クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 村井さんの「時空を超えるジャズ史」4回目は「移民都市、ニューヨークの音楽:世紀末から1930年代まで」。

 ニューヨークが移民都市として発展する要因は主に二つあると思う。エリー運河とエリス島だ。

 1825年に開通したエリー運河はエリー湖東端バッファローの近くからほぼ真東にハドソン川の上流オルバニー近くまで、全長565キロ。これによって五大湖地方が大西洋と結ばれ、内陸との人、モノの流通の量、スピードが格段によくなり、コストもぐんと下がった。ニューヨークが他の大西洋沿岸諸都市を後に置いて商業センターになるのはこの運河のおかげだ。

 エリス島はニュー・ジャージー州ジャージー・シティ沿岸の島で、マンハタン南端バッテリー・パークから自由の女神像に向かうとほぼ中間右手にある。天然の島を埋立で拡張していて、長方形の真ん中に沖側から切れ込みが入る形。切れ込みの中はフェリーの発着場。1892年から1954年まで、ここに移民の検疫、受入れのセンターが置かれ、計1,200万人がここを通って USA に入った。島には伝染病患者などを収容する病院があった。今は史跡として保存され、一般公開されている。

 村井さんが紹介したニューヨーク市(マンハタン、ブルックリン、クィーンズ、ブロンクス、スタテン島)の人口の変化をみるとエリス島の影響の大きさがよくわかる。Wikipedia によれば、こんな具合だ。

1840          391,114
1850          696,115          +305001
1860          1,174,779          +478664
1870          1,478,103          +303324
1880          1,911,698          +433595
1890          2,507,414          +595716
1900          3,437,202          +929788
1910          4,766,883          +1329681
1920          5,620,048          +853165
1930          6,930,446          +1310398
1940          7,454,995          +524549
1950          7,891,957          +436962

 1900年からの30年間に倍増し、350万人増えている。一つの都市でこれだけの短期間にこれだけの人口増加したのは、空前にして絶後だろう。しかもその内実はヨーロッパ各地からやってきた言語からして異なる人たちだ。英語を話せなかった人たちが大半だっただろう。アイルランドからの移民について、村井さんはダブリン周辺からの人たちと言っていたが、ダブリンのようなアイルランドにしては都会からよりも農村出身がほとんど、アイルランド語のネイティヴで英語は話せない人たちだった。

 移民たちはニューヨークの中で出身地毎に固まって住む傾向があった。アイルランド、イタリア、ギリシャ、ユダヤという具合だが、各地域の間に壁があったわけでもなく、往来は自由だから、「ルツボ」になる。各々がもってきた音楽はごった煮になる。

 第一部はこの移民たち、ヨーロッパからの「新移民」たちの音楽。なのだが、各々の音楽そのものというよりは移民たちを題材にした音楽の趣。

 最初の〈Street piano medley〉は Len Spencer, Bill Murray という当時有名だったアイルランド系シンガーを August Molinari というピアニストが伴奏する。ピアニストは名前からしてイタリア系だろう。やっている音楽はラグタイムといっていい。

 次はそのビル・マレィによる〈Yes! We have no bananas〉。ギリシャ人八百屋の口癖をおちょくる歌で大ヒットした。ギリシャ語では日本語と同じく「バナナはないか」と訊かれると「はい、ありません」と答える。英語の通常用法では「いいえ、ありません」と答えなければならないわけだ。この歌をめぐってはスコット・フィッツジェラルドもエッセイを書いているそうな。それにしてもこのバックは上手い。

 3曲目からはユダヤ系の音楽がならぶ。まずはアイザイア・バーリン。ここでかかった初期の曲では確かにクレツマー系のメロディが聞える。

 次の Joseph Cherniavsky Yiddish American Jazz Band というバンドの曲はタイトルもイディッシュ語で、オケではあるが今聞いてもクレツマーで通じる。この頃にはデイヴ・タラスやナフトゥール・ブランディワインが活動を始めていたはずで、よりオーセンティックなクレツマーは別にあったのだろう。イディッシュ・アメリカン・ジャズ・バンドという名乗りはそうしたクレツマーとの差別化をはかったのかもしれない。タラスやブランディワインのコテコテのクレツマーはイディッシュしか話せない移民しか聞かず、それとは違う誰でも聞ける音楽、あるいは当時流行の「ジャズ」の範疇なのだと言いたっかたのではないか。

 こういうクレツマー・ベースのジャズの現代的展開の一つとしてここでジョン・ゾーンのマサダがかかる。マサダはもう30年続いていて、様々な形があるが、今回は最新のカルテットでジュリアン・ラージが入っている。ラージの演奏を嬉しそうに見ているゾーンの表情が面白い。

 次はユダヤ系ジャズの一つの到達点ガーシュウィン、それも本人の演奏による〈I Got the Rhythm〉。こんな映像が残っているだけでもびっくりだが、カメラ3台で撮っていたというのにのけぞる。それにしても上手い。

 仕上げに〈ラプソディ・イン・ブルー〉を初演したポール・ホワイトマン楽団による緑苑。今聞くとばかばかしいことを大真面目にやっているように聞える。クラリネット・ソロから始めるのはクレツマーへのオマージュだろうか。

 第二部は黒人の流入による「ハーレム・ルネッサンス」。こちらは国内移民というべきか。

 ここで初めて耳にしたのが、James Reese Europe という御仁。アラバマ州モバイルに1880年に生まれ、1904年にニューヨークに来る。この人、音楽的才能もさることながら、組織力があった人で、Clef Club という黒人ミュージシャンの同業者組合を組織した。1910年にカーネギー・ホールでプロト・ジャズのコンサートを開いている。ポール・ホワイトマンとガーシュウィンのエオリアン・ホール・コンサートに先立つこと12年、ベニー・グッドマンがカーネギー・ホールでやる26年前。しかもクレフ・クラブのミュージシャンたちは黒人作曲家の楽曲だけを演奏したというから、ユーロップさん、相当に時代に先んじていた。

 第一次世界大戦にアメリカが参戦したとき、黒人部隊も編成される。その軍楽隊を組織したのもユーロップ。1918年元旦にフランスに上陸した部隊に対するフランス軍兵士たちの歓迎への返礼に「ラ・マルセイエーズ」を演奏した時の様子をユーロップの伝記から村井さんは引用している。ユーロップ流のリズミカルな演奏にフランス人たちははじめ何の曲かわからなかった。

 ユーロップは1919年に帰国した直後、ちょっとした口論がもとで刺殺されてしまうが、クレフ・クラブの影響力は残る。これも村井さんが引用している佐久間由梨氏の論文によると、1924年当時、ジャズに四つのカーストがあった。証言しているのはデューク・エリントン楽団のトランペッター、レックス・スチュアート。トップがクレフ・クラブのオケ。次がベッシー・スミスなど女性ブルーズ・シンガーを擁する巡業楽団。これは仕事が絶えず、引っ張りだこだったかららしい。3番手がコットン・クラブのような白人専用のクラブで人気を博したフレッチャー・ヘンダーソンなどの楽団。エリントンの楽団もここに入るだろう。最低にいたのがラグタイムやストライド・ピアノなどを演奏する人たちで、黒人労働者向けの小さなクラブや、家賃を工面するため間借り人が入場料をとって開いたレント・パーティなどに出ていた。

 ということでこの四つを聞いてゆく。

 まずはジム・ユーロップ率いる第三六九歩兵連隊通称ハーレム・ヘルファイターズ所属軍楽隊による〈ラシアン・ラグ〉。ラフマニノフの嬰ハ短調前奏曲をイントロにしている。同じ曲をジェイソン・モランによるユーロップへのトリビュート・アルバムから聴き比べる。

 フランスで大成功して移住したジョセフィン・ベイカーのダンスの動画。こんなものもあるんですねえ。ベイカーは来日もしていて、たしか荷風が書いていなかったかしらん。ダンスもだが、目付きが面白い。ここで休憩。

 後半はベッシー・スミスの〈セントルイス・ブルーズ〉から始まる。バーで歌っているという仕立ての動画で、コール&レスポンスだ。

 カーストの3番目、ヘンダースン、エリントン、キャブ・キャロウェイの三連荘はおなじみではある。キャブ・キャロウェイの動画、もちろんフィルムだが、初めて見るので面白い。こうしてみると音楽というよりは芸能だ。この人は大変な才能があり、業績も大きいとどこかで読んだが、誰かいーぐるで特集してもらえんかのう。

 ファッツ・ウォラーと共演しているのがタップ・ダンサー、ビル・“ボージャングルズ”・ロビンソンと聞くと、、ジェリー・ジェフ・ウォーカーが作って、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドでヒットした〈ミスタ・ボージャングルズ〉を思い出すが、直接の関連はないらしい。歌でのミスタ・ボージャングルズは通称だけいただいた白人のタップ・ダンサーだ。

 第三部はカリブ海からの移民たちの音楽。具体的にはプエルト・リコとキューバからだ。

 前者については前出のジム・ユーロップが軍楽隊を組織するに際して、3日間プエルト・リコのサン・ホアンに行き、若く有能なミュージシャンを13人連れ帰ったという話を、村井さんは伝記から引用している。遙か後年、ライ・クーダーがキューバにでかけ、ブエナ・ビスタ・ソーシャル・クラブを出すのを思い出す。この時ニューヨークに渡ったミュージシャンたちは後にプエルト・リコ音楽の展開に大きく貢献することになったそうだ。

 最後にかかったのはキューバ原産の〈El manicero〉すなわち〈ピーナッツ売り〉。世界的な大ヒットになり、ルンバ・ブームを起こす。サッチモ、エリントンはじめ多数のカヴァーがあり、本朝でもエノケンがやっている。聞けばああ、あれとすぐわかる。

 1930年代、ナチスと戦火のヨーロッパからの移民の数はまた増える。ここにはユダヤ系のミュージシャンたちも多数いたはずだ。もっとも30年代を席捲し、ジャズをアメリカ全土に広めたスイングの王様ベニー・グッドマンはユダヤ系だがアメリカ生れ育ちだ。父親が19世紀末にワルシャワから渡った。

 移民は今また世界的問題になっているが、つまるところ移民によって、人が移動することによって文化が生まれ、新たに再生してゆく。ニューヨークの音楽が面白いのは、絶えず移民が入っているからだろう。そしてその面白さがまた新たな移民を引きつける。

 ニューヨークではスイングに続いてビバップが起きるわけだが、それはまたのお愉しみ。

 この連続講演、次は9月7日。あたしは残念だが別件があって行けない。(ゆ)

 この秋にプランクトンが呼ぶ二つのアクト、イタリア南部、長靴の踵にあたるプーリア州のバンドとスペイン・バスクのバンドを紹介するトークイベントに赴く。話者は松山晋也とサラーム海上の両氏。

 バスクから来るのは特有の伝統楽器チャラパルタのオレカTX。TX はチャラパルタのバスク語スペルの頭2文字。バラカンさんのLive Magic に出る。チャラパルタは蛇腹のケパ・フンケラのバンド・メンバーとして来たのは見ている。木の角材を並べて、これに両手に持った丸い棒を落として音を出す。原始的な木琴のような形と音だが、必ず二人以上で演奏する。5人ぐらいまであるらしい。演奏者はたがいにタイミングをずらし、同時に複数の音が鳴ることはない。分担するから、ガムランのように一人では不可能な演奏ができる。
 


 今回はチャラパルタの二人を中心に、やはりバスク特有のリード楽器のアルボカ、それにブズーキとパーカッションの組合せ。このバンドはケパ以降も二度ほど来日しているそうな。1つは現代舞踏のアーティストとの共演、もう1つは六本木ヒルズのイベント。双方のビデオが流される。どちらも面白そうで、知っていたら行ったはずだ。

 最近のビデオではケパの時よりも二人の奏者の息の合い方がずっと練りあげられていて、ほとんど腕が4本あるように見える。それにずっとにこにこしている。演奏が楽しくてしかたがないふぜい。

 このバンドをめぐって『遊牧のチャラパルタ』というドキュメンタリー映画が作られている。その予告篇も流される。チャラパルタの二人が北西アフリカ、インド、北極圏、モンゴルに行き、先々でその土地の材料、石、氷、木を使って楽器を作り、地元の人たちと共演する。サラームさんによると、訪問先の人びとはいずれもその地域で差別を受けているマイノリティの人たち。バスク人たちもスペイン、フランスそれぞれで差別されているマイノリティで、そういう人間同士の結びつきを試みる意志は徹底している。

 楽器自体はシンプルだが、素材を削って音程を合わせてゆくのに苦労する。とりわけ石は削りにくくて大変だったらしい。

 映画はプランクトン自身が日本語字幕を作成して挿入している。まずは上映会がある。今のところDVDなどのパッケージ販売の予定は無いそうだ。DVDやCDなどのソフトのパッケージ販売は絶滅寸前だそうで、こういう映像作品の流通が難しくなっている、と会場に来ていたバラカンさんが言う。YouTube にでも上げるしかないらしい。


 一方、イタリア南部プーリア州のバンドは Canzoniere Grecanico Salentino カンツォニエーレ・グレカニコ・サレンティーノ。「サレント地方のギリシャ語による歌をうたう人たちまたは歌集」という意味だそうで、CGS でいいよ、と本人たちも言っている由。サレントは長靴の踵の長く突き出た半島。



 ここはアドリア海をちょっと渡ればギリシャはすぐ近くで、古来から往来の絶えなかったところだ。ギリシャ語の方言が残っているらしい。最近ではアルバニアから難民が渡って話題になった。

 イタリアは北と南でまったく文化が異なる。南は古くはフェニキア人からギリシャ人、ノルマン、ムスリムなど、多様な人たちが交錯している。とりわけ、中世以降、マグレヴのイスラーム勢力の影響を受けて、独自の文化を展開してきた。というのはおぼろげに知っている。イタリアのバンドとして真先に浮かぶ La Ciapa Rusa は北の代表。南は長靴の爪先、カラブリアの Re Niliu がマグレヴの音楽とヨーロッパの音楽が混淆した特異な音楽を聴かせていた。2000年にリアルワールドからアルバムを出した Spaccanapoli も面白かった。とはいえ、踵の方は不勉強でまったく知らない。

 松山さんによると、爪先も含め、イタリア南部には共通のダンス・ミュージックがあり、タランテッラと総称される。スタタ、スタタ、スタタという三連符を共通の特徴とする。三連符なのだが、聴いているとつながって、カチャーシーや阿波踊りのビートに似てくる。プーリアのタランテッラはピッツィカと呼ばれる。

 ビートを叩きだす片面太鼓は、タンブレッロと呼ばれる、大きめのもので、モロッコあたりのものに似てタンバリンのように枠に金具がはまっていて、ジャラジャラ鳴るものもある。面白いのは、このタンブレッロはソロでも演奏されるが、4人5人と集団でユニゾンでも演奏される。驚いたことに、このタンブレッロを演奏する人がちゃんと本朝にはいて、ゲストで男女のお二人が来ていて、実演もする。

 タランテッラはタランチュラに通じる語で、毒蜘蛛に刺された毒を踊って汗として排出するための踊りという俗説があるそうな。祭などで女性たちが憑依された状態になって、ぐるぐる駆けまわったり、床に倒れて痙攣したり、のたうちまわったりするのもタランテッラと呼ばれる。

 CGSはピッツィカを演奏するバンドの筆頭として世界的に知られる。バンドは今のリーダーの父親が創設した。タンブレッロ、アコーディオン、フィドルを核とし、ギリシャのブズーキ、ザンポーニャが入り、シンガーとダンサーがいる。

 ザンポーニャは面白い。ハイランド・パイプやイリン・パイプよりバッグがずっと大きく、ドローンが無く、チャンターが長短2本。そのチャンターを両手で押える。バッグは利き手の脇の下。空気は口から吹きこむ。ザンポーニャも地域によって異なるはずだが、少なくともプーリアのザンポーニャはこういうものなのだろう。いや、プランクトンのサイトにあるビデオを見ると、ドローンはひどく短いものが、チャンターの根元についている。

 ニューヨークでのこのビデオによれば、ダンスもさることながら、これは歌のバンドでもある。4人もシンガーがいて、ハーモニー・コーラスはもちろん、誰でもリードがとれる。ダンス・ソングもあれば、バラッドらしきうたもあり、ビートにのせて朗々と歌われるうたもある。やはりイタリアは歌の国なのか。むろん発声は地声で、カンツォーネとはまったく違う。

 ダンスは即興のようだが、ひょっとすると踊っているうちに本当にトランス状態になるのを見られるかもしれない。ビデオでは顔にタランチュラを現す模様を黒く塗ったダンサーもいる。どちらかというと見せる踊りというよりはこちらも一緒になって踊るもののけしき。むろん、ほんとに一緒に踊ったら、心臓が破裂する。

 リーダーのマウロ・ドゥランテはフィドルとタンブレッロを操り、歌もうたう。タンブレッロを叩いて、ジャスティン・アダムズとのデュエットでの活動もしており、イタリアのテレビらしいビデオはすばらしかった。今回、アダムズも、という話もあったそうだが、バンドに集中した方がいいと川島さんが判断した。このデュオなら後でビルボードあたりで呼んでも客は来るんじゃないか。

 この人、13年前、まだ20代の時、古楽グループのメンバーとして来日し、今回と同じ三鷹で公演しているそうな。その時には古楽演奏もさることながら、ソロで即興も披露して、一躍ヒーローになったという。生まれた時から、両親の演奏するタランテッラに漬かって育ち、長じてバンドを引き継いでいるが、正規の音楽教育も受けているらしい。こういう人は強い。

 それにしても「灼熱のタランテッラ」とはうまい。このあたりの音楽はみな熱い。ダンスだけでなく、声も歌も熱い。地中海沿岸の音楽のなかでも、この辺がいちばん熱い。マグレブはかえってクールだ。イベリア半島も洗練されている。こういう音楽を聴くと、阿波踊りも夏にやるから阿波踊りなのだし、カチャーシーも南のビートだと思えてくる。

 彼らが来るのは秋だが、そのくらいの頃でちょうどいいだろう。今、この熱い音楽を浴びる気にはちょっとなれない。(ゆ)

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