クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:アコーディオン

 アイルランドのダンス・チューンを聴くとほっとするのはなぜだろう。アイルランドに生まれ育ったわけでもなく、アイリッシュ・ミュージックに生まれた時から、あるいは幼ない時からどっぷり漬かっていたわけでもない。アイリッシュ・ミュージックを聴きだしてそろそろ半世紀になるが、その間ずっとのべつまくなしに聴いていたわけでもない。

 アイリッシュ・ミュージックが好きなことは確かだが、どんな音楽よりも好きか、と言われると、そうだと応えるにはためらう。一番好きなことではスコットランドやイングランドの伝統歌にまず指を折る。グレイトフル・デッドが僅差で続く。あたしにとってアイリッシュ・ミュージックは三番手になる。

 それでもだ、アイリッシュ・ミュージックを聴くとふわっと肩の力がぬける。快い脱力感が頭から全身を降りてゆき、帰ってきた感覚が湧いてくる。この「帰ってきた」感覚は他の音楽ではあらわれない。デッドは一時停止していたのが再開した感覚。スコットランドやイングランドの伝統歌では帰郷ではなく再会になる。となると、アイリッシュ・ミュージックが帰ってゆくところになったのは、いつ頃、どうしてだろう。

 いつ頃というのは、おそらく、あくまでもおそらくだが、世紀の変わり目前後というのが候補になる。この前後、あたしはとにかくアイリッシュ・ミュージックを聴いていた。出てくるレコードを片っ端から買って、片っ端から聴いていた。まだCD全盛時代だ。本朝でアイリッシュ・ミュージックを演る人はいなかった。アイリッシュ・ミュージックを聴こうとすれば、CDを買って聴くしかなかった。それに出てくるレコードはどれもこれも輝いていた。むろん、すべてが名盤傑作であるはずはない。けれどもどこかにはっと背筋を伸ばすところがあり、そしてどのレコードにも、旬たけなわの音楽の輝きがあった。どの録音も、そこで聴ける音楽の質とは別のところできらきらぴかぴかしていた。ちょうど1970年前後のロックのアルバムに通じるところだ。だから、何を聴いても失望させられることはなかった。当然、次々に聴くように誘われる。2002年にダブリンに行った時、当時アルタンのマネージャーをやっていたトム・シャーロックと話していて、おまえ、よくそこまで聴いてるな、と言われたのは嬉しかった。アルタンのマネージャーの前には、まだレコード屋だったクラダ・レコードのマネージャーで、たぶん当時、アイリッシュ・ミュージックのレコードを誰よりも聴きこんでいた人間から言われたからだ。

 そうやってアイリッシュ・ミュージックにはまる中で、アイリッシュ・ミュージックへの帰属感、それが自分の帰ってゆく音楽という感覚が育っていったのだろう。あとのことはアイリッシュ・ミュージックの作用で、たまたまあたしの中にそれと共鳴するものがあったわけだ。

 須貝さんと木村さんの演奏が始まったとたん、ほおっと肩から力が抜けていった。これだよね、これ。これが最高というわけではない。こういう音楽にひたることが自分にとって一番自然に感じるだけのことだ。他の音楽を聴くときには、どこか緊張している。というのは強すぎる。ただ、音楽を聴く姿勢になっている。アイリッシュ・ミュージックは聴くのではない。流れこんでくる。水が低きに流れるようにカラダの中に流れこんでくる。おふたりの、むやみに先を急がない、ゆったりめのテンポもちょうどいい。リールでもたったかたったか駆けてゆくよりも、のんびりスキップしている気分。

 さらにユニゾンの快感。ハーモニーはむろん美しいし、ポリフォニーを追いかけるのは愉しい。ただ、それらは意識して聴くことになる。ただぼけっとしているだけでは美しくも、愉しくもならない。こちらから積極的に聴きこみ、聴きわける作業をしている。ユニゾン、とりわけアイリッシュのユニゾンはそうした意識的な操作が不要だ。水や風が合わさり、より太く、より中身が詰まって流れこんでくる。カラダの中により深く流れこんでくる。

 受け手の側にまったく何の労力も要らない、というわけでは、しかし、おそらく、無い。アイリッシュ・ミュージックを流れとして受けいれ、カラダの中に流れこんでくるのを自然に素直に味わうには、それなりの心構えといって強すぎれば、姿勢をとることが求められる。その姿勢は人によっても違うし、演奏する相手によっても変わってくる。そして、自分にとって最適の姿勢がどんなものかさぐりあて、相手によって調整することもできるようになるには、それなりに修練しなければならない。とはいえ、それはそう難しいことではない。できるかぎり多様な演奏をできるかぎり多く聴く。それに限る。

 リールから始まり、あたしには新鮮なジグが続いて、3曲目、今年の夏、アイルランドでのフラァナ・キョールに参加するという須貝さんがその競技会用に準備したスロー・エアからジグのセットがまずハイライト。これなら入賞間違い無し。とシロウトのあたしが言っても効き目はないが、組合せも演奏もいい。後は勝とうとか思わずに、このセットに魂を込めることだ、とマーティン・ヘイズなら言うにちがいない。次の木村さんのソロがまたいい。急がないリールを堂々とやる。いつものことだが、この日はソロのセットがどれも良かった。

 後半冒頭はギター抜きのデュオ。そう、今回もギターがサポートしている。松野直昭氏はお初にお目にかかるが、ギターは年季が入っている。前回のアニーと同じく、客席よりもミュージシャンに向かって演奏していて、時にかき消される。しかし聞える時の演奏は見事なもので、どういう経歴の方か、じっくりお話を伺いたかったが、この日は後に別件が控えていて、終演後すぐに飛びださねばならなかった。おそらくギターそのものはもう長いはずだ。松野氏のソロ・コーナーもあって、スロー・エアからジグにつなげる演奏を聴いてあたしはマーティン・シンプソンを連想したが、むろんそれだけではなさそうだ。

 ギターのサポートの入ったのも良いのだが、フルートとアコーディオンのデュオというのもまたいい。アイリッシュはこの点、ジャズなみに自由で、ほとんどどんな楽器の組合せも可能だが、誰でもいいわけではないのもまた当然だ。まあ、合わないデュオを聴かされたことは幸いにないから、デュオはいいものだ、と単純に信じている。

 リハーサルはもちろんしているわけだが、お客を前にした本番というのはまた違って、演奏は後になるほど良くなる。最後のジグ3曲、リール3曲、それぞれのメドレーが最高だった。ワルツからバーンダンスというアンコールも良かった。バーンダンスの方は〈Kaz Tehan's〉かな。

 前回、去年の5月、やはりここで聴いた時に比べると、力みが抜けているように思える。あの時は「愚直にアイリッシュをやります」と言って、その通りにごりごりとやっていて、それが快感だった。今回もすべてアイリッシュなのだが、ごりごりというよりはすらすらと、あたり前にやっている。だからすらすらと流れこんできたのだろう。

 このところ、録音でアイリッシュ・ミュージックを聴くことがほとんどない。ジャズやクラシックの室内楽やデッドばかり聴いている。だからだろう、生で聴くアイリッシュには、とりわけ「帰ってきた」感覚が強かった。8月の最終週末、須貝さんの住む山梨県北杜市でフェスティヴァルをするそうだ。琵琶湖はやはり遠いので、近いところに避暑も兼ねて行くべえ。世の中、ますますくそったれで、鮮度のいいアイリッシュで魂の洗濯をしなければやってられない。(ゆ)

 シェイマス・ベグリーが73歳で亡くなったそうです。死因は公表されていません。

 ケリィのゲールタハトの有名な音楽一族出身の卓越したアコーディオン奏者で、まことに渋いシンガーでした。息子のブレンダンも父親に負けないアコーディオン奏者でシンガーとして活躍しています。妹の Seosaimhin も優れたシンガーです。

 あたしがこの人のことを知ったのは前世紀の末 Bringing It All Back Home のビデオで Steve Cooney とのデュオのライヴを見たときでした。どこかのパブの一角で、2人だけのアップ。静かに、おだやかに始まった演奏は、徐々に熱とスピードを加えてゆくのはまず予想されたところでありますが、それがいっかな止まりません。およそ人間業とも思えないレベルにまで達してもまだ止まらない。身も心も鷲摑みにされて、どこかこの世ならぬところに持ってゆかれました。

 この2人の組合せに匹敵するものはアイルランドでもそう滅多にあるものではない、ということはだんだんにわかってきました。今は YouTube に動画もたくさんアップされています。シェイマスはその後 Jim Murray、Tim Edey とも組んでいて、それらもすばらしいですが、クーニィとのデュオはやはり特別です。

 本業は農家で、会いにいったら、トラクターに乗っていた、という話を読んだこともあります。プロにはならなかった割には録音も多く、良い意味でのアマチュアリズムを貫いた人でもありました。(ゆ)

 つまるところどこを目指して演奏するか、なのだ。手法ないし語法から言えばこれはジャズになる。後半冒頭の〈枯葉〉に端的に現れていたように、ジャズのスタンダードとしてのこの曲を素材にしながら、この音楽はジャズではない。あえていえばもっと普遍的なところを目指している。ジャズ自体普遍的であるという議論もあるかもしれないが、ジャズかそうでないかはかなり明確な違いがある。その違いを生むのがミュージシャンのめざすところということだ。そして、そこが、ジャズの方法論をとことん活用しながらなおかつジャズではないところを目指すところが、あたしがこのデュオの音楽を好む理由の一つになる。さらに言えば、shezoo さんの音楽、とりわけここ数年の音楽を好む理由でもある。

 ここ数年というのは、shezoo さんの音楽が変わってきているからだ。ご本人が「前世」と呼ぶ変わる前というのは、そう昔のことではなく、あたしの見るところ、パンデミックが始まる前だ。たとえばこの日のアンコール〈空と花〉はデュオのファースト・アルバムからだが、これははっきりと「前世」に作られたものと聴けばわかる。その前の、出たばかりのセカンド・アルバム収録の〈熊、タマホコリの森に入りこむ〉との対照が鮮やかだ。いわゆる「shezoo 節」とどちらも感じられるが、前者が古い shezoo 節なら、後者は新しい shezoo 節だ。あえて言えば、古い方はああ shezoo さんの曲とすぐにうなずいてしまうが、新しい方はその色の透明度が増している。shezoo さん以外からこんな曲は出てこないとわかる一方で、癖というか、臭みというか、そういう要素が薄れている。

 その要素はたとえば納豆やクサヤの匂いのように、好きな人間にはたまらない魅力だが、嫌いな人はとことん嫌う性格を備えているようでもある。嫌いだった匂いが好きになることもあるが、どちらにしても、はっきりしていて、中間が無い。ようにみえる。

 強烈なその匂いが薄れてきているのは、パンデミックとともに、〈マタイ受難曲〉と格闘している影響もあるのかもしれない。バッハの音楽もまた、一音聴けばバッハとわかるほど臭いものだが、それにしてはなぜか普遍的でもある。

 面白いことに、藤野さんの曲も shezoo さんの曲となじんで、一枚のアルバムに収まっていても、あるいはライヴで続けて演奏されても、違和感が無い。どちらの曲もどちらが作ったのかとは気にならない。そこには演奏そのものによる展開の妙も働いているだろう。素材は各々固有の味をもっていても、ライヴで演奏してゆくことで溶けあう。セカンド・アルバムは一つの部屋の中に二人が入り、さらにはエンジニアも入って、一発録りに近いかたちでベーシック・トラックを録っているという。スタジオ録音としては限りなくライヴに近いかたちだ。

 セカンド・アルバム《Moon Night Prade》のレコ発ツアーの一環で、このツアーでは、それぞれのヴェニューでしか演奏できない、その場所に触発された曲をまず演る、とのことで、まずエアジンの音を即興で展開してから〈夜の果て〉。前半はセカンド・アルバムからサーカスをモチーフとした曲を連ねる。この曲では藤野さんはサーカスが果てて、立ちさったその跡の草地にサーカスの記憶が立ちあがるとイメージしているので、店が閉まった後のエアジンを思い描いたという。shezoo さんはエアジンでは、リハーサルしているといつも誰かもう一人か二人見えない人がいて一緒に聴いている感覚がいつもするので、それを音にしてみたそうだ。

 あたしは本を読みながらイマージュが立ちあがってくることはよくある。が、しかし、音楽を聴きながらイマージュが立ちあがることはまずない。イメージを籠めているミュージシャンにはもうしわけないが、音でそのイメージが伝わってくることはない。イメージというよりも、あるぼんやりしたアイデアの元素のようなものが聞えてくることはある。ここでまず感じたのはスケールが大きいことだ。その点ではエアジンは不思議なところで、そう大きくはないはずの空間から限界が消えて、どこまでも広がってゆくように聞えることがある。この日もそれが起こった。スケールが大きいというよりも、スケールから限界が消えるのである。音楽の大きさは自由自在にふくらんだり、小さくなったりする。どちらも限界がない。

 そして前回も感じた2本の太い紐が各々に常に色を変えながら螺旋となってからみあいながら伸びてゆく。それをはっきり感じたのは3曲目〈Dreaming〉から〈Pulcinella〉へのメドレー。アルバムでもこの二つは並んでいる。どちらもアンデルセンの『絵のない絵本』第16夜、コロンビーナとプルチネルラの話をモチーフにしているという。

 前半ラストの〈コウモリと妖精の舞う空〉は夜の空だろうか。昼ではない。逢魔が刻のような気もするが、むしろ明け方、陽が昇る前の、明るくなってだんだんモノの姿がはっきりしてくる時の空ではないか。

 後半2曲目〈枯野〉は「からの」と読んで、『古事記』にある枯野という舟の話がベースだそうだが、むしろその次の〈終わりのない朝〉のイントロのアコーディオンに雅楽の響きが聞えた。どちらもうっとりと聴いているうちにいつの間にか終ってしまい、え、もう終り?と驚いた。

 続く〈浮舟〉は『源氏物語』を題材にした能の演目を念頭に置いているそうだ。浮舟の話そのものは悲劇のはずだが、この日の演奏に現れた浮舟はむしろ幸せに聞える。二人の男性に惚れられてどちらかを選べず、迷いに迷っていることそのものを秘かに愉しんでいるようだ。迷った末にではなく、迷いを愉しむ己の姿に気がつき、そこで初めて心が千々に乱れだす。

 アンコールの shezoo さんの「前世」からの曲は古びているわけではない。あたしなどはむしろほっとする。遠く遙かなところへ運ばれていたのが、なじみのあるところへ帰ってきた感覚である。

 先日のみみたぼでも気がついたユーモアの底流がこの日も秘かに流れていた。ほんとうに良い音楽は、たとえバッハやベートーヴェンやコルトレーンであっても、ユーモアの感覚が潜んでいる。音楽そのものに、その本質に笑いが含まれている。眉間に皺を寄せて聴かないと音楽を聴いた気がしない人は、どこか肝心なところに触れぬままに死んでゆく。このデュオの音楽には、聴いていて笑いが体の中から浮かびあがってくる。声をたててがははと笑うようなものとは別の、しかし含み笑いなどではない朗らかな感覚だ。ひょっとするとこのユーモアの感覚も、最近の shezoo さんの音楽に備わっているものではないか。おそらくは前から潜んではいたのだろう。それがパンデミックもきっかけの一つとして、より明瞭になったのかもしれない。

 このデュオの音楽は shezoo さんのプロジェクトの中では一番音がまろやかで穏やかな響きをもつ。shezoo さんの音楽はどちらかというと尖ったところが多いし、ここでも皆無ではない。むしろ、ここぞというところで顔を出す。そこが目立つくらい、基調はなめらかで優しくせつない。あるいは藤野さんのアコーディオンの響きがそこに作用しているのかもしれない。来年早々、このデュオとトリニテの共演が予定されている。トリニテはまたツンツンに尖った、ほとんど針の塊のような音楽だ。この二つが合わさるとどうなるのか。もちろん見に行く予定だが、怖いもの見たさの気分でもある。(ゆ)

Moon night parade
透明な庭
qslebel
2022-09-03


 このデュオを生で見聞するのは初めてなのだった。着いてまず驚いたのは、テーブルがほとんど外に出されて、椅子がステージ、つまりピアノのある側に向けて並べられている。カウンターの椅子も外に向けて置かれている。奥の部屋も客席になるが、ここは楽屋も兼ねている。満席で30人は入るか。結局ほぼ満席になった。前にここに来たときはパンデミックの最中だったので、客の数を制限し、店内のレイアウトは普段の営業の時と変わっていなかった。奥の部屋には配信用の機材が置かれ、間の壁に穿いた窓からミュージシャンを映していた。お客も4、5人で、のんびりゆったりしたものだった。そりゃ、まあ、いつもあれではライヴをやる甲斐もないよねえ。

 ここのピアノは小型のアップライトで、鍵盤の下は開放でピアノ線が剥出しになっている。聴く分にはなかなか良い音だと聞えるが、弾く方からすると、かなり制限があって、出せない音があるのだそうだ。このデュオは来月、エアジンでも見る予定なので、そこがどう変わるかは愉しみではある。とはいえ、この日もそうした制限はまったくわからず、むしろ音のバランスが良いと感じた。もっともアコーディオンの類は音は小さくない。小型のボタン・アコーディオンでも相当にでかい音が出る。その点ではノーPAで聴くにはふさわしい組合せではある。

 今回はユニットのセカンド《Moon Night Parade》のレコ発ツアー初日なので、前半はこのアルバムの中でもサーカスをモチーフとした曲を並べる。ここでは4・5曲目、アンデルセン『絵のない絵本』第16夜「ドリーミング」から〈プルチネルラ〉へのメドレーがハイライト。メロディがころころ変わってゆくのを、二人が少しずつずらして演奏する。輪奏とは違い、同じメロディを追いかけるのではなく、メロディが変わってゆくのが面白い。即興もずらしてやる。対話ではあるのだが、互いに向きあって相手に向かってしゃべるというよりは、それぞれが斜め前、内側へ向けて発話する感じで、そうするとキャッチボールではなく、2本の色の異なる紐が螺旋を描いてゆく。それぞれの紐の色もまた刻々と変わってゆく。その紐が向かう方向もまた千変万化する。これは愉しい。

 やはり生、ライヴを体験すると、そのユニットが目指すところ、やりたいこと、キモが見えてくる。

 藤野さんのアコーディオンがどういうものか、ようやく摑みかけた気もする。この人の演奏はどこか摑みどころがわからず、悪くはないのだが、どこが良いのか、押えられなかった。shezoo さんと組み合わさることで、そこが見えてきたようでもある。アコーディオンを見ると、アイリッシュやスコティッシュ、あるいはバスクのトリティキシャのような、細かい音を連ねるスタイルを予想してしまう。が、もちろん、この楽器の演奏法はそれだけに限られるはずはない。

 藤野さんはむしろハーモニーを重ねるのが好きでもあり、得意でもある。というのはケルト系とは対極の演奏法だ。即興でもコード・ワークを多用する。そうすると、曲全体が大きくたなびき、揺れてくる。グルーヴとは違い、波というよりうねる。うねりながら盛り上がり、また鎮まる。縒りあわさった2本の紐が太くなり、細くなり、上下左右斜めに運動する。各々の紐が各々に太くなり、細くなる。色も各々に変化する。あるいはそれぞれの紐は長い1本の繊維からできているのではなく、麦の穂の束が合わさっているようでもある。その麦の穂の長さも一定ではなく、麦だけでもなく、花の束、木の枝、蔓、時には針金の束だったりもする。これが一番成功していたのが後半冒頭の〈Invisible Garden〉から〈Tower〉、さらにそれに続く〈Hydrangea(あじさい)〉。どれもファーストからの曲。

 このデュオは、このカフェ・ブールマンで二人が演奏したことから生まれ、ファースト・アルバムは、ここのマスターが撮った写真に対して二人が作った曲を集めているそうで、後半はファーストからの曲がメイン。

 shezoo さんのプロジェクトの中では、最もピアノが自由にうたっている。ライヴではメロディとだいたいの演奏順は決めているが、それ以外はまったくその場での流れにまかせているのだそうだ。限りなくジャズに近い手法とも思えるし、言葉の最も広い意味でジャズとしか呼びようはない。ただ、世のいわゆるジャズ・ファンが思い浮かべるものからは相当にかけ離れている。これまたあたしの偏見かもしれないが、いわゆるジャズらしいジャズはソロのための音楽で、それだけ傍若無人なところがある。この音楽はソロのためではない。あくまでも二人で、掌中の珠をいつくしむように作ってゆく。これもまた生を見て、わかったことである。

 同じユニットを2ヶ月続けて生で見るのは珍しい。どういう体験ができるか、愉しみになってきた。次はこれもあたしとしては珍しく、予習をして行ってみよう。(ゆ)

Moon night parade
透明な庭
qslebel
2022-09-03


 大田智美、松原智美、水谷風太三氏による野村誠作品演奏。最大三台のアコーディオンによる。

 クラシックのアコーディオン演奏とはどういうものかに興味が湧いて出かけていった。サクソフォンとかアコーディオンとか、通常のクラシックのイメージには入ってこない楽器でクラシックをやっているのは面白い。サクソフォン・カルテットによる『ゴールドベルク』は人生最高の音楽体験の一つだったし、今回もそこまではいかないが、別の意味でたいへん愉しい体験をさせていただいた。

 アコーディオンはコード、和音を伸ばして演奏できる。他にこういうことができるのはオルガンだけで、オルガンはそうそう持ち運びはできない。イリン・パイプのレギュレイターもできることはできるが、メロディを自由自在に演奏するわけにはいかない。聞けばクラシック用楽器の音域はピアノよりもわずかに狭いくらいだそうで、これも携帯できる楽器の中では最も広いだろう。つまりは携帯用パイプ・オルガンというべき楽器なわけだ。ただし、パイプ・オルガンはウインドだが、こちらはリードの違いはある。そのリードは蜜蝋で接着しているので、暑くなると溶ける心配があるそうな。アイルランドのアコーディオンやトリティキシャは螺子止めしてあるんではなかったっけ。

 で、まずこの和音がそのまま伸びるのが快感。右手できれいな和音が伸びるのに、左手のベースが重なると、もうたまりまへん。こういう音がこんなに快感とは思わなんだ。その快感の元にはリードであることもあるようだ。つまり、シャープな音が重なるのが快感なのだ。パイプ・オルガンの快感が天上から降ってくるのを浴びる形とすれば、アコーディオンの快感は体内に直接入ってくる。肌から染みとおってくる感覚。目の前、2、3メートルのところで演奏されているのもあるかもしれない。面白いのは演奏している方も実に気持ちよさそうに演奏している。これは倍音の快感だろうか。バグパイプのドローンは演奏している方にとっても快感だそうだが、あれに通じる気がする。倍音だけでも快感だけど、倍音がメロディを演奏するとさらに快感が増す。

 曲そのものも、今のクラシック、いわゆる現代音楽のイメージとは違って、ずっと親しみやすい。形のあるメロディが次々に繰り出される。ほとんどミュゼットか、タンゴでも聴いているようだ。それにユーモラスでもある。これも現代音楽では珍しいと感じる。音楽の根幹にはユーモアのセンスがある。バッハはもちろん、あの生真面目に眉間に皺を寄せてるベートーヴェンだって、根底にはユーモアのセンスがある。それを感じとるのが音楽を愉しむコツだ、とあたしは思う。宮廷音楽もユーモアは出にくいが、どこかにユーモアがない音楽は死んでいる。野村氏の曲にはユーモアがたっぷり入って、それが楽器の特性と相俟って増幅される。

 野村氏はもともとはいわゆる現代音楽らしい曲を作っていたそうで、アコーディオンの曲を作るようになって、親しみやすい、川村さんの言葉を借りれば「涙腺を刺激する」ような曲を作りだしたそうな。あの、倍音の快感を聴くとやはりそうなるのだろう。それに元々持っていたユーモアのセンスが楽器に促されて噴出したこともあるだろう。もちろんあの楽器でゴリゴリのフリージャズとかやっている人もいるのだろうし、それはそれで面白いところもあるだろうが、あたしとしては、こういう倍音の快感をめいっぱい展開する曲を聴きたい。

 曲としては2曲目の大田氏のソロ「誰といますか」とラストのトリオ「頭がトンビ」がハイライト。前者は古典的に聞えるメロディがズレてゆくのが面白く、倍音もたっぷり。後者は三台のアコーディオンの倍音の重なりに陶然となる。左手のベースが沈みながら沈みきらずに続くのがいい。東日本大震災の時、インドネシアにいて、何もできないまま、この曲をアコーディオン用に編曲することで何とかバランスをとっていたそうな。

 ラスト前の「お酢と納豆」も面白い。千住ダジャレ音楽祭でダジャレ勝ち抜き戦をやった時、出てきたダジャレの一つで「オスティナート」のもじり、だそうだ。「おすとなっとう」という短かいフレーズを繰返しながら、少しずつ変化する。ラヴェルの「ボレロ」と同じ構造だが、ずっと短かく、変化も小さいのが、軽快かつシャープ、ちょっとアイリッシュ・ミュージックにも似ていたりする。

 今回話題のひとつは小学生水谷君の登場。4歳のときからもう8年やっているそうな。楽器は小振りだが、堂々たる演奏で、目をつむって聴くと小学生とは思えない。順調に育ってくれることを願う。

 やはりアコーディオンという楽器はいろいろな意味で面白い。大田氏が中心となっての野村作品演奏会の第2回は再来年だそうだ。生きている目標ができた。



##本日のグレイトフル・デッド

 1114日には1970年から1987年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。うち完全版1本。


0. 1967 American Studios, North Hollywood, CA

 この日、〈Dark Star〉のシングル盤がここで録音された。この曲のスタジオ版はこのシングルのみで、アルバム収録は無い。


1. 1970 46th Street Rock Palace, Brooklyn, NY

 このヴェニュー4日連続の最終日。セット・リスト不明。


2. 1971 Texas Christian University, Fort Worth, TX

 開演7時半。4ドルと3ドルの2種類あるが、チケットの画像がぼやけていて、詳細不明。4ドルと5ドルと、自由席が2種類あったが、間の柵を守っていたのは小柄な老女たちだったので、みんな乗りこえていた、という証言もある。

 ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。ペダルスティールのチューニングはガルシアがやったが、実際に演奏したのは Buddy Cage

 デッドのショウはすばらしかった。

 前半3・4曲目の〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉、6曲目〈Sugaree〉と後半全部の計10曲が《Road Trips, Vol. 3, No. 2》のボーナス・ディスクで、前半1011曲目の〈Loser〉〈Playing In The Band〉が昨年の、オープナーの〈Bertha〉が今年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。全体の半分がリリースされている。


3. 1972 Oklahoma City Music Hall, Oklahoma City, OK

 場所柄、カントリー&ウェスタンの雰囲気だったらしい。


4. 1973 San Diego Sports Arena, San Diego, CA

 《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。

 この秋のツアーからは完全版リリースが連続している。1029日、30日のセント・ルイスが先日の《Listen To The River》、1本置いて110911日のウィンターランドが《Winterland 1973》、次がこのショウで、次の17日の UCLA でのショウが《Dave's Picks, Vol. 5》、さらに次のデンヴァー2日連続の2日目が《Road Trips, Vol. 4, No. 3》でリリースされた。

 会場の音響はひどかったが、Wall of Sounds に向かっているPAシステムはすばらしく、2曲目で音が決まると、後は気にならなくなった。

 臨月近かったそうだが、それが幸いしたか、このショウのドナの歌唱はうまい具合に力が脱けて、絶妙のハーモニーをかもし出している。

 〈Here Comes the Sunshine〉が長いジャムになる。こんなになるのは聴いたことがない。どの歌もすばらしい演奏。


5. 1978 Boston Music Hall, Boston, MA

 ショウよりも周囲の警官の方に注意が惹かれるショウらしい。


6. 1987 Long Beach Arena, Long Beach, CA

 このヴェニュー2日目。1987年を代表するショウのようだ。(ゆ)


 アコーディオンとヴォーカルの服部阿裕未さんが、演りたい人を集めてトリオを組むシリーズの1回目。初回のお相手は高梨菖子さんと久保慧祐さん。

 ミュージシャンにもいろいろなタイプがあって、演奏を好むことでは同じでも、演奏自体を好む人と自分が出す音を好む人がいる。と服部さんの演奏を見聞して思う。つまり、こういう曲を演りたいというよりも、こういう音を出したいので、好みの音を出せる楽曲と演奏スタイルを選ぶという人だ。この二つは截然と別れるわけではむろんなく、音楽家は皆どちらの要素も持っていて、どちらかが濃いわけだ。TPOでそれが出る人もいる。

 とはいえ、ある楽器を選びとるのは、やはりその楽器の音、音色、テクスチャ、音の運びが好きだからではないか。

 服部さんはたまたまその好みが比較的はっきり出るタイプなのだろう。たとえばその好きな音を延ばしたり、アクセントをつけたりするし、またそういう音型がフレーズが出てくる曲を選んでいるようにもみえる。たとえば前半のポルカのセットで、3曲目が高梨さんの〈柏餅〉なのだが、これだけ独立して選んだのは、ああ、この音が出したかったのだな、とあたしは納得した。高梨さんの曲はフィドルや笛で聴くことが多く、アコーディオンで聴くのはとても新鮮だ。ちなみにこのセットの一曲目はAパートのシンコペーションが面白くて、これも出したい音に聞える。好きな音を出す歓びがあふれる。

 好みの音を出したいというのは、その音を聴きたいことでもあって、だから無闇に急がない。リールでもゆったりしたテンポで、自分たちの演奏にじっくりと耳を傾けている感じだ。聴いていると胸のうちがおちついてくる。後半のマーチではそれがうまくはまっていて、この方面のハイライト。

 服部さんのもう一つの顔はこういううたをうたいたい、声を出したい、といううたい手だ。この方面ではなんといっても高梨さんの〈春を待つ〉。高梨さんの東京音大作曲科の卒業製作用の曲だそうだが、これをうたいたいといううたい手の気持ちが、もともとの佳曲をさらに良くする。歌詞を書くのが気恥ずかしいと高梨さんはいうが、ならば作詞は他に頼んでも、もっとうたを作って欲しい。それを服部さんがうたって一枚アルバムを作ってもいいのではないか。

 高梨さんは例によって、ある時はユニゾンに合わせ、ある時は裏メロをつけ、ある時はハーモニーを作って、アコーディオンを盛りたてる。高梨さんのホィッスルとアコーディオンの組合せも珍しく、その音の動きがよくわかるのが愉しい。これがコンサティーナではやはり違う。サイズも違うが、コンサティーナの音はもともと繊細だ。音自体はシャープではあるが、細い。服部さんはリードのピッチをわずかにずらして、倍音を響かせるようにしているせいもあるだろうが、音の存在感がどっしりとある。アコーディオンとホィッスルだけの組合せというのは、あまり聴いた覚えがないが、おたがいの音が際立っていいものだ。

 この二人を見事に支えていたのが久保さんのギター。前半ではギターをミュージシャンの方に向けていて、アルジーナに注意されたのか、後半は客側に向けるようにしていた。まあ、ライヴとしてはその方がいいだろうが、ギターは客に聞えなくてもかまわないものではある。というのに語弊があれば、ギターは客よりもミュージシャンに向けて演奏しているのだ。デニス・カヒルのライヴを見ると、かれは客のことなぞ眼中にない。そのギターはひたすらマーティン・ヘイズのために弾かれている。

 クボッティと呼ばれるそうだが、リールのセットでは冒頭、単音弾きでリールを弾きこなして見事だった。何人か、ワークショップなどで学んだギタリストはいるようだが、基本的に独学だそうで、そうだとすると、豊田さんの言うとおり、天才と呼んでおかしくはない。豊田さんのソロではデニス・カヒル顔負けのギターを弾いてもいて、まことに末頼もしい。今は John Blake がマイブームの由。04/08の豊田さんのソロのアルバム・リリース・ライヴがたのしみではある。

 ライヴ当日になってようやくトリオとしての形ができてきた、と服部さんは言っていたが、アイリッシュ・ミュージックは音楽そのものよりも、コミュニケーションつまりおしゃべりが一番の目的だから、それもまたアイリッシュ的ではないか。隅々まできっちりと作るのではなく、基本のメロディとして提示して、たとえばきゃめるの仲間が、思いもよらないコード進行をつけたり、ハーモニーを編み出したりするのが何よりも愉しいと高梨さんも言う。音楽で楽器でおしゃべりしながら、ああでもないこうでもないといろいろ試し、やってみて、だめなものは捨て、うまくゆくものを拾ってゆく。そういうプロセスが透けて見えるのもアイリッシュの魅力だし、この日のライヴには、そうして出来上がってゆくときの愉しさが現れていた。完成した、非のうちどころのない演奏を聴くのも楽しいが、綱渡りしながら音楽を作ってゆくところが見えるのもまた楽しからずや。

 トリオ・シリーズの次回はまだ未定だそうだが、季節が変わる頃に、またホメリでということなので、たのしみに待ちましょう。音楽が愉しいと、ビールも旨い。(ゆ)

 本誌の記事では触れませんでしたが、昨年一番嬉しかったアルバムはこれ

 デンマークの蛇腹とフィドルの若い女性のデュオのデビュー。新しい才能の出現に出会えた歓びとともに、彼女たちがデンマーク音楽に切りひらいた新たな世界もすばらしい。二人だけですが、デンマークのダンス・チューンをほんとうに生き生きと、みずみずしく聞かせてくれます。この国のダンス・チューンはケルト系の高速チューンに慣れた耳にはちょっとのんびり聞こえますが、この二人が演奏すると、ダンス・チューンの命は結局スピードではない、ビートなのだと実感します。一つひとつの音が跳びはねるのは、こういうことなのです。2曲ほど聞かせる唄ものびのびとうたっていて、ダンスの合間の切替に気持ちよい。録音としてはデビュー作ですが、演奏はすでに揺るぎなく、独自の型を完成しています。

 二人ともカール・ニールセン・アカデミーの出身で、蛇腹のメッテ・カトリーネはもうすぐ来るハウゴー&ホイロップのハラール・ハウゴーの直弟子。フィドルのヘンリエッテ・ハンセンはモントリオールに2年住んだことがあり、ケベック音楽に漬かってたそうです。

 オーゼンセにあるカール・ニールセン・アカデミーは、フランスでいえばコンセルヴァトワール、わが国でいえば芸大ですが、フィンランドのシベリウス・アカデミー同様、伝統音楽のコースがあります。近頃ではアイルランドでもコークやリマリックの大学に伝統音楽のコースができてます。伝統音楽を学校で教えられるのか、という議論もありましょうが、この二人の演奏を聞くかぎり、りっぱに成功している、というより、こういう人たちがどんどん出てくるようなら、大いに教えるべし、です。ハラールはじめ、教授陣が優秀でもあるのでしょう。

 ハウゴー&ホイロップの音楽は生粋のダンス・チューンというよりは、もう一段昇華されていて、文字通り変幻自在にあふれてくる音楽に流されてゆく感覚です。この Kvasir の音楽は、ぼくらと同じ地上でいっしょになって踊っています。

 ちなみにこの名前は北欧神話に出てくる、知らないことはない大賢者の名前。"Kvaser" というスペルもあり。ただし、このひと、無類のお人好しで、ドワーフにころりとだまされて殺され、宝物を奪われてしまいます。

 普通のレコード店にはないと思います。デンマークの通販サイトをお試しあれ。英語ですが。

 タムボリンにもあるかもしれません。(ゆ)

 秋にジャッキィ・デイリーが来日しますが、そのうち最後の栃木での公演のチケットが発売になっています。

 ツアー全体のスケジュール
11/11 (土) 茨城県つくば市 つくば美術館 「茗渓学園美術展コンサート」
11/12 (日) 茨城県つくば市 神谷森ログハウス
11/15 (水) 大阪府 和泉市
11/16 (木) 東京 渋谷区
11/17 (金) 東京 国分寺市
11/18 (土) 仙台
11/19 (日) 東京 国立市
11/20 (月) 宮崎県都城市 ウェルネス交流プラザ「ムジカホール」
11/22 (水) 福岡
11/23 (木・祝) 熊本市 熊本市総合女性センター
11/25 (土) 東京 武蔵野市
11/26 (日) 栃木県宇都宮市 be-off (2回公演)


「え?もう11月の話??」って思われた方、、、すみません、でも決して早い話じゃないようです、、、。

ジャッキー・デイリー氏の来日公演ツアーにて、栃木県で開催することとなり、このたび企画を担当させていただいています。どうぞ、最寄の方、いえ、東京からもアクセスがいいのと、とにかく開催スタジオの「蔵をスタジオに!」という音響と環境のいいこの場所での演奏会にいらしてくださいね。
準備楽しく頑張ります!

11月26日(日)
1回目公演 2:00pm開場*2:30pm開演
2回目公演 6:00pm開場*6:30pm開演

チャージ:前売り3500円(当日4000円)
★2回公演分当日前売り券6500円(当日7500円)

1回目と2回目の公演でプログラムが変わります。
通して聴いていただいても、十分に楽しんでいただける内容となっています! 2回公演分をお勧めします。(せっかくだし)

チケット予約はこちらへどうぞ。

守安ご夫妻のHPはこちらです。

場所:be-off
栃木県宇都宮市吉野1-7-10
※最寄り駅は、東武線南宇都宮駅徒歩すぐ。
または、JR宇都宮駅西口からバスが出ていて20分くらい乗車です。

※会場では駐車場はありません。電車・バスをご利用ください。
※こちらの演奏会では、未就学児童の方のご入場は出来ません。 就学児童以上の方、入場料金は、記載価格と同額となります。

【コンサートの内容】
「アコーディオンの神様」、「アイルランド伝統音楽のキング」とさえ呼ばれる、アイルランド最高の伝説的アコーディオン奏者、ジャッキー・デイリーと、20年近くアイルランドに通い続け、ジャッキーとも長年にわたって交流を深めてきた守安夫妻との、気のあった絶妙のアンサンブルをお楽しみいただきます。
ジャッキー・デイリーの音楽には、底抜けの明るさとユーモア、そして、たとえようのないほどの悲しみが同時に宿っています。
守安夫妻による、通訳やお話を交えて、リラックスした雰囲気の中、心ゆくまで、本物の名人による音楽の世界を堪能していただければと思います。

★ご質問などありましたら、メッセージをくださいね♪
ご予約お待ちしています!!!

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