャニス・ジョプリンが参加した、という話がある。のだが、DeadBase 50 はこのショウは無かったとしている。

3. 1974 Hec Edmundson Pavilion, Seattle, WA
 火曜日。開演7時。全体が《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》でリリースされた。これについてはまたあらためて。

4. 1977 Lakeland Civic Center, Lakeland, FL
 土曜日。アンコールの〈U.S. Blues〉のみを除く全体が《Dick's Picks, Vol. 29》でリリースされた。
 77年春のツアー前半は確かにピーク中のピークなのだが、では後半が劣るかと言うと、そんなことはまったく無い。と、改めてこれを聴いて思う。
 この日のショウでは、ガルシアのギターがことさらに冴えわたり、この曲のベスト・ヴァージョンだ、と言いきりたくなる瞬間が続出する。オープナーの〈Bertha〉から面白いフレーズが流れ迸る。〈Tennessee Jed〉〈Row Jimmy〉〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉のとりわけ FOTM、さらには〈New Minglewood Blues〉のような曲でもすばらしい。〈Samson and Delilah〉〈Estimated Prophet〉、いずれも見事。そして〈He's Gone〉の後半が凄い。歌の後、メインの歌からは完全に外れた集団即興になり、さらに途中からいきなりテンポが急調子に切り替わり、さらに即興が続く。その先頭に立ってガルシアのギターが飛んでゆく。ベースは〈The Other One〉のリフを先取りするが、まずは Drums になる。強烈な「叩き合い」の後、あらためて始まる〈The Other One〉、をを、見よ、ガルシアのギターが天空を翔けてゆく。それをバンドが追いかけて、さらにガルシアを打ち出す。打ち出されたガルシアは遙かな地平線めがけて弧を描いて落ちてゆくが、落ちきらずに、地平線すれすれのところをどこまでも伸びてゆき、やがて〈Comes a Time〉へと降りたつ。ここではヴォーカルもいいが、後半の抒情たっぷりのギターを聴いて泣かないヤツはニンゲンじゃねー。この前では、〈哀愁のヨーロッパ〉のジェフ・ベックも裸足で逃げだそう。いや、そんなもんではない。もっともっとそれ以上の、およそあらゆるエレクトリック・ギター演奏としてこれ以上のものはない、これはこの曲のベスト・ヴァージョン。そこから遷移するのが一転ダイナミックこの上ない〈St. Stephen〉。さらに一転、ドラマーたちがゆったりとビートを叩きだして〈Not Fade Away〉。ここでもガルシアのギターがユーモアたっぷりに跳びまわる。踊れ、踊れ、みんな踊れ。そう叫びながら跳びまわる。踊りまわる。踊りまわりつづける。と思うと、いつの間にか、〈St. Stephen〉のリフが始まっている。この回帰はカッコいい。きちんと始末をつけて一拍置いて〈One More Saturday Night〉。これまたゆったりとしたテンポがそれはそれは気持ち良い。余計な力がどこにも入っていない。間奏のガルシアのギターがきらきら輝きをはなち、ウィアも実に気持ちよさそうに歌う。そう、ロックンロールとは、このゆったりしたテンポでこそ真価を発揮するのだ。
 このショウは実にゆったりしている。もともとこの春の演奏は全体に遅めでゆったりと余裕をもってやっているが、この日はその中でもさらに遅く、これ以上遅くはできないのではないかと思われるほど。そのゆったりしたテンポに乗って、意表をつく美味しいフレーズを連ねられると、参りました、と平伏すしかない。
 ヴォーカルもすばらしく、ガルシアでは〈Comes a Time〉、ウィアは〈Samson and Delilah〉、そして〈He's Gone〉後半のドナも加わった3人の歌いかわしがハイライト。
 この春の音楽の質の高さにドナの貢献は実に大きいと、あらためて思う。
 《Dick's Picks》ではアンコールが収められていないが、〈One More Saturday Night〉での締めを聴くと、これ以上あえて要らない。
 何度でも言うが、1977年春のデッドは幸せで、それを聴くのもまた幸せだ。
 次は翌日、フロリダでもう1ヶ所。

5. 1982 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 金曜日。12ドル。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの初日。
 かなり良いショウの由。第二部2曲目〈Uncle John's Band〉は16分に及ぶ。西海岸では1980年10月以来で、聴衆の反応は爆発的だった。

6. 1992 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。レックス財団ベネフィット。初日の共演がデヴィッド・グリスマン・クインテット、2日目が Hieroglyphics Ensemble、そしてこの日がファラオ・サンダース。いずれもレックス財団がこの年、寄付をした対象。
 なお、この3日間、デッドは同じ曲をやっていない。かなり良いショウの由。
 Hieroglyphics Ensemble は Peter Apfelbaum が作った17人編成のビッグ・バンド。ピーター・アフェルボームは1960年バークリー生まれのジャズ・ミュージシャン。ピアノ、テナー・サックス、ドラムスを操る。ワールド・ミュージック志向のなかなか面白い音楽をやっている。

7. 1993 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 金曜日。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの初日。

8. 1995 Sam Boyd Silver Bowl, Las Vegas, NV
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。30ドル。開演2時。The Dave Mathews Band 前座。Drums にデイヴ・マシューズ・バンドのドラマー Carter Beauford が参加。
 前2日よりずっと良く、この年のベストの1本の由。(ゆ)

05月17日・月
 アイルランドのシンガー Sean Garvey が今月6日に亡くなったそうです。1952年ケリィ州 Cahersiveen 生まれ。享年69歳。60代で亡くなると若いと思ってしまう今日この頃ではあります。

 ガーヴィーは若い頃から歌いはじめていますが、本格的に歌うようになったのは教師の資格をとりにダブリンに出てきてからで、ひと頃はパディ・キーナンと The Pavees というバンドもやっていたそうです。後、コネマラのスピッダルに住み、コネマラのシャン・ノース・シンガーたちの影響を受け、アイルランド語でも歌いはじめます。

 1990年代後半以降、ダブリンに住み、The Cobblestone でジョニィ・モイニハンやイリン・パイパーの Nollaig Mac Carthaigh と定期的にセッションしていました。2006年にケリィにもどり、TG4 の Gradam Ceoil singer of the year を受賞しました。

 ぼくがこの人を知ったのは1998年に出たファースト・アルバム《ON dTALAMH AMACH (Out Of The Ground)》でした。2003年にセカンド《The Bonny Bunch of Roses》を出していますが、未聴。昔『ユリイカ』に書いた「アイルランド伝統歌の二十枚」にファーストをとりあげていたので、追悼の意味を込めて再録します。
 文中に出てくる、アーチー・フィッシャー、フランク・ハートやティム・デネヒィについては、もう少し余裕ができてから書いてみたいところです。

 なお、このファーストは本人がヴォーカルの他、フルート、ホィッスル、バンジョー、マウス・オルガン、ギターを担当して、まったくの独りで作っています。

Sean Garvey  ON dTALAMH AMACH (Out of the Ground); Harry Stottle HS 010, 1998
 フランク・ハートの友人でもあり、またしてもケリィ出身のこのシンガーもテクノロジーの恩恵で姿を現した秘宝の一人。写真からすればおそらくは現在五十代後半から六十代だろう。声といいギター・スタイルといい、スコットランドの名シンガー、アーチー・フィッシャーを想わせる人だが、歌からたちのぼる味わいもまた共通のものがある。ティム・デネヒィ同様、ケリィの伝統にしっかりと足をつけて揺るがない。生涯の大部分を野外で過ごしたであろう風雪に鍛えられた風貌にふさわしい声は、一方でなまなかなことでは崩れないねばり強さを備え、一語一語土に植付けるようにうたう。タイトル通り、土に根ざした声が土に根を張る歌をうたう。やがてその声が帰るであろう土はあくまでもアイルランドの土だが、また地球の土でもあり、今これを聞くものの足元の土に繋がる。この邦の伝統音楽を聴きつづけてきたことを何者かに感謝したくなる瞬間だ。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月17日には1968年から1981年まで6本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版2本。

1. 1968 Shrine Exhibition Hall, Los Angeles, CA
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。セット・リスト不明。

2. 1970 Fairfield University, Fairfield, CT
 日曜日。このショウは実際には行われなかった、という説もある。この1週間前にドアーズがここでコンサートをしており、それによって大学当局は「望ましからざる」ことを避けるため、この公演をキャンセルした、という。詳細不明。

3. 1974 P.N.E. Coliseum, Vancouver, BC, Canada
 金曜日。コマンダー・コディ&ヒズ・ロスト・プラネット・エアメン前座。
 第二部4曲目〈Money Money〉が《Beyond Description》所収の《From The Mars Hotel》のボーナス・トラックで、続く5・6曲目〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2011年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 第二部4曲目で〈Money Money〉がデビュー。バーロゥ&ウィアの曲。この後、19日、21日と3回だけ演奏。スタジオ盤は《From The Mars Hotel》収録。3回しか演奏されなかったのに、そのすべてが《Pacific Northwest '73–'74: The Complete Recordings》でリリースされた。
 ここでの演奏を聴くとドナの存在が前提の曲のように思える。

4. 1977 University Of Alabama, Tuscaloosa, AL
 火曜日。
 第一部6曲目〈Jack-A-Roe〉が《Fallout From The Phil Zone》で、10曲目〈High Time〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《May 1977》で全体がリリースされた。
 この春のツアーのどのショウでは余裕がある。テンポがことさら遅いとも思えないが、ほんのわずかゆっくりで、ためにアップテンポの曲でも歌にも演奏にも無闇に先を急がないゆったりしたところがって、それがまた音楽を豊饒にしている。このショウはその余裕が他よりも大きいように感じる。アンコールの〈Sugar Magnolia〉ではその感覚がより強く、この曲そのものだけでなく、ショウ全体の味わいも深くしている。
 この時期全体に言えることだが、ガルシアのギターがほんとうにすばらしい。ソロも伴奏も実に充実している。この日はとりわけ2曲目の〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉、5曲目〈Jack Straw〉、7曲目〈Looks Like Rain〉、そして第一部クローザーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉特に前者、第二部〈Estimated Prophet〉。第二部2曲目〈Bertha〉のような、いつもはソロを展開しない曲でも見事なギターを聴かせる。
 これまたいつものことだが、デッドの場合、こういうガルシアのソロが、それだけ突出することはほとんど無い。バンド全体の演奏の一部で、だからこそ、ガルシアのソロが面白いと全体が面白くなる。全員がそれぞれに冴えていて、それが一つにまとまっている。1977年春のデッドは実に幸せそうで、それを聴くこちらも幸せになる。
 大休止から復帰後、特にこの1977年以後のデッドのショウは大休止以前よりもコンパクトになり、2時間半が普通になるが、このショウはその中では珍しく CD で3時間を超えている。やっていて気持ちが良かったのだろう。ハイライトは第一部クローザーの〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉で、どちらも13分、合計で26分超。ベスト・ヴァージョンの一つ。〈Looks Like Rain〉もベスト・ヴァージョンと言ってよく、どちらかというと第一部の方が充実している。
 次は1日置いて、アトランタのフォックス・シアター。

5. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL
 水曜日。9.50ドル。開演8時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第二部2曲目〈Friend Of The Devil〉が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 アンコール〈Werewolves Of London〉がことさらに良かった由。

6. 1981 Onondaga Auditorium, Syracuse, NY
 日曜日。開演7時。(ゆ)

05月08日・日
 ノーザン・アイルランドの今回の選挙結果が5年後に統一アイルランドを生むとは思えない。今のところは。一方で、Northern Ireland Protocol が承認される可能性は大きい。

 ユニオニストは平和は望んでいるかもしれないが、平等も和解も望んではいない。彼らが望んでいるのは、100年前にノーザン・アイルランドが生まれた時に享受していた経済的、社会的な優位を保ったまま、聖金曜日合意のメリット、経済的繁栄を確保することだ。

 ユニオニストが NIP に反対するのは、はたして理念としてGBから分離される、さらには公式に分離されることにつながると見ているからだけだろうか。より実際的な経済的理由があるのではないか、とも思える。もっともNIP はユニオニストが関れないところで決められた。そこにユニオニストの利益に対する配慮は無い。

 実際にはノーザン・アイルランドはすでにUKからは分離している。というよりもユニオニストは自分たちに都合のよい部分のみ連合している。ブリテンでは認められている妊娠中絶はノーザン・アイルランドだけでは認められていない。そこではすでに分離しているわけだ。

 ユニオニストにとって心配すべきは、シン・フェーンが第一党になったことよりも、Alliance が議席を倍増して第3党になったことだろう。シン・フェーンの得票数を見ても、ここに投票したカトリックの数がとりわけ増えたことはおそらく無い。増えたのはプロテスタント側のはずだ。つまり、カトリックと対等に共存してもいいと考えるプロテスタントの数がぐんと増えたわけだ。ここに投票した人びとはもはやユニオニストとは呼べない。

 タリバーンやプーチン政権、あるいはビルマ/ミャンマー政府のように、武力によって既得権益を確保する道はないユニオニストとしては、ノーザン・アイルランド新政権の成立をできるかぎり引き延ばし、なるべく早く、どんなに遅くとも NIP の承認投票が予定されている2024年12月までに次の選挙が行われるようにもってゆくしかない。そこで第一党を取り戻せる保証はないが、とにかく、なんとしても、それこそどんな手段を使ってでも、そこで第一党の地位を回復することが必要不可欠だ。

 今回の選挙自体、第一党だった DUP がノーザン・アイルランド行政府の首相を辞任することで行政府を崩壊させたために行われた。DUP は今回の選挙でも第一党になれると思っていたわけだ。道義からすれば、そこで選挙に負けたからと言って、行政府参加を拒否するいわれは無い。しかし、ユニオニストは道義にしたがって行動することはノーザン・アイルランド誕生の時から放棄している。

 ノーザン・アイルランドのシン・フェーン党首ミシェル・オニールがノーザン・アイルランドを率いると思うと胸くそが悪くなる、とユニオニストたちはのたまわったと報じられている。これまでナショナリスト=カトリックたちは、ユニオニストがノーザン・アイルランドを率いることにほとほと嫌気がさしているのだ、ということには思いいたらない。

 ユニオニストにとって最大の悲劇は、自分たちが持っていると思っている既得権益がとうの昔に実質を失なっていることを認め、その認識にしたがって行動することができない点だ。これはノーザン・アイルランドの特殊事情のようにも見える。一方で、いつのどこであろうと、既得権益にしがみつく者は遅かれ早かれ、同様の幻想に囚われ、新たな権益を獲得するチャンスも失うことになることを、身をもって示してくれているとも見える。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月08日には1968年から1981年まで8本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1968 Electric Circus, New York, NY
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。この3日間は早番、遅番の2回ショウをしているようだ。全体のセット・リストは不明。

2. 1969 Unknown, Unknown, CA
 木曜日。場所は不明なのに、この日、ショウがあったという記録ないし記憶は残っている。

3. 1970 Farrell Hall, SUCNY, Delhi, NY
 金曜日。SUCNY は当時の呼び方らしく、現在ここは State University of New York のキャンパスの一つ。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが前座を勤めたようだ。録音が一部、おそらくショウの最後の部分しか残っておらず、全体のセット・リストは不明。残っている録音の音質もひどいらしいが、演奏そのもののおかげで救われている由。
 場所はアップステートでもコーネルのあるイタカよりは南、ニューヨーク州中部になる。キャッツキル山地中の盆地の一つ。

4. 1977 Barton Hall, Cornell University, Ithaca, NY
 日曜日。コーネル大学の学生向け前売6.50ドル、それ以外と当日7.50ドル。開演8時。このヴェニューではこれを皮切りに1980年、1981年それぞれともに5月にショウをしている。いずれも公式リリースがある。この1977年と1981年は完全版が出ている。
 第一部クローザー〈Dancing In The Street〉が回顧ボックス・セットの第2集《Beyond Description》でリリースされた後、全体が《May 1977: Get Shown The Light》でリリースされた。また単独の CD としても一般発売されている。このショウの録音は2011年にアメリカ連邦議会図書館の the National Recording Registry に収められた。いわば録音の国宝ないし重文に相当するものと言えるだろう。
 デッド史上最高のショウとして名高いが、いや、〇〇の方がいい、これは過大評価だ、という声も絶えない。クローザーの〈Morning Dew〉1曲のおかげだ、という人もいる。このショウの評価をめぐるネット上の議論はとびぬけて長く熱い。いずれにしても、1990-03-29とともに、デッドのショウの最良の実例ではある。グレイトフル・デッドというバンドの一つの到達点にちがいない。
 コーネル大学のあるアップステート、ニューヨーク州北部は寒いところで、この日も雪が積もっていたそうな。

5. 1979 Recreation Hall, Penn State University, University Park, PA
 火曜日。10ドル。開演8時。05月08日のショウに外れなし、といわれる。

6. 1980 Glens Falls Civic Center, Glens Falls, NY
 木曜日。すばらしいショウの由。

7. 1981 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY
 金曜日。このヴェニュー3本連続の中日。開演8時。第二部 Space にケン・キージィがハーモニカで参加。すばらしいショウの由。

8. 1984 Silva Hall, Hult Center for the Performing Arts, Eugene, OR
 火曜日。このヴェニュー3日連続の楽日。18ドル。開演8時。
 ケン・キージィ&メリー・プランクスターズがサンダー・マシーンで Space に参加し、ために不気味な雰囲気になったが、全体としてはすばらしいショウの由。(ゆ)

0406日・水

 アイルランドのアーティストへのベーシック・インカム制度のパイロット版申請受付開始。1週間325EUR を3年間もらえる。アーティストまたはアートに関わる労働者で、申請して受給資格審査を通った中から抽選で2,000人が対象。支給されたものには課税されるが、税金の額はケース・バイ・ケースで異なる。これ以外に稼ぐのはもちろんOK。

 325EUR x54=年額17,550EURx2,000=35,100,000EUR。現在のレートで47.5億。

 わが国に置きかえてみる。人口比からすれば、共和国は現在人口500万。わが国が12,000万。24倍。48,000人。1,140億円。アート、芸術が国として生きてゆくのに不可欠であるという認識が、わが国に果してあるか。



##本日のグレイトフル・デッド

 0406日には1969年から1994年まで9本のショウをしている。公式リリースは2本。うち完全版1本。


1. 1969 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 日曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。バークレーの KPFA-FM で放送された。前夜、ヴェニューの終演時刻を超えたため、〈Viola Lee Blues〉の途中でコンセントを抜かれた。が、ヴォーカル・マイクは生きていたらしく、その後で2曲、ア・カペラで歌った。


2. 1971 Manhattan Center, New York, NY

 火曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。5ドル。開演8時。第一部8曲目〈Playing In The Band〉が《Skull & Roses》で、その前の〈Oh Boy〉〈I'm A Hog For You Baby〉が《Skull & Roses》の2003 CD版でリリースされた。

 〈Oh Boy〉はこの日が初演。1981-12-12まで計5回演奏。Sonny West Bill Tilghman の作詞作曲。バディ・ホリー&ザ・クリケッツが195710月に〈Not Fade Away〉のシングルB面でリリース。

 〈I'm A Hog For You Baby〉は1966-01-08初演で、これが3回目で最後の演奏。作詞作曲のクレジットは Jerry Leiber & Mike Stoller


3. 1978 Curtis Hixon Convention Hall, Tampa, FL

 木曜日。開演8時。


4. 1982 Spectrum, Philadelphia, PA

 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。10.50ドル。開演7時。《Road Trips, Vol.4 No.4》で全体がリリースされた。


5. 1984 Aladdin Hotel Theatre, Las Vegas, NV

 金曜日。14ドル。開演8時。


6. 1985 The Spectrum, Philadelphia, PA

 土曜日。このヴェニュー3日連続の初日。13.50ドル。開演5時。この頃、毎年冬になるとガルシアは喉頭炎をわずらい、春先は声を嗄らしている。この時も声がほとんど出なかった。


7. 1987 Brendan Byrne Arena, East Rutherford , NJ

  月曜日。このヴェニュー2日連続の初日。17.50ドル。開演7時半。〈Dancin' in the Street〉の最後の演奏。


8. 1989 Crisler Arena, University of Michigan, Ann Arbor, MI

 木曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演7時。


9. 1994 Miami Arena, Miami, FL

 水曜日。このヴェニュー3日連続の初日。25ドル。開演7時半。会場周辺は当時全米でも最悪のゲットーだった由。フロリダは「デッド・カントリー」の一つだ。(ゆ)


0326日・土

 今年の TG4 Gradam Ceoil Award が発表され、ドロレス・ケーンが生涯業績賞を受賞。ようやく、という感じが無いでもないが、とにかく受賞はめでたい。今さらといえば、スカラ・ブレイもグループ賞を受賞。メインの受賞者はパディ・グラッキン。となると、今年はこの賞の25周年ということで、あげそこなっていた人たちにあげる意味もあるのか、などというのはゲスのカングリというものであろう。何にしてもめでたい。



##本日のグレイトフル・デッド

 0326日には1967年から1995年まで、9本のショウをしている。公式リリースは5本。うち完全版3本。


01. 1967 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 日曜日。この日についてはポスターが残っており、共演としてクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、Johnny Hammond & His Screaming NighthawksRobert Baker が上げられている。デッドがヘッドライナー。

 David Sorochty によれば Oakland Tribune 1967-03-26日付に記事があり、そちらでの共演者はチャールズ・ロイド・カルテットと The Virginians としているが、DeadBase 50 はこれを誤りとしている。


02. 1968 Melodyland Theatre, Anaheim, CA

 火曜日。このショウについては存在を疑問視する向きもある一方で、DeadBase XI には John Crutchfield 15歳でこれを見た時のレポートを書いている。0308日と09日のこのヴェニューでのショウについては、LA Free Press の広告で確認されているが、こちらについては、少数の証言のみではある。

 ジェファーソン・エアプレインの前座で、内容はこの時期の典型的なものだったようだ。


03. 1972 Academy of Music, New York, NY

 土曜日。このヴェニュー7本連続のランの5本目。5.50ドル。開演8時。全体が《Dave's Picks, Vol. 14》でリリースされた。


04. 1973 Baltimore Civic Center, Baltimore, MD

 月曜日。6.50ドル。開演7時。第一部2曲目〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉が2011年と2021年の、11曲目〈Brown-Eyed Women〉が2017年の各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。


05. 1983 Aladdin Hotel Theatre, Las Vegas, NV

 土曜日。14ドル。開演7時。オープナーの〈Jack Straw〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


06. 1987 Civic Center, Hartford, CT

 木曜日。15.50ドル。開演7時半。第二部4曲目〈He’s Gone〉が2010年の、第一部クローザー前の〈Bird Song〉が2017年の各々《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Dave’s Picks, Vol. 36》で全体がリリースされた。


07. 1988 Hartford Civic Center, Hartford, CT

 木曜日。15.50ドル。開演7時半。


08. 1990 Knickerbocker Arena, Albany, NY

 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。開演7時半。第一部オープナーからの3曲とクローザーの2曲、それにアンコールが《Dozin' At The Knick》でリリースされた後、全体が《Spring 1990》でリリースされた。

 春のツアー10本目。これで4箇所を3日ないし2日の連続公演で回ってきているが、そろそろ疲れが出てくる。このショウの後半はその疲れの影響と思われるものが現れる。とりわけバンドの1番弱い部分、ガルシアに影響が大きい。この時、ガルシアは47歳だが、外見は年上のレシュよりよほど老けて見える。ほとんど60代といってもいいくらいだ。ガルシアは生命を使いはたして死んだのだというバラカンさんの指摘は正鵠を射ていると思う。毎晩ステージの上で「絶えず流れ落ちてくる流砂を片脚だけで一輪車をこいで登ろうとする」ことを続けるのは、身も心も削ることではあろう。

 それでもそうした影響が最小限で、ショウとしては前2日ほどのピークではないが、デッドの水準としても高いところに留まるのがこの春のツアーである。とりわけ第一部は、ここだけとれば前2日を凌ぐとも言える出来だ。

 久しぶりにホットでアグレッシヴな〈Hell In A Bucket〉でスタートするが、ラフにはならず、タイトに締まる。そのまま突走らず、〈Dupree's Diamond Blues〉でタメるところが見事。ゆったりしたテンポでガルシアは歌詞をはっきり発音する。宝石店強盗で裁かれる話をユーモラスに演奏するのがデッドの身上。ガルシアの後でミドランドがピアノ・ソロをとり、ワン・コーラスやったところで終るつもりが、もっとやれと促されたか、さらにワン・コーラス。こういうソロはもっと聞きたい。次のミドランドの〈Just A Little Light〉も18日よりもかっちりとして出来がいい。このツアーの16日に復活して2度目の演奏である〈Black-Throated Wind〉では、ウィアの歌の裏でガルシアが弾くギターがすばらしい。この歌は1990年のこの一時期だけ、歌詞がかなり変わっている。次の〈Big Railroad Blues〉は1年半ぶりの登場で、次はまた1年半後なのだが、楽しいロックンロール。ガルシア、ミドランドのハモンド、またガルシアと、活き活きしたソロが続く。〈Picasso Moon〉ではこれまた久しぶりにレシュが低域のハーモニーをつける。この後も数曲で参加する。ここでも後半のガルシアのソロが面白い。ガルシアのギターは次の〈Row Jimmy〉でも好調で、MIDI で音を二重にし、裏の音は幕を張るようだ。後半レゲエのビートになってはずみ、一層ユーモラスになる。第一部は〈Blow Away〉で盛り上がって締める。

 この日は珍しい曲をやろうとしているのか、第二部オープナーは〈Built To Last〉。計18回演奏でこれが最後。これも好調の時にやってみてうまくゆくか試したのかもしれない。ほぼ生音の Drums、やはり面白い Space まで高水準の演奏が続く。乱れが現れるのは、〈Dear Mr. Fantasy〉から次の曲へ移るところで、一瞬だがためらうような感じになる。結局スティーヴィー・ウィンウッドを続けて〈Gimme Some Lovin'〉になって、流れは維持される。問題といえるのはクローザーの〈Morning Dew〉。ここではガルシアはギターが離陸せず、代わりに歌で聞かせる。ガルシアの疲れをカヴァーするように、ドラムスが積極的になって、劇的な盛り上げをする。いささかラフだが、クライマックスとしてはちょうどよい。

 ガルシアはくたびれてはいるものの、このツアーを通じて歌唱はすばらしく、アンコールの〈Brokedown Palace〉も申し分ない。この曲はそもそも、インプロを展開するものでもない。


09. 1995 The Omni, Atlanta, GA

 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時半。(ゆ)


0317日・木

 セント・パトリック・ディ記念で、Irish Times がアイルランドの32のカウンティ各々を舞台にした本、小説とノンフィクションをリストアップしていた。順番は州名のアルファベットによる。


 ゲーリック・フットボールやハーリングなどの、アイルランドのナショナル・スポーツは各州対抗が基本で、その盛り上がり方はわが国の高校野球も真青だ。各々のカウンティ、日本語では伝統的に州と訳されている地域は面積から言えば狭いが、外から見ると意外なほどに人も環境も特色があり、住人の対抗心も強い。こういう特集が組まれる、組めるのもアイルランドならではだろう。

 伝統音楽、アイリッシュ・ミュージックもローカリティの味がよく強調されるけれど、それ以前に基本的なローカルの性格の特徴をこうした本で摑むのも面白い。それに、真の普遍性はローカルを突き詰めたところに現れる。



##本日のグレイトフル・デッド

 0317日には1967年から1995年まで10本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。


 1967年のこの日、ファースト・アルバム《The Grateful Dead》が発売された。このアルバムでは〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉がデビューしている。ライヴで揉まれずに、いきなりスタジオ盤でデビューした、デッドでは数少ない曲の一つ。クレジットの McGannahan Skjellyfetti はバンドとしてのペンネーム。このクレジットが付いた他の2曲〈Cold Rain And Snow〉〈New, New Minglewood Blues〉は本来は伝統曲。

 196701月、ロサンゼルスの RCA スタジオで3日ないし4日で録音された。〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉のみサンフランシスコで録音されている。プロデューサーの Dave Hassinger はローリング・ストーンズのアルバムをプロデュースしており、デッドがそのアルバムを好んでハシンガーを指名したと言われる。冒頭の〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉を除き、すでにライヴの定番となっていた曲を収録している。ビル・クロイツマンの回想によれば、ライヴ演奏の良いところをスタジオ盤に落としこむ技術はまだ無かった。もっとも、結局デッドはそういう技術を満足のゆくレベルに持ってゆくことができなかった。あるいはライヴがあまりに良すぎて、スタジオ盤に落としこむことなど、到底できるはずもなかったと言うべきか。

 今聴けば、ピグペンをフロントにしたリズム&ブルーズ・バンドの比較的ストレートなアルバムに聞える。ガルシアも言うとおり、当時のバンドのエッセンスがほぼそのまま現れているのでもあろう。ピグペンの存在が大きい、唯一のスタジオ盤でもある。

 アルバムには故意に読みにくくしたレタリングで

 "In the land of the dark the ship of the sun is driven by the"

と記され、その後の "Grateful Dead" はすぐにわかる。故意に読みにくくしたのはバンドの要請による。デザイナーはスタンリー・マウス。コラージュはアントン・ケリー。後に「骸骨と薔薇」のジャケットを生みだすことになるコンビ。

 ビルボードのチャートでは最高73位という記録がある。

 2017年のリリース50周年記念デラックス版では 1966-07-29 & 30, P.N.E. Garden Auditorium, Vancouver, BC, Canada の2本のショウの録音が収録された。これはデッドにとって初の国外遠征でもある。



01. 1967 Winterland Arena, San Francisco, CA

 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。共演チャック・ベリー、Johnny Talbot & De Thang。セット・リスト不明。

 この日、Veterans Auditorium, Santa Rosa, CA でもショウがあったという。The Jaywalkers という共演者の名前もある。が、詳細は不明。DeadBase に記載無し。サンタ・ローザはサンフランシスコの北北西60キロほどにある街だから、昼間ここでショウをやり、夜ウィンターランドに出ることは可能だろう。


02. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA

 日曜日。2.50ドル。このヴェニュー3日連続の最終日。ジェファーソン・エアプレインとのダブル・ビルで、おそらくデッドが前座。80分ほどの演奏。《Download Series, Vol. 06》で全体がリリースされた。リリースに付けられたノートによると、《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》ボックス・セットを作成した際に、関連した録音が他に無いか、デッドのアーカイヴ録音が収めらた The Vault を隈なく捜索して見つけた宝石。

 すばらしいショウで、あのフィルモアのショウの1年前にすでにこれだけの演奏をしていた、というのに舌をまく。原始デッドの熱の高さと集中にひたることができる。時間が限られていることと、後に出てくるジェファーソン・エアプレインへの対抗心も作用しているだろう。〈Turn On Your Lovelight〉だけ独立していて、その後の〈That's It for the Other One〉からラストのフィードバックまで1時間近くノンストップ。ところどころ、ジャズの色彩、風味が混じる。時にはほとんどジャズ・ロックの域にまでなる。面白いのは、二人のドラマーが叩きまくっていることで、これだけ叩きまくるのはこの時期だけかもしれない。クロイツマン22歳、ハート25歳。やはり若さだろう。20年後とは完全に様相が異なる。

 グレイトフル・デッドはヘタだった、とりわけ、初期はヘタだった、という認識がわが国では根強くあるように思われるが、その認識はどこから出てきたのだろう。デッドがヘタと言われると、あたしなどは仰天してしまう。スタジオ盤はそんなにヘタだろうか。アメリカでの当時の評価を見ると、60年代にすでに演奏能力の高さには定評がある。


03. 1970 Kleinhans Music Hall, Buffalo, NY

 火曜日。4.50ドル。開演7時?。会場は2,200ないし2,300入るクラシック用ホール。Buffalo Philharmonic Orchestra との共演で、〈St. Stephen> Dark Star> Drums> Turn On Your Lovelight〉を演奏した。Drums ではオーケストラの打楽器奏者がデッドの二人のドラマーに合流した。〈St. Stephen〉は演奏されたという複数の証言があるが、記録の上では残っていないらしい。当初オファーされたバーズが辞退して、デッドにお鉢が回った。デッドは出演料をタダにした。また The Road、フルネームを the Yellow Brick Road という地元のバンドも出演した。

 クラシックのフルオケとロック・バンドの共演という企画はオーケストラの指揮者 Lukas Foss のアイデアらしい。必ずしも成功とは言えないが、まったくの失敗でもなかった。オーケストラの聴衆とデッドヘッドやその卵たちがいりまじった客席は、デッドの演奏に興奮して、立ち上がり、手拍子を打ち、踊ったそうだ。

 当時はヴェトナム反戦運動の昂揚期で、バッファローでも地元の大学を中心に騒然としていた。そういう中で、こうした実験が行われたのは面白い。クラシック界にもこれをやろうという人間がいて、デッドがその試みに応じたのは、どちらの側にも柔軟性や実験精神があったわけだ。グレイトフル・デッドというバンドが出現したのも、アメリカ音楽全体のそうした性格が土台にあったと思われる。


04. 1971 Fox Theatre, St. Louis, MO

 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。

 公式録音のマスターテープに物理的な問題があって、全体のリリースは無理とのことで、〈Next Time You See Me〉と〈Me And Bobby McGee〉が dead.net "Taper's Section" で公開された。


05. 1988 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。18.50ドル。開演7時。

 1971年以来のセント・パトリック・ディ記念のショウで、Train To Sligo という名前のパサデナのケルティック・バンドが前座。リード・ヴォーカルでコンサティーナ奏者は若い女性で、黒のミニ・スカートに網タイツという衣裳で登場し、聴衆から大いに口笛や歓声をかけられた。頭上に渦巻く煙にも驚いた様子だった。メンバーは以下の通り。1981年結成で、この年解散。2枚のアルバムがあるが、あたしは未聴。Gerry O'Beirne Thom Moore がいるから、聴いてはみたい。

Jerry McMillan (fiddle)

Paulette Gershen (tin whistle)

Judy Gameral (hammered dulcimer, concertina, vocals)

Gerry O'Beirne (six- and twelve-string guitars, vocals)

Janie Cribbs (vocals, bodhran)

Thom Moore (vocals, twelve-string guitar, bodhran)

 セント・パトリック・ディ記念のショウは次は1991年で、以後、1995年まで毎年0317日に行われた。

 この日のデッドの演奏は良い由。


06. 1991 Capital Centre, Landover, MD

 日曜日。このヴェニュー3日連続の初日。春のツアーのスタート。ブルース・ホーンスビィがピアノで参加。第二部5・6曲目〈Truckin' > New Speedway Boogie〉が2017年の、第一部クローザー前の〈Reuben And Cherise〉が2018年の、オープナーの2曲〈Hell in a Backet > Sugaree〉が2020年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 〈Hell in a Backet > Sugaree〉と〈Truckin' > New Speedway Boogie〉はどちらも良い演奏。ガルシアのギターも好調で、ホーンスビィが入っていることの効果だろうか。後者では肩の力が抜けて、シンプルな音を連ねるだけで、いい味を出す。ガルシアの芸である。ウェルニクも凡庸なミュージシャンではない。バンドによって引き上げられている部分はあるにせよ、それだけの伸びしろは持っていたのだ。〈Sugaree〉ではガルシアのギターによく反応している。

 〈Reuben And Cherise〉はハンター&ガルシアの曲で、グレイトフル・デッドとしてはこの日が初演。0609日まで4回しか演奏されていない。しかし、ジェリィ・ガルシア・バンドでは定番のレパートリィで、197711月から199504月の間に100回以上演奏されている。スタジオ盤はガルシアのソロとしては4枚目で Jerry Garcia Band 名義のアルバムとしては最初になる《Cats Under The Stars》収録。

 グレイトフル・デッドとジェリィ・ガルシア・バンドの違いが、こういう曲で鮮明になる。前者ではガルシアのソロもアンサンブルの一部に編みこまれている。他のメンバーとの絡み合いでソロを展開する。勝手に弾いているわけではない。ガルシアがソロですっ飛んで、他のメンバーがそれについていっているように聞える時でも、内実はそうではない。このことは初めから最後まで変わっていない。

 後者ではガルシアは勝手に歌い、弾いている。何をやるか、どれだけやるか、どのようにやるか、決めるのはガルシアであり、他のメンバーはそれをサポートしている。だから、ガルシアは伸び伸びと歌い、弾いている。一方で、そこには緊張感が無い。なにもかもがゆるい。そのゆるさがまた良いのだが、JGB を聴いてからデッドを聴くと、身がぐっと引き締まる。同じソロ・プロジェクトでも、マール・ソーンダースと演っている時にはまた違って、ソーンダースとの対話がある。しかし、ジェリィ・ガルシア・バンドではお山の大将だ。

 そして〈Reuben And Cherise〉は明らかに後者では成立するが、グレイトフル・デッドではうまく働かない。その理由は単純ではないだろうが、あたしにはまだよくわからない。ひょっとするとバンド自体にもわからなかったかもしれない。構造としては〈Dupree's Diamond Blues〉と共通するが、何らかの理由で、他のメンバーがうまく絡めないようだ。そうなると、ガルシアにとっても面白くなくなる。独りお山の大将でやるなら、ジェリィ・ガルシア・バンドでやればいいので、デッドでやる意味はない。デッドは全員でやることの面白さを追求するのが動機であり目的だ。試してみて、全員でやることを愉しめない楽曲はレパートリィから落ちる。ある時期は愉しいが、アンサンブルの変化で愉しくなくなって落ちる曲もある。演奏回数の多い定番曲はいつやっても、何回やっても愉しかった曲だ。デッドヘッドに人気が高く、曲としての出来も良い〈Ripple〉などもバンド全員で愉しめなかったのだろう。

 この日〈Reuben And Cherise〉をやることは予定に入っていたらしい。デッドはステージの上で、その場で次にやる曲目を決めているが、とりわけデビューさせる曲はその日の予定に入れていたと思われる。


07. 1992 The Spectrum, Philadelphia, PA

 火曜日。このヴェニュー3日連続の中日。開演7時半。セント・パトリック・ディ記念。あまりよい出来ではないらしい。


08. 1993 Capital Centre, Landover , MD

 水曜日。このヴェニュー3日連続の中日。開演7時半。〈Lucy In The Sky With Diamonds〉がデビュー。19950628日まで、計19回演奏。この歌のタイトルは LSD のもじりと言われる。良いショウの由。


09. 1994 Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL

 木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。26.50ドル。開演7時半。


10. 1995 The Spectrum, Philadelphia, PA

 金曜日。このヴェニュー3日連続の初日。開演7時半。(ゆ)


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