クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:アメリカ音楽

 村井さんの「時空を超えるジャズ史」4回目は「移民都市、ニューヨークの音楽:世紀末から1930年代まで」。

 ニューヨークが移民都市として発展する要因は主に二つあると思う。エリー運河とエリス島だ。

 1825年に開通したエリー運河はエリー湖東端バッファローの近くからほぼ真東にハドソン川の上流オルバニー近くまで、全長565キロ。これによって五大湖地方が大西洋と結ばれ、内陸との人、モノの流通の量、スピードが格段によくなり、コストもぐんと下がった。ニューヨークが他の大西洋沿岸諸都市を後に置いて商業センターになるのはこの運河のおかげだ。

 エリス島はニュー・ジャージー州ジャージー・シティ沿岸の島で、マンハタン南端バッテリー・パークから自由の女神像に向かうとほぼ中間右手にある。天然の島を埋立で拡張していて、長方形の真ん中に沖側から切れ込みが入る形。切れ込みの中はフェリーの発着場。1892年から1954年まで、ここに移民の検疫、受入れのセンターが置かれ、計1,200万人がここを通って USA に入った。島には伝染病患者などを収容する病院があった。今は史跡として保存され、一般公開されている。

 村井さんが紹介したニューヨーク市(マンハタン、ブルックリン、クィーンズ、ブロンクス、スタテン島)の人口の変化をみるとエリス島の影響の大きさがよくわかる。Wikipedia によれば、こんな具合だ。

1840          391,114
1850          696,115          +305001
1860          1,174,779          +478664
1870          1,478,103          +303324
1880          1,911,698          +433595
1890          2,507,414          +595716
1900          3,437,202          +929788
1910          4,766,883          +1329681
1920          5,620,048          +853165
1930          6,930,446          +1310398
1940          7,454,995          +524549
1950          7,891,957          +436962

 1900年からの30年間に倍増し、350万人増えている。一つの都市でこれだけの短期間にこれだけの人口増加したのは、空前にして絶後だろう。しかもその内実はヨーロッパ各地からやってきた言語からして異なる人たちだ。英語を話せなかった人たちが大半だっただろう。アイルランドからの移民について、村井さんはダブリン周辺からの人たちと言っていたが、ダブリンのようなアイルランドにしては都会からよりも農村出身がほとんど、アイルランド語のネイティヴで英語は話せない人たちだった。

 移民たちはニューヨークの中で出身地毎に固まって住む傾向があった。アイルランド、イタリア、ギリシャ、ユダヤという具合だが、各地域の間に壁があったわけでもなく、往来は自由だから、「ルツボ」になる。各々がもってきた音楽はごった煮になる。

 第一部はこの移民たち、ヨーロッパからの「新移民」たちの音楽。なのだが、各々の音楽そのものというよりは移民たちを題材にした音楽の趣。

 最初の〈Street piano medley〉は Len Spencer, Bill Murray という当時有名だったアイルランド系シンガーを August Molinari というピアニストが伴奏する。ピアニストは名前からしてイタリア系だろう。やっている音楽はラグタイムといっていい。

 次はそのビル・マレィによる〈Yes! We have no bananas〉。ギリシャ人八百屋の口癖をおちょくる歌で大ヒットした。ギリシャ語では日本語と同じく「バナナはないか」と訊かれると「はい、ありません」と答える。英語の通常用法では「いいえ、ありません」と答えなければならないわけだ。この歌をめぐってはスコット・フィッツジェラルドもエッセイを書いているそうな。それにしてもこのバックは上手い。

 3曲目からはユダヤ系の音楽がならぶ。まずはアイザイア・バーリン。ここでかかった初期の曲では確かにクレツマー系のメロディが聞える。

 次の Joseph Cherniavsky Yiddish American Jazz Band というバンドの曲はタイトルもイディッシュ語で、オケではあるが今聞いてもクレツマーで通じる。この頃にはデイヴ・タラスやナフトゥール・ブランディワインが活動を始めていたはずで、よりオーセンティックなクレツマーは別にあったのだろう。イディッシュ・アメリカン・ジャズ・バンドという名乗りはそうしたクレツマーとの差別化をはかったのかもしれない。タラスやブランディワインのコテコテのクレツマーはイディッシュしか話せない移民しか聞かず、それとは違う誰でも聞ける音楽、あるいは当時流行の「ジャズ」の範疇なのだと言いたっかたのではないか。

 こういうクレツマー・ベースのジャズの現代的展開の一つとしてここでジョン・ゾーンのマサダがかかる。マサダはもう30年続いていて、様々な形があるが、今回は最新のカルテットでジュリアン・ラージが入っている。ラージの演奏を嬉しそうに見ているゾーンの表情が面白い。

 次はユダヤ系ジャズの一つの到達点ガーシュウィン、それも本人の演奏による〈I Got the Rhythm〉。こんな映像が残っているだけでもびっくりだが、カメラ3台で撮っていたというのにのけぞる。それにしても上手い。

 仕上げに〈ラプソディ・イン・ブルー〉を初演したポール・ホワイトマン楽団による緑苑。今聞くとばかばかしいことを大真面目にやっているように聞える。クラリネット・ソロから始めるのはクレツマーへのオマージュだろうか。

 第二部は黒人の流入による「ハーレム・ルネッサンス」。こちらは国内移民というべきか。

 ここで初めて耳にしたのが、James Reese Europe という御仁。アラバマ州モバイルに1880年に生まれ、1904年にニューヨークに来る。この人、音楽的才能もさることながら、組織力があった人で、Clef Club という黒人ミュージシャンの同業者組合を組織した。1910年にカーネギー・ホールでプロト・ジャズのコンサートを開いている。ポール・ホワイトマンとガーシュウィンのエオリアン・ホール・コンサートに先立つこと12年、ベニー・グッドマンがカーネギー・ホールでやる26年前。しかもクレフ・クラブのミュージシャンたちは黒人作曲家の楽曲だけを演奏したというから、ユーロップさん、相当に時代に先んじていた。

 第一次世界大戦にアメリカが参戦したとき、黒人部隊も編成される。その軍楽隊を組織したのもユーロップ。1918年元旦にフランスに上陸した部隊に対するフランス軍兵士たちの歓迎への返礼に「ラ・マルセイエーズ」を演奏した時の様子をユーロップの伝記から村井さんは引用している。ユーロップ流のリズミカルな演奏にフランス人たちははじめ何の曲かわからなかった。

 ユーロップは1919年に帰国した直後、ちょっとした口論がもとで刺殺されてしまうが、クレフ・クラブの影響力は残る。これも村井さんが引用している佐久間由梨氏の論文によると、1924年当時、ジャズに四つのカーストがあった。証言しているのはデューク・エリントン楽団のトランペッター、レックス・スチュアート。トップがクレフ・クラブのオケ。次がベッシー・スミスなど女性ブルーズ・シンガーを擁する巡業楽団。これは仕事が絶えず、引っ張りだこだったかららしい。3番手がコットン・クラブのような白人専用のクラブで人気を博したフレッチャー・ヘンダーソンなどの楽団。エリントンの楽団もここに入るだろう。最低にいたのがラグタイムやストライド・ピアノなどを演奏する人たちで、黒人労働者向けの小さなクラブや、家賃を工面するため間借り人が入場料をとって開いたレント・パーティなどに出ていた。

 ということでこの四つを聞いてゆく。

 まずはジム・ユーロップ率いる第三六九歩兵連隊通称ハーレム・ヘルファイターズ所属軍楽隊による〈ラシアン・ラグ〉。ラフマニノフの嬰ハ短調前奏曲をイントロにしている。同じ曲をジェイソン・モランによるユーロップへのトリビュート・アルバムから聴き比べる。

 フランスで大成功して移住したジョセフィン・ベイカーのダンスの動画。こんなものもあるんですねえ。ベイカーは来日もしていて、たしか荷風が書いていなかったかしらん。ダンスもだが、目付きが面白い。ここで休憩。

 後半はベッシー・スミスの〈セントルイス・ブルーズ〉から始まる。バーで歌っているという仕立ての動画で、コール&レスポンスだ。

 カーストの3番目、ヘンダースン、エリントン、キャブ・キャロウェイの三連荘はおなじみではある。キャブ・キャロウェイの動画、もちろんフィルムだが、初めて見るので面白い。こうしてみると音楽というよりは芸能だ。この人は大変な才能があり、業績も大きいとどこかで読んだが、誰かいーぐるで特集してもらえんかのう。

 ファッツ・ウォラーと共演しているのがタップ・ダンサー、ビル・“ボージャングルズ”・ロビンソンと聞くと、、ジェリー・ジェフ・ウォーカーが作って、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドでヒットした〈ミスタ・ボージャングルズ〉を思い出すが、直接の関連はないらしい。歌でのミスタ・ボージャングルズは通称だけいただいた白人のタップ・ダンサーだ。

 第三部はカリブ海からの移民たちの音楽。具体的にはプエルト・リコとキューバからだ。

 前者については前出のジム・ユーロップが軍楽隊を組織するに際して、3日間プエルト・リコのサン・ホアンに行き、若く有能なミュージシャンを13人連れ帰ったという話を、村井さんは伝記から引用している。遙か後年、ライ・クーダーがキューバにでかけ、ブエナ・ビスタ・ソーシャル・クラブを出すのを思い出す。この時ニューヨークに渡ったミュージシャンたちは後にプエルト・リコ音楽の展開に大きく貢献することになったそうだ。

 最後にかかったのはキューバ原産の〈El manicero〉すなわち〈ピーナッツ売り〉。世界的な大ヒットになり、ルンバ・ブームを起こす。サッチモ、エリントンはじめ多数のカヴァーがあり、本朝でもエノケンがやっている。聞けばああ、あれとすぐわかる。

 1930年代、ナチスと戦火のヨーロッパからの移民の数はまた増える。ここにはユダヤ系のミュージシャンたちも多数いたはずだ。もっとも30年代を席捲し、ジャズをアメリカ全土に広めたスイングの王様ベニー・グッドマンはユダヤ系だがアメリカ生れ育ちだ。父親が19世紀末にワルシャワから渡った。

 移民は今また世界的問題になっているが、つまるところ移民によって、人が移動することによって文化が生まれ、新たに再生してゆく。ニューヨークの音楽が面白いのは、絶えず移民が入っているからだろう。そしてその面白さがまた新たな移民を引きつける。

 ニューヨークではスイングに続いてビバップが起きるわけだが、それはまたのお愉しみ。

 この連続講演、次は9月7日。あたしは残念だが別件があって行けない。(ゆ)

0217日・木

 Dark Breakers, C. S. E. Cooney、ザ・バンド全曲解説, 五十嵐正、着。

 Dark Breakers は既出2篇も大幅に改訂、拡張している、と巻末の著者ノートにある。この2篇は10年前に書いたもので、一昨年 Tor.com から出た Desdemona And The Deep の水準と長さに合わせる必要があった。今回加えられたのは、短かめのノヴェラ1篇と短篇2篇で、これらは最近の作。

 五十嵐さんの本は、デッド本の参考になるか、と思って買ってみた。〈The Nigth They Drove Old Dixies Down〉の項目に目を通す。お手本にしたいほど良く書けていると思う。しかし、デッドにはこの手法は使えない。デッドの「全曲解説」をするとすれば、アルバムの枠をはずして、タイトルのアルファベット順か、あるいは演奏回数の多い順にするしかない。《Built To Last》以降にデビューした曲は当然バンド在世中の公式アルバムには入っていないし、デッドにおいてはカヴァー曲はオリジナルと同様に重要だが、これまたどこにも入っていないものが多すぎる。逆にスタジオ盤に収録されながら、ライヴでは一度も演奏されなかった曲もある。

 数からいえば、300曲とすれば、ほぼ漏れは無かろう。1曲1,000字でトータル30万字。400字詰750枚。でも、重要曲は千字では収まらないし、メンバーのバイオとか、バンドの歴史とか、あれこれ加えて、まあ、千枚は超えますね。

 としてみても、それでデッドの総体が摑めるか。デッドの「作品」はアルバムではなく、個々の曲でもなく、1本1本のショウになる。一連のツアー、ランとしてのまとまりもある。曲からのアプローチは縦糸に相当する。横糸は2300本余りのショウだ。だから、少なくとも、公式に全体がリリースされているアーカイヴ音源を対象として、そちらからのアプローチも必要になる。つまり、最低で2冊必要だ。

 さらに、デッドを生み出し、デッドが生み出したアメリカの社会という観点もある。これはむしろ社会学の範疇で、音楽からは離れるかもしれない。あたしの手に余ることは確かだ。Jesse Jarnow Heads を翻訳できれば、足掛かりにはなりそうだ。



##本日のグレイトフル・デッド

 0217日には1968年から1988年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1968 Selland Arena, Fresno, CA

 3.50ドル。開場7時半、開演8時半。共演カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ、Valley Fever。デッドが先に演奏、とショウのプロモーターの一人は言うが、客の一人はデッドが最後としている。〈Good Morning Little Schoolgirl〉をやり、それからプロモーターによれば〈Turn On Yoru Lovelight〉、客によれば〈Viola Lee Blues〉を延々と演って終り。ガルシア公式サイトではデッドは最後で、演ったのは TOYL としている。

 Valley Fever は地元のバンドの由。

 〈Turn On Your Lovelight〉は日時場所が明確なものとしては19670805日、トロントで初演。19720524日ロンドンを最後に、一度レパートリィから落ちる。19811016日、オランダで復活。19840707日以後再び定番となり、最後は19950619日、ニュー・ジャージー州イースト・ラザフォード。計349回演奏。演奏回数順では26位。当初はピグペンの持ち歌で、後年はウィアが歌う。なお "Turn On Yoru Lovelight" "Turn On Your Love Light" の二通りのスペルがある。オリジナルのボビー・ブランドのリリースや、その他のほとんどのカヴァーでは後者のスペル。デッドも初めは後者を使っていたが、後、"Lovelight" を使うようになる。

 ショウでは後半の盛り上がるところで演奏されることが多い。〈Good Lovin'〉とならんで、ピグペンが即興でうたう「ラップ」を展開する曲でたいていは長い演奏になる。後期のウィアがヴォーカルをとる時期では、器楽演奏の比重が増え、やはり長いジャムが展開される。

 原曲は Joseph Scott & Deadric Malone 1961年に書いた。スコットは1961年から68年まで、ボビー・ブランドが仕事をしたバンドリーダーでアレンジャー。マローンはレコード・レーベルのオーナー経営者 Don Robey の筆名で、おそらく曲作りに実際に関ってはいない。ブランドはスコットの編曲で1961年に吹き込み、その年末にリリースされて、翌年初め、R&Bチャートで2位になっている。カヴァーは多く、ヴァン・モリソンのゼムやグレッグ・オールマン、ジェリー・リー・ルイス、トム・ジョーンズ、バリー・ゴールドバーグ、エドガー・ウィンターなどもやっている。


2. 1973 St. Paul Auditorium, St. Paul, MN

 第一部の半ばでスイッチが入ったらしい。第二部半ばで、〈Here Comes Sunshine> China Cat Sunflower> I Know You Rider〉という、この時だけの組合せが出る。HCS から CCS への移行があまりに見事なので、これがその後繰返されなかったのは不思議と John J. Wood DeadBase XI で書いている。

 〈Here Comes Sunshine〉はハンター&ガルシアの曲。この年0209日スタンフォード大学のショウでデビュー。1年後、19740223日に一度レパートリィから落ち、19921206日に復活。以後、最後まで演奏された。計66回演奏。スタジオ盤は《Wake Of The Flood》収録。アルバムのタイトルはこの曲の歌詞冒頭から。

 歌詞は例によって意味がとりにくいが、象徴としてのノアの洪水が底流にあると思われる。洪水をもたらした雨がやみ、雲が切れて陽光がさしこんでくる情景。ハンターによれば、1949年のワシントン州の洪水に遭遇し、父親に見捨てられて、他人の家に仮寓した体験を歌っている。ちなみにハンターは母親の再婚相手の姓。この曲がデビューしたパロ・アルトは、ハンターが両親とともに転居して、一度は入ったコネティカット大学をドロップアウトしてまで戻った地だ。


3. 1979 Oakland Coliseum Arena, Oakland, CA

 前売7.50ドル、当日8.50ドル。開演8時。ガチョー夫妻最後のショウ。後任のブレント・ミドランドにアンサンブルに入る準備期間を与えるため、0422日までショウは休む。

 DeadBase XI Mike Dulgushkin によれば、このショウの時点ではガチョー夫妻がこれで脱けることを聴衆は知らなかった。

 1970年代はデッドにとって最も幸福な時期で、それを支えた要素の一つはガチョー夫妻の存在である、というのがあたしの見立て。もう一つの要素は、メンバーが30代で、十分なエネルギーを保ちながら、ミュージシャンとして、バンドとして成熟していることだ。1年半、ショウを休んだことも、結果としてはベストの形になった。

 デッドヘッドにドナ・ヘイターは多いが、ドナの声は70年代デッドにユニークなカラーを与えている。とりわけ、休止期以後のハーモニーは、デッドの歌の最も美しい情景を生みだす。単純にシンガーとして見れば、おそらくデッドのうたい手の中ではトップだろう。ここで脱けることがなければ、ドナがリード・ヴォーカルをとる曲が主要なレパートリィの一部として聴けたかもしれない。ドナの後継がデッドに現れなかったのは、ガルシアが1980年代以降、自分のバンドには女性コーラス陣を欠かさなかったこととは対照的であり、いろいろな意味で興味深い。

 キースはデッドにおいて鍵盤の地位を明瞭に確立した。それ以前のピグペンにしても、トム・コンスタンティンにしても、バンドに不可欠ではあっても、リスナーにとっては重要ではなかった。キースのピアノは他のメンバー、とりわけガルシアにとって無くてはならないものになっただけでなく、バンド全体の音楽のなかで存在を主張し、積極的にジャムにからんで、リスナーからも注目される。ショウにあって、かれのスタインウェイはステージ上で目立った。

 それだけに、19720827日のヴェネタでのショウを収めた映画 "Sunshine Daydream" において、音は聞えるのに、かれの姿が画面に全く登場しないのは故意としか思えず、不審でもある。ショウの音源と共にリリースされた DVD の版は再編集されているとのことだが、オリジナルの版は見ていないので、そちらではキースが映っているのかはわからない。しかし、キースはすでに死んでいるわけだし、2013年のリリースの時点でその映像を削らなければならない理由は見当らない。このドキュメンタリーはその他の点ではまことに面白いものであるので、余計その穴が目立つ。


4. 1982 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 25ドル。開演8時。同じヴェニュー2日連続の2日目。すばらしいショウの由。この2日間はベネフィットのためとニコラス・メリウェザーは言うが、何のためかは不明。


5. 1988 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 開演7時。良いショウの由。(ゆ)


 寒くて、雨まで降りだし、散歩はなし。仕事して、デッドを聴いて、1日が終る。つくつく法師がまだ聞える。染井吉野の葉はあっという間に2割ほどになった。ここから、最後の1枚が落ちるまでが長い。


##9月26日のグレイトフル・デッド

 1969年から1993年まで8本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1969 Fillmore East, New York, NY

 2日連続の初日。カントリー・ジョー・マクドナルド&ザ・フィッシュ、シャ・ナ・ナが共演。この日はデッドが前座で翌日はカントリー・ジョー・マクドナルドが前座だったという説もある。デッドは2回、Early Late をやったと DeadBase は記載する。


2. 1970 Terrace Ballroom, Salt Lake City, UT

 独立のショウでポスターが残っているが、内容は不詳。DeadBase XI では、アコースティックとエレクトリック・セットをやった。


3. 1972 Stanley Theatre, Jersey City, NJ

 3日連続の初日。料金5.50ドル。


4. 1973 War Memorial, Buffalo, NY

 秋のツアー千秋楽。ポスターには "THIS IS THE LAST STOP.. FOR THE GRATEFUL DEAD AND FRIENDS"  とある。料金6ドル。'friends" はジョー・エリス、マーティン・フィエロのホーン・セクションのことだろう。


5. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 15本連続レジデンス公演の2本目。これが15本であるのはバンドの15周年にかけたと今気がついた。

 第一部アコースティック・セットから2曲、5曲目の〈Rosalie McFall〉とラストの〈Ripple〉が《Reckoning》でリリースされた。〈Ripple〉はオリジナルのアルバムでもラストに置かれた。この曲は Warfield Saenger TheatreRadio City Music Hall の合計25本全てで、アコースティック・セットの最後に歌われた。他は入れかわっているが、この曲だけは必ず第一部最後。全部で41回演奏されている、そのうちの25回がここに集中している。

 曲が始まると大歓声が湧くように、人気の高い曲だが、演奏回数は少ない方だし、こんなに連続して歌われるのは、他にはほとんど無い。エレクトリックでは歌いづらかったのか。良い曲と思われるのに、あまり演奏されなかったのは、インストゥルメンタル展開をする余地がほとんどないからではないか、とバラカンさんは言う。そうかもしれない。一方で、やはりその余地のほとんどない〈Me and My Uncle〉は最も演奏回数が多い。あるいは歌詞と曲が合っていない、とガルシアは感じるようになったのか。曲は名曲と言ってもいい、シンプルで親しみやすい。キャッチーでもある。だから人気も高いのだろう。が、詞はハンターのものの中でも象徴性の高いものではある。そのバランスの崩れているところが、あたしなどは面白いと思うが、ガルシアは続けざまに歌っているうちに、アンバランスに我慢がならなくなったのか。この一連のレジデンス公演の後では、この歌は5回しか演奏されていない。この年の12月に2回、翌年2回、そして最後は1988年9月3日。

 アコースティック・セット全体で言えば、デッド以前、アコースティックのバンドをいろいろやっていたにもかかわらず、デッドのフォーマットをアコースティックでやることにガルシアは必ずしも積極的では無かったけしきだ。いわゆる Before the Dead の時期が思いだされるのが嫌だったのか。しかし、《Reckoning》を初めて聴いた時には、そのみずみずしさに驚いたし、どれほど聴いてもその感覚は衰えない。このアルバムはあたしの中では特別の地位にある。もっといろいろな時期の曲をアコースティック編成で聴きたかったとも思う。デッド・ナンバーをアコースティックでカヴァーしている人はむろんたくさんいるが、そうではなく、アコースティック・デッドで聴きたかったのだ。


6. 1981 Buffalo Auditorium, Buffalo, NY

 開演夜7時半。前日から3日だけ、東部を回っている。前日もこの日も良いショウらしい。


7. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続最終日。ツアーも千秋楽。最高のショウの1本、だったらしい。アンコールが〈Brokedown Palace >And We Bid You Goodnight〉で、次のデッドのショウは1027日からの Oakland-Alameda County Coliseum Arena での4本連続。その初日2日前の25日、ビル・グレアムが乗っていたヘリコプターが墜落して死亡。というので、グレアムの死の裏にはデッドがいたという陰謀説があるらしい。〈And We Bid You Goodnight〉は197410月のライヴ休止前最後のショウの最後にも歌われた。そしてこの日が最後の演奏。終って、レシュは客席に向かって投げキッスをし、ウィアは最敬礼、ガルシアは手を振った。


8. 1993 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の3本目。(ゆ)


 仕事して、散歩して、デッドを聴いて、1日が終る。


##9月25日のグレイトフル・デッド

 1970年から1993年まで6本のショウ。公式リリースは2本。


1. 1970 Pasadena Civic Auditorium, Pasadena, CA

 ガルシアも入った New Riders Of The Purple Sage が前座。パサデナの当局は締付けが厳しく、ここでのショウはこの1回のみ。会場には消防署から人が複数来ていて、客が踊りだすと座らせていたが、終り近く、ピグペンが〈Turn on Your Lovelight〉を歌いだすと、皆一斉に立ちあがってステージ前に殺到したので、手が出せなかった、そうだ。DeadBase XI のルネ・ガンドルフィのレポートによると、真夜中10分前、ウィアが「ここは真夜中に戒厳令になって、演奏はできないと言われたんだが、交渉してあと1曲だけやってもいいということになった」と言って始まったのが〈Lovelight〉で、当然10分で終るはずがなかった。


2. 1976 Capital Centre, Landover, MO

 料金7.50ドル。夜8時開演。

 前半の1曲を除いて《Dick’s Picks, Vol. 20》でリリースされた。〈Cosmic Charlie〉はこの日が最後。後半の後半、〈Scarlet Begonias〉以降、〈St. Stephen > Not Fade Away > Drums > Jam > St. Stephen > Sugar Magnolia〉の流れは圧巻。〈スカベゴ〉が〈Fire on the Mountain〉と組み合わされるのは翌年5月。とはいえ、この独立の〈スカベゴ〉もなかなか素敵だ。


3. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 1014日までの15本連続公演の初日。料金12.50ドル。開演夜8時。一部アコースティック、二部、三部がエレクトリック。このフォーマットでこのあとニューオーリンズで2日、ニューヨークの Radio City Music Hall で8本のレジデンス公演を行う。アナログ時代のライヴ・アルバム《Reckoning》《Dead Set》の元になったもの。この日はアルバム収録無し。

 ポスターに描かれた会場入口上の、通常は当日やるアーティストの名前が掲げられるところ、ポスターの中では

They're not the best at what they do,

They're the only ones that do what they do.

連中はベストのバンドというわけじゃない。

連中がやってることを他には誰もやっていないのだ。

が掲げられている。デッドを表現する決まり文句の一つ。

 この一連のショウはぜひボックス・セットで完全版を出して欲しい。2030年までとっておかないでさ。


4. 1981 Stabler Arena, Lehigh University, Bethlehem, PA

 料金10.50ドル。夜7時半開演。定員6,500の多目的アリーナで1979年オープン。この日の聴衆は2,500で、料金からしても、学生向けではないか。この時が初体験も多いらしい。ここではこの1回のみ。

 デッドは1970年代初めから精力的に大学での公演を行っていて、そこからデッドヘッドの中核が生まれる。したがってデッドヘッドにはアメリカ社会のトップ層が多数含まれる。IT業界だけでなく、実業家、弁護士、学者、芸術家、アスリート、軍人、ありとあらゆる分野にまたがる。デッドのショウの舞台ソデにいた上院外交小委員会委員長のもとへ、ホワイトハウスから電話がかかってきたこともある。ちょうど前座のスティングが歌っているところで、かけてきた補佐官開口一番「ずいぶんにぎやかなところにおいでですね」。

 1980年代後半、人気が出すぎてできなくなるまで、こうしてやっているから、大学でやるのは好きだったとみえる。大学の会場は多目的ホール、アリーナが多く、音響が良くないので嫌うミュージシャンもいるが、ここは例外的に音響が良いそうだ。もっともやっているのはキッス、ジューダス・プリースト、ニルヴァナとかで、音響の良し悪しはあまり気にしそうもない。


5. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の5本目。《Dick’s Picks, Vol. 17》で完全版がリリースされた。ポール・マッカトニーの〈That Would be Something〉が初めて演奏される。ブルース・ホーンスビィが参加した唯一のヴァージョン。


5. 1993 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の2本目。アンコール前のラスト〈Standing on the Moon〉1曲があまりに凄くて、デッドのショウとしては凡庸なものを完全にくつがえした、と John W. Scott DeadBase XI で言う。(ゆ)


 昨日は梅雨の中休み、というよりはもう真夏の1日に、下北沢は風知空知での「21世紀をサヴァイヴするためのグレイトフル・デッド入門第4回」にお運びいただき、まことにありがとうございました。テーマが地味で、よりコアだったのですが、一応楽しんでいただけたようで、ほっとしております。聴いた楽曲、音源は以下の通りです。

Dark Star
18:56 1969-05-23, Hollywood Seminole Indian Reservation, West Hollywood, FL
ROAD TRIPS, Volume 4 Number 1

The Eleven
15:13 1969-02-28, Fillmore West, San Francisco, CA
Fillmore West 1969: The Complete Recordings

Dire Wolf
4:56, 1970-05-02, Harpur College, Binghamton, NY
Dick's Picks, Vol. 8

New Speedway Boogie
6:26, 1970-05-15, Fillmore East, New York, NY
Road Trips: Vol 3, No 3

Friend Of The Devil
3:42, 1970-06-07, Fillmore West, San Francisco, CA
30 Days Of Dead 2017

Ripple
5:35, 1971-04-29, Fillmore East, New York, NY
Ladies And Gentlemen...The Grateful Dead

Brokedown Palace
5:51, 1971-11-15, Austin Memorial Auditorium, Austin, TX
ROAD TRIPS, Vol. 3 No. 2

Greatest Story Ever Told
4:22, 1971-02-19, Capitol Theater, Port Chester, NY
Three From The Vault

Wharf Rat
9:08, 1971-12-14, Hill Auditorium, Ann Arbor, MI
Dave's Picks Bonus Disc 2018


 風知空知はテラス側が屋根も開けられるので、昨日は大きく開いて、気持ちのよい風が入っていました。夏にはなかなかいいものですね。

 演奏もアコースティックが多かったのですが、デッドの曲の良さを堪能できて、あたしは幸せでありました。デッドは実に多様な確度からアプローチできるのが、また楽しいものです。

 1969年と1971年の〈Dark Star〉の違いは面白かったと思います。バラカンさんも、《Live/Dead》のものが頭に焼きついているとのことでしたが、今回、いろいろのヴァージョンを聞き比べられて、あらためて面白くなったそうです。

 このイベンドですが、一応次回で区切りをつけることになりました。本が出た後で、あらためてまた何回かできればと思っております。その時にはアナログ盤大会もできるといいなと希望を抱いております。

 なので、次回はまだ聴いていない名曲の数々、いや、デッドのレパートリィは300〜500曲はあって、頻繁に演奏され、また人気もある名曲もまた数多くて、4回かけても聴いていないものはたくさんあります。そういう名曲の名演を選んで、ライヴ音源で聴いてみようということになりました。といっても、やはり1曲が長いので、マックスでも12曲、おそらくは10曲ぐらいになるでしょう。時期はまだ未定ですが、8月後半ないし9月前半になろうかと思います。

 さあて、いよいよ、本を作らねばなりません。今年じゅうにはたして出るか。(ゆ)

 バラカンさんが相手なので、あたしとしては気は楽だったんですが、どういう方々がお客さんに来るのかかわらず、また満員御礼ということはそれだけ期待も高いということで、気楽な一方で緊張もするという、まさにデッド的な体験でありました。

 まずは、昨夜、お越しいただきまして、まことにありがとうございました。お客様のなかには、200回以上ショウを体験された猛者もおられて、それでまた緊張が高まったりしました。全体としてはご好評をいただき、お店からもぜひとのことで、次回もやることになりました。篤く御礼申しあげます。何をやるかはいくつか腹案はありますが、まだまったく白紙です。こんなのはどうだとか、ありましたら、どうぞよしなに。

 会場のシステムもすばらしく、さんざん聴いた音源なのに、まったく新たに聴くような発見が多々ありました。田口スピーカーを初めて聴けて、感激であります。

 昨夜聴いた音源です。

01. Bertha
1972-03-27, Academy of Music, NY, NY; Dave's Picks 2015 Bonus Disc 6:57
1990-03-19, Civic Center, Hartford , CT; SPRING 1990 7:09

02. Cold, Rain & Snow
1978-07-07, 1978-07-07, Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO; JULY 1978 7:25

03. Cassidy
1972-05, ACE 3:40
1983-10-21, Centrum, Worcester, MA; 30 TRIPS AROUND THE SUN 6:11

04. Uncle John's Band
1970-06, WORKINGMAN'S DEAD 4:44
1990-03-24, Knickerbocker Arena, Albany, NY; DOZIN’ AT THE KNICK 10:05

05. They Love Each Other
1973-02-26, Pershing Municipal Auditorium, Lincoln, NE; Dick's Picks, Vol. 28 5:51
1975-09-28, Golden Gate Park, San Francisco, CA; 30 TRIPS AROUND THE SUN 7:28
1976-12-31, Cow Palace, Daly City, CA; LIVE AT COW PALACE 7:13

06. Estimated Prophet
1977-07, TERRAPIN STATION 5:37
1978-04-22, Municipal Auditorium, Nashville, TN; Dave's Picks, Vol. 15 12:35

Encore
07. Around and Around
1978-07-07, Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO; JULY 1978 8:44

 途中でフェイドアウトしたトラックもいくつかありましたが、それでも当初予定していた2時間ではとうてい終らず、30分延長させていただいてもギリギリで、どうもすみません。次回はもっと調整をきちんとします。ただ、デッドのことについてしゃべりだすと、バラカンさんも止まらなくなるというのがよくわかりました。自分もそうですが、コントロールはなかなかたいへんです。

 最初の2曲はオープナーの代表として選びました。〈Bertha〉については初期のものと後期のものの聞き比べでもあります。〈Cold, Rain & Snow〉はこんなのんびりした地味な曲からショウを始めるのは確かに不思議です。

 〈Cassidy〉は初めがハンター&ガルシアの曲なので、デッドのレパートリィの片方を支えるバーロゥ&ウィアの曲という意味合いもあります。これはウィアの《ACE》からの選曲で、スタジオ版とライヴ版の違いをまず聴いてみたいという趣旨です。《ACE》はスタジオ録音としては名盤といってもいいと思いますが、ライヴ版とは比較にならない、ということがあらためて実感できました。ライヴでの、バンド全体のからみ合い、浮遊感が、聴いたことのないほど気持ち良かった。田口スピーカーのシステムの恩恵でしょう。

 ここまでで時間を使いすぎて、〈Uncle John's Band〉は、ライヴ版を聴きながら休憩とさせていただきました。なお、〈Cassidy〉とこの曲のスタジオ版はバラカンさんがお持ちのLP(イギリス盤)とカートリッジを持参され、アナログでの再生でした。これまた気持よかった。

 〈Uncle John's Band〉のコーラス・ワークはライヴではなかなか再現が難しいですが、インストの展開はやはりライヴが圧倒的で、この1990年03月24日はガルシアのギターがなんともかわいらしい演奏を聴かせます。それと、このうたは本当に歌詞がいい。デッドの曲の通例で、意味はよくわからないところも多いんですが、何度も聴いて歌詞が体に入ってくると、それはそれは気持ちよくなります。一緒にうたいたくなります。

 〈They Love Each Other〉は、時期によって演奏のやり方ががらりと変わる様を聞き比べました。どれもそれぞれに味わいがあると思います。あたしもこの曲は後期のゆったりしたテンポで慣れていましたが、今回のイベントのために様々なヴァージョンを聴くうちに、当初の速いテンポのものもいいなと思うようになりました。

 〈Estimated Prophet〉もスタジオ版との聞き比べ。デッドのライヴのキモであるジャム、集団即興の醍醐味を味わいたく選びました。

 デッドのイベントなので、やはりアンコールは欲しいと思い、〈Around and Around〉を選びました。この曲も時期によって演奏の仕方が変わります。これは休止からの復帰後で、ゆったりしたテンポで入り、半ばから通常のロックンロールのテンポにギアチェンジします。そのカッコよさにはシビれます。


 ということで、今回はイントロとして考えてみました。次回はもう少し、細部にわけ入ってみたいと思っています。

 終了後の質問で、たくさん出ているなかで、どれから聴けばいいのか、と訊かれました。どれでもいいと思います。本当にどれでもかまいません。YouTube にはたくさん映像や音源があります。Internet Archive にはかつてはテープで聴かれていた録音がデジタルの形であがっています。

 それでも何かひとつ挙げろと言われれば、これをお薦めします。

Fallout From the Phil Zone
Grateful Dead
Grateful Dead / Wea
2005-02-14


 これはベースのフィル・レシュがバンド解散後の1997年、バンドの全キャリアの中から選んだライヴ音源集です。グレイトフル・デッドというバンドの全体像が、ごくぼんやりではあれ、浮かんでくるかと思います。この中で、ピンと来たトラックと同じ時期の他のライヴ録音を聴いてゆく、というのは一つの方法でしょう。全部OKであれば、もう立派なデッドヘッドです(^_-)。

 実を言えば、あたしがデッドにはまるきっかけの一つがこのアンソロジーでした。バラカンさんから自分はデッドヘッドだと言われた衝撃から探索をはじめ、図書館にあったこのアルバムを聴いて、これならイケる、面白いじゃないか、と実感したことからすべては始まったのであります。

 それにもちろん 30 Days Of Dead があります。毎年11月、ちょうど今月ですね、公式サイトで毎日1曲ずつ、未発表のライヴ録音がMP3の形でリリースされ、無料でダウンロードできます。この30曲は毎年、バンドの全キャリアをカヴァーする形で選ばれています。合計すれば4〜6時間、これだけでたっぷりデッドのライヴに浸れます。

 毎日クイズにもなっていて、その録音がいつのどこの演奏のものか正解がわかれば、レアで豪華な商品が抽選で当ります。これはほとんど不可能に思えるかもしれませんが、多少聞き慣れてくると見当がつくようになり、ネット上のリソースを使って絞りこむこともできるようになります。


 とまれ、まずは日頃なかなか話す相手もいないグレイトフル・デッドのことについて、バラカンさんとおしゃべりでき、またすばらしいサウンドで聴くことができて、あたしとしてはたいへん幸せでありました。これを可能にしてくれた、バラカンさん、アルテスパブリッシングの鈴木さん、風知空知のスタッフの方々、そしておいでいただいた皆様に心より御礼申し上げます。(ゆ)

 グレイトフル・デッドをただ聴いているだけではがまんできなくなり、ヴェテランのデッドヘッドであるバラカンさんを巻き込み、アルテスの鈴木さんを口説いて、こんな企画を立ち上げてみたものの、いざ実行となると、あらためてエライこっちゃと慌てているのが現状。

 まあね、50を過ぎてデッドにハマったファン(あえて「デッドヘッド」とは申しません)から見ると、わが国の今のグレイトフル・デッドの評価やイメージはあまりに貧弱ないし的外れに見える。デッドの録音としてボブ・ウィアの《ACE》が最高とか言われると、ちょっと待ってよと言いたくなるのです。

 一方で、昔からのデッドヘッドの一部にある見方、60年代を知らなければ、とか、実際のライヴを体験しなければデッドはわからん、というのもまた偏ってるよなあ、と思う。

 まあ、とにかく、先入観とか、固定観念とか一度とっぱらって、デッドの音楽に、ライヴの音源に耳を傾むけてみましょうよ、それも1970年代や80年代を聴いてみましょうよ、という趣旨ではあります。

 20世紀もいろいろ大変だったわけだけど、21世紀はもっと大変な時代になっていて、たぶんもっともっと大変な時代になってゆくだろうと思われる。マイルス・デイヴィス、フランク・ザッパ、それにおそらくはデューク・エリントンと並んで、20世紀アメリカの産んだ最高最大の音楽のひとつであるグレイトフル・デッドの音楽は、その21世紀を生き延びてゆくよすがの一つになるんじゃないか。音楽に「役割」があるとすれば、サヴァイヴァルのためのツールというのが第一と思う。

 ということで、11/07、風知空知@下北沢へどうぞ。(ゆ)

「21世紀をサヴァイヴするためのグレイトフル・デッド入門」
日時:2017年11月7日(火) 19時開場/19時30分開演
会場:風知空知(下北沢駅南口徒歩3分)
出演:ピーター・バラカン×おおしまゆたか
料金:前売2000円/当日2500円(共に+1drink 500円)
予約:yoyaku●fu-chi-ku-chi.jp までメールで、
イヴェント名、お名前、枚数、ご連絡先電話番号を明記の上、
お申し込みください。 ※アルテスパブリッシング
info@artespublishing.com でも承ります。
【ご注意】
整理番号はありません。当日は先着順でご入場いただきます。
ご入場は建物1F右奥のエレベーターをご利用ください。

 音楽について書くことの参考になればという下心から読んだのだが、期待した以上に面白い。この本にはいろいろな版があるが、読んだのは市立図書館にあった双葉文庫版。この版の後に The Cellar Door Sessions も出ていて、あたしはこれが一番好きなので、これについて著者が何を言っているかはちと気になる。

 マイルスは一通りは聴いた。これも市立図書館に、幸いなことに初期からめぼしいものは揃っていて、最後は Dark Magus。パンゲアとアガルタは買ってもっている。この二つは出た当時、ミュージック・ライフにもでかでかと広告が出ていたのが印象に残っている。当初は「パンゲアの刻印」「アガルタの凱歌」というタイトルで、広告の中では「刻印」「凱歌」の方が遙かに活字が大きかった。いつのまにか、この二つが落ちてしまったのは惜しい気もする。ニフティサーブの会議室で教えられて、プラグド・ニッケルのボックスも、ちゃんと輸入盤を買っていた。

 聴いたなかで好きなのは上記セラー・ドアとダーク・メイガス。そしてスペインの印象。復帰後はまったく聴いておらず、本書を読んで、やはり一度は聴かなあかんなあ、と思いだした。

 マイルスは一通りは聴いたものの、ザッパやデッドのように、はまりこむまではいっていない。アコースティック時代はプラグド・ニッケルも含めて、ピンとこなかった。セラー・ドアでも一番気に入っているのはキース・ジャレットとジャック・ディジョネット。ジャレットはこんな演奏はこの時でしか聴けないし、ディジョネットはスペシャル・エディションも好きだけれど、このバンドでの演奏はやはりピークだ。

 ダーク・メイガスはなぜかアガ・パンの後と思いこんでいたのだが、本書によると前になる。やはり、この昏さがアガ・パンよりも胸に響いた。終盤、失速するようにぼくには聞えるアガ・パンよりも、最後まで疾走しつづけるところもよい。

 マイルスのトランペットの音も、印象に残っていない。うまいと思ったこともないのは、「ジャズ耳」がぼくには無いということか。ぼくにとってのマイルスは優れたプレーヤーというよりも、バンド・リーダー、ミュージック・メイカーで、むしろクインシー・ジョーンズに近い。ジョーンズよりは現場で、自ら引っぱってゆくのが違う。

 ということで読みだして、いや、蒙を啓かれました。著者はぼくに近いところからマイルスを聴きはじめて、アコースティック時代の勘所もちゃんと聞き取っている。ロックも幅広く聴いている。ルーツ・ミュージックはそれほどでもないようだが、こういう広い耳を養いたい。器用というのではない、それぞれの勘所をちゃんと聞き取る柔軟性と、その上で取捨選択をする度胸を兼ね備えたい。後者はおのれの感性への信頼と言い換えてもいい。

 とはいえ、著者やぼくのように、ジャズよりもロックを先に聴いていて、そちらが青春という人間の耳には、エレクトリック時代の方がピンとくるのだろう。ジャム・セッションが嫌いと言い切る著者の耳は、ジャズが青春だった人びとの耳とは異なる。

 ジャズの定型のソロまわしは、ぼくも嫌いだ。回す楽器の順番まで決まっているのもヘンだ。あれをやられると、どんなに良いソロを演っていても、耳がそっぽを向く。似たことはブルーグラスでもあって、ブルーグラスが苦手なのはそのせいもある。そうすると、あのソロの廻しはアメリカの産物、極限までいっている個人主義の現れとも見える。ジャズのスモール・コンボは、ビッグバンドが経済的に合わなくなって生まれた、とものの本には出ているが、それだけではないだろう。オレがオレがの人間が増えたのだ。同時にそれを面白いと思う人間も増えたのだ。アンサンブルよりも、個人芸を聴きたいという人間が増えたのだ。クラシックでも第二次世界大戦後、指揮者がクローズアップされるようになる。オーディオ、はじめはハイファイと呼ばれた一群の商品の発達も、同じ傾向の現れとみえる。

 その点ではグレイトフル・デッド、それにおそらくはデューク・エリントン楽団は、集団芸であるのは面白い。エリントンを好む人たちのことは知らないが、デッドヘッドは自分だけが楽しむのでは面白くない人たちでもあった。

 マイルスはオレがオレがの人だったことは、本書にも繰り返し出てくる。面白いのは、オレを通そうとして、集団芸にいたるところだ。ザッパの場合、集団芸から出発して、最終的に個人芸を極める。後期になるほど、そのバンドは、ジョージ・セルにとってのクリーヴランド、バーンスタインにとってのニューヨーク、ワルターにとってのコロンビアに似てくる。マイルスとバンドとの関係は、それとは異なる。と本書を読んでいると思えてくる。

 マイルス本人の意識としては集団芸を追求しているつもりはたぶん無かったであろう。しかし、その方法は、自分はバンドの上に立って指揮統率し、一個の楽器としてこれを操って目指す音楽を実現しようとする、というよりは、自分もメンバーとなったバンド全体から生まれる音楽がどうなるか、試しつづけた、と本書を読むと思える。

 マイルスとしては、いろいろなメンバーで、あれこれ試す、ライヴをやったり、スタジオに入ったりして、試してみるのが何よりも面白い。それを商品に仕立てるのはどうでもいい、とまでは思っていなかったとしても、めんどくさい、テオ、おまえに任せた、とは思っていただろう。

 ザッパは商品に仕立てるところまで自分でやらないと気がすまなかった。デッドはマイルス同様、商品を作るのはめんどくさいが、しぶしぶやっていた。他人に任せても思わしい結果が出ない。つまり、デッドはテオ・マセロに恵まれなかったし、そういう人間は寄りつかなかった。それにとにかく演奏することを好んだ。

 マイルスもライヴは好きだっただろう。ただ、スタジオで、好きなように中断したり、やりなおしたり、組合せを変えてみたり、という実験も同じくらい好きだった。ライヴで試してみることと、スタジオで試してみることはそれぞれにメリット、デメリットがあり、出てくるものも異なる。その両方をマイルスは利用した。

 そのことはどうやら最初期から変わっていない。パーカーのバンドのメンバーとして臨んだ時から、モー・ビーとのセッションまで、一巻している。

 デッドは幸か不幸か、サード、Aoxomoxoa を作った体験がトラウマになったのではないか。そのために、それ以前から備えていたライヴ志向が格段に強化され、ライヴ演奏にのめり込んでいったようにみえる。

 それにしても著者の断言は快感だ。のっけからマイルス以外聴く必要はないと断言されると、あたしなどはたちまちへへーと平伏してしまう。もちろん、そんなことはない。ザッパもエリントンも聴かねばならない(ジャズを聴くんだったらモンクとミンガスも聴かねばなるまい)。デッドはもっと聴かねばならない。しかし、一度断言することもまた必要だ。そこで生まれる快感から、人の感性は動きだすからだ。

 そしてとにかくまず聴いてナンボだということ。本書全体がマイルスを聴かせるための仕掛けなのだが、その前に著者がまず徹底的に聴いている。ここに書いてあることに膝を叩いて喜ぶにせよ、拳を振り上げるにせよ、著者がマイルスをとことん聴いていることは否定できない。たぶん、著者は何よりもその報告をしたかった。聴いてみたことの記録を残したかったのだ。ここまで聴いて初めて、何かを聴きましたと言えるのだ、と言いたかったのだ。モノを言うのは聴いてからにしろ。タイトルは『聴け!』だが、内実は『聴いたぞ!』だ。『おまえは聴いたのか?』だ。

 もちろん、いつ何時でもそんな風に聴かねばならないわけではない。ユーロピアン・ジャズ・トリオの代わりに、In A Silent Way を日曜のブランチのBGMにしたっていい。オン・ザ・コーナーをイヤフォンで聴きながら、原宿を散歩したっていい。ただ、本書のような聴き方をすることが、マイルスの音楽には可能であることは、頭の隅に置いておくことだ。そうすれば、マイルスの音楽はそれぞれのシチュエーションにより合うように、その体験をより楽しめるようになるはずだ。

 これはマイルスの音楽の聴き方であって、同じ聴き方がザッパやエリントンやデッドにもあてはまるわけではない。何よりも音楽の成り立ち方が異なる。それぞれにふさわしい聴き方を編み出してゆく必要がある。というよりも、それを見つけることこそが、音楽を聴くということなのだ。バッハとモーツァルトでは聴き方を変えねばならない。ビートルズとストーンズでは聴き方は違う。ふさわしい聴き方を見つけるためにはとにかくとことん聴かねばならない。そもそもマイルスの音楽が自分に合うかどうかすら、聴いてみなければわからない。

 「ついでにいえば、ぼくはこうしたムチャクチャな商売のやりかた、2度買い3度買いさせて反省の色もない業界の強引なやりかたこそがファン激減の最大要因と考えている」(11pp.)

 音楽を真剣に聴く人間が激減している最大要因もそこにあるとあたしも考える。その背後には著作権への勘違いないし濫用がある。とはいえ、悪いのは「業界」ばかりではない。

 「つけ加えれば、ジャケットが紙になろうが、オトが良くなろうが、音楽を最深部で捉えていれば、“感動”の大きさに変化はないとうことを知るべし」(12pp.)

 つまり、そのことを知らない人間、音楽を聴くのではなく、所有することで満足する人間が多すぎる。ジャケットが紙になったから、オトが少し良くなったからと、同じ音源を2度買い3度買いする人間がいるから、業界もそれを商売のネタにする。できる。

 音楽はそれが入っている媒体を所有するだけでは、文字どおりの死蔵なのだ。紙の本は所有するだけで読まなくても、そこから滲みでるものがある。音楽は、レコードやファイルをいくら所有しても、何も滲みでてはこない。紙の本を読むためには、そのためのハードウェアは要らない。しかし、音楽を聴くには、演奏してもらう場合のミュージシャンも含めて、そのためのハードウェアがいる。楽譜を読めたとしても、聴くのとは異なるし、すべての音楽が楽譜にできるわけでもない。

 そう見るとデジタル本をいくら持っていても、滲みでてくるものは無いなあ。

 漱石全集のように断簡零墨まで集めた全集を読破することで読書力は飛躍的に高まる。骨董品の鑑定力を身につけるためには、良いもの、ホンモノをできるだけ多く見るしかない。音楽もまた、一個の偉大なアーティストを徹底的に聴くことで、聴く力が養われる。音楽をとことん聴くこと、聴いたことを表現することにおいて、これは一つの到達点だ。ここをめざすつもりはないが、この姿勢は見習いたい。(ゆ)

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