クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 この週はたまたま連日外出するスケジュールになってしまい、少しは休もうと思って当初予定には入れていなかったのだが、shezoo さんからわざわざ、リハーサルがすごく良かったから聴いてくれと誘われてはことわれない。1週間まるまる連日出かけるというのもたまにはしないとカラダがなまる。そうして、やはり聴きにでかけた甲斐は十分以上であった。それにしても shezoo さんが自分でやりたくてやっているライヴで、失敗したということがあるのだろうか。

 そういうライヴの出来は相手を選ぶところで半分以上は決まるだろう。適切な相手を見つけられれば、そしてその相手と意気投合できれば、いや、というのは同語反復だ。意気投合できれば適切な相手となる道理だ。shezoo さんが見つけてくる相手というのが、また誰も彼も面白い。今回の赤木りえさんも、あたしと同世代の大ベテランだが、あたしはまったくの初見参。このライヴがあまりに良かったので、後追いでアルバムも聴いてみて、なるほどこれならと納得した。ラテンが基本らしいが、そこを土台に四方に食指を伸ばしている。最新作《魔法の国のフルート》の〈エリザベス・リードの記憶〉、〈シルトス〉から〈ミザルー〉の流れには感心してしまう。まず語彙が豊富だ。その豊富な語彙の使い方、組合せが面白い。グレイトフル・デッドもそうだが、初めて聴いて驚き、さらにくり返し聴いてその度に新鮮に聞える即興をこの人はできる。だから聴きなれた曲がまったく新たな様相を見せる。

魔法の国の魔法のフルート
赤木りえ
CREOLE MOON
2020-06-01

 

 生で聴く赤木さんのフルートの音は軽々としている。飛ぶ蝶の軽みをまとう。蝶が飛んでいるところを見ると、意外にたくましい。たくましく、軽々と、そしてかなりのスピードで飛んでいる。楽に飛んでいる。これが蝉とかカナブンだと、もう必死で飛んでいる。次に留まるところへ向けて、とにかく落ちないように羽を動かしつづけている。蝿、虻、蜂の類も飛ぶのは得意だが、飛んでいるよりも、空中を移動していると見える。蝶やそして燕は飛ぶことそのものを楽しんでいる風情で、気まぐれのようにいきなり方向転換をしたりもする。赤木さんのフルートも軽々とした音の運びを愉しみ、思いもかけない方へ転換する。細かい音を連ねた速いパッセージでも、ゆったりと延ばした音でも、軽みは変わらない。

 俳諧にも似たその軽みが一番よく出たのは後半冒頭の〈浜千鳥> おぼろ月夜〉のメドレー。直接に関係はないけれど、蕪村がおぼろ月夜に遊んでいるけしきが浮かんでくる。

 続く〈枯野〉では、ほとんど尺八の響きを出す。と思えば能管に聞えたりもする。そういう楽器でよく使われるフレーズだろうか、音色のエミュレーションだろうか。

 フルートにつられたか、ピアノの音まで軽くなったのが、その次の〈Mother Love〉で、shezoo さんのピアノは必ずしも重いわけではないが、この曲ではずいぶん軽く聞える。ここのちょっと特殊なピアノのせいもあるだろうか。この楽器は弾きやすくないそうだけれども、shezoo さんはそれにふさわしい、そこから他には無い響きをひき出す術を編みだしているのかもしれない。

 次の〈コウモリと妖精の舞う夜〉は曲そのものの浮遊感がさらに増幅される。ここでもフルートが尺八になったり能管になったり、なんだかわからないものにもなる。透明な庭ではリード楽器がアコーディオンのせいか、もっと粘りのある演奏になる。フルートの音はむしろ切れ味がよく、赤木さんのフルートはさらに湿っていない。蝶の翼は濡れては飛べまい。

 入りの3曲はクラシックの名曲選で、何も知らないあたしは赤木りえという人はこういう人で、今日はこういう路線でいくのかと思ってしまった。もっともただのきれいなクラシックではないことはすぐにわかるので、ところどころジャズの風味を散らしたこういう演奏も悪くはないねえ、と思っていると、同じクラシックでもやはりバッハは違うのである。クラシックの人がやるとグルックもフォーレもバッハもみんなおんなじに聞えるが、クラシックの基準に収まらないスタイルで演奏されると、違いがよくわかる。ビートルズと同じで、バッハは指定とは異なる、どんな編成のどんなアプローチで演っても曲本来のもつ美しさ、魅力がよくわかる。バッハとモーツァルトの一部を除いて、クラシックの作曲家の曲はクラシック以外の編成、スタイルでやってもなかなか面白くならない。ヘンデルの《メサイア》をクィンシー・ジョーンズがゴスペル調のミュージカル仕立てにしたのは例外だし、そもそもあれは換骨奪胎だ。バッハは編成だけ変えて、曲はまったく指定通りに演奏して面白く聴ける。

 冒頭3曲に続いた〈マタイ〉からの〈アウスリーベン〉は、あたしがこの曲をとりわけ好むこともあるのだろうが、この曲の最高の演奏の一つだった。これだけでももう一度聴きたい。聴きたいが、むろん、聴けない。半分は即興だからだ。これはshezoo版〈マタイ〉にも入らないだろう。フルートとピアノの二つだけで、ここまでできるのだ。たぶんデュオだからだ。何かが、たとえばパーカッションでも、もう1人入ったらこういう柔軟さは出ないじゃないか。まあ、それはそれでまた別の面白いものができるではあろうが、でも、この二人の対話の変幻自在なやりとりには魔法がある。

 続く〈Moons〉がまた良い。フルートの音が軽々と月の周りを舞い、二つの月の間を飛びうつる。この曲には演奏されるたびに名演を生む魔法が宿る。

 アンコールはグノーの〈アヴェ・マリア〉。バッハの〈平均律〉第一番がベースのシンプルな曲。シンプルな曲をシンプルにやって心に染みいらせる。

 笛類の音が好きだ、ということに、最近になって気がついたこともあって、この組合せは嬉しい。ぜひぜひどんどん演っていただきたい。聴きにゆくぞ。録音も欲しいな。(ゆ)

 凄い、というコトバしか出てこなかった。美しいとか、豪奢とか、堂々たるとか、感動的とか、音楽演奏のポジティヴな評価を全部呑みこんだ上で、凄い、としか言いようがない。

 ミュージシャンたちはあっけらかんとしている。何か特別なことをした、という風でもなく、いつもやってることをいつもやってるようにやっただけ、という顔をしている。ほとんど拍子抜けしてしまう。あるいは心中では、やった、できた、と思っていても、それを表には出さないことがカッコいい、と思っているのか。

 しかし、とんでもないことをやっていたのだ、あなたたちは、と襟を摑んでわめきたくなる。

 ピアニスト、作曲家の shezoo さんがやっている2つのユニット、トリニテ透明な庭が合体したライヴをやると聞いたとき、どうやるのか、ちょっと見当がつかなかった。たとえば前半透明な庭、後半トリニテ、アンコールで合奏、みたいなものかと漠然と想像していた。

 実際には5人のミュージシャンが終始一貫、一緒に演奏した。その上で、トリニテと透明な庭各々のレパートリィからの曲を交互に演奏する。すべて shezoo さんの曲。例外はアンコールの〈永遠〉で、これだけ藤野さんの曲。トリニテに藤野さんが参加した、とも透明な庭に、壷井、北田、井谷の三氏が参加したとも、おたがいに言い合っていたが、要は合体である。壷井、藤野のお2人はオオフジツボでも一緒だ。

 結論から言えば、この合体による化学変化はどこから見ても聴いても絶大な効果を生んでいる。各々の長所を引き出し、潜在していたものを引き出し、どちらからも離陸した、新たな音楽を生みだした。

 その構造をうんと単純化して乱暴にまとめれば、まずは二つ、見えると思う。

 まず一つはフロントが三人になり、アレンジを展開できる駒が増え、より複雑かつ重層的で変化に富む響きが生まれたこと。例えば後半2曲め〈Moons〉でのフーガの部分がヴァイオリン、クラリネット、そしてピアノの代わりにアコーディオンが来て、ピアノはリズム・セクションに回る。持続音楽器が三つ連なる効果はフーガの面白さを格段に増す。

 あるいは前半3曲目〈Mondissimo 1〉のテーマで三つの持続音楽器によるパワー全開のユニゾン。ユニゾンはここだけでなく、三つの楽器の様々な組合せで要所要所に炸裂する。

 アコーディオンはメロディも奏でられるが、同時にハーモニーも出せる。ピアノのコード演奏と相俟って、うねりを生んで曲のスケールを増幅する。

 もう一つは即興において左端のピアノと右端のアコーディオンによって、全体が大きくくるまれたこと。トリニテの即興は、とりわけ Ver. 2 になってからよりシャープになり、鋭いカドがむきむき湧いてくるようになった。それが透明な庭の響きによってカドが丸くなり、抑制が効いている。羽目を外して暴れまわるかわりに、やわらかい網をぱんぱんにふくらませながら、その中で充実し、熟成する。それは shezoo 版〈マタイ受難曲〉で、アンサンブルはあくまでバッハの書いた通りに演奏しながら、クラリネットやサックスが自由に即興を展開するのにも似ている。大きな枠の中にあえて収められることで、かえって中身が濃くなる。

 その効果はアンサンブルだけでなく、ソロにも現れる。ヴァイオリンはハーモニクスで音色を千変万化させると思うと、思いきりよく切れこんでくる。そしてこの日、最も冴えていたのはクラリネット。オープナー〈Sky Mirror〉のソロでまずノックアウトされて、これを聴いただけで今日は来た甲斐があったと思ったのは甘かった。後半3曲目〈蝙蝠と妖精の舞う空〉のソロが止まらない。ごく狭い音域だけでシンプルに音を動かしながら、テンションがどんどん昇ってゆく。音域も徐々に昇ってゆき、ついには耳にびんびん響くまでになる。こんなになってどう始末をつけるのだと思っていたら、きっちりと余韻さえ帯びて収めてみせた。コルトレーンに代表されるような、厖大な数の音を撒き散らしてその奔流で圧倒するのとは対極のスタイルだ。北田さん本人の言う「ジャズではない、でも自由な即興」の真骨頂。そう、グレイトフル・デッドの即興の最良のものに通じる。耳はおかしくなりそうだったが、これを聴けたのは、生きててよかった。

 前回、山猫軒ではヴァイオリンが支配的で、クラリネットは控え目に聞えたのだが、今回は存分に歌っている。

 山猫軒で気がついたことに、井谷氏の語彙の豊冨さがある。この人の出す音の種類の多いことは尋常ではない。いざとなればマーチやワルツのビートを見事にキープするけれども、ほとんどの時間は、似たような音、響きが連続することはほとんどない。次から次へと、様々にかけ離れた音を出す。スティック、ブラシ、細い串を束ねたような撥、指、掌などなどを使って、太鼓、スネア、各種シンバル、カホン、ダフ、ダラブッカ、自分の膝などなどを叩き、こすり、はじく。上記〈蝙蝠と妖精の舞う空〉では、目の前に広げてあった楽譜の束をひらひらと振って音をたてている。アイデアが尽きることがない。その音はアクセントとして、ドライヴァーとして、アンサンブルをあるいは持ち上げ、あるいは引張り、あるいは全体を引き締める。

 ピアノもカルテットの時の制限から解放されて、より伸び伸びと歌っている。カルテットではピアノだけでやることを、今回はアコーディオンとの共同作業でできているように聞える。その分、余裕ができているらしい。shezoo さんがアレルギー性咽頭炎で掠れ声しか出ないことが、むしろプラスに作用していたようでもある。

 始まる前はいささかの不安さえ抱いていたのが、最初の1曲で吹飛んだ後は、このバンドはこれが完成形なのではないか、とすら思えてきた。トリニテに何かが不足していたわけではないが、アコーディオンが加わる、それもこの場合藤野さんのアコーディオンが加わることで、アニメのロボットが合体して別物になるように、まったく別の生き物に生まれかわったように聞える。こういう音楽を前にしては、浴びせかけられては、凄いとしか出てこない。唸るしかないのだ。1曲終るごとに拍手が鳴りやまないのも無理はない。4+1あるいは2+3が100になって聞える。

 終演22時過ぎて、満月の下、人影まばらな骨董通りを表参道の駅に向かって歩きながら、あまり寒さを感じなかった。このところ、ある件でともすれば奈落の底に引きこまれそうになっていたのだが、どうやらそれにも正面からたち向かう気力をもらった具合でもある。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

透明なトリニテの庭
壷井彰久: violin
北田学: clarinet, bass-clarinet
井谷享志: percussion
藤野由佳: accordion
shezoo: piano 
 

 つまるところどこを目指して演奏するか、なのだ。手法ないし語法から言えばこれはジャズになる。後半冒頭の〈枯葉〉に端的に現れていたように、ジャズのスタンダードとしてのこの曲を素材にしながら、この音楽はジャズではない。あえていえばもっと普遍的なところを目指している。ジャズ自体普遍的であるという議論もあるかもしれないが、ジャズかそうでないかはかなり明確な違いがある。その違いを生むのがミュージシャンのめざすところということだ。そして、そこが、ジャズの方法論をとことん活用しながらなおかつジャズではないところを目指すところが、あたしがこのデュオの音楽を好む理由の一つになる。さらに言えば、shezoo さんの音楽、とりわけここ数年の音楽を好む理由でもある。

 ここ数年というのは、shezoo さんの音楽が変わってきているからだ。ご本人が「前世」と呼ぶ変わる前というのは、そう昔のことではなく、あたしの見るところ、パンデミックが始まる前だ。たとえばこの日のアンコール〈空と花〉はデュオのファースト・アルバムからだが、これははっきりと「前世」に作られたものと聴けばわかる。その前の、出たばかりのセカンド・アルバム収録の〈熊、タマホコリの森に入りこむ〉との対照が鮮やかだ。いわゆる「shezoo 節」とどちらも感じられるが、前者が古い shezoo 節なら、後者は新しい shezoo 節だ。あえて言えば、古い方はああ shezoo さんの曲とすぐにうなずいてしまうが、新しい方はその色の透明度が増している。shezoo さん以外からこんな曲は出てこないとわかる一方で、癖というか、臭みというか、そういう要素が薄れている。

 その要素はたとえば納豆やクサヤの匂いのように、好きな人間にはたまらない魅力だが、嫌いな人はとことん嫌う性格を備えているようでもある。嫌いだった匂いが好きになることもあるが、どちらにしても、はっきりしていて、中間が無い。ようにみえる。

 強烈なその匂いが薄れてきているのは、パンデミックとともに、〈マタイ受難曲〉と格闘している影響もあるのかもしれない。バッハの音楽もまた、一音聴けばバッハとわかるほど臭いものだが、それにしてはなぜか普遍的でもある。

 面白いことに、藤野さんの曲も shezoo さんの曲となじんで、一枚のアルバムに収まっていても、あるいはライヴで続けて演奏されても、違和感が無い。どちらの曲もどちらが作ったのかとは気にならない。そこには演奏そのものによる展開の妙も働いているだろう。素材は各々固有の味をもっていても、ライヴで演奏してゆくことで溶けあう。セカンド・アルバムは一つの部屋の中に二人が入り、さらにはエンジニアも入って、一発録りに近いかたちでベーシック・トラックを録っているという。スタジオ録音としては限りなくライヴに近いかたちだ。

 セカンド・アルバム《Moon Night Prade》のレコ発ツアーの一環で、このツアーでは、それぞれのヴェニューでしか演奏できない、その場所に触発された曲をまず演る、とのことで、まずエアジンの音を即興で展開してから〈夜の果て〉。前半はセカンド・アルバムからサーカスをモチーフとした曲を連ねる。この曲では藤野さんはサーカスが果てて、立ちさったその跡の草地にサーカスの記憶が立ちあがるとイメージしているので、店が閉まった後のエアジンを思い描いたという。shezoo さんはエアジンでは、リハーサルしているといつも誰かもう一人か二人見えない人がいて一緒に聴いている感覚がいつもするので、それを音にしてみたそうだ。

 あたしは本を読みながらイマージュが立ちあがってくることはよくある。が、しかし、音楽を聴きながらイマージュが立ちあがることはまずない。イメージを籠めているミュージシャンにはもうしわけないが、音でそのイメージが伝わってくることはない。イメージというよりも、あるぼんやりしたアイデアの元素のようなものが聞えてくることはある。ここでまず感じたのはスケールが大きいことだ。その点ではエアジンは不思議なところで、そう大きくはないはずの空間から限界が消えて、どこまでも広がってゆくように聞えることがある。この日もそれが起こった。スケールが大きいというよりも、スケールから限界が消えるのである。音楽の大きさは自由自在にふくらんだり、小さくなったりする。どちらも限界がない。

 そして前回も感じた2本の太い紐が各々に常に色を変えながら螺旋となってからみあいながら伸びてゆく。それをはっきり感じたのは3曲目〈Dreaming〉から〈Pulcinella〉へのメドレー。アルバムでもこの二つは並んでいる。どちらもアンデルセンの『絵のない絵本』第16夜、コロンビーナとプルチネルラの話をモチーフにしているという。

 前半ラストの〈コウモリと妖精の舞う空〉は夜の空だろうか。昼ではない。逢魔が刻のような気もするが、むしろ明け方、陽が昇る前の、明るくなってだんだんモノの姿がはっきりしてくる時の空ではないか。

 後半2曲目〈枯野〉は「からの」と読んで、『古事記』にある枯野という舟の話がベースだそうだが、むしろその次の〈終わりのない朝〉のイントロのアコーディオンに雅楽の響きが聞えた。どちらもうっとりと聴いているうちにいつの間にか終ってしまい、え、もう終り?と驚いた。

 続く〈浮舟〉は『源氏物語』を題材にした能の演目を念頭に置いているそうだ。浮舟の話そのものは悲劇のはずだが、この日の演奏に現れた浮舟はむしろ幸せに聞える。二人の男性に惚れられてどちらかを選べず、迷いに迷っていることそのものを秘かに愉しんでいるようだ。迷った末にではなく、迷いを愉しむ己の姿に気がつき、そこで初めて心が千々に乱れだす。

 アンコールの shezoo さんの「前世」からの曲は古びているわけではない。あたしなどはむしろほっとする。遠く遙かなところへ運ばれていたのが、なじみのあるところへ帰ってきた感覚である。

 先日のみみたぼでも気がついたユーモアの底流がこの日も秘かに流れていた。ほんとうに良い音楽は、たとえバッハやベートーヴェンやコルトレーンであっても、ユーモアの感覚が潜んでいる。音楽そのものに、その本質に笑いが含まれている。眉間に皺を寄せて聴かないと音楽を聴いた気がしない人は、どこか肝心なところに触れぬままに死んでゆく。このデュオの音楽には、聴いていて笑いが体の中から浮かびあがってくる。声をたててがははと笑うようなものとは別の、しかし含み笑いなどではない朗らかな感覚だ。ひょっとするとこのユーモアの感覚も、最近の shezoo さんの音楽に備わっているものではないか。おそらくは前から潜んではいたのだろう。それがパンデミックもきっかけの一つとして、より明瞭になったのかもしれない。

 このデュオの音楽は shezoo さんのプロジェクトの中では一番音がまろやかで穏やかな響きをもつ。shezoo さんの音楽はどちらかというと尖ったところが多いし、ここでも皆無ではない。むしろ、ここぞというところで顔を出す。そこが目立つくらい、基調はなめらかで優しくせつない。あるいは藤野さんのアコーディオンの響きがそこに作用しているのかもしれない。来年早々、このデュオとトリニテの共演が予定されている。トリニテはまたツンツンに尖った、ほとんど針の塊のような音楽だ。この二つが合わさるとどうなるのか。もちろん見に行く予定だが、怖いもの見たさの気分でもある。(ゆ)

Moon night parade
透明な庭
qslebel
2022-09-03


1004日・月

 Dave Flynn, Irish Minimalism 着。e-onkyo 24/44.1 のファイルの販売あり。

 このタイトルは Bandcamp Dave Flynn のページでも「音楽」ではなく「グッズ」の販売になっている。ファイルのダウンロードをさせないためか。

 あたしは Bandcamp で買ったけど、このレーベルは流通に乗っていて、輸入盤が国内に広く入ってきている。

Irish Minimalism
Flynn, Dave
First Hand
2021-09-17

 

 Dave Flynn はクラシックの作曲家としての面もあって、交響曲とかも作っているそうな。これは弦楽四重奏のための曲を集めていて、1曲はイルン・パイプと弦楽四重奏のための曲。また別の1曲はイルン・パイプとヴォーカルのためのもの。

 Mick O'Brien は先日のショーン・オ・リアダ没後半世紀記念のコンサートでも、パディ・モローニに代わって再編キョールトリ・クーランのパイプを担当していたけれど、こういうものにも出るとなると、リアム・オ・フリンの衣鉢を継ごうとしているようでもある。

 e-onkyo を買った Qobuz が日本国内展開をできるだけ早くすると表明。それは歓迎すべきことだが、Tidal から乗り換えるのもためらわれる。両方は要らん。

 10日間、200時間近くやった A4000のエージングを終り、Hemp 2 に移る。A4000は良くなった。さすがファイナル。しばらく、外出用のクローズド・イヤフォンのメインはこれでいこう。しかし、こうなるとすると、まっとうにエージングしないで使うのは装置に対して失礼だと思えてきた。


 


##1004日のグレイトフル・デッド

 1969年から1987年まで4本のショウをしている。公式リリースは2本。

1. 1969 Boston Tea Party, Boston, MA

 ボンゾ・ドッグ・バンドとの3日連続最終日。

2. 1970 Winterland Arena, San Francisco, CA

 2日連続の初日。ジェファーソン・エアプレイン、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、ホット・ツナ、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスが共演。ショウはサンフランシスコのテレビ局 KQED-TV から放映され、また KQED-FM KSAN-FM で4チャンネル放送された。

 休憩なしの1時間強のステージ。2曲目〈Till The Morning Comes〉とラスト〈Uncle John's Band〉が《The Golden Road》ボックス・セットでリリースされた。前者は《American Beauty》のボーナス・トラック。後者は《Working Man's Dead》のボーナス・トラック。

 この晩、ジャニス・ジョプリンがロサンゼルスで死去。伝説ではデッドが5曲目〈Cold Rain And Snow〉をやっている時に死んだ、とされる。知らせは楽屋にも伝わっていたそうだ。そのジャニスへ捧げる歌として作られたのが〈Bird Song〉で、この年の年末1215日に、デヴィッド・クロスビー、ガルシア、レシュ、ハートによる Jerry Garcia & Friends のギグでデビュー。

 また、ドナ・ジーンとキース・ガチョーが聴衆にいた、とも言われる。

 〈Till The Morning Comes〉は《American Beauty》収録の曲だが、アルバムの中ではともかく、こうしてライヴで演奏されると中途半端な出来に聞える。実際、演奏されたのは197009月から12月の間の6回のみ。《American Beauty》収録曲では、〈Operator〉の4回と並んで、ダントツで演奏回数が少ない。初演は09-18のフィルモア・イースト。この10-04は通算2回めでサンフランシスコ初演。ライヴではこうでした、という一つの記録。

 〈Uncle John's Band〉は1969-11-01 Family Dog at the Great Highway が初演、これが48回目の演奏で、十分こなれ、愉しい演奏になっている。

1980 Warfield Theater, San Francisco, CA

 15本連続の8本目。中日。

 第二部最後の〈Deal〉と第三部冒頭の〈Feel Like A Stranger〉、それに第三部後半〈Not Fade Away〉の初めの一部が《Dead Set》でリリースされた。

 〈Not Fade Away〉はリード・シンガーが誰か、わからない。ガルシアとも思えない。ウィアではない。とするとミドランドだが、声が違う。やはりガルシアか。力唱ではある。が、これからというところでフェイドアウト。

 一般的なロックのライヴ・アルバムのコンセプトは良い録音を選んで組み、アルバムの中でコンサートのような流れを聴かせようというもので、これもそれに沿って作られている。しかし、1本のショウを丸々収めたものに慣れてしまうと、フェイドアウトなどされると怒り心頭に発して、レコード盤なら叩き割っていただろう。《Reckonnig と《Dead Set》では、通して聴いた時の満足感がかなり違う。アコースティック編成の前者の方が圧倒的に上だ。後者に不満が募る一つの理由は、エレクトリック編成のデッドの本当の良いところ、長くつらなるジャムがほとんど入っていないことだ。《Live/Dead》や《Europe '72》が成功しているのはその部分だ。こういうところからも、完全版が欲しくなる。

 〈Deal〉と〈Feel Like A Stranger〉は、そういう展開を普通はしない曲だから、こうしてよい生演奏をできるだけそのまま収めれば十分聴き応えのあるものになる。

 〈Deal〉はガルシアの1972年のソロ《Garcia》所収で、19710219日ニューヨーク州ポート・チェスター初演。通算427回演奏。演奏回数順では13位。

 〈Feel Like A Stranger〉はこの年リリースの《Go To Heaven》所収で、0330日ニュー・ジャージー州パセーイクで初演。これが32回目の演奏。通算207回演奏。演奏回数順では68位。ここまでが200回以上演奏された曲。

 〈Not Fade Away〉は19680619日サンフランシスコで初演。スタジオ盤収録無し。通算565回演奏。演奏回数順では5位。

3. 1981 Rainbow Theatre, London, England

 4本連続の3本目。これも良いショウらしい。

4. 1987 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 3本連続最終日。午後5時開演。18.50ドル。前半わずか6曲で、最短の一つ。(ゆ)


 COVID-19 が始まって一度停まったライヴ通いが再開したのはこのユニットのライヴだった。そして今年最後のライヴもこのユニット。それはもうすばらしいもので、生の音楽を堪能させていただいた。

 あたしにとって生の音楽が再開したそのライヴのゲストが桑野氏。それはそれはすばらしかったのはリスナーにとってだけでなく、むしろミュージシャンにとって一層その感覚が強く、ぜひもう一度、ということになった。加藤さんは甲府でのライヴで、やはり忘れがたい演奏をして、これまた透明な庭のお二人が熱望しての再演。

 ということで、今回は全曲を4人全員でやる。前回は桑野さんはお休みで、shezoo、藤野のデュオでやる時もあったが、今回はゲストというよりも完全にバンドである。このままカルテットとしてやってもいいんじゃないか、いや、むしろやって欲しいと思えるほどの完成度。単に優れたミュージシャンが集まりましただけでは、こうはならない。この4人の相性が良いというか、化学反応、それも良い反応が起きやすい組合せなのにちがいない。

 shezoo さんのバンドはいろいろ見ているが、いつもその組合せの妙に感心する。こういうハマった組合せをよくもまあ見つけてくるものよ、と見るたびに思う。しかも、その各々に個性が異なる。shezoo さんは共通だし、加藤さんのように他にも共通するメンバーもいるが、どのバンドも各々に音楽の性格が違う。そして新しいものほど、メンバー間の関係がより対等になっているようにもみえる。あたしにとっては一番古いトリニテはshezoo さんの楽曲を演奏する楽隊という性格が基本だが、最近の夜の音楽はバンマスというか、言いだしっぺは shezoo さんだが、一度バンドが動きだすと、楽曲も持ちよりだし、音楽を作るプロセスも対等だ。トリニテではやはりフロントの二人とリズム・セクションという役割分担がどうしてもできる。最近のユニットではそこも対等になっている。この透明な庭はデュオということもあって、今回も藤野さんがしきりにあおっていたように、MCも二人ができるだけ対等に担当する。

 桑野、加藤が加わった4人での演奏は、アレンジは作曲者がやったようだが、どちらも全員をフィーチュアすることを目指したらしい。それがまず現れたのが2曲めの藤野さんの〈晩夏光〉。加藤さんのバリトン・サックスが下から全体を持ちあげる中でヴァイオリンがどこかクラシック的なメロディを奏で、そのままソロに突入する。桑野さんはライヴはほとんどやらず、「ひきこもり」で音楽を作り、演っているそうだが、こういうソロはもとライヴで聴きたい。と、うっとりしていたら、バリトン・サックスのソロが炸裂して驚いた。こういう言い方はもう失礼かもしれないが、加藤さんは見る度に進歩している。腕が上がっている。よほどに精進しているはずだ。単に練習しているだけでなく、いろいろ聴き、見て、読んで、広く深く吸収もしているはずだ。音楽家としての厚みが増している。次の shezoo さんの〈空と花〉でもヴァイオリンからサックスへソロを渡し、そしてラストの音の消え方が絶品。前半最後の shezoo さんの〈タワー〉では藤野さんのアコーディオンから、加藤さんがバリトンとアルトを持ちかえて、各々にソロをかます。アコーディオンの音色が美しい。

 アコーディオンに限らず、サックスもヴァイオリンも音色が実に美しい。バランスもばっちりで、先週も思ったことだが音倉のPAのエンジニアさんはすばらしい仕事をしている。

 後半は新曲を並べる。透明な庭のセカンドのためのものだそうだ。はじめ shezoo さんの曲が3曲並ぶ。どれも良かったが、ハイライトはやはり〈Dreaming > バラコーネ1〉。前回桑野さんが加わった時のダントツのベストだったけれど、加藤さんが加わって音の厚みとダイナミズムがさらに大きくなる。そうなると藤野さんが高域で小さく奏でるソロの美しさが引き立つ。この曲、演る度に変化し、良くなってゆく。この先、どうなるか、実に楽しみだ。

 次の藤野さんの〈ヒライス〉の中間部でアコーディオンとヴァイオリンがケルト系のダンス・チューンのようなフレーズをユニゾンで演ったのには降参しました。粋だよなあ。

 全員羽目を外しての即興でも、一瞬もダレることもなく、ムダな音も無い。いつもはライヴだけで満足してしまうが、今回はアーカイヴでもう一度聴きたいと思う。このまんまDVDにしてもいいんじゃないか。

 shezoo さんはこの後、来年2月の『マタイ受難曲2021』に向けて本格的な準備に入るので、それまでは透明な庭はお預けになる。COVID-19 がどうなるか、予断は許されないが、ライヴを再開できたら、ぜひまたこのカルテットでやっていただきたい。

 『マタイ』はもちろん2日ともチケットを買いました。とにかく無事、公演ができますように。そして、それにできるかぎり万全のコンディションで行けますように。

 ライヴ通いについては回数が激減したのはやむをえないが、行けたライヴはどれもすばらしかった。とりわけ、3月の、ライヴそのものが中断された直前のクーモリと Tricolor の対バンとこの「百年に一度の花」は中でも際立つ。終り良ければなべて良し。困難な条件を乗りこえてライヴを開催してくれたミュージシャンたちと会場のオーナー、スタッフの皆さんには、感謝の言葉もない。ありがとうございました。(ゆ)

Invisible Garden
透明な庭
qs lebel
2020-02-01


 ザ・なつやすみバンドの sirafu 氏が、アイルランドのパブ・セッションみたいだとMCで言う。その通り、良いセッションの現場に居合わせて、音楽を浴びている感覚だ。

 対バンというと、二つのアクトのどちらかが前、もう片方が後、最後に一緒に、というのが定型だが、今回は違う。両方のバンドのメンバーがいきなり全員出てきたのには驚いた。いったいどうなるのだ、全部一緒にやるのか。という危惧は、最初の1曲で雲散霧消した。まあ、tricolor が関わってヘンなことになるはずはない。tricolor がイントロの形で1曲演り、そのまま後をうけてザ・なつやすみバンドが演奏する。ああ、いいバンドだ。その後は tricolor だけで2曲ほど演ると、ザ・なつやすみバンドが演り、《うたう日々》で中川氏が唄っていた曲を全員で演る。さらには、片方の演奏にもう片方のメンバーが加わる。

 この二つのユニットの音楽はかなり傾向が異なる。tricolor はアイリッシュをはじめとするケルト系伝統音楽をベースにしたインストゥルメンタルがメインだし、ザ・なつやすみバンドは中川氏のオリジナルの歌が主軸だ。中川氏の音楽の土台はまだよくわからないが、いろいろと入ってもいるようだ。ただ、そこにはケルト系の要素はまず無い。レコードだけ聞いていると、この二つが一緒に演るということはおよそありそうにないと思えるだろう。それが、まったく違和感が無い。各々のキャラはちゃんと立っている一方で、全員で演ってもまるでずっと一緒にやっているように聞える。

 一つにはメンバーの音楽的な懐が皆深い。伝統音楽をやっていると深くなるものだが、ザ・なつやすみバンドのメンバーも負けていない。ジャズが共通の土台のように思えるが、それだけでは無いはずだ。中でも sirafu 氏は別格で、天才と言っていい。演奏する楽器としては現時点ではスティールパンが一番ハマっていたが、トランペットもギターも笛もマンドリンも見事。とにかく音楽のセンスがいい。この点では中村アニーが好一対で、かれもアコースティック・ギター、アコーディオン、ホィッスル、最後にはエレクトリック・ギターまで演っていた。アニーはずっと見てきているから、そうは思っていなかったが、こうして並ぶと、sirafu氏が天才なら、アニーも天才だ。

 この場合の天才はモーツァルトやポール・マッカトニーやコルトレーンの天才とは異なる。音楽をいいものにするコツを心得ていて、その適確なことが尋常でないのだ。ミュージシャンというよりはプロデューサー的な側面だ。他は全く同じメンバーで同じ曲を演っても、その人が入ると入らないのではまるで別物になってしまう。ドーナル・ラニィが典型だ。sirafu 氏やアニーがドーナルと同列というわけではまだ無いが、あのレベルになる資格は充分にある。

 こういう音楽的なセンスの良さはもちろん二人だけではなくて、一級のミュージシャンは皆備えている。というより、このセンスがある人が一級と認められる。tricolor もザ・なつやすみバンドも、他のメンバーも一級だ。一級の集団を天才が引っぱっているわけだ。そういう仕組みが、こうして対バンすると見えてくる。それも、定型ではなくて、このごっちゃの形だからこそ見えてきたのだろう。

 もう一つには、この二つのユニットは音楽に対する態度が共通している。ザ・なつやすみバンドは毎日を夏休みにするために音楽を演っている。tricolor も毎日のぶだん着の音楽を演っている。毎日の暮らしに欠かせないものとして音楽を演っている。音楽無しには1日も生きていけない人間のための音楽を演っている。BGMとして聞き流してもいいし、じっくりと全身全霊で聞き入ることもできる音楽を演っている。

 音楽にもいろいろある。カネを儲けるための音楽や、理想の一点を求めるための音楽や、ふだんの自分とは別の存在になるための音楽や、おしゃべりするための音楽や、いろいろある。そういう中でこの二つのユニットが各々に演っている音楽は、なぜ音楽を演るのかという点でかなり共通している。一緒に演る時に基盤にできる共通の部分が大きい。

 このライヴを見ていて思い出したのは John John Festival と馬喰町バンドの対バンだった。あれも前半後半分担ではなく、二つのバンドが対面して位置し、1曲ずつ交替に演奏し、互いに勝手に相手の演奏に参加していい、という、今回とよく似た形のものだった。JJF と馬喰町バンドも音楽への態度に共通するところが大きかった。

 アニーは JJF のメンバーでもあるが、あちらで見せる顔は tricolor で見せる顔とまたキャラが異なる。ザ・なつやすみバンドのメンバー、たとえば sirafu 氏が別のユニットをやっているとすれば、それもまた見てみたい。全く異なるキャラの音楽が聴けるだろうし、それもまたきっと面白いにちがいない。

 それにしても、ザ・なつやすみバンドは今回初めて見聞したのだが、メンバーは皆さん素敵だ。それぞれに、他のユニットもされているのなら、追っかけをしたくなる。あたしはパーカッショニストに弱いので、村野氏はふーちんと並ぶ女性ドラマーとして嬉しくなる。

 ザ・なつやすみバンドの名前を初めて聞いたのは tricolor の《うたう日々》に中川理沙氏が参加した時で、いい名前だと思ったものの、録音を聴くまでにはいかなかった。中川氏は《うたう日々》のレコ発ライヴにも参加していて、眼の前にいるのに、透明な幕を隔てた「異界」でうたっているような存在感が面白かった。ザ・なつやすみバンドでもそれは変わらないが、自作を唄うので、いくぶん「異界」が近くなっていた感じではある。

 会場はホテル地下のレストランだが、座席は両端に少しあるだけで、大半は立ち見。2時間以上立ちっぱなしでさすがにくたびれ、終演後はたまたま遭遇したアニーにだけ挨拶して、早々に退散した。また少し雨が降ったのか、外の空気はそれほど熱くない。なつやすみももう終りだ。(ゆ)

 相変らず高い水準で安定している。それでも、ライヴの度に新たな面を見せてくれるのが彼女たちの楽しいところだ。今回のテーマはテンポ。同じ曲をテンポを変えて、たいていははじめゆっくりと、次に速い、いわば本来の速さでやる。これが面白い。テンポによって曲の感じががらりと変わる。

 それが最も顕著に出たのは成田さんの〈Smoky Leaf〉。佳曲だが、これはまだ録音がなく、ライヴでしか聴けない。先日の豆のっぽでもやっていたが、カルテットでゆっくりやると、どこか神秘的な、謎めいたけしきが出る。不気味な味わいと言ってもいい。この味わいは、これまでのきゃめるには無いもので、あるいは案外、本質のところに根差すかもしれない。本人たちも意識してはいないキャラクターだ。ところが、後半、速く演奏されると、その味わいが消えて、フツーの曲になる。フツーといっても、きゃめるなりにフツーなので、この曲はハイライト。

 やはりテンポが変わって面白かったのが、アンコール。前半のスローなところでのバゥロンがかなり良い。もう一つが〈Northern Lights Set〉で、はじめスローでやり、後半速くなる。その変わり目のところにブレイクを入れたのは工夫。

 そして3曲目で〈Butterfly〉をゆっくり演ったのも新鮮だ。

 テンポというよりもビートだが、冒頭〈高知の正月〉と最後のアンコールその2〈そして終電〉 b パートのシンコペーションは快感だった。

 もう一つ、愉しかったのが、クラシックのバロックの風味を感じたこと。2曲目の〈乾杯ポルカ〉の a と c のパート、それにアンコールその2の〈そして終電〉の a パート。彼女たちはもともとはクラシックの訓練を受けてはいるが、それとのつながりではないようにも思える。どちらかといえば、むしろカロラン経由ではなかろうか。

 会場は渋谷の再開発の一環で、宮下公園と明治通りをはさんだ反対側に新たにできた複合ビルの1階のカフェ。こういう所はライヴになるとテーブルを片付けるところが多いが、今回は普段のままのゆったりとした席の配置だったのは、ありがたかった。半分強がきゃめるのライヴ初体験だったのは、先日の酒井さんの結婚披露フェスのおかげかな。

 今年はきゃめる十周年で、さてこれからどんな音楽を聴かせてくれるか。(ゆ)

Wonder Garden
きゃめる
ロイシンダフプロダクション
2017-07-23


 適当にあだ名をつけてくれと豆のっぽに頼んだら、はいからさんになったそうだが、さいとうともこさんにぴったりではある。その昔『はいからさんが通る』というマンガがあったのを思い出した。ついに読んではいないが、タイトルとしては秀逸。

 さいとうさんは年始恒例の Cocopelina の東京遠征で東下していて、1日空いたのでライヴをやらないかと豆のっぽの二人を誘い、二人が応じてこの日のライヴになる。まずはさいとうさんがソロで3曲ほど演り、成田さんがバゥロンで加わって1曲、高梨さんがコンサティーナで加わって1曲、という具合。スコティッシュのメドレーではじめ、2曲めは〈Eleanor Plunkett〉からのアイリッシュのメドレー。3曲めはフィドルを弾きながら唄う。この人のフィドルの音は実に綺麗だ。美しいというよりも綺麗である。たとえば上記アイリッシュ・メドレー2曲めのややゆっくりしたリールのダブル・ストップには惚れ惚れする。

 前半のハイライトはトリオでのジグのセットで、さいとうさんが無伴奏フィドルではじめ、2周めでバゥロンが入り、3周めでロウ・ホイッスルがドローンをつけ、4周めでロウ・ホイッスルがハーモニーをつける。メドレー2曲めはユニゾンになるが、今度はフィドルが遊びだす。このあたりの呼吸が、たまらん。

 同様の出入りや役割交換は後半冒頭の高梨さんの〈君とサンドイッチ〉でも鮮やかで、輪唱ならぬ輪奏からユニゾンになったり、ハーモニーをつけたり、カウンター・メロディをかましたり。どうやら片方がAパートをやっているともう片方がBパートをやり、次にはまた逆になる、なんてこともやっているようだ。陶然となる。これはむしろ臨時の組合せならではだろうか。

 後半は豆のっぽの二人だけでしばらくやる。ハイライトは二人ともコンサティーナでやった〈Margaret's Waltz〉。ここでもリピートごとに役割を交替して、ユニゾンになったり、ハーモニーやリズムをつけたり。ハーモニーも片方が上につけると、もう片方は下につける。こういう自由さはデュオならではだ。

 さいとうさんといえば、歌もウリだが、今回最大の「衝撃」は後半も半ばを過ぎてやってきた。あの〈Josephine's Waltz〉にスウェーデン語で歌詞をつけた人がいるのである。ハープの梅田さんが見つけてきたのを、さいとうさんが耳コピでスウェーデン語をカタカナ化して唄う。すばらしい。あの名曲がさらに超名曲になる。

 その後のリールのメドレーの3曲めも、さいとうさんがよく遊んで名演になる。

 とても臨時に組んだとは思えない息の合い方で、ぜひまたこの組合せで演ってください。まあ、こういう自由さは、ミュージシャンたちの実力が高いこともあるが、アイリッシュの利点でもあろう。ごちそうさまでした。(ゆ)

Re:start
さいとう ともこ
Chicola Music Laboratry
2018-03-04


 冒頭の曲のオープニングを聴いたとたん、顔がほころぶのがわかる。すばらしいバランスだ。左のギター、中のフルート、右のブズーキの音がそれぞれに明瞭に、しかもアンサンブルとして空間を満たす。何の操作も、想像力による補正もなく、音楽に包まれ、音楽が流れこんでくる。それはそのまま最後まで崩れない。

 ギターとブズーキの絡み合い、そこから湧き出るフルートとホィッスル。音が生み出され、音楽が紡ぎ出されてくるそのプロセスが手にとるようにわかる。そしてそれがそのまま楽曲として流れこんでくる。その快感! こういう小さな空間の至近距離で、生音で初めて可能になるこの愉悦。

 こうなれば、この三人が奏でる音楽が至上のものになるのは当然だ。

 選曲は前作《Via Portland》からと、今回ポートランドで録音してきた新作からのもの。中村さんが「普通のジグのセットです」と言う新曲は、全然フツーのジグではない。終ってから豊田さんが、「そんなことはないと思いながら吹いてました」と白状する。技術的にもアクロバティックらしいが、聴いてもたいへん面白い。

 世の中には、きちんと演奏するのがおそろしく難しいが、聴いている分にはまったく面白くない曲もゴマンとある。ギターなど、見せる芸としては立派だが、眼を瞑って聴くと何ということはないこともよくある。難しいことをやって「見せる」のは一つの芸だ。サーカスや大道芸や歌舞伎や京劇の早変りなどはそれを極めようとする。音楽でもそういう芸が成り立つこともあろうが、あたしは音楽でそういうものを見たいとは思わない。音楽は聴くものだ。

 その点では、わが国のケルト系の人たちが作る曲は、聴いて面白い、楽しい曲を目指している。難曲になるのは副作用だ。

 O'Jizo のスタイルも常に変化していて、今回は蛇腹楽器の出番が増える。中村さんの鍵盤アコーディオンはますます巧くなっているが、豊田さんがついにボタン・アコーディオンを披露する。これがまた良い。似ているが、やはり異なる2台のアコーディオンの並走は案外面白い。音量もほぼ同じで、煽りあっているところもあるように聞えたら、後で中村さんが、「おらおら来いよ」と弾いていたと告白する。フルートやホィッスルが相手だと、生音ではどうしてもアコーディオンは調節する必要がある。バランスの良さにはそういう配慮も働いている。

 笛と蛇腹が並ぶときは、必ずしもユニゾンでなく、細かいアレンジを施す。ハーモニーをつけたり、ドローンになったり、ビートを刻んだり、あるいは奔放に遊んだり。遊びということでは前半、スロー・エアからリールへのメドレーでのリールでの遊びがたまらない。ここではスロー・エアで、ギターとブズーキがポロンポロンと、勝手に弾いているように聞える音が、絶妙の背景となって、フルートのメロディを浮き上がらせる。この組立ては凄い。もう少し長く聴いていたかった。これが全篇のハイライト。

 とはいえ、後半はずっと舞い上がりっぱなしで、あっという間に時間が過ぎる。

 もう完成されたかに見えていた O'Jizo だが、アメリカでの音楽三昧の日々は良い推進剤になったらしい。先へ進んでいることをあらためて実感する。確かにしゃべり過ぎではあるが、それもまたライヴの一部ではある。

 長尾さんがここは理想の家と言うのもよくわかる。これはいわばハウス・コンサート、友人の家に気のおけない仲間たちが集まった形だ。ホメリやバードランドと並んで、もっといろいろなライヴを聴きたい場所ではある。ウチからは都内に出るより遙かに近いし。スープ・カレーも試したい。

 再びオレゴン州ポートランドで録音した新録はミキシングの最中だそうで、来年早々には聴けるだろう。まことに楽しみだ。(ゆ)

Via Portland
O'Jizo
TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-05


 新作《Storyteller》レコ発、なのだが、パーカッションの熊谷さんが持病の腰痛の発作勃発で涙の欠席。急遽トリオという形になる。とはいえ、高梨さんも言うように、そこがアイリッシュの柔軟なところで、どんな形でもできてしまう。ギターの音をやや大きめにとって、打楽器の欠如をまるで感じさせない。初めて見る人はこういうバンドだと思うだろう。

 初っ端、あたしの大好きな〈北海道リール〉から始まるので、嬉しくなる。つくづくこれは名曲だ、と聴くたびに思う。とりわけ b. の〈牡蠣〉から c. の〈帆立〉への流れ。くー、たまりまへん。

 次の〈かぼちゃごろごろ〉のホーンパイプになる後半がいい。中村さんのギターのカッティングが冴えて、曲全体がスイングする。次の〈鮭の神話〉の c. の変拍子もそうだが、バンド全体としてのリズム感覚が一皮も二皮も剥けている。それが決定的になったのは、前半最後の〈とりとめのない話〉。新作では冒頭に置かれて、いきなりのノックアウト・パンチになっているテンポを上げたヴァージョン。これあ、すげえ。

 アンサンブルの安定感もぐんと増している。こちらでは高梨さんのコンサティーナの進境が大きい。もうセカンド楽器とかいうレベルは完全に脱けている。11月には tipsipuca と生梅という組合せで、横浜・赤レンガ倉庫の Bellows Lovers Night に出るそうだが、パイプの鞴だけでなく、このコンサティーナも大いに活躍するにちがいない。新作からの〈Genghis Khan's Polka〉の躍動感はハイライトのひとつ。

 酒井さんのハーダンガー・フェレもいよいよ味が出てきた。こちらは後半冒頭に高梨さんのロゥホィッスルとデュオでノーPAでやった新作からの〈むかしばなし〉にまず陶然となる。が、後半も終り近くの〈眠る前の話〉での、半音下げたチューニングの響きには、異界に連れてゆかれる想いがわいてくる。後で訊くと、チューニングそのものは前の曲と同じらしいが、半音下げただけで、なんともいえぬふくよかさが出る。

 高梨さんの MC も絶好調で、直前の北海道ツアーでのごちそうの数々をいかにも旨そうに話す。聞いていると、北海道は風景もさることながら、食べ物が抜群に旨そうだ。あたしは札幌のビール園ぐらいしか知らないが、確かにあそこで飲むビールは他のどこにもない旨さがあるし、ジンギスカンも絶品ではある。知床の帆立は食べてみたいぞ。もっとも、鹿肉は食べなかったらしい。

 熊谷さんの欠席は残念だが、おかげでおそらく滅多にないトリオで見られたのは収獲。熊谷さんが復帰してのリベンジ・ライヴも来年には見られるだろう。新作を聴くにつけ、そちらはまたたいへん楽しみ。

 それにしてもこの新作には喜ぶ。国内の録音は、今年も昨年に輪をかけて豊作だ。(ゆ)


Storyteller
tipsipuca ティプシプーカ
ロイシンダフプロダクション
2018-09-23


 半年ぶりに見るバンドは、また一皮剥けたようだ。バンドとしては2ヶ月ぶりとのことだが、ライヴ回数がそれほど多くない割りに、このバンドはタイトだ。ひとつにはフロントの二人のユニゾンがかちりとはまっていることもあるのかもしれない。ボシィ・バンドのフロントに似ている。

 メロディ楽器のユニゾンが決まると全体がタイトになるというのは、アイリッシュ・ミュージック特有の現象かもしれない。というよりも、フロントがユニゾンで、リズム・セクションが跳びまわったり、ハモったり、あるいはポリリズムになったりという形は、アイリッシュ以外ではあまり見かけない。スコットランドやウェールズでは時々そうなることもあるが、フロントはユニゾンが原則というところまではいかない。イングランドはまずまったく無いと言っていい。

 沼下さんが仙台からもどってきて、リハーサルをやる時間もあったのだろうか、いきなり〈Waterman's〉から始める。それが見事に決まっている。見るたびに巧くなっているのがよくわかる。最初にライヴで聴いたときには、ほとんど必死、という感じだった。それが、どんどんモノにしていって、今回はほとんどさらりとやっている。後で曲名を言われて、あれ、そうだったんだ、とあらためて認識したくらいだ。

 もう、あたしなんぞがどうこう言えるレベルではない。あとはただ、うっとりと音楽に身をまかせていればいい。

 ここはホメリなみに細長く、PAのスピーカーがその一番奥のカウンターの前と、反対の端、窓際に置かれている。その窓際のスピーカーの真ん前の席だが、音のバランスはすこぶる良い。熊谷さんの打楽器以外はアンプを通していて、ブズーキが若干大きめに調整されているのもちょうどよい。

 フロントのユニゾンとリズム・セクションの遊びが土台ではあるが、時にはブズーキとフィドル、アコーディオンとパーカッションなどの組合せで聴かせ、これを受け渡してゆく。フルバンドのサウンドとは対照的な個々の楽器の音が際立って、これがまたいい。ほとんどはダンス・チューン一周ぐらいだが、たまには曲の切れ目で交替したりしてもいいんじゃないか。そう、このバンドのタイトなのは、個々の音の切れ味が良いことからもきているのかもしれない。

 高梨さんがまたホィッスルで参加する。前回もそうだったが、このホィッスルの奔放な遊びが加わると、タイトなままに膨らみが増す。高梨さんの曲をやるのも、きゃめるや tipsipuca + とは違う厚みが出る。これにはやはり田中さんのアコーディオンが一役買っているのだろう。蛇腹というと皆さんコンサティーナに傾く傾向があるが、アコーディオンの厚みはやはり魅力だ。こうして並ぶと、この3人のフィドル、アコーディオン、ホィッスルだけの演奏というのももっと聴いてみたくなる。このバンドの気持ち良さは、ひょっとすると、このアコーディオンが鍵なのかもしれない。

 ホメリとどっこいどっこいの店内は満席。ここはまだわが国ではまだ珍しいヴィーガン、つまり卵も乳製品もはずした徹底菜食の店。他の人が食べているのを見ると、かなりな量があり、旨そうだ。天井や壁に吊るしたドライ・フラワーや木の枝の装飾も気持ちがいい。

 熊谷さんは今度、上々颱風のヴォーカル、白井映美氏のライヴに出るそうで、そのチラシを配っていると、お客の若い女性が両親が上々颱風のファンで、幼ない頃、連れていかれたといいだす。ということは、このご両親はあたしと同世代。帰りの電車で窓に映る自分の姿を見ると、どうみてもこれはジジイだ。近頃、頭がずいぶん白くなったとかみさんにも言われた。これではいかんと、帰りは駅から歩いて帰る。夜はようやく多少涼しくなってきて、歩いていても気持ちがいい。(ゆ)


Blow
セツメロゥズ
ロイシンダフプロダクション
2018-01-14


 バンドとしては始めてもう10年近くになるというので、いろいろと固まっているそうだが、それにしては毎回、新鮮な愉しみがある。〈乾杯ポルカ〉の三拍子を入れるアレンジは、高知でのライヴのリハで遊びながら編み出した、という話を聞くと、かの〈Mouth of the Tobique〉のアレンジを、来日講演の杉並の楽屋で、シャロン・シャノンやナリグ・ケイシーたちが、きゃあきゃあ言いながら作っていった、という話を思い出した。やはり音楽には遊びがなくては始まらない。いや、音楽はそもそも遊びなのだ。お芸術ではない。いやいや、芸術そのものが遊びではないか。

 アレンジは結構変えているようで、成田さんの〈ガーデンリール〉は録音とは別に、当初考えていたアレンジで聴かせる。笛の難易度はこちらの方が高いそうで、MCでメンバーに「圧力」をかけるのは長くやっているバンドならではというところ。敷居を上げられるのは困ると言いながら、高梨さんは愉しそうだ。

 きゃめるの曲は、聴いているだけで難しいだろうなあ、とわかる曲が多い。しかも、聴いている分には実に愉しい。難しくなるほど、愉しさも増す。もちろん難しいから愉しいのではなく、曲自体が愉しいのではある。それでもどうもより愉しい曲はより難しいともわかる。作る方は、あれこれ愉しくする工夫をするが、その際演奏の難易度は考えずに要求を出す。メロディ担当はこれに誠実に応えて、作曲者の意図を超えてゆく。そういつもうまくゆくとも思えないが、きゃめるの場合はうまくゆくことの方が多いらしい。うまくゆくようになってからライヴで披露していることもあるではあらふ。

 先日のセツメロゥズ同様、この日も岡さんのブズーキがよく響く。成田さんがコンサティーナを弾くことも結構あって、その時はリズム・セクションはブズーキだけになるが、細くなった感じはしない。まあ、もともとバゥロンはリズム・セクションというよりも、メロディ楽器なのではあるが。それがよくわかるのは後半2曲めのトラディショナル・メドレーで、ここでのブズーキはまるでダーヴィッシュだ。

 一方で冒頭の今は亡き多摩急行に捧げた〈多摩急行セット〉では、バゥロンは演奏の土台を据えて、全体が飛び立つジャンピングボードになっている。フロントがユニゾンからハーモニーに移ったり、一部だけはずれたり、またユニゾンにもどったりする軸がぶれない。その何ともいえない軽みに、俳諧の、芭蕉というよりは蕪村の軽みを思い出す。こういう軽みは、今のわが国のバンドでは他にはあまり無い。na ba na が近いか。アイルランドでも、ソロやデュオでは時にあるが、バンドでは思いつかない。ただ、あちらの軽みはもっとドライではある。

 最近のライヴでは新曲が多い印象もあったが、この日は割と古い曲もやる。《Opus One》からの〈おでかけ日和〉の疾走感あふれる演奏、3曲めでのバゥロンのソロからブズーキにつなげるあたり、名曲の認識を新たにする。

 新曲では、成田さんの作曲がめだった。〈Carry On〉と聞くとあたしなぞはCSN&Yなのだが、もちろんここではノスタルジーとは無縁。バゥロンの枠打ちは珍しくもないが、アクセントとしてではなく、ずっと打ち続けるのはまことに新鮮。これはアイデアの勝利。

 いい音楽を聴きながらいただく日曜の昼ビールは旨い。ごちそうさまでした。(ゆ)

 この秋に上演された舞台『オーランドー』の音楽を林正樹氏が作曲し、このトリオで劇中で演奏された。その音楽だけをライヴでやってみようという試み。

 『オーランドー』はヴァージニア・ウルフの小説を元にした劇のはずで、結局見に行けなかったが、かなりコミカルなものだったらしい。1曲3人がリコーダーで演奏する曲があるが、林氏が吹きながら笑ってしまって曲にならない。ピアノと違ってリコーダーは吹きながら笑えば音が揺れてしまう。本番でも笑わずにちゃんと吹けたのは2、3回と言いながらやった昨夜の演奏も、途中笑ってしまう。はじめは3人とも前を向き、なかでも林氏は他の二人を向いて吹いていたのだが、相川さんは途中で後ろ向きになって吹いていた。林氏の吹いている様を見ると自分も笑ってしまうからだろう。

 これは極端な例だが、他にもユーモラスな曲が半分くらいはある。林氏のユーモアのセンスは録音ではあまり表に出ないが、ライヴだと随所に迸る。というよりも、その演奏の底には常にユーモアが流れていて、折りに触れて噴出する感じだ。金子飛鳥氏とのライヴで披露した「温泉」シリーズの曲もユーモアたっぷりだった。

 鈴木氏が演奏するのを見るのは、ヨルダン・マルコフのライヴにゲスト出演した時だけで、本人のものをフルに見るのは初めて。都合7種類の管楽器、ソプラノ・リコーダーからバス・クラまで、音質も吹き方も相当に異なる楽器をあざやかに吹きこなす。その様子も、上体を反らしたり、前に倒したり、くねらせたり、足を踏みこんだり、見ているだけでも面白い。こういう管楽器奏者はこれまで見たことがない。まるでロック・バンドのリード・ギターのようだ。

 この人の音はひじょうに明瞭、というよりおそろしく確信的、と言いたくなる。小さな音や微妙なフレーズでも、まったく疑問ないし揺らぎを感じさせない。それが林氏のユーモアとからむと、なんとも言いようのない、ペーソスのあるおかしみが漂う。

 この二人の手綱をしっかり操るのが相川さんのビブラフォンとパーカッション、というのが昨夜のカタチだった。1曲、フラメンコというよりも、中世イベリアのアラブ風の曲では達者なダラブッカを披露して、このときだけちょっとはじけていたのも良かった。

 昨夜は前半の最後に鈴木氏のオリジナル、後半の頭に相川さんの作品も演奏された。鈴木氏のは安土桃山時代の絵図につけた曲。《上杉本 洛中洛外図屏風を聴く》に入っているような曲。これも面白かったが、相川さんのお菓子の名前をつけた小品4つからなる組曲が良い。そういう説明を聞いたからか、ほんとうに甘味がわいてくる。

 『オーランドー』のための林氏の音楽は多彩多様で、音楽だけ聴いてまことに面白い。サントラ録音の計画があり、年内録音、来年春のリリースというのには、会場が湧いた。林氏が劇を見た方はと問いかけたのに、聴衆の九割方の手が上がった。しかし、こういう音楽だったらやはり見るのだったと後悔しきり。確かアニーも出ていたはずだ。昨夜は劇中で演奏されたそのままではなく、ライヴ仕様で、3人がソロを繰り出す曲もあった。

 席が林氏のほぼ真後ろになり、氏の演奏する後ろ姿を見ることになったが、それがやはり見ていて飽きない。ソロを弾いている姿にはどこか笑いが浮かんでいる。本人は別に意識してはいないだろう。夢中になって、あるいはノリにノって弾いている、その姿が楽しい。演奏しているピアニストの後ろ姿というのはあまり見られないだろう。昨日は細長い会場を横に使い、外から見て右側の壁に沿ってミュージシャンが並び、客席はそれをはさむ設定だった。ミュージシャンの正面の席は壁際に一列だけ。

 昨日の演奏を見ても、『オーランドー』のサントラは楽しみだ。寒さがゆるんで、半月もどこかほっとしている顔だった。(ゆ)

 最初の1曲を聴きながら、顔がにやけてくるのがどうしようもない。良いのである。心が浮き立ってくるのである。音楽を聴く歓びがふつふつと湧きあがってくる。これだよ、これだよ、こういうのが聴きたいのだよ。いや、自分はこういうのが聴きったかったのだな、と教えられるのだよ。

 鍵はもちろん熊谷さんのパーカッションだ。サイド・ドラムにタムタム、小さなシンバル、ハイハット、それにカホンを椅子にしてこれを足で蹴ってバスドラの代わりにする。手で振る小さなものが二つ。片方はお客さんの一人が「ヤクルト」と呼んだもので、真黒なヤクルトそっくりの容器に鉄の玉が入っているそうな。本来のサイズの半分のもの。もう一つは籠の形にガラスの玉が入っている由。

 これらを駆使するアクセントがすばらしい。強弱大小、タイミングがよく考えぬかれ、大胆に、また繊細に打たれて、音楽を浮上させる。フロントのフィドルとアコーディオンだけでなく、ブズーキまでも浮上する。

 ワルツから始まって、2曲めのジグがいい。前回もジグが良かったが、やはりジグはパーカッショニストの腕のふるいどころだ。ジグは三拍子系だが二拍子でもとれる。アクセントの入れ方もいろいろできる。

 次はマイケル・マクゴールドリックの変拍子の曲で、熊谷さんはあまり変拍子は得意では無いようだが、まあ、慣れの問題だろう。アイリッシュ系のミュージシャンが作る変拍子の曲はなぜか名曲が多い。これもその例にもれず、変拍子であることは聴いていると気にならない。むしろ、メロディがちょっと捻った感じになって快感だ。

 リールの安定感はあいかわらずだが、今回はそのリールも後ろの2人が浮上させている。こういうリールはひどく新鮮だ。おそらく熊谷さんがアイリッシュ・チューンになじみが無いことが良い方に作用しているのだ。なじみがないから、個々の曲に新たに向かい合う。ああジグね、ああリールね、と、いわばテンプレートにあてはめることが無い。それにしても、相当に勉強している。英語でいう home work をやっている。本人はしきりに音量を気にしていたが、それだけではない。とりわけホメリのような場では音量は大事だが、それ以上に、音の入れ方の方が重要だ。メロディの山や谷のどこで打つか。バゥロンの奏法もかなり参考にしているけしきだが、音の高低も種類も選択の幅がより大きい分、独自に開発しなければならないところも多い。

 今回はリハーサルにも念を入れたそうで、全体のアレンジも練られている。フロントの2人の出し引きもいい。名前がついたというのは、単純に呼び名ができたというだけでない。バンドとしてのまとまり、一体感も別次元だ。そして、これはこれから本当にいいバンドになってゆくぞ、きっと、という予感もわいてくる。来月、フル・アルバムのための録音をするそうだが、そこでまた飛躍があるにちがいない。と勝手に思いこんでおこう。

 後半もいい。牧場ポルカでのカホンがたまらない。KAN の〈ラングーン〉は、ああ、こういう曲って演りたくなるんだろうなあ、と共感してしまう。そして〈マーガレットのワルツ〉。うーん、ワルツってどうしてこう名曲が多いのか。それともセツメロゥズが演ると名曲になるのか。

 このバンドは沼下さんと岡さんが熊谷さんと演りたいと意気投合して始まったそうだが、どうしてそう思ったのか、熊谷さんのどこがいいのか、訊こうと思っていてまた忘れた。いずれにしても、熊谷さんがいいことには、あたしも双手を上げて賛成する。すばらしいバンドの誕生にスローンチェ!(ゆ)


セツメロゥズ
沼下麻莉香: fiddle
田中千尋: button accordion
岡皆実: bouzouki
熊谷太輔: percussions

 楽屋は席が指定制で、入口で名前を言うとあらかじめ決められた席に案内される。その席がステージ右手ど真ん前だったのには参った。おまけに神保町の店の客席は中目黒の半分ほどのサイズで、ステージとの距離は無い。席のすぐ脇がもうステージなのだ。出てきたメンバーが、「近い」と嘆息していたのも無理はない。酒井さんが床に置いたメモにも手が届きそうだ。さらに、席はステージに対して直角になっていて、あたしは上手に向かっているので、ステージの左半分は上半身を思いきり捻らないと見えない。

 もう一つ、この席では楽器から出る生音とミュージシャン用のモニタの音が混ざって聞える。ステージも狭いのでモニタは天井から3台、両袖と中央に吊るされている。その中央のものはあたしの席より店内側にある。つまりこのモニタからの音が降ってくるわけだ。

 という、あたしとしてはいささか困った位置ではあったのだが、ライヴそのものはとても良かった。新作《WONDER GARDEN》発売記念ということで、終演後、CDもたくさん売れていたようだ。『ラティーナ』に紹介を書いたので、一足先に聴かせてもらって感嘆していたから、まあライヴの質の高さも当然。と言ってしまってはミもフタも無いが、それにしてもこの日の安定感はこれまでにないレベルだった。

 要因の一つは岡さんの楽器が変わったことかもしれない。従来よりも一回り大きな楽器を、ほとんど初めて使うそうだが、まず音がいい。音量が大きいだけでなく、響きも豊かで、しかも柔かい。能率も良い、つまりより少ない力でより大きな音が出るようで、演奏もやりやすいそうだ。成田さんのバゥロンも低音にリバーブをかけて強調していたのもよい加減だった。

 その点からいえば、今のきゃめるの、入念で複雑なアレンジの面白さを存分に味わえたのはあの席のおかげだったろう。フィドルとホィッスルとブズーキは楽器からの音の方が大部分だった。もっともあのハコのサイズなら、最後尾でもしっかり味わえたはずで、あたしとしてはやはりそちらで見たかった。全員が視界に入っていない、というのはどうもおちつかないのだ。

 まあ、自分で選べばあんな席につくことは絶対にないから、一度はああいう席を経験するのもむしろ良いことではある。近くで見なければわからないことも結構あったりする。これはつまり運命の女神のはからいと思うことにしよう。

 曲のハイライトは前半最後の〈阿波踊りセット〉で、あの笛のフレーズをホィッスルでやるのを眼の前で見るのはやはり最高に面白い。高梨さんは本当に耳がいいし、模倣がうまい。作曲の才能は模倣の才能でもある、というのはあたっているのだ。

 それに、〈ガーデン・リール〉の3曲目はやはり名曲だ。もっとも今度のアルバムでは聞き返すたびに良くなるするめ曲が多いとは思う。

 しゃぼん玉のPVには、正直ちょっと引いたが、ライヴを見て聴けば緻密な天衣無縫さにますます磨きがかかってきた。うーん、そうか、あのしゃぼん玉は彼女たちの天衣無縫を表そうとしたのか。やっぱり、ダブリナーズのライヴを見にいくかなあ。まったく別の面が見られるかもしれない。(ゆ)

Wonder Garden
きゃめる
ロイシンダフプロダクション
2017-07-23


 冷静に見ると、このバンドは tipsipuca + のギターが中村さんから河村博司さんに変わっただけなのだが、初めてこの編成でやると聞いたときにすでにまったく別のバンドという印象を受けたのだった。どういうことになるのか、まるで予想がつかなかった。この日のライヴが楽しみだったのも、そこである。どうなるか、わからない。そこが面白い。だから、ちょうど同じ時刻に、しかもすぐ近くでジョンジョンフェスティバルやザッハトルテがやると聞いても、乗り換えようなどとは思わなかった。いささか乱暴かもしれないが、あちらはどういうことになるか、だいたい予想はつく。もちろん行けば新たな体験ができるだろうし、思わぬことも起きるだろう。しかし、それでもまず「想定の範囲内」でもあろう。こちらはとにかく、お先真っ暗なのだ。あたしは生来「新しもの好き」なのだ。

 そしてその期待はみごとに応えられた。それとも、裏切られた、とこの場合言うべきだろうか。つい先日のホメリでのビール祭りも新たな生命体の誕生に立ち合えたのだが、ここでもまたひとつ、新しいバンドが誕生していた。その両方に熊谷さんがいるというのも偶然ではないだろう。

 河村さんが入ることはいろいろな意味で面白い。まず、メンバーの年齢の幅が大きくなる。伝統音楽では年齡の違う人たちが一緒にやることは普通だ。マイコー・ラッセルとシャロン・シャノンとか、ジョー・ホームズ&レン・グレアムとか、ダーヴィッシュとか、わが国の内藤希花&城田じゅんじとか、最近では Ushers Island とかがすぐに思い浮かぶ。年齡が違うというのは、体験が異なる。すると音楽も違ってくる。違う音楽が混ざりあうのは「異種交配」のひとつの形であり、「混血」は美しくなるものだ。熊谷さんも言っていたが、同じビートを刻んでも、ギターの音が違ってくる。

 たとえばリールやホーンパイプでも、きゃめるの時よりもわずかにゆっくりのテンポで、メロディの面白さが引き立つ。河村さんのギターの刻みによるのだろう。

 〈Growing〉についてのMCで熊谷さんが、この曲を tipsipuca + でやるときは、米や麦の芽が出てすくすくと育ってゆくイメージなのだが、キタカラでやると、すでに育ってわさわさと茂っている感じになる、というのは、河村さんと中村さんのギターの違いを言いあてて妙だった。

 河村さんはずっとロックをやってきた一方で、ドーナル・ラニィたちとの共演も体験している。アイリッシュのコアと最先端を両方同時に体験している。今盛りのわが国アイリッシュ・シーンで活躍している人たちでもなかなかできない。年の違いはこういうところにも出る。

 河村さんが加わるもう一つの成果は曲、レパートリィも拡がることだ。河村さんのオリジナルもよかったし、なんといっても、アンコールの〈満月の夕〉はこういう組合せで初めて出てくるものだろう。それにしても河村さんのヴォーカルは初めて聴いたが、みごとなものだ。グレイトフル・デッドがジェリィ・ガルシアとボブ・ウィアの二人のシンガーによってレパートリィを多様化していたように、SFUでもやれたのではないかと妄想してしまう。

 〈満月の夕〉では熊谷さんも達者なヴォーカルを披露した。ケルト系のすぐれた打楽器奏者はほとんどうたわないが、熊谷さんは、カレン・カーペンターとは言わないが、レヴォン・ヘルムになれるかもしれない。

 このバンドは、だから三つの、それぞれに出自の異なる音楽が一緒にやることで生まれる相乗効果を狙っていて、それはまず120%目標を果たしていた。高梨さんと酒井さんの演奏も、明らかにきゃめるや tipsipuca + の時とは違う。それが最も良く出ていたのは、後半の〈ナイトバザール〉、そしてアンコール前の〈The Mouth of the Tobique〉メドレーだ。後者は演奏は「めちゃめちゃ」だったが、それはそれは楽しかった。

 この日の予想のつかなさの最たるものは、けれども、もう一人のゲストだった。SFUとかつて同じ音楽事務所に所属していて、河村さんが録音について教えたという縁と、酒井さんの幼馴染でもあるという二重の縁による Azumahitomi さんである。あたしは名前を聞くのも初めてだったが、そちらの方面では名の通った方だそうだ。Azuma さんはシンガーとしての参加で、彼女がうたった〈サリー・ガーデン〉が最大のハイライトだった。ゲストとして呼ばれて序奏が始まって、あー、またこれかよ、と内心覚悟したのだが、うたいだした途端、思わず坐りなおした。後で聞けば、この曲はメジャー・デビューしたアニメのテーマ曲の「B面」だったそうで、うたいこんでもいるのだ。このうたを小細工もなく、真向正面からうたわれて、こんなに感動したことは初めてだ。正直、今さらこのうたでこんなに感動するとは思わなかった。

 Azuma さんのうたは後半の〈ダニー・ボーイ〉も、彼女のオリジナルもすべてすばらしかった。宅録の第一人者とのことだが、この人はまず第一級のうたい手だ。バンドの演奏も単なるバック・バンドではない。〈サリー・ガーデン〉では、間奏で酒井さんがメロディをぐんと低い音域で弾いたのも絶妙だった。こうなると、キタカラもカルテットのみならず、リード・シンガーを入れたクィンテットというのもいいのではないかと思えてくる。少なくともあたしとしてはその形を見たし、聴きたい。

 この日は三つの音楽の流れのファンが集っていたようで、それぞれのファンが互いに他のミュージシャンたちのファンになっていたようだ。「異種交配」にはそういう効果もある。

 キタカラにはぜひぜひ続けて、いずれは録音も出していただきたい。そしてこういう試みが、他でも現れてくれることを期待する。(ゆ)

 ライヴというのはやはり録音とは違う。とあらためて思い知らされる。たとえ録音とまったく同じ演奏をしたとしても、ライヴで見なければわからないところが、音楽にはあるものだ。O'Jizo の録音の質が低いわけでもない。質の高低ではなく、それとは別の、ミュージシャンの本質にかかわる部分だ。

 乱暴を承知で言えば、O'Jizo は大人になっていた。成熟というともう行くところまで行ってしまった意味合いも含まれるとすれば、O'Jizo は伸びしろのある成熟ということになろう。思えば O'Jizo のライヴを見るのは久しぶりで、しかもトリオでは初めてだ。カルテットとトリオでは当然別のバンドになるわけだし、中村さんがこれだけアコーディオンを弾くのも、かつては無かった。もちろんミュージシャンたちはどんどん変わっているわけだ。

 しかしそういう変化は録音では表に出難いものかもしれない。音楽上のスタイルというよりも、基本的な態度、音楽に対してどう向き合うかの変化だからだ。ミもフタも無い言い方をすると、どうすれば演奏していて一番気持ちよくなれるか、でもある。

 そういうところが変わらない人もいるだろう。基本が変わらないまま、スタイルがどんどん変わる人もいる。スタイルはそれほど大きく変化しないのに、根本が変わってゆく人もいる。あるいはどちらも変わらない人もいるにちがいない。

 豊田さん自身も変わっている。ケイリ・バンドでの体験は苦労した部分も多々あったが、それだけ収獲も大きかったようだ。O'Jizo はオリジナル曲が多いが、曲の構造や成立ちは伝統音楽と同じだ。楽器も同じなのだから、使う技法や骨法は同じだ。伝統曲よりは、伝統の外から持ち込んでいる要素が多少多いくらいだ。外部から持ち込んだそこが面白いわけだが、それをいかにも外から持ち込んだとわかるようにやってしまっては、面白くはならない。あたかも伝統曲を演るように演ってはじめて面白くなる。そこのところで、ケイリ・バンド体験がモノを言ってくるだろう。何といってもケイリのための演奏は、伝統の根幹に限りなく接近することを要求される。

 もっとも変わったといえば、一番大きく変わっているのは中村さんだ。かつてのかれのアコーディオンはいわば味付け、アレンジの膨らみの部分のためだった。だからピアノ・アコーディオンで充分とも言えた。しかし気がついてみれば、中村さんのピアノ・アコはすでにメロディ楽器として中心にいる。この日はたまたますわった位置もセンターで、珍しいそうだが、そこにいることがごくあたりまえに見えた。告白すれば、これほどになっていたことにまったく気がついていなかった。新作を初めて聴いたとき、あれ、このアコーディオンは誰かしらん、ゲストの一人かと思ってしまった。クレジットを見て、ゲストにアコーディオン奏者が見当らず、あらためて見直した。ライヴといえば、どうやらこれまでのところ、中村さんが入ったライヴを一番数多く見ている。意図してそうしているわけではないが、所属バンドが一番多いということかもしれない。しかも、そのどれにあっても、やっていることが違う。違いながら要になっている。ひょっとするとこの人、天才なのではないか。一つのことに突出するのではなく、様々に異なるシチュエーションを違和感なく渡り歩き、そのそれぞれで全体を浮揚させる。地味な天才。

 長尾さんは対照的に、どこにあっても長尾さんだ。音を聴けば、ああ、長尾さんとわかる。O'Jizo にあっても、その存在が錘になっている。全体を安定させている。言い換えれば、最終的に O'Jizo の形を据えているのはかれのギターだ。その長尾さんもマンドリンを弾いている。メロディを弾いている。O'Jizo の熟成を特徴づけるものを一つだけあげよといわれれば、長尾さんのマンドリンがそれだと言ってみたい。

 豊田さんによれば、O'Jizo はこれからむしろメンバーを増やす方向に向かおうとしている。やはりそう来たかととても楽しみな展開ではあるのだが、この日のライヴを見ると、トリオとしてのさらなる熟成を見たい気もする。長尾さんのギターと中村さんのブズーキの編みなす精妙なグルーヴに、さわやかな粘りのある豊田さんのフルートが乗ってゆくなじみのある形の芳醇を、もっと味わいたくもなる。

 昨年カナダに同行して、ジョンジョンフェスティバルが国産バンドとしては一頭地を抜いたかと思ったのだが、なかなかどうして、音楽の深さでは、O'Jizo もおさおさ劣るものではないのだった。

 それにしても、もっともっとライヴを見なくてはいけない。(ゆ)


Via Portland
O'Jizo
TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-05

 

 みんな、うまくなったなあ、というのが第一印象。従来は技術的には酒井さんが突出して、高梨さんが後を追い、岡さんと成田さんはむしろつつましくサポートに徹すると見えていた。それが土曜日は酒井さんがそれほど目立たない。成田さん作の新曲の「超難曲」を吹きこなす高梨さんは、自己暗示をかけているという「ブライアン・フィネガン」に半分は達していた。成田さんは積極的な、「攻め」のバゥロンを鋭く入れる一方で、達者なコンサティーナも披露する。岡さんのブズーキも、ダーヴィッシュのフォロワーを脱して、存在感をぐんと増している。個々の技量が上がっただけでなく、アンサンブルの密度と柔軟性も増している。つまりはバンドとしての練度が上がっているのだ。ダブリナーズでの定期的ライヴの成果かとも思ったが、月1回ではここまでにはならないだろう。見えないところで努力されているのか。

 MCも酒井さん、高梨さんが交互にとるだけではなく、それぞれの作った曲について、成田さん、岡さんもおしゃべりする。二人ともなかなか堂々としていて、臆するところがない。tipsipuca や tipsipuca+ との違いが今一つ明瞭でなかったのが、きゃめるとしての性格がはっきりと出てきた。その違いをどうと言葉ではいわく言い難いが、無理矢理言えば、きゃめるはビートルズで、tipsipuca はストーンズだ。

 今日は新曲たくさんやります、ということだったが、前半は「旧曲」ばかり。とはいえ、上記の事情もあって、どの曲も新鮮だ。ここでのハイライトは一番古いもののひとつ〈ショコタンズ・ワルツ〉。そして、前半ラストの〈始まりの街〉旧名〈山口・山口セット〉。今日、改名しましたと宣言されると、「新曲」に響く。

 後半は新曲パレード。アンコール以外はすべてオリジナルの新曲。岡さんと成田さんが1曲ずつに、残りの5曲は高梨さん。ここで印象にのこったのは成田さんの〈短日植物セット > ガーデン・リール〉とラストの〈Traveling Camel〉。このラストの曲のMCでようやくバンド名の由来の一端が明かされた。成田さんの曲は聴いていても難しいだろうなあとわかるぐらいだが、その難しいフレーズの効果はやはりこのバンドならではのものだ。一見、のんびりと、イージーゴーイングに見えるが、実は相当にひねくれたところもあるのは、実際のラクダと共通しているのだ。たぶん。

 きゃめるはなぜか生音でしか聴いた覚えがない。こうなってくると、一度はきっちりPAを入れて、本格的なステージを見たい。曲の細かいニュアンスやアレンジの編み目がきちんと聴けるコンディションで聴いてみたい。ノーPAは生楽器には良いのだが、ホメリのような近い空間でも、複雑な構成とアレンジを隅々まで捉えるには、想像力を発揮しなければならないこともある。

 それにしてもやはりきゃめるは底抜けに明るく、楽しい。良い意味で天然だ。どうか、このままで成熟していってほしい。きゃめるにとって「成熟」がどんなことか、実はよくわからないが。(ゆ)

Op.1 オーパス・ワン
きゃめる
ロイシンダフプロダクション
2016-02-14


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