クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:アカペラ・コーラス

 かつてはオレが応援しないで、誰が応援するのだ、ぐらいの気持ちでコンサートに臨んだものだった。結成して20年のアウラにはもうあたしなんぞの応援は要らない。こちらはそのハーモニーにひたすら浸って、いい気持ちになっていればいい。時々、本当に体が天に昇るような気分になる。

 前回は広々とした教会で、声は広大な空間に向かって解き放たれていた。今回は響きのコントロールされたホール。教会はクラシック音楽発祥の空間ではあるけれど、そこから出て、いわば聖のパワー・スポットから俗のサロンへと移ることで音楽として独立する。そして響きのコントロールへと向かう。このホールはやはり俗の空間で、教会との違いがラストの〈ハレルヤ〉に現れたのは当然ではある。前回の〈ハレルヤ〉が、聖なる空間によって引きだされ、人のためよりも神の、あるいは天のために響いていたとすれば、今回は俗空間にあって、うたい手たちの想いのこもった、人のための歌に聞えた。

 スキャットを使ったアレンジはさらに一段と巧妙になっていた。歌詞とスキャットの入れ替わりのタイミングと鮮かさに息を呑む場面がいくつもある。スキャットの種類も増えているし、アレンジのパターンもより多様だ。音量の大小、アクセントの強弱もメリハリがよくつき、リズムも変える。そうなると、5人だった時よりもアレンジが複雑になっているように聞える。にもかかわらず、全体の印象としてはすっきりと見通しが良い。そこにはおそらく、スキャットの役割を、たとえばインストルメンタルのパートに絞るというように、より整理していることも働いているのかもしれない。4人での体制が完成されたと思える。

 星野さんの低音がより際だつとともに、今回は菊地さんの声がこれまでになく大きく聞えた。彼女の声は大好きなので、あたしとしては喜ぶ。

 新曲の〈Auld Lang Syne〉はひょっとしてとひそかに期待したが、有名な方のメロディ。とはいえ、ストレートなアレンジが曲の美しさをあらためて引きたてる。いつか、古い方のメロディも歌ってくれると期待しよう。

 やはりこういうホールで聴くアウラは格別だ。教会には教会なりの良さがあるので、そちらも大歓迎だが、やはり距離があるし、それにどこか上の方から見られている気配のようなものがある。クリスチャンではないから気にすることもないし、時には聴衆以外のお仲間がいるのも面白いのだが、音楽から気を逸らされることもなくはない。俗のホールにはミュージシャンとリスナーしかいない。より純粋に音楽にひたりこんでいられる。人間の声だけのハーモニーには、他の音楽にはない魔法が宿る。(ゆ)

 教会でアウラを聴くのは初めてなので愉しみにしていた。ルーテル東京教会は地図で見ると歌舞伎町を抜けて大久保の方へ行けばいいはずだと、熱中症警戒アラートが出る中、汗をふきふき、新宿駅から歩く。この通りと見当をつけた大通りを右往左往してもそれらしき建物が無い。どうやらもう1本先らしい、とまた汗をかきかき歩く。新大久保駅から伸びる目抜き通りは歩道が狭く、内外の観光客でのろのろとしか歩けない。ようやく探しあてると「場所が変更になりました」の小さな立て看板が出ている。関係者らしき人が出てきて「アウラのコンサートですか」と訊ね、そうだというと地図をくれた。それと iPhone のマップによると、変更先の淀橋教会は同じ通りをもどり、新大久保駅を過ぎて中央線・大久保駅の手前らしい。そこでまたてくてく歩く。まったく東京は人が多い。ようやくそれらしき建物を探しあて、通りから引込んだ入口に近づくとスタッフの姿が見えた。

 予定していた教会がダブル・ブッキングだったとのことで、急遽、こちらになったそうな。当初の予定の教会は響きが良いそうだが、こちらは広大な空間。アウラ史上最大の空間らしい。江戸川橋の東京カテドラルや品川・御殿山の品川教会に匹敵するのではないかと思われる。ただ、パイプ・オルガンが無いのがちょと寂しい。それと、正面演壇背後の窓の外を中央線の線路が走っていて、大久保駅のホームが見える。一番手前、教会に近いところを中央線上り電車が走ると、その音が小さく聞える。それでもなお、こちらはこちらでやはりすばらしい音響。アウラのようなアカペラ・コーラスには最適の空間とあたしには思われた。ハクジュ・ホールや JTアートホール・アフィニスも良いが、適度にデッドなああいうホールよりは、思いきりライブな教会の空間でアカペラ・コーラスは聴きたい。この日は個々の声もハーモニーも両方ともよくわかる。意識せずとも自然に聴きわけられる。個々の声とハーモニーが同時に聞えてくる。不思議な感覚。6曲目〈アニー・ローリー〉のメロディに日本語詞をのせた〈愛の名のもとに〉ではドローンがそれはそれはよく響く。

 今回はアウラ結成20周年記念になっていて、メンバーが MC で各々思い出を語る。とはいえ、20年間ずっと在籍したのは唯一菊地さんだけで、他の3人は一時的に離脱した時期があり、奥脇さんにいたっては途中参加でメンバーとしては半分の時間になる。もっとも、20年前、アウラのファーストをたまたま買って聴き、こういうことが可能なのだと驚き、喜んだそうだ。当時オペラ専攻に籍を置いていたものの、本当にオペラがやりたいのか、自分でもわからなかったところへ、アウラを聴いて、めざす方向がおぼろげに見えたという。もっとも後にそのメンバーとなってこうして歌っているとは、その時にはまったく思いもよらなかった。20年というのは、そういうことが可能なくらい長い。結成当時はまだ学生だったメンバーもいる由だが、そういう人も今や40の坂を越えている。人生、いろいろあったはずで、それらをくぐり抜けてきた人たちの歌はやはり違う。この日のアウラを聴いてまず浮かんできたのは成熟だった。若い時にしかできない音楽もあるが、アカペラ・コーラス、それも複雑なアレンジによる精緻なハーモニーの妙を聴かせるアウラのような音楽は、歳月を経て、経験を重ね、山坂を越えて成熟する。

 まず目につくのは体力。アカペラ・コーラスは声だけが勝負で、しかもワンマン・ライヴということは初めから最後まで歌いつづける。歌は全身運動でもあって、どんな楽器演奏よりも体力を消耗する。最初の頃は途中休憩を入れても、アンコールの頃には息たえだえ、ということもあった。それで歌唱のクオリティが落ちるわけではむろん無かったし、若い人たちが最後の息をふりしぼって歌うのは初々しくもあり、可憐でもあった。もはや、そういうことはまったくない。5人でやっていたことをカルテットでやるのは大変なんです、ものすごく忙しくて息継ぎをしてるヒマがないんです、とおっしゃるのだが、むしろ、プログラムが進むにつれて輝きと迫力が増してゆき、今回のハイライトはラスト、アンコール前の『メサイア』の〈ハレルヤ〉。会場が教会ということでラストの位置に置いたのだろう、まさにこの空間で歌われるにふさわしい曲を、広大な空間いっぱいに響かせて、堂々たる歌唱。天国にいるはずのヘンデルも神さまも大いに喜んだにちがいない。普通のホールよりは、こういうところの方が天国に声は届きやすいだろう。

 20周年の回顧ばかりではない。5曲目〈My Love Is a Red, Red Rose〉は畠山さんのアレンジによる初演。スコッチらしい起伏の大きなメロディを活かして、交錯するハーモニーが見事。そして、これはスコッチらしくなく、明るいのである。アウラの音楽は明るい。前半ラストは宮城道雄の〈春の海〉。箏のエミュレーションも面白いが、原曲にはないはずのハーモニーがごく自然に聞えるのがもっと面白い。

 後半はまず『モンセラートの朱い本』からの2曲。バルセロナ郊外のモンセラート修道院に伝わる14世紀の写本に記されたもの。プリミティヴかつ洗練された歌唱で、これだけは星野さんを除いたソプラノ3人で歌われた。そこで外れた星野さんがリードをとる〈サンタ・ルチア〉もやはりいい。彼女のリードはもっと聴きたい。その次のサティがまたいい。コーダが粋だ。フォーレの〈レクイエム〉からの曲は故意に小さな声で歌われるが、それがまたよく響く。大きく増幅されるのではなく、小さいままに響くのが美しい。そして〈トルコ行進曲〉のアクロバティックな歌唱こそはアウラの真骨頂。こういうのを聴くと、アウラは繊細というよりも、実は「体育会系」で、芯が太く、どちらかといえば肝っ玉かあさん風ではないかとすら思える。

 突然、直前の会場変更はむしろ雨降って地固まる、怪我の功名、瓢箪から出た駒、あるいは棚からぼた餅とも言えるものだと思えた。

 カルテットとしての歌唱もすっかり板についた。新曲もあるし、そろそろ次のアルバムが欲しい、とあたしなどは思う。アウラの録音はイヤフォン、ヘッドフォンのチェックにも使える。昔は曲によって音がビビることもあったけれど、それはもう昔話。イヤフォン、ヘッドフォンでも音が良いのはあたりまえ。問題はその先、音楽をいかに活き活きと聴かせられるか。メーカーがいかに音楽を聴きこんでいるか、になっている。これからのオーディオのハードウェアを造る人たちには、ぜひ、アウラも聴いてほしい。これがきちんと再生できればホンモノですよ。

 20年は長いし、節目ではあるけれど、通過点でしかない。次の20年がどうなるか、最後まではあたしはまずもたないだろうが、行けるところまでは追いかけたい。(ゆ)


 アウラは2003年結成、というのは今回初めて披露されたのではなかったか。少なくともあたしは初めて知った。メンバーが変わっているとはいえ、聴くたびに成長している、それも、明瞭に良くなっているのがわかるのは、15年選手としては立派なものではある。

 前回は、新たに加わった2人が他の3人に追いついて、レベルが揃ったことで、ぱっと視界が開けたような新しさがあったが、今回はそのまま全員のレベルが一段上がっている。安定感が抜群だ。レベルが揃ってさらに一段上がったことで、それぞれの個性も明瞭になる。まず5人各々の声の性格が出てくる。個人的には星野氏のアルトと菊池氏の声がお気に入りで、今回はそれがこれまでにも増して素直に耳に入ってくるのが嬉しい。菊池氏の声には独特の芯が通っている。他のメンバーの声がふにゃふにゃというわけではもちろん無い。これは声の良し悪し、歌の上手下手とは別のことで、おそらくは持って生まれた声の質だろう。この芯があることで、たとえば長く伸ばす時、声がまっすぐ向かってくる感じがする。この感覚がたまらない。

 ライヴでは唄っている姿も加わって、この点では奥脇氏が今回は頭抜けている。とりわけ、目玉の〈ボヘミアン・ラプソディ〉での、天然な人柄がそのまま現れたような、いかにも楽しそうな唄いっぷりは、この曲の華やかさを増していた。そろそろこのメンバーで全曲録音した新譜をという話も出ていたのは当然。レパートリィも大幅に入れ換わっているし、録音でじっくり何度も聴きたい。

 曲目リストを眺めると、何時の間にか日本語の歌が大半を占めている。こういうクラシックのコーラス・グループにとって、日本語の歌を唄うのはチャレンジではないかと愚考する。クラシックの発声は当然ながら日本語の発音を考慮に入れていない。あれは印欧語族の言葉を美しく聞かせるための発声だ。そのことは冒頭の〈ハレルヤ〉や後半オープニングの〈ユー・レイズ・ミー・アップ〉、あるいは上記〈ボヘミアン・ラプソディ〉を聴けば明らかだ。こういう曲を開幕やクライマックスなどのポイントに配置するのも、その自覚があるからだろう。それにしても、〈ハレルヤ〉をオープニングにするのは、大胆というか、自信の現れというか、これでまずノックアウトされる。

 クラシックの発声で日本語の歌を美しく唄うための試みの一つは、ヨーロッパのメロディに日本語の歌詞を載せることだ。〈Annie Lawrie〉に載せた〈愛の名のもとに〉は前から唄っていたが、今回は〈Water Is Wide〉に日本語のオリジナルの歌詞を載せた〈約束〉を披露した。むろん水準は軽くクリアしているが、アウラに求められるような成功には達していない気もする。どこが足りないか、あたしなどにはよくわからないが、メロディと日本語の発音の組合せが今一つしっくりしていないように聞える。唄いにくそうなところがわずかにある。

 その点では沖縄の歌の方がしっくりなじんでいる。あるいは日本語の民謡や〈荒城の月〉もなじんでいるようだ。とすると、メロディと発音の関係だろうか。ヨーロッパでも、たとえば本来アイルランド語の伝統歌を英語で唄うとメロディと歌詞がぶつかる、とアイルランド語のネイティヴは言う。

 あるいは詞の問題か。ヨーロッパのメロディに日本語の詞を載せることは、明治期になされて、小学校唱歌として残っている。現代の口語よりも、明治期の漢文調の方が、異質のメロディには合うということだろうか。

 アレンジはどれも見事だ。今回感じ入ったのは、詞をうたっている後ろでうたっているスキャットやハミング、あるいは間奏のアレンジがすばらしい。たとえばわらべうたの〈でんでらりゅう > あんたがたどこさ〉のメドレー。そして〈星めぐりの歌〉のラストの星野氏のアルトがぐんと低く沈むのは、今回のハイライト。

 安定感ということでは、最初から最後まで、テンションが変わらない。以前は、ラストやアンコールあたりで、エネルギーが切れかけたようなところもあったが、今はもうまったく悠々と唄いきる。クラシックのオーケストラなどでは、最初から最後まで常に音を出している楽器は皆無なわけで、2時間のコンサートで全曲、全員が最初から最後まで音を出す、それも声を出し続けるのは、相当のスタミナが必要なはずだ。アウラが観光大使になった沖縄本島は金武町のとんでもなく量の多いタコライスを食べつくすというのも無理はない。

 ああ、しかし、人間の声だけのコンサートの気持ち良さはまた格別。彼女たちが婆さんになった時の歌を聴いてみたいが、そこまではこちらが保たないのう。(ゆ)

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