昼とはがらりと変わって、こちらは音楽と舞踏の劇。それも能とオペラも取り入れて、素人にもまことにわかりやすい、サーヴィス満点の組立て。正直、これまで歌舞伎座で見た中では最初から最後まで楽しめて、抜群に面白かった。
開幕、紫式部と翁による序があって、いきなりカウンターテナーの独唱。伴奏は古楽器のアンサンブルで、チェンバロ、バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロック・チェロ、リコーダーという編成だが、チェンバロだけのときもあり、1曲、鼓も加わって、これは良かった。
カウンターテナーは黒一色の装束、対してもう一人のテノールは白の装束。それぞれ闇と光の象徴だそうな。この二人が折りに触れて出てきて、独唱し、また重唱する。歌詞は英語、ラテン語、その他の言語もあるらしい。ステージだけでなく、花道や客席の通路でも唄う。いずれも一級のシンガーで、わが国伝統文化にも多少は通じているようで、演出もあるのだろうが、全体に違和感なく溶け込んでいる。歌詞の意味はとれないが、感情はよくわかる。ハイライトは、源氏の須磨落ちの場面にカウンターテナーが唄うところ。馬に騎った海老蔵の光源氏の孤独が際立つ場面。
能の方は主に怨霊などの裏の現実を担当していて、時に囃子方もステージに席を設けて出る。能はまったくの無知なのだが、どちらかというと急調子で切迫感、緊張感に満ちた舞台を造るのは、おそらく普段とはだいぶ違うのだろう。しかし、その切迫感、緊張感は歌舞伎でも現代劇でもあたしなどは見たことも無いほど、すばらしくシャープかつ重厚で、場内の空間全体が巻きこまれる。
一方で能の舞いはやはり静が主な要素で、どんな動きをし、音楽が鳴っても、静謐そのものだ。動そのものの歌舞伎の舞いとの対照が鮮やかで、どちらも映える。
話は源氏物語の開巻から源氏が須磨から呼び戻され、太政大臣に任ぜられてこれからわが世の春を謳歌しようというところまでで、ラストはその源氏を祝う祝祭で、世をあげて踊る。このクライマックスに典型だが、普段は前半分だけで、回転舞台は場面転換に使われるのを、後ろ半分まで広く開け、舞い踊る群衆を載せたまま舞台が回る。ここだけでなく、前述の須磨落ちの場面など、奥まで舞台を一杯に使うところが多い。これも新機軸なのだろう。これに加えて、プロジェクション・マッピングも使って、舞台がいつもよりさらに大きく広く見える。
演出もコクーン歌舞伎の手法をとりいれて、誇張した仕種や科白の現代的表現など、新しい試みをしている。これに一番応えて、とあたしには見えたが、伸び伸びと楽しんで演技していたのが源内侍の右若で、役柄も面白い。まあ、歌舞伎というのは何でもありで、また何でもできるのだ。
舞いでは六条の御息所の生霊に殺される葵の上の児太郎が印象に残る。源氏は気づかず、独りで苦しみ、死んでゆく様を舞いの形で演じる。ラストの群舞で、前面左に若い、小学生か中学生ぐらいの子が二人いて、小学生に見える方が装束だけでなく、動作もどう見ても女の子だったが、後で確認すると市川福之助だった。女形への準備としてこういうところからやるのかもしれないが、感心してしまう。
今回は花道の左側、真ん中から少し後ろの左端という席で、かなり面白い。花道は舞台よりもずっと役者の肉体に近いし、そこからまた少し離れるので、見やすい。主役級が花道から出る時には、至近距離で見られる。ラストに近く、帝に召された源氏が出てくるときの海老蔵は威風辺りを払って、さすがの存在感。千両役者とまではまだだろうが、三百両くらいはあるんじゃないか。この演目は花道での演技や踊りも多く、いろいろ楽しめた。海老蔵の宙乗りも花道の上でやるから、これまたよく見える。
昼夜出ずっぱりの海老蔵親子のおかげか、客席は文字通り満席。しかし、歌舞伎座は意外に小さく、満席でも2,000弱。このサイズが舞台を最も楽しめるという経験値なのだろう。
今回は歌舞伎以外の共演者も多いからか、珍しくカーテンコールをやる。やっぱりこれはいいものだ。(ゆ)
