クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:アイルランド

0119日・水

Flying Into Mystery
Moore, Christy
Sony Music
2021-11-19

 

 2016年の《Lily》以来のオリジナル録音。この間、2017年に《On The Road》、2019年に《Magic Nights》のライヴ盤を出し、2020年にはファースト《Paddy On The Road》からのセレクションも含む初期の選集盤《The Early Years 1969-81》を出した。
 ライヴ盤は長いキャリアの中でもベストと言えるメンバーのバンドに支えられて、全キャリアでもベストの歌唱と思えるものばかりで、しかも、成熟とか、大成とか言う年齡の属性をカケラも感じさせない、瑞々しく力強いパフォーマンスに、あたしとしてはかつは驚嘆し、かつは喜んだものだ。この2枚は現在は一つのパッケージで売られていて、もしこれからクリスティの音楽を聴こうというのなら、まず真先に薦める。むろん、プランクシティから聴いてもまったくかまわないが、この2枚のライヴには、この不世出のシンガーが行きついた最高の姿が現れている。

Magic Nights on the Road
Moore, Christy
Sony Music
2019-11-22

 

 このアルバムはライヴに現われた元気一杯なうたい手を期待すると肩透かしをくう。この人は複雑なことを一見シンプルにうたった歌をストレートに聴かせるのが巧い。ストレートに聞えるからと、中身もシンプルだと気楽に構えると、どこか納得できないところが残る。後味がよくなくなる。もっとも、後味がよくないことが、この人の歌の、とりわけソロの歌の最大の魅力とも言えるだろう。これがプランクシティやムーヴィング・ハーツのようなバンドになると、違ってくる。

 何よりもこの人の声は耳に快いものではない。といって不快なわけではないが、執拗にまとわりつく。否応なく耳に入ってくる。とりわけ、今回のように、ほとんど声を上げず、しゃべるように、あるいは囁くように歌うときにはなおさらだ。初めはクリスティもついに老いたか、と思ったのだが、聴いてゆくとそうではないと納得される。こういう声しか出ないから、やむをえず、これで歌っているわけではない。故意に抑えて、こういう歌い方を選んでいる。アルバム全体の基調として選んだのか。それとも、個々の歌に合わせて選んでいるうちに、たまたまそういうものが集まったのか。あるいはその中間か。いずれにしても、終始声を上げないこのアルバムは、そのために聴く者に耳をそばだてさせる。するりと耳に入り、入った先で重くなる。

 バックのアレンジももっぱらこの声を引き立たせることをめざす。数曲、別録音でキーボードとストリングスが加えられているのも、あくまでも背景に徹する。全体として、各々の曲にふさわしい背景を配して、声を前面に出す。これならクリスティのギター1本でもいいように思えるが、そうなると今度はギターが声と拮抗してしまうのだろう。むしろ、歌によって背景の色を少しだが明瞭に変えることで、各々の歌の性格を押しだし、アルバムとして聴くときの流れを作っている。

 クリスティは公式サイトに全曲の歌詞とノートをアップしている。アルバムのライナーの PDF もある。もっともそこに書かれている各曲のノートは個別の歌詞のページに載っているものと同じではある。これを読み、歌詞を味わいながら聴いていると、歌の一つひとつが、各々の重みをもって、胸の内に沈潜してくる。ライヴ盤を聴くのとは対照的な経験だ。

 選曲は例によって、同時代の問題意識と、個人的に惹かれるものごと、現象へのオマージュのバランスがとれている。なんとも巧い。そして、底に流れるユーモアのセンス。アイルランド人のユーモアのセンスには、底意地が悪いとしかみえないものも時にあるが、そういう要素もちゃんと入っている。かれがアイルランドで絶大な人気を得ている、人間国宝とでも言うべき存在なのは、たぶんそこではないか。

 ある晩、ゲイリー・ムーアの音楽をずっと聴いてゆくうちに、深夜、この歌が現れた、と言ってとりあげた曲から、ディランの詩を伝統曲のメロディに乗せてうたうラストまで、一気に聴くべきものではないだろう。1曲聴いてため息をつき、また1曲聴いてお茶を(あるいはコーヒーでもワインでも)すすり、さらに1曲聴いて、満月を見あげる。たっぷりと時間をとって、味わいたい。あるいはこれと思い当たった曲をくり返し聴いてもいい。傑作とか名盤とか呼ばれることを喜ぶ境地はかれのアルバムはすでにずっと昔に卒業している。

 サポート陣ではシェイミー・オダウドが例によって手堅い仕事をしている。そして息子のアンディがつけるコーラス顔がほころぶ。


Christy Moore: vocals, guitar

Jim Higgins: percussion, organ

Seamie O'Dowd: guitars, harmonica, bouzouki, mandolin, fiddle, banjo, bass, chorus

Andy Moore: chorus

Gavin Murphy: keyboards, orchestral arrangements

Mark Redmond: uillean pipes

James Blennerhassett: double bass


[12 Tracks ]

01. Johnny Boy {Gary Moore} 3:12

02. Clock Winds Down {Jim Page} 2:21

03. Greenland {Paul Doran} 4:43

04. Flying Into Mystery {Wally Page & Tony Boylan} 2:30

05. Gasun {Tom Tuohy & Ciaran Connaughton} 3:02

06. All I Remember {Mick Hanly} 3:01

07. December 1942 {Ricky Lynch} 4:39

08. Van Diemen's Land {Trad.} 3:57

09. Bord Na Mona Man {Christy Moore} 3:41

10. Myra’s Caboose {Trad.} 3:20

11. Zozimus & Zimmerman {Christy Moore & Wally Page} 3:33

12. I Pity The Poor Immigrant {Bob Dylan+Trad.} 3:38


Produced by Christy Moore, Jim Higgins

Recorded by David Meade

Additional Recording by Gavin Murphy

Mixed by David Meade

Mastered by Richard Dowling @ Wav Mastering, Limerick

Artwork by David Rooney

Designed by Paddy Doherty



##本日のグレイトフル・デッド

 0119日には30年間で一度もショウをしていない。年間に4日あるうちの一つ。すなわち、

0109

0119

0229日)

0809

1225

 30年間に7回ある閏0229日にもショウはしていない。最後のものを除いて偶然だろうか。それにしてはきれいに9の日が並んでいるのは不思議にも不気味にも思える。もっとも、デッドの場合、こういうシンクロニシティは少なくない。(ゆ)


 明けましておめでとうございます。

 今年が皆様にとって充実した年でありますように。

 早々に年賀状をいただいた皆様、ありがとうございます。

例によって年賀状は出しておりませんので、不悪。

 今年のテーマはグレイトフル・デッドとマーティン・ヘイズ、ヴィクトリア・ゴダードとムアコックの予定。さて、どこまで行けますか。


1231日・金

##本日のグレイトフル・デッド

 1231日には1966年から1991年まで22本のショウをしている。年間で最多。公式リリースは7本。うち完全版2本、準完全版1本。

 大晦日にたくさんショウをしているのは、デッドにとって最も重要なプロモーターだったビル・グレアムがデッドとの年越しショウをたいへんに好み、1976年から1991年まで毎年、サンフランシスコ周辺でショウを組んだため。グレアムは毎年趣向を凝らした「時の翁 Father Time」に扮してカウントダウンを主催した。仕掛けは年を追うごとに派手で大がかりなものになっていった。199110月にグレアムは事故死するが、年末のショウはすでにブッキングしてあったため、デッドはこれを最後に年越しショウをしている。

 グレアムは〈Sugar Magnolia〉が大好きで、年越しショウの新年最初の曲にこれを歌うようリクエストした。一方のウィアはこの歌をうたうと喉をつぶすので嫌がっていたという。


01. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 "New Year Bash" と題された2日連続のショウで、ジェファーソン・エアプレイン、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスとデッドという、当時サンフランシスコを代表する3つのバンドによるコンサート。ビル・グレアムの最初の年越しショウ。この3つのバンドのメンバーにビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーのメンバーも加わったジャムが行われたとも言われる。


02. 1968 Winterland Arena, San Francisco, CA

 7ドル。朝食付き。共演はクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、It's A Beautiful Day、サンタナ。


03. 1969 Boston Tea Party, Boston, MA

 前座として The Proposition というインプロヴィゼーション・バンドとリヴィングストン・テイラーの名が挙げられている。大晦日にサンフランシスコ周辺以外で演奏した唯一の例。


04. 1970 Winterland Arena, San Francisco, CA

 9ドル。開演8時。共演ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、ホット・ツナ、Stoneground。コンサートのビデオがサンフランシスコのテレビ局で放映され、また全部ではないかもしれないが FM で同時中継された。

 デッドは約2時間の一本勝負。オープナー〈Monkey And The Engineer〉とクローザーの1曲前〈Good Lovin'〉が《Download Series: Family Dog at the Great Highway》で、5・6曲目〈Cumberland Blues〉〈Dire Wolf〉が2018年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 Stoneground はこの年、サンフランシスコ郊外のコンコードで結成されたバンドで、トリオから出発し、翌年のデビュー・アルバムでは4人の女性シンガーを含む10人編成になる。

28:21


05. 1971 Winterland Arena, San Francisco, CA

 ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。FM で放送された。

 第一部クローザー〈One More Saturday Night〉にドナ・ジーン・ガチョーが参加。初ステージ。


06. 1972 Winterland Arena, San Francisco, CA

 第一部5曲目〈Box of Rain〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 DeadBase XI Bernie Bildman によると、ステージの後ろの影になったところでデヴィッド・クロスビーが数曲に演奏で参加していた。

 アンコール直前、小さな女の子が舞台袖から出てきて、ガルシアに何かささやいた。ガルシアは身を屈めて聴きとると、前振なしに〈Uncle John's Band〉を始めた。女の子はメンバーの誰かの娘らしかったが、曲が進むとまた出てきて、続いている間ずっとくるくると踊っていた。と Bildman は書いている。

 この年は大晦日に向けての連続のランは無く、15日にロング・ビーチでワンオフのショウをした後がこの大晦日のショウ。


07. 1976 Cow Palace, San Francisco, CA

 開演7時。共演サンタナ、Sons of Champlin。全体が《Live At The Cow Palace》でリリースされた。

 ポスターによればこの年、ビル・グレアムはベイエリアの実に5ヶ所で同時に大晦日のライヴを開催している。カウ・パレスの他に、ウィンターランドではモントローズ、Earth QuakeYesterday & TodayOakland Coliseum ではレーナード・スキナード、ジャーニー、ストーングラウンド。Berkeley Community Theatre でチューブス、San Jose Center for Performing Arts でタワー・オヴ・パワー、グレアム・セントラル・ステイション。もちろん全米各地で同様のコンサートが行われていただろう。

 Sons of Champlin は後にシカゴに加入する Bill Champlin 1965年にベイエリアで立ち上げたバンド。

 ただし、DeadBase XI での Mike Dolgushkin によれば、実際に出たのは Sons of Champlin ではなく、Soundhole というバンドでベースが Mario Cipollina。兄弟のジョンも加わっていた。


08. 1977 Winterland Arena, San Francisco, CA

 12.50ドル。開演8時。真夜中に第二部オープナー〈Sugar Magnolia〉が始まった。ただし、同時開催されていたサンタナのコンサートでも「時の翁」を演じていたので、ビル・グレアムがこちらに来たのは零時を30分過ぎていたらしい。

 第一部5曲目〈Loser〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


09. 1978 Winterland Arena, San Francisco, CA

 ウィンターランドにおける最後のコンサート。これをもってビル・グレアムはウィンターランドを閉じた。地元公共放送テレビで放映された。全体が《The Closing Of Winterland》としてCDと DVD でリリースされた。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、ブルース・ブラザーズが前座。加えて、第二部3曲目〈I Need A Miracle〉にマシュー・ケリー、Drums にリー・オスカー、〈Not Fade Away> Around And Around〉にジョン・チポリーナが参加。また The Flying Karamazov Brothers というジャグリングのグループが演技をした。ショウは全体で8時間を超え、デッドだけでも三部構成、6時間近かった。3曲におよんだアンコールの最後は〈And We Bid You Goodnight〉だが、その時はすでに朝で、聴衆にはビュッフェ・スタイルの熱い朝食がふるまわれた。

 ここは1971年にビル・グレアムがコンサート用に改修し、フィルモア・ウェストに代わるヴェニューとして運営した。ザ・バンドの解散コンサート《The Last Waltz》の舞台として有名だし、ここで録音されたライヴ盤にはクリーム、ジミヘン、ジェファーソン・エアプレイン、ドアーズ、ブルース・スプリングスティーン、ロギンス&メッシーナなど多数あり、また名演が生まれてもいる。

 デッドは何といってもまず1974年のツアー休止前の5夜連続のショウをここで行い、そこから "The Grateful Dead Movie" が生まれ、さらに《The Grateful Dead Movie Soundtorack》がリリースされている。さらに1973年と1977年のボックス・セットなど、これまた名演が多数生まれている。フィルモア以上に「ホーム・グラウンド」となっていた。その閉鎖直前最後のコンサートをするアクトにはグレアムとしてはデッド以外考えられなかっただろう。おそらく閉めると決めた時点で、最後はデッドということも決めていたのではないか。

 この時、いわゆるサンフランシスコ・サウンドのアーティストで生き残っているのはデッドだけだった。デッドとビル・グレアムの関係はおそらく単にプロモーターとアクトというだけのことではない。その最初はアシッド・テストの一つで、デッドもグレアムもまだ山のものとも海のものともわからない時期だ。グレアムとデッドの各々の成長は各々の努力の賜物だが、互いにあるいは協力し、助けあい、あるいは切磋琢磨しながらのものでもあった。いわば「同じ釜のメシを喰った」間柄だ。グレアムはレックス財団の評議員も勤めているし、デッドの全社会議に出ることもあった。グレアムはデッド・ファミリーの一員になりたかったが、デッド側は一線を画したことはあったにせよ、グレアムがデッドのインナーサークルに半歩足を踏みいれていたことも確かだ。プロモーターとしての関係ではジョン・シェールとの方がしっくりいっていたとしても、シェールはデッド・ファミリーの一員であったわけではない。

 もともとは1928年にアイス・スケート・リンクとして建てられた施設。収容人数はグレアムによる改修で5,400


10. 1979 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 三部構成で第二部冒頭〈Sugar Magnolia〉が真夜中。


11. 1980 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 三部構成。第一部はアコースティック・セット。第三部冒頭の〈Sugar Magnolia〉が真夜中。その前のカウントダウン直前にアーロン・コープランドの〈Fanfare For The Common Man〉が流された。


12. 1981 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 開演前はずっと雨が降っており、8,000人の聴衆はようやく入った時には一人残らずずぶ濡れだった。冒頭、ジョーン・バエズが5曲、デッドのバックで歌った。第一部8・9曲目〈Big Boss Man> New Minglewood Blues〉にマシュー・ケリーが参加。バエズはアンコール〈It's All Over Now, Baby Blue〉にも登場して踊った由。


13. 1982 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 20ドル。開演8時。第三部は前日に続き、エタ・ジェイムズとタワー・オヴ・パワー参加。


14. 1983 San Francisco Civic Center, San Francisco, CA

 20ドル。開演8時。FM 放送された。ザ・バンドが前座。マリア・マルダーもいた由。


15. 1984 San Francisco Civic Center, San Francisco, CA

 25ドル。開演8時。オープナーの〈Shakedown Street〉が《So Many Roads》でリリースされた。

 例によって真夜中に〈Sugar Magnolia〉から第二部が始まったが、Sunshine Daydream は無し。声を潰すのでウィアは後を考えて控えたのだろう。


16. 1985 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 25ドル。開演8時。Baba Olatunji が第二部11曲目〈Throwing Stones〉とクローザーの〈Turn On Your Love Light〉で参加。


17. 1986 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 25ドル。開演8時。


18. 1987 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 25ドル。開演7時。第三部2曲目〈Iko Iko〉からクローザーまで4曲にネヴィル・ブラザーズが参加。DVDTicket To New Year's》でリリースされた後、半オフィシャルCD《Live To Air》のCDで、第一部2曲目と第三部のクローザー以外の4曲を除いて全体がリリースされた。

 元々が全米に生中継された。DeadBase XI John W. Scott はリモートでショウを体験することのメリットをいろいろ挙げている。その中に〈Wharf Rat〉の静かなところで "Dark Star!" とわめく奴もいない、とあるのに笑ってしまう。


19. 1988 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland , CA

 30ドル。開演7時。ピーター・アフェルバウム&ヒエログリフィクス・アンサンブルとトム・トム・クラブが前座。加えて第一部3・4曲目〈Wang Dang Doodle〉〈West L.A. Fadeaway〉と第二部オープナーからの3曲〈Sugar Magnolia> Touch Of Gray> Man Smart, Woman Smarter〉、さらにアンコールのラスト2曲〈Goin' Down The Road Feeling Bad> One More Saturday Night〉にクラレンス・クレモンスが、Drums Baba Olatunji, Sikiru Adepoju、喜多郎が参加。


20. 1989 Oakland Coliseum Arena, Oakland, CA

 開演7時。第一部3曲目〈Big Boss Man〉にボニー・レイットが参加。

 第一部クローザーの〈Shakedown Street〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


21. 1990 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 開演7時から終るまで、とチケットにある。リバース・ブラス・バンド前座。ブランフォード・マルサリスが第一部クローザーの2曲〈Bird Song> The Promised Land〉と第二部全部に参加。Drums にハムザ・エル・ディンが参加。全米に FM 放送された。


22. 1991 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 最後の大晦日年越しショウ。32ドル。開演7時。ベラ・フレック&フレックトーンズとババトゥンデ・オラトゥンジが前座。(ゆ)


1228日・月

 アイルランド伝統音楽のソース・シンガーの中でおそらく最も有名で、後世への影響も大きいエリザベス・クローニン(1879-1956)の歌集が20年ぶりに改訂された。編纂しているのは孫の Daibhi O Croinin

The Songs of Elizabeth Cronin, Irish Traditional Singer: The Complete Song Collection
O'cronin, Daibhi
Four Courts Pr Ltd
2021-10-29






 ベスと呼ばれたクローニンはコークのゲールタハトに生まれ、母親から歌好きを継いで育つ。この一帯はもともと歌謡伝統の濃いところで、19世紀から採集家が多数訪ずれた。ベスはシェイマス・エニスはじめ、様々な採集家の対象となる。アラン・ロマックスも録音し、さらにジーン・リッチーが録音したことで広く知られるようになる。


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 ベスの録音としては130トラックほど残っているそうで、ここでは RTEBBC、ロマックス、リッチー、ダイアン・ハミルトンによる録音59トラックを2枚のCDに収めて付録としてある。音質劣化で使えないものを別として、音楽的、伝統的に興味深いものを選んだそうだ。録音年代はシンガー晩年の1947年から1955年の間。録音場所はいずれもベスの自宅。

 本の方はベスが残した歌の歌詞を集めた。ベスが何らかの形で書き残したもので、そのすべてをいつでも歌えたわけではないだろうし、そもそも全部を覚えたわけでもないだろう。覚えたいと思って書きとめたものもあると思われる。とにもかくにも、ベス・クローニンというシンガーが自分の手で書くだけの価値があると認めた歌、ということになる。総数196曲。
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 巻頭のエッセイはベス・クローニンのバイオグラフィではなく、彼女が生まれ育ったコークのゲールタハトの一つ Baile Mhuirne (Ballyvourney) 一帯を訪ずれた歌の採集家たちを後づける。つまりベスの歌の背景を採集家という角度から描こうとする。

 また、ベスが歌を習った、覚えた対象と方法も推測する。ここで面白いのは、ベスには歌の好みがあって、中には冒頭の2、3連しか覚えていない曲もある。これは当然のことであって、伝統的シンガーは全曲を覚える必要も義務も無い。歌いたいと思った歌の歌いたいところだけ覚える。ベス・クローニンに限らない。パーシー・グレインジャーが録音したことで有名なイングランドの Joseph Taylor の〈The Murder of Maria Marten〉も、実際に歌われ、録音されたのは最初の2連だけだ。テイラーはそれしか覚えていなかった。アシュリー・ハッチングスはこの曲をシャーリー・コリンズに《No Roses》で歌わせるにあたって、メロディはグレインジャーによるテイラーの録音のものを使い、歌詞は様々なソースから組みたてた。

 収録された歌には英語とアイルランド語の両方があり、タイトルのアルファベット順に混在して並べられている。録音があるものは楽譜も付く。アイルランド語の歌には英語で内容の要約が添えられる。歌のその他の注釈は録音のあるものはその注記、既存の歌集に収録がある場合はその書誌情報と比較。

 20年前の初版では編者が曲につけた注釈とCD収録の実際の録音の間にかなりの齟齬があった。様々な制約から本文とCDの制作が別々に行われ、編者はCDの最終形を聞かずにテキストを書いていたためだそうだ。その事情が第2版の序文に丁寧に書かれている。とすれば、まずはそのあたりもきちんと訂正され、わずか6曲だが追加されたこの第2版を買えばいいわけだ。とまれ、アイルランド伝統歌謡の最重要シンガーの1人であるベス・クローニンの全貌にこれで容易に接することができる。



##本日のグレイトフル・デッド

 1228日には1966年から1991年まで、17本のショウをしている。この数字は365日の中で2番目に多い。公式リリースは4本。うち完全版1本。


01. 1966 Governor's Hall, Sacramento, CA

 Beaux Arts Ball と題されたイベント。共演クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス。前売3ドル、当日3.50ドルというポスターと2ドルというポスターがある。3種残っているポスターのどれにも開演時刻が書いていない。セット・リスト不明。

 会場はデッドのみならず、多数のロック・アクトがコンサートをしている。が、施設の実態はよくわからない。旧California State Fairgrounds にあった由。


02. 1968 The Catacombs, Houston, TX

 2021日とロサンゼルスで演奏した後、29日のマイアミ・ポップ・フェスティヴァル出演に向かう途中、ここに立ち寄った。会場は300人も入れば満杯のクラブで、当時22歳以上の人間は入れなかった。第一部は夏に出た《Anthem Of The Sun》をほとんどそのまま演奏し、第二部では〈Dark Star> The Eleven> Dark Star〉を延々とやった。とあるブログに述べる。


03. 1969 International Speedway, Hollywood, FL

 ヴェニューの名前は実際には Miami-Hollywood Speedway の由。1時間半のテープがあるが、全部ではないらしい。


04. 1970 Legion Stadium, El Monte, CA

 このヴェニュー3日連続の最終日。この後は大晦日のショウ。オープナーの〈Cold Rain And Snow〉が2010年、最初の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


05. 1978 Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA

 このヴェニュー2日連続の2日目。


06. 1979 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 大晦日に向けての5本連続のランの中日。《Road Trips, Vol. 3, No. 1》で全体がリリースされた。

 この頃はまだ会場の外でデッドヘッドたちはキャンプできた。朝、プロモーターの Bill Graham Presents のスタッフがキャンパーたちに熱いスープを提供していた。

 オープナーが〈Sugaree〉でいきなり15分の演奏。こういう稀なセレクションの時はバンドの調子が良い証拠。実際ダブル・アンコールの2曲目〈One More Saturday Night〉まで、気合いの入った、充実したショウ。〈Space〉は短かいが、その前の Drums で二人が大太鼓を叩きまくる迫力は、この二人でも滅多に聞けない。ミドランドはすっかりアンサンブルに溶け込み、冴えたキーボード・ワークで全体を盛りあげる。オルガンもいいが、ぽろんぽろんという電子音がここでは利いている。ガルシアのギターはジャズとしかいいようがない。が、ジャズと違ってデッドのジャムは他の全員がサポートに回るソロの形をとらない。むしろ、全員がたがいにからみあう。ガルシアのギターはほとんど混沌としたその中に筋を通してゆく。

 この年は正月5日からツアーに出ているし、ガチョー夫妻からブレント・ミドランドへの交替があり、ショウの総数としては75本だが、長い1年だった。それを締め括るランのベストのショウと言われる。


07. 1980 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 大晦日に向けての5本連続のランの中日。第二部半ば〈Terrapin Station〉の途中でバンド全体がステージに乗って、どこやら外宇宙からちょうど着陸した、という幻影が見えた、と Robin Nixon DeadBase XI で書いている。照明と音楽と精神状態の合作らしい。


08. 1981 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 大晦日に向けての5本連続のランの中日。


09. 1982 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 大晦日に向けての5本連続のランの中日。13.50ドル。開演8時。第一部3曲目の〈El Paso〉は作者 Marty Robbins が死んで最初の演奏。


10. 1983 San Francisco Civic Center, San Francisco, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2日目。開演8時。


11. 1984 San Francisco Civic Center, San Francisco, CA

 大晦日に向けての3本連続のランの初日。開演8時。


12. 1986 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2日目。開演8時。


13. 1987 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2日目。17.50ドル。開演7時。


14. 1988 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 大晦日に向けての3本連続のランの初日。開演7時。トム・トム・クラブ、Peter Apfelbaum & Hieroglyphics Ensemble が前座。第二部6曲目〈Uncle John's Band〉が2011年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、2018年の《30 Days Of Dead》で Uncle John's Band> I Need A Miracle〉の形でリリースされた。

 UJB はわずかに前のめりのテンポ。ミドランドのハーモニーはあふれてくるものを押えられない。クロイツマンがいくらか冷静にビートをキープする一方で、ハートも噴き出すものをそのまま音にする。最後のコーラスが終った途端、空気が切り替わり、一瞬、どちらへ行くかわからぬまま屹立して次の瞬間、ほとんど凶暴なギターをガルシアがくりだして INAM。ここでのウィアはシンガーとして一級と言っていい。これはもう嘆願、祈りの歌ではない。脅迫すれすれ。いや、奇跡はもらうものではない、自ら起こすものだという宣言だ。UJB ではかろうじて押えこまれていたものが、爆発している。会場のコーラスは驚くほど歯切れが良い。

 Peter Apfelbaum 1960年バークリー生まれのマルチ・インストルメンタリスト、作曲家。楽器はピアノ、テナー・サックス、ドラムス。Hieroglyphics Ensemble はベイエリア出身のミュージシャンたち17人で編成したビッグ・バンド。1990年代にはドン・チェリーと共演している。トレイ・アナスタシオやフィッシュのアルバムにも参加。


15. 1989 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2本目。20ドル。開演7時。第一部2曲目〈Feel Like A Stranger〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 まずウィアの歌唱に気合いが入っている。ガルシアのギターとミドランドの鍵盤がこれに応える。いいジャムが続いて、後半、"Long, long, crazy night" とミドランドが入ってきてからのウィアとの掛合いが粋。"loooooooooooooooooooooooooooooong” と思いきり引っぱって、"long, crazy night" と合わせる。こういうところ、ミドランドにして初めて可能な洗練された野生だ。

 この89年後半から1990年春にかけてのデッドの3度目のピークは、空前にして絶後、デッドだけでなく、およそ20世紀の音楽において他に類例も比肩もできるものはない。あえて言えば、マイルスの『ダーク・メイガス』からの三部作をも凌ぐ。


16. 1990 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2本目。22.50ドル。開演7時。


17. 1991 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2本目。開演7時。(ゆ)


1225日・土

 家族の用件で上京。徃きは Martin Hayes, Shared Notes を読む。これはいい。email とセット・リスト以外に書くということはしていない、とは思えない。ゴーストライターがいるのではないかと思ってしまうほどよく書けている。話題の選択、並べ方も適切。夫人がとっていたオンラインの自伝講座の恩恵というが、それだけでこうは書けない。頭がいいことも確かだ。ものごとの核心を見抜いて、適確な表現をさぐりあててゆく。

 巻末の謝辞に野崎さんの名前があるのは、当然ではあろう。

Shared Notes: A Musical Journey
Hayes, Martin
Transworld Ireland
2022-01-14

 

 夜、着いたばかりの Amulech のケーブル SW-HP10Live につけ、M11Pro でデッド 1979-12-28 を聴く。明らかに音は onso よりも良い。ちょっと高域がギラつくが、これはエージングでとれるだろう、たぶん。HE400i NightOwl Carbon も変身する。NightOwl Carbon が復活。



##本日のグレイトフル・デッド

 クリスマスの日には30年間を通じて1本もショウをしていない。完全休日。30年で1本のショウもしていない日が365日の間にもう1日ある。加えて7回ある2月29日にはやはり休んでいる。


1221日・火

 チーフテンズ60周年記念ベスト盤の見本が到着。ライナーを点検すると「マイケル・タブリディ」のはずが「マイケル・タルビディ」になっている。ひょっとするととオリジナルの英語版ブックレットを見ると "Tubridy" とあるべきところ、b と r がひっくり返って、全部 "Turbidy" になっている。あちゃー。ユニバーサルの担当者が気をきかせてこの英語版に合わせたらしい。ゲラでは「タブリディ」だった。あわてて連絡するが、初回にはむろん間に合わない。

 ということで、初回を購入された皆様、「タルビディ」は「タブリディ」と読みかえてくだされ。

 それにしても英語版の編集もいい加減だのう。人名は一番気をつけなければならないところなのに。

 このライナーはずっとチーフテンズを追いかけてこられたファンには目新しいことは何も無い。一つだけ、自分ではこれまで書いたことがなかったことにマーティン・フェイの重視がある。チーフテンズはフェイのバンドだという人もいるくらいだが、一般的には一番目立たないメンバーではある。もっとも、わが国ではとりわけ若い女性に人気がある。他の国・地域での事情は知らないが、わが国の女性たちは人を見る目が鍛えられているのか。

 それとこれに初めて収録された音源はいずれもライヴ録音で、貴重なものだ。2曲は、「無謀」と言われた1975年の初のロイヤル・アルバート・ホール公演から、2曲はマット・モロイ参加直後で、これらはいずれもチーフテンズだけの演奏。残りの1曲は1990年代末のヴァン・モリソンとの共演。



##本日のグレイトフル・デッド

 1221日には1966年から1978年まで5本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1966 Continental Ballroom, Santa Clara, CA

 1.50ドル。81/2 - 121/2 とポスターにあるのは、8時半から12時半のことか。ポスターのイラストはアダムズ・ファミリー。


2. 1968 Shrine Exhibition Hall, Los Angeles, CA

 2日連続のランの2日目。カントリー・ジョー&ザ・フィッシュの前座。この日は1時間強やっている。


3. 1969 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 3日連続のランの最終日。曲数にして全体の約6割、1時間15分が《Dave’s Picks Bonus Disc 2013》でリリースされた。

 全体に前日よりもエネルギーのレベルが上。ガルシアのギターもこちらの方が調子が良い。オープナーはピグペンのブルーズ・ナンバーで、前日とは人が変わったよう。切れ目無しに続く〈New Speedway Boogie〉は2度目の演奏だが、ずっとスムーズに歌われる。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉でのジャムも全員が噛みあっている。そこから切れ目無しに〈Black Peter〉に移るあたりも調子の良い証。〈The Other One〉は組曲でやっているが、ここではドラムスのソロとそれに続く〈The Other One〉のみピックアップして、前後の〈Cryptical Envelopment〉は省略。ドラムスは主にクロイツマンが叩き、ハートは時折りオカズを入れる。

 〈The Other One〉のような曲になると、ガルシアの抽斗の数の不足が目につく。もっともここではベースが引っぱってバンド全体の演奏になるので、その不足が欠点にならない。ガルシアもこれまでのブルーズ・ギターをベースとしたスタイルでは、これ以上の展望が開けないことを自覚していたのかもしれない。ハワード・ウェールズとの、続いてマール・サンダースとのセッションを始めるのは、よりシステマティックにそれまで触れていない音楽を吸収しようという動機が働いていなかったか。意図はともかく、このセッションでジャズやポップスのスタンダードを学んだことで、1970年以降、ギターのスタイル、フレーズが変わってくる。

  この年はこの後、クリスマスの翌日テキサスに飛び、フロリダでやった後、大晦日に向けて3日連続でボストン。


4. 1970 Pepperland, San Rafael, CA

 3ドル。まず Jerry Hahn Brotherhood、次に John Kahn が入っているブルーズ・バンド、次がニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。午前2時を回った頃、ガルシア、レシュ、ハートまたはクロイツマン、デヴィッド・クロスビーが出てくる。ガルシアが "David & the Ding-A-Lings" とバンドを紹介すると、クロスビーは "Jerry & the Jets" だと返す。広告では「アコースティック・デッド」となっていたが、実際にはエレクトリック。これを伝えた Michael Parrish はここで翌日仕事のある友人に引っぱり出されたので、その後、デッドとしてやったかどうかはわからない。ウィアとピグペンもバックステージに姿が見えた。

 ガルシアの公式サイトではクロイツマンになっていて、Jerry Garcia's Middle Finger のブログの記事についたコメントによればそちらが正確のようだ。

 Jerry Hahn 1940年ネブラスカ生まれのジャズ・ギタリスト。7歳でギターを始め、11歳でプロのバンドに参加。1962年にサンフランシスコに移る。Jerry Hahn Brotherhood ドラムスの George Marsh, ベースの Mel Graves, キーボードの  Mike Finnigan とのカルテットで、1970年にアルバムを出している。スワンプ・ロックとジャズの融合として成功している由。今年紙ジャケCD再発された。Tidal にあり。


5. 1978 The Summit, Houston, TX

 8.35ドル。35セントは駐車料金。 開演7時半。(ゆ)


1204日・土

 奈加靖子さん『緑の国の物語』のCDを聴く。定番曲ばかりだが、こういう定番曲を新鮮に、瑞々しく聞かせてくれるのが奈加さんの身上。
緑の国の物語 アイルランドソングブック [ 奈加靖子 ]
緑の国の物語 アイルランドソングブック [ 奈加靖子 ] 

 前作《Slow & Flow》の流れを受けてゆったりと歌う。鳥の声が入っているのは屋外で、樹の下ででも聴いている気分。〈Molly Malone〉ではモリーが売りあるいた街の様子がまず聞える。

 この歌での力の抜き方がすばらしい。これだけゆっくりで、ここまで力を抜いて、なおかつ、崩れずに聞かせられるのは、大したものだ。

 〈Danny Boy〉は終始低いレジスターで歌う。これはいい。そう、このメロディは高くなるのに任せないことで本当に美しくなる。対照的に〈Irish Lullaby〉では、スタンザの最後のところは十分に高く伸ばす。〈An Mhaighdean Mhara はことさらにテンポを落とす。一つひとつの音をたっぷりと伸ばす。その響きの快さ。

 第3章は前2章と少し毛色が変わる。ここの曲は伝統というより、アイルランドの今を映しだす。奈加さんの中ではたぶんシームレスにつながっているのだろう。これが伝統ではないとは言わない。ただ、音楽伝統の中核からは離れたところに立っていると、あたしには聞える。
 むろん、それがまずいわけでもなく、歌唱の価値を落すわけでもない。こういう伝統の捉え方もあるのが、あたしには興味深いのだ。この先に、あるいはここと並んで、たとえばコアーズやもっと若い人たちの音楽を伝統に連なると捉えている人たちもいるだろう。伝統とはそれくらいしぶとい柔軟性を備えているものだ、ということを、あらためて思い知らされる。

 それにしてもアイルランド共和国の国歌はまるで国歌らしくない。兵士たちがこういう歌で気勢を上げていたというなら、悪辣なイングランド人たちにしてやられるのも当然とも思える。というのはやはり偏見であらふ。



##本日のグレイトフル・デッド

 1204日には1965年から1990年まで6本のショウをしている。公式リリースは3本。


1. 1965 Big Nig's House, San Jose, CA

 San Jose Acid TestGrateful Dead としての初めてのギグと言われる。当初かれらは The Warlocks と名乗ったが、同名のバンドのレコードをレシュがレコード店で見つけたことから、改名した。と言われるが、この先行バンドの存在は確認されていない。

 改名の事情がどういうものであれ、また新しい名前の出現のしかたがどうであれ、The Warlocks のままでは、こういう事態にはならなかっただろうことは想像がつく。やはり Grateful Dead という突拍子もない、印象の悪い名前であって初めてこの異常な現象が起きているのだ。Dead Head という呼称、死のイメージがあふれるその世界、他に比べられるものの無い、唯一無二のその音楽は、Grateful Dead という名前と共にその芽が出た。こう名乗るとともに、かれらは死んだ。死んだ以上、恐れるものは何も無い。身を捨てた。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。身を捨ててこそ、初めて可能になることがある。


2. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA

 3ドル。4日連続の出演の初日。共演 Flock、ハンブル・パイ。

 The Flock 1966年頃シカゴで結成されたジャズ・ロック・バンドで、1969年と70年にコロンビアからアルバムを出している。ヴァイオリンの Jerry Goodman の最初のバンド。グッドマンはこの後マハヴィシュヌ・オーケストラに参加する。

 約2時間の一本勝負。〈Uncle John's Band〉の1101日に続く2回目の演奏で、完成形としては初めてとされる。1週間後の3回目の演奏は《Dave's Picks, Vol. 10》で出ている。

 2日後に迫ったローリング・ストーンズ、CSN&Yなど大物がたくさん出るフリー・コンサートの会場が直前になって二転三転し、結局オルタモント・スピードウェイになったことが、ビル・グレアムによるバンド紹介の中心だった由。

 当初はゴールデン・ゲイト公園で開催の予定で、混乱を避けるため、直前まで発表しない申し合わせになっていたのを、ミック・ジャガーが早々に漏らしてしまったために、公園を管理するサンフランシスコ市当局が会場提供を降りた。そこで Sears Point Raceway に移されたが、24時間経たないうちにさらにオルタモントに変更になった。と、いう事情はよく知られているだろう。


3. 1971 Felt Forum, Madison Square Garden, New York, NY

 このヴェニュー4日連続の初日。3.50ドル。

 会場はマディソン・スクエア・ガーデンのメイン・アリーナの下にある多目的ホールで、現在は Hulu Theater と呼ばれる。1968年のガーデンのオープンから1990年代初めまで、Felt Forum と呼ばれた。座席数はコンサートで2,0005,600。オープン直後から1970年代初めにかけて、様々なロック・アクトがここでコンサートをしている。デッドのここでの演奏はこの4日間のみ。

 オープナー〈Truckin'〉が2018年、第一部10曲目の〈Comes A Time〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。前者では歌の後、いいジャムを展開する。後者、ガルシアの歌が絶好調。


4. 1973 Cincinnati Gardens, Cincinnati, OH

 曲数で半分が《Winterland 1973》のボーナス・ディスクでリリースされた。

 開演6時の予定が実際に始まったのは11時だった由。


5. 1979 Uptown Theatre, Chicago, IL

 このヴェニュー3日連続の中日。第二部ドラムス前の〈Estimated Prophet> Franklin's Tower〉とそれに続くジャムが《Dave's Picks, Vol. 31》でリリースされた。

 各々の歌の後のジャム、後者で一度止まりかけるのがテンポを変えてまた復活するのが楽しい。


6. 1990 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 22.50ドル。開演7時。セット・リスト以外の他の情報無し。(ゆ)


 うは、《30 Days Of Dead》のラストに47分の〈Dark Star> Eyes Of The World> Stella Blue〉を落っことしてきた。これで今年のトータルは7時間44分で、《30 Days Of Dead》史上ダントツのトップ。ひょっとして今年で終りにするつもりか。
 


 ダブリンの有名な音楽パブ, The Cobblestone のある一角をホテルに再開発するという計画はダブリン市当局から却下されたそうな。開発業者の計画ではパブそのものは残すが、奥の、リハーサル、楽屋、教室に使われているスペースは潰す、というものだった。実はそこが大事なのだ、という訴えが通ったわけだ。これにはネット上で反対のための署名集めもされていた。まずは良かった。が、このまま何もせずにずっとそのままでいられるわけでもないだろう。

 あたしも一度だけだがちょっと覗いたことがある。その時のセッションではエマー・メヨックが達者なフィドルを弾いていて、多芸ぶりに感嘆したものだ。


##本日のグレイトフル・デッド

 1130日には1966年から1994年まで6本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版1本。


1. 1966 The Matrix, San Francisco, CA

 4日連続の2日目。


2. 1973 Boston Music Hall, Boston, MA

 6.50ドル。開演7時。《Dick’s Picks, Vol. 14》で全体の6割強がリリースされた。第一部がオープナーとクローザーを含む8曲。第二部は5曲目の〈Here Comes Sunshine〉からクローザーまで。このショウはアンコール無し。

 オープナーが14分近い〈Morning Dew〉。この曲がオープナーになるのはごく稀で、こういう選曲をする時は調子が良い。これはもちろんベスト・ヴァージョン。第一部ではどの曲もかっちりした出来だが、〈They Love Each Other〉が、丈夫なバネで跳びはねるような演奏で、この曲の新たな魅力を聞かせる。クローザーの〈Playing in the Band〉は前年後半からの流れを受け継いで、20分を超えるすばらしいジャムを展開する。

 Boston Music Hall では1971-04-07から1978-11-14まで15回演奏している。ここは1852年ボストン交響楽団の本拠としてオープン。1900年に楽団が移って閉鎖。ヴォードヴィル劇場として改修、1906年、Orpheum Theatre と改名。1916年に内部を改装。後に映画館となる。1971年5月、ライヴ・コンサート会場 the Aquarius として再開。一方でデッドの他にはポリスやU2のライヴ録音がある。収容能力2,700。デッドはここを卒業した後は Boston Garden を使う。


3. 1979 Stanley Theatre, Pittsburgh, PA

 開演7時。セット・リスト以外の他の情報無し。


4. 1980 Fox Theatre, Atlanta, GA

 第二部5曲目〈Playing in the Band〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Dave’s Picks, Vol. 08》で全体がリリースされた。

DeadBase XI 312


5. 1981 Hara Arena, Dayton, OH

 第一部クローザーの2曲〈Let It Grow; Don't Ease Me In〉が昨年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


6. 1994 McNichols Arena, Denver, CO

 第一部6・7曲目〈Me and My Uncle> Big River〉でウィアがアコースティック・ギター。

 セット・リスト以外の他の情報無し。(ゆ)



 
Custy's のオンラインストアで別のものを探していて遭遇する。

 アルゼンチン出身でエニスに住むシンガー/ギタリストのデビュー作。ギターはテクニシャンではないが、味のある伴奏をつける腕に不足はない。声に特徴があり、いわゆる「かわいい」声に聞えるが、その声に頼ることを拒否して、正面から歌う。結果、この声をさらに聴いていたくなる。

 詞はすべて英語で Eoin O’Neill が書き、バトラーが曲をつける。当然、アイルランドの伝統的メロディーではないが、そこから完全に離れてもいない。歌によって生まれでるある空間の産物。発音はスペイン語の訛か、ひどく聴きとりやすい。初聴きでのベスト・トラックは [08] The Stranger's Song。自らの立場を歌うとも、異邦の地に立って生きようとするすべての人を歌うとも聞える。

 数曲でオゥエン・オニールがブズーキでいいサポートをしている。


##本日のグレイトフル・デッド

 1125日には1973年と1979年の2本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1973 Feyline Field, Tempe, AZ

 第一部クローザーの〈Playing In The Band〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 オープナーが〈The Promised Land〉で第二部オープナーが〈Around And Around〉はありそうで、珍しい。〈Sugar Magnolia〉がクローザーではないのも滅多にない。〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉に続く。

 この週末はずっと雨で、会場は小さな野球場で、正午開演予定だったため、払い戻しになると思いながら朝10時に着くと Wall of Sound はすでに設置が終り、全体にプラスティックのカヴァーがかけられていた。スピーカーは背後の客席よりも高く聳えていた。そのサウンドは狭い球場からあふれんばかり。雨が止むのを待って、午後2時半、演奏が始まる。聴衆は34,000人と「ごく少なかった」。ステージには妊娠6、7ヶ月だったドナのために、やたらクッションのきいた大きな椅子が置かれて、ドナは実際これに座っていた。アンコールの時、雲間から太陽が現れ、ウィアが「日没を味わおうぜ」と言い、〈And We Bid You Goodnight〉が歌われる中、太陽が沈んでいった。帰りはまた土砂降りの雨。以上 DeadBase XI Jeffery Bryant のレポートによる。

 小さなものであれ、スタジアムが会場に選ばれたのは Wall of Sound を設置するためだろう。この前のショウは前々日、テキサス州エル・パソで、おそらく別のセットが先行して送られ、前日に組み立てられていたと思われる。


2. 1979 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA

 セット・リスト以外の情報が無い。(ゆ)


1118日・木

 Journal of Music Toner Quinn によるマーティン・ヘイズの自伝 Shared Notes 熱烈な書評を見て、AbeBooks で注文。アマゾンは来年1月刊だよんとたわけたことをぬかす。Penguin のサイトには1014日刊行と出ているKindle を売るためか。新刊のキンドルは高い。電子版でも Apple なら半額だ。

 しかし、いいタイトルだ。音楽は共有されて初めて存在できる。アイリッシュ・ミュージックはその性格がことさら剥出しになる。


 そのアマゾンによるロバート・ジョーダン『時の車輪』の映像化の出だしは評判がいいが、ブランドン・サンダースンによる完結篇までやるのか。邦訳はそこまで完結していないけれど、これを機会に邦訳が出るか。それにしても、シリーズの途中で邦訳打切りになるのが多過ぎる。



##本日のグレイトフル・デッド

 1118日には1966年から1978年まで3本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 3日連続の初日。共演は James Cotton Blues Band, Lothar & the Hand People。セット・リスト不明。

 James Henry Cotton (1935-2017) はブルース・ハープ奏者、シンガー、ソングライター。1950年代、ハウリン・ウルフのバンドでブルース・ハープを始め、マディ・ウォーターズに呼ばれてシカゴに移り、ウォーターズのバンドリーダーとなる。1965年自分のバンドを結成。このショウのポスターにも「シカゴより」とある。

 Lothar & the Hand People 1965年にデンヴァーで結成、1966年にニューヨークに移る。テレミンやムーグ・シンセサイザーを最初に使いはじめたロック・バンドとして、短命ながら後のエレクトロニクス音楽の勃興に大きな影響を与えた、と言われる。Lothar は使っていたテレミンに与えられた名前で、the Hand People たるバンド・メンバーは John Emelin (vocals), Paul Conly (keyboards, synthesizer), Rusty Ford (bass), Tom Flye (drums) それに Kim King (guitar, synthesizer)。デッドはじめ、バーズ、ラヴィン・スプーンフル、キャンド・ヒートなどと共演した。


2. 1972 Hofheinz Pavilion, Houston, TX

 後半9曲のうち、冒頭の〈Bertha〉からラスト前の〈Sugar Magnolia〉の8曲が《Houston, Texas 11-18-1972》でリリースされた。曲数では全体の3分の1。これ以外の録音は The Vault には無い由。

 これにも含まれる〈Playing in the Band〉がキャリア全体のベストの1本、と言われる。この1972年秋の PITB はとにかく、どれもこれも長くて凄い。1968年6月の初演から4年経って、当初の5分ほどのあっさりした曲は30分のモンスターに成長した。この後は、間に他の曲をはさむ形になる。まとまった1曲としてはこの頃が頂点。演奏回数の総数610回はトータルで2位。1位は〈Me and My Uncle〉だから、デッドのオリジナルとしてはトップ。うち公式にリリースされている録音は今のところ126本。


3. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL

 8.50ドル。開演8時。前半7曲目〈Stagger Lee〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 「ジョーンズタウンの大虐殺」が起きた日。当初は集団自殺とされていたが、今ではむしろ大量殺人とみなされているようだ。ガイアナに移住する前、ジム・ジョーンズの人民寺院は本部をサンフランシスコに置いて急速に成長し、市政に影響を与えるまでになった。もっともデッド周辺との接触は確認されていない。

 こうしたカルトはアメリカのサイケデリック文化の流れを汲み、その文化の源流にはデッドも関っているが、デッドはなべて宗教的なものとは距離を置いていた。もっとも、デッドにとっては音楽、その演奏が礼拝、宗教行為であり、デッドヘッドのデッドへの信奉の仕方は宗教に近い。もっとも「カルト」をマイノリティの一種とするなら、デッドヘッドの広がりと浸透はむしろアメリカの主流をなす流れの一つではある。(ゆ)


1111日・木

 チーフテンズ、60周年ベスト盤ライナー原稿を何度も読みなおしながら削りに削る。くたびれる。もう一晩、置いてみよう。

 くたびれてしまって、他に何をする気にもなれない。久しぶりにインターバル速歩をすると、少しすっきりする。しばらくやらないと調子が崩れるくらいになってきた。
 


##本日のグレイトフル・デッド

 1111日には1967年から1985年まで6本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


1. 1967 Shrine Auditorium, Los Angeles, CA

 "Amazing Electric Wonders" と題されたイベント。共演は Buffalo Springfield Blue Cheer

 この日と前日のものとして出回っているテープの内容に混乱があり、2日間の演奏とわかってはいるものの、どの演奏がどちらのものかはわからない、らしい。

 Blue Cheer 1966年にサンフランシスコで結成したトリオで、断続的に2009年まで活動。後にはドイツをベースにしたらしい。ハード・ロックやヘビメタ、グランジの元祖の一つ、だそうだ。


2. 1970 46th Street Rock Palace, Brooklyn, NY

 このヴェニュー4日連続初日。一部セット・リストはあるが、詳細不明。

 ポスターには "Brooklyn Rock" とあり、バーズ、アイアン・バタフライが各々ワンマン、カントリー・ジョー、ヤングブラッズ、ビッグ・ブラザーが合同、その次がデッド4日間で、その後がジェファーソン・エアプレインのワンマン、サヴォイ・ブラウン、バディ・マイルズ、ヘイスタックス・バルボアがジョイント、リー・マイケルズのワンマンと続く。


3. 1971 Atlanta Municipal Auditorium, Atlanta, GA

 3.505.50ドル。開演7時。ポスターによれば、デッドの前は1018日にトラフィック、後は1127日にザ・フー。トラフィックはデッドと同じ値段だが、ザ・フーは1ドル高い。

 オープナーの〈Bertha〉の後で「アトランタ暴動」とも呼ばれるようになる激しい口論があり、バンド・メンバーの抗議と聴衆のシュプレヒコールの中、警官が聴衆の1人を外へ出したらしい。ウィアが警官たちに罵声を浴びせ、あやうく連行されるところだった、という報告もある。当然、演奏には身が入らず、最低のショウの一つの由。


4. 1973 Winterland, San Francisco, CA

 この時は3日連続の最終日。全体が《Winterland 1973》でリリースされた。

 何といっても30分を超える〈Dark Star〉とそれに続く14分の〈Eyes of the World〉がキモ、と John W. Scott DeadBase XI で書いている。

 それにしてもこのヴェニューからは名演が生まれる。デッドのホームグラウンドとしては、フィルモアよりもこちらかもしれない。アーカイヴの完全版リリースもこの1973年と1977年の二つのボックス・セット、《The Grateful Dead Movie Soundtrack》《Closing Of The Winterland》それに《30 Trips Around The Sun》の1970年と《Dave's Picks, Vol. 13》。おそらく他のどのヴェニューよりも多いんじゃないか。


5. 1978 NBC Studios, New York, NY

 『サタデー・ナイト・ライヴ』に出演、3曲演奏。


6. 1985 Meadowlands Arena, East Rutherford , NJ

 13.50ドル。開演7時半。(ゆ)


1110日・水

 チーフテンズの60周年記念ベスト盤《Chronicles: 60 Years of the Chieftains》『チーフタンズの60年〜ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・チーフタンズ』の音源を聴きながら、ライナーの原稿を書く。

 このベストはキャリアの始めと最後に集中した選曲。つまり、今回一緒にリイシューされるファーストから『バラッド・オブ・ジ・アイリッシュ・ホース』までのアルバム(ただし『8』からは無し)と、『ロング・ブラック・ヴェイル』『ダウン・ジ・オールド・プランク・ロード』『サン・パトリシオ』『ヴォイス・オブ・エイジズ』から選んでいる。これはこれで筋の通った方針でもあるし、選曲眼はかなり肥えていて、目配りもよく、こうして聴くとなかなか面白い。

 ついでながら、リイシューされるのは『バラッド・オブ・ジ・アイリッシュ・ホース』までなのだが、『7』から『9』と《Live!》の4枚は除かれている。大人の事情、ということで、画竜点睛を欠くところではあるが、まあ、いずれこれらもリイシューされるだろう。特にうたわれていないが、音源を聴くかぎり、リマスタリングされているようでもあって、音質は良い。

 BBC の持つ未発表ライヴ音源が4曲入っているが、そのうち2曲はなんと1975年、最初のロイヤル・アルバート・ホール公演の音源だ。ちゃんと録っていたんじゃないか。もったいぶらないで、とっとと全部出してくれ。

 後の二つは1981年のケンブリッジ・フォーク・フェスティヴァルでのライヴ。1977年の《Live!》もそうだが、チーフテンズだけの、ゲストのいないすっぴんの演奏の凄さにあらためてシャッポを脱ぐ。それにアレンジの妙。差し手引き手の呼吸のとり方の巧さ。こんなことをやっていたのは、やれたのは、チーフテンズだけだ、とあらためて思いしらされる。うーん、一度、ゲスト抜きの、かれらだけの生をあらためて見てみたかった。

 最初の来日はその形だったけれど、あの時は、とにかく目の前にチーフテンズがいる、というだけで舞い上がってしまっていて、何をやったのかもさっぱり覚えていない。2度目のときは大方の皆さん同様、ジーン・バトラーのダンスに目を奪われていた。チーフテンズのライヴで、音楽の凄さに圧倒されたという記憶がほとんど無いのは、ちょと寂しい。例外は以前にも書いた、カルロス・ニュネスとパディ・モローニのパイプ・バトル。マット・モロイのソロやケヴィン・コネフの歌はもちろん良かったけれど、それは個々の芸で、バンドの、アンサンブルとしての凄みとは別だ。

 原盤のわからない音源が2曲。アリソン・クラウスの歌う〈Danny Boy〉とヴァン・モリソンの歌う〈Star of County Down〉。後者はベルファストは The Menagerie での1999年のライヴ音源で、他にもっと無いのか。

 前者は絶品。この歌のベスト・ヴァージョンと言っていい。クラウスはほぼフリー・リズムで、ア・カペラのようにうたい、電子音やパイプやハープやフルートやフィドルがアンビエントなバックをつける。クラウス、偉い。"with Alison Krauss, Bishop Nathaniel Townsley Jr, Gospel Jubilee & Malachy Robinson" というクレジットなのだが、いつ、どこでのものだろう。上記のコラボレーション・アルバムのどれかのアウトテイクか。もらった資料には何も無い。

 ご存知の方がおられれば、乞うご教示。

 聴きながら書いていると、どんどん膨らんで、制限字数を大幅にオーヴァー。さて、どこをどう削るか。



##本日のグレイトフル・デッド

 1110日には1967年から1985年まで6本のショウをしている。公式リリースは4本。うち完全版2本。


1. 1967 Shrine Auditorium, LA

 最後の2曲が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。

 それにしてもこういうものを聴くと、デッドはヘタである、という「定説」はいつ、どこで、どうやって生まれたのか、不思議でしかたがなくなる。テープを聴いていなかったから、というだけの理由からだろうか。


2. 1968 Fillmore West, San Francisco, CA

 4日連続の最終日。セット・リスト不明。


3. 1970 Action House, Island Park, NY

 このヴェニュー2日連続の2日目。セット・リストは一部のみ。


4. 1973 Winterland, San Francisco, CA

 3日連続の中日。《Winterland 1973》で全体がリリースされた。

 朝11時に会場の前に行くとすでに7人並んでいた。開場は4時半。ガルシアはきれいにヒゲを剃っていた。と Mike Dolgushkin DeadBase XI で書いている。


5. 1979 Crisler Arena, University of Michigan, Ann Arbor, MI

 7.50ドル。開演7時半。前半ラスト前の〈Passenger〉と後半冒頭の2曲〈Alabama Getaway> The Promised Land〉が《Road Trips, Vol.  1, No. 1》でリリースされた。

 3曲とも実に良い演奏。ミドランドはすでにバンドに溶けこんで、ソロもとっている。これなら全体も良いにちがいない、と思える。


6. 1985 Meadowlands Arena, East Rutherford , NJ

 このヴェニュー2日連続の1日目。前売13.50、当日15ドル。開演7時半。前半4曲目〈Cassidy〉が《So Many Roads》でリリースされた。これも良い演奏。この曲はドナあってのものと思うが、ミドランドは十分自分のものにしているし、かれの鍵盤が加わるのも良い。

 1985年秋のツアーでベストのショウ、と言われる。(ゆ)


1105日・金

 チーフテンズ60周年記念ベスト盤と初期旧譜リイシュー10枚の国内盤のライナーのうち、リイシューのライナー原稿を全部送る。ベスト盤は発売が伸び、時間があるとのことなので、再度書き直し。一度、書いたのだが、どうも気に入らず。なんとか書き直す時間をとれないかと思っていたので、ありがたし。

 このライナーのためにファーストから改めて聴きなおしていって、やっぱりすげえなあ、と思う。こういうことをやっていた、やれたのはチーフテンズだけだし、その後も出ていない。今後も出ないだろう。ワン&オンリー。

 一方で、かれらの音楽はアイリッシュ・ミュージックの生理と相容れないところがある。アイリッシュ・ミュージックはこういう風には動作しない、作用しない、と感じてしまう。つまり、チーフテンズの音楽は徹頭徹尾、聴かせるための音楽、作りこんだ音楽、売るための音楽なのだ。その方向に向かってぎりぎりまで伸ばした音楽でもある。これ以上伸ばせば、音楽伝統から切れる、その限界まで行っていた。一部は切れていたとも聞える。

 プランクシティ、ボシィ・バンド、デ・ダナンの音楽も聴かせるための音楽だし、売るための音楽でもあるのだが、ここまで徹底していない。アイリッシュ・ミュージックの生理に引っぱられている。クリスティ・ムーアにしても、自分の生理に忠実だ。世界に売るためにレパートリィやスタイルを変えることは考えない。アメリカで売れなくても平気だ。

 言いかえると、パディ・モローニはアイリッシュ・ミュージックが持った最高の、そして今までのところ唯一のビジネスマンだった。かれはチーフテンズを売るために、アイリッシュ・ミュージックを卒業していったのだ。自分がやっているこれこそがアイリッシュ・ミュージックだと言いながら、チーフテンズを売りこんだ。もちろん、それがアイリッシュ・ミュージックとは別のものであることを、かれは知っていた。モローニ個人はアイリッシュ・ミュージックの伝統にどっぷり漬かって育っているからだ。だから、アイリッシュ・ミュージックのままでは売れないことを知っていた。売れるものをアイリッシュ・ミュージックを土台にして作りあげていった。アイリッシュ・ミュージックから離陸することを恐れなかった。

 その軌跡が残されたレコード群なわけだが、ファーストから『10』までの、すっぴんのチーフテンズだけのレコードで、すでにそれは形になっている。ここに完成しているのは、唯一無二、チーフテンズ以外の誰にも作れなかった音楽だ。



##本日のグレイトフル・デッド

 1105日には1966年から1985年まで5本のショウをしている。公式リリースは2本。ともに完全版。


1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 前2日と同じ。ポスターでは4・5日。チラシでは3・4日。共演 Oxford Circus。詳細不明。


2. 1970 Capitol Theater, Port Chester, NY

 5.50ドル。開演8時。4日連続の初日。初日と最後の日曜日はアコースティック・デッド、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、エレクトリック・デッドというステージ。

 ピグペン最後の輝きの時期。


3. 1977 Community War Memorial, Rochester, NY

 6.50ドルまたは7.50ドル。開演8時。全体が《Dick’s Picks, Vol. 34》でリリースされた。

 自由席だったため、開演前、入口前に集まった群衆の密度が異常に高く、開場が開演45分前まで遅れたこともあり、開場と同時に皆なだれこもうとした。ドアは外に向かって開く方式のため、係員が入口上の屋根から下がってくれとどなった。前の方の人たちは下がろうとし、後ろからは前へ出ようとして押合いになった。ついにガラスが割れてドアが蝶番からはずれた。


4. 1979 The Spectrum, Philadelphia, PA

 9ドル。開演7時。全体が《Road Trips Full Show: Spectrum 11/5/79》でリリースされた。

 すばらしいショウの由。オープナーが〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉というのからして稀有。とりわけ後半の〈Eyes of the World> Estimated Prophet> Franklin's Tower〉が凄いらしい。上記公式リリースは2008年に期間限定でダウンロード販売されただけなのよね。


5. 1985 The Centrum, Worcester, MA

 15ドル。開演8時。2日連続このヴェニューの2日目。世界一背の高いデッドヘッドとして有名なプロ・バスケット選手のビル・ウォルトンの誕生日。ウォルトンは当時、ボストン・セルティクスに在籍。この日は休日で、ショウに来ていた。後半冒頭に「ハッピー・バースディ・ビル」が歌われた。

 全体としてA級のショウだが、翌年の昏睡の前兆が現れていて、ガルシアは何度か歌詞が出てこなかった。(ゆ)


1104日・木

 1960年代にキョールトリ・クーランやチーフテンズ、ダブリナーズが出てきたことには、やはり時代の流れがあったような気がする。キョールトリ・クーラン結成は1960年。チーフテンズ結成が1962年。ダブリナーズもローリング・ストーンズの結成も同じ。同年ビートルズがレコード・デビュー。ヴァン・モリソンのゼムが1964年。

 パディ・モローニはクリスティ・ムーア、ドーナル・ラニィ、ポール・ブレディ、アンディ・アーヴァインたちからは一世代上だ。チーフテンズ結成の年24歳。プランクシティがチーフテンズの十年後。アイルランド共和国は1950年代末から経済改革によって社会ががらりと変わる、その最初の恩恵を直接受けたのがモローニの世代。変わった社会の子どもたちがプランクシティ、ボシィ・バンド、デ・ダナンの世代。

 オ・リアダがクラシックに伝統音楽を持ちこもうとしたのは、クラシック音楽というものの習性からだが、それがキョールトリ・クーランという形をとったのは、アイルランドの音楽伝統がそれだけ濃厚だったということだろうか。そしてそれが結局チーフテンズという形に着地したのも、伝統の慣性が大きかったからだ、というのはどうだろう。これが当たっているなら、オ・リアダとモローニは同じ夢を見ながら、向いている方向は逆だったことになる。

 一方でチーフテンズがクラシックを手始めに、常に外部からの要素、手法やレパートリィの点で異なる伝統やジャンルのものを取り込もうとし続けたのが60年代の精神を持ちつづけた現れである、と見ると、モローニの評価もまた変わってくる。あるいは持ちつづけたというよりは捨てられなかった、というべきかもしれないが。

 それに、モローニは常に新しい才能に敏感だった。ドロレス・ケーン、いやその前にショーン・キーンからして、キョールトリ・クーランに参加するのは十代半ば、チーフテンズのセカンドの時点で23歳。マイケル・フラトリー、ジーン・バトラー、カルロス・ニュネス、ピラツキ兄弟。若い才能を掘り出すモローニの能力は飛びぬけている。

 1996年の《サンチャーゴ》に参加したから、カルロス・ニュネスが初来日したのは確か1997年のチーフテンズに同行していたはずだ。覚えているのは目白駅から歩いていったグローブ座での公演で、後半、自分が前面に立つパートでカルロスがパディを煽ったのだ。どうやったのかはよくわからないが、とにかく、パイプで演奏しながらパディを見て笑いかけた。始めはにやにやするだけだったパディが、あるところで表情が変わって、カルロスに対抗しはじめた。そこからの2人のパイプ・バトルが凄かった。パディがあんなにパイプを吹きまくったのは、後にも先にも、レコードでさえ、聴いたことはない。これまで見たケルト系のライヴの中で、あれは最高にスリリングな時間の一つだ。



##本日のグレイトフル・デッド

 1104日は1966年から1985年まで5本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 前日と同じく、ポスターでは4・5日、チラシでは3・4日。共演 Oxford Circus。セット・リスト不明。


2. 1968 Longshoreman's Hall, San Francisco, CA

 DeadBase XI はじめ日付と場所だけはあるが、内容についての情報無し。


3. 1977 Wesley M. Cotterell Court, Colgate University, Hamilton, NY

 開演7時半。《Dave’s Picks, Vol. 12》で全体がリリースされた。

 後半冒頭、機器トラブルでちょっと待ってくれとウィアが言い、レシュが時間を潰すため、メンバーを "Jones" 一家として、Jerry Jones, Bob Jones, Bill Jones などと紹介した。ショウ自体はこの年の良い典型。


4. 1979 Providence Civic Center, Providence, RI

 これも良いショウの由。


5. 1985 The Centrum, Worcester, MA

 このヴェニュー2日連続1日目。15ドル。開演7時半。

 1977年に迫るショウの由。

 会場はボストンのほぼ真西60キロのウースターにある屋内アリーナ。収容人数はコンサートで14,800。デッドはここで198310月から1988年4月まで計12回演奏している。この日は5回目。2回目の1983-10-21が《30 Trips Around The Sun》でリリースされている。

 当時はアリーナだけだったが、その後拡張され、コンヴェンション・センターを併設した複合施設になっている。ニュー・イングランドでは最も大きく、最も設備の整った施設として、スポーツ、コンサート、コンヴェンション、見本市、その他多数が集まるイベントに常時使用されている。2004年に Digital Federal Credit Union (DCU)  が命名権を買い、現在の名称は DCU Center

 ウースターは人口18万で、ニュー・イングランドではボストンに次ぐ。ボストンとスプリングフィールドのちょうど中間。かつては独立した街だったが、現在ではボストンの拡大に吸収され、その西端をなす。(ゆ)


 アイルランドのシンガー・ソング・ライター、Sean Tyrrell の訃報が入ってきました。1030日夜死去。享年78歳。
 

 1943年ゴールウェイ生まれ。1960年代からフォーク・クラブで歌いはじめ、1968年にニューヨークに渡り、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンで活動します。サンフランシスコ、ニュー・ハンプシャーに移り、Apples In Winter というグループに参加。1975年1枚アルバムを出します。

 その年、アイルランドに戻り、クレアのバレンに住みつき、1978年、National University Ireland Galway に職を得ます。また、隣近所だったデイヴィ・スピラーンと演奏するようになり、そのアルバム2枚に参加もします。《Shadow Hunter》と、たぶん《Atlantic Bridge》と思います。前者は確認しましたが、後者は行方不明。

 アイルランドでのかれの評価は ‘Cuirt an Mhean Oiche (The Midnight Court)’ という詩に曲をつけたことが大きいようです。この詩は Brian Merriman または Brian Mac Giolla Meidhre (c. 1747 – 1805) というクレアの農民で寺子屋教師が残したもので、アイルランド語のコミカルな詩として最高のものとされています。フランソワ・ラブレーの作品に比されることもあるそうな。この詩は1,200行に及ぶ長篇で、ティラルはこれをバラッド・オペラに仕立て、1992年に上演されて好評を博しました。先日亡くなった Mary McPartlan も出演した由。

 1994年にデビュー・アルバム《Cry Of A Dreamer》を、当時ばりばり元気だった Hannibal Records からリリース。ぼくがかれの歌を聴いたのもこれが初めてでした。朴訥と形容したくなるような、ごつごつと一語一語言葉を打ちこんでくるような歌と、やはりぽつりぽつりと弾くマンドーラの伴奏は強い印象を受けました。以後2014年の《Moonlight on Galway Bay》まで、5枚のアルバムがあります。いずれも質の高い佳作ですが、とりわけセカンドの《The Orchard》は傑作。

Cry of a Dreamer
Tyrrell, Sean
Hannibal
1996-01-16


 一方で、バンジョーも達者でフィドルの Kevin Glackin、パイプの Ronan Browne とのアルバムや、地元のフィドラーとのライヴ盤や、フルート、ホィッスル、ヴィオラを操る人たちと The Medal Hunters の名前で出したライヴ盤があります。この最後のものはやはりトリオで、おそらくセッションをほぼそのまま録音したものらしい。3人とも名人達人というわけではありませんが、味があり、耳を惹かれます。

 アイルランドの現大統領マイケル・ヒギンズとは Universty College Galway の同窓だったそうで、追悼の言葉を発表しています。

 すぐれたシンガーの星の数ほどいるアイルランドでも、なぜかぼくには最もアイルランド的と感じられるうたい手でした。オリジナルやカヴァーが多いのですが、深く下ろした根っこからたち登ってくるような歌です。美声でもないし、耳に快いスタイルでもありませんけど、ずっと聴いていたくなる。今夜は久しぶりにかれの歌に浸って、追悼しようと思います。合掌。(ゆ)



1031日・日

 久しぶりに自分の訳したチーフテンズの公式伝記を読みなおしていたら、ニューヨークをベースにする Black 47 のリード・シンガー、Larry Kirwan が、チーフテンズを「伝統音楽界のグレイトフル・デッド」と呼んでいるのに遭遇した。

 「いつでもずっといたし、今でもすぐ手の届くところにいて、いつもツアーしているから、いつでも見にいける」211pp.

 カーワンはデッドとチーフテンズを両方聴いて、ファンだったわけだ。やはりこういう人間はいるのだ。若いミュージシャンからはデッドはこう見られてもいた、ということでもある。

 Black 47 1990年代初めにレコード・デビューしたケルティック・ロック・バンドで、初期のアルバムにはシェイマス・イーガンやアイリーン・アイヴァースが参加してもいる。


##本日のグレイトフル・デッド

 1031日には1966年から1991年まで、13本のショウをしている。1966年から71年まで、毎年ハロウィーン・ショウをしている。それ以外の年もハロウィーンは公演をする口実になったのだろう。公式リリースは3本。


01. 1966 California Hall, San Francisco, CA

 "Dance of Death Costume Ball" と題されたイベントで共演はクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスとミミ・ファリーニャ。

 前売2.50ドル、当日3ドル。セット・リスト不明。


02. 1967 Winterland Arena, San Francisco, CA

 "Trip or Freak" と題されたハロウィーン・イベント。共演クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー。

 セット・リスト不明。


03. 1968 The Matrix, San Francisco, CA

 前2日と同じく Mickey and the Hartbeats または Jerry Garcia & Friends の名前で行われ、ピグペンとウィアは不在。セット・リスト不明。


04. 1969 San Jose State University, San Jose, CA

 "Halloween Dance" と題されたショウ。学生2ドル、一般3ドル。2時間弱の休憩なしの1本勝負。


05. 1970 University Gymnasium, State University of New York, Stony Brook, NY

 学生1ドル、一般4ドル。開演8時。Early Late の2ステージ。それぞれガルシア入りニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジとエレクトリック・デッドのステージ。Early は完売ではなかったので、ピグペンがみんな残れと誘った。Early Show で〈Viola Lee Blues〉が最後に演奏される。

 ウィアがサウンド・エンジニアに、機械にさわるな、自分が何やってんだかわかんねえんだから、とどなったという報告もある。


06. 1971 Ohio Theatre, Columbus, OH

 ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。

 後半全部が《Dick’s Picks, Vol. 02》で、前半3〜5曲目〈Deal; Playing In The Band; Loser〉が2018年の、13曲目〈Cumberland Blues〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。全体の半分がリリースされている。


07. 1979 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY

 開演8時。オープナーの〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉と7曲目〈Althea〉が《Road Trips, Vol. 1 No. 1》のボーナス・ディスクで、前半締めの〈Lost Sailor > Saint of Circumstances〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


08. 1980 Radio City Music Hall, New York, NY

 8本連続千秋楽。9月25日からの一連のレジデンス公演の千秋楽。

 第一部2・3曲目〈Sage And Spirit〉〈Little Sadie〉が《Reckoning》で、第三部5曲目からの〈Drums> Space> Fire on the Mountain〉が《Dead Set》でリリースされた。

 また前日とこの日のショウの一部がビデオ《Dead Ahead》としてリリースされた。


09. 1983 Marin Veterans Memorial Auditorium, San Rafael, CA

 アイアート・モレイラが前半全部と後半〈Drums〉まで参加。

 〈St. Stephen〉が最後に演奏された。この曲はなぜかデッドヘッドには異常なまでに人気があり、なぜ演奏しないのか、しなくなったのか、議論がかしましい。難しい曲で演奏できなくなったのだ、とか、ガチョー夫妻がいなくなって変えたアレンジが気に入らなかったのだ、とか、いろいろと理屈づけがされている。ガルシアはインタヴューでも訊かれている。もちろん理由が知りたいのではなく、演奏して欲しいだけだ。

 ありていに言えば飽きた、ということに尽きるだろう。デッドはデッドヘッドを大事にはしたが、デッドヘッドのために演奏していたのではなかった。自分たちがまず楽しむために演奏していたのだ。演って楽しくなくなった曲は演らないだけのことだ。

 一方デッドヘッドにしてみれば、デッドは自分たちのために演奏してくれていると思いたい。デッドが聴衆のリクエストに応じたことはほとんどまったくといっていいほど無かったにもかかわらず。


10. 1984 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA

 6本連続の4本目。そこそこのショウ、悪くはないが、特別良くもない、というところらしい。


11. 1985 Carolina Coliseum, University of South Carolina, Columbia, SC

 13.50ドル。開演8時。ハリケーン「グロリア」のおかげで外は土砂降りのハロウィーンで、〈Looks Like Rain〉が凄かったそうな。ステージはジャック・オ・ランタンや大きな布で飾られ、聴衆も思い思いの仮装、オープニングは〈Space〉。ハロウィーンは死者の祭でもある。


12. 1990 Wembley Arena, London, England

 ロンドン3日連続の中日。開演7時半。かなり良いショウだった由。バンドはオン・タイムに出てきて、30分休憩で終演1115分。アンコールはもちろん〈Werewolves Of London〉。後で録音を聴くとガルシアは声を嗄らしていたが、その時はわからず。客にはアメリカ人が多かったが、雰囲気を盛りあげてくれた。会場の音響はよくないのが普通だが、この時はまずまず。


13. 1991 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 4本連続の最終日。後半4曲目の〈Spoonful〉から〈Space〉を含めて〈The Last Time〉までクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの Gary Duncan がギターで参加。〈Dark Star〉の間にケン・キージィがビル・グレアムへの追悼の言葉をラッピングした。アンコールの〈Werewolves Of London〉は〈Werewolves Of Oakland〉として歌われた。

 ビル・グレアム死後初のハロウィーンで、その霊が会場にいるかのようなエネルギーと緊迫感に満ちたショウだった、ようだ。居合わせた人たちが口を揃えて、異様な雰囲気だったと言う。

 グレアムはデッドにとって、口うるさく、苦手ではあるが、いざという時頼りになる叔父さん、という役柄だった。グレアムの方もデッドを理解し、デッドの兄ないし父親になってもいいと思っていた。一方で、公演を自分の所有物とみなすグレアムの偏執狂的な態度に、デッドは最後まで抵抗もした。しかし、グレアムなくして、グレイトフル・デッドの存続も無かった。デッドもまたそのことはわかっていたと思う。それにしてももうそろそろ、グレアムの信頼できる伝記が書かれてもいい。それとも、もう少し関係者が死ななければ、だめだろうか。(ゆ)

 このところ訳あって、チーフテンズをファーストから聴いている。実によい。まず、ゲストがいないのが心地良い。アイリッシュ・ミュージックの新しい形を生みだそうとする意気込みが熱い。新しい音楽を貪欲に取り入れようとする好奇心がいい。チーフテンズが認められたのは、愚直に自分たちの音楽を追求していたこの姿勢とその成果のおかげだった。

 『10』でマン島の音楽をとりあげているのに、あらためて驚く。Charles Guard のハープ・ソロ Avenging And Delight》はすばらしいアルバムと記憶していたが、てっきりスコットランドの人と思いこんでいたら、マン島の人だった。

 それにこの時期、パディ・モローニはちゃんとパイプを演奏している。時間としては多くないが、かれのソロは随所にあって、もっと聴いていたくなる。ただ、ドローンの使用がどんどん減ってゆくのもわかる。

 一方でアイリッシュ・ミュージックにあって、新しい形を採用する、提示することを続けることがいかに難しいか、ということもわかる。そしてその志向がおそらく1960年代後半から1970年代にかけての時代的趨勢に根差しているのも見える。プランクシティもボシィ・バンドもデ・ダナンその志向の産物だ。これがアルタンになると変わってくる。前の時期の新しい形は外部からの導入だが、アルタン以降はアイリッシュ・ミュージックの内部から自然にわき出る流れにそうようになる。

 その意味ではチーフテンズは1960年代の精神に殉じて、外部の要素のとりこみを最後までつづけたと言える。


1030日・金

##本日のグレイトフル・デッド

 1030日には1968年から1991年まで、11本のショウをしている。公式リリース3本。うち完全版2本。


1. 1968 The Matrix, San Francisco, CA

 前日と同じく、Mickey and the Hartbeats または Jerry Garcia & Friends 名義のショウ。


2. 1970 University Gymnasium, State University of New York, Stony Brook, NY

 同じヴェニュー2日連続の初日。4ドル。正午開始の Early Show Late Show の二部構成。前半はどちらもガルシア参加のニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。後半はエレクトリック・デッド。Early Show の客は一度外に出て、Late Show の客が入った後、Early Show のチケットの半券で入場できた。Early Show は2時間ほど、Late Show は3時間弱。


3. 1971 Taft Auditorium, Cincinnati, OH

 後半3曲目〈Comes A Time〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。WEBN FM放送されてブートがある。


4. 1972 Ford Auditorium, Detroit, MI

 9月初旬からの秋のツアー第一レグの千秋楽。この年の典型的、ということは良いショウの由。


5. 1973 Kiel Auditorium, St. Louis, MO

 このヴェニュー2日目。前日とともに《Listen To The River》で完全版がリリースされた。


6. 1976 Cobo Arena, Detroit, MI

 《30 Trips Around The Sun》の1本として、完全版がリリースされた。


7. 1980 Radio City Music Hall, New York, NY

 8本連続の7本目。第一部4曲目〈On the Road Again〉が《Reckoning》でリリースされた。


08. 1983 Marin Veterans Memorial Auditorium, San Rafael, CA

 情報が無い。


09. 1984 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA

 すばらしいショウの由。


10. 1990 Wembley Arena, London, England

 最後のヨーロッパ・ツアー、最後の寄港地での3日連続の初日。17ポンド。開演7時半。まずまずのショウ。電話でしゃべっている2人のイングランド人女性の声が〈Drums〉で使用された。〈Valley Road〉はブルース・ホーンスビィのボックス・セット《Intersections: 1985-2005》に収録された。


11. 1991 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 開演7時。4本連続の3本目。情報がない。(ゆ)


1027日・水

 Jessica Cawley, Becoming An Irish Traditional Musician を読了。目鱗な新事実や驚愕の真相が満載というわけではないが、かなり興味深い。
 著者はアメリカ人で、成人してからアイリッシュ・ミュージックと出逢い、フルートとフィドルを演るようになる。その自分の体験から、アイルランド伝統音楽のミュージシャンになるとはどういうことなのか、何をどうすれば、なれるのかをつきとめようとする。そのために、幅広い世代の現役の伝統音楽ミュージシャン22人へのインタヴューと自分の体験をデータとして用いて、様々な角度から分析を試みる。
 結論として、これをやればそうなれるなんてものは無い、というのが出るのは予想通りだが、それを出すまで、学問的な手続きをいちいち踏んでゆく。そのプロセスは面白い。伝統音楽のミュージシャンになる近道、あるいは定番の手法は無いにしても、最低限、こういうことは共通項と言える、というところまでは押えている。これもそりゃあそうだろうと思えるところもあるが、そこにいたる手続きが堅実なので、説得力がある。昨今、話題になるジェンダーからのアプローチはほとんど無いが、著者も言うとおり、それはそれで別に本が何冊も必要だろう。



 目鱗の新事実、驚愕の真相は無い、とあたしには映るわけだが、これはあるいはあたしはもうすれっからしなので、そういう事実は見当らないというだけかもしれない。読む人が読めば、目から耳からウロコがぼろぼろ落ちるかもしれない。

 あたしがほっほおと感心したのは、アイルランド伝統音楽のミュージシャンになるためには、ただ過去の演奏をコピーしただけではだめだ、というところ。たとえばマイケル・コールマンを完璧にコピーしたとしても、それだけでは伝統音楽ではない、と言うのだ。著者が言ってるわけじゃない、著者がインタヴューしたミュージシャンの一人が言っている。名前を明かせばトモス・オ・カノーン、パイプの大ベテランだ。ミュージシャン自身の独自性、クリエイティヴなところがなければ、伝統音楽では無いというのだ。るる検討してきて、結論でこれが出てくると、ずしんと胸の奥底に響く。

 様々な先行文献の引用や参照もあって、巻末の文献リストもなかなか面白い。中で1番面白そうな Martin W. Dowling Traditional Music and Irish Society: Historical Perspective, 2015 注文してみる。
 アイルランドに留学して、図書館にこもり、こういう文献を片っ端から読むのは楽しいだろうなあ、と夢想する。もっともほとんどは1990年後半以降、今世紀に入ってからのものだから、あたしの若い頃には、向こうに行っても読むものもそんなに無かったろう。今は時間の許す限り、ぽつりぽつりと読んでは、面白いものは何らかの形で紹介するのが、身の丈に合っている。それにしても、こういうことをわが国で学問としてやっている人はいるのだろうか。いま時、まったくいないわけじゃあないだろう。




##本日のグレイトフル・デッド

 1027日には1971年から1991年まで8本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版2本。


1. 1971 Onondaga County War Memorial, Syracuse, NY

 5.50ドル。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。

 この頃はまだ駐車場は閑散としていたそうな。


2. 1972 Veterans Memorial Auditorium, Columbus, OH

 テープは広まっていたが、特にこれということもないらしい。


3. 1973 State Fair Coliseum, Indianapolis, IN

 会場は巨大な納屋のような形で、音響はよくなかった。アイス・スケート・リンクで、氷の上にアスベストの板を敷いて、聴衆はその上にいた。床近くは冷えるので、皆毛布を敷いた。途中でその1枚がくすぶりだし、ショウの間中くすぶっていた。

 後半冒頭の〈Greatest Story Ever Told〉の途中で、巨大な男がステージに上がり、ドナ・ジーン・ガチョーの前に立ちはだかった。一瞬、皆凍りついたが、暴力をふるう様子はなかったので、クルーがごく優しく連れだし、ドナは大きく安堵のため息をついた。

 以上、DeadBase XI Bernie Bildman のレポートによる。


4. 1979 Cape Cod Coliseum, South Yarmouth, MA

 このヴェニュー2日連続の初日。《30 Trips Around The Sun》の1本として完全版がリリースされた。

 ここは人里離れたところで、ショウを見る目的のある人間しか行かず、警察や警備もほとんど無い、理想的な会場の由。ボストンの南東、車で2時間というところ。7200人収容の多目的アリーナだが、1972年オープン当初こそスポーツやコンサートに使われたが、1984年売却されて現在まで倉庫として使われている。デッドはこの秋2日間のみ、ここで演奏した。


5. 1980 Radio City Music Hall, New York, NY

 8本連続5本目。第一部3曲目〈Monkey And The Engineer〉が《Reckoning》拡大版で、第二部3曲目〈Friend Of The Devil〉が《Dead Set》でリリースされた。

 前者はウィアが軽やかに歌う。後者はこの曲としては最も遅いテンポ,


6. 1984 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA

 テーパーズ・セクションが設置された初めてのショウ。テーパーたちは録音に良い場所を求めてサウンドボード席の前に集まるようになり、かれらのマイクが林立して、エンジニアのダン・ヒーリィからステージが見えない事態にまでなっていた。これを解決するため、サウンドボードの後にテーパーズ・セクションが設けられた。テーパーのチケット代は通常より高かったらしい。


7. 1990 Le Zenith, Paris

 最後のヨーロッパ・ツアー、フランスの初日。《30 Trips Around The Sun》の1本として完全版がリリースされた。

 かなり狭いヴェニューで、サウンドボードはステージからいつもの距離をとると客席の一番後ろになった。客席の幅はあるが、深さはない。客はフランス人はちらほらで、ドイツ、スペイン、オーストラリア(?)、アメリカ人が多かった。と、Zea Sonnabend DeadBase XI で言う。


8. 1991 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 4本連続の初日。カルロス・サンタナと Gary Duncan がゲスト。後半半ば、〈Hey Bo Diddley > Mona〉に登場。9月26日のボストン以来のショウで、この週の火曜日にビル・グレアムが死んで初めてのショウ。追悼の意図もあったか、気合いの入った演奏だった由。(ゆ)


 パディ・モローニの訃報は晴天の霹靂だった。死因はどこにも出ていないようだ。Irish Times には比較的最近のビデオがあるから、あるいは突然のことだったのかもしれない。

 先日の「ショーン・オ・リアダ没後50周年記念コンサート」のキョールトリ・クーラン再編にモローニが参加しなかったことについて、オ・リアダの息子との確執を憶測したけれど、あるいは健康状態もあったのかもしれない。あの時、不在の原因としてモローニの健康を思いつかなかったのは、かれが死ぬなどということは考えられなかったからだ。他が全員死に絶えようと、モローニだけは生きのこって、唯一人チーフテンズをやっていると思いこんでいた。こんなに早く、というのが訃報を知っての最初の反応だった。


 パディ・モローニがやったことのプラスマイナスは評価が難しい。見る角度によってプラスにもマイナスにもなるからだ。まあ、ものごとはそもそもそういうものであるのだろう。それにしても、かれの場合、プラスとマイナスの差がひどく大きい。

 出発点においてチーフテンズが革命であったことは間違いない。そもそもお手本としたキョールトリ・クーランが革命的だったからだ。モローニはクリエイターではない。アレンジャーであり、プロデューサーだ。オ・リアダが始めたことをアレンジし、チーフテンズとして提示した。クラシカルの高踏をフォーク・ミュージック本来の親しみやすさに置き換え、歌を排することで、よりインターナショナルな性格を持たせた。たとえ生きていたとしても、オ・リアダにはそういうことはできなかっただろう。クラシックとしてより洗練させることはできたかもしれないが、それはアイリッシュ・ミュージックとはまったく別のものになったはずだ。

 チーフテンズもアイリッシュ・ミュージックのグループとは言えない。ダブリナーズ、プランクシティ、ボシィ・バンドのようなアイリッシュ・ミュージックのバンドと、キョールトリ・クーランのようなクラシック・アンサンブルの中間にある。もちろんこの位置付けは後からのもので、モローニが当初からそれを意図してわけではないだろう。かれはかれなりに、自分がやりたいこと、面白いだろうと思ったことをやろうとした。キョールトリ・クーランを手本としたのは、それが手近にあったことと、オ・リアダが目指したことを、モローニもまた目指そうとしたからだろう。それが結果としてチーフテンズをアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間に置くことになった。

 当初はしかしむしろモローニは自分なりのアイリッシュ・ミュージックのアンサンブルを構想したと見える。チーフテンズだけでやっていた時はそうだ。1977年頃までだ。《Live!》は今聴いても十分衝撃的だ。アイリッシュ・ミュージックのアルバムの一つの究極の姿と言ってもいい。

Live!
The Chieftains
CBS
1977T

 

 チーフテンズがアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間にあり、様々な他の音楽とのコラボレーションに使えるといつモローニが気がついたのかはわからない。少なくとも中国に行く前に確信していたことは明らかだ。そして以後、モローニはチーフテンズのマーケットをコラボレーションによって拡大することに邁進する。その際、ポリシーとしたことは二つ。チーフテンズの音楽、レパートリィと手法は変えないこと、そしてチーフテンズの音楽を「アイリッシュ・ミュージック」として売り込むこと。それによってモローニはチーフテンズをビジネスとして成功させる。

 チーフテンズのコンサートは判で押したようにいつも同じだ。やる曲も順番も演奏も時間も MC もすべてまったく変わらない。わが国以外でチーフテンズのコンサートを見たことはないから言明はできないが、場所によって多少変えていただろうことは想像はつく。ただ、基本は同じだっただろう。そして共演する相手に変化がある。録音はもっと手間暇をかけられるし、テーマも立てやすいから、もっとヴァリエーションを作れる。チーフテンズのコンサートは何度か見れば、後は見ても見なくても大して違いはなくなる。もっとも、その違いが無いことを確認するために見るというのはありえた。録音の方には繰返し聴くに値するものがある。

 ただし、録音にしても変わるのはモチーフや構成、共演のアレンジで、チーフテンズの音楽そのものはコンサートと同じく、いつもまったく同じだ。変わらないことによって、どんな音楽が来ても、共演できる。そして誰と一緒にやっても、それは否応なくチーフテンズの音楽になる。

 モローニのやったことのマイナス面の最大のものは、チーフテンズの音楽をアイリッシュ・ミュージックそのものとして売り込んだことだろう。この場合チーフテンズの音楽以外はアイリッシュ・ミュージックでは無いことも暗黙ながら当然のこととして含まれた。チーフテンズの音楽がアイリッシュ・ミュージックの位相の一つだったことはまちがいない。しかし、アイリッシュ・ミュージックの中心にいたことは一度も無かった。むしろアイリッシュ・ミュージックの中では最も中心から遠いところにいて、1970年代末以降はどんどん離れていった。Irish Times でのモローニの追悼記事が「音楽」欄の中でも「クラシカル」に置かれていることは象徴的だ。チーフテンズの音楽は「チーフテンズ(チーフタンズ)」というブランドの商品だった。それをイコール・アイリッシュ・ミュージックとして売り込むことに成功したことで、商品としてのアイリッシュ・ミュージックのイメージが「チーフテンズ(チーフタンズ)」になった。


 チーフテンズを続けていることは、モローニにとって幸せだっただろうか。幸せではないなどとは本人は口が裂けても言わなかったはずだ。幸せかどうかはもはや問題にならないレベルになっていたのでもあるだろう。そう問うことには意味が無いのかもしれない。

 しかし、一箇の音楽家としてのパディ・モローニを思うとき、チーフテンズを始めてしまったことは本人にとっても不運なことだったのではないか、と思ってしまう。アイリッシュ・ミュージックの傑出した演奏家として大成する道もとれたのではないか、と思ってしまう。

 パディ・モローニはパイパーとして、そしてそれ以上にホィッスル・プレーヤーとして、他人の追随を許さない存在だった。と、あたしには見える。《The Drones And The Chanters: Irish Pipering》Vol. 1 でかれのソロ・パイプを聴くと、少なくとも1枚はソロのフル・アルバムを作って欲しかった。そしてショーン・ポッツとの共作ながら、彼の個人名義での唯一のアルバム《Tin Whistle》に聴かれるかれのホィッスル演奏は、未だに肩を並べるものも、否、近づくものすら存在しない。この二つの録音は、まぎれもなくアイリッシュ・ミュージックの真髄であり、とりわけ後者はその極北に屹立している。

 あたしが訳したチーフテンズの公式伝記の末尾近く、パディがダブリンのパイパーズ・クラブのセッションに参加するシーンがある。久しぶりに参加して、ひたすらパイプを吹きまくり、パディは指がツりそうになる。たまたまそこへフィドラーのショーン・キーンが現れ、セッションにいるパディを見て、大声でけしかけ、励ます。どうした、パディ。もっとやれえ。パディはあらためてチャンターを手にとる。そこでのパディはそれは幸せそうに見える。だからショーン・キーンも嬉しくなって思わず声をかけたのだろう。


 さらば、パディ・モローニ。チーフテンズはこれでめでたく終演を迎え、一つの時代が終った。あなたはクリスチャンのはずだから、天国に行って、楽しく、誰はばかることなく、大好きなパイプやホィッスルを思う存分吹いていることを祈る。合掌。(ゆ)


1011日・月

 田川建三さんの講座で軽井沢に往復。3ヶ月ぶり。中軽井沢正午前着。かぎもとやに駆けこむ。直後から客がどんどん。三度めにして大盛りとけんちん汁。このくらいの量でようやく蕎麦の旨さがわかる。汁の良いのも改めて味わう。1軒置いたならびの喫茶店、インドカレーをやっている。ナンもある。次に試すか。講座はイントロから徐々に本題に入ってきて、俄然面白くなった。


 往復、A4000+M11pro でデッドを聴いてゆく。音は良い。が、左耳が痛くなる。イヤチップは最小のものにしてあるのだが。イヤフォンはこれが問題。


 帰ると Grateful Dead, Listen To The River ボックス・セットが着いていた。輸入消費税1,200円をとられる。The Murphy Beds, Easy Way DownThe Irish Consort, Music, Ireland And The Sixteenth Century のCD着。




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本日のグレイトフル・デッド

 1011日は1968年から1994年まで9本のショウをしている。公式リリースは3本。


1. 1968 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 3日連続のショウの初日。ハガキが残っていて、共演者として Lee MichaelsLinn CountyMance Lipscomb の名がある。

 リー・マイケルズは1945年生まれ。ハモンド・オルガンの名手でソウルフルなシンガー、と Wikipedia にある。1971年に〈Do You Know What I Mean〉がトップ10ヒットとなる。

 リン・カウンティは1968年から1970年の間に3枚アルバムを出したブルーズ・ベースのロック・バンド。というのは Wikipedia で、Discog ではサイケデリック・バンド。アイオワ州リン・カウンティ出身で、後サンフランシスコに移る。

 マンス・リプスコゥム (1895-1975) はテキサス出身のブルーズ・シンガー、ギタリスト、ソングスター。1960年にファースト・アルバムを出し、1963年のモンタレー・フォーク・フェスティヴァルに出演。録音は多くない。自伝がある。


2. 1970 Marion Shea Auditorium, Paterson State College, Wayne, NJ

 昨日の Colden Auditorium, Queens College, New York, NY と間違えた。こちらが昨日の記述にあたるショウ。4ドル。大学の在学生は3.50ドル。夜7時開演。テープとセット・リストは残っていて、それによると1時間半の一本勝負。招聘に関わった人物によると、バンド・メンバーの半分が空港からタクシーでどこかへ行ってしまい、実際のスタートは夜11時を過ぎていた由。


3. 1977 Lloyd Noble Center, University of Oklahoma, Norman, OK

 前半9曲のうちオープニングの3曲〈Help On The Way> Slipknot!> Franklin's Tower〉、7曲目の〈Sunrise〉、ラストの〈Let It Grow〉が《Road Trips, Vol. 1 No. 2》で、後半8曲のうちオープニング2曲とラスト3曲が《Dick's Picks, Vol. 29》でリリースされた。ただし、後者は当初のCD版のみの収録で、後に出たダウンロード版には含まれていない。あたしはCD版は持っていない。

 さすがに1977年の公式リリース、ベストの時のデッドの精髄だ。〈Sunrise〉はドナ・ジーン・ガチョーの持ち歌で、この録音は歌いだしでマイクが外れているが、演奏は良い。


4. 1980 Warfield Theater, San Francisco, CA

 15本連続の13本目。オープナーの〈Dire Wolf〉と5曲目〈Deep Elem Blues〉が《Reckoning》で、第二部5、6曲目の〈Loser〉〈Passenger〉が《Dead Set》でリリースされた。

 〈Loser〉がすばらしい。最初にデッドにハマった時以来、この歌は大好きなのだが、これはまた一段と染み入る演奏。"I got no chance of losing this time" というキメのセリフの切なさが最高。これだけ負けつづけていれば、確率からして、次は負けるはずはない。むろん、かれは次も負ける。たぶん、本人もそれはわかっている。が、認めるわけにはいかない。ハンター&ガルシアはギャンプラーをよく歌の題材にとりあげるが、この歌はその中の最高傑作だと思う。このコンビの歌としてもベストの一つだ。


5. 1981 Club Melk Weg, Amsterdam, Netherlands

 ガルシアとウィアによるアコースティック・セットで、グレイトフル・デッドのショウには数えられていない。


6. 1983 Madison Square Garden, New York , NY

 2日連続の1日目。後半、Drums の後〈St. Stephen〉が1979-01-10のニューヨーク州ユニオンデイル以来4年ぶりに演奏され、デッドヘッドは狂喜乱舞した。しかしこの曲はこの後、2度、同じ月の内に演奏されて終りとなる。初演は1968年6月。計169回演奏。スタジオ盤は《Aoxomoxoa》。明らかにイングランド伝統歌をベースにしたメロディ、聴く度にガルシアはフェアポートを聴いていたのか、と思う。ブリッジではクラシックの換骨奪胎もやる。もっともこの通称 William Tell bridge は後期には演奏されなくなる。デッドヘッドにはなぜか人気があり、レパートリィから外れても繰返しリクエストされたが、バンドは「あの曲は忘れた」と言ってついに復活しなかった。

 それは別としても、ショウ全体としてもベストの一つだった由。


7. 1984 Augusta Civic Center, Augusta, ME

 2日連続の1日目。12.50ドル、午後8時開演。この2日間も良いショウだった由。この日後半の〈Playing In The Band〉は終っておらず、翌日に戻ることになる。


8. 1989 Meadowlands Arena, East Rutherford , NJ

 前半5曲目〈When I Paint My Masterpiece〉が《POSTCARDS OF THE HANGING》で、後半オープニングの〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2020年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 どちらも見事な出来。前者はこの歌のデッドのカヴァーのベストの一つ。


9. 1994 USAir Arena, Landover, MD

 3日連続の最終日。この日の Drums または Rhythm Devils にはガルシアも参加した。(ゆ)


1006日・水

 1日から来年3月末までの予定で始まったドバイでの万博2020のアイルランド館のイベントに音楽がたくさん出る、と JOM が報じている。『リバーダンス』公演。The Expo Players による毎日のアイリッシュ・ミュージックと歌の演奏。メンバーは月替わり。最初のメンバーには Moxie のメンバーが含まれる。Irish Song Book が歌われる。これにはトマス・ムーア、〈Raglan Road〉からロリー・ギャラハー、シン・リジー、ボブ・ゲルドフ、エンヤ、U2、コアーズ、Hozier までが含まれる。さらに「アイリッシュ・ディアスポラ」と題して、ビートルズ〈レット・イット・ビー〉、ニルヴァナ〈Smells Like Teen Spirit〉、ビリー・アイリッシュ〈Bad Guy〉が含まれる。そして来年のセント・パトリック・ディに《The Irish Songbook Reimagined》というアルバムがリリースされる。来年のセント・パトリック・ディには、マーティン・ヘイズ率いるグループが公演する。最近の彼の活動を反映してか、ポール・サイモンの《Graceland》とエレクトリック・マイルスのバンドをお手本にしているそうな。Expo World Choir というのは、アイルランドが音頭をとって、参加している各国・地域の展示館のスタッフやゲストをメンバーとする合唱団をつくって歌う。クリスマスには Irish Song Book を歌う。

 アイルランドらしいといえば、確かにここまで音楽を前面に出すところは他にはたぶん無いだろう。しかし、いったい、誰が見るんだろうか。ヨーロッパやアメリカから、ドバイにほいほい往来できるのか。

 わが国ではまったく話題になっておらず、検索したら、産経の自画自賛の記事しか見当らない。

 並んでいるのは近隣の国の人たちだろうか。ロシア人だけなの? そこんとこ、ちゃんと書いてよ。それにしても、ロシアはそんなに自由に出かけられるのか。それともこの人物は実はプーチンの影のオフショア担当なのか。

 こういう話を読むと、グレイトフル・デッドの1978年のエジプト遠征にようやく時代が追いついた観がある。


 BBC Radio Scotland Young Traditional Musician Award 2022 の最終候補6人が発表になった。
https://www.bbc.co.uk/programmes/articles/1hcFQ5grzBdmNXdDR66pwPY/2022-finalists 

 一つ興味深いのは紹介の中で、当人を指す代名詞として "they" が使われている人がいること。ほんとにもうフツーになってきた。


##1006日のグレイトフル・デッド

 1966年から1994年まで、7本のショウをしている。公式リリース無し。


1. 1966 Golden Gate Park, San Francisco, CA

 この日からカリフォルニアで LSD が非合法物質となり、それに抗議するイベントがゴールデン・ゲイト公園の東に伸びた「パンハンドル」と呼ばれるところで開かれた。ここでトラックの荷台でデッドが演奏したのではないか、という未確認情報があったのが、ビル・クロイツマンが回想録 Deal の中で、演奏したと述べている。067pp. 曲目などは不明。

 LSD 1938年に合成され、1943年に幻覚作用が確認された。1950年代、アメリカ軍や CIA はこれの軍用の可能性を探るため、ボランティアによる実験を行った。ロバート・ハンターが LSD を体験したのはスタンフォード大学を通じての CIA の実験に参加したことによる。デッドの初期のサウンドマンも努めたアウズレィ・スタンリィ通称ベアは LSD の合成に長け、その販売で財産を作り、デッド揺籃期のスポンサーにもなった。


2. 1969 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA

 詳細不明。

 会場はサンフランシスコの Great Highway 660番地、海のすぐ傍に19世紀末から様々な娯楽施設に使われてきた建物で、1969年6月から1970年6月までこの名前でロック・コンサートのヴェニューとして機能した。DeadBase XI によれば収容人員は2,000。プロモーターは Chet Helms。オープニングのコンサートはジェファーソン・エアプレイン。デッドは0802日に初めて演奏し、計12回ここに出ている。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジも前座として、あるいは単独として同じくらい出ている。


3. 1977 Activity Center, Arizona State University, Tempe, AZ

 この年の平均的な出来、らしい。ということは良いショウだっただろう。


4. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 15本連続の9本目。第三部が良かった由。〈Sugar Magnolia〉では後半の Sunshine Daydream パートがなく、直接〈Johnny B. Goode〉になだれこんだそうな。


5. 1981 Rainbow Theatre, London, England

 ロンドン4本連続楽日。アンコールに〈Sunshine Daydream > Brokedown Palace〉。〈Brokedown Palace〉がアンコールのショウに外れなし、だそうだ。


6. 1984 Richmond Coliseum, Richmond, VA

 12.50ドル。夜7時半開演。良いショウだった由。


7. 1994 The Spectrum, Philadelphia, PA

 賛否が別れる。この年のベストという声もある一方で、これを見て、デッドのショウに行くのをやめたという者もいる。(ゆ)


1004日・月

 Dave Flynn, Irish Minimalism 着。e-onkyo 24/44.1 のファイルの販売あり。

 このタイトルは Bandcamp Dave Flynn のページでも「音楽」ではなく「グッズ」の販売になっている。ファイルのダウンロードをさせないためか。

 あたしは Bandcamp で買ったけど、このレーベルは流通に乗っていて、輸入盤が国内に広く入ってきている。

Irish Minimalism
Flynn, Dave
First Hand
2021-09-17

 

 Dave Flynn はクラシックの作曲家としての面もあって、交響曲とかも作っているそうな。これは弦楽四重奏のための曲を集めていて、1曲はイルン・パイプと弦楽四重奏のための曲。また別の1曲はイルン・パイプとヴォーカルのためのもの。

 Mick O'Brien は先日のショーン・オ・リアダ没後半世紀記念のコンサートでも、パディ・モローニに代わって再編キョールトリ・クーランのパイプを担当していたけれど、こういうものにも出るとなると、リアム・オ・フリンの衣鉢を継ごうとしているようでもある。

 e-onkyo を買った Qobuz が日本国内展開をできるだけ早くすると表明。それは歓迎すべきことだが、Tidal から乗り換えるのもためらわれる。両方は要らん。

 10日間、200時間近くやった A4000のエージングを終り、Hemp 2 に移る。A4000は良くなった。さすがファイナル。しばらく、外出用のクローズド・イヤフォンのメインはこれでいこう。しかし、こうなるとすると、まっとうにエージングしないで使うのは装置に対して失礼だと思えてきた。


 


##1004日のグレイトフル・デッド

 1969年から1987年まで4本のショウをしている。公式リリースは2本。

1. 1969 Boston Tea Party, Boston, MA

 ボンゾ・ドッグ・バンドとの3日連続最終日。

2. 1970 Winterland Arena, San Francisco, CA

 2日連続の初日。ジェファーソン・エアプレイン、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、ホット・ツナ、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスが共演。ショウはサンフランシスコのテレビ局 KQED-TV から放映され、また KQED-FM KSAN-FM で4チャンネル放送された。

 休憩なしの1時間強のステージ。2曲目〈Till The Morning Comes〉とラスト〈Uncle John's Band〉が《The Golden Road》ボックス・セットでリリースされた。前者は《American Beauty》のボーナス・トラック。後者は《Working Man's Dead》のボーナス・トラック。

 この晩、ジャニス・ジョプリンがロサンゼルスで死去。伝説ではデッドが5曲目〈Cold Rain And Snow〉をやっている時に死んだ、とされる。知らせは楽屋にも伝わっていたそうだ。そのジャニスへ捧げる歌として作られたのが〈Bird Song〉で、この年の年末1215日に、デヴィッド・クロスビー、ガルシア、レシュ、ハートによる Jerry Garcia & Friends のギグでデビュー。

 また、ドナ・ジーンとキース・ガチョーが聴衆にいた、とも言われる。

 〈Till The Morning Comes〉は《American Beauty》収録の曲だが、アルバムの中ではともかく、こうしてライヴで演奏されると中途半端な出来に聞える。実際、演奏されたのは197009月から12月の間の6回のみ。《American Beauty》収録曲では、〈Operator〉の4回と並んで、ダントツで演奏回数が少ない。初演は09-18のフィルモア・イースト。この10-04は通算2回めでサンフランシスコ初演。ライヴではこうでした、という一つの記録。

 〈Uncle John's Band〉は1969-11-01 Family Dog at the Great Highway が初演、これが48回目の演奏で、十分こなれ、愉しい演奏になっている。

1980 Warfield Theater, San Francisco, CA

 15本連続の8本目。中日。

 第二部最後の〈Deal〉と第三部冒頭の〈Feel Like A Stranger〉、それに第三部後半〈Not Fade Away〉の初めの一部が《Dead Set》でリリースされた。

 〈Not Fade Away〉はリード・シンガーが誰か、わからない。ガルシアとも思えない。ウィアではない。とするとミドランドだが、声が違う。やはりガルシアか。力唱ではある。が、これからというところでフェイドアウト。

 一般的なロックのライヴ・アルバムのコンセプトは良い録音を選んで組み、アルバムの中でコンサートのような流れを聴かせようというもので、これもそれに沿って作られている。しかし、1本のショウを丸々収めたものに慣れてしまうと、フェイドアウトなどされると怒り心頭に発して、レコード盤なら叩き割っていただろう。《Reckonnig と《Dead Set》では、通して聴いた時の満足感がかなり違う。アコースティック編成の前者の方が圧倒的に上だ。後者に不満が募る一つの理由は、エレクトリック編成のデッドの本当の良いところ、長くつらなるジャムがほとんど入っていないことだ。《Live/Dead》や《Europe '72》が成功しているのはその部分だ。こういうところからも、完全版が欲しくなる。

 〈Deal〉と〈Feel Like A Stranger〉は、そういう展開を普通はしない曲だから、こうしてよい生演奏をできるだけそのまま収めれば十分聴き応えのあるものになる。

 〈Deal〉はガルシアの1972年のソロ《Garcia》所収で、19710219日ニューヨーク州ポート・チェスター初演。通算427回演奏。演奏回数順では13位。

 〈Feel Like A Stranger〉はこの年リリースの《Go To Heaven》所収で、0330日ニュー・ジャージー州パセーイクで初演。これが32回目の演奏。通算207回演奏。演奏回数順では68位。ここまでが200回以上演奏された曲。

 〈Not Fade Away〉は19680619日サンフランシスコで初演。スタジオ盤収録無し。通算565回演奏。演奏回数順では5位。

3. 1981 Rainbow Theatre, London, England

 4本連続の3本目。これも良いショウらしい。

4. 1987 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 3本連続最終日。午後5時開演。18.50ドル。前半わずか6曲で、最短の一つ。(ゆ)


1001日・金

 JOM Toner Quinn によるオ・リアダ没後50周年記念コンサートのレヴューはいろいろと興味深い。冒頭でクィンが批判しているオ・リアダの息子のパダーの愚痴は何を言いたいのかわからず、相手にする価値もないんじゃないかと思われるほどだが、50周年記念コンサートのレポートを読むと、クィンが嘆いている、オ・リアダから半世紀、何の進歩も無いじゃないかという愚痴と方向は同じようにも思える。確かに、没後50周年記念で、なんでキョールトリ・クーラン再編を聞かされにゃならんのだ、というのはわかる。やるのはかまわないにしても、それと並んで、それを発展継承した音楽こそが演奏されるべきだろう。それがこの場合、Crash Ensemble だけだった。というわけだ。
 

 もうひとつ、あたしとして興味深いのは、キョールトリ・クーランの再編にパディ・モローニが加わっていないことだ。ショーン・キーンとマイケル・タブリディ、パダー・マーシアは健在ぶりを示し、キーンはソロも披露してそれは堂々たるものだったそうだ。あるいはパダー・オ・リアダとパディが仲が悪い、というだけのことかもしれない。

 パディにしてみれば、オ・リアダの正当な後継者は自分だ、オ・リアダがめざしたことを実現したのは自分だ、と自負しているのではないか。パダーから見れば、オ・リアダの遺産を乗取って食いつぶしたことになるのだろう。あるいはパダーが嘆く「アイリッシュ・ミュージックの現状」はチーフテンズのやったことが主な対象にあるとも見える。

 どんなものにもプラスマイナスの両面があるのだから、両者の言い分はそれぞれに当っている。とはいえ、同じようなイベントが10周年、20周年、30周年、40周年にも行われた、というクィンの指摘も的を射ている。同じことをくり返すよりは、半歩でも先へ進む方が建設的だ。もっとも、パディも、半歩以上先に進もうとはついにしなかった。戦術としては正しかったかもしれないが、戦略としては自分で自分の首を締めていった。

 伝統音楽にしても、繁栄の裏には常に危機が進行している。わが世の春を謳歌するだけなら、早晩、ひっくり返される。繁栄しているときにこそ、地道な蓄積と、大胆な踏みはずしを忘れるべきでない。ということをオ・リアダは言っていたではないか、というのがクィンの言いたいことと察する。


 Tor.com の記事を読んで Roger Zelazny, A Night in the Lonesome October を注文。調べると、なんと竹書房から翻訳が2017年に出ていた。さすが。

虚ろなる十月の夜に (竹書房文庫)
ロジャー・ゼラズニィ
竹書房
2017-12-01


##1001日のグレイトフル・デッド

 1966年から1994年まで、8本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1966 Commons, San Francisco State College, San Francisco, CA

 前日からトリップ・フェスティヴァルが続く。

2. 1967 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA

 Charles Lloyd, Bola Sete との「ポプリ」と題されたイベント。ポスターの写真がボヤけていてわかりづらいが、午後1時開演のようだ。

 ロイドは今や大長老だが、当時は若手ジャズ・サックス奏者として注目を浴びていた。珍しくロックとジャズの双方のリスナーに訴える力をもち、デッドとは何度もヴェニューを共にしている。ビーチ・ボーイズのバックに入ったり、アシッド・テストにも参加したりしている。

 セテ(1923-87)はブラジル出身のジャズ・ギタリスト。1962年、サンフランシスコのシェラトン・ホテルで演奏しているところをディジー・ガレスピーに見出されてブレイクする。

 こういう人たちと一緒にやらせると面白い、と当時のデッドはみなされていたわけだ。

 Greek Theatre という名のヴェニューはロサンゼルスのも有名だが、こちらは UCBA の付属施設。収容人員8,500のアンフィシアターで、1903年にオープン。卒業式などの大学関連のイベント、演劇、コンサートなどに使われている。国指定の史跡。

 デッドがここで演奏したのはこの日が初めてで、セット・リストは無し。ポスターの写真では、レシュとピグペンが前面に立ち、その後ろに少し離れて左からクロイツマン、その斜め後ろにガルシア、さらに後ろにウィアと並ぶ。翌年10月に2度めに出て、その次は飛んで1981年秋。以後1988年を除いて1989年まで毎年ここで演っている。計26回演奏。

3. 1969 Cafe Au Go Go, New York, NY

 3日連続最終日。この日も Early Late の2回、ショウをした、と DeabBase XI は言う。

4. 1976 Market Square Arena, Indianapolis, IN

 会場はバスケットで17,000人収容の屋内多目的アリーナで、1974年にオープン、1999年に閉鎖、2001年に取り壊された。デッドはここでこの日初めて演奏し、1979年、1981年の2回、演奏している。

 屋内アリーナとしては例外的に音響が良いそうな。この時はまだできて2年しか経っておらず、ロック・バンド(とされていた)のコンサートとしては時期が早く、警備もゆるかった由。

5. 1977 Paramount Theatre, Portland, OR

 2本連続の1本目。8.50ドル、夜7時半開演。アンコール無し。

 会場は1930年オープンの定員2,800弱のホールで、ポートランドの各オーケストラの本拠。当初は映画館。

 デッドはここで197207月、197606月とこの10月に各々2日連続のショウを行った。 

6. 1988 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 3日連続の中日。

7. 1989 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 3日連続最終日。

8. 1994 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の4本目。前半9曲目、最後から2番目の〈So Many Roads〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《30 Trips Around The Sun》の1本としてリリースされた。

 これがすばらしいショウで、ガルシアの調子さえ良ければ、こんなとんでもない音楽を生みだしていたのだ、と思い知らされる。思わずタラレバしてしまうが、こういう音楽を遺したことだけでも、デッドは讃えられるべし、とも思う。

 DeadBase XI Peter Lavezzoli は、1994年秋以降のデッドの全てのショウを見た者として、これがガルシアとデッド最後の1年にあってダントツでベストのショウと断言する。

 《30 Trips Around The Sun》を聴くかぎり、1990年春、1977年や1972年のピーク時のベストのショウに比べても遜色ない。見方によっては、それらをすら凌ごう。

 この時、翌年の同じ会場の6本連続がガルシアの死によってキャンセルになるなどとは、誰一人知る由もない。デッド健在を心底確信したデッドヘッドも多かったはずだ。これが最初のショウという人ももちろんいた。(ゆ)


9月27日・月

 ICF から来年の講師依頼。今度はアイルランドの歴史。もちろんやるけど、2時間でやるとなるとえらいこっちゃ。復習しなければ。A History Of Ireland In 250 Episodes を読みなおすか。これの訳書は間に合わないだろうなあ。うまく開催できるといいんだが。

 思うに、この COVID-19 パンデミックは、常に予定が大きく変わる可能性を考慮に入れながら、将来の計画を立てる訓練にはなるわな。


 

##9月27日のグレイトフル・デッド

 1969年から1994年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1969 Fillmore East, New York, NY

 前日に続いて、カントリー・ジョー・マクドナルド、シャ・ナ・ナとの共演。


2. 1972 Stanley Theatre, Jersey City, NJ

 3日連続の中日。料金5.50ドル。《Dick’s Picks, Vol. 11》として全体がリリースされた。

 〈Morning Dew〉がオープナーは稀で、ガルシアがノってる証拠、だそうだ。この日のセット・リストは変わっていて、普通は前半にやる〈Me and My Uncle〉〈Deal〉〈Rumble on Rose〉〈Cumberland Blues〉を後半にやっている。もっともこの日のハイライトは〈Dark Star〉であることで衆目が一致している。

 〈Morning Dew〉のオープニングはやはりちょっと異様で、いきなり陽が暮れてしまう感覚。〈Brokedown Palece〉もこの位置で歌われると、おちつかなくなる。一方でこういう順番の入替えが刺激になったのか、どの曲もエネルギーみなぎり、温度が高い。しかも地に足がついている。〈Bird Song〉、〈China > RIder〉、いずれもすばらしい。〈Playing in the Band〉は前数本に比べるとやや届かないところがあるけれど、デッド流ポリフォニーはしっかりあって、快感。トリップ感が湧く。いい音楽を聴いた、というより、いい体験をしたという満足感。


3. 1976 War Memorial Arena, Rochester, NY

 料金7ドル。開演夜7時半。後半6曲目、Drums の後の〈The Other One〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 後半、3曲目から〈Help on the Way> Slipknot!〉と来て、次が〈Drums> The Other One> Wharf Rat〉と続き、再び〈Slipknot! から今度はいつも通り〈Franklin's Tower〉そして〈Around & Around〉まで、まったく途切れ無し。という、これはテープででも聞かねば。〈The Other One〉だけ聴かされるのはむごい。


4. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA)

 15本連続公演の3本目。くつろいだ良いショウの由。


5. 1981 Capital Centre, Landover , MD

 料金10.50ドル。この0.5ドルが付いているのは何なのだろうか。開演夜8時。翌日、バンドは1年で2度目のヨーロッパ遠征に出発。


6. 1994 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の初日。料金30ドル。開演午後7時半。最後の〈They Love Each Other〉。1975-09-28のゴールデン・ゲイト・パークでの演奏を境に、かなり姿が変わる曲。(ゆ)


9月24日・金

 Custy's からCD7枚。1枚、Cathal Hayden のものだけ後送。09-04に注文したから、3週間で来た。まずますのスピード。実をいえば、この Cathal Hayden のCDを探して、久しぶりに Custy's のサイトに行ったので、他はサイトで見て、試聴し、むらむらと聴きたくなったもの。新譜ばかり。知らない人ばかり。この店だから、西の産が多い。もっとも Jack Talty がエンジニアをしたのが2枚あった。Raelach Records からではなく、どちらもミュージシャンの自主リリース。調べると Bandcamp にあるものが大半。まあ、Custy's でまとめて買えば、送料は安くなる。その代わり、Bandcamp ではCDを買うとファイルもダウンロードできるのが大きなメリットだし、場合によってはファイルはハイレゾだったり、ボーナス・トラックが付いていたりする。それにしても、クレアに住んで Eoin O'Neill の詞に曲を付けて歌っているアルゼンチン人とか、ドゥーリンに住んで、ミルタウン・モルヴェイのスタジオで録音したフィドルとコンサティーナのデュオはどちらもアイルランド人ではないとかいう風景に驚かなくなってきた。今回唯一なじみのあるのはダーヴィッシュの Liam Kelly のソロ。これはちょっと変わっていて、「フルートのマイケル・コールマン」John McKenna の家で、マッケナのレパートリィを録音したもの。発行元も The John McKenna Traditional Music Society
 


##本日のグレイトフル・デッド

 9月24日は1966年から1994年まで12本のショウをしている。うち公式リリースは3本。


01. 1966 Pioneer Ballroom, Suisun City, CA

 前日と同じフェスティヴァルの2日目。


02. 1967 City Park, Denver, CO

 屋外の公園での午後1時からの "be-in" で、デッドはのんびりステージに出て、上半身裸になって数曲演るが、機器のトラブルで中止。〈Dark Star〉をやったと言われる。共演は Mother EarthCaptain Beefheart & His Magic Band、それに Crystal Palace Guard という地元のバンド。ビーフハートはこんなに標高が高いところで演奏したことがなかったので、酸素吸入が必要になった由。

 このデンヴァーの Family Dog と集会での演奏は Chet Helms がとりしきった。ヘルムズは初期デッドのプロモーターで、Avalon Ballroom のマネージャーでもあった。デンヴァーの Family Dog の施設はそれ以前は Whisky A Go Go のデンヴァー支店だったそうだ。


03. 1972 Palace Theater, Waterburry, CT

 同じヴェニュー2日め。《30 Trips Around The Sun》の1本として完全版がリリースされた。アウズレィ・スタンリィの録音で音はすばらしい。

 ここは1,000人収容のこじんまりしたホールで、親密感が生まれやすいところだったらしい。〈Dark Star〉から〈China Cat Sunflower > I Konw You Rider〉というメドレーは1969年以降ではこの時のみの由。最前列で見ていた人の証言では、〈Dark Star〉の最中にレシュが "China Cat" と叫んだそうだ。

 前半を締めくくるのはこの時期の通例で〈Playing in the Band〉。3日前のフィラデルフィアもすばらしかったが、この日は17分を超えて、さらに輪をかけてすばらしい。デッド流ポリフォニー集団即興の極致、全員がそれぞれに勝手なことをしながら、ちゃんと曲が編みあがってゆく。ガルシアのギターだけが突出しているわけではないが、ガルシアのギターが他のメンバーがつむぐタペストリーに太い線で変幻自在の模様を描いてゆく様は快感。その模様が、単純でいながら意表を突く。ここまでの曲でも折々にこの即興になる場面はあるが、それよりはむしろ歌をじっくり聞かせる姿勢。ここでは、むろん歌は必要なのだが、それ以上にインストルメンタルの展開を意図する。

 これはもうロックではない。こういう即興は、当時他のロック・バンドは思いつきもしなかった。ザッパは思いついていたかもしれないが、かれの場合、宇宙は自分を中心に回っている。こういう、メンバー誰もが対等にやることは、たぶん許さない。

 この音楽の美しさをデッド世界の外でわかる人間がいたとすれば、ジャズ世界の住人たちだっただろうけれど、でも、デッドはソロを回さない。全員が同時にソロをやる。それぞれのソロがからみ合って集団の音楽になっている。そこが面白い。そこが凄い。まさに、バッハ以来の、ポリフォニー本来の姿が現れる。

 このデッドの集団即興の面白さを味わうには、この時期、1972年秋の〈Playing in the Band〉を聴くのが早道かもしれない。この日もこの後〈Dark Star〉が待っていて、それはまったく別の美しさを見せる。デッドの音楽としては〈Dark Star〉の方が大きい。そこにはデッドの音楽が全部ある。PITB にあるのは一部、どちらかといえばわかりやすい位相が現れている。

 David Lemiuex は《30 Trips Around The Sun》のノートで、これを含む1972年秋のツアーを、デッド史上最高のツアーの一つ、72年春のヨーロッパ・ツアー、1977年春の東部ツアーと並ぶものとしている。このツアーからはこれまでに9月17日のボルティモア、21日のフィラデルフィア、27日のジャージー・シティ、それにこれと4本、完全版が公式リリースされているけれど、72年ヨーロッパ・ツアー、77年春に比べると、まだまだ少ない。どんどん出してくれ。


4. 1973 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA

 ここでも後半の前半に、ジョー・エリスとマーティン・フィエロが各々トランペットとサックスで参加。前半ラストに近い〈China Cat Sunflower > I Konw You Ride〉が2018年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 珍しく〈China Cat Sunflower〉の後半でウィアが長いギター・ソロを披露し、なかなかのところを聞かせる。


05. 1976 William And Mary Hall, College Of William And Mary, Williamsburg, VA

 夜8時開演。料金6ドル。コーネル大学バートン・ホールと同様、ここでも演奏回数は少ないが、演奏する度に名演が生まれている。《Dave's Picks, Vol. 4》で完全版がリリースされた。残念ながら持っておらず。


06. 1982 Carrier Dome, Syracuse University, Syracuse, NY

 開演夜8時。料金11.50ドル。この年、1、2を争うショウと言われる。

 この会場ではここから83年、84年と、ともに秋に計3回ショウをしている。屋内スポーツ・スタジアムで、大学のキャンパス内のドーム施設として全米最大だそうだ。普通25,000超。バスケットでは定員3万だが、35,642という記録がある由。コンサート会場としても頻繁に使われ、ロック、カントリーはじめ、メジャーなアーティストが軒並ここで公演をしている。


07. 1983 Santa Cruz County Fairgrounds, Watsonville, CA

 屋外のショウで午後2時開演。9月13日までのひと月のツアーの後の独立のショウの1本。2週間休んで10月8日から10月一杯ツアーに出る。


08. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA

 3日連続の最終日。


09. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の8本目。レックス財団が共催で熱帯雨林保護ベネフィット公演として、多数のゲストが参加。ブルース・ホーンスビィのバンドが前座。前半2曲のブルーズ・ナンバーにミック・テイラーが参加。後半冒頭にスザンヌ・ヴェガ、中間にダリル・ホール&ジョン・オーツが出て、各々の持ち歌を2曲ずつ披露。〈ドラムス〉に Baba Olatunji & Michael Hinton、〈Not Fade Away 〉にホーンスビィが参加。

 DeadBase XI John W. Scott によると、デッドは871,875ドルを Cultural SurvivalGreenpeaceRainforest Action Network に寄付した。資金集めもあり、チケットの高いものは50ドル。さらに終演後のバンドのレセプションも付いた250ドルの席も用意された。

 デッドの音楽以外を認めない狂信者はゲストのパートを嫌うが、上記スコットはどちらも高く評価している。デッドがふだんやっている音楽とはかけ離れているように見える相手でも、見事にバックアップしていたそうだ。ディランのように、ヴェガとツアーしてくれないかとまで言う。それはあたしも見たかった。


10. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の4本目。テンション維持しているようだ。


11. 1993 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の初日。午後7時半開演。料金26.50ドル。


12. 1994 Berkeley Community Theater, Berkeley, CA

 DeadBase XI はじめ、 デッドのショウとされているが、実際は Phil Lesh & Friends の名前でバークリーの学校の音楽クラスのための資金集めとして開催され、ドラマー以外のメンバーが参加し、アコースティックで演奏した。〈Throwing Stone〉はこの時が唯一のアコースティック版。共演はカントリー・ジョー・マクドナルドや地元のアーティスト。

 このバンド名としては最初の公演。(ゆ)


9月21日・火

 気がつくと、家の前の染井吉野の葉が半分落ちて、だいぶ空が見えるようになっていた。桜の葉は長い時間をかけてぽろぽろ落ちてゆく。花とは逆。

 Copperplate からのCD着。買いのがしていたものばかりで、目玉は Angelina Carberry のCD3枚。ここにまとまってあるのを発見して、大喜びで注文したら、その直後、彼女が TG4 の Gradam Ceoil Musician of the Year に選ばれたのは嬉しいシンクロニシティ。それにしても、この人、おやじさんがアコーディオン奏者のせいか、アコーディオンとやるのが大好きだ。


 ここはロンドンにあるアイリッシュ・ミュージック専門CD屋で、なかなかの品揃え。ダブリンの Claddagh がレコード屋としてはものの役に立たなくなってしまった穴を少しは埋めてくれる。
 

##本日のグレイトフル・デッド

 9月21日は1972年から1993年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1972 The Spectrum, Philadelphia, PA

 秋のツアーの一貫。料金5ドル。開演夜7時半。《Dick’s Picks, Vol. 36》として完全版がリリースされた。

 この頃はまだぎっちり満員ということには必ずしもならなかったらしい。フロアはかなり余裕があり、立ってステージに近寄るのもよし、椅子に座って見るのもよし、という感じだったそうな。

 しかし演奏は黄金の年72年のベストの一つ。前半は力のはいった充実した歌をじっくり聴かせ、最後にきて15分超の〈Playing in the Band〉のすばらしいジャムが爆発する。後半は40分近い〈Dark Star〉はじめ、2時間を超える。演奏時間が長いほど質も良くなるのがこの頃のデッドのショウ。それにしても、この録音はCD4枚組、4時間近い。聴くのもたいへん。アウズレィ・スタンリィの録音で音はクリア。実際のショウはもちろんもっとずっと長く、終演は深夜0時は優に超えていただろう。「最長」はいつだったかの大晦日の年越しライヴで真夜中少し前に出てきて朝までやり、プロモーターのビル・グレアムが客に朝食をふるまった、というのがあるけれど。


2. 1973 The Spectrum, Philadelphia, PA

 同じヴェニュー2日連続の2日目。料金5ドル。前日は6ドル。どちらも残っているチケットの半券から。場内の位置が違うのかな。後半の前半にジョー・エリスとマーティン・フィエロ参加。アンコールにも参加したらしい。

 前日はひどい出来だったが、こちらはうって変わって絶好調だった由。


3. 1974 Palais des Sports, Paris, France

 2度目のヨーロッパ・ツアー最終日。第二部として演奏された〈Seastones > Playin in the Band〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


4. 1982 Madison Square Garden, New York , NY

 2日連続の2日目


5. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続2本目。料金23.50ドル。開演夜7時半。


6. 1993 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続5本目。(ゆ)


松井ゆみ子
『アイリッシュネスの扉』
ヒマール
ISBN978-4-9912195-0-4

アイリッシュネスの扉表紙


 アイルランドは不思議な国だ。ここを1個の独立した地域と認識しはじめてから、ずっと不思議なのは変わらない。ヨーロッパの一角なのに、洗練されていない田舎であるその在り方に、妙になじみがある。ユーラシア大陸の東西の端という、地球上でおよそ最も遠いところなのに、その佇まいに親近感が湧いてくる。初めてハワイ、オアフに行って島の中を走りまわった時にも、この風景は妙になじみがあると感じた。そのなじみのある感覚が、アイルランドの場合、視覚だけでなく、聴覚や、五感の奥の感情から湧いてくる。ひと言で言えば人なつこい、その人なつこさが「なつかしい」。


 同じケルトの他の地域では、こういう人なつこさはあまり感じない。他をあまり知らないこともありえる。どこも同じく音楽を通じてのつきあいで、その中でアイルランドの音楽は妙に人なつかいと感じる。


 その同じ人なつこさをこの本に感じる。人なつこいけれど、ベタベタしない。やたらすり寄らない。読み終わって、その辺にころがしておいて、表紙が目に入ると気分がよくなる。沈んでいた気分がふうわりと浮かんでくるし、ブリブリ怒っていれば、思わず吹きだしてしまう。中身の何か、イメージとか文章の一節がふっと浮かんでくる。


 アイルランド人には何でも屋さんがよくいるそうだ。手先が器用で、モノを使って何かをやる、日曜大工、家の修繕、電気器具の手入れ、何をやらせてもパッパッとかたづける。


 もっとも著者も手先が器用だ。カメラも料理もぶきっちょにはできない。あたしのようなぶきっちょにできるのは、スチーマーをレンジでチンくらいで、オーヴンを使いこなすなんてのは、悪夢になりかねない。


 器用な著者は、せっせと焼き菓子つまりクッキーやケーキを作っては、これを餌にそういう何でも屋さん、ハンディマンたちを駆使して、田舎の、歴史の詰まった家に暮す。ここはアイルランドであるから、もちろんのこと幽霊はつきものだ。アイルランドの幽霊はあまり悪さをしない。最悪でもじっとしているだけで、悪い結果はたいていがそれを見る側に問題があって起きる。幽霊のせいではない。


 幽霊がいるのにはもう一つ理由があって、アイルランドでは家が残っている。著者が住んでいる家も築二百年とかで、増築されたり、水廻りが改修されたりはしていても、根幹はそのままだ。いくら幽霊でも、完全に取り壊されたり、建替えられては残れないだろう。そして、幽霊もそれが取り憑いている家もまた人なつこい。


 いや、あたしは別にアイルランドの家に住んだことがあるわけじゃない。ただ、この本を読んでいると、そういう、長く建っていて、歴史の積み重なった、人なつこい家に暮している気分になってくる。ここでは歴史はどこか遠く、頭の遙か上を通りすぎてゆくものではなくて、毎日その中で暮しているものになる。毎日の暮しがそのまま歴史になってゆく。家だけではない。歴史に包まれ、浸りこんで暮していると、家を囲む自然、人、音楽、料理、食材、スポーツ、イベント、あらゆるものが、歴史になってゆく。歴史はエラい人たちが派手にたち回って作られるものではなくて、ごく普通の人たち、ハンディマンやフィドラーやカントリーマーケットの売子やハーリングの選手やも含む人たちの毎日の暮しから生まれるのだ、と実感が湧いてくる。


 やはり、アイルランドは不思議な国だ。


 著者は手先が器用なだけではなくて、敏感でもある。目も耳も鼻も舌も、そして皮膚もいい。いくら歴史の詰まった家に住んでも、あたしのように鈍い人間は、たぶん何も感じないだろう。幽霊など出ようものなら、スタコラ逃げだすにちがいない。


 著者は五感をいっぱいに働かせて、その歴史を感じとる。とりわけ触覚だ。触覚は指の先だけで感じるものではない。顔や腕など、外に出ているところだけで感じるものでもない。全身で、時にはカラダに沁みこんできたものを筋肉や血管や内蔵で感じたりもする。自覚しているかどうかは別として、著者は触覚をめいっぱい働かせている。文章も写真もその触覚で感じたものを形にしている。


 例えば著者が今住んでいる家を建てたパーマストン。ものの本などで現れるのは、武力をバックにしたいわゆる砲艦外交を得意技として、大英帝国建設に貢献した強面のタカ派の顔だ。パーマーズドンと著者が呼ぶ人は、大飢饉で打ちのめされた人びとを少しでも助けるノブリス・オブリージュに忠実で、どこか翳のある、憎めないところもある風情だ。


 触覚を働かせるには、触れなければならない。つまり距離が近い必要がある。一方であまりに近寄ると、周りが見えなくなる。木は見えるけれど、森が見えなくなる。触覚であれこれ感じながら、著者はちゃんと森が見えているようでもあって、これまた不思議だ。


 アイリッシュネスの扉はむろん1枚だけではない。いくつもの扉があって、開ける扉によっていろいろなアイリッシュネスが現れる。一番愉しいのはやはり食べることらしい。食材や料理、作ったものを食べたり売ったりすることになると、筆またはペンまたは鍵盤が踊りだす。


 飲むことも愉しいのだろうが、酒は自分では(まだ)作れないので、食べることとは別らしい。著者は馬も好きなはずだが、今回はあえて封印したようだ。代わりに出てくるのはトラクターだ。アイルランドの田舎の足はトラクターなのだそうだ。ちょっと訊いたら、わが国の農家にとってなくてはならない軽トラは、アイルランドには無いそうだ。


 扉を開けては覗きこみ、あるいは中へ入って歩きまわる。しばし暮してもみる。いや、そうでもないか。暮していると、ふと扉が開くのかもしれない。丘の下の妖精の王国への扉のように。ひょっとすると、気づかずに抜けていたりもするのかもしれない。後で、あああれが扉だったかと納得されるわけだ。呼ばれて入ることもあるのだろう。そこで見、聞き、嗅ぎ、味わい、そして肌や内蔵で感じたことを書いた。報告というと硬すぎる。遠く離れて住む誰かへの手紙、読む人がいるかもわからない、そう、壜に入れて海に流す、風船にゆわけて風に飛ばす手紙。本を書くのはそれに似ている。


 アイルランドらしい、というのはあたしにとっては不思議なことに等しい。特別なものではない。一見、ごく日常的、ありふれたように見える。けれどよくよく見ると、そこにそうしてあること、そこで人がしていることはヘンなのだ。どこがこうヘンだ、と指させない。そもそもあのベタつかない、群れない人なつこさからして不思議だ。この本も不思議だ。ここがおもしれえっと指させない。これだ!と膝を叩くわけでもない。でも、読んでみると気分は上々、著者がいい暮しをしている、そのお裾分けをもらったようだ。何度読んでも減らない。むしろ、噛むほどに味が出てくる感じがある。


 この本は造りも不思議だ。わが国の本は再販制で、返品されたものをまた出荷する。そのためにカバーがついている。カバーだけ換えて新品として出荷するわけだ。でも、この本にはカバーがない。表紙は本体についている。洋書のトレード・ペーパーバックの感覚だ。カバーがないと、本はこんなにすっきりするのだ、と英語の本では見慣れている姿に改めて感じいる。


 表紙、業界用語でいう表1、裏表紙、同表4がカラー写真なのは普通だけど、表紙の裏、表2と、裏表紙の裏、表3も同じくカラー写真なのは新鮮だ。この4枚も含め、中の写真はすべて著者の手になる。この写真も人なつこく、不思議だ。人など影も無い写真でも人なつこい。著者の手になるアイルランドの写真集ってなかったっけ。


 著者が住んでいるスライゴーとドリゴールとロスコモンの州境のあたりのローカルな伝統音楽家たちのポートレート集にすてきな言葉があった。


 何か新しいたチューンを覚えると、その曲を知ってる奴が他にいないかと探しはじめる。いればそれを一緒に演奏できるからだ。それが愉しいからだ。


 音楽の極意はいつでもどこにどんな形であっても、これ、つまり共有の確認なのだろうけれど、アイルランドではそれがとりわけ剥出しで、あの不思議な人なつこさはここから生まれているのか、とも思える。


 この本もまたたぶんそういう作用をするのだろう。この本を読んだ奴が他にいないか、探しはじめる。どうしてもいなけれぼ教える。覚えたばかりの曲を教えてやって、一緒にやる。この本を教えて、読ませて、一緒に盛り上がる。巻末のおやつを作りあって、食べてみる。あたしが作ったとしたら、それはそれはひっでえしろものができるだろう。家族すら見向きもしないようなそいつを、食べてやろうという人はいるだろうか。(ゆ)


 シンガーの Muireann Nic Amhlaoibh(ムイレン・ニク・アウリーヴ)が、アイルランドの作曲家が編曲したシャン・ノースの伝統歌を Irish Chamber Orchestra と伴に歌うというコンサート "ROISIN REIMAGINED" が来月7日の Kilkenny Arts Festival であります。


 このコンサートを録音してCDとしてリリースする計画があり、その資金を Kickstarter で募っています。


 締切まで1週間足らずですが、まだ目標額には達していません。皆さま、ぜひぜひ応援しましょう。


 ムイレンはアイルランドの現役シンガーでも最高の一人です。「謎に満ちた完璧だ」とドーナル・ラニィも言ってます。これまでの録音は Bandcamp で試聴の上、購入できます。(ゆ)


Irish Traditional Musicians of North Connacht
Text by Gregory Daly
Photo by James Fraher
Bogfire, Skleen, Co. Sligo, Ireland
2020
228pp.

 副題にあるように、スライゴー、メイヨー、ロスコモン、リートリムを含む地域の伝統音楽の担い手108人を肖像写真と音楽的バイオグラフィで紹介する1冊。108人のほとんどはミュージシャンですが、音楽パブのオーナー、研究者、放送関係者も含みます。昔のミュージシャンの記念碑を建てたことで取り上げられた人もいます。

 108人のうち最年長は1920年生まれ。メイヨー州ドゥーキャッスル出身の Malachy Towey。取材時96歳。2020年、99歳で大往生。本が出た時点での故人は11人。

 Malachy Towey

 最年少は2000年生まれ。スライゴー出身の James Coleman と Fionn O’Donnell。取材当時17歳。写真左端ジェイムズ君はフルートの家系でマイケル・コールマンとは別系統です。中央のフルートは 1998年シカゴ生まれの Tom Murray。両親ともガーティーン付近の出身で、2012年に里帰りしました。本人や親の世代に国外に出て、後里帰りして永住するこういう一家は他にもいくつもいます。

James Coleman
 

 女性は26人。最年長は1932年、スライゴー州キラヴィル出身の Tilly Finn。

TillyFinn
 

 最年少は1991年生まれ、ロスコモン州バリナミーン出身の Breda Shannon。

Breda Shannon
 

 生年の年代別人数は以下の通り。右側は女性。フィンタン・ヴァレリーの緒言でも、文章担当 Gregory Daly の序文でも、昔から女性が伝統音楽の一翼を担ってきたことは強調されていますが、いささか贔屓の引き倒しの観があります。むろん、表に出ないところで支えていたこともあるでしょうけれども。まあ、今の時代、男性だけのものにしておくわけにはいかない、という状況に配慮したものではありますね。
1920s 7
1930s 19/ 5
1940s 17/ 4
1950s 25/ 7
1960s 17/ 6
1970s 7/ 1
1980s 8/ 3
1990s 6/ 1
2000 2

 出身州別の人数。アイルランド国外出身者も数人いますが、上記トム・マレィのように、その人たちもいずれもこの地域のどこかにルーツを持っているので、それを含めています。ウィックロウ出身の Harry Bradshaw は、マイケル・コールマンの全録音集成をプロデュースした縁です。ウェクスフォード出身のアコーディオン奏者 Jimmy Noctor はここ10年、スライゴー州ガーティーンの The Roisin Dubh のセッションのリーダー。
Fermanagh 1
Galway 2
Kerry 1
Leitrim 16
Mayo 33
Roscommon 15
Sligo 38
Wexford 1
Wicklow 1

 楽器別の人数。複数楽器を演奏する人もいるので延数です。無しは担当楽器があげられていない人。本書に記載の通りで、singer と singing の違いはわかりません。ハイランド・パイプの1人は軍楽隊で覚えたそうで、植民地時代の名残りか、アイルランドの軍隊には部隊ごとに軍楽隊があり、ハイランド・パイプ奏者がいて、専門の学校まで軍隊内にあるらしい。
accordion 1(どちらか不明)
button accordion 16
piano accordion 3
melodeon 4
banjo 5
bodhran 5
tambourine 1
bones 1
concertina 3
fiddle 41
flute 38
guitar 5
harmonica 1
Highland pipes 2
multi-instrumentalist 1
piano 7
recitations 1
saxophone 2
singer 18
singing 1
uillean pipes 5
whistle 14
none 7

 職業別の人数。これも延数。無しは職業があげられていない人ですが、ここでは本書の主題に沿ったもののみ記されているので、無職というわけではありません。これも composer と tune composer の違いは不明。若い人に音楽教師が多いのは興味深い。
archivist 3
broadcaster 1
radio presenter 1
collector 1
composer 13
tune composer 10
fiddle maker 2
local historian 1
music teacher 26
publican 3
proprietor of music venue 3
publisher 1
radio & record producer 1
researcher 3
songwriter 5
sound engineer 1
teacher 1
writer 1
none 60

 108人の中には Catherine McVoy、Carmel Gunning、Ben Lennon、P. J. Hernon、Shane Mulchrone、Junior Davey、Eddie Corcoran、Roger Sherlock、あるいは Harry Bradshaw、またスライゴー州ガーティーンの有名な音楽パブ The Roisin Dubh のオーナー Ted McGowan のようにあたしでも名前の知っている人もいます。またダーヴィッシュの初期メンバーで今はソロで活躍する Shamie O'Dowd の母親 Shiela のような人もいます。ですが、ほとんどはローカルでのみ名を知られる人たちです。また、地元ではミュージシャンとして知られている人たちも、必ずしも全員がとびきりの名人というわけでもなさそうです。

 文章を書いている Gregory Daly は1952年、ドニゴール南部、リートリム、スライゴーとの州境付近の出身でフルートを吹きます。本人はリートリム北部、スライゴー南部の音楽の伝統を汲むと自覚している由。写真の James Fraher は1949年シカゴ生まれのアメリカ人で、元はブルーズ・ミュージシャンの写真を撮ることでキャリアを始め、アメリカ在住の人たちからアイリッシュ・ミュージシャンに対象を広げています。現在はスライゴーに住み、パートナーとスタジオをやっていて、本書もそこからの刊行。祖先は1853年にリマリックから移民した人であるそうな。取材、撮影は2015から17年に集中的にされています。その時点ではほぼ全員が存命でした。

 写真はそれぞれ音楽との関りがわかる形で、関りのある場所で撮影されています。やはりというか、さすがというか、皆いい顔をしています。何枚か、個々のミュージシャンからは離れた、この地域の雰囲気を示す写真もあります。たとえばマイケル・コールマンの生家や上記 The Roisin Dubh でのセッションなど。前者は今は空き家のようでけど、残ってるんですねえ。

 文章は特徴的なものではなく、内容も各々の生涯の中で音楽に関する事柄のみを抜き出しているので、いささか単調なところもあります。ですが、その中からこの地域の伝統音楽や社会の歴史が浮かびあがってきます。また、個々の人の言葉には体験に裏付けられた含蓄があり、教えられるところが多いです。

 この本を出した意図はまずこの地域に特徴的な、つまりローカルな伝統の継承です。近年の伝統音楽の隆盛の副作用としてローカルなスタイル、伝統が消えようとしているという危機感が底流にあります。ここに取り上げられている人たちは、10代の若者たちも含めて、ローカルなスタイル、伝統(レパートリィも含みます)に価値を認め、ミュージシャンは自分の音楽として演奏し、ヴェニューのオーナーはこれをサポートしています。

 ここでのローカル・スタイルは最年長の人びとがその親の世代から受け継いだもの、19世紀以来のものです。ここはまたコールマン・カントリー、マイケル・コールマンの出身地であり、マイケル本人やアイルランドに残ったその兄ジェイムズとセッションしていた人たちもいるほどで、そのローカル・スタイルは一世を風靡したものでもありました。ただし、この地域の中でもさらに地域によってスタイルやレパートリィにヴァラエティがあり、マイケル・コールマンをエミュレートしようとして、せっかく確立していた独自のスタイルを壊してしまったミュージシャンも多数いたという証言もあります。かつては地域間の移動は徒歩かせいぜいが自転車によるもので、したがってそれほど頻繁ではありませんでした。その困難さ、距離によって各地域の個性が成立していました。スライゴーでも北と南で伝統そのものだけでなく、音楽の有無まで違っていました。またかつては音楽は基本的に誰かの家でのセッションでした。1960年代半ばまで、パブでは音楽はほとんど演奏されていません。

 この本が批判の対象としている今の伝統音楽のスタイルには CCE のものと、より商業的なものの二つがあります。CCE の存在はアンビヴァレンツでもあります。それによって音楽伝統がつながった側面と、競争の結果が強調される弊害です。ここに出てくるミュージシャンにも、競技会には無縁の人とタイトルをとっている人がいます。

 こうした本が出たことは伝統音楽が常に同時代の状況と切りむすんでいることの現われでもあります。それは何らかの形、位相で常に消滅の脅威にさらされています。伝統音楽はそれを担う人びとの生活様式、社会のあり方を反映するものだから当然で、どちらも常に変化しているからです。1940年代までの生まれの人たちの若い頃の社会は戦後、まったく変わっています。コミュニティがクローズドで、構成員は誰もが他の全員を知っている、ダンスと音楽が主な娯楽の一つである時代は消えました。この時期は音楽に関わる人間は限定されてもいたようです。ここに出てくる人びとはほぼ例外なく音楽家の家系です。生まれる前から家に音楽がありました。60年代生まれの人間は、周囲の同年代に伝統音楽をやっている人間は他にはいなかったと口を揃えます。これが90年代の生まれになると、同年代で伝統音楽をやるのはごく普通になります。

 ここでいう「古い音楽」1930年代生まれぐらいまでが若い頃に吸収した音楽が全盛だった頃も、安泰などではなかったでしょう。ダンス・ホール条例もあり、ケイリ・バンドや、fife and drum band は大きな存在でした。家でのセッションがメインということは、かなりクローズドなものだったはずです。無縁の人間がふらりと参加するわけにはいかなかったでしょう。最もパブリックだったのはダンス・パーティー、ケイリで、そこでは誰もが踊ったかもしれませんが、ダンスのための音楽を供給する人間は限られました。その時代、それ以前の時代の状況が伝統音楽にとって有利だったところがあるとすれば、音楽が共同体の生活の一部に不可欠のものとして組込まれていたことです。競争する他のメディア、娯楽もありませんでした。レコードも限られたものしか無く、それはお手本、曲のソースであって、娯楽として聴くのはむしろ少ない。ラジオも同じ。そうしたものを聴く目的は自分で演奏する素材を得るためです。レコードやラジオを聴くこと自体が目的なのではありません。そこで聴いた音源を探すガイドとするためでもない。中心はあくまでも自分で演奏することでした。

 とはいっても、独りだけで演奏する、あるいはしていたわけではありません。アイリッシュ・ミュージックの核心をこれ以上無いほど端的に表した言葉が出てきます。

 「音楽を演奏する歓びは他のミュージシャンとその体験を共有することなんだ。ステージの上や審判の前で演ることじゃない。たとえば家であるチューンを覚えたとする。すると、誰か他にその曲を知らないか、といつも探しはじめるんだ。いればそれを一緒に演奏できるからね」216/217pp.

 1981年スライゴー生まれのフィドラーでシンガー Philip Doddy の言葉です。共有の確認。ある曲をともに知っていることの確認こそが歓びになります。だからユニゾンになるわけです。ハーモニーは不要、むしろ邪魔でしょう。

Philip Doddy
 

 あるいはアイリッシュ・ミュージックに限らず、音楽体験の根底にあるのは共有なのかもしれません。知っている曲で声を合わせるのも、同じヒット曲を聴いて盛り上がるのも、共有の一つの形ではあります。アイリッシュ・ミュージックではそれが最もシンプルで直截な形で露わになる、ということでしょう。

 さらに、共有は音楽だけではなく、あらゆる文化活動の根底にあるのかもしれません。その昔、植草甚一が本が好きになる理由を問われて、本の好きな友人がいること、同じ本をあれはいいよねえと確認しあうことで本当に良くなるんだ、と答えていました。

 アイリッシュ・ミュージックにもどれば、たとえばわが国でアイリッシュをやる時に心掛けることとして、バンジョー奏者シェイン・マルクロンの言葉(189pp.)はヒントになると思われます。かれのソロ《Solid Ground》は、かつてのマレード・ニ・ウィニー&フランキィ・ケネディの《Ceol Aodh》にも相当する傑作です。われわれにアイリッシュ・ミュージックが生きてきた社会はありません。とすれば、何をそこに注ぎこむか。一つはその楽曲をこれまで演奏してきた過去の全てのミュージシャンへのリスペクト、感謝を込めること。もう一つは自分の生き様、どのように生きているのか、どんな人間を、人生を目指しているのかを込めること。そして、その音楽といつどこでどうやって出逢ったか、その曲のどこに自分は惹かれていて、演奏の中で何を最も表したいか。そうやって楽曲を自分だけのものに独占しようとするのではなく、あくまでも共有を目指すこと。

Shane Mulchrone

 

 この地域は楽器別のリストでも明らかなようにフルートとフィドルが特徴的ですが、バゥロンの伝統があったという記述もあります。1940年代の話らしく、当時「バゥロン」と呼ばれてはいなかったはずですが、興味深いところ。関連する録音など聴きながら読みこんでゆくと、さらにいろいろ面白い発見がありそうです。(ゆ)

5月25日・火 > 最新版 2021-06-10

 頼まれたことから思いついて、ケルト系、北欧系、その他主にヨーロッパのルーツ・ミュージックを志向する国内アーティストでCDないし音源をリリースしている人たちをリストアップしてみる。この他にもいるはずだし、ゲーム関連を入れるとどんと増えそうだが、とりあえず、手許にあるもの。ソロも独立に数えてトータル95。

3 Tolker
Butter Dogs
Cabbage & Burdock
coco←musika
Cocopeliena
Craic
Drakskip
Emme
fiss
Gammal Gran
Handdlion
Hard To Find
Harmonica Creams
hatao
hatao & nami
John John Festival
JungRAvie
Kanran
Koji Koji Moheji(小嶋佑樹)
Koucya
Luft
Norkul TOKYO
O'Jizo
oldfields
Rauma 
Rinka
Satoriyakki
Si-Folk
tipsipuca
Toyota Ceili Band
Tricolor
u-full & Dularinn
あらひろこ
安城正人
稲岡大介
上野洋子
上原奈未
生山早弥香
扇柳トール
大森ヒデノリ
岡大介
岡林立哉
おとくゆる
樫原聡子
風とキャラバン
神永大輔
亀工房
川辺ゆか&赤澤淳
木村林太郎
きゃめる
櫛谷結実枝
熊沢洋子
功力丈弘
五社義明
小松大&山崎哲也
さいとうともこ
酒井絵美
坂上真清
佐藤悦子 勝俣真由美
セツメロゥズ
高垣さおり
高野陽子
田村拓志
ちゃるぱーさ
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豊田耕三
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安井マリ
山崎明
悠情
遊佐未森
ロバの音楽座

 整理の意味も含めて、全部聴きなおして紹介するか。データベースにもなるだろ。(ゆ)

2021-06-10 改訂
2021-06-08 改訂

2021-06-02 改訂
2021-05-31 改訂
2021-05-28 改訂
2021-05-27 改訂

 シンガーでブズーキ奏者のショーン・コーコランが5月3日に74歳で亡くなったそうです。JOM の記事では死因は明かされていません。追記:別の記事では短期間病床にあって、穏かに旅立った由。なお、8年前に今の奥さんの Vera と結婚してイングランドに住み、亡くなったのは北イングランド、ダービーシャの Buxton というところでした。 

 コーコランはぼくらにとってはまず何よりも Cran のメンバーであり、来日もしました。ぼくは残念ながら行けませんでしたが、東京でのコンサートはすばらしかったそうです。



 JOM の記事によるとコーコランはミュージシャンだけでなく、音楽のコレクターであり、出身地ラウズ州はじめノーザン・アイルランドの音楽を精力的に集めました。この方面では Mary Ann Carolan (1902–85) の発掘が大きな功績でしょう。この人は良い歌をたくさん伝えましたが、ぼくにとっては〈Bonnie Light Horseman〉の別ヴァージョンのソースとして忘れられません。Topic盤のコーコランのライナーによれば二つのヴァージョンは南版と北/西版があるそうで、カロランは南版。ドロレス・ケーンが歌っているのが北/西版になるらしい。

 


 また過去のコレクターについての研究家でもあったそうです。Edward Bunting やオニールのような有名人だけでなく、John Sheil (1784–1872) や Rev. Richard Henebry (1863-1916) といった隠れた存在にも光を当てました。テレビ、ラジオのドキュメンタリー番組へも貢献しています。

 わが国にも来てくれた縁のあるミュージシャンが亡くなるのは格別の寂しさがあります。冥福を祈ります。合掌。(ゆ)

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