クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 村井康司さんによる「いーぐる」での10回連続講演「時空を超えるジャズ史」の第2回。4月の1回目は見逃した。後の8回は行きたいが、全部は行けないか。

 雑食が一番面白いのだよというのは村井さんが日頃くり返していることで、この日の選曲も雑食のお手本。一般的なジャズの範疇に入るのは冒頭のビル・フリゼールとラストのセシル・マクローリン・サルヴァンくらいで、後はアメリカン・フォーク、オールドタイム、ミンストレル・ショーの復元、囚人たちの労働歌、ポップス等々。ジャズだけの歴史を期待してきた人がいたらお気の毒。実際、途中で退席した人も数人。でも、歴史というものはいろんなものが複雑にからみあっているので、何の歴史にしても、それだけの歴史というのは成立しない。もしあるとしたら、それはからみ合っているいろんなものをきり捨てて作ったフェイクでしかない。雑食で見て初めて本来の姿が見えてくる。

 前半はフォスターの曲をいろいろな演奏で聴く。

 フォスターはある世代までは、アメリカでもわが国でもたいへんよく聴かれ、また学校で教えられた。あたしなどもこの日かかった曲は、聞けばあああれねとわかるし、いくつかは歌える。ところが今世紀に入って「政治的正当性」の犠牲になり、人種差別的内容が忌避されて、ほとんど誰も聴かなくなった。フォスターが大好きで何度も録音しているフリゼールは珍しいらしい。とりわけ冒頭にかかった1993年の〈金髪のジェニー〉の演奏はすばらしい。その次の〈ハードタイムス〉は一転してフリゼールはアコースティック・ギターでベテラ・ヘイデンの歌をサポートしていて、まるでフォーク・ソングだ。

 この曲はイングランドでも人気があり、ほとんど伝統歌の扱いで、あたしなどはこの曲の録音を聴くとき、フォスターの作品であることはまるで頭になかった。

 ジェイムズ・テイラーはまともに聴いていないので〈おお、スザンナ〉は新鮮。あらためてこの人、ギター巧いなあ。

 ジム・クェスキンの〈オールド・ブラック・ジョー〉は降霊会のオープニングにふさわしい。これが入っている《アメリカ》も「ブラックホーク」で名盤とされながら、まともに聴いたことがない。聴きたいと必死になっていた頃はレコードが手に入らなかった。このアルバムの録音時にはクェスキンは新興宗教にはまっていた由だが、それにしても一度は聴いておかにゃなるまい。

 話はここでミンストレル・ショーをはじめとする芸能の人種差別要素にうつる。フォスターはまさにミンストレル・ショーのためにたくさんの曲を書き、提供していた。フォスター自身は北部出身で奴隷制にはどちらかといえば否定的な姿勢がうかがわれるそうだが、生まれ育った時空においては人種差別はごくあたりまえにおこなわれていた。というより人種差別はシステムなので、個人では対抗できない。すなわちフォスター個人の問題ではない。フォスターの作品を無かったことにしても、人種差別そのものだったミンストレル・ショーがアメリカの音楽とダンスを核とする芸能、パフォーマンス芸術の基礎になっていることが消えるわけじゃない。白人が顔を黒く塗って演じるミンストレル・ショーのダンスから、『リバーダンス』の〈タップの応酬〉までは一直線につながっている。

 一方で、今、フォスターの曲を人種差別の表現にならないようなコンテクストで演奏するには工夫がいる。フリゼールのようにメロディだけ演ずるのはその工夫の一つではある。しかし、歌はうたわれてナンボだ。歌の土台になっている人種差別を換骨奪胎するような解釈を聴きたいものではある。たとえばの話、ビヨンセが《Cowboy Carter》で聴かせる〈Blackbird〉は「黒歌鳥」についての歌ではない、少なくともそれだけではないと聞える。しかし、逆は難しいか。

 後半はそのフォスターの楽曲のルーツを想像する試み。ここで核になるのはフォスターも含め、アメリカの古い歌にはヨナ抜きがたいへん多いということ。ひとつ言えるのは、19世紀のアメリカにあっては黒白問わずヨナ抜き音階で歌っていたという仮説。

 その仮説をひきだす実例としてハリー・スミスのアンソロジーからの音源や、クラレンス・アシュレィやカロライナ・チョコレート・ドロップス、アビゲイル・ウォッシュバーン、パンチ・ブラザーズなどの音源がかけられる。このあたりはアメリカン・ルーツ・ミュージックを少し身を入れて聴いていればおなじみの人たちで、あたしなどはこう並べて聴かされるとぞくぞくワクワクしてくる。ジャズ・ファンには新鮮だろうか、それとも退屈の一語だろうか。

 あらためて思ったのはパンチ・ブラザーズはブルーグラスではなくオールドタイムだ。一本のマイクを囲んで演奏するのもオールドタイムのスタイルだ。

 ウォッシュバーンがベラ・フレックとやっている〈Railroad〉は〈Pretty Polly〉として知られるバラッド。

 最後に有名なバラッド〈ジョン・ヘンリー〉を3つのヴァージョンで聴き比べたのも面白かった。アラン・ロマックスによる刑務所でのフィールド録音、ハリー・ベラフォンテのカーネギー・ホールのライヴ、そしてセシル・マクローリン・サルヴァン。囚人たちがうたっていた歌を、所もあろうにカーネギー・ホールでうたうというのも凄いが、ベラフォンテの歌唱はそれを当然としてしまう有無を言わさぬものだ。これはもう一個の芸術であり、同時にだからこそ最高のエンタテインメントだ。このアルバムは〈ダニー・ボーイ〉とか、他にも絶唱が詰まっていて、録音も最高、何度もくり返し聴くに値する。そしてサルヴァンのうたには、ひょっとして遠い親戚がロマックスが録音した刑務所にいたんじゃありませんかと訊ねたくならずにはいられない。

 ベラフォンテはギターとベースの伴奏がつく。ベラフォンテのメロディは囚人たちと同じマイナーなヨナ抜きなのに、ギターとベースがメジャーで伴奏するとブルーズに聞えるという村井さんの指摘にはあっと驚いた。ブルーズ誕生のきっかけはこれではないかとい説も最近出されているそうだ。

 こう聴かされると、19世紀には黒も白も皆ヨナ抜きでうたっていたという仮説は説得力を持つ。淵源はスコッチ・アイリッシュを核とした移民たちがもちこんだ伝承歌謡。20世紀になる頃から、黒人と白人の音楽に分離しはじめる。黒人はブルーズに向かい、白人はオールドタイムになる。

 ではどうして19世紀のスコッチ・アイリッシュのうたが淵源になったのか、というのは村井さんのこの連続講演の趣旨からははずれるだろう。

 ぱっと思いつくのは、それ以前の移民たち、イングランドからの人たちにとってうたといえば聖歌ぐらいで、伝承歌のレパートリィはごく小さかったのではないか。こと音楽にかけては、アイルランドの豊饒さは古代からの年季が入っている。音楽が生活の一部の人たちは、体や言語習慣信仰とともに音楽も否応なしにもってくる。この人たちにとって音楽はコミュニケーション手段であり、共同体、コミュニティの暮らしに必要だから、しょっちゅううたっていたはずだ。

 アフリカから拉致されてきた人たちの中にも音楽をもってきた人たちはいたはずだ。しかし奴隷たちはアフリカから「出荷」される時点で、同じ出身地の者が集中しないように、故意にばらばらにされた。だから一人だけうたを知っていても、そのうたを知っている人が周りにいないからうたうチャンスは減るし、その人が死んだり、忘れたりすればうたも消える。伝承も伝播もされない。そこがスコッチ・アイリッシュとは異なる。

 この連続講演を貫くテーマは古い話や音楽と新しい話や音楽をまぜあわせたらどうなるか、という実験だそうだ。次回は今月13日、もう今週末ではないか。テーマは「ジャズの故郷、ニューオリンズ音楽の歴史」。いざ、行かん。(ゆ)




 著者 Ray Robertson はカナダの作家だ。デトロイトのすぐ東のオンタリオ州チャタムに育ち、今はトロントをベースにしている。これまでに小説が9冊、ノンフィクションが4冊、詩集が1冊ある。これは5冊目のノンフィクションになる。

 この本はアメリカ人には書けない。カナダに生まれ育った人間だからこそ書き、また書けたものだ。それによって、これはおよそグレイトフル・デッドについて書かれたもので最もすぐれた本の1冊になった。文章だけとりだせば、最もすぐれたものだ。ほとんど文学と言っていい。

 ほとんど、というのはグレイトフル・デッドについて書くとき、人はデッドヘッドにならざるをえないからである。デッドヘッドが書くものは普遍的にならない。文学になるためにはどこかで普遍に突破しなければならないが、デッドヘッドにはそれはできない。デッドヘッドにとってはグレイトフル・デッドが、その音楽が宇宙の中心であり、すべてである。普遍などというしろものとは縁が無い。

 著者は最後におれはデッドヘッドだと宣言している。これもまたカナダの人間ならではだ。アメリカ人はそんな宣言はしない。カナダの人間は宣言する必要がある。一方でこの宣言によっても、この本は限りなく文学に近づいている。

 人はなろうと思ってデッドヘッドになるわけではない。自分の意志で左右できるものではない。そもそも、デッドヘッドとはなりたいと人が望むものには含まれない。あるいは、望む望まないの前に、存在を知らない。なってしまって初めてそういうものがいることに気づく。

 あたしなどは自分がデッドヘッドであることに、この本を読むまで気づかなかった。

 この本は副題にあるように、ボーナス・トラックとして挙げられたものを含めて51本のショウを語ることでグレイトフル・デッドを語ろうとしている。ショウについての記述の中に、バンドの成り立ちやメンバーの状態、周囲のコンテクストなどを混ぜ込んでゆく。一本ずつ時代を追って読み進めれば、デッドとその音楽が身近に感じられるようになる。

 はずはないんだなあ、これが。

 デッドの音楽、グレイトフル・デッドという現象は、そんなに容易く飲み込めるような、浅いものではない。ここに書かれていることを理解し、うなずいたり、反発したりするには、すでに相当にデッドとその音楽に入れ込んでいる必要がある。これはグレイトフル・デッドの世界への入門書ではない。デッドへの入門書など書けないのだ。告白すれば、そのことがわかったのはこの本を読んだ効用の一つだった。

 グレイトフル・デッドは入門したり、手引きに従って入ってゆけるものではない。それぞれが、それぞれのきっかけで出逢い、引き込まれ、ハマり込み、そしてある日気がつくとデッドヘッドになっている。

 人はデッドの音楽をおよそ人の生み出した最高の音楽とみなすか、こんなものはゴミでしかないと吐き捨てるかのどちらかになる。中間はない。

 この本はデッドヘッドからデッドへのラヴレターであり、宣言書である。1972〜74年を最高とするという宣言だ。この宣言が意味を持つのはデッドヘッドに対してだけである。グレイトフル・デッドの世界の外では何の意味もない。または、全く違う意味になる。。

 あたしはこの宣言に反発する。してしまう。自分が反発しているのを発見して、自分もまた著者と同様、デッドヘッドであると覚った。覚らざるをえなかった。その事実を否応なくつきつけられた。

 だが、その宣言のやり方には感心した。させられた。デッドに関する本として可能な限り文学に近づいていることは認めざるをえなかった。

 著者があたしの前に現れたのは、今年の冬、今年最初の《Dave's Picks》のライナーの書き手としてだ。次には今年のビッグボックス《Here Comes Sunshine》でもメインのライナーを書いていた。一読して、アーカイヴ・シリーズのプロデューサー、デヴィッド・レミューがロバートソンを起用した意図はわかった。文章が違う。文章だけで読めるのである。

 ライナーというのは通常中身で支えられている。読者にとって何らかの形で新しい情報、あるいは既存の情報の新たな解釈が提供されることが肝心だ。それを伝える文章は伝えられるべき情報が的確に伝わればいい。むしろまずはそれを目指す。文章そのものの美しさ、味わい、面白さは考慮から外していい。

 ロバートソンのライナーにはスタイルがある。独自の表現スタイルがある。一文読めばそれとわかる個性がある。文章を読むだけの愉しみを味わえる。これがグレイトフル・デッドについての文章でなければ、純粋に文章だけを読んで愉しむこともできると思える。

 こういうスタイル、スタイルのあり方の文章によってデッドについて書かれたものはこれまで無かった。あたしの読んできたものの中には無かった。もっともデッドに夢中になった初めの頃は何を読んでも目新しい事実、情報ばかりだったから、まずはそれらを消化するのに懸命で、文章の良し悪しなど目もくれなかった恨みはある。とはいえ、ここまでの質の文章があれば気がついていたはずだ。

 これまでデッドについて書いてきた人びとはいずれもまず何よりもデッドヘッドである。つまり若い頃からのデッドヘッドだ。すなわち、自分はなにものであるかの1番目にデッドヘッドがくる人びとだ。この人たちは作家になろうなどとは望まない。文章を書くことに命を賭けようとは思わない。デッドヘッドは書く人ではない。聴く人、踊る人、意識を変革しようとする人、その他の人ではあるだろう。しかし書くことが三度の飯より好きな人にはならない。デッドヘッドが三度の飯より好きなのはますデッドの音楽を聴くことだ。

 これまでデッドについて書いた人間で書くことが仕事であるという点で最も作家に近いのはデニス・マクナリーであろう。かれによるバンドの公式伝記 A Long Strange Trip は質の良い、つまり読んで楽しい文章で書かれている。しかしかれは本質的には学者だ。文学を書こうとしてはいない。
 《30 Trips Around The Sun》につけた史上最長のライナー・ノートの執筆者ニコラス・メリウェザーもやはり学者である。それにあそこでは歴史ですらない、それ以前の年代記を作ることに専念している。

 ロバートソンの文章は違う。ロバートソンが文学を書こうとしているわけではない。書くものが書き手の意図からは離れて、どうしても文学になろうとしてしまうという意味でかれは作家である。

 加えてかれがデッドヘッドになるのは47歳の時。彼にとってデッドヘッドは何番目かのアイデンティティである。デッドヘッドである前に作家なのだ。その作家がデッドについて書けば、それはどうしても文学に近づいてしまう。これまでに無かったデッド本がかくして生まれた。

 ここでは作家とデッドヘッドが文章の主導権を握ろうとして格闘している。文章は右に振れ、左に揺らぎ、天空にかけのぼろうとして、真逆さまに転落し、また這い上がる。その軌跡が一個の文学になろうとするその瞬間、横殴りの一発に吹っ飛ぶ。これを読んでいる、読まされている、読まずにはいられないでいるこちらは、翻弄されながら、自らのグレイトフル・デッドの像を重ね合わせる。嫌でもその像が浮かんできて、二重写しになってしまう。

 1972〜74年のデッドが最高であること。そのこと自体は目くじら立てることではない。ドナの声がデッドとして空前絶後の輝きをデッドの音楽に加えていたという主張にもその通りと諸手を上げよう。

 しかし、とあたしの中のデッドヘッドは髪の毛をふり乱し、拳を机に叩きつける。これは違う。これはグレイトフル・デッドじゃない。

 いや、あたしのグレイトフル・デッドがどんな姿かを開陳するのはここではやめておく。

 グレイトフル・デッドを語る方法として、50本のショウをたどるというのが有効であることは証明された。デッドはスタジオ盤をいくら聞いてもわからない、その片鱗でも摑もうというのなら、まずショウを、一本丸々のショウを何本も、少なくとも50本は聴く必要がある。デッドヘッドにとっては自明のことであるこのことも改めて証明された。

 さて、ではここに選ばれた51本を改めて聴きなおしてやろうではないか。

 そして、あたしのグレイトフル・デッドを提示してやろうではないか。(ゆ)

 毎年恒例、11月一杯かけて未発表のライヴ音源を毎日1トラックずつリリースする《30 Days Of Dead》が今年も無事終りました。今年で13年目。来年はあるか、と毎年思いますが、続いてますね。なお、この30本は来年の《30 Days Of Dead》が始まるまで、つまり1031日までダウンロード、またはウエブ・サイト上でストリーミングで聴くことができます。


 2023 年は

1968-12-07, Knights Hall, Bellarmine College, Louisville, KY

から

1994-10-19, Madison Square Garden, New York, NY

までのショウから選ばれています。

 合計9時間7分8秒は2021年の7時間4408秒を大幅に抜いてダントツの歴代トップ。


 昨年以来、1本のショウから複数曲を選ぶ形が増えました。かつては途切れなしに続くものにほぼ限られていたんですが、間が切れているものも選ぶようになりました。今年はむしろ単一の曲の方が少なくなりました。1回の時間も長く、30分超が4日、20分台が6日あります。



 登場したショウの年別本数。

66 0

67 0

68 1

69 1

70 1

71 1

72 0

73 1

74 0

76 2

77 2

78 1

79 3

80 3

81 2

82 0

83 1

84 1

85 1

86 1

87 1

88 0

89 1

90 0

91 2

92 1

93 1

94 1

95 0



 最短のトラック

22 U.S. Blues = 06:24; 1976-06-29, Auditorium Theatre, Chicago, IL


 最長のトラック

24 They Love Each Other; Cassidy; Tennessee Jed; Let It Grow> Don't Ease Me In = 40:55; 1981-11-30, Hara Arena, Dayton, OH


 従来登場した曲とダブったのは7回。

初日 Comes a Time; 1980-08-26, Cleveland Public Auditorium, Cleveland, OH 2019年にも登場。

03日目 Feel Like A Stranger> Bertha; 1994-10-19, Madison Square Garden, New York, NY はこの組合せで昨年登場し、さらに〈Feel Like A Stranger〉はその前年にも登場して3年連続。

04日目 My Brother Esau; High Time; 1987-09-16, Madison Square Garden, New York, NY のうち〈My Brother Esau〉は2021年、〈High Time〉は2019年に既出。

08日目 Scarlet Begonias> Fire On The Mountain; 1980-08-30, The Spectrum, Philadelphia, PA 2011

14日目 Playing In The Band> China Doll; 1983-08-31, Silva Hall, Hult Center for the Performing Arts, Eugene, OR 2021

の各々《30 Days Of Dead》ですでに出ています。

23日目 Space> The Other One> Black Peter> Throwing Stones> Playing In The Band; 1991-03-25, Knickerbocker Arena, Albany, NY のうち後ろの2曲〈Throwing Stones> Playing In The Band〉は2018年、

24日目 They Love Each Other; Cassidy; Tennessee Jed; Let It Grow> Don't Ease Me In; 1981-11-30, Hara Arena, Dayton, OH も後半の2曲〈Let It Grow> Don't Ease Me In〉が2020

の《30 Days Of Dead》で各々登場しています。



 今回初めて録音が《30 Days Of Dead》でリリースされたショウは以下の13本。

1968-12-07, Knights Hall, Bellarmine College, Louisville, KY

1969-10-26, Winterland Arena, San Francisco, CA

1971-03-20, Iowa Fieldhouse, University of Iowa, Iowa City, IA

1973-10-27, State Fair Coliseum, Indianapolis, IN

1977-03-18, Winterland Arena, San Francisco, CA

1979-05-05, Baltimore Civic Center, Baltimore, MD

1979-05-12, Alumni Stadium, University of Massachusetts, Amherst, MA

1979-12-11, Soldier's And Sailors Memorial Hall, Kansas City, KS

1980-12-13, Long Beach Arena, Long Beach, CA

1981-09-30, Playhouse Theatre, Edinburgh, Scotland

1984-06-23, City Island, Harrisburg, PA

1992-06-11, Knickerbocker Arena, Albany, NY

1993-03-09, Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL


 今回は昨年のような計画的なセレクションは見当りません。1969年と1977年、1977年と80年、1985年と86年、1987年と94年、1991年と92年が同じヴェニューであることくらいです。


 登場した楽曲は延63曲。うち2回以上登場は以下の11曲。

Casey Jones

Dark Star

Dire Wolf

Don't Ease Me In

Feel Like A Stranger

High Time

Let It Grow

My Brother Esau

Playing In The Band

Saint Of Circumstance

Uncle John's Band


 うち

Dark Star

Playing In The Band

 は3回登場。


 重複を除いたレパートリィは50曲。

Bertha

Black Peter

Brown-Eyed Women

Casey Jones

Cassidy

China Cat Sunflower

China Doll

Comes a Time

Crazy Fingers

Dark Star

Deal

Dire Wolf

Don't Ease Me In

Estimated Prophet

Feel Like A Stranger

Fire On The Mountain

Foolish Heart

Goin' Down The Road Feeling Bad> Jam

Here Comes Sunshine

He’s Gone

High Time

I Know You Rider

I Need A Miracle

Let It Grow

Loose Lucy

Lost Sailor

Might As Well

My Brother Esau

Never Trust A Woman

New Minglewood Blues

One More Saturday Night

Peggy-O

Picasso Moon

Playing In The Band

Row Jimmy

Saint Of Circumstance

Samson and Delilah

Scarlet Begonias

Shakedown Street

Ship Of Fools

St. Stephen

Sugar Magnolia

Tennessee Jed

The Eleven

The Other One

They Love Each Other

Throwing Stones

U.S. Blues

Uncle John's Band

Victim Or The Crime



 今年も1本ずつ聴いて書いてみるつもりですが、今年はリリースされたトラックに集中してみます。(ゆ)


 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡る旅も終着点です。17日リリースの 〈Mindbender (Confusion's Prince)〉02:37は 1966-02-06, Northridge Unitarian Church, Los Angeles, CA からのセレクション。この録音は昨年の《30 Days Of Dead》で最も古い日付のものであるだけでなく、知られるかぎり、デッドのショウの録音として最も古いものです。この日のセット・リストとして残っているのは次の通り。

1. Early in the Morning(?)
2. Mindbender 2:37 30 Days 2022
3. See That My Grave Is Kept Clean
4. Beat It On Down The Line
5. The Only Time Is Now (?)

 録音は2013年02月第一週に Dead.net の Jam Of The Week で流されたそうです。

 〈Mindbender (Confusion's Prince)〉はガルシアとレシュの共作とされ、前年11月に録音されたデモが《Birth Of The Dead》に収録されました。記録では1966-01-07に初演。この02-06が2回目、最後は11-29で計4回の演奏。これが全部ではない可能性はありますが、翌年にはすでにレパートリーから落ちていたようでもあります。録音は知られている限りこれが唯一。今後も出てきそうにはありません。

 このショウは Northridge Acid Test と呼ばれます。ヴェニューの教会の Paul Swayer 牧師がデッドを招いたそうです。

 1966年はもちろんデッドが本格的に活動を始めた年。ショウの合計は現在わかっているところで107本。ただし、思いつくとハイト・アシュベリーの家からゴールデン・ゲイト・パークの「パンハンドル」にでかけておこなっていたというフリー・コンサートの大半はこの数には入っていません。ショウのほとんどはカリフォルニア州内、それもサンフランシスコ周辺ですが、7月末から8月初めにかけて初の「海外」公演をヴァンクーヴァーで行っています。また、アシッド・テストのように、コンサート形式ではないものもあります。10月には創業間もない The North Face がサンフランシスコ市内に初めて出したリアル店舗のオープニング・パーティーで「余興」として演奏しています。ノース・フェイス公式サイトの会社の歴史のページに、演奏している髭を剃ったガルシアとウィアの写真があります。

 レパートリィは60曲。ほとんどはカヴァーで、オリジナルは〈Mindbender (Confusion's Prince)〉の他、〈Caution〉と〈Cream Puff War〉。前者はピグペンの作詞、バンドの作曲のクレジット。後者はガルシアの作詞作曲。ピグペンは〈Tastebud〉〈You See A Broken Heart〉も作っていますが、前者は3回、後者は1回演奏されたのみ。オリジナルが花開くには、1968年のロバート・ハンターの参加を待たねばなりません。

 一方、この年にレパートリィに入ったカヴァー曲では〈I Know You Rider〉〈New Minglewood Blues〉〈Cold Rain And Snow〉〈Beat It On Down The Line〉〈Don't Ease Me In〉〈Dancing In The Street〉〈Me And My Uncle〉〈Morning Dew〉が定番として数多く演奏されます。中でも〈Me And My Uncle〉は演奏回数624回で、回数順では第一位です。

 ただ、この年の個々のショウのデータは不明のものが多いです。日付と場所だけはわかっているが、何を演奏したかの記録が無いものが大半です。ショウの録音は例外的で、人びとはまだショウのセット・リストを記録する習慣がありません。レパートリィはですから、これもまた今のところ、わかっているかぎりという条件がつきます。

 この歌はいかにも60年代半ばのヒット狙いの典型に聞こえます。デッドにもこういう曲を作り、演っていた時期があった、というのは時代の趨勢の持つ力の強さの証明でしようか。ここからいかにして脱皮してゆくかが、この時期のデッドを聴く焦点の一つです。

 この録音が面白いのは、当時の習いとして、片方、ここでは左チャンネルにインスト、右にヴォーカルを集めて始まり、コーラスもしていますが、途中からインストと声の片方をセンターにして、ハーモニーが別れて聞こえるようにしているところ。その意図はよくわかりませんが、現場ではこう聞こえていたのか。ステレオとしてはこの方が自然になることはもちろんです。

 なお、センターの声はガルシア、右はレシュに聞こえます。

 昨年の《30 Days Of Dead》を遡る旅も、今年のが始まる前に何とか終えることができて、ほっとしています。むろん、こんなに時間をかけるつもりはなかったので、せいぜいふた月ぐらいでさらっと終わるはずでした。

 長くなったのは、それぞれの曲が含まれるショウの全体の録音を聴きだしたのが大きいです。しかし、実際に全体を聴くと、やはり世界が広がって、格段に面白くなってしまいました。公式で出ておらず、まず出せないと思われるショウにも聴く価値のあるものがあることも改めてわかりました。全体の録音が残っているショウは少なくとも1,000本からありますから、前途遼遠ですが、できる限り聴こうと思っているところです。

 来月11月は《30 Days Of Dead》の月。おそらく今年もやるでしょう。これを道案内に新たな旅に出ることにします。デッドの世界はそういう旅を無数にできるところです。(ゆ)

  昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。今回は05日リリースの 1969-10-25, Winterland Arena, San Francisco, CA から〈Dark Star〉22:11。

 この日のショウは同じヴェニュー3日連続の2日目。ジェファーソン・エアプレイン、サンズ・オヴ・シャンプリンとの三本立。三つのバンドのメンバーの顔を散らしたポスターと3ドル50セントのチケットが残っています。初日はエアプレインがトリ、この日はデッドがトリ、3日目もエアプレインがトリだったようです。なお、ポスターには24、25日しか記載がなく、26日日曜日のギグは急遽追加されたらしい。当時のビル・グレアムの興行ではよくあったそうな。

 デッドの演奏として〈Dark Star > St. Stephen > The Eleven > Turn On Your Lovelight〉の60分強のテープが残っています。テープは2本あり、1本では冒頭に〈High Time〉の断片が入っています。〈Dark Star〉以下の4曲のメドレーはこの年の定番で、ほとんど組曲のように何度も演奏されています。

 1969年は60年代デッド、いわゆる原始デッドが頂点に達した年です。146本のショウは30年間の最高記録。レパートリィは97曲。うち3分の2の63曲が初登場。オリジナルは11曲。

Dupree's Diamond Blues; Robert Hunter+Jerry Garcia, 1969, Aoxomoxoa, 78
Doin' That Rag; Robert Hunter+Jerry Garcia, 1969, Aoxomoxoa, 38
Dire Wolf; Robert Hunter+Jerry Garcia, 1970, Workingman’s Dead, 227
High Time; Robert Hunter+Jerry Garcia, 1970, Workingman’s Dead, 133
Casey Jones; Robert Hunter+Jerry Garcia, 1970, Workingman’s Dead, 318
Easy Wind; Robert Hunter+Robert Hunter+1970, Workingman’s Dead, 45
Uncle John's Band; Robert Hunter+Jerry Garcia, 1970, Workingman’s Dead, 335
Cumberland Blues; Robert Hunter+Jerry Garcia & Phil Lesh, 1970, Workingman’s Dead, 226
Black Peter; Robert Hunter+Jerry Garcia, 1970, Workingman’s Dead, 346
Mason's Children; Robert Hunter+Jerry Garcia, Phil Lesh & Bob Weir, (none), 19
New Speedway Boogie; Robert Hunter+Jerry Garcia, 1970, Workingman’s Dead, 55

 カヴァー曲では以下の三つが定番になります。

Mama Tried; Merle Haggard, 307
El Paso; Marty Robbins, 396
Johnny B. Goode; Chuck Berry, 285

 いずれもウィアの持ち歌。

 この年の出来事としては8月のウッドストックと12月のオルタモントが音楽界としては大きいわけですが、どちらもデッドの世界ではほとんど脚注扱いされています。オルタモントでは会場には一度入ったものの、結局演奏はしませんでした。ウッドストックでは、デッドの常として、フェスティバル形式では実力が発揮できず、不本意な出来で、映画にも録音にも収録をことわりました。先年出たウッドストック全公演の録音ボックスに初めて収められました。

 デッドにとっては6月の《Aoxomoxoa》、そして11月の《Live/Dead》のリリースの方が大きい。とりわけ後者で、LP2枚組にわずか7曲という破格の形と、さらに破格のその音楽は、グレイトフル・デッドの音楽を強烈にアピールし、セールスの上でもベストセラーとなり、バンドにとって最初のブレイクとなりました。なお、ここに選ばれた02月27日から03月02日の4日間のフィルモア・ウェストでのショウの完全版が2005年11月に《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》としてリリースされています。

 〈Dark Star〉は原始デッドのみならず、デッド全体の象徴のような曲であります。この曲を演奏することでデッドはデッドになっていった、バンドとして独自の性格を育てていった、ということもできましょう。ところがこの曲もライヴ盤以外のアルバム収録がありません。スタジオ・ヴァージョンとしてはシングルのみ。また、「大休止」から復帰後の70年代後半から80年代にかけて演奏回数が極端に少なかったため、全体の演奏回数は235回と、代表曲の割に多くありません。

 ここでの演奏が面白いのは、最初の歌の後のジャムで、二つの曲が同寺に演奏されているように聞えるところ。ガルシアは〈Dark Star〉のソロを弾いているつもりのようで、ウィアとレシュが演っているのは別の曲のようです。それも1曲ではなく、どんどんと変わっていきます。最後には後の〈Eyes Of The World〉のリフを連想させるものまで出てきます。結局ガルシアもそちらに乗り、ジャムは〈Dark Star〉から完全に離れます。こういうところがデッドの面白いところ。しばしジャムを続けてからガルシアがふっと曲の初めにやっていたようなソロにもどり、レシュが追いかけて冒頭のモチーフが出ます。そこからテンポを徐々に落としていって最後に2番の歌詞をガルシアが歌ってコーダ。切れ目無しに〈St. Stephen〉。この頃は通称 "William Tell Bridge" と呼ばれるクラシカルなメロディと雰囲気を持つパートもしっかり歌っていますが、この部分はすでに次の〈The Eleven〉の一部でもあるようです。あるいは、この2曲をつなぐブリッジという位置付けか。実際、後の〈St. Stephen〉では後に〈The Eleven〉が続かず、このブリッジは演奏されなくなります。

 〈The Eleven〉はレシュの曲でもあり、いつもベースが一番元気な曲です。ここでもソロをとり、奔放にあばれ回ります。ガルシアはソロをとっても短く、むしろ決まったフレーズにもどって、フロントはレシュに譲っているけしきです。

 やはりベースの主導で切れ目なく〈Turn On Your Lovelight〉。ここにはスティーヴン・スティルスが参加して、いつもより少しひき締まった演奏になっています。とはいえ、これはじっと耳を傾けるよりは踊るための音楽。もっともデッドは基本的にダンス・バンドではあります。

 なお、Internet Archive に上がっている音源のうち、再生回数のぐんと少ない Charlie Miller ミックスの版の方が音は遙かに良いです。(ゆ)

  昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。1970年の2本目、26日リリースの1970-02-28, Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA。

 02月28日のショウからは〈Little Sadie; Black Peter〉12:12 がリリースされました。28日は〈Turn On Your Lovelight〉で始め、〈Me and My Uncle〉〈Cumberland Blues〉までやったところで、楽器をアコースティックに切替え、〈Monkey and The Engineer〉〈Little Sadie; Black Peter〉とやって、〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉からまたエレクトリックにもどります。

 この年は《Workingmans Dead》と《American Beauty》をたて続けに出して、路線転換をやってのけますが、ライヴでは1969年までのピグペン・バンドのレパートリィと1970年以降のガルシア・バンドのレパートリィが混在しています。さらに、スタジオ盤でのアコースティック・サウンドをライヴに持ちこむ試みもしていたわけです。

 なお、このショウの録音として Internet Archive に上がっているものは SBD 1本だけです。セット・リストでは〈Big Boss Man〉の次に〈Casey Jones〉をやりかけ、またアンコールとして〈Uncle John's Band〉が演奏されたとされていますが、ともにテープには入っていません。

 この時期は60年代のいわゆる「原始デッド」、ピグペンをフロントとし、レシュが仕切る形のバンドと、70年代のガルシアとウィアを核とするバンドが混在しますが、このショウは前半と後半がはっきりと二つのバンドに別れます。まるで、別々のバンドが対バンでもしているようです。

 オープナーこそ〈Turn On Your Lovelight〉ですが、ここでもかつてのようにピグペンがそのヴォーカルとおしゃべりで圧倒するというよりもガルシアのソロが目立ちます。ガルシアはこの頃から多様なフレーズをくり出すようになり、ガルシア一流のギター・ソロを展開しはじめます。ロックのリード・ギターというよりもジャズのインプロに近い、けれども徹底して流動性を求める点で完全にジャズと言い切れない演奏です。デッドの音楽はフリーであることからも自由であろうとします。ここではガルシアのスイッチが「オン」になったまま切れなくなってしまったようでもあり、いつまでもギターを弾きつづけ、ついにピグペンが根負けします。

 このガルシアのギターのスイッチは次の〈Me and My Uncle〉でも〈Cumberland Blues〉でも落ちません。

 そしてその後は〈Dire Wolf〉まで《Workingmans Dead》以降のレパートリィと演奏が続きます。そして今回リリースされたアコースティックの演奏まで試みます。このアコースティック3曲は事実上、ガルシアとウィアのデュオでの演奏です。この3曲は10年後のサンフランシスコとニューヨークでのレジデンス公演でのアコースティック・パートでも演奏されます。〈Black Peter〉は歌唱では翌日のエレクトリック・ヴァージョンよりもパワフルですが、全体としてピーターはずっと弱気で、一人で奮闘しています。

 ガルシアがエレクトリックに戻るよと宣言して始まる〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉でも、ガルシアのギターが切れに切れます。〈High Time〉では一転してじっくりと歌を聴かせ、〈Dire Wolf〉ではさらにシリアスから一転しておとぼけに徹する。ここまでガルシアの持ち歌が続きます。

 そして、ここでもう一度一転して今度はピグペンの持ち歌を続け、空気はすっかり原始デッドで終りまで突っ走ります。この転換はあっさりとごくあたりまえに行われるので、一瞬、何が起きたのかわからなくなります。ガルシアのギターもすっかり60年代のスタイルにもどります。

 〈Good Lovin'〉と〈The Other One〉の前にドラムスのソロが各々あります。前者はクロイツマン中心、後者はハート中心に聞えます。

 〈The Other One〉はこの日は前後の〈Cryptical Envelopment〉が省略されます。翌日はまた戻るので、あるいはショウの流れとして〈Alligator〉の後に〈Cryptical Envelopment〉をもってくる気分になれなかっただけかもしれません。いきなりのせいか、この〈The Other One〉はむしろゆっくりとガルシアが独りでぽつんぽつんと始めて、ベースは後から加わります。進むにつれてだんだん熱が入ってきて、スピードも出て、歌の2番に突入。終ったとたんに〈Mason's Children〉。この歌の最後の演奏です。こうして今聴くと、これがレパートリィから落ちるのもむべなるかなと思えてきます。終始コーラスで唄われますが、60年代のコーラスで、CSN&Y の衝撃を消化した70年代のコーラスはやはり一線を画しています。ここでのガルシアのソロはどちらかというと70年代的。切れ目なく〈Turn On Your Lovelight〉ですが、こちらは曲の後半。後に〈Playing In The Band〉がやはり曲のコーダに回帰するフレーズの前で他の曲に移り、時にはショウの第二部全体をはさみこんでから回帰する形になっていきますが、その原型をここでやっていたわけです。

 このショウの後半、ピグペンはおそらくステージ中央に仁王立ちで、場内を支配していたのでしょう。ただ、音として聴くかぎりは衰えは聴きのがせません。あるいはこうしたピグペンのパフォーマーとしての衰えも、バンドの変身を促した要因の一つとも思えてきます。

 こうして見ると、この年のデッドは二つのバンドを同時に抱えていたので、休む間もなくショウを続けていたのも、その二つのせめぎあいに駆りたてられていたのかもしれません。(ゆ)

  昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。今回は1970年ですが、この年は2本のショウから選曲されています。同じヴェニューでの三連荘の2日目と3日目、26日リリースの1970-02-28と30日、最終日リリースの 03-01。場所は Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA。

 02月28日のショウからは〈Little Sadie; Black Peter〉12:12、03月01日のショウからは〈That's It For The Other One> Black Peter〉34:08。

 この金土日の3日間は Commander Cody & His Lost Planet Airmen が前座。料金は3ドル50セント。仰向けに寝ている骸骨に若い女性がまたがった図柄のポスターが残っています。娘の姿は透けているようでもあります。

 まずこのヴェニューが面白い。Family Dog はチェット・ヘルムズが率いたグループで、デッドなどの当時のサンフランシスコ・ロックにのせて踊るイベントを企画していました。当初はアヴァロン・ボールルームをベースにしていましたが、そこの賃貸契約が切れたために、海岸沿いにあった遊園地の中のこの建物を借りて "Family Dog at the Great Highway" と名付けます。建物自体は1880年代に建てられて、かなり老朽化していたようです。1969-06-13にジェファーソン・エアプレインで柿落し。1970年07月に閉じます。デッドはここで12回演奏しています。

 この頃のショウは後の二部構成ではなく、一本勝負で、アンコールが複数で長くなることもありました。28日、01日はどちらも2時間前後のテープが残っています。

 01日は〈New Speedway Boogie〉のテーマでジャムを始め、〈Casey Jones〉でスタートして7曲目の〈That's It For The Other One> Black Peter〉は最初のヤマです。34:08はこの年の《30 Days Of Dead》2番目の長さ。

 〈That's It For The Other One〉は1967-10-22初演で、〈Cryptical Envelopment〉をイントロとし、drums のブレイクが入って〈The Other One〉に展開、再び〈Cryptical Envelopment〉にもどる組曲です。真ん中の〈The Other One〉だけでなく、後ろの〈Cryptical Envelopment〉でもジャムになることがよくあります。ここでの演奏もその形。演奏回数を重ねるにつれて、イントロの〈Cryptical Envelopment〉が省略されるようになり、さらに後ろも消えて、1971-04-28から〈The Other One〉のみ独立します。

 なお03-01はアンコールの1曲目〈Uncle John's Band〉が2014年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 1970年のショウの数は計142本。前年1969年に次ぐ2番目。正月2日にニューヨークのフィルモアで始動してから大晦日のウィンターランドまで、ほとんど休みらしい休みもなく、働いています。レパートリィは119曲。初登場の曲は28、うちオリジナルは12。

Dark Hollow;Trad. / Bill Browning, (none), 34
Friend Of The Devil; Robert Hunter, Jerry Garcia & John Dawson, 1970b, American Beauty, 311
Candyman; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1970b, American Beauty, 281
It's A Man's, Man's, Man's World; James Brown & Betty Newsome, (none), 11
Roberta; Trad. / Leadbelly, (none), 2
Flood; unknown, (none), 1
Walk Down The Street; unknown, (none), 1
She's Mine; Lightnin' Hopkins, (none), 3
Cold Jordan; Trad., (none), 13
The Frozen Logger; James Stevens & Ivar Haglund, (none), 8
Attics Of My Life; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1970b, American Beauty, 53
Nobody's Fault But Mine; , Trad., (none), 35
A Voice From On High; Bill Monroe & Bessie Lee Mauldin, (none), 4
Sugar Magnolia; Robert Hunter & Bob Weir, 1970b, American Beauty, 601
Big Railroad Blues; Noah Lewis, (1971, Grateful Dead=Skull & Roses), 175
Rosalie McFall; Charlie Monroe, (none), 18
To Lay Me Down; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1972, Garcia (JG), 64
Truckin'; Robert Hunter, Jerry Garcia, Phil Lesh & Bob Weir, 1970b, American Beauty, 527
Brokedown Palace; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1970b, American Beauty, 220
Ripple; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1970b, American Beauty, 41
Operator; Ron McKernan, 1970b, American Beauty, 4
Box Of Rain; Robert Hunter & Phil Lesh, 1970b, American Beauty, 160
Till The Morning Comes; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1970b, American Beauty, 6
Goin’ Down The Road Feeling Bad; Trad., (none), 298
Me And Bobby McGee; Kris Kristofferson & Fred Foster, (none), 118
Around And Around; Chuck Berry, (none), 420
La Bamba; Trad., (none), 5
Bertha; Robert Hunter & Jerry Garcia, (1971, Grateful Dead=Skull & Roses), 403
Bird Song; Robert Hunter & Jerry Garcia, Garcia (1972), 300

 オリジナルのほとんどはハンター&ガルシアの曲ですが、ハンターとレシュ、ウィア、そしてハンターの詞にガルシア、レシュ、ウィアが曲のクレジットに名を連ねたものが1曲ずつあります。ハンター&レシュの〈Box of Rain〉はハンターの詩集のタイトルにも採用されました。レシュの持ち歌として、一時レパートリィから落ちますが、後復活し、最後まで演奏されます。ハンター&ウィアの〈Sugar Magnolia〉は定番中の定番として、演奏回数は600回超。ハンターと3人の作になる〈Truckin'〉も500回を超える演奏回数です。

 1970年は以後のバンドの方向性を決める重要なできごとがいくつも起きた年です。1960年代を大いなる助走として、ここから本格的な活動に入ったと見ることもできましょう。

 まずは人事面。オルタモントの悲劇の後、その責任を負わされる形でローリング・ストーンズのロード・マネージャーをクビになった Sam Cutler をデッドはロード・マネージャーとして雇います。カトラーは優秀で、ショウからの収入をしっかり確保して、財政を大いにうるおします。1972年のヨーロッパ・ツアー実現にはイングランド人であるカトラーの尽力が大きい。最初のロンドン公演の録音冒頭でバンドを紹介するカトラーの声は疲れきっています。

 もう一つのできごとは弁護士のハル・カントと契約したこと。カントも優秀な弁護士で、また音楽面でのクライアントをデッドだけに限りました。デッドはカントに窮地を何度も救われることになります。

 また、この年、デッドの楽曲の著作権管理のため Ice Nine Publishing を設立します。

 プラスもあればマイナスもあります。03月、マネージャーだったレニー・ハートが巨額の使いこみをした挙句、大金をもって逐電します。このことでレニーの息子のミッキーは当然ながらたいへんなショックを受け、落ちこみ、翌年02月18日にバンドを離れる羽目に追いこまれました。

 バンド・メンバーにはまだ変化があります。01月30日のニューオーリンズでのショウを最後にトム・コンスタンティンがバンドを離れました。コンスタンティン自身はミュージシャンとして優れていたようですが、デッドの音楽にはついに完全に溶けこむことができませんでした。もっとも、DeadBase にかれが寄稿した記事は、当時のバンドの様子、とりわけツアー中の舞台裏やホテルでの生態を活き活きと伝えています。

 4月に《Workingmans Dead》を録音して、5月にリリース。8〜9月に《American Beauty》を録音して11月にリリースします。

 5月には初めて海を渡り、イングランドでショウをおこないます。後のヨーロッパ・ツアーへの布石の一つになりました。

 とはいえ、音楽面でこの年最も重要で、後々のバンドに長く影響を与えたできごとは、6月末から7月初めに参加した Trans Continental Pop Festival、通称 Festival Express です。これについてはドキュメンタリーの DVD も出ており、様々なところでとりあげられています。デッドに関して言えば、ひとつにはジャムに対する考え方を広げたと思われます。もう一つは〈Goin' Down the Road Feeling Bad〉をデラニー・ボニーから習ったこと。この曲は以後定番として最後まで300回近く演奏されました。

 しかし、この列車の仲間でもあったジャニス・ジョプリンは10月04日に世を去ります。その晩デッドはジェファーソン・エアプレインとの対バンをウィンターランドでしていました。ハンター&ガルシアはジャニスを悼み、〈Bird Song〉を作りました。〈Bertha〉と共に、12月15日にデヴィッド・クロスビー、ガルシア、レシュ、ハートのメンバーで The Matrix で行ったショウでデビューします。

 03月01日のショウのテープでは、まず〈New Speedway Boogie〉のテーマで遊んでいるバンドが捉えられています。Internet Archive にある SBD でも、これと正式なオープナーの〈Casey Jones〉は AUD で、客席でもステージを見ながら皆笑っています。3曲目の〈Big Boy Pete〉のイントロの途中で SBD に切り替わります。

 この〈Casey Jones〉はこういう位置で演奏されるのにふさわしく、まだテンポが段々速くなりません。リピートの部分でも終始同じテンポで、繰返しの回数も多くありません。とはいえ、力の籠もった演奏です。デビューしたての頃のある曲の演奏は後の形に比べると通常よりシンプルですが、だからといってつまらないわけではなく、その時期なりの聴きごたえがあります。そのことは〈Playing In The Band〉のように極端に形が変わる曲でもあてはまります。この曲は当初、5分ほどで終り、ガルシアのソロもほとんどありませんが、それでもその形でやはり聴いて面白いのです。

 ドン&デューイがオリジナルの〈Big Boy Pete〉はリード・ヴォーカルはピグペンですが、むしろコーラスの方が目立つ曲。ここを始め、後の〈I Know You Rider〉や〈Uncle John's Band〉でも、コーラスのハーモニーが決まっています。

 続く〈Morning Dew〉も初期形で、ガルシアはあまりソロを弾かず、むしろヴォーカルで聴かせます。デッドをやる以前のフォーク・シンガーの谺が聞えます。ガルシアがかなりシリアスに唄うのを受けてピグペンが一転、とぼけた味を効かせるのが〈Hard to Handle〉。ピグペンもむしろこういうとぼけた、真面目なのか、不真面目なのか、よくわからない、あるいは両方半々ずつ入っているような歌唱が身上でしょう。続いてウィアが〈Me And My Uncle〉をていねいに歌います。とりわけテンポがゆっくりなわけではありませんが、歌に余裕があります。ガルシアも良いソロを聴かせていい調子ですが、コーダでいきなりテープがちょん切れます。

 そして今回の〈That's It for the Other One〉。これもどちらかというとゆったりした入り。とはいえ、イントロとして〈Cryptical Envelopment〉に続いてドラムス二人の演奏のうちにじわじわと緊張感が高まってきて、駆けあがるベースとともに〈The Other One〉が爆発すると、これは原始デッド真只中。全力疾走するガルシアのギターにレシュのベースが執拗にからみつき、螺旋を描く二人に他のメンバーも負けじと追いすがる。やがて、ガルシアとレシュの美しいデュエットに収斂したと思うと、再び走りだす。ひとしきり走ってメインのモチーフが出て、ウィアが2番を歌い、おさめたところでガルシアが〈Cryptical Envelopment〉を歌いだして、そのままジャム。ここはほとんどフォービートに聞えるところもあり、ガルシアのギターもジャズに踏みこんでます。後に〈The Other One〉だけ独立すると、この部分が落ちてしまうのは惜しい。ジャムがゆっくりと終るのと間髪を入れずに〈Black Peter〉。

 これもいいヴァージョンですねえ。ガルシアのヴォーカルは粘りに粘り、このピーターはとても死にそうにありません。

 〈Beat It On Down The Line〉の冒頭は12発。初めの頃は2、3回のあっさりしたものでしたが、かなり増えてきました。ウィアの歌い方はいい具合にルーズですが、こういう力の抜け方がOKなのもデッドならではと言えそうです。〈Dire Wolf〉もとぼけた歌のとぼけた演奏で、歌詞だけ見ると、「殺さないでくれよ」と懇願していますが、実際の演奏にはそんな深刻さはありません。もっともそのそらとぼけたところに、生々しい恐怖感が隠されてもいるようです。

 〈Good Lovin'〉が始まった途端、時代は60年代、原始デッドの瑞々しさと禍々しさが同居した世界に突入します。ギターとベースのユニゾンがその呼び水。それが〈Cumberland Blues〉でまたフォーク調にもどり、〈I'm a King Bee〉でさらに再びピグペンの支配するブルーズの世界に返る、というこの大きな振幅こそはこの時期の醍醐味です。そして締め括りは〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉。ガルシアは歌もギターも尻上がりに良くなっています。

 アンコール1曲目、UJB はこの歌の最も遅いヴァージョン。あるいはいろいろなテンポで演奏してみて、最適なものを探していたのかもしれません。ここでは前半はドラムレスでギロを使い、ギターもアコースティックな響きで終始します。ハーモニー・コーラスも決まっています。その背後には CSN&Y の大成功があるわけですが、かれらほど声の質が合ってはいなかったデッドでも、ライヴでしっかり決めていたことがわかります。"Take Children home" のあとのリフからインストルメンタルになり、ドラムスとベースも加わり、ガルシアもギターを展開。このセミ・アコースティックからエレクトリックへの移行は試行錯誤の一環かもしれませんが、カッコいい。これも名演ですが、このメロディでダメな演奏ができるのかとも思ってしまいます。最近もジョン・スコフィールドがギター、ベース、ドラムスのトリオでカヴァーしてます。おまけにこの2枚組新作CDのタイトルにこの曲を選んでました。

  アンコールの後ろの2曲は SBD がなく、AUD になります。〈Dancing In The Street〉では途中テープがよれていますし、最後の〈It's All Over Now, Baby Blue〉は末尾で録音がちょん切れます。それでも前者でのガルシアのギターは出色で、この歌のソロとしてはベストの一つ。音質は落ちますが、聴く価値はあります。後者でもガルシアのヴォーカルが聞き物で、この時期、うたい手としてはガルシアに一日の長があります。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。今回は10日リリースの 1971-04-14, Davis Gym, Bucknell University, Lewisburg, PA から第二部オープナー〈Bird Song〉。

 このショウからは第一部9、10曲目の〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 1971年のショウは計82本。レパートリィは90曲。新曲は18曲。以下、タイトル、作詞・作曲, 収録アルバム、演奏回数。

Wharf Rat; Robert Hunter & Jerry Garcia, (1971, Grateful Dead), 398
Loser; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1972, Garcia (JG), 352
Greatest Story Ever Told; Robert Hunter & Bob Weir, 1972, Ace (BW), 281
Deal; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1972, Garcia (JG), 427
Bird Song; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1972, Garcia, 300
Sing Me Back Home; Merle Haggard, (none), 41
Oh Boy; Sonny West, Bill Tilghman & Norman Petty, (none), 6
I Second That Emotion; William Robinson / Al Cleveland, (none), 8
The Promised Land, Chuck Berry, (none), 434
Sugaree; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1972, Garcia (JG), 362
Mr. Charlie; Robert Hunter & Ron McKernan, (none), 50
Empty Pages; Ron McKernan, 2
Jack Straw; Robert Hunter & Bob Weir, (1972, Europe ’72), 478
Mexicali Blues; John Perry Barlow & Bob Weir, 1972, Ace (BW), 443
Tennessee Jed; Robert Hunter & Jerry Garcia, (1972, Europe ’72), 437
Brown-Eyed Women; Robert Hunter & Jerry Garcia, (1972, Europe ’72), 345
One More Saturday Night; Bob Weir, 1972, Ace (BW), 341
Ramble On Rose; Robert Hunter & Jerry Garcia, (1972, Europe ’72), 319
Comes A Time; Robert Hunter & Jerry Garcia, 1976, Reflections (JG), 66
You Win Again; Hank Williams, (none), 25
Run Rudolph Run; Marvin Brodie & Johnny Marks, 7
Big River, Johnny Cash, (none), 399
The Same Thing; Willie Dixon, (none), 40
Chinatown Shuffle; Ron McKernan, (none), 28

 行末の演奏回数で、その曲の定番度がわかります。

 〈One More Saturday Night〉はもともとはロバート・ハンターの作詞でしたが、ウィアが歌う際に歌詞を勝手に変えたことにハンターが怒り、自分はこの歌とは一切無関係としたため、クレジットはウィア単独になっています。また、このことをきっかけにハンターはウィアとの共作も拒否し、替わりにその場にいたジョン・ペリィ・バーロゥをウィアの作詞家に指名しました。この年2月のことです。バーロゥは普通の高校からはじき出された生徒を受け入れるコロラドの高校でウィアと同窓で、デッド・ファミリーの一員として楽屋などにも出入りしていました。このペアの最初の作品が〈Mexicali Blues〉です。かくて、ハンター&ガルシアに加えて、もう一組、曲作りのペアが生まれて、デッドを貫く「双極の原理」がここにも見られます。

 〈Wharf Rat〉〈Jack Straw〉〈Tennessee Jed〉〈Brown-Eyed Women〉〈Ramble On Rose〉(加えて前年末デビューの〈Bertha〉)はどれも演奏回数400回300回を超える定番中の定番曲ですが、ご覧の通り、スタジオ録音が存在しません。初出のアルバムはいずれもライヴ盤です。スタジオ版が無いことを作詞者のハンターは気にしていたそうですが、今から振返ると、これまたいかにもデッドらしい現象に見えます。つまり、たとえある曲にスタジオ録音が存在するにしても、それらが「正式版」というわけでもないことを示唆します。

 スタジオ盤はレストランに置いてある料理見本の蝋細工、というと言過ぎでしょうか。蝋細工は食べられませんが、スタジオ盤はとにかく聴けますし、その音楽の質は悪いものではない。けれどもライヴでの演奏に比べてしまうと、たとえそれがあまり良いとはいえないライヴ演奏であっても、蝋細工を食べているような味気ないものに聴こえます。スタジオ録音は整いすぎている、あるいはきつちり整っていることはデッドらしくないと聴こえます。

 デッドのライヴ音源を聴きつづけていると、妙なことが起こります。歌詞を忘れ、あるいは歌に入りそこない、チューニングが狂い、ミスが連続しても、そうしたマイナス要素も全部ひっくるめて、デッドのライヴを味わうようになります。他のバンドやジャンルだったらぶち壊しになるようなマイナス要素がデッドのライヴではむしろ魅力になる。痘痕もえくぼ、というと、惚れた相手の欠点も輝くことですが、どうもそれとも違います。マイナス要素がプラス要素に転換するわけではない。マイナスがマイナスのまま、魅力になる。

 ヘタウマでもない。これまたよくある誤解ですが、デッドは決してヘタではありません。むしろ、抜群に上手いことは、早い時期からアメリカでも認められています。また、ヘタでは他にどんな魅力があろうと、アメリカのショウ・ビジネスで成功することはできません。デッドは名手揃いですし、アンサンブルとしても最も熟練したレベルです。そういうレベルではミスや失敗は音楽の価値を下げるはずが、デッドではそうなりません。むしろ、ミスのない、完璧な演奏が居心地の悪いものになります。ミスがあるのが当然、いや、必須になるのです。スタジオ録音がつまらないのは、ミスがないからです。これもまたデッドの面白さです。

 デッドがヘタという「伝説」はこのことが原因ではないかと思われます。デッドはミスを恐れません。それよりもそれまでやったことのないことをやろうとします。それで間違うとヘタに聞こえてしまう。それがまたデッドが「不真面目」という評価につながるわけです。しかし、かれらがヘタでも不真面目でもないことは、ライヴ音源に少し身を入れて耳を傾ければ、すぐに納得されます。

 1971年にはまず02月にミッキー・ハートがバンドを離れます。前年にバンドのマネージャーをしていた父親のレニーが横領の上、失踪したことが原因でした。復帰するのは1974年10月20日、ライヴ活動停止前最後のショウの第二部でした。9月に《Skull & Roses》をリリース。10月にキース・ガチョーが加わります。また、The Greatful Dead, Inc. を設立しました。

 《Skull & Roses》ジャケットに掲げられたデッドヘッド、ここでは "Dead Freaks" への呼びかけによって、カリフォルニア州サン・ラファルのオフィスに世界中から手紙がなだれこみます。日本からも送られました。ここから熱心なファンの集団が出来、かれらはデットヘッドと呼ばれるようになります。

 このショウのヴェニューは大学の施設です。この頃からデッドは大学でのショウを積極的に行います。デッドがショウを行った大学施設は総計約120ヶ所。会場となった大学に籍をおく学生には割安のチケットが用意されました。ここでライヴに接した学生たちが後にデッドヘッドの中核を形成していきます。年齢的には、デッドのメンバーと同じか、すぐ下の世代です。会場となった大学は、カリフォルニア大学の各キャンパスやスタンフォード、MIT、ラトガース、プリンストン、コロンビア、ジョージタウン、イェール、有名なバートン・ホール公演のコーネルのように名門とされるものが少なくありません。したがってデッドヘッドにはアメリカ社会の上層部が多数含まれることになりました。スティーヴ・ジョブズ、ビル・ゲイツなどデジタル産業の立役者たちは最も有名ですが、その他の実業家、政治家、弁護士、医師、学者、芸術家、軍人、官吏等々、あらゆる分野にいます。ずっと後ですが、デッドのショウの舞台裏にいた上院外交小委員会委員長のもとへ、ホワイトハウスから電話がかかってきたこともあります。

 デッドヘッドは決して髪を伸ばし、タイダイのTシャツを着て、マリファナをふかすヒッピーばかりではありません。あるいはデッドのショウに来る時はそれにふさわしい恰好をするにしても、普段は他の人たちと変わらない外見をもつ人びとも含まれるようになります。また数の上でも一握りの限られた集団というわけでもありません。むしろ、アメリカの現在の社会を作っている要素のなかでも大きな比重を占めていると見るべきでしょう。

 一方で、デッドヘッドには、アメリカ社会の主流からはじき出された人びと、ミスフィットもまた多く含まれます。デッドのメンバーやその周囲に集まった人びと自身がミスフィットだったからです。デッド世界はミスフィットたちの避難場所、シェルターとしても作用しました。幼児期に性的虐待を受け、施設を転々とした揚句、デッドの行く先々についてまわるツアー・ヘッドのファミリーに出逢って救われ、充実した人生を送っている人もいます。

 このショウからも多くのデッドヘッドを生んだことと思われます。ハートが抜けて、シングル・ドラムになって2ヶ月ですが、クロイツマンはその穴を感じさせません。

 〈Bird Song〉は前年末にデビューしてこれが7回目の演奏。後のように充分に展開しきったとは言えませんが、ガルシアのヴォーカルにはまだジャニスを失った実感がこめられています。

 この後はまだクローザーになる前の〈Sugar Magnolia〉、そして組曲版の〈That's It for the Other One〉、〈Wharf Rat〉。〈Wharf Rat〉はだめなヴァージョンをまだ聴いたことがありませんが、これはまた出色。そしてピグペンの〈Hard to Handle〉。ピグペンは鍵盤のはずですが、ここではほとんど聞えません。とはいえ、歌はまだまだ大したものです。ここでのウィアとガルシアのギター合戦も聞き物。ガルシアはこういう曲ではロック・ギターを弾いています。締めは〈Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad> Not Fade Away〉。このセットは定番としてよく演奏されます。〈Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad〉でのガルシアのソロは快調に飛ばします。音域はごく狭いのに面白いフレーズがあふれてくるのはガルシアの真骨頂。〈Not Fade Away〉ではピグペンもはじめはタンバリン、後ではヴォーカルで参加し、ウィアと掛合います。間髪を入れずに〈Johnny B. Goode〉で幕。アンコール無し。

 この後は17日にプリンストン、18日にニューヨーク州立大でのショウです。春のツアーは月末のフィルモア・イーストでの5連荘まで続きます。(ゆ)

 40年ぶりということになろうか。1970年代後半、あたしらは渋谷のロック喫茶『ブラックホーク』を拠点に、「ブリティッシュ・トラッド愛好会」なるものをやっていた。月に一度、店に集まり、定例会を開く。ミニコミ誌を出す。一度、都内近郊の演奏者を集めてコンサートをしたこともある。

 「ブリティッシュ・トラッド」というのは、ブリテンやアイルランドやブルターニュの伝統音楽やそれをベースにしたロックやポップスなどの音楽の当時の総称である。アイルランドはまだ今のような大きな存在感を備えてはおらず、あたしらの目からはブリテンの陰にあってその一部に見えていた。だからブリティッシュである。トラッドは、こうした音楽のレコードでは伝統曲のクレジットとして "Trad. arr." と書かれていることが多かったからである。フランスにおけるモダンな伝統音楽の優れた担い手である Gabriel Yacoub には《Trad. Arr.》と題した見事なソロ・アルバムがある。

 この愛好会についてはいずれまたどこかで書く機会もあろう。とまれ、そのメンバーの圧倒的多数はリスナーであって、プレーヤーは例外的だった。そもそもその頃、そうした音楽を演奏する人間そのものが稀だった。当時明瞭な活動をしていたのは北海道のハード・トゥ・ファインド、関西のシ・フォークぐらいで、関東にはいたとしても散発的だった。バスコと呼ばれることになる高木光介さんはその中で稀少な上にも稀少なフィドラーだった。ただ、かれの演奏している音楽が特異だった。少なくともあたしの耳には特異と聞えた。

 その頃のあたしはアイルランドやスコットランドやウェールズやイングランドや、あるいはブルターニュ、ハンガリーなどの伝統音楽の存在を知り、それを探求することに夢中になっていた。ここであたしにとって重要だったのはこれらがヨーロッパの音楽であることだった。わが国の「洋楽」は一にも二にもアメリカのものだったし、あたしもそれまで CSN&Y で洗礼を受けてからしばらくは、アメリカのものを追いかけていた。「ブラックホーク」で聴ける音楽も圧倒的にアメリカのものだった。そういう中で、アメリカ産ではない、ヨーロッパの音楽であることは自分たちを差別化するための指標だった。

 もちろんジャズやクラシックやロックやポップス以外にも、アメリカには多種多様な音楽があって、元気にやっているなんてことはまるで知らなかった。とにかく、アメリカではない、ヨーロッパの伝統音楽でなければならなかった。だから、アメリカの伝統音楽なんて言われてもちんぷんかんぷんである。オールドタイム? なに、それ? へー、アパラチアの音楽でっか、ふうん。

 高木さんの演奏する音楽がオールドタイムであるとは聞いても、またその演奏を聴いても、どこが良いのか、何が魅力なのか、もう全然まったく理解の外だった。ただ、なにはともあれ愛好会の定例会で生演奏を聞かせてくれる貴重な存在、ということに限られていた。不遜な言い方をすれば、「ブリティッシュ・トラッド」ではないけれど、生演奏をしてくれるから、まあいいか、という感じである。

 こういう偏見はあたし一人のものではなかった。当時は若かった。若者は視野が狭い。また誰も知らないがおそろしく魅力的な対象を発見した者に特有の「原理主義」にかぶれてもいた。たとえば上記のコンサートには「オータム・リヴァー・バレー・ストリング・バンド(つまり「秋川渓谷」)」と名乗るオールドタイムのバンドも参加していたのだが、その演奏を聞いた仲間の一人は、こんなのだめだよ、トラッドじゃないよ、と言いだしたものだ。

 振り返ってみると、オールドタイムをやっている人たちも居場所を求めていたのだろう。当時、アメリカの伝統音楽といえばブルーグラスとカントリーだった。この人たちも結構原理主義者で、オールドタイムは別物としてお引取願うという態度だったらしい。実際、ある程度聴いてみれば、オールドタイムがブルーグラスでもカントリーでもないことは明瞭ではある。音楽も違うし、音楽が演奏される場も異なる。ブルーグラスもカントリーもあくまでも商業音楽であり、オールドタイムは共同体の音楽だ。共同体の音楽という点ではまだ「ブリティッシュ・トラッド」の方に近い。もちろん「ブリティッシュ・トラッド」も商業音楽としてわが国に入ってきていたけれども、共同体の音楽という出自を忘れてはいないところは、そもそもの初めから商業音楽として出発したブルーグラスやカントリーとは別のところに立っていた。

 さらに加えて、高木さんの演奏は、その頃からもう一級だった、という記憶がある。オールドタイムという音楽そのものはわからなくても、演奏の技量が良いかどうかは生を聴けばわかるものだ。少なくともそうでなければ、よくわからない音楽の演奏を愉しむことはできない。

 当時の高木さんはどこか栗鼠を思わせる細面で、小柄だけどすらりとしたしなやかな体、伸ばした髪をポニーテールにしていた。このスタイルもおしゃれなどにはまったく無縁のあたしにはまぶしかった。

 と思っていたら、いきなり高木さんの姿が消えたのである。定例会に来なくなった。あるいはあたしが長期の海外出張で定例会を休んでいた間だったかもしれない。オールドタイムを学ぶために、アメリカへ行ってしまったのだった。そう聞いて、なるほどなあ、とも思った。念のために強調しておくが、その頃、1970年代、80年代に、留学や駐在などではなく、音楽を学びに海外に行くなどというのはとんでもないことだった。しかも高木さんのやっているオールドタイムには、バークリーのような学校があるわけでもない。各地の古老を一人ひとり訪ねあるいて教えを乞うしかないのだ。それがいかにたいへんなことかは想像がついた。同時にそこまで入れこんでいたのか、とあらためてうらやましくもなった。ちなみに、アイルランドやスコットランドやイングランドの伝統音楽を学びに現地に行った人は、あたしの知るかぎり、当時は誰もいない。例外として東京パイプ・ソサエティの山根氏がハイランド・パイプを学びに行っていたかもしれない。

 それっきり、オールドタイムのことは忘れていた。はっきりとその存在を認識し、意識して音源を聴きあさるようになったのは、はて、いつのことだろう。やはり Mozaik の出現だったろうか。その少し前から、ロビンさんこと奥和宏さんの影響でアメリカの伝統音楽にも手を出していたような気もするが、決定的だったのはやはり2004年のモザイクのファースト《Live From The Powerhouse》だっただろう。ここに Bruce Molsky が参加し、当然レパートリィにもオールドタイムの曲が入っていたことで、俄然オールドタイムが気になりだした、というのが実態ではなかったか。

Live From the Powerhouse
Mozaik
Compass Records
2004-04-06



 そこでまずブルース・モルスキィを聴きだし、ダーク・パウエルを知り、そして少したってデビューしたてのカロライナ・チョコレート・ドロップスに出くわす。この頃、今世紀の初めには古いフィドル・ミュージックのヴィンテージ録音が陸続と復刻されはじめてもいて、そちらにも手を出した。SPやLP初期のフィールド録音やスタジオ録音、ラジオの録音の復刻はCD革命の最大の恩恵の一つだ。今では蝋管ですら聴ける。オールドタイムそのものも盛り上がってきていて、この点でもブルース・モルスキィの功績は大きい。後の、たとえば《Transatlantic Sessions》の一エピソード、モルスキィのフィドルとマイケル・マクゴゥドリックのパイプ、それにドーナル・ラニィのブズーキのトリオでオールドタイムをやっているのは歴史に残る。



 かくてオールドタイムは、アイリッシュ・ミュージックほどではないにしても、ごく普通に聴くものの範囲に入ってきた。その何たるかも多少は知りえたし、魅力のほどもわかるようになった。そういえば『歌追い人 Songcatcher』という映画もあった。この映画の日本公開は2003年だそうで、見たときに一応の基礎知識はすでにもっていた覚えがあるから、あたしがオールドタイムを聴きだしたのは、やはりモザイク出現より多少早かったはずだ。


Songcatcher
Hazel Dickens, David Patrick Kelly & Bobby McMillen
Vanguard Records
2001-05-08


 一方、わが国でも、アイリッシュだけでなく、オールドタイムもやりますという若い人も現れてきた。今回高木さんを東京に呼んでくれた原田さんもその一人で、かれのオールドタイムのライヴを大いに愉しんだこともある。いや、ほんと、よくぞ呼んでくれました。

 高木さんはアメリカに行ったきりどうなったか知る由もなかったし、帰ってきてからも、関西の出身地にもどったらしいとは耳にした。「愛好会」そのものも「ブラックホーク」から体良く追い出されて実質的に潰れた。あたしらは各々の道を行くことになった。それが40年を経て、こうして元気な演奏を生で聴けるのは、おたがい生きのびてきたこそでもある。高木さんは知らないが、あたしは死にぞこなったので、嬉しさ、これに過ぎるものはない。

 まずは高木さんすなわち Bosco 氏を呼んだ原田豊光さんがフィドル、Dan Torigoe さんのバンジョーの組合せで前座を努める。このバンジョーがまず面白い。クロウハンマー・スタイルで、伴奏ではない。フィドルとのユニゾンでもない。カウンター・メロディ、だろうか。少しずれる。そのズレが心のツボを押してくる。トリゴエさんは演奏する原田さんを見つめて演奏している。まるでマーティン・ヘイズを見つめるデニス・カヒルの視線である。曲はあたしでも知っている有名なもので始め、だんだんコアなレパートリィに行く感じだ。

 フィドルのチューニングを二度ほど変える。これはオールドタイム特有のものらしい。アパラチアの現場で、ソース・フィドラーたちが同様に演奏する曲によってチューニングを変えているとはちょっと思えない。こういうギグで様々な曲を演奏するために生じるものだろうが、それにしても、フィドルのチューニングを曲によって変えるのは、他では見たことがない。それもちょっとやそっとではないらしく、結構な時間がかかる。それでいて、「チューニングが変わった」感じがしないのも不思議だ。あたしの耳が鈍感なのかもしれないが、曲にふさわしいチューニングをすることで、全体としての印象が同じになるということなのか。チューニング変更に時間がかかるのは、原田さんが五弦フィドルを使っていることもあるのかもしれない。

 二人の演奏はぴりりとひき締まった立派なもので、1曲ごとに聴きごたえがある。最後は〈Bonapart's Retreat〉で、アイルランドの伝統にもある曲。同じタイトルに二つのヴァージョンがあり、それを両方やる。バンジョー・ソロから入るのも粋だ。これがアイリッシュの味も残していて、あたしとしてはハイライト。この辺はアイリッシュもやる原田さんの持ち味だろうか。

 この店のマスターのお父上がフィドラーで、バスコさんの相手を務めるバンジョーの加瀬氏と「パンプキン・ストリング・バンド」を組んで半世紀ということで、2曲ほど演奏される。二人でやるのはしばらくぶりということで、ちょっとぎごちないところもあるが、いかにも愉しくてたまらないという風情は音楽の原点だ。

 真打ちバスコさんはいきなりアカペラで英語の詩ともうたともつかないものをやりだす。このあたりはさすがに現場を踏んでいる。

 そうしておもむろにフィドルをとりあげて弾きだす。とても軽い。音が浮遊する。これに比べればアイリッシュのフィドルの響きは地を穿つ。あるいはそう、濡れて重みがあるというべきか。バスコさんのフィドルは乾いている。

 今でもわが国でアイリッシュ・ミュージックなどでフィドルを弾いている人は、クラシックから入っている。手ほどきはクラシックで受けている。まったくのゼロからアイリッシュ・ミュージックでフィドルを習ったという人はまだ現れていない。高木さんはその点、例外中の例外の存在でもある。見ているとフィドルの先端を喉につけない。鎖骨の縁、喉の真下の窪みの本人から見て少し左側につけている。

 加瀬さんがバンジョーを弾きながら2曲ほど唄う。これも枯れた感じなのは、加瀬さんのお年というよりも音楽のキャラクターであるとも思える。もっともあたしだけの個人的イメージかもしれない。

 バスコ&加瀬浩正のデュオは2001年に Merl Fes に招かれたそうで、大したものだ。そこでもやったという7曲目、バスコさんが唄う〈ジョージ・バック?(曲名聞きとれず)〉がハイライト。オールドタイムはからっとして陽はよく照っているのだが、影が濃い。もっとも、この日最大のハイライトはアンコールの1曲目、バスコ&加瀬デュオに原田、ダニーが加わったカルテットでの〈Jeff Sturgeon〉(だと思う)。オールドタイムでは楽器が重なるこういう形はあまりないんじゃないか。このカルテットでもっと聴きたい。

 それにしても、あっという間で、ああ、いいなあ、いいなあと思っていたら、もう終っていた。良いギグはいつもそうだが、今回はまたひどく短かい。時計を見れば、そんなに短かいわけではないのはもちろんだ。

 原田さんの相手のダン・トリゴエさんは、あの Dolceola Recordings の主催者であった。UK Folk Radio のインタヴューで知った口だが、ご本人にこういうところで会うとは思いもうけぬ拾いもの。このギグも、御自慢の Ampex のプロ用オープン・リール・デッキで録音していた。動いているオープン・リール・デッキを目にするのはこれまた半世紀ぶりだろうか。中学から高校にかけて、あたしが使っていたのは、Ampex とは比較にもならないビクターの一番安いやつだったけれど、FM のエアチェックに大活躍してくれた。オープン・リールのテープが回っている姿というのは、LPが回っているのとはまた違った、吸い込まれるようなところがある。CDの回るのが速すぎて、風情もなにもあったものでない。カセットでは回っている姿は隠れてしまう。

 帰ろうとしたときに加瀬さんから、自分たちもブラックホークの「ブリティッシュ・トラッド愛好会」に出たことがあるんですけど覚えてませんか、と訊ねられたのだが、申し訳ないことにもうまったく記憶がない。だいたい、愛好会でやっていたこと、例会の様子などは、具体的なことはほとんどまったく、不思議なほどすっぽりと忘れている。ほんとうにあそこで何をやっていたのだろう。

 このバスコさんを招いてのギグは定例にしたいと原田さんは言う。それはもう大歓迎で、ぜひぜひとお願いした。オールドタイムにはまだまだよくわからないところもあって、そこがまた魅力だ。(ゆ)

Bosco
Bosco
Old Time Tiki Parlou
2023-04-07



バスコ・タカギ: fiddle, vocals
加瀬浩正: banjo, vocals
原田豊光: fiddle
Dan Torigoe: banjo

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。今回は07日リリースの 1972-10-24, Performing Arts Center, Milwaukee, WI から〈The Other One> He's Gone> The Other One〉。36:50はこの年の《30 Days Of Dead》最長トラック。

 第二部もクライマックス、〈Truckin'〉から  Drums を経て切れ目なしにこのメドレーに入り、ここで一度終り。〈Casey Jones〉〈Johnny B. Goode 〉で締めて、アンコール無し。〈The Other One〉の直後、機器トラブルにみまわれたとウィアが宣言しているので、アンコール無しはそのせいかもしれません。

 1972年は春のヨーロッパ・ツアーを筆頭に、デッドにとって最初のピークの年。1965年の結成以来右肩上がりに昇ってきたその頂点を極めた年です。春だけでなく、1年を通して絶好調を維持しています。

 このショウは同じヴェニュー2日連続の2日目。夜7時半開演のポスターが2種残っています。ひとつは全員完全に骸骨のバンドが踊っているもの。もうひとつは両側に蓬髪を垂らした頭蓋骨がこちらを睨んでいるもの。どちらもなかなかおどろおどろしくもあり、ユーモラスでもあり。

 この秋は働きづめで、08月27日、カリフォルニア州ヴェネタでの有名なショウ、09月03日コロラド州ボゥルダーでのショウの後、09日からツアーに出て10月02日に打上げ。09日にウィンターランドに出て、17日からセント・ルイスのフォックス・シアターでの三連荘から30日までツアー。11月13日から26日までまたツアーしています。春のヨーロッパ・ツアーのせいでしょう、夏に長いツアーをしていない埋合せでしょうか。

 年間のショウは計86本。1971年以降では最多。レパートリィは88曲。新曲は以下の13曲。

Black-Throated Wind; John Perry Barlow & Bob Weir
Looks Like Rain; John Perry Barlow & Bob Weir
The Stranger (Two Souls In Communion); Ron McKernan
How Sweet It Is (To Be Loved By You); Brian Holland, Lamont Dozier & Eddie Holland
Sidewalks Of New York; Charles B. Lawlor & James W. Blake
Who Do You Love; Ellas McDaniel (Bo Diddley)
He's Gone; Robert Hunter & Jerry Garcia
Hey Bo Diddley; Ellas McDaniel (Bo Diddley)
Rockin' Pneumonia and The Boogie Woogie Flu; Huey Smith / Johnny Vincent
Stella Blue; Robert Hunter & Jerry Garcia
Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo; Robert Hunter & Jerry Garcia
Weather Report Suite Prelude; Bob Weir
Tomorrow Is Forever; Dolly Parton & Porter Wagoner

 カヴァー曲はいずれも単発ないし、数回の演奏でした。うち〈How Sweet It Is (To Be Loved By You)〉はデッドでは1回だけの演奏ですが、ジェリィ・ガルシア・バンドのレパートリィとして定着します。

 一方、オリジナル曲はピグペンの曲を除き、いずれも定番となります。

 デッドはステージではMCをしないために、ピグペンの曲はファンの間では長いこと〈Two Souls In Communion〉と呼ばれていました。《The Golden Road》に収録された際に〈The Stranger〉とされました。この年の03月12日から05月26日まで、13回演奏。

 ピグペンは前年末に復帰しますが、ヨーロッパ・ツアーで決定的に健康を損ない、06月17日を最後のステージとしてバンドから離れます。

 一方、前年大晦日に初ステージを踏んだドナ・ジーン・ガチョーはヨーロッパ・ツアーを経て完全にバンドに溶けこみ、1970年代の最も幸福な時期どデッドの音楽をより複雑多彩で豊饒なものにするのに貢献します。同時にデッドはピグペンのバンドから完全に離陸します。

 楽曲にもどって、〈He's Gone〉はバンドの金を使いこんで逃げた前マネージャーのレニー・ハートの一件を歌った曲。3月にかれは横領の罪で懲役6ヶ月を言い渡され、服役しました。横領した金の一部も返したようです。バンドは結局、損害賠償請求の訴訟も起こしませんでした。替わりに作ったこの歌は後に挽歌の性格を強め、関係者やバンドと親しい人間が死ぬと追悼に演奏されるようになります。

 バーロゥ&ウィアの2曲はこの年5月にリリースされたウィアの初のソロ《Ace》のために書かれた曲。《Ace》はバック・バンドがデッドそのままですし、プロデュースにはガルシアもかなり「口を出し」ています。そのためデッドのアルバムとして数える向きもありますが、デニス・マクナリーのバンドの公式伝記 A LONG STRANGE TRIP によれば、この録音を主導したのはあくまでもウィアで、どこからどう見てもこれはウィアのソロ・プロジェクトであるそうです。

 さらにこの年、バンドは自前のレコード会社として Grateful Dead Records、Round Records を設立します。ロック・ミュージシャンが自前のレコード会社を設立することはビートルズの Apple Records 以来珍しくありませんが、配給・販売まで自前でやろうとしたところはいかにもデッドらしい。そして見事に失敗するところはさらにデッドらしい。

 デッドは他人なら絶対にやらないようなことをあっさりとやってしまいます。そしていつもものの見事に失敗して、危機に陥ります。そうした危機を、かれらは音楽に集中し、より良い演奏をめざし、質の高いショウを重ねることで乗り越えていきました。それが可能だったのは、それらの失敗が後向きのものではなく、前向きのものだったからでしょう。

 10月24日のこのショウの SBD は第二部の後半のみ残っているようです。ショウ全体の録音は AUD があります。

 AUD はモノーラル録音、ステージからはやや遠いようで、細部は聴きとれませんが、ヴォーカルやギター、ドラムスの一部は明瞭です。ベースはどうしても落ちますけれども、一部わかるところもあります。

 演奏はさすがにピークの年、気合いの入ったもの。〈Truckin'〉でのガルシアのギターがなんともすばらしい。ウィアの歌の裏で弾いているのも、ソロになってからも、絶好調の時の、意表をつくフレーズがどんどんとあふれてきます。ここでの Drums は元来は〈The Other One〉の元になった組曲の一部で、単独時代でもこの年のクロイツマンはレシュが「鬼神」と呼んだのもよくわかる大活躍。それに引き出された〈The Other One〉はデッドの真骨頂。ベース・ソロもいいし、ガルシアのアヴァンギャルドなギターが縦横に駆けめぐります。こういう抽象的、不定形な即興が聴いていて面白いと感じられるのがデッドのデッドたるところ。メンバー各自の音楽的素養の深さと広さに支えられたものでしょう。

 その最中にガルシアがいきなりリフを始めて〈He's Gone〉。ここでもガルシアのギターがメイン・メロディの変奏からどんどん外れてゆき、しかも楽曲の大枠からははずれない、絶妙のバランスをとって流れてゆきます。それに他のメンバーがからみ、対抗して展開する集団即興の面白さには身もだえしてしまいます。この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。

 そして今度はベースが音頭をとって〈The Other One〉にもどり、ウィアが2番を歌っておさめます。ここで一度終るので、〈Casey Jones〉と間をおかずに続ける〈Johnny B. Goode〉がアンコールに聞えなくもありません。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。今回は22日リリースの 1973-12-19, Curtis Hixon Convention Hall, Tampa, FL から〈Dire Wolf; Black-Throated Wind; Candyman〉。この3曲は連続ではなく、各々間は切れています。

 このショウは大半が記念すべき《Dick's Picks, Vol. 1》でリリースされています。そこに収められていないトラックのうち、第一部クローザー前の〈Ramble On Rose〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされ、今回、これも未収録の第一部4曲目からの3曲がリリースされました。これでこのショウの26トラック中18トラック、2時間半が公式にリリースされたことになります。例によって Internet Archive ではショウ全体の SBD の Charlie Miller によるミックスがストリーミングで聴けます

 この年のショウは計72本、レパートリィは77曲。新曲は〈China Doll〉〈Eyes Of the World〉〈Loose Lucy〉〈Row Jimmy〉〈Here Comes Sunshine〉〈They Love Each Other〉、〈Weather Report Suite〉、それに〈Wave That Flag〉。最後のものは後に改訂されて〈U. S. Blues〉として生まれかわります。いずれも定番として、長く、また数多く演奏されます。

 年初は秋にリリースされる《Wake Of The Flood》の録音に費し、始動は02月09日のスタンフォード大学でした。このショウでは上記のうち〈Weather Report Suite〉を除く7曲が一気にデビューしています。1971年10月19日のミネソタ大学でも一気に7曲デビューしています。7曲というのはこの2回だけで、5曲デビューが3度ほどあります。

 今回の12月19日はこの年最後のショウです。1968年以降、ビル・グレアムの死ぬ1991年までの間で、年間を通して活動してなおかつ大晦日の年越しショウをしていないのはこの年だけです。

 03月08日、ロン・“ピグペン”・マカナンが多臓器不全により27歳で世を去りました。後にピグペンの父は息子と人生をともにし、その人生を充実した、実り豊かなものにしてくれたことに感謝する手紙をバンドに送りました。ピグペンはデッドのキャリアにつきそう死者たちの最初のひとりでありました。この死者たちの列に最後に加わったのがジェリィ・ガルシアです。グレイトフル・デッドはその名前通り、死者たちのバンドでもあります。

 ニコラス・メリウェザーによる《30 Trips Around The Sun》の「史上最長のライナーノート」によれば、この年はテープの存在が顕著になった年でした。『ローリング・ストーン』誌には東西両海岸のテープ交換、分配のシーンが紹介されました。この頃はまだオープン・リールによるもので、主に7インチの、おそらくは細ハブが使われたのでしょう。テープ・スピードを 9.5cm/秒にすれば往復で3時間入り、平均的なショウを1本にできます。このテープの世界は翌年から1976年にいたる大休止の時期に爆発的に拡大します。後にグレイトフル・デッドの初代アーカイヴィストになるディック・ラトヴァラがデッドのテープと出会って、頭から飛びこんでゆくのも1975年でした。

 12月19日のショウはこの年の総決算のようにすばらしい出来です。その年最後のショウは翌1974年10月20日も含めて、出来の良いものが多い中でも、これはトップを争います。この年のベストの1本のみならず、全キャリアの中でも指折りです。これが完全な形で公式リリースされていないのは何とも歯痒い。Internet Archives のストリーミングでも音は十分良いので、一度は通して聴かれることを薦めます。

 全体にひどくゆったりとしたテンポ。ゆっくり演る時のデッドは調子が良いことが多い。1976年の大休止からの復帰の後もゆったりとしたテンポが快いですが、このショウはそれよりもさらにゆったりしています。とりわけガルシアの持ち歌で顕著で、ガルシアはどの歌も歌詞を噛んで含めるように、言葉を愛おしむようにていねいに歌います。ガルシアはシンガーとしては疑問符が付けられる傾向がありますが、たとえばヴァン・モリソンのようなうたい手ではなかったとしても、十分個性的な説得力を備えています。デッドをやる前のブルーグラスやフォークを演っている時の録音を聴いても、むしろ一級のうたい手と言ってもよいことは明らかです。デッドの音楽の魅力は器楽演奏の部分だけではなく、歌があってのものです。

 今回の3曲はまさに歌を聴かせる曲で、どれもガルシアがソロをとる場面はあってもごく短かい。もっとも、ウィアの持ち歌では、ヴォーカルの裏でガルシアはずっと美味しいギターを弾いています。これ以外でも〈Jack Straw〉〈El Paso〉でも聴けます。ソロとは異なり、あくまでも歌を立てる伴奏の範疇に留まって出しゃばらないところが見事ですが、時に耳をもっていかれます。自分もコーラスをつける時にはギターは弾いていませんから、それだけギターに集中しているのでしょう。

 これでもわかる通り、ガルシアは絶好調で、ソロをとるときでも一瞬たりとも耳が離せません。本人も自覚しているのでしょう、〈Big River〉ではなかなかソロをやめません。特筆すべきは〈Here Comes Sunshine〉〈He's Gone〉〈Nobody's Fault But Mine〉。最後のものはブルーズ・ギターではなく、ほとんどジャズです。歌も元気一杯。ラストの〈Around and Around〉でも、およそロックンロールの定石からははずれたギター。アンコール〈Casey Jones〉のギターもいい。そして何といってもこの時期の〈Playing In The Band〉は特別。初めは5分ほどの普通の曲だったものが、どんどん長くなり、ついには30分を越えるようになるこの曲の成長と変化は、デッド音楽を聴く醍醐味の一つです。

 ここでの〈Playing In The Band〉はまだ終始ビートがあり、あたしには一番面白い形ですが、第二部の〈The Other One〉になると深化の階梯を一段上がっていて、後半に後の Space に通じる抽象的、スペーシィなジャムになります。復帰後の1977年春から第二部中間に Drums> Space が必ず置かれるようになりますが、大休止前にはこういう曲が途中から Space や Drums になります。いずれにしても、フリーリズムで不定形な集団即興は、バンドのごく初期から最後まで、常にそのショウの一部でした。ここは賛否両論別れるところかもしれませんが、あたしはこれがあってのデッドのライヴと思います。

 もうひとつ、このショウの質の高さはガルシアの好調だけに由来するものではありません。こういう時は他のメンバー各々にしても、またバンド全体として、みごとな演奏をしています。ここで目に(耳に)つくのはキースで、ドラムスに替わってビートを支えたり、面白いフレーズを連発したり、ここぞというところでツボにはまった演奏を聴かせます。なお、このショウではドナはお休みです。

 《Dick's Picks, Vol. 1》はもちろん聴いていましたが、こうしてショウ全体を聴くとやはりいろいろと発見があります。デッドにとっての「作品」とは、スタジオ盤ではなく、一本一本のショウであることもすとんと胸に落ちます。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。今回は03日リリースの 1974-07-29, Capital Centre, Landover, MD から〈Scarlet Begonias; Jack Straw〉。この2曲も切れています。

 1975年は飛ばされていますが、無理は無いので、デッドはツアーをせず、年間を通じてショウは4回だけ。それも2回はフェスティヴァルに参加した短かいステージです。いずれも既に何らかの形で全てリリースされています。

 1974年は10月20日にウィンターランドで「最後の」ショウをするまで、ショウの数は40本と少ないですが、バンドとしてはいろいろと忙しい年です。レパートリィは83曲。新曲は6曲。〈U.S. Blues〉〈It Must Have Been The Roses〉〈Ship Of Fools〉〈Scarlet Begonias〉〈Cassidy〉〈Money Money〉。最後のもの以外は、以後、定番として長く数多く演奏されます。

 〈Scarlet Begonias〉は復帰後の1977年春から〈Fire on the Mountain〉を後につないでペアとして演奏されます。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉と並んで人気の高い、定番中の定番となり、名演も多く生まれます。ですが、1974年、76年に50回近く単独で演奏されたものにも優れた演奏はあり、この日のものはそのベストの1本です。

 この年まず一番大きなできごととしては Wall of Sound が完成します。理想のライヴ・サウンドを求めて、ペアことアウズレィ・スタンリィたちが立ちあげた Alembic が中心となって開発したモンスターPAシステムです。前年からショウでの実地テストを繰返し、3月23日、カウパレスでのショウで正式にお披露目されました。5月12日、これを携えたツアーがモンタナとカナダから始まります。6月に《From Mars Hotel》をリリース。9月にはヨーロッパ・ツアーに出て、ロンドン、ミュンヘン、ディジョン、パリと「ウォール・オヴ・サウンド」をかついで回りました。

 一方、この年勃発した石油危機によって運送コストが法外なほど上がり、「ウォール・オヴ・サウンド」の維持費が耐えられる限界を超えます。完成形の「ウォール・オヴ・サウンド」機材の総重量は75トン。運搬にはトレーラー5台が必要で、組立て解体には30人の専従スタッフがいました。組立てに1日かかるので、連日のショウをこなすためには、二組用意して、一組をひとつ先の会場に送っていました。

 《フロム・マーズ・ホテル》はリリースしたものの、自前のレコード会社をもう続けられないことは誰の目にも明らかになっていました。

 こうした様々なストレスが重なり、ドラッグの消費量も目に見えて増えます。

 重なりあった問題を解決するため、バンドはライヴ活動を全面的に休止することを決め、10月16〜20日のウィンターランドでの公演を千秋楽として大休止に入りました。チケットにでかでかと "The Last One" のハンコが押された20日の「最後」のショウが終った時点では、グレイトフル・デッドがグレイトフル・デッドとして再びステージに立つ日が来るのか、誰にもわかりませんでした。20日のショウの第二部にミッキー・ハートがドラム・キットを持って駆けつけて復帰したのも、これを逃せば二度とバンドとしてともに演奏することはできなくなるという危機感からでした。

 その頃、太平洋の反対側で大学に入ったばかりだったあたしは、クラシックからプログレを経て、ブリテン、アイルランドの「トラッド」とその頃本朝では呼ばれていた不思議な音楽の虜となる一方、アメリカン・ロックの洗礼を CSN&Y によって受けようとしていました。グレイトフル・デッドの名も耳にしたものの、少し後でリアルタイムで買った《Steal Your Face》によって、以後追いかけようという意志を奪われます。デッドの音楽に開眼し、生きてゆくのになくてはならぬものになるのは、それから40年近く経た2010年代初めのことでした。

 07月29日のショウは7月19日から8月6日までの夏のツアー後半も終盤です。このツアーの後は9月のヨーロッパ・ツアーで、その次のショウは10月下旬のウィンターランドです。

 ショウには夜7時開演、料金6.50ドルのチケットが残っています。全体の4割に相当するトラックが2012年の《Dave's Picks Bonus Disc》に収録されました。第一部2曲めの〈Sugaree〉とクローザー〈Weather Report Suite〉、それに第二部の前半です。このうち〈The Other One> Spanish Jam> Wharf Rat〉は2019年の《30 Days Of Dead》でもリリースされました。今回の〈Scarlet Begonias; Jack Straw〉は第一部の6、7曲目です。これで全体の半分のトラックがリリースされたことになります。

 バンドの内外でそれぞれからみあった問題がより深刻になり、解決の道筋も見えない状況にあって、かえってそれ故にでしょうか、音楽の質は高いものです。72年のピーク時に比べても、質が落ちたとは感じられません。新曲もいずれもすばらしく、それによってショウの質が上がっている効果もあります。

 このショウもきっちりしていて、とりわけ、ウィアが歌っている時にその背後で弾いているガルシアのギターが聞き物です。〈Jack Straw〉でも聴けますが、3曲目の〈Black-Throated Wind〉や〈El Paso〉、第一部クローザー〈Weather Report Suite〉の〈Let It Grow〉では耳を奪われます。

 ソロのギターも冴えているのは〈Scarlet Begonias〉に明らかですし、〈Deal〉もいい。面白いのはクローザー前の〈To Lay Me Down〉で、ガルシアはほとんどギターを弾かず、バックはドラムス、オルガン、ベースという組合せ。デッドではきわめて珍しい組合せで、しかもぴったりとハマっています。

 ゆったりしたテンポの〈Sugaree〉と、〈Let It Grow〉での明瞭なメロディに依存しない不定形なジャムも十分面白い。ただこの二つの手法は、1976年の復帰後にあらためて突き詰められて、1977年の第二の、そして最高のピークを特徴づけるもとになります。バンドとしてのライヴ活動はやめるのしても、演奏ではすでに次のステップへ向けての運動が始まっていたのでした。(ゆ)

  昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴く企画、今回は24日リリース、1976-09-27, Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY からの〈Might As Well; Samson and Delilah〉です。第二部オープナーからの2曲。このショウからはこの後、drums の直後〈The Other One〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。開演夜7時半。料金7ドルのチケットが殘っています。

 1976年は06月03日に、1974年10月20日以来、1年7カ月ぶりにツアーに復帰します。この年のツアーは06月07月と09月10月の2回、ショウは41本、レパートリィは66曲。新曲はバーロゥ&ウィアの〈Lazy Lightening〉と〈Supplication〉のペア、ハンター&ガルシアの〈Might As Well〉と〈Mission in the Rain〉。そしてレヴェレンド・ゲイリー・デイヴィスのカヴァー〈Samson And Delilah〉。〈Mission in the Rain〉はデッドでは5回演奏されただけで、ガルシアのソロ・プロジェクト専用の曲になります。こういう曲は他にもあり、例えば〈Ripple〉が同じく、デッドからジェリィ・ガルシア・バンドに移っています。

 〈Might As Well; Samson and Delilah〉はどちらもバネのよく効いたビートにのった闊達な演奏。全員が溌剌としていて、大休止の効果は明らかです。このメンバーでまた演奏できる愉しさにあふれています。

 こうして並べて聴くと、この二つは片方が片方の霊感の元になったように聞えます。どちらかといえばガルシアの曲がウィアに後者を持ち出すきっかけを与えた気がします。

 次の〈Help on the Way〉からクローザーの〈Around and Around〉までひと続きです。〈Help on the Way〉は〈Slipknot!> Franklin's Tower〉と続くのが通例ですが、ここでは〈Slipknot!〉の次に drums>〈The Other One> Wharf Rat〉がはさまって〈Slipknot!〉に戻り、〈Franklin's Tower〉でまとめて、クローザーにつなぎます。〈Slipknot!〉から直接〈Franklin's Tower〉につながないのはこの年の特徴といわれますが、こういう尋常でないことをする時は調子が良く、この日もエネルギーに満ちた、見事な演奏です。

 drums はもちろんですが、〈Help on the Way〉のコーダに顕著なように、再びダブル・ドラムスになったメリットがよくわかります。ようやく全員揃ったという思いもこの演奏の質を押し上げているかもしれません。〈Slipknot!〉は特定のメロディに依存しない、フリーの集団即興=ジャムの曲で、かつての〈Caution (Do Not Stop On Tracks)〉に通じるところもありますが、ずっと洗練されていて、複雑になっています。このヴァージョンは緊張感漲るなかに、目一杯愉しんでもいて、デッドを聴く醍醐味ここにあり。drums>〈The Other One> Wharf Rat〉もテンションは落ちませんが、また〈Slipknot!〉にもどるところはスリリングです。〈Franklin's Tower〉では途中でやや息切れしたようでもありますが、それでも演奏をやめたくない様子も伺えます。このあたりが1976年で、翌年になると充実した演奏をショウの最初から最後まで貫いて維持するようになります。

 アンコールの〈U.S. Blues〉はゆったりしたテンポで、やはりこれを歌えるのが愉しくてたまらないのがありありとわかります。かくて、十二分の休養をとり、大休止前に抱えていた様々の問題をとりあえず精算して、音楽に集中する体制を整えることができたデッドは、キャリアの頂点を迎えることになります。(ゆ)

 06月30日に発送通知があってから2週間。グレイトフル・デッド今年のビッグ・ボックス《Here Comes Sunshine 1973》がやって来た。例によって輸入消費税1,700円也をとられる。

 比較的コンパクトなパッケージ。昨年のマディソン・スクエア・ガーデンのボックスのような、いささか奇をてらったところもなく、まっとうな外形だ。デザイナーは Masaki Koike。1977年5月の二つのボックス・セットのデザイナー。そのうち、例のコーネル大学バートン・ホールのショウを含む二つ目のボックス《Get Shown The Light》は、CDそのものの収め方が凝っていて、うっかりすると破ってしまいそうなデリケートなものだった。今回も中が結構凝っているが、あれほど危なっかしいところはない。

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 外見はこういう箱型。青い部分は滑って抜ける。

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 中の箱は上に蓋が開く。CDとライナーを収めたほぼ正方形の紙製レコードのダブル・ジャケットが5つ、手ぬぐいを縦に三つ折りにしたものでくるまれている。ただくるまれているだけで、固定されてはいない。一番下に、当時のメンバーの左側横顔を並べたイラストのポスター。今回は付録はほぼこれだけ。チケットの複製などは無い。すっきりしている。

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 1本目、05-13のショウを収めたスリーブに全体のライナーが入ったブックレットが、ショウ自体のためのライナーとともにはさまっている。全体のライナーは Ray Robertson, スターファインダー・スタンリィはじめ The Owsley Stanley Foundation, それに David Lemieux が書いている。個々のショウのためのライナーは Ray Robertson のペンになる。

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 1973年前半は Wall of Sound が完成してゆく時期であり、またデッドのショウが最も長くなった時期でもある。収められた5本のショウのうち05-13と06-10がCD4枚、後の3本は3枚。すべて3時間超で、05-13は4時間半近い。トータルで19時間超。

 この5本はショウとしては連続しているが、間が1週間とか2週間とか空いているので、レパートリィつまり演奏された曲目は似ている。05-13、26、06-10 はいずれも〈The Promised Land〉と〈Deal〉で始まる。最後の06-10は2日連続の2日目のせいか、他とはかなり違う内容だ。いきなり〈Morning Dew〉で始まったりする。

 録音担当はキッド・カンデラリオ、ベティ・カンター=ジャクソン、そしてアウズレィ・スタンリィという最高の面子。

 この一連のショウからはすでに半世紀。演奏中のステージの上で遊んでいる子どもたちも、今はみなジジババになっている。聴衆は死んでいる者も少なくないだろう。しかし、音楽は記録され、こうして時空を超えてゆく。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。

 1977年からは 1977-04-29, The Palladium, New York, NY のショウで、曲は〈Brown-Eyed Women〉。

 このショウは第二部の2、6、7曲目が《Download Series, Vol. 1》で、9曲目〈The Wheel〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 1977年はデッド2度目のピークの年です。デッドのピークは3度、1972年、1977年、そして1989年後半から1990年夏まで、というのがあたしの見立てですが、この三つがピークであることは大方の一致するところでもあります。むろん、他の年がダメだというのではなく、各々の年、時期にはそれぞれに魅力があります。ただ、この三つの時期のデッドの音楽は他のどの時期をも凌ぐ高みに達し、しかもその高い水準が続きます。

 この年のショウは60本、レパートリィは81曲。新曲はバーロゥ&ウィアの〈Estimated Prophet〉、ハンター&ガルシアの〈Terrapin Station〉、急死したクルーの一人レックス・ジャクソンを悼むドナの〈Sunrise〉、そしてレシュの珍しいロックンロール〈Passenger〉。またカヴァーとして〈Iko Iko〉と〈Jack-A-Roe〉がデビューしています。

 ショウが少なめなのは、06月20日、ミッキー・ハートが車を運転していて道路から飛びだし、腕と鎖骨を骨折、肋骨に罅が入り、肺にも穴があくという重傷を負って、夏のツアーがキャンセルになったためです。復帰は09月03日、ニュー・ジャージー州イングリッシュタウンの自動車レース場で、この日、単独で15万人の聴衆を集めて記録を作りました。

 その間、《Terrapin Station》がリリースされ、またワーナー・ブラザーズからアナログ4枚組のワーナー時代の回顧コンピレーション《What A Long Strange Trip It’s Been》がリリースされました。後者にはシングルだけで出ていた〈Dark Star〉スタジオ盤が収録され、この曲のためだけにデッドヘッドはこのコンピレーションを買わされる羽目になりました。

 この年の04月22日フィラデルフィアから05月28日コネティカット州ハートフォードまでの1ヶ月を超える春のツアーは、有名なコーネル大学バートン・ホールのショウを始め、最高のショウを連日連夜くり広げたことで知られます。このツアー26本のうち、16本の完全版が公式リリースされています。

 04月29日はその中で完全版が公式リリースされていない数少ないショウの一本です。このショウの SBD は外に出ていないらしく、archives.org には AUD が1本だけです。AUD としては音はすばらしい。

 第二部は〈Samson And Delilah〉で始まり、〈Sugaree〉で受けます。この曲はこの春のツアー中にモンスターに育ちます。ガルシアは伸び伸びと歌っています。悠然としたテンポで、ピアノもギターもベースもドラムスも誰も複雑なことはせず、シンプルそのものの音を坦々と連ねてゆきながら、どこまでも登っていきます。5月になると位置が第一部の、それもオープニングの2曲目に進みます。この春のツアーを象徴する曲です。

 間髪を入れずに〈El Paso〉。これはまあこの歌として普通の演奏。その後、かなり長い間があって今回リリースされた〈Brown-eyed Women〉。ガルシアの歌もギターも溌剌としてます。ドナとウィアのハーモニーも決まってます。この後もまたかなり長い間があいて、〈Estimated Prophet〉。この年02月26日にデビューしたばかりで、これが11回目の演奏。とはいえ、もう十分に練れた演奏。歌の終りの方でウィアがいかれたヤツのフリをしている裏で、ドナとガルシアがハミングするのが愉しい。その後のガルシアのソロは〈Sugaree〉と並ぶこのショウのハイライトです。

 また間があって始まるのが〈Scarlet Begonias〉。ここからクローザーの〈Around and Around〉までは途切れなく続きます。〈Scarlet Begonias〉はこの少し前03月18日のウィンターランドのショウから〈Fire on the Mountain〉と組合わされて演奏されるようになりますが、ここではまた単独で、次は〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉に続きます。この後も時偶単独で演奏されます。ここではやや速めのテンポで軽快なノリ。ドナのスキャットが効いてます。

 〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉がまたすばらしく、ドナのコーラスもキースのオルガンもガルシアのヴォーカル、ギターも冴えわたります。大休止から復帰後のガチョー夫妻の活躍には目を瞠るものがあります。そこから一度は〈Not Fade Away〉に移るのですが、どうも気が乗らなかったらしく、ヴォーカルが出ないまま、フロントのメンバーは引込んでしまいます。このあたり、やりたくない時にはやらないので、確かにデッドは「エンタテインメント」ではありません。

 drums からのもどりは〈The Wheel〉。ガルシアとドナが終始コーラスで歌うこれはベスト・ヴァージョン。〈Wharf Rat〉はガルシアの熱唱が光ります。〈Around and Around〉はかなりゆっくりと入ります。前年の大休止からの復帰後、当初はゆっくりと入って、途中から本来のロックンロールのテンポにどんと上がる形になります。これがカッコいいんですよねえ。ここでもドナのコーラスが効果的。アンコールは〈Uncle John's Band〉。うーん、名曲名演。つくづくこれは不思議な曲ではあります。

 折りしも今年の Dave's Picks の最初のリリース、Vol. 45 がやってきました。1977年の秋のツアーから、10月01日と02日、オレゴン州ポートランドでの2日間のショウを完全収録しています。この時期のショウは比較的短かく、2時間を少し超えるくらいなので、CD2枚で1本収めることが可能です。秋のツアーは春とはまた違った味わいがあるようです。この《30 Days Of Dead》のおさらいが終るまではおあずけです。(ゆ)

 昨年のグレイトフル・デッドのビッグ・ボックス・セット《In And Out Of The Garden: Madison Square Garden '81, '82, '83》が、グラミーの "Best Boxed or Special Limited Edition Package" を受賞しました。中身ではなく、外装での受賞ですが、ゴールド・ディスク、プラチナ・ディスクは別として、デッドの録音がグラミーはもちろん、何らかの賞を受賞したのは初めてです。

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 2011年の《Europe '72: The Complete Recordings》を手始めとして、毎年ひとつ、数本から10本ほどのショウの完全版を数十枚のCDにまとめたビッグ・ボックス・セットがリリースされています。このボックス・セットはCDの容れ物の形や収納の仕方に毎回凝っていて、時には2018年の《Pacific Northwest》のように、やり過ぎてひどく大きくなってしまい、送料がぐんと高くなって非難轟々になることもあります。

 今回のマジソン・スクエア・ガーデンも全体のサイズはそう大きくありませんが、やたらに細長く、扱いにいささか困るところもあります。とりわけ、ライナーなどを収めたブックレットもひどく横長になり、読むのにちょっと困りました。CDはリッピングしてしまうので、頻繁に出し入れしませんが、ライナーは読みかえすこともあります。そもそもこのライナーは中身に負けずに楽しみで、これを読むために公式リリースを買っている部分も小さくはありません。

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 グラミーにはベスト・ライナーの部門もあり、デッドのボックス・セットのライナーも2001年の《The Golden Road》の Dennis McNally によるものが候補になっていますが、受賞はまだありません。とはいえ、2015年の《30 Trips Around The Sun》附録の Nicholas Meriwether による "Shadow Boxing the Apocalypse: An Alternate History of the Grateful Dead" は、邦訳すれば優に文庫本1冊以上になり、「史上最長のライナー」と呼ばれたりします。メリウェザーは自身が管理人を勤める UC Santa Cruz の図書館に設けられた Grateful Dead Archives にある資料を駆使して書いていて、中身も充実しています。

 《In And Out Of The Garden: Madison Square Garden '81, '82, '83》については、別途、書いてみようとは思います。

 昨年11月の《30 Days Of Dead》リリースを年代順に遡って聴くのに戻ります。

 1978年からのもう一本は、29日リリースの 1978-04-21, Rupp Arena, Lexington, KY からの〈Truckin’> Playing In The Band〉。ショウのクローザーで、この後のアンコールは〈Werewolves Of London〉と〈U. S. Blues〉。

 〈U. S. Blues〉は SBD も含め、archives.org に上がっているどの録音にも含まれていないので、ひょっとすると存在しないのかもしれません。となると、このショウの「完全版」がリリースされることは無いかもしれません。

 archives.org に上がっている SBD でも、アンコールの1曲目〈Werewolves Of London〉が始まって間もなく AUD にスイッチしているので、SBD ではアンコールもまともに無い可能性があります。

 なお、このショウからは第一部クローザーの〈The Music Never Stopped〉が2012年の《30 Days Of Dead》で、また今回の2曲のすぐ前の〈Stella Blue〉が《So Many Roads》でリリースされています。

 ショウは04月02日から始まる春のツアーの前半も終盤。次の04月22日ナッシュヴィルは《Dave's Picks, Vol. 15》で、さらに次のツアー前半の千秋楽04月24日イリノイ州ノーマルは《Dave's Picks, Vol. 07》で各々全体がリリースされました。

 この日の第二部は〈Samson And Delilah〉に始まり、〈Ship of Fools〉で受け、次の〈Playing In The Band〉の還りが今回リリースのクローザーです。この曲はこの頃にはこんな風に間にいくつかの曲をはさんで、コーダに還る形になっています。還るまでの間はだんだん長くなり、やがて第二部全部になり、ついには日をまたいで、数本後のショウで還るまでになります。ついに還らなかったこともあります。今回は間に drums> jam>〈Stella Blue〉〈Truckin'〉と来て還りました。

 第二部中間に drums> space が決まってはさまるようになるのは2本後の04月24日のショウからです。ここではまだ space がありません。

 Drums に続くのはドラマーたちも入ってビートの効いた集団即興=ジャム。何か特定の曲に依存していない、どこへ行くのかわからない、バンド自身にもわからない、至福の時間。やがて〈Stella Blue〉におちつきます。

 デヴィッド・レミューの言うように、このショウはまだ1977年の余韻が殘っていて、どの曲もひき締まっています。デッドのキャリアの中では一番「真面目に」やっている時期です。とはいえそこはデッドですから、アンコールの〈Werewolves of London〉では、ガルシア、ウィア、ドナがそろって遠吠えを競いあいます。もともとこれはそういう曲ではありますが、こういうことをやるデッドはいかにも楽しそう。この遠吠えがやりたくてこの曲を選んでいるのではないかと思えてしまいます。

 「真面目」というのは、大休止からの復帰後、とりわけ、《Terrapin Station》の録音でプロデューサーの Keith Olsen に鍛えられて、演奏に正面から取組み、その質をとことん高めることの面白さに目覚め、本気になってやりだしたところから生まれた印象です。デッドは本朝に一般に広まっているちゃらんぽらんという誤解とは裏腹に、こと音楽演奏に関してはデビュー当時から本気でとことん突きつめようとしています。もともと至極「真面目」なのです。ただ、これまでは、演奏そのものに溺れる、ないし中毒するところがあって、状況の許すかぎりやりたいようにやりたいだけやり続けるところがありました。そうした欲望の湧きでるままに演奏するよりも、湧いてくるものを一度貯めて鍛えることで余分にふくれないようにすることの面白さと、その結果の美しさに気がついた、ということでしょう。ここでの〈Playing In The Band〉や〈Truckin'〉にもそういう志向が現れています。

 ただ、こういう「真面目さ」だけを追求することはやはりデッドにはアンバランスと感じられてしまいます。そこで drums や space のような「遊び」、まったく拘束のない、純粋な「遊び」の時間を設けることでバランスをとろうとします。この「遊び」の度が過ぎているとすれば、「真面目さ」もまた過剰なほどなのです。デッドが30年間ハードワーク(毎年平均77本以上のショウ)を続けられたのも、そのバランスがかろうじてなんとかとれていたためでしょう。バランスがとれて安定していたというよりは、崖っ縁を渡るように、あるいは綱渡りをするように、危ういところでとれていたのです。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされたグレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead》を年代を遡りながら聴いています。

 1978年からは2本、

29日リリースの 1978-04-21, Rupp Arena, Lexington, KY からの〈Truckin’> Playing In The Band
23日リリースの 1978-05-17, Uptown Theatre, Chicago, IL から〈Lazy Lightning> Supplication〉。

 どちらも04月06日フロリダ州タンパから始まる春のツアー中のショウで、後者の05月17日はツアー千秋楽です。

 この年のできごととしては09月14〜16日のエジプトはギザのピラミッドとスフィンクス脇でのショウがあります。これと並び、時代を画する点ではずっと重要であるものに大晦日、ウィンターランド最後の公演があります。

 1978年は年頭から始動し、01月06日から02月03日まで17公演というツアーからスタートします。ショウの総計は80本。レパートリィは86曲。新曲にはまずバーロゥ&ウィアの〈I Need a Miracle〉、ハンター&ガルシアの〈Shakedown Street〉〈Stagger Lee〉〈If I Had The World To Give〉。ドナの〈From The Heart Of Me〉。〈If I Had The World To Give〉は3回しか演奏されませんでしたが、他はいずれも定番になります。ドナの曲は翌年02月のガチョー夫妻の脱退までではあります。

 11月には《Shakedown Street》がリリースされ、これらの新曲が収められました。名目上のプロデューサーはローウェル・ジョージで、おかげで制作過程はお世辞にも順調とはいかず、おまけに完成前にジョージは自分のバンドのツアーに出てしまいます。これもリリース当初の売行きはさほどよくありませんでした。もっともこの頃にはデッドのショウのチケットの会場周辺のダフ屋による相場は額面の5倍になっています。レコードの売行とショウの人気はまるで別物なのでした。

Shakedown Street (Dig)
Grateful Dead
Grateful Dead / Wea
2006-03-07



 エジプト遠征ではバンドとクルーだけでなく、観客も一緒に行くことになります。初日の最前列には当時のサダト大統領夫人とその取巻きもいましたが、聴衆のほとんどはアメリカやヨーロッパから飛んでいったデッドヘッドと、その時たまたまエジプト周辺にいたアメリカンたちでした。遠征費用を賄うためライヴ・アルバムも企画されていましたが、録音を聴いたガルシアは即座にダメを出します。とはいえ、その後、2008年に出た後ろの2日間の音源の抜粋を聴くと、どうしてこれがアタマからダメだったのか、首をかしげます。

 ウィンターランドのショウは恒例の年越しショウの一本ではありますが、このヴェニュー最後のコンサートとして、まったく特別なものとなりました。「サタデー・ナイト・ライブ」に出演して仲良くなったブルーズ・ブラザーズに加えてニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが前座をつとめ、真夜中に登場したデッドは延々朝まで三部にわたって演奏を続けて、終演後、聴衆にはビュッフェ形式の朝食がふるまわれました。この模様は、少なくともデッドのパートは《The Closing Of Winterland》として CD4枚組、DVD2枚組でリリースされました。一本のショウとしては長いショウの多いデッドのものでも最長の一つです。内容もすばらしい。

グレイトフル・デッド/クロージング・オブ・ウィンターランド【2DVD:日本語字幕付】
グレイトフル・デット
ヤマハミュージックアンドビジュアルズ
2013-12-18



 この年に始まったこととして第二部半ばに drums と space がはさまる形が定まったことがあります。聴衆の一部にはトイレ・タイムと心得る人たちもいましたが、録音は通常の楽曲演奏同様じっくり耳を傾ける価値は十分にあります。drums は1980年代後期に MIDI の導入によってサウンド、手法とも格段に多様性を増し、Rhythm Devils と呼ばれるようになります。といってそれ以前がつまらないわけではもちろんありません。

 ドラムスのない、フロントの4人だけによる space も、様々に変化していきます。1960年代から70年代初めには〈Dark Star〉や〈Playing In The Band〉〈The Other One〉など長いジャムに展開される曲で現れていた形が、この頃からここに集約され、楽曲内のジャムはデッド流ロック・ジャズになってゆく傾向が見てとれます。それにしても space のような、まったくの即興、それもフリー・ジャズなどとは対照的に比較的静かな、瞑想的なパートをショウの不可欠の要素として組込んだのは、まことにユニークなやり方です。同時にこのパートはクリエイターとしてこの集団がいかに大きく豊かな想像力、イマジネーションを備えていたかをまざまざと思い知らせてくれます。たとえば Dark Star Orchestra のようなコピー・バンドもショウの再現の一環として space をやりますが、比べるのも気の毒なくらいです。

 さて、まずは 1978-05-17, Uptown Theatre, Chicago, IL から〈Lazy Lightning> Supplication〉です。

 曲はバーロゥ&ウィアのコンビによるもので、このペアは1976年06月03日、オレゴン州ポートランドで初演。〈Lazy Lightning〉は1984年10月31日、バークリィまで、111回演奏。〈Supplication〉はその後単独で演奏され、1993年05月24日、マウンテン・ヴューまで124回演奏。スタジオ盤はウィアの個人プロジェクト Kingfish の1976年03月リリースのデビュー・アルバム冒頭です。デッドのこうした組曲は後から組合わせたものと、初めから組曲として作られているものがあります。もっとも後者は〈The Other One〉や〈Let It Grow〉のようにその一部が独立して演奏されるようになることが多いようにも見えます。

 ちなみに1976年06月03日には他に〈Might As Well〉〈Samson and Delilah〉〈The Wheel〉と、一挙に5曲がデビューしています。

 この05月17日では第一部のクローザーです。なお、この日のショウからは第二部2曲目〈Friend of the Devil〉が2016年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 1978年前半は2度目のピークである前年1977年の流れで、バンドは好調を維持しています。ただ、デッドのアーカイヴ管理人デヴィッド・レミューによれば、この年4月下旬の10日ほどの休みの間に演奏の質が変わり、1977年のタイトな演奏から、ずっとゆるく、ルーズな手触りの1978年版の演奏になります。

 この日は〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉から〈Franklin's Tower〉という珍しいメドレーで始まります。〈Franklin's Tower〉は通常〈Help on the Way> Slipknot!〉との組曲で演奏されますが、時々、独立でも演奏されました。〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉はもともととぼけた、ユーモラスな曲ですが、ここではぐっとくだけた演奏。ゆるいですが、ダレているわけではなく、魅力的な音楽になっているのがデッドたるところ。春風駘蕩というと言い過ぎでしょうが、その気分も漂います。

 この時期には定番となっている〈Me and My Uncle> Big River〉のメドレー、続く〈It Must Have Been The Roses〉というカントリー・ソングの並びでも、緊迫感より、絶妙の呼吸の漫才を見ているけしき。ドナとウィアの声の組合せには魔法があります。ここでの〈Looks Like Rain〉はその好例。そしてオープナーと対をなすおとぼけソング〈Tennessee Jed〉はベスト・ヴァージョン。ガルシアは歌うのを大いに愉しんでいますし、ギターはほとんど落語のノリ。レシュの弦が切れるのも、台本に「ここで弦が切れる」と書かれているようにさえ聞えます。

 こうなると場合によっては聴いていて胃が痛くなるようなこともある〈Lazy Lightning> Supplication〉のペアも、軽々と浮揚し、燦々と明るい陽光のもと、牧神たちが遊んでいます。ガルシアのギターは広い音域を駆使して、ジャズ・ギターとして聴いても第一級でしょう。

 1977年のデッド史上、最もひき締まった演奏はもちろん最高ですが、この時期特有のいい具合にゆるんだ演奏もまたデッドというユニットの面白さを放っています。(ゆ)

 グレイトフル・デッド公式サイトで毎年恒例の《30 Days Of Dead》、昨年のリリースから1979年3本目は 1979-05-07, Allan Kirby Field House, Lafayette College, Easton, PA から〈Passenger〉。

 Peter Monk 作詞、フィル・レシュ作曲で、このコンビの曲はこれしかありません。1977年05月15日にセント・ルイスで初演。1981年12月27日、オークランドが最後で、計99回演奏。演奏された期間は短いですが、頻度はかなり高い。レシュの曲ですが、この頃はかれはヴォーカルをとらないので、初演からしばらくはドナとウィアのコーラスで歌われました。

 レシュの曲としては珍しく、シンプルで軽快なロックンロール。《30 Days Of Dead》ではリリースの多い曲で、2011、2012、2013、2014、2016、2019年と6回登場しています。とられたショウは以下の通り。

1977-05-26, Baltimore Civic Center, Baltimore, MD
1977-10-07, University Arena (aka The Pit') , University Of New Mexico, Albuquerque, NM
1979-05-07, Allan Kirby Field House, Lafayette College, Easton, PA
1979-11-24, Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA
1981-02-26, Uptown Theatre, Chicago, IL
1978-05-07, Field House, Rensselaer Polytechnic Institute, Troy, NY

 このうち2013年に登場した 1979-05-07 が今回もリリースされました。このショウの SBD は外には出ていません。Internet Archives にあるものは AUD のみ。かなり上質の AUD ではあります。

 ショウは05月03日からの春のツアーの4本目。このツアーは05月13日メイン州ポートランドまでの計9本。春のツアーとしては短め。ブレント・ミドランドが加わって最初のツアーはやはり試運転の意味もあったのでしょう。なお、第二部後半 space の後のクローザーに向けてのメドレー〈Not Fade Away> Black Peter> Around And Around〉にクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスのジョン・チポリーナが参加しています。午後8時開演。料金10.50ドルのチケットが殘っています。

 〈Passenger〉はショウの第一部クローザー。オープナー〈Don't Ease Me In〉から快調に飛ばします。ガルシアの歌もギターも水を得た魚のよう、というのはこういう状態を言うのでしょう。〈Big River〉ではミドランドが早速電子ピアノでソロを任されています。それも、3コーラスという大盤振舞い。ガルシアもノってきて、ソロをやめません。その後も見事な演奏が続きます。〈Tennessee Jed〉はガルシアの力強いヴォーカルもこの曲特有のおとぼけギターも冴えわたって、この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。〈New Minglewood Blues〉では再びミドランドが今度はハモンドのサウンドでいいソロを聞かせ、ウィアが粋なスライド・ギターで反応します。

 〈Looks Like Rain〉はウィアが独りでドナの分までカヴァーしていますが、〈Passenger〉ではミドランドと2人で歌います。ガルシアはスライドでおそろしくシンプルなのに聴きごたえのあるフレーズをくり出します。2度目のソロは一転してバンジョー・スタイルの速弾き。どちらも、ギターを弾くのが愉しくてしかたがない様子。

 これは良いショウです。Internet Archives でも7万回以上の再生。《30 Days Of Dead》で何度も出すくらいなら、さっさと全部出してくれい。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの《30 Days Of Dead 2022》での1979年の2本目、12日の1979-12-01, Stanley Theatre, Pittsburgh, PA から〈Althea〉。

 このヴェニュー二夜連続の二晩目。前日は午後7時開演なので、おそらく同じでしょう。07日のインディアナポリスとの間にシカゴで三連荘をしています。

 第二部5曲目 space 前で〈C C Rider〉が初演されています。ウィアの持ち歌であるブルース・ナンバー。原曲はマ・レイニーが1925年に〈See See Rider Blues〉として録音したもので、おそらくは伝統歌。1986年までは定番として演奏されますが、それ以後はがくんと頻度が減ります。1987年のディランとのツアー用にリハーサルされましたが、本番では演奏されませんでした。最後は1992年03月16日のフィラデルフィア。計127回演奏。

 翌日、同じ街でザ・フーのコンサートがあり、ロジャー・ダルトリーとピート・タウンゼントが見に来ていたそうです。

 〈Althea〉は第一部クローザーの〈The Music Never Stopped〉の前で8曲目。この年8月4日オークランドでデビューしたばかり、これが14回目の演奏。1995-07-08のシカゴ、ソルジャーズ・フィールドまでコンスタントに演奏され、計271回。この時期にデビューしたハンター&ガルシアの曲としては最も演奏回数の多い曲です。全体でも51位。今回の《30 Days Of Dead》でも25日リリースの 1983-09-04, Park West Ski Area, Park City, UT からのトラックにも含まれています。

 そこでも書きましたが、何を歌っているのか、まだよくわかりません。わからないままに、でもこれは傑作だと思います。もっとも楽曲の魅力に感応するまで、かなり時間がかかりました。ガルシア流スロー・バラードとも違って、はじめはむしろ単調に聞えました。〈Sugaree〉や〈Black Peter〉に近いでしょうか。良いと思えだしたきっかけもよくわかりません。くり返し聴くうちに、いつの間にか、出てくるのが愉しみになっていました。

 "Althea" がここで人名であるのは明らかですが、本来は植物の名前、和名むくげ、槿または木槿とされるもの。原産は中国ですが、世界各地に広まっていて、本朝でも野性化しています。園芸用、庭園用としても植えられている由。韓国の事実上の国花。旧約聖書・雅歌に出てくる「シャロンの薔薇」に比定する説もありますが、「シャロンの薔薇」が実際に何をさすか定説は無いとのこと。

 人名としてはイングランドの詩人 Richard Lovelace (1618-1658) の詩 "To Althea from Prison" (1649) が引合に出されます。王の側近なので実名を出せない女性へのラヴソング。こうした仮名としての女性名としてハンターは "Stella" を使っていて、これが2番目。〈Stella Blue〉はガルシアのスロー・バラードの代表作ですが、この〈Althea〉も勝るとも劣らぬ名曲です。

 またギリシャ神話の英雄の一人メレアグロスの母親の名前との指摘もあります。

 歌詞には『ハムレット』からの引用も鏤められていますが、だからと言って意味がすっきり通るというようなものでもありません。まあ、こういうものはあーでもない、こーでもないと、聴くたびにいろいろ考えるところを愉しむものでありましょう。

 1983-09-04はだいぶ慣れて、歌いまわしにも余裕があります。歌の間に入れる間奏もいい。

 ここではまだ歌いきる、演りきることに集中していると聞えます。1週間後に較べると、この日のガルシアはずっと元気で、歌にも力があります。あるいはいろいろな歌い方を試しているようでもあります。1983年に較べると、アルシアとの距離が、物理的にも精神的にも、ずっと近い。ギター・ソロもすぐ側にいる相手に語りかけてます。

 オープナーの〈Jack Straw〉から続く15分を超える〈Sugaree〉がまずハイライトで、ガルシアは例によってシンプル極まりないながら、わずかにひねったメロディを重ね、さらにミドランドがオルガンで熱いソロを展開するのにウィアが応え、それにまたガルシアが乗っていきます。誰もがクールに、冷静とも言える態度なのに、全体の演奏はどこまでも熱く、ホットになってゆきます。その頂点ですうっと引く。これがたまりません。引いたと思えば、さらに飽くまでもクールに続く演奏は、あまりにシンプルでひょっとしてトボけているのかと邪推したくなります。この曲が「化ける」のは1977年春のツアーでのことですが、この演奏はその77年のヴァージョンにも劣りません。

 中間はカントリー・ソングを並べます。〈Me and My Uncle〉からそのまま続く〈Big River〉では、ミドランドが電子ピアノで、およそカントリーらしくない、ユーモラスなソロを聞かせます。こういうソロはこの人ならでは。こういうソロが出るとガルシアも発奮して、この曲では珍しくソロをやめません。続くは〈Loser〉。あたしはこの曲がもう好きでたまらんのですが、これは良いヴァージョン。この歌の主人公は実に様々な顔を見せますが、この日の「負け屋」はほんとうに参っているらしく、ほとんど嘆願しています。ガルシアのギターがまた悲哀に満ちています。ミドランドの〈Easy To Love You〉は〈Althea〉とほぼ同時にデビューしています。これまたみずみずしい演奏。〈New Minglewood Blues〉も元気いっぱいで、ダンプが撥ねまわっているようなビートに載せて、ウィアがすばらしいスライド・ギター・ソロをくり出すので、ガルシアも負けてはいません。

 そして〈Althea〉が冒頭の〈Sugaree〉と対になるハイライトを現出して、ガルシアのヴォーカルが全体をぐんとひき締めます。〈The Music Never Stopped〉で締めくくる第一部。この歌は本来ドナとウィアの2人で歌ってこそのところもありますが、ウィアが踏んばって、ドナの不在を感じさせません。今の姿を見ると、生き残ったメンバーで一番良い年のとり方をしているのはウィアですが、こういうのを聴くと、なるほどと納得されます。それに応えて、ガルシアが引っぱれるだけ引っぱって盛り上げる。

 ミドランドへの交替はまずはかなりのプラスの効果を生んでます。(ゆ)

 昨年11月の《30 Days Of Dead 2022》を時間軸を遡りながら聴いています。

 1979年からは今回3本、セレクトされました。
 オープナー01日の 1979-05-07, Allan Kirby Field House, Lafayette College, Easton, PA から〈Passenger〉。これは2013年の《30 Days Of Dead》でリリース済み。
 12日の1979-12-01, Stanley Theatre, Pittsburgh, PA から〈Althea〉。
 そして19日の 1979-12-07, Indiana Convention Center, Indianapolis, IN から〈Eyes Of The World〉。

 1979年には大きなできごとがあります。年頭のツアーの終った2月半ば過ぎ、鍵盤奏者がキース・ガチョーからブレント・ミドランドに交替し、キースと同時にドナ・ジーンも退団します。1970年代を支えたペアがいなくなり、ミドランドは鍵盤兼第三のシンガーとして1980年代を担うことになります。今回の3本はいずれもミドランド・デッドの時期です。

 一つの見方として、デッドのキャリアを鍵盤奏者で区切る方法があります。1960年代のピグペン、70年代のキース・ガチョー、80年代のブレント・ミドランド、90年代のヴィンス・ウェルニク。意図してそうなったわけではありませんが、結果としてきれいに区分けできてしまうことは、グレイトフル・デッドという特異な存在にまつわる特異な現象でもあります。デッドとその周囲にはこうしたシンクロニシティが実に多い。

 この年は珍しく年頭01月05日からツアーに出ます。フィラデルフィアから始め、マディソン・スクエア・ガーデン、ロングアイランド、アップステートから東部を回り、さらにミシガン、インディアナ、ウィスコンシン、オクラホマ、イリノイ、カンザス、ミズーリ州セント・ルイスまで、1ヶ月半の長丁場でした。その途中、ドナがまず脱落し、ツアーが終って戻ったキースと相談の上、バンドに退団を申し入れ、バンドもこれを了承しました。

 前年の末からキースの演奏の質が急激に低下します。その原因はむろん単純なものではありませんが、乱暴にまとめるならば、やはり疲れたということでしょう。デッドのように、毎晩、それまでとは違う演奏、やったことのない演奏をするのは、ミュージシャンにとってたいへんな負担になります。デッドとしてはそうしないではいられない、同じことをくり返すことの方が苦痛であるためにそうやっているわけですが、それでも負担であることには違いありません。

 それを可能にするために、メンバーは日頃から努力しています。もっとも本人たちは努力とは感じてはいなかったでしょうけれども、傍から見れば努力です。何よりも皆インプットに努めています。常に違うことをアウトプットするには、それに倍するインプットが必要です。キースもそれをやっていたはずで、そうでなければ仮にも10年デッドの鍵盤を支えることはできなかったはずです。それが、様々の理由からできなくなった、というのが1978年後半にキースに起きたことと思われます。そのため、キースは演奏で独自の寄与をすることができなくなります。そこでかれがやむなくとった方策はガルシアのソロをそっくりマネすることでした。このことはバンド全体の演奏の質を大きく低下させました。

 最も大きくマイナスに作用したのは当然ガルシアです。ガルシアは鍵盤奏者の演奏を支点にしてそのソロを展開します。鍵盤がよい演奏をすることが、ガルシアがよいソロを展開する前提のひとつです。それが自分のソロをマネされては、いわば鏡に映った自分に向って演奏することになります。その演奏は縮小再生産のダウン・スパイラルに陥ります。

 公式リリースされたライヴ音源を聴いていると、1979年に入ってからのキースの演奏の質の低下が耳につきます。したがって鍵盤奏者を入れかえることはバンドとしても考えなければならなくなっていました。ガルシアは代わりの鍵盤奏者を探して、当時ウィアの個人バンドにいたミドランドに目をつけていました。

 ミドランドがアンサンブルに溶けこむためにバンドは2ヶ月の休みをとり、04月22日、サンノゼでミドランドがデビュー、05月03日から春のツアーに出ます。05月07日のペンシルヴェイニア州イーストンはその4本目です。

 この年のショウは75本。レパートリィは93曲。新曲は5曲。ハンター&ガルシアの〈Althea〉〈Alabama Getaway〉、バーロゥ&ウィアの〈Lost Sailor〉と〈Saint of Circumstances〉のペア、そしてミドランドの〈Easy to Love You〉。

 1979年にはかつての "Wall of Sound" に代わる新たな最先端 PA システムが導入されます。デッドはショウの音響システムについては常に先進的でした。目的は可能なかぎり明瞭で透明なサウンドを会場のできるだけ広い範囲に屆けることでした。〈Althea〉やガルシアのスロー・バラードの演奏にはそうしたシステムの貢献が欠かせません。

 この年は世間的にはクラッシュのアルバム《ロンドン・コーリング》でパンクがピークに達し、デッドはもう時代遅れと見る向きも顕在化しています。一方で、この頃から新たな世代のファンが増えはじめてもいて、風潮としてはデッドやデッドが体現する志向とは対立する1980年代のレーガン時代を通じて着実にファン層は厚くなっていきました。ちなみにデッドヘッドは民主党支持者に限りません。熱心な共和党支持者であるデッドヘッドはいます。

 時間軸にしたがって、まずは 1979-12-07, Indiana Convention Center, Indianapolis, IN から〈Eyes Of The World〉です。第二部オープナー〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が一度終った次の曲で、ここからクローザー〈Johnny B. Goode〉までノンストップです。

 ショウは10月24日から始まる26本におよぶ長い秋のツアー終盤の一本。このツアーは3本後の12月11日のカンザス・シティまで続きます。

 長いツアーも終盤でやはりくたびれてきているのでしょうか。ガルシアの声に今一つ力がありません。全体に第二部は足取りが重い。重いというと言い過ぎにも思えますが、〈Eyes Of The World〉は軽快に、はずむように、流れるように演奏されるのが常ですが、ここでは一歩一歩、確かめながら足を運んでいます。くたびれたようではあるものの、ガルシアはここで3曲続けてリード・ヴォーカルをとってもいますから、踏んばろうと気力をまとめているようでもあります。後半、ギターが後ろに引込んで、もともと大きかったベースと電子ピアノが前面に出て明瞭になります。とはいえ、それによって全体のからみ合いがよりはっきりと入ってきて、ひじょうに良いジャムをしているのがわかります。

 この後はウィアの〈Lost Sailor> Saint Of Circumstance〉のペアから space> drums> space ときて、本来のどん底を這いまわる〈Wharf Rat〉。そしてそのパート3から一気に〈Around And Around〉と〈Johnny B. Goode〉のロックンロール二本立てのクローザー。ここへ来て、ずっと頭の上にのしかかっていたものに耐えていた、耐えて矯めていたものを爆発させます。アンコール〈U. S. Blues〉が一番元気。

 疲れたらそれが現れるのを無理に隠そうとはしません。また飾りたててごまかすこともしない。疲れたなりに演奏し、それが自然な説得力を持つのがデッドです。そして結局演奏することで自らを癒す。より大きな危機も音楽に、ショウに集中することで乗り越えてゆきます。このショウはベストのショウではありませんが、デッドの粘り強さがよりはっきりと聴きとれます。(ゆ)

 昨年11月ひと月かけてリリースされた《30 Days Of Dead》を年代順に遡って聴く試み。20日リリースの 1980-05-31, Metropolitan Sports Center, Bloomington, MN からクローザーへ向けての3曲のメドレー〈I Need A Miracle> Bertha> Sugar Magnolia〉です。ショウは04月28日アラバマ州バーミンガムから始まった春のツアー後半の3本目。この後半は6月中旬、アンカレッジでの三連荘で打上げます。

 1980年は01月13日にカンボディア難民支援のチャリティ・イベントに参加しただけで、始動は遅く、03月31日ニュー・ジャージー州パサーイクから。ショウの総数は86本。レパートリィは103曲。新曲はミドランドの〈Far from Home〉とバーロゥ&ウィアの〈Feel like a Stranger〉。どちらもこの年04月にリリースの新譜《Go To Heaven》収録。

 このツアーの後、07月01日のサンディエゴを終えて1ヶ月半の夏休みに入りますが、その23日、キース・ガチョーが交通事故で死亡します。ピグペン、キース、ブレント・ミドランド、ヴィンス・ウェルニクの4人のデッドの鍵盤奏者はいずれも悲劇的な死に方をしています。

 秋にはサンフランシスコのウォーフィールド・シアター、ニューヨークのラジオシティ・ミュージック・ホールで長期レジデンス公演をします。この時は第一部がアコースティック・セット、第二部以降がエレクトリック・セットという構成でした。デッドが集中的にアコースティック・セットを演奏したのは1970年頃以来で、これが最後。ここからは《Reckoning》《Dead Set》というライヴ・アルバムがリリースされました。ライヴ音源を聴くかぎり、デッドはアコースティック・アンサンブルとしても一級で、こういう演奏をもっと聴きたかったものです。

 このショウは第二部だけ SBD があります。
 
 オープナーの〈Feel Like A Stranger〉は2ヶ月前にデビューして、これが16回目の演奏ですが、ミドランドのキーボードとコーラスの効果は歴然。ガルシアのギターもこれに感応しています。

 一度終って〈Ship of Fools〉。歌の裏のミドランドの電子ピアノが美味。ガルシア力唱。とはいっても、力みがないのがこの人の身上。

 やはり一度終って〈Last Sailor〉からは今回リリースされたクローザー〈Sugar Magnolia〉までノンストップ。〈Last Sailor〉は前年夏のデビューで、まだ新しい曲。1986年まではこの曲の後には〈Saint Of Circumstance〉が続きます。この二つは組曲になっていますが、さらに後者自体が少なくとも二つのパートに別れる組曲なので、ペアで演奏すると3曲の組曲に聞えます。このショウでは、後者の後半はまったく曲から離れた集団即興=ジャムになります。必然性は見えないけれど、聴いている分にはまことに面白いこの現象もデッドならではです。

 続くは〈Wharf Rat〉。やや闊達な演奏ですが、ガルシアのヴォーカルはむしろ抑え気味。ここではガルシアは歌っている間、ギターをほとんど弾きません。このヴァージョンはパート3でがらりと雰囲気が変わります。パート3が晴れやかな気分になるのはいつものことではありますが、ここはその切替えが大きい。ガルシアのギターは歌とは裏腹に緊張感が強い。

 イントロからベースのリフが入って〈The Other One〉。始まって間もなく少しの間 AUD になり、また SBD に戻ります。ここにアップされているのは Charlie Miller によるマスターなので、ミラーによる作業でしょう。演奏はいいです。間奏でのガルシアのギターは「ロック」してます。2番の歌詞の後、ガルシアがフリーの即興を続け、他のメンバーは小さな音でこれに反応します。しばし即興を続けてからガルシアも音を絞り、ドラマーたちに讓ります。

 Drums ではまず〈The Other One〉後半では沈黙していたクロイツマンがひとしきり叩いてから、ハートが加わって対話。一度終ってからハートが何やらドラム系ではない打楽器を叩きだし、しばらくしてガルシアがギターでメロディのない音数の少ないフレーズを弾きだして〈Space〉。

 〈Space〉からの曲が今回リリースされた〈I Need a Miracle〉。以下〈Sugar Magnolia〉までほぼ同じテンポ、アップビートな曲で軽快に駆けぬけます。前半はどちらかというとヘヴィに打ちこんできますが、後半は軽やか。この軽やかな〈Sugar Magnolia〉はいいなあ。

 このショウはダブル・アンコールで、一つ目が〈U. S. Blues〉、二つ目が〈Brokedown Palace〉。

 〈U. S. Blues〉は第二部後半の軽やかに弾む感覚が続いてます。ウィアがスライド・ギターでおいしいフレーズを連発します。とてもアンコールではないです。

 〈Brokedown Palace〉は再び AUD。音の良い AUD で、コーラスをきれいに捉えてます。これも明るく開放的な演奏。

 1980年代前半はこれまで公式リリースが少ないですが、こういうショウがあるんですねえ。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの毎年11月恒例の《30 Days Of Dead》2022年版を年代順に遡って聴いています。
 今回は11-16リリースの 1981-12-06, Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL から〈To Lay Me Down〉。なお、このショウからは第一部9曲目〈Jack-A-Roe〉が2020年の《30 Days Of Dead》でリリースされています。

 毎年12月上旬はあまりショウはやりませんが、この年は珍しく11月29日ペンシルヴェイニアから12月09日コロラドにかけて短かいツアーをしています。この後は12日にカリフォルニアで軍縮を訴える音楽イベントをジョーン・バエズとやった後、26日からオークランドで恒例の年末年越しショウに向けての5本連続です。

 1981年はスロー・スタートで02月26日シカゴでの三連荘が最初。それでもショウの数は82本、レパートリィは123曲。デビュー曲は1曲だけで、ミドランドの〈Never Trust a Womon〉でした。この年の出来事としては春と秋の2回、ヨーロッパ・ツアーをしています。春はロンドンで4本連続をやった後、当時西ドイツのエッセンでザ・フーとジョイント。

 この時、New Musical Express の記者でパンクの支持者だった Paul Morley がガルシアに長時間インタヴューをします。パンクにとってはデッドは許しがたいエスタブリッシュメントだったわけですが、ガルシアは持ち前のユーモアと謙虚な態度でいなし、それにあくまでも愛想の良さを崩さなかったため、結果として出た記事ではモーリィが言いくるめられているように見えてしまい、これに怒った読者が数千人、雑誌の定期購読をやめるという事態になりました。今からふり返れば、パンクは表に現れた姿としてはデッドの音楽とは対極に見えても、根っ子ではかなり近いところから発していたので、そんなに怒ることもなかろうと思ったりもしますが、当時は何かと怒ることがカッコいいとされていたのでしょう。

 デッドは10月に再度ヨーロッパに渡り、イングランド、西ドイツ、デンマーク、オランダ、フランス、そしてスペインで唯一のショウをしています。

 また4月に《Reckoning》、8月に《Dead Set》の2枚のライヴ・アルバムが出ました。前年秋のサンフランシスコのウォーフィールド・シアター、ニューヨークのラジオシティ・ミュージック・ホールでのレジデンス公演からのセレクションで、前者がアコースティック・セット、後者がエレクトリック・セット。どちらも2枚組。後にCD化される際、トラックの追加がされています。アコースティック・セットはいくつか完全版が公式リリースされていますが、エレクトリック・セットは部分的なリリースだけです。完全版のリリースは50周年、2030年まで待たねばならないのでしょうか。

 このショウのヴェニューはシカゴ、オヘア空港そばの定員18,500人の多目的アリーナで、デッドはこの時初めてここで演奏し、1988年、89年、93年、94年といずれも春のツアーの一環として三連荘をしています。この時は開演午後8時で、料金は10.50ドルから。この頃になるとデッドヘッドは子どもたちをショウに連れてくるようになっていて、この日は特に多く、ウィアが「今日は子どもの日だね」とコメントした由。

 このショウの SBD はこの頃定番だったカセットではなく、オープン・リールに録音されているそうです。

 〈To Lay Me Down〉は第二部オープナー〈Samson And Delilah〉に続く2曲目で、次は〈Estimated Prophet> Eyes Of The World〉。

 この曲はガルシアのバラードの1曲。ハンター&ガルシアのコンビには、スロー・バラードのジャンルに分類できる曲がいくつもあって、これもその一つ。なお、スタジオ盤としてはガルシアの1972年のファースト・ソロに収められました。ちなみにこのファースト・ソロ収録10曲のうち、〈Deal〉〈Bird Song〉〈Sugaree〉〈Loser〉〈The Wheel〉とこの〈To Lay Me Down〉の6曲がデッドのレパートリィの定番になっています。もっとも〈Loser〉〈The Wheel〉以外の4曲はこのアルバム録音前から演奏されていました。〈To Lay Me Down〉も1970年07月30日初演。1980〜1981年に最も集中的に演奏されました。全体では64回演奏。

 〈Samson And Delilah〉はウィアのヴォーカルはいつもの調子で、ガルシアがギターを弾きまくります。ウィアがこれにスライドを合わせ、ミドランドがハモンドで支える形。

 次の曲が決まるまで、かなり時間がかかります。けれど、この後は〈To Lay Me Down〉からクローザーの〈Good Lovin'〉までノンストップです。

 〈To Lay Me Down〉の演奏はさらにゆったりで、やや投げやりともいえそうに始まりますが、徐々に熱気を加え、最後には相当に集中した演奏になるところが今回選ばれた理由でしょうか。

 一度きちんと終って間髪を入れずに〈Estimated Prophet〉。七拍子のこの曲は、当初はウィアが「ワン・ツー・フォー……」と数えて始まっていますが、この頃になると、いきなり始めています。歌のコーダではウィアがいかれたヤク中になりきっての熱演。いつもここは熱演になりますけど、この日の熱演はひときわ熱が入ってます。ウィアが歌を終らせるのを待ちかねたようにガルシアが2度目のソロ。1度目以上にメロディからはすっ飛んで、ギターの音色もどんどんと変えて、デッド流ロック・ジャズの精髄。

 いつの間にかビートが変わっていて、これという切れ目もなく〈Eyes Of The World〉に入ります。〈Estimated Prophet〉もわずかに速いテンポでしたが、こちらもそのまま疾走します。ガルシアも〈Estimated Prophet〉の後半から、細かい音を素早く連ねます。それにしても「世界の目」とは、世界を代表して見る目か、世界の中心としての目なのか。それとも両方を含めたダブル・ミーニングなのか。歌が終ってからのインスト・パートではガルシアの「バンジョー・スタイル」ギターが渦を巻き、バンドを引きこみます。やがてガルシアとウィアが残り、ウィアが締めて Drums にチェンジ。

 ビル・クロイツマンは10本ショウをやる毎にドラム・キットのトップの革を張りかえていたそうですが、ここでの叩きぶりを聴くと、さもありなんと納得できます。後半、ハートが背後に並べた巨大太鼓を叩くと、捕えきれずに、音が割れています。

 Space ではウィアとガルシアがまずスライド・ギターで音を散らし、ハートが様々なノイズを出すパーカッションを操り、おそらくレシュが背景を作って、ミドランドが風の音を送りこむ。いつもはドラマーたちは引っこみますが、この日はハートが殘って、いろいろな音を加えています。

 次の曲は〈Not Fade Away〉ですが、様々なサウンドや手法を試すように延々とイントロを続け、やがて前半とは対照的に遅めのテンポで曲本体が始まります。お祭りの曲というよりは、おたがいの間隔を広めにとり、ガルシアのソロも考えながら弾いている表情。

 続くは〈Wharf Rat〉。あたしの大のお気に入り。これが出てくると顔がにやけてしまいます。この曲は三つのパートからなる組曲になっていて、デッドの組曲好きが最も成功している例でもあります。パート2のガルシア、ウィア、ミドランドのコーラスが、うー、たまらん。ここでもガルシアは歌のメロディからはとび離れたギターを弾きますが、ここではジャズになりません。でもこれはロック・ギターでしょうか。どうでもいいことかもしれませんが、ギタリストとしてのガルシアはジャンルの枠組みにはおさまらない器の大きさを備えています。その点ではジミヘンもザッパも及ばないところがあります。よくあるロック・ギタリスト・ベスト100とかに現れるのはギタリスト・ガルシアのごく一部でしかない。

 クローザー〈Good Lovin'〉もゆったりとしたテンポで、前に突込まず、八分の力で半歩、いやほんの5ミリほど足を退いたところで演っています。クールというのともちょっと違う。ほんのわずか踏むところがずれると冷たく生気を失いかねない、軽やかな綱渡り。

 アンコールは〈Brokedown Palace〉。なんということもない演奏ですが、名曲に堕演なし。

 このショウはアメリカでは衛星ラジオ Sirius のデッド・チャンネルで放送もされているそうです。1980年代はガルシアの健康問題もあって、ショウの質が定まらず、そのせいか、他の時期に較べると評価も高くありませんが、良いものはやはり良い。公式リリースが待たれます。(ゆ)

 まずは前回の訂正。
「AUD は残念ながらアンコール〈It's All Over Now, Baby Blue〉は収録なし」
 と書きましたが、順番を替えて、第一部のクローザー〈Keep Your Day Job〉の後にちゃんと入っていました。勘違いしてすみません。これもかなり良い演奏。

 1984年からのもう1本は04日リリースの 1984-04-16, Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY から〈Dupree's Diamond Blues〉です。

 この年は03月28日から地元サン・ラファルの Marin Veterans Memorial Auditorium での4本連続ランで始動し、4月06日のラスヴェガスから春のツアーを始め、ロチェスターは四つめの寄港地です。このツアーは30日にロングアイランドで打ち上げます。

 この年のショウは64本、レパートリィは125曲。新曲はいずれもミドランドがらみで、〈Don’t Need Love〉と〈Tons Of Steel〉。それにトラフィックの〈Dear Mr. Fantasy〉のカヴァー。〈Dear Mr. Fantasy〉は後に〈Hey Jude〉と組合わされて、第二部後半の呼び物の一つとなります。

 この年、デッドは二つ、新しいことを始めます。一つはレックス財団 The Rex Foundation、もう一つが "Taper's Corner" です。

 デッドは結成当初から様々なベネフィット、チャリティ活動に参加し、演奏していますが、せっかくの収入の大半がたいていの場合、経費などの名目で途中で消えてしまうことに不満でした。そこで援助したい相手に直接資金を渡せるシステムとしてレックス財団を立上げたのです。レックスはクルーの一人 Rex Jackson からで、その急死を惜しまれていた人です。バンドはショウからの収入の一部を財団に寄付し、財団は5,000〜10,000ドルを個人や団体に寄付します。財団の評議員にはバンド・メンバー、クルー、スタッフに、ビル・グレアムとジョン・シェア、それにビッグ・ネーム・ファンでバスケットボールのレジェンド、ビル・ウォルトンも加わりました。財団が援助したのはミュージシャンだけでなく、学校や文化活動、AIDS 対策など多岐にわたります。ガルシアがかつてのよりを戻すために、デヴィッド・グリスマンへの資金援助を財団を通してやってもいます。この年最初の4連荘はレックス財団発足のお披露目でもありました。

 「テーパーズ・コーナー」は10月27日の Berkeley Community Theatre でのショウから導入されました。ガルシアの「公認」以来、ショウを録音する人間 Taper の数が増え、ベストの録音場所を求めた結果、サウンドボードの前に録音用のマイクが林立し、サウンド・エンジニアからステージが見えない事態にまでなっていました。また、テーパーの中には録音に熱中するあまり、周囲のファンに迷惑をかけることを顧ない者もいて、顰蹙をかってもいました。そこでサウンドボードの後ろに "The taper's section" または "The taper's corner" が設けられ、ショウを録音しようとする人間の指定席とされます。テーパーたちはこの席のチケットを買うことになりました。この措置は一方でショウの録音をバンドが正式に公認したことにもなりました。

 テープと呼ばれるショウの録音がデッドのファン・ベース拡大に果した役割はどんなに大きく評価してもし過ぎることはありません。テープがなければ、デッドが生きのびられたかどうか、危ういものがあります。デッドのテープ文化はそれ自体、大きな拡がりをもち、たいへん面白いテーマで、何冊もの本がすでに出ており、またこれからも出るでしょう。あたしらもまた、その恩恵を現在も受けています。解散後にファンになった人たちの中にも、公式に出ているサウンドボード録音 SBD よりも聴衆による録音 AUD の方が好きだという向きもあります。ひとつには AUD の方には聴衆の反応が大きく、明瞭に捉えられているからです。

 この年にはもう一つ、スタッフに変化がありました。ロック・スカリーが過度の飲酒でクビになり、アルコール中毒者更生施設に送られました。スカリーはパブリシスト、メディア担当の渉外係も兼ねていたので、デッドの存在が大きくなっているところで代わりの担当者が必要とされ、ガルシアの指名で Dennis McNally が就任します。マクナリーはジャック・ケルアックの伝記を書いていて、それを送られて読んだガルシアはマクナリーにデッドの伝記を書くことを提案していました。マクナリーはメディア担当としての経験も組込んで、バンド解散後、初の公式伝記 A Long Strange Trip, 2002 を執筆・刊行しました。関係者が多数まだ生きている時期で、内部にいた人間がこれだけ冷静かつ公平でバランスのとれた伝記を書いたのは、たいしたものだとあたしは思います。グレイトフル・デッドのキャリアについての基本文献です。

 この日04月16日のショウにも AUD があります。かなりクリアな佳録音です。

 オープナー〈Shakedown Street〉はガルシアが長いソロを展開します。こりゃあ、調子がいいです。

 〈Little Red Rooster〉ではウィアの声に思いきりリヴァーブがかけられ、スライド・ギターも見事。二度めの間奏ではミドランドのハモンド・ソロが聞き物。これを受けてウィアのスライドが再び炸裂。さらにガルシアが渋く熱いソロ。これはオールマンでも滅多に聴けないホットなブルーズ・ロックです。

 次は暗黙のルール通りガルシアの持ち歌で〈Peggy-O〉。この曲もいろいろ違った顔を見せます。ここでは歌も演奏もよく弾んで、やや明るい歌。感傷にも沈まず、脳天気にも飛びさらない、地に足をちゃんとつけて、酸いも甘いも噛みわけたような演奏。ここでもガルシアの声に軽くリヴァーブがかけられます。ガルシアの喉の調子が今一つで、痰がからんだような声になるので、そのカヴァーかもしれません。こういう判断はエンジニアのダン・ヒーリィがやっていたらしい。

 次のウィアは〈Me And My Uncle> Mexicali Blues〉のメドレー。この頃に多い組合せ。前者の間奏でガルシアが珍しくソロを3コーラス。確かによくはじけた演奏。この曲ではウィアの歌の後ろでもギターを弾いていて、それもかなり粋。曲は一度終りますが、ドラムスがそのまま次へ続けます。こちらでもガルシアがぴんぴんと硬く張った響きでやはり粋なソロを聴かせます。メロディから離れたりまた戻ったり。ここでもウィアの声に軽くリヴァーブがかかっているように聞えます。あるいはこのヴェニューの特性かも。

 次が今回リリースされた〈Dupree's Diamond Blues〉。この SBD は流通していないようです。AUD ではよく聞えないレシュとハートも明瞭。ここでのガルシアのソロはこの日の演奏に共通してよく弾んでます。

 ウィアの〈Cassidy〉ではミドランドが初めからずっと声を合わせます。ドナ時代のフォーマットの再現。この歌はこの形の方があたしは好き。その裏でガルシアもギターを合わせます。途中で少しダークなムードから始まるジャムがすばらしい。流れは続いていますが、曲からはまったく離れて、まるで別の曲。そしてコーラスにもどって静かに終る。いやあ、カッコええ。

 次はやはり少しダークな〈West L.A. Fadeaway〉。わずかに遅めのテンポで重いものが敏捷に跳ねてゆく感じ。この曲も魅力がわかるのにあたしには時間がかかりました。これはその名演の一つです。それにしてもロサンゼルスの西は太平洋で、West L.A. ってどこなんでしょう。

 第一部締括りは順番を無視してガルシアの〈Might As Well〉。ガルシアの声はもう潰れる寸前。ふり絞るのが愉しいと言わんばかりの歌唱。

 1時間超の第一部。かなり良いショウです。(ゆ)

 新年のご挨拶を申しあげます。

 今年が皆さまにとって実り多い年になりますように。


 昨年後半はとにかくグレイトフル・デッドばかり聴いていましたが、今年はもっと聴くことになりそうです。これまでは公式リリースを追いかけていましたが、年末の《30 Days Of Dead 2022》にひっかけて、AUD つまり聴衆録音も聴きだしました。これからできるかぎり聴いていこうと思ってます。

 オーディオ方面では昨年末に買った final ZE8000 がすばらしく、当分、これがあれば他は何も要らないくらいです。Amarra Play を通じて iPhone で Tidal も聴けるので、iPhone と M11Pro と ZE8000 で完結してしまっています。せっかく買った RS2 は、有線で聴くことが突然なくなってしまったので、宝の持腐れになってしまいました。また突然気が変わるかもしれませんけれど。

 今年、期待するものといえば final の耳かけ型ヘッドフォンです。

 読書では昨年秋、突如ハマってしまった石川淳を今年も読みつづけるでしょう。小林秀雄> 隆慶一郎の言葉を借りればあたしは今石川淳という事件の真只中です。いずれ読もうと買っておいた最後の全集が役に立っています。ただ、各種文庫の解説がなかなか面白い。

 さらに年末に宿題が出たドストエフスキーからトルストイ、プラトーノフ、グロスマン等のロシア文学も読むことになるしょう。 今だからこそのロシア文学です。それにグロスマンはウクライナ生まれですし。

 仏教関係にもハマりつつあります。今のところ鎌倉周辺。法然、親鸞、日蓮、道元、栄西あたり。それと原始仏教という、いわば両極端が面白い。これもあって、承久の乱前後の鎌倉時代がまた面白くなりだしました。

 SFFではアジア系をはじめとする女性の書き手たちという一応のテーマはありますが、あいかわらずとっちらかることでありましょう。

 しかしまあ、時間はどんどん限られているのに、読みたい本、聴きたい音楽は増えるばかり。ライヴも復活してきましたし、優先順位をつけるのがたいへん。一度つけてもしょっちゅう変わります。『カラマーゾフの兄弟』のように突然入ってくるものもあります。

 ということで、ここの記事はこういうことが主になるでありましょう。よしなに、おつきあいのほどを。



 では、《30 Days Of Dead 2022》のリスニングを続けます。

30 Days Of Dead 2022 を聴く。その10

 1986、85年からは今年はピックアップされず、次は1984年から2本、13日リリースの 1984-10-15, Hartford Civic Center, Hartford, CT のショウから〈Hell In A Bucket> Sugaree〉と、04日リリースの 1984-04-16, Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY から〈Dupree's Diamond Blues〉です。それぞれ春と秋のツアーからです。

 前者はこのヴェニュー2日連続の2日目。10-05から10-20までの短いツアーの5つめの寄港地。ノース・カロライナでスタート、ヴァージニア、マサチューセッツ、メイン、そしてここ。この後はニュー・ジャージーとニューヨークのアップステート。1週間あけてバークリィで6本連続をやると、後は年末です。

 この日のショウからは4曲目の〈Bird Song〉が2018年、第二部3曲目の〈Playing In The Band〉が昨年の、それぞれ《30 Days Of Dead》でリリースされています。なお、〈Playing In The Band〉の返りはその後、クローザー〈Sugar Magnolia〉の前です。すなわち、Drums> Space> 〈The Wheel〉> 〈Wharf Rat〉までが〈Playing In The Band〉にはさまれています。

 〈Playing In The Band〉は演奏回数の最も多い曲の一つで、1968年のデビュー以降、キャリア全体にわたって演奏されていますが、変貌の最も大きな曲でもあります。初めは5分で終っていたものが、1972年春のヨーロッパ・ツアー中に長くなりはじめ、ついには大休止の前には30分を超えるのも珍しくないほどになります。極限まで伸ばされたその次に、間に別の曲がはさまりだし、それも1曲2曲と増えていって、やがては第二部全体がはさまる、つまり〈Playing In The Band〉でスタートして、クローザーないしその前でまた還ることも起きてきます。最後にはその日には還らず、数日置いて還るようにまでなりました。同じ曲の様々な演奏、ヴァージョンを続けて聴いてゆくのは、デッドの音楽の聴き方としてショウを丸々1本聴いてゆくのに次いで面白く、また成果も大きいものの一つです。ショウを聴いてゆくのを横糸とすれば、同じ曲を聴いてゆくのは縦糸になるでしょう。その中でも〈Playing In The Band〉の聴比べは最高に愉しいものです。ただし、とんでもなく時間もかかります。

 今回リリースされたのはオープナーからの2曲。曲は一度終りますが、間髪入れずガルシアがリフを始めます。このあたり、あるいはあらかじめ決めていたか。デッドは次に何を演奏するかはその場で決めていますが、オープナーや最初の2曲はステージに上がる前に決めることもありました。

 演奏はすばらしい。ここではガルシアのソロがひっぱります。どちらもメインのメロディのヴァリエーションながら、意表をつくフレーズを連ねます。〈Hell In A Bucket〉のソロもよいですが、〈Sugaree〉がやはり凄い。大休止からの復帰後、この曲の即興パートはごくシンプルな音を坦々と重ねて壮大な展開になるようになります。1977年春などはこのままついに終らないのではないかと思えるほどです。ここではそこまではいきませんが、それぞれのソロは彩りを変えて面白い。この録音ではウィアの煽りも愉しい。ただ、1970年代に比べると、どこか切羽詰った響きがあります。ウィア、ガルシアともにヴォーカルも好調。

 ガルシアの調子がよいのでしょう、次の〈El Paso〉でも珍しくソロをとり、それも良いギターを聴かせます。ここでソロをやれという指示はこの頃はウィアが出していたようです。

 〈Bird Song〉もテンポがわずかに速い。つんのめるわけではありませんが、のんびりしていられないという、何かに追いかけられているような感覚が無くもありません。その緊張感はジャムではプラスに作用しています。ウィアがほとんど暴力的なサウンドで噛みつくのに、ガルシアが太刀先を見切るようなソロで逃げる。かと思うといきなり丁々発止。こりゃあ、いい。光と影が交錯する、すばらしい演奏。

 〈C C Rider〉はブルーズ・ビート。ここでもガルシアは難しいことは何一つやりません。弾くだけなら誰でも弾けそうなシンプルなギターなのに、じゃあ、弾いてみろと言われれば、たいていのギタリストでは聴くにたえないものになるんじゃないか。2番の後、ミドランドとウィアが各々にまた美味しいソロ。ウィアはやはり相当にアグレッシヴ。さらにガルシア。さらにシンプルで美味しいギター。

 この頃の AUD を聴くとほとんどの歌を聴衆が最初から最後まで大合唱してます。デッドの曲は決してカラオケ向きではない、むしろ歌いにくいものが多いんですが、皆さん、耳がいいのか。〈Tennessee Jed〉もその典型。ビートものんびりしているようで、よく弾む感じをきちんと摑むのは簡単ではないでしょう。ガルシアのギターにはいつものおとぼけがちょっと足りないかな。

 〈Jack Straw〉も始まりこそとぼけていますが、中間部では疾走感がみなぎります。この曲のリード・ヴォーカルはウィアですが、珍しくガルシアが一節歌うところがあります。2人が交互にリードを歌う曲はこれだけでしょう。当初はウィアが終始ひとりで歌っていましたが、何度か試した後、一節だけ、ジャック・ストロウに殺される相棒のセリフをガルシアが歌うようになります。そう、これは人殺しの歌です。

 間髪入れずガルシアがリフを始めて第一部クローザー〈Keep Your Day Job〉。悪い曲じゃないと今聴くと思うんですが、この曲はデッドヘッドにとにかく嫌われ、あまりの不人気に4年ほどでレパートリィから落ちます。それでも4年間は演奏されつづけました。

 後半もテンションは落ちません。オープナーは〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉のメドレーという定番ですが、演奏はすばらしい。どちらもヴォーカルに力がありますし、ジャム=集団即興にはぞくぞくします。こういうのを聴くのがデッドを聴く醍醐味。

 続く〈Playing In The Band〉は70年代を髣髴とさせる長いジャムを展開します。これも聴きごたえがあります。半ばでフリーになってますます70年代の雰囲気が濃くなり、さらに宇宙を旅してゆく感覚の演奏が続きます。そこから自然に〈Drums〉ですが、この AUD では短くカットされているのは残念。〈Space〉はギタリスト2人の掛合い。ここから〈The Wheel〉さらに〈Wharf Rat〉という流れも定番ではありますが、この組合せは何度聴いてもいい。〈Playing In The Band〉の還り、つまりしめくくりの演奏が来ると、ここまで長く入り組んだ路を旅してきて、故郷にもどった気分。デッドのショウを聴くのは多様な寄港地をへめぐる旅をするのに似ています。間髪を入れずに〈Sugar Magnolia〉。ここでもガルシアがすばらしいギターで全体をひっ張ります。1980年代前半はあまり評価が高くありませんが、こういう演奏があるなら、もっと聴きたい。

 AUD は残念ながらアンコール〈It's All Over Now, Baby Blue〉は収録なし。(ゆ)

 1988年からの選曲は今回無しで、次は02日リリースの 1987-09-15, Madison Square Garden, New York, NY から〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉です。このペアは 1991-03-24 にも出ていますから、同じ曲がどう変わるかも体験できます。

 ここは肝心のところで、デッドは同じ曲を二度まったく同じに演奏することはありませんでした。この点ではロック・バンドではなく、ジャズのやり方です。つまり、同じ曲を同じように演奏することはつまらなかった。楽しくなかった。常に別のやり方、変わった手法でやろうとしました。このことは楽曲の演奏だけでなく、ショウの組立て、レコードの作り方から、ビジネスのやり方まで、あらゆるところに共通します。

 ですから、このペアのように通算で500回以上、そのキャリアの最初から最後まで通して演奏されつづけた曲でも、まったく同じ演奏は二つとありません。もちろん、時期が同じならば、共通したところはありますが、いつもどこか、何かが変わっています。またショウの中での順番、位置も変わります。これも時期によって、位置、順番が定まるケースもありますが、コンテクストが変わるので聴いて受ける感覚は変わってきます。このおなじみという感覚と演奏そのものが違うという感覚のバランスがデッドのショウを1本通して聴くときに愉しいところです。また、前回の 1989-02-06 のような、破格の順番、位置もまた愉しくなります。

 ショウはこのヴェニュー5本連続の初日。2日やって1日休んで三連荘です。この5本のショウの18.50ドルからのチケット85,000枚は4時間で売切れ、記録となりました。休みの17日にはガルシアとウィアが NBC の David Letterman Show に出演し、2人だけのアコースティック・セットで6曲演奏しました。この録画は YouTube で見られます。この時のランからは中日09-18のショウが《30 Trips Around The Sun》でリリースされています。

 前年の夏、ガルシアは重度の糖尿病で昏睡に陥ります。しかし、こんな重い症状から恢復したのは見たことがないと医者が驚く奇跡的な恢復を示し、10月にはジェリィ・ガルシア・バンドで、12月にはグレイトフル・デッドとしてステージに復帰しました。デッドはここから1990年春まで、終始右肩上がりに調子を上げてゆく黄金期を現出します。ビジネスの上でもそうですが、それよりも音楽の上で一層黄金期と言えます。見る角度によっては1972年、1977年をも凌ぐ、グレイトフル・デッドとして最高のピークです。

 そこにはこの年の夏、ミッキー・ハートが Bob Bralove の協力で MIDI をステージに導入したことも寄与しています。ブララヴまたはブレイラヴはクラシックの教育を受けたピアニストで、スティーヴィー・ワンダーのサウンド・デザイナー兼コンピュータ音楽ディレクターを勤めていました。ブララヴの援助で、ハートを皮切りにメンバーは次々に MIDI を導入し、これ以後のデッドのサウンドは多様性を大きく増すことになります。

 1987年は前年後半キャンセルした分もカヴァーするように、ショウの数は85本。1981年以来初めて80本を超えました。ちなみに30年のキャリアの中で年間80本を超えたのは14回あります。2,430万ドルを稼いで第4位。レパートリィは150曲。ここまで増えたのは、夏にボブ・ディランとツアーしたためもあります。

 ガルシアの復帰とこの年の稼ぎは強い印象を残しました。3年後、ポール・マッカトニーは13年ぶりにツアーを始める理由を訊ねられて、「ジェリィ・ガルシアが昏睡からたち直ってツアーできるんなら、ぼくだってできないはずはないと思ったのさ」と答えることになります。

 〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉はこの日の第二部オープナー。後半、ガルシアのギターを中心にした集団即興=ジャムがすばらしい。とりわけ、ガルシアとミドランドとレシュの絡合いが、この録音はよくわかります。ウィアのギターの音が小さいのが残念。ヴォーカルはちゃんと聞えます。〈I Know You Rider〉でコーラスの後で、すぐに歌を続けず、おれが弾くと言わんばかりのガルシアのソロ。ガルシアの歌の後のガルシアのソロとレシュのベースの絡みがまたたまらん。最後のアカペラ・コーラスになるところ、会場が手拍子で支えてますね。

 続くのは〈Estimated Prophet〉から〈Eyes Of The World〉という定番の組合せ。この2曲は〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉や〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉ほどの完全なペアにはなりませんでしたが、かなりの頻度で続けて演奏されてます。ただ、この2曲は順番が逆になったりします。どちらも長いジャムになることもよくあって、ここでも2曲合わせて20分超。

 前者では最初の歌の後の間奏でガルシアが決まったフレーズから出発して、どんどんはずれてゆき、最高のソロを聴かせます。ウィアの歌にもどると大喝采。ウィアも負けじと、イカレた「預言者」の役を熱演。その後のガルシアのソロはこの曲ではよくありますが、完全にジャズ、それも極上のジャズ。デッド流ジャズ。このソロを愉しめるかどうかは、デッドの音楽を愉しめるかどうかの試金石かもしれません。

 一度終って、一瞬、間があって〈Eyes Of The World〉のリフが始まると大歓声。ガルシアのヴォーカルが力強く、歌いまわしにも余裕があります。昏睡からの恢復後は相当に節制につとめたこともあり、体調も絶好調なのでしょう。こちらは〈Estimated Prophet〉よりもアップテンポで、ギターもそれに合わせていますが、やはりロック・ギターの範疇からははずれます。それにミドランドがピアノのサウンドでからんでゆくと、ガルシアはますます調子が出てきて、今度はハートとも絡みます。やがて、Drums に遷移。ハートが MIDI で不思議な音を出すのに、クロイツマンは通常のドラム・キットで応じます。ハートは今度は巨大太鼓でこれに対抗。この AUD は優秀で音は割れていません。デジタル録音と思われ、かなりクリアです。

 普通 Space に移るとドラマーたちはひっこみますが、この日はなかなかひっこみません。ひっこんだ後はガルシアとウィアの2人だけ。ガルシアはスライド・ギターで思いきり音をひっぱります。明瞭なメロディはなく、まさに宇宙空間を旅している気分。ウィアはこれにコードを合わせるというより、遠くから投げかける感じ。

 ごく自然に〈The Wheel〉が始まり、他のメンバーも入ってくるのに、ガルシアがイントロを引きのばします。聴衆も力一杯歌っているのも聞えます。これもいい演奏。

 〈Gimme Some Lovin'〉への遷移はちょっと唐突ですが、リフが始まってしまえばこっちのもの。すぐにミドランドがハモンドで有名なリフをくり出します。これも全員のコーラスですが、レシュも歌っていますね。歌の後、ワン・コーラスですがガルシアが切れ味のいいソロ。最後はこれもやや唐突に終り、すぐに〈All Along The Watchtower〉をやりかけますが、ガルシアの気が変わったようで〈Black Peter〉におちつきます。

 〈Black Peter〉でもガルシアのヴォーカルは元気で、このピーターはとても死にそうには聞えません。死にそうだという噂をばらまいておいて、あわてて見舞いに来た友人たちにアッカンベーをして見せるよう。前年の自分の体験を重ねているのでしょうか。ビートはブルーズ調で、ここでのガルシアのギターは明るいブルーズ・ギターの趣。

 一度きちんと終って間髪を入れず〈Sugar Magnolia〉。会場全体が最初からウィアにぴたりと合わせて歌っています。ウィアも負けじとメロディを崩してます。ミドランドのピアノを合図にジャムに突入、ガルシアは自在にメロディを崩して美味しいギターを展開します。弾きやめません。これぞ、デッド、ガルシアのギターを中心にバンド全体が飛んでゆきます。やがて、一瞬の間を置いて、ドン、ドンと Sunshine Daydream。ウィアがひとしきり叫んだ後はまたガルシアが弾きだしますが、この日はウィアが再びからみ、コーダにもちこみます。

 アンコールは〈It's All Over Now, Baby Blue〉。惜しいことにこれは AUD には入っておらず、SBD をストリーミングで聴きます。これはガルシアの持ち歌。ヴォーカルは力が籠もっていますが、ギターは肩の力が抜けて、「枯れた」というと言い過ぎですが、半歩退いたクールさが光ります。ミドランドのピアノがまたよく脇を締めています。最後にウィアが "Manana マニャーナ"。つまり「また明日」。この選曲と演奏も含め、明日のために力を貯めておけ、ということでしょうか。(ゆ)

 1989年からはもう1本 02月06日の Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA から〈Cassidy; Tennessee Jed〉が18日にリリースされました。こちらはこの年2本目のショウで、つまりは1989年の始めと終りからのセレクションをそろえたのでしょう。

 ショウは最初の三連荘の中日。3日置いてロサンゼルス国際空港の東隣のイングルウッドで三連荘したあと、ひと月空けて03月27日、アトランタから春のツアーが始まります。

 この2曲は第一部クロージングの2曲。このショウは選曲と並びが尋常でなく、何となくというふぜいで〈Beer Barrel Polka〉を始め、一度終り、音が切れてからいきなり始まるのは〈Not Fade Away〉。普通ならショウのクローザーやそれに近い位置に来る曲です。これは全員のコーラスによる曲ですが、その歌にこめられたパワーがはちきれんばかり。ガルシアのソロもシャープ。一度終って間髪入れず〈Sugaree〉が続きます。ガルシアの声が力強い。ギターも絶好調。さらに間髪入れずに〈Wang Dang Doodle〉。ややおちついたかとも聞えますが、コーラスではやはり拳を握ってしまいます。ガルシアのソロもミドランドのオルガン・ソロもなんということもありませんが、耳は引っぱられます。こういう異常な選曲と並びはバンドの調子が良い徴です。

 続く〈Jack-A-Roe〉では、ガルシアは3番の歌詞が当初出てきませんが、もう1回まわるうちに思い出します。このギターはデッド以前のフォーキー時代を連想します。

 次の〈Queen Jane Approximately〉は1987年のディランとのツアーからレパートリィに入りました。第一部の真ん中あたりでウィアがディランの曲をうたうのが、しばらく定番になり、"Dylan slot" などと呼ばれました。ガルシアがヴォーカルをとるディラン・カヴァーは第二部に入るのが多いようです。

 肝心の〈Cassidy〉は中間部のジャムがいきなりムードが変わり、無気味で不吉な響きを帯びます。まるで別の曲。そしてまたコーラスで元に戻る。こりゃあ、いいですねえ。こういう変化もデッドの味わいどころ。

 〈Tennessee Jed〉ではガルシアの力一杯の歌唱にちょっとびっくり。この時期の特徴かもしれません。後半のギター・ソロがまたすばらしい。ちょっとひっぱずした、ユーモアたっぷり、お茶目なフレーズ。こういうとぼけた曲のとぼけた演奏もまたデッドならではです。

 ザッパにもユーモラスな曲はありますが、こううとぼけた演奏はまずやらない。ユーモラスな演奏はしますが、どうもマジメにユーモアしている感じがあります。フロ&エディの時期のライヴにはとぼけたところもありますが、それはザッパよりもフロ&エディが引張たように見えます。

 デッドはマジメなのか、フマジメなのか、冗談でやっているのか、真剣なのか、よくわからない。そこが日本語ネイティヴにとってデッドのわかりにくさになっているのかもしれません。けれども、デッドは自分たちの音楽にあくまでも誠実だったことは確かです。

 ヴェニューは1914年にオークランド市街の中心部に建てられた多目的施設で、現在は国指定の史的建造物になっています。中にあるアリーナの収容人員は5,500弱。デッドは1985年02月からこの1989年02月07日まで、計34回、ここで演奏しています。1989年になると、デッドには小さすぎるようになりますが、ビル・グレアムにとっては何かと使い勝手がよかったのでしょう。

 ちなみに、1976年の復帰後は、ロッキー山脈西側のショウはビル・グレアム、東側は John Scher が担当プロモーターになります。グレアムはデッドにとっては最も重要で、関わりも深かったわけですが、コンサートをいわば自分の所有物とみなすグレアムの態度にはデッドはどうしてもなじめませんでした。プロモーターとアーティストの関係としてはシェーアとの方がしっくりいっていたようです。(ゆ)

08月31日・水
 Margaret Weis & Tracy Hickman, Dragons Of Deceit: The Dragonlance Destinies, Vol. 1 着。The War Of Souls 以来20年ぶりのオリジナル・デュオによる『ドラゴンランス』新作。一度は Wizards of the Coast と訴訟騒ぎにまでなったが、無事刊行されてまずは良かった。


 

 タッスルが持つ時間旅行機を使って、父親が戦死する過去を改変しようとする娘の話。タイムトラベルはサイエンス・フィクションの常套手段の一つだが、ファンタジーではロマンス用以外に真向から歴史改変を扱うのは珍しいんじゃないか。

 さてさて、これを機会に、最初から読みなおすか。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月31日には1968年から1985年まで7本のショウをしている。公式リリースは2本。

1. 1968 Fillmore West, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。3ドル。セット・リスト不明。リザーヴェイション・ホールジャズ・バンド、サンズ・オヴ・シャンプリン共演。

2. 1978 Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO
 木曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。8.25ドル。開演7時半。
 第一部クローザー前で〈From The Heart Of Me〉、第二部オープナーで〈Shakedown Street〉がデビュー。
 〈From The Heart Of Me〉はドナの作詞作曲。翌年02月17日まで27回演奏。それまでの〈Sunrise〉に代わってドナの持ち歌として歌われた。スタジオ版は《Shakedown Street》所収。曲としてはこちらの方が出来はいいと思う。
 〈Shakedown Street〉はハンター&ガルシアの曲。1995年07月09日まで、計163回演奏。スタジオ版はもちろん《Shakedown Street》所収。踊るのに適しているのでデッドヘッドの人気は高い。

 デッドのショウの会場周辺、典型的には駐車場でデッドヘッドたちが開く青空マーケットが "Shakedown Street" と呼ばれた。売られていたのは食べ物、飲物、衣類とりわけタイダイTシャツやスカーフ、バンバーステッカー、バッジなどのアクセサリー、同人誌、ショウを録音したテープなどなど。各種ドラッグもあった。このマーケットによって地元にも経済効果があったが、そこに集まるデッドヘッドの風体とドラッグの横行に、これを嫌う自治体も多く、1980年代末以降、新たなファンの流入で規模が大きくなると、地元との摩擦が問題となった。デッドとしてはショウができなくなるのが最大の問題なので、後にはマーケットは開かないよう間接的にデッドヘッドに訴えた。もっともデッドヘッドはそれでおとなしくハイハイとやめるような人間たちではない。ビル・グレアムが設計したカリフォルニア州マウンテンヴューのショアライン・アンフィシアターでは、「シェイクダウン・ストリート」を開けるスペースがあらかじめ組込まれているが、これは例外。

3. 1979 Glens Falls Civic Center, Glens Falls, NY
 金曜日。9.50ドル。開演7時。
 第一部クローザー前で〈Saint Of Circumstance〉がデビュー。〈Lost Sailor〉とのペアの最初でもある。バーロゥ&ウィアの曲。1995年07月08日まで222回演奏。演奏回数順では63位。〈Ship of Fools〉より4回少なく、〈Franklin's Tower〉より1回多い。〈Lost Sailor〉が演奏された間はほぼ例外なくペアとして演奏されたが、〈Lost Sailor〉がレパートリィから落ちた後も演奏され続けた。ペアとしての演奏は1986年03月24日フィラデルフィアが最後。単独では76回演奏。スタジオ盤は《Go To Heaven》収録。

4. 1980 Capital Centre, Landover , MD
 日曜日。8.80ドル。
 第一部クローザー前の〈Lazy Lightning> Supplication〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 これも宝石の1本といわれる。アンコール〈Brokedown Palace〉の途中でガルシアのギターの音が消えるハプニング。
 〈Lazy Lightning> Supplication〉はすばらしい。後半のジャムはベスト・ヴァージョンの一つ。

5. 1981 Aladdin Hotel Theatre, Las Vegas, NV
 月曜日。12ドル。開演8時。
 第二部前半、オープナー〈Lost Sailor〉から〈Playing In The Band〉までをハイライトとして、見事なショウだそうだ。
 終演後、観客は専用のルートで外に誘導された。デッドヘッドがカジノに溢れるのをホテル側が恐れたらしい。

6. 1983 Silva Hall, Hult Center for the Performing Arts, Eugene, OR
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演8時。
 第一部クローザー〈Cassidy> Don't Ease Me In〉が2010年の、第二部2曲目からの〈Playing In The Band> China Doll> Jam〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 後者は面白い。〈Playing In The Band〉は10分ほどで、最後までビートがキープされて、型が崩れず、その上でジャムが進行する。テンポが変わらないまま、ガルシアが〈China Doll〉のリフを始め、他のメンバーが段々乗ってきて遷移。ガルシアは歌詞をほうり出すように歌う。むしろドライな演奏。センチメンタルなところがない。歌が一通り終るといきなりテンポが上がってジャム。定まったメロディのない、デッド独得のジャムで、ミドランドが愉しい。このミドル、スロー、アップというテンポの転換もいい。

7. 1985 Manor Downs, Austin, TX
 土曜日。13ドル。開演8時。
 良いショウだそうだ。(ゆ)

08月03日・水
 Mick Moloney がニューヨークで77歳で亡くなったそうです。

 アイルランドとアメリカを往ったり来たりするアイリッシュ・ミュージックのミュージシャンは少なくありませんが、アイルランドからアメリカに渡って腰を据えたのは珍しく、さらに現在のアメリカのアイリッシュ・ミュージックの発展に貢献したことではまず右に出る人はいないでしょう。彼がいなければ、あるいはアメリカに腰を据えなければ、チェリッシュ・ザ・レディースやソーラスは生まれなかったと思われます。

 1944年リムリック生まれ。音楽に目覚めるのはウィーヴァーズやアルマナック・シンガーズの録音を聞いたことで、そこから生まれ故郷周辺、とりわけシュリーヴ・ルークラの伝統歌謡とダンス・チューンに向かいます。

 ぼくが彼の名前を知るのはジョンストンズに参加してからです。そこではポール・ブレディのギターとともに、マンドリンで、後にプランクシティが完成させる「対位法的」バッキングやアレンジを始めています。もっともその前にドーナル・ラニィらとともに Emmet Spiceland をやっていたことを、JOM の追悼記事で指摘されました。これはブラザーズ・フォーに代表される「カレッジ・フォーク」をアイルランドで試みた初期のグループの一つで、アイルランドではヒットもしています。

 1973年にアメリカに移住。この頃はアメリカではまだアイリッシュ・ミュージックは移民共同体内部のものでした。様相が変わるのはモローニによればアレックス・ヘイリーの『ルーツ』です。これはアフリカ系アメリカ人である自分の「ルーツ」を探った本で一大ベストセラーになるとともに、他の民族集団が各々のルーツに関心を向けるきっかけにもなります。アメリカが多様なルーツを各々にもつ移民集団から成る社会であるという認識が定着するのもこれがきっかけだそうです。各民族集団の文化的活動への公的資金援助も増え、アイルランド系はすでに組織化されたものが多かったために、その恩恵を受けた由。

 1980年代前半はアイルランドは不況で、アメリカへの移民が増え、ミュージシャンも多数移住します。ミホール・オ・ドーナルとトゥリーナ・ニ・ゴゥナルの兄妹や、後にアルタンのメンバーとして来日もするダヒィ・スプロール、さらにはケヴィン・バークなどが代表です。こうした人びとの刺激もあり、アメリカのアイリッシュ・ミュージックはこの時期ルネサンスを迎えます。ミック・モローニはその中心にあって、演奏、制作、メディア、研究のあらゆる分野でこのルネサンスを推進しました。

 ソロ・アルバム《Strings Attached》を出し、The Green Fields Of America を結成してツアーし、チェリッシュ・ザ・レディースが誕生するきっかけとなったコンサートを主導し、シェイマス・イーガンのソロ・ファースト《Traditional Music Of Ireland》や、アイリーン・アイヴァーズとジョン・ウィーランのデュオ・アルバム《Fresh Takes》をプロデュースします。

 1992年にフォークロアとフォークライフの博士号を取得。アメリカにおけるアイリッシュ・ミュージックの歴史の研究家としてニューヨーク大学教授などを歴任。その業績にはアメリカ、アイルランドから表彰されています。2014年には TG4 の Gradam も受けています。

 個人的にはジョンストンズ時代の溌剌とした演奏と、1980年代、Robbie O'Connell と Jimmy Keane と出した《There Were Roses》のアルバムが忘れがたいです。

 まずは天国に行って、愉しく音楽していることを祈ります。合掌。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月03日には1967年から1994年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1967 O'Keefe Center, Toronto, ON, Canada
 木曜日。このヴェニュー6日連続のランの4日目。ジェファーソン・エアプレイン、ルーク&ジ・アポスルズ共演。
 セット・リスト不明。

2. 1968 The Hippodrome, San Diego, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。3ドル。開演8時半。カーリィ・クックズ・ハーディガーディ・バンド、マヤ共演。
 セット・リスト不明。
 James "Curley" Cooke は1944年ウィスコンシン生まれで2011年ワシントン州で死んだブルーズ・ギタリストのようだが、このバンド名では出てこない。この時期にハーディガーディをフィーチュアしていたとすれば、少なくとも20年は時代に先んじている。ハーディガーディでブルーズをやっているのは、まだ聞いたことがない。
 Maya もこの時代のミュージシャンは不明。

3. 1969 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。バレー・アフロ・ハイチ、アルバート・コリンズ共演。
 サックスが〈Dark Star〉に参加し、他の曲にヴァイオリンも参加しているが、誰かは不明。サックスはチャールズ・ロイド、ヴァイオリンは David LaFlamme または Michael White が推測されている。

4. 1982 Starlight Theatre, Kansas City, MO
 火曜日。
 ヴェニューは屋外のアンフィシアターで、コンサートの他、演劇、ミュージカルにも使われ、音響が良い。デッドのサウンドはすばらしかった、と Tom Van Sant が DeadBase XI で書いている。ショウも決定的な出来。

5. 1994 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開場5時、開演7時。トラフィック前座。
 第一部4曲目〈El Paso〉でウィアがアコースティック・ギター。
 DeadBase XI でのこのショウについての記事で、John W. Scott はデッドのヴィデオ・ディレクター Bob Hartnett へのインタヴューを載せている。これは実に興味深い。一つには、デッドのショウは音楽だけでなく、照明や映写イメージも含めた、総合的な作品になっていた。当時すでにU2の ZooTV ツアーやローリング・ストーンズのコンサートなどもそうした「総合芸術」になっていたが、デッドのものは、その中でも最先端の機材と技術と素材を駆使したものであることが、このインタヴューからわかる。
 ハートネットはキャンディス・ブライトマンと協力して、会場のビデオ画面に映しだすヴィジュアルを指揮していた。バンドが演奏する曲に合わせたイメージを映しだす。あらかじめ大量の素材をいくつかのセットにしたものをレーザーディスクに用意しておいて、演奏に応じて送りだす。デッドの音楽は何がどれくらいの長さ演奏されるのか、事前にはまったくわからないのだから、照明とスクリムのイメージ担当のブライトマンにしても、ビデオ・スクリーン担当のハートネットにしても、その仕事は難しいなどというレベルではない。06月のラスヴェガスではヴィジュアル組は本番3日前に現地に入って、入念にリハーサルをしている。
 ラスヴェガスでは暑さのために、機器がどんどん壊れた。このビデオ・プロジェクティングのチームはステージの下に陣取る。精神的、物理的ないくつもの理由からここがベストの配置なのだが、気温の上がり方は半端ではない。
 この年、この08月初旬まで炎熱の夏のツアーが組まれたのは、サッカーのワールド・カップ・アメリカ大会のためでもある。デッドのヴェニューはワールド・カップの試合会場と重なるところが多く、そのあおりでスケジュールはかなり無理の大きいものになった。
 このジャイアンツ・スタジアムでは初めて、屋外のステージでバンドのためのエアコン・システムが組まれた。特別仕立てのものだが、クルーやスタッフにはその恩恵は及ばない。
 インタヴューの最中、クルー、スタッフへの放送が入る。トラフィックのステージにガルシアが参加する可能性がある、それに備えて、トラフィックの最後の2曲では全員配置につくように、という指示だった。必ず入るとわかっているわけではなく、入るかもしれないというだけで、全員が用意している。
 ショウそのものは、スコットの記憶では前座のトラフィックの演奏ばかりが記憶に残るものだった。
 ベテランのデッドヘッドたちには我慢のならない出来かもしれない。しかし、バンド・メンバーだけでなく、デッドヘッドたちもまた老いてはいなかったか。少なくとも若くはない。(ゆ)

07月22日・金
 3ヶ月半ぶりの床屋。この爽快感はやめられない。夕方、散歩に出て、今年初めて蜩を聞く。

 夜、竹書房編集のMさんから連絡。今月末「オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』(藤井光訳)刊行記念オンライントークイベント」というオンライン・イベントがあるそうな。

 SFセミナーでもバトラー関連企画があるそうな。もう間に合わんか。
「オクテイヴィア・バトラーが開いた扉」出演:小谷真理 橋本輝幸

 わが国でもじわじわ来てますなあ。あたしが訳した The Parable 二部作は今秋刊行でごんす。皆さま、よしなに。

 それにしても、バトラーさん、出身高校にまでその名前がつけられる今の状況を知れば、墓の下で恥ずかしさに身を縮こませてるんじゃないか。こんなはずではなかったのに、と。なにせ、「血を分けた子ども」がネビュラを獲ったとき、こういうことにならないようにと思ってやってきたのに、と言ったくらいだからねえ。

 とはいえ、彼女の場合、黒人で女性という二重のハンデを筆1本じゃないペン1本だけで克服したわけだから、尊敬されるのも無理はない。それも、今と違ってマイノリティへの差別がまだあたりまえの時代、環境においてだし。まあ、とにかく、あたしらとしてはまずは作品を読むことだな。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月22日には1967年から1990年まで4本のショウをしている。公式リリースは2本。

1. 1967 Continental Ballroom, Santa Clara, CA
 土曜日。2.50ドル。このヴェニュー2日連続の2日目。共演サンズ・オヴ・シャンプリン、ザ・フィーニックス、コングレス・オヴ・ワンダーズ。セット・リスト不明。これを見た人の証言は2日間のどちらか不明。

2. 1972 Paramount Northwest Theatre, Seattle, WA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第一部3曲目〈You Win Again〉5曲目〈Bird Song〉11曲目〈Playing In The Band〉、第二部クロージングの3曲〈Morning Dew〉〈Uncle John's Band〉〈One More Saturday Night〉の計6曲が《Download Series, Vol. 10》でリリースされた。
 どれもすばらしい演奏。〈Bird Song〉と〈Playing In The Band〉は成長途中で、中間のジャムがどんどん面白くなっている時期。各々でのジャムのやり方を開発してゆく過程が見える。〈Playing In The Band〉の冒頭、ウィアがドナ・ジーン・ガチョーと紹介する。ドナの参加はまだこれだけ。
 〈Morning Dew〉はこの2曲よりは完成に近づいている。フォーマットはほぼ固まっていて、あとは個々の要素をより深めてゆく。

3. 1984 Ventura County Fairgrounds, Ventura, CA
 日曜日。開演2時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 最高のショウの1本の由。

4. 1990 World Music Theatre, Tinley Park, IL
 日曜日。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの中日。ティンリー・パークはシカゴ南郊。
 第二部2曲目〈Hey Pocky Way〉の動画が《All The Years Combine Bonus Disc》でリリースされた。
 第一部6曲目〈When I Paint My Masterpiece〉が始まって間もなく、一瞬、電源が切れて、沈黙が支配した。
 その後の第一部クロージングへの3曲がすばらしかったそうだ。(ゆ)

07月05日・火
 楽天の月初めのポイント5倍デーとて、山村修の謡曲にまつわるエッセイ、J. M. Miro の Ordinary Monsters 電子本、それに珈琲豆など必需品をあれこれ注文。

 (ここに楽天のアフィリエイトのリンクを貼ろうとしたが、手続きが難しすぎてよくわからん)


%本日のグレイトフル・デッド
 07月05日には1969年から1995年まで、4本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。

1. 1969 Kinetic Playground, Chicago, IL
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。共演バディ・マイルズ・エクスプレス。
 前日は一本勝負だが、この日は2セットに分けたらしい。

2. 1978 Omaha Civic Auditorium, Omaha, NE
 水曜日。
 《JULY 1978: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。

3. 1981 Zoo Amphitheatre, Oklahoma City, OK
 日曜日。第二部11曲目〈Stella Blue〉が《Long Strange Trip》サウンドトラックでリリースされた。
 ガルシアの声が少し掠れている。これくらいの方がこの歌にはふさわしいとも思える。いつもより少しドライに、言葉を投げだすように歌う。ギターは積極的に、三連符での上昇下降を繰返す。哀しみと諦観が同居しているようでもあるが、その両者の間に関係が無い。諦観というよりは、ついに届かないことを承知しながらも、試みずにはいられない、そのこと自体を我が身に引受ける姿勢、だろうか。それが哀しいのではなく、その背後にある人間存在そのものへの悲哀に聞える。この歌に名演は多いが、これは3本の指に入る。

Long Strange Trip (Motion Picture Soundtrack)
Grateful Dead グレートフルデッド
Rhino
2017-06-08



4. 1995 Riverport Amphitheater, Maryland Heights, MO
 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。28.50ドル。開演7時。
 第一部6曲目、クローザー前〈El Paso〉でウィアはアコースティック・ギター。
 残りこれを含めて4本。このショウが最後となった曲が多数ある。
 ディア・クリークでの件を受けて、駐車場に入るところでチケットの有無をチェックされた。チケットを持っている人びとは不便さを受け入れた。
 ショウの後、大雨が降りだし、バルコニーないし納屋がキャンプ場の上に崩れおちた。(ゆ)

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