クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 ようやくにジェゴグ、竹のガムランの生を聴くことができた。これのベースを生で体験することは永年の夢、というといささか大袈裟だが、憧れではあったのだ。それを存分に堪能できた。もちろんそれだけではないが、あのベースはやはり唯一無二だ。

 スアール・アグンのベースは音に輪郭がない。輪郭の無いことではデュデュックにも似ているが、当然ながらもっと拡がりがあり、アンサンブルの核になる。意外に全体を包む感じにならない。むしろ、中高音の響きを追いこし、突き抜けてくる。低音用は4台で、これだけが鳴っていると、音が発する頭のところが聞えるが、他の楽器の響きが加わると輪郭が消えるようだ。4台を6人でやることもあり、4人でやることもあった。

 いずれにしてもどこまでもやわらかいが芯のあるこの低域の倍音が実に気持よい。後で録音で確認すると、やはり輪郭はないが、もう少し位置がはっきりしている。このあたりはホールにも影響するか。本来は屋外で聴くもののはずで、そうするとまた違うのだろう。それにしてもあの空気感を録音で出すのは至難の技だ。録るのはともかく、よほど整ったシステムでないと再生ができない。

 面白いというか凄いというのは、叩いている演奏者は、誰も手許を見ていない。まっすぐ前か、他の演奏者を見ている。伝統音楽の演奏家は楽器の手許を見ないものだが、こんなに全員が誰も見ていないのは初めてだ。ひとつの楽器に並べている竹は8本だから、身体でその位置を覚えてしまうということなのだろうが、熟練というのもまだ弱い。楽器と人がまったく一体になっている。ベースは楽器が大きいので、さすがに少しは見ているようだが、演奏が佳境に入って、大きな音を出すために、半ば立ち上がって大きくハンマーを振りおろしているところを見ると、どうも実際には見ていないようでもある。

 手許を見ないことには、演奏者がトランス状態になってしまうこともあるらしい。後半、二人ほどひきつけのような「発作」を起こして、スタッフが押えこんでいた。と思ったら、やがてまた平気な顔で復帰していた。最後の曲が終ってから、白衣の年配の男性が器を持ち、筆のようなもので演奏者一人ひとりの頭に何か振りかけていたのも、トランスから復帰させるためのものらしい。

 とすれば、曲は半ばは作曲だが、半ばは即興なのだろう。左右に別れた高域用の楽器群で対抗戦のような形にもなっていた。

 全体は高域、中域、低域に別れ、それぞれの中でまた少しずつチューニングが違うようだ。それぞれに焦点をあてて聴くと、たがいにまるで関係なく、勝手にやっているように聞える。それが全体を受け止めてみると、ちゃんと調和し、一つのグルーヴを作る。

 楽器のチューニングや叩き方が違うのは、演奏者の身体の揺れが合ったりズレたりすることからもわかる。この揺れ具合がまたいい。時にぴたりと合うときは曲の方も盛り上がり、実に快感だ。こういう身体の動きはライヴを見ないとわからない。こんなに見ていても楽しい演奏はあまりない。

 舞踏のつく曲もあり、舞り手は通常女性4人。ちなみに楽器はすべて男性。途中で一人、男性がソロで踊る。

 舞踏は歌舞伎の踊りを連想させる。身体を止めて、首だけを動かすところなど、歌舞伎のキメのようにも見える。舞踏によって衣裳もかえる。後半初めの舞踏では一人が猿?の面を着けて踊ったりもする。

 手踊りでもあって、下半身よりも手の動きがメインだ。これはソーシャル・ダンスだといって、後半、客席から何人か、観衆をひっぱりあげていたが、これはやはり無理がある。引っぱりあげられたおばちゃんたちは盆踊りの手付きで応じていたが。

 伝統ではあるが、演奏することでその場を明るく、楽しくし、観客の気分を良くするように、きちんと構成されている点でも歌舞伎に似ている。もっともエンタテインメントとは本来こういう根源的エネルギーを呼び起こすためのものだろう。

 娯楽を提供するために演奏者たちは力を呼びおろす。それが時に過剰になって発作をおこしてしまうわけだ。その力によって、この場を浄化し、そこにいる人びとに生きている実感を与える。生命力を回復させるわけだ。

 たぶん、叩くのは人間が楽器で音を出し、音楽を生みだすようになる始めだったのだろう。それ自体は原初的な方法をある理念にそってとことんまで突きつめるとこうなる。その理念はヨーロッパのものとはもちろん違うし、アフリカでもない。やはりこれはアジアのもの、ということになるのだろう。表面的にはひどくエキゾティックなのだが、深いところでぴったりと共鳴する。

 青銅製とは違って、竹は毎年楽器を造りなおさねばならない。適切な太さの竹を揃えるのもたいへんだ。それでもこの低音に代表される倍音の気持ち良さは、たしかにこれでしか体験できないだろう。それもライヴでなければまず無理だ。いーぐるあたりで大音量でかけたら近くはなるだろうか。

 めぐろバーシモンホールの大ホールは満席。家族連れも多かった。赤ん坊の鳴き声もしていた。いいホールではあるが、トイレが狭い。有楽町のフォーラムもそうだが、とにかくわが国のこういう施設のトイレの少なさ、狭さは困ったもんだ。そしてなによりも、都立大学の駅からこのホールのある区民キャンパスまでの道の歩道の幅が人間二人分しかないのは、何とかならんものか。

 とまれ、この大集団と楽器をここまで運んで、滅多にない体験をさせてくれたプランクトンには心から感謝する。(ゆ)

 今週末、土曜日に四谷のジャズ喫茶「いーぐる」で、「イスラームの音楽その2」をやります。

 直前になってまた気が変わるかもしれませんが、今のところかけようと思っているのはこういう人たちです。順番はまだ固めていませんが、ウンム・クルスームから始めてヌスラト・ファテ・アリ・ハーンで締めるのはほぼ確定。

Oum Koulthoum, Egypt
Ghalia Benali, Tunisia
Anouar Brahem, Tunisia
Munir Bashir & Omar Bashir, Iraq
Lydia Daher & Tatafull, Algeria/ Germany
Amina Alaoui, Morocco
Mariem Hassan, West Sahara
Sahra Halgan, Somalia
Moneim Adwan, Palestine, 
Nishtiman, Kurdistan
Kayhan Kalhor, Iran
Mohammad Reza Shadjarian, Iran
Mahsa Vahdat, Iran
Taksim Trio, Turkey
Ria Soemardjo, Indonesia: Java/ Australia
Nusrat Fateh Ali Khan, Pakistan

 という舌の根も乾かぬうちですが、実はヌスラトにするか、ジャーファル・フセインにするか、まだ迷ってます。両方というのも一瞬考えましたが、やはりそれは却下しました。

 ヌゥバもなんとかかけようとしたんですが、最低でも6時間かかるものを圧縮なり、つまみ食いなりでうまく紹介する方法をついに思いつかず。スペインのパニワグワがヌゥバの一つを30分でやっている録音もあって、それ自体は悪くないんですが、これをヌゥバの例として紹介するのはためらいがあります。

 ヌゥバを始めとする、いわゆるアラブ・アンダルース音楽については、マグレブ各地でそれぞれに独自の発展をしていることもあり、チャンスがあれば、そうしたものをまとめ、ヨーロッパへの影響まで含めて聞き比べてみる方が実りは多いかもしれません。それにはあたしなどよりも専門の方がおられると思います。

 なるべく前回とは趣向を変えているつもりですが、なにせあたしは好きなものを好きなように聴いてきただけなので、同じようなものになりましたら乞う御容赦。

 では、明後日、四谷でお目にかかりましょう。(ゆ)

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