クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:オーストリア

06月08日・水
 このところスピーカーで聴くのがすっかり愉しくなってしまった。イヤフォン、ヘッドフォンはほとんどがお休み中だ。AirPods Pro で YouTube や Bandcamp などで試聴するくらい。

 理由の一つは良いスピーカーを手に入れたからだ。Hippo さんが A&C Audio で造った最後の製品 Dolphin PMS-061。今の薩摩島津最初の製品 Model-1 の原型。スピーカー・ユニットは同じで、ガワが違う。樹脂製で前面はユニットから斜めに後退する形だし、制振ユニットもついていない。しかしあたしにはこれで十分だし、制振ユニットは Hippo さんがオマケで付けてくれた100円ショップで売っているゼリー状のもので代用が効く。


 この「特に不満がない」というのが危険であることは、オーディオを趣味とする人なら身に覚えがあるであろう。裏返せば、大満足していない、あるいはその機器に夢中になっていない、ということで、これは即ち、実はもっと良いものがあるのではないか、とうずうずしている状態をさす。

 しかし Aiyima のペアは Hippo さんが推薦するだけあって、8割から9割くらいの満足感は与えてくれているし、これより格段に優れたものを求めれば、おそらく手の届かない世界の住人であろうとも思われた。

 そんなこんなで、ぼんやりとあちこち覗いているうちに行き当ったのが ExAudio という横浜の通販専門店のサイトだ。ここに Bakoon Products というメーカーのスモール・アンプがあった。メーカーは熊本だそうだ。まず何よりもツラがいい。真黒にオレンジのノブとプリント。音が良いのはツラも良い。面が良いのは恰好が良いとか見映えがするのとは異なる。やたらデザインに凝った挙句、隠したつもりの媚びがはみでているのとももちろん違う。まず自信がある。これが出す音は良いものであることに自信がある。その面を見た途端に聴きたくなった。



 パワー・アンプの最大出力が 6W というのも気に入った。ニアフィールドで聴く分には巨大パワーは要らない。十分なパワーで出す音をいかに良くするかに集中したともある。まさに聴いているのはニアフィールドだ。スピーカーまでの距離は 1.5m もないくらいだ。

 値段もいい。このスモール・タイプのプリとパワーは合わせても18万。そりゃ安くはないが、500円玉貯金も20万を超えてはいるから、まったく買えないわけではない。こうなると、矢も盾もたまらなくなって、試聴を申し込んだ。

 やってきた箱が小さい。受け取ってみると軽い。これでプリとパワーが入ってるの、と思わせるほど軽い。確かに二つ入っている。サイズも小さい。Aiyima TPA3255 の方が大きいくらいだ。

 パワーのスピーカー端子は昔ながらの、レバーを押してケーブルを突込み、レバーを離して固定する。TPA3255 はバナナ端子で、ケーブルもそれ用に処理された Canare だ。ネジを回してゆるめ、バナナ端子をはずした。

 まず、Bakoon のペアで聴く。聴いた途端、買おうと思った。音の芯が太い。空間が広い。聴いているのはハンス・ロットの交響曲第1番をパーヴォ・ヤルヴィがフランクフルト放送管弦楽団を振ったもの。その第四楽章前半。

ロット:交響曲第1番
ヤルヴィ(パーヴォ)
SMJ
2012-05-09


 こういう時、アイリッシュなどは使わない。生楽器の小編成の再生はいま時まずたいていの機器は失敗しない。一応まっとうに聞かせる。実際、ダーヴィッシュなんか聴いても、Aiyima と Bakoon で違いはない。どちらもすばらしい。フルオケのフォルティシモをきちんと描けるかがあたしの場合、判断の軸になる。

 ハンス・ロットはマーラーの二歳上の同窓で、後でマーラーが口を極めて誉めたたえた人だ。交響曲第1番は残された中での最大の作品で、地元の図書館にあったヤルヴィの録音を片っ端から聴くうちに遭遇した。そしたらすっかりハマってしまった。とりわけ、この第四楽章だ。これは他の楽章の倍の長さがあり、おまけに半ばで一度ほとんど終ったようになる。そこまで盛り上がってゆく部分。

 次にプリを Aiyima に替える。これは一応真空管のハイブリッドだからだ。すると、どうだ、弦の響きはこちらの方が良いではないか。比べると Bakoon のプリ CAP-1007 では、ほんの少しだが、雑に聞える。

 そこで Aiyima のペアに戻してみる。パワーは Bakoon SCL CAP-1001 に軍配があがる。スケール感、空間の大きさ、広がりは後者が明らかに上。フルオケの音が綺麗。濁りが皆無。

 DAC からパワー・アンプに直結してみる。音はそう変わらない気がする。この場合には DAC からは音量固定で出して、パワー側で音量調節する。やはり CAP-1001 に軍配が上がる。Aiyima は若干だがフルオケのところでより粗くなる。それに、CAP-1001単体よりも Aiyima TUBE-T10 を入れた方が弦が綺麗になる。真空管のおかげか。

 というわけで、Bakoon SCL CAP-1001 を買うというのが現在の結論。念のため、もう少し他のものも聴いてみる。デッドはどちらもいい。あえて言えば、Tube T-10 + CAP-1001 の方が、ヴォーカルが生々しい。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月08日には1967年から1994年まで、11本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。

01. 1967 Central Park, New York, NY
 木曜日。2時と5時の2回のショウ。無料。共演 Group Image。
 この頃のデッドの写真で必ず出てくるセントラル・パークでのフリー・コンサート。カフェ・ア・ゴーオーでのランの初日の昼に行なったトムキンス・スクエア・パークでのフリー・コンサートと並んで、デッドの存在をニューヨークに強烈に印象づけた。音楽もさることながら、無料だったことで、「庶民のバンド」というイメージが固定する。このイメージを信じこんだ狂信的ファンによって、5年後のフランスで散々な目に遭うことになる。
 Group Image はマンハタンで結成された6人組。ジェファーソン・エアプレインが一応のお手本らしいが、音楽はもう少しブルーズ寄りの由。1968年にアルバムをリリースしている。

02. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 木曜日。このヴェニュー10日連続のランの8日目。二部、7曲のセット・リストがある。この第一部クローザーで〈Born Cross-Eyed〉がデビュー。ボブ・ウィアの作詞作曲。この後は1968–01-17から03-30まで10回演奏。スタジオ盤収録無し。
 2曲目の〈Golden Road To Unlimited Devotion〉はこれが記録にある最後の演奏。

03. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。セット・リスト不明。

04. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA
 日曜日。このヴェニュー5日連続のランの4日目。3ドル。Jr ウォーカー、グラス・ファミリー共演。
 6曲目〈Turn On Your Lovelight〉に Aum の Wayne Ceballos がヴォーカルで、エルヴィン・ビショップがギターで参加。ピグペンは不在。その後の〈The Things I Used To Do〉〈Who's Lovin' You Tonight〉ではビショップがヴォーカルとギター。この間、ガルシアは不在。その後の〈That's It for the Other One〉でガルシアは復帰。フィル・レシュの回想録によれば、このショウではレシュほか数人が、ありえないほどドラッグ漬けになっていて、ステージで幻覚を見ていたそうな。
 第一部2〜4曲目〈He Was A Friend Of Mine〉〈China Cat Sunflower〉〈New Potato Caboose〉が《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》のボーナス・ディスクでリリースされた。〈New Potato Caboose〉は2015年の《30 Days Of Dead》でもリリースされている。第二部〈That's It for the Other One> Cosmic Charlie〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 〈New Potato Caboose〉はこれが最後の演奏。1967-05-05以来25回目。レシュの曲で、明確なフォームを持たず、モチーフを核にして集団即興をするタイプだが、核になるメロディが複雑すぎて、うまく即興に打ち上げられない。リード・ヴォーカルはウィアだが、15回目の1968-03-17になってようやくまともに歌えるようになる。ガルシアは積極的にはソロをとらず、レシュにとらせ、そのソロをサポートしようとする。しかし、レシュはプライム・ムーヴァーではないので、バンドの即興をリードするまではいかない。バンドは何とか面白く展開しようと努めてみたものの、結局うまくいかなかった。

05. 1974 Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA
 土曜日。A Day On The Green #1 と題された2日間のフェスティヴァルの初日。前売8.50ドル、当日10ドル。開演午前10時。この日の出演はデッド、ビーチ・ボーイズ、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、コマンダー・コディ。出た順番はこの逆。ビーチ・ボーイズにとってはデッドは近づきたくない相手だったようだ。怖がっているようにみえたという話もある。
 デッドのショウそのものは良いものの由。
 ちなみに翌日は会場が Cow Palace に移って、テン・イヤーズ・アフター、キング・クリムゾン、ストローヴス。

06. 1977 Winterland, San Francisco, CA
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。《Winterland June 1977》で全体がリリースされた。
 前日もベストだったが、それよりさらに良いとも思える。とりわけ後半、〈Estimated Prophet〉から〈Johnny B. Goode〉 まで一続きの演奏には、その続き方といい、デッドでも滅多にないゾーンに入っている。
 第一部が劣るわけでもなく、2曲目の〈Sugaree〉は5月初めの頃を凌ぐかとも思えるし、たとえば〈It's All Over Now〉のような種も仕掛けもない曲でも活き活きとしてくる。一見のんびりやっているようで、ドナ、ガルシア、ウィアのコーラスが決まっているし、ガルシアは例によって坦々とシンプルに音を重ねるだけで、すばらしいソロを展開する。これはもうギタリストのレベルではない。音楽家としての器が問われる。第一部クローザーの〈Supplication〉は、〈Slipknot!〉同様、ジャムのための場で、その中でも突出している。ガルシアがいかにも気持ち良さそうに快調に飛ばすギターを核にした集団即興には、もうサイコー! ベスト・ヴァージョン!とわめいてしまう。
 1977年は幸せな年であるので、デッドのユーモアもまた最高の形で発揮されている。もともと〈Row Jimmy〉とか〈Ramble On Rose〉などのユーモラスな曲には腹を抱えて笑ってしまうし、〈Wharf Rat〉のようなシリアスな緊張感に満ちた曲でも、顔がほころぶ。

07. 1980 Folsom Field, University of Colorado, Boulder, CO
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。12ドル。開演正午。ウォレン・ジヴォン前座。
 オープナーが〈Uncle John's Band> Playing In The Band> Uncle John's Band〉というのはこれが唯一。その後さらに〈Me and My Uncle> Mexicali Blues〉までノンストップ。こういうショウが悪いはずがない。

08. 1990 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。07-22まで20本の夏のツアー、ブレント・ミドランド最後のツアーのスタート。開演7時半。まことに見事なショウの由。

09. 1992 Richfield Coliseum, Richfield, OH
 月曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。ハイライトの多い見事なショウの由。

10. 1993 The Palace, Auburn Hills, MI
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。
 なかなかに良いショウの由。とりわけ第二部前半。

11. 1994 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。08月04日まで29本の夏のツアーのスタート。26.50ドル。開演7時。第一部〈Me And My Uncle> Big River〉でウィアはアコースティック・ギター。
 第二部 Drums> Space 後で〈Samba In The Rain〉がデビュー。ハンターの詞にウェルニクが曲をつけた。1995-07-09まで38回演奏。スタジオ盤収録はデッド時代は無し。1998年04月に出たウェルニクのバンド Vince Welnick and Missing Man Formation の唯一のアルバム《Missing Man Formation》収録。(ゆ)

06月02日・木
 図書館にあるパーヴォ・ヤルヴィの CD を片っ端から借りてきた中に、マーラーの同窓でもあった Hans Rott の交響曲第1番を演っているものがある。断片だが第2番があるので第1番と呼ぶらしい。

SINFONIE NR. 1/SUITE F
ROTT, H.
REDSE
2012-06-01


 早速聴いてみる。なるほどマーラーはずいぶんこれから盗んでいる。ブルックナーとマーラーを結ぶものというのもわかる。しかし、マーラーよりもブルックナーよりも面白い。マーラーはロットを誉めたたえること、尋常ではなかったらしいが、もしロットが長生きして作曲を続けていたなら、マーラーの出番はなくなっていたんじゃないか。ロットの交響曲の初演者としてしか、名前が残らなかっただろうと思えてくる。
 他の演奏も聴きたくなる。録音は Discog では11種。Apple Music でほとんど聴けそうだ。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月02日には1967年と1995年の2本のショウをしている。公式リリースは無し。図らずも出発点と終着点が同居した日になっている。

1. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 金曜日。このヴェニュー10日連続のランの2日目。セット・リスト不明。

2. 1995 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時。第一部6曲目〈El Paso〉でウィアはアコースティック・ギター。第二部 Drums でチベット仏教のギュト密教学院の僧侶による詠唱が加わった。(ゆ)

4月7日・水

 玉川土手を山に向かって歩いていると、山の斜面が様々な緑色の斑になり、その中に淡いピンクが点在する。そこに斜めに陽があたっているのに嬉しくなる。

 散歩のお伴は Claudia Schwab のソロ・ファースト Amber Sands。やはりダーヴィッシュ支援で、これまたたいへん面白い。アイルランド、インド、その他の影響がそれぞれまだ剥出しなのもたのしい。聞きこんでゆくといろいろと発見がありそうだ。録音もいい。

Amber Sands
Claudia Schwab
CD Baby
2014-04-26



 Wさん@ICF から講座への反応をいただく。まことにありがたい言葉で、やった甲斐があったと胸をなでおろす。あたしのような者の体験でも、分野を限ればそれなりに人様が聞いても面白いものになるらしい。Zoom の後半に話した、あたしがいかにアイリッシュ・ミュージックに親しむようになったか、という話はブログに書いてみるのも一興かもしれない。


 オーストラリアのベンチャー企業が開発した NuraLoop が面白そうだ。AV Watch の本田雅一氏の記事にあるように、録音音楽伝達末端の音質調整にデジタルが入ることで、オーディオは完全に変わるだろう。

 

 スピーカーでも Genelec の SAM の技術は Apple や Nura と同様のアプローチだ。あちらは耳ではなく部屋の特性を測定して調整する。

 音源はデジタルになったけれど、音に変換して再生する部分ははイヤフォン、ヘッドフォンも含めて、アナログによるアプローチだった。イヤフォン、ヘッドフォン、スピーカーのボディやドライバ、ケーブルの素材や形状というのはアナログだ。カスタム IEM で耳型をとってそれに合わせて作るのも典型的なアナログだ。耳型をデジタルで作る方法もあるけれど、耳型という点ではアナログだ。Nura はいわばヴァーチャル耳型をとるわけだ。耳型をとるのは遮蔽能力を高めるためだが、デジタルを徹底すれば、遮蔽能力はアクティヴ・ノイズ・キャンセリングにまかせ、その上で聞え方を直接測定するのが当然だ。この測定の技術、ANC の技術はまだ向上するだろう。何をどう測るかの方式は一つではないはずだ。さらに測定したものを再生に活かす技術も様々なものが出てきて、向上するだろう。フル・デジタル化することで、音質改善のコストが劇的に下がる。

 ただし、耳そのものの質を向上させるわけではない。壊れた耳や壊れた脳が「聴いて」いるものを補正するわけじゃない。音楽を聴いて愉しむには、それなりの訓練がいる。後藤さんの「ジャズ耳」はその一つの表現だけど、耳は「鍛える」ことができるし、またすべきなのだ。ただ、それはオーディオ的に音質を改善することとは別のことではある。

 ゼンハイザーがコンシューマー部門のアウトソーシングを探っているのも、こういう状況を見てのことかもしれない。デジタルの恩恵を受けるのはまだエンド・ユーザーのレベルで、音楽製作の現場ではアナログでなければならない場面は残る。個々のエンジニアやプロデューサーだけに合わせた音で作ってしまっては売物にならない。

 NuraLoop の懸念は再生装置との接続で、M11Pro と Bluetooth でつないだ場合の音質がどうなるか。有線もあるにしても、イヤフォン側のケーブル形状が固有だから、サード・パーティー製でのリケーブルはできない。デフォルトは無線だろう。とまれ、試してみる価値はありそうだ。


 「そんな高齢化時代を迎えたいまだからこそ、地域にとってなくてはならない存在感が一層際立つ。(中略)『ご年配のお客様の中には、話し相手として私たちが来るのを待ち望んでいる方も少なくありませんから』と顔をほころばせる。地域のお客様の心の拠り所として愛され続け、61年目の春を迎えた」
 
 というのは結構なことだが、この地域の住民の平均年齡が若返り、新たな住民が増えることは期待できるのだろうか。それがなければ、『昔は世帯人員も5人、6人というのが当たり前でしたからね。それが今は高齢のご夫婦や単身世帯ばかりになってしまいました。購買力が落ちるのも当然です』という流れが続き、住民が死に絶えたところで、この店の商売も絶えるのか、70年目の春は迎えられるのかと他人事ながら気になってしまう。いや、埼玉の一角であるこの地域の話だけではなく、神奈川の一角である、今住んでいるこの辺りも状況は同じなのだから、他人事ではすまない。(ゆ)

晴暖。

 山尾悠子『山の人魚と虚ろの王』を読む。この人の作品を読むのはウン十年ぶり。母語で美しい話を読む歓びにひたる。こういう文章を読みたかったのだ、と読むと覚らされる。一つひとつの字、語、節、そして文章全体が、いちいち腑に落ちる。一方で、微妙にずらされる感覚。鉱物の結晶のように明晰明瞭な言葉が連なるのに、すべてが曖昧模糊に移ってゆく。読むそばからぼやけ、焦点がずれ、摑んだはずのものが、指の間から洩れてゆく。それすらも快感。夢と現のあわい、両者が溶けあい、交錯し、また別れ、さらにからみあう一瞬。イメージと見せながら、あくまでも言葉でつむぎだす綱渡り。どこにも着地しないまま浮揚浮遊しつづけおおせる力業。このまま、いつまでも終らないでほしい。せめて、5,000枚あるいは1,000頁くらいは続いてほしい。

 巻末の短文4本は、本篇の一部として書かれながら、はみ出たもののようでもあり、本篇とは独立に、しかしつながりのあるものとして書かれたようでもある。それぞれが独立した話、というよりも散文詩に近い。この短文があることで、本篇の世界が一段と深く、広くなることは確か。

 この本は筆写したくなる。

 1ヶ所だけ、89頁最終行「廃盤品」。「廃盤」はレコード、CDについてのことばで、ここでの舞踏用の靴にはふさわしくない。「廃番品」が妥当ではなかろうか。しかし、この世界ではこのままでよいのかもしれない、とも思ってしまう。

山の人魚と虚ろの王
山尾悠子
国書刊行会
2021-02-27




 散歩に出ると鴬が聞えた。それも2度。お伴は Claudia Schwab《Attic Mornings》2017。オーストリア出身でアイルランド在住のヴァイオリニストでシンガーのセカンド・ソロ。1曲を除き、すべて自作。その1作は Aidan O'Rourke の曲。そういえば、ファーストをまだ聴いていなかったが、このセカンドは実に面白い。地元オーストリア、アイルランド、それにインドの音楽に影響されているそうで、フィドラーよりもヴァイオリニストだろう。ダーヴィッシュの Brian McDonough がプロデュースで、ダーヴィッシュ人脈の参加もある。メインのバンドはスウェーデン、エストニア、イングランドのミュージシャンからなる。土台はクラシックなのだろうが、一番近いのはジャズではないか。たとえば自作のジグを自身のフィドルとフリューゲルホーンのデュオでやったりする。2曲だけ参加しているフリューゲルホーン奏者はかなりの遣い手で、このトラックはハイライトだ。ヴォーカルはオーストリアということでヨーデルをフィーチュアするが、歌詞は英語がメイン。上記三つの音楽以外のものもいろいろと入っているようで、それをまとめあげているのがこの人の個性ということになるが、その有り様は20世紀的な強烈な我を押し出す形ではなく、湧きでてくる音楽の流れにまかせて、身は捨てている。

 今日は晴れたので、ヘッドフォンは KSC75 にピチップを貼ったもの。

Claudia Schwab: violin, vocals, compositions

Marti Tarn: bass, piano [07 10], vocals [11]

Stefan Hedborg: drums & percussion, vocals [11]

Hannah James: accordion, foot percussion [01], chorus [01 10]


Special guests: 

Lisa- Katharina Horzer: harp [02 07], yodelling [01]

Seamie O'Dowd: fiddle, guitar [02]

Matthias Schriefl: flugelhorn [07 09]

Brian McDonagh: mandola [06]

Irene Buckley: electronics [06]

Leonard Barry: whistle [02]

Cathy Jordan: bodhran [02]

Wolfgang Schwab: Rastl (yodelling [01]

Anna Schwab: Rastl (yodelling [01]

Sebastian Rastl: Rastl (yodelling [01]

Sophie Meier: Rastl (yodelling [01]


Produced by Claudia Schwab & Brian McDonagh. 

Recorded by Brian McDonagh at the Magic Room, Sligo

Mixed by Brian McDonagh at the Magic Room, Sligo

Mastered by Bernie Becker, Pasadena, CA and Brian McDonagh (track 7, 8 & 9)


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