クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:オールドタイム

 フィドルのじょんがオーストラリアから帰って(来日?)してのライヴ。明後日にはオーストラリアに戻るとのことで、今回はジョンジョンフェスティバルは見られなかったので、最後にライヴが見られたのは嬉しい。原田さんに感謝。

 本邦にもフィドルの名手は増えているけれども、じょんのようなフィドラーはなかなかいない。音の太さ、演奏の底からたち上がってくるパワーとダイナミクス、そしてしなやかな弾力性。どちらかといえば細身の体つきだが、楽器演奏と肉体のカタチはあまり関係がないのだろうか。肉体の条件がより直接作用しそうなヴォーカルとは別だろうか。もっとも、本田美奈子も体つきは細かった。

 今回は原田さんのフィドルとの共演。アイリッシュでフィドルが重なるのは、北欧の重なりとはまた別の趣がある。響きがより華やいで、北欧の荘厳さに比べると豪奢と言いたくなるところがある。この日は時にじょんが下にハーモニーをつけたりして、より艶やかで、濃密な味が出ていた。じょんのフィドルには時に粘りがあらわれることがあって、ハーモニーをつける時にはこれがコクを増幅する。と思えば、2本のフィドルが溶けあって、まるで1本で弾いているようにも聞える。もっともここまでの音の厚み、拡がりは1本では到底出ない。複数のフィドルを擁するアンサンブルはなぜか、本邦では見かけない。あちらでは The Kane Sisters や Kinnaris Quintet、あるいは Blazin' Fiddles のようなユニットが愉しい。身近でもっと聴きたいものではある。昨年暮の O'Jizo の15周年記念ライヴでの中藤有花さんと沼下麻莉香さんのダブル・フィドルは快感だった。あの時は主役のフルートを盛りたてる役柄だったが、主役で聴きたい。

 原田&じょんに戻ると、前半の5曲目で原田さんがフィドルのチューニングを変えてやったオールドタイムがまずハイライト。じょんは通常チューニングで同じ曲をやるのだが、そうすると2本のフィドルが共鳴して、わっと音が拡がった。会場の壁や天井を無視して拡がるのだ。原田さんの楽器が五弦であることも関係しているのかもしれない。別に共鳴弦がついているわけではないが、普通のフィドルよりも音が拡がって聞えるように感じる。普断はハーディングフェーレを作っている鎌倉の個人メーカーに特注したものだそうだ。それにしても、パイプの中津井氏といい、凄い時代になったものだ。

 この日の三人目はパーカッションの熊本比呂志氏。元々は中世スペインの古楽から始めて、今はとにかく幅広い音楽で打楽器を担当しているそうな。あえてバゥロンは叩かず、ダラブッカを縦に置いたもの、サイドドラム、足でペダルで叩くバスドラ、カホン、ダフ、さらにはガダムの底を抜いて鱏の皮を貼った創作楽器を駆使する。ささやくような小さな音から、屋内いっぱいに響きわたる音まで、おそろしく多種多様な音、リズム、ビートを自在に叩きだす。

 上記オールドタイムではダフで、これまた共鳴するようなチューニングと演奏をする。楽器の皮をこする奏法から、おそろしく低い音が響く。重低音ではない、羽毛のように軽い、ホンモノの低音。

 その次の、前半最後の曲で、再度チューニング変更。今度はじょんも変える。ぐっと音域が低くなる。そして2本のフィドルはハーモニーというより、ズレている。いい具合にズレているので、つまりハーモニーとして聞える音の組合せからほんの少しズレている。ピタリとはまっていないところが快感になる。この快感はピタリとはまったハーモニーの快感よりもあたしは好きである。倍音がより濃密に、しかも拡がって聞える。

 この曲での熊本氏のパーカッションがおそろしくインテンシヴだ。緊張感が高まるあまり、ついには浮きあがりだす。

 リズムの感覚はじょんも原田さんも抜群なので、4曲目のスライドではフィドルがよくスイングするのを、カホンとサイドドラムとバスドラでさらに浮遊感が増す。

 最大のハイライトは後半オープナーのケープ・ブレトン三連発。ストラスペイからリールへの、スコットランド系フィドルでは黄金の組合せ。テンポも上がるのを、またもやインテンシヴな打楽器があおるので、こちらはもう昇天するしかない。

 より一般的なレパートリィで言えば、後半2曲目のジグのセットの3曲目がすばらしかった。Aパートがひどく低い音域で、Bパートでぐんと高くなる。後で訊いたらナタリー・マクマスターの曲〈Wedding Jig〉とのことで、これもケープ・ブレトン、アイリッシュではありませんでした。

 オールドタイムをとりあげたのは原田さんの嗜好で、おかげで全体の味わいの幅が広がっていた。味が変わると各々の味の旨味も引立つ。こういう自由さは伝統から離れているメリットではある。じょんは来年までお預けだが、原田さんと熊本さんには、誰かまた別のフィドラーを迎えてやって欲しい。(ゆ)

 40年ぶりということになろうか。1970年代後半、あたしらは渋谷のロック喫茶『ブラックホーク』を拠点に、「ブリティッシュ・トラッド愛好会」なるものをやっていた。月に一度、店に集まり、定例会を開く。ミニコミ誌を出す。一度、都内近郊の演奏者を集めてコンサートをしたこともある。

 「ブリティッシュ・トラッド」というのは、ブリテンやアイルランドやブルターニュの伝統音楽やそれをベースにしたロックやポップスなどの音楽の当時の総称である。アイルランドはまだ今のような大きな存在感を備えてはおらず、あたしらの目からはブリテンの陰にあってその一部に見えていた。だからブリティッシュである。トラッドは、こうした音楽のレコードでは伝統曲のクレジットとして "Trad. arr." と書かれていることが多かったからである。フランスにおけるモダンな伝統音楽の優れた担い手である Gabriel Yacoub には《Trad. Arr.》と題した見事なソロ・アルバムがある。

 この愛好会についてはいずれまたどこかで書く機会もあろう。とまれ、そのメンバーの圧倒的多数はリスナーであって、プレーヤーは例外的だった。そもそもその頃、そうした音楽を演奏する人間そのものが稀だった。当時明瞭な活動をしていたのは北海道のハード・トゥ・ファインド、関西のシ・フォークぐらいで、関東にはいたとしても散発的だった。バスコと呼ばれることになる高木光介さんはその中で稀少な上にも稀少なフィドラーだった。ただ、かれの演奏している音楽が特異だった。少なくともあたしの耳には特異と聞えた。

 その頃のあたしはアイルランドやスコットランドやウェールズやイングランドや、あるいはブルターニュ、ハンガリーなどの伝統音楽の存在を知り、それを探求することに夢中になっていた。ここであたしにとって重要だったのはこれらがヨーロッパの音楽であることだった。わが国の「洋楽」は一にも二にもアメリカのものだったし、あたしもそれまで CSN&Y で洗礼を受けてからしばらくは、アメリカのものを追いかけていた。「ブラックホーク」で聴ける音楽も圧倒的にアメリカのものだった。そういう中で、アメリカ産ではない、ヨーロッパの音楽であることは自分たちを差別化するための指標だった。

 もちろんジャズやクラシックやロックやポップス以外にも、アメリカには多種多様な音楽があって、元気にやっているなんてことはまるで知らなかった。とにかく、アメリカではない、ヨーロッパの伝統音楽でなければならなかった。だから、アメリカの伝統音楽なんて言われてもちんぷんかんぷんである。オールドタイム? なに、それ? へー、アパラチアの音楽でっか、ふうん。

 高木さんの演奏する音楽がオールドタイムであるとは聞いても、またその演奏を聴いても、どこが良いのか、何が魅力なのか、もう全然まったく理解の外だった。ただ、なにはともあれ愛好会の定例会で生演奏を聞かせてくれる貴重な存在、ということに限られていた。不遜な言い方をすれば、「ブリティッシュ・トラッド」ではないけれど、生演奏をしてくれるから、まあいいか、という感じである。

 こういう偏見はあたし一人のものではなかった。当時は若かった。若者は視野が狭い。また誰も知らないがおそろしく魅力的な対象を発見した者に特有の「原理主義」にかぶれてもいた。たとえば上記のコンサートには「オータム・リヴァー・バレー・ストリング・バンド(つまり「秋川渓谷」)」と名乗るオールドタイムのバンドも参加していたのだが、その演奏を聞いた仲間の一人は、こんなのだめだよ、トラッドじゃないよ、と言いだしたものだ。

 振り返ってみると、オールドタイムをやっている人たちも居場所を求めていたのだろう。当時、アメリカの伝統音楽といえばブルーグラスとカントリーだった。この人たちも結構原理主義者で、オールドタイムは別物としてお引取願うという態度だったらしい。実際、ある程度聴いてみれば、オールドタイムがブルーグラスでもカントリーでもないことは明瞭ではある。音楽も違うし、音楽が演奏される場も異なる。ブルーグラスもカントリーもあくまでも商業音楽であり、オールドタイムは共同体の音楽だ。共同体の音楽という点ではまだ「ブリティッシュ・トラッド」の方に近い。もちろん「ブリティッシュ・トラッド」も商業音楽としてわが国に入ってきていたけれども、共同体の音楽という出自を忘れてはいないところは、そもそもの初めから商業音楽として出発したブルーグラスやカントリーとは別のところに立っていた。

 さらに加えて、高木さんの演奏は、その頃からもう一級だった、という記憶がある。オールドタイムという音楽そのものはわからなくても、演奏の技量が良いかどうかは生を聴けばわかるものだ。少なくともそうでなければ、よくわからない音楽の演奏を愉しむことはできない。

 当時の高木さんはどこか栗鼠を思わせる細面で、小柄だけどすらりとしたしなやかな体、伸ばした髪をポニーテールにしていた。このスタイルもおしゃれなどにはまったく無縁のあたしにはまぶしかった。

 と思っていたら、いきなり高木さんの姿が消えたのである。定例会に来なくなった。あるいはあたしが長期の海外出張で定例会を休んでいた間だったかもしれない。オールドタイムを学ぶために、アメリカへ行ってしまったのだった。そう聞いて、なるほどなあ、とも思った。念のために強調しておくが、その頃、1970年代、80年代に、留学や駐在などではなく、音楽を学びに海外に行くなどというのはとんでもないことだった。しかも高木さんのやっているオールドタイムには、バークリーのような学校があるわけでもない。各地の古老を一人ひとり訪ねあるいて教えを乞うしかないのだ。それがいかにたいへんなことかは想像がついた。同時にそこまで入れこんでいたのか、とあらためてうらやましくもなった。ちなみに、アイルランドやスコットランドやイングランドの伝統音楽を学びに現地に行った人は、あたしの知るかぎり、当時は誰もいない。例外として東京パイプ・ソサエティの山根氏がハイランド・パイプを学びに行っていたかもしれない。

 それっきり、オールドタイムのことは忘れていた。はっきりとその存在を認識し、意識して音源を聴きあさるようになったのは、はて、いつのことだろう。やはり Mozaik の出現だったろうか。その少し前から、ロビンさんこと奥和宏さんの影響でアメリカの伝統音楽にも手を出していたような気もするが、決定的だったのはやはり2004年のモザイクのファースト《Live From The Powerhouse》だっただろう。ここに Bruce Molsky が参加し、当然レパートリィにもオールドタイムの曲が入っていたことで、俄然オールドタイムが気になりだした、というのが実態ではなかったか。

Live From the Powerhouse
Mozaik
Compass Records
2004-04-06



 そこでまずブルース・モルスキィを聴きだし、ダーク・パウエルを知り、そして少したってデビューしたてのカロライナ・チョコレート・ドロップスに出くわす。この頃、今世紀の初めには古いフィドル・ミュージックのヴィンテージ録音が陸続と復刻されはじめてもいて、そちらにも手を出した。SPやLP初期のフィールド録音やスタジオ録音、ラジオの録音の復刻はCD革命の最大の恩恵の一つだ。今では蝋管ですら聴ける。オールドタイムそのものも盛り上がってきていて、この点でもブルース・モルスキィの功績は大きい。後の、たとえば《Transatlantic Sessions》の一エピソード、モルスキィのフィドルとマイケル・マクゴゥドリックのパイプ、それにドーナル・ラニィのブズーキのトリオでオールドタイムをやっているのは歴史に残る。



 かくてオールドタイムは、アイリッシュ・ミュージックほどではないにしても、ごく普通に聴くものの範囲に入ってきた。その何たるかも多少は知りえたし、魅力のほどもわかるようになった。そういえば『歌追い人 Songcatcher』という映画もあった。この映画の日本公開は2003年だそうで、見たときに一応の基礎知識はすでにもっていた覚えがあるから、あたしがオールドタイムを聴きだしたのは、やはりモザイク出現より多少早かったはずだ。


Songcatcher
Hazel Dickens, David Patrick Kelly & Bobby McMillen
Vanguard Records
2001-05-08


 一方、わが国でも、アイリッシュだけでなく、オールドタイムもやりますという若い人も現れてきた。今回高木さんを東京に呼んでくれた原田さんもその一人で、かれのオールドタイムのライヴを大いに愉しんだこともある。いや、ほんと、よくぞ呼んでくれました。

 高木さんはアメリカに行ったきりどうなったか知る由もなかったし、帰ってきてからも、関西の出身地にもどったらしいとは耳にした。「愛好会」そのものも「ブラックホーク」から体良く追い出されて実質的に潰れた。あたしらは各々の道を行くことになった。それが40年を経て、こうして元気な演奏を生で聴けるのは、おたがい生きのびてきたこそでもある。高木さんは知らないが、あたしは死にぞこなったので、嬉しさ、これに過ぎるものはない。

 まずは高木さんすなわち Bosco 氏を呼んだ原田豊光さんがフィドル、Dan Torigoe さんのバンジョーの組合せで前座を努める。このバンジョーがまず面白い。クロウハンマー・スタイルで、伴奏ではない。フィドルとのユニゾンでもない。カウンター・メロディ、だろうか。少しずれる。そのズレが心のツボを押してくる。トリゴエさんは演奏する原田さんを見つめて演奏している。まるでマーティン・ヘイズを見つめるデニス・カヒルの視線である。曲はあたしでも知っている有名なもので始め、だんだんコアなレパートリィに行く感じだ。

 フィドルのチューニングを二度ほど変える。これはオールドタイム特有のものらしい。アパラチアの現場で、ソース・フィドラーたちが同様に演奏する曲によってチューニングを変えているとはちょっと思えない。こういうギグで様々な曲を演奏するために生じるものだろうが、それにしても、フィドルのチューニングを曲によって変えるのは、他では見たことがない。それもちょっとやそっとではないらしく、結構な時間がかかる。それでいて、「チューニングが変わった」感じがしないのも不思議だ。あたしの耳が鈍感なのかもしれないが、曲にふさわしいチューニングをすることで、全体としての印象が同じになるということなのか。チューニング変更に時間がかかるのは、原田さんが五弦フィドルを使っていることもあるのかもしれない。

 二人の演奏はぴりりとひき締まった立派なもので、1曲ごとに聴きごたえがある。最後は〈Bonapart's Retreat〉で、アイルランドの伝統にもある曲。同じタイトルに二つのヴァージョンがあり、それを両方やる。バンジョー・ソロから入るのも粋だ。これがアイリッシュの味も残していて、あたしとしてはハイライト。この辺はアイリッシュもやる原田さんの持ち味だろうか。

 この店のマスターのお父上がフィドラーで、バスコさんの相手を務めるバンジョーの加瀬氏と「パンプキン・ストリング・バンド」を組んで半世紀ということで、2曲ほど演奏される。二人でやるのはしばらくぶりということで、ちょっとぎごちないところもあるが、いかにも愉しくてたまらないという風情は音楽の原点だ。

 真打ちバスコさんはいきなりアカペラで英語の詩ともうたともつかないものをやりだす。このあたりはさすがに現場を踏んでいる。

 そうしておもむろにフィドルをとりあげて弾きだす。とても軽い。音が浮遊する。これに比べればアイリッシュのフィドルの響きは地を穿つ。あるいはそう、濡れて重みがあるというべきか。バスコさんのフィドルは乾いている。

 今でもわが国でアイリッシュ・ミュージックなどでフィドルを弾いている人は、クラシックから入っている。手ほどきはクラシックで受けている。まったくのゼロからアイリッシュ・ミュージックでフィドルを習ったという人はまだ現れていない。高木さんはその点、例外中の例外の存在でもある。見ているとフィドルの先端を喉につけない。鎖骨の縁、喉の真下の窪みの本人から見て少し左側につけている。

 加瀬さんがバンジョーを弾きながら2曲ほど唄う。これも枯れた感じなのは、加瀬さんのお年というよりも音楽のキャラクターであるとも思える。もっともあたしだけの個人的イメージかもしれない。

 バスコ&加瀬浩正のデュオは2001年に Merl Fes に招かれたそうで、大したものだ。そこでもやったという7曲目、バスコさんが唄う〈ジョージ・バック?(曲名聞きとれず)〉がハイライト。オールドタイムはからっとして陽はよく照っているのだが、影が濃い。もっとも、この日最大のハイライトはアンコールの1曲目、バスコ&加瀬デュオに原田、ダニーが加わったカルテットでの〈Jeff Sturgeon〉(だと思う)。オールドタイムでは楽器が重なるこういう形はあまりないんじゃないか。このカルテットでもっと聴きたい。

 それにしても、あっという間で、ああ、いいなあ、いいなあと思っていたら、もう終っていた。良いギグはいつもそうだが、今回はまたひどく短かい。時計を見れば、そんなに短かいわけではないのはもちろんだ。

 原田さんの相手のダン・トリゴエさんは、あの Dolceola Recordings の主催者であった。UK Folk Radio のインタヴューで知った口だが、ご本人にこういうところで会うとは思いもうけぬ拾いもの。このギグも、御自慢の Ampex のプロ用オープン・リール・デッキで録音していた。動いているオープン・リール・デッキを目にするのはこれまた半世紀ぶりだろうか。中学から高校にかけて、あたしが使っていたのは、Ampex とは比較にもならないビクターの一番安いやつだったけれど、FM のエアチェックに大活躍してくれた。オープン・リールのテープが回っている姿というのは、LPが回っているのとはまた違った、吸い込まれるようなところがある。CDの回るのが速すぎて、風情もなにもあったものでない。カセットでは回っている姿は隠れてしまう。

 帰ろうとしたときに加瀬さんから、自分たちもブラックホークの「ブリティッシュ・トラッド愛好会」に出たことがあるんですけど覚えてませんか、と訊ねられたのだが、申し訳ないことにもうまったく記憶がない。だいたい、愛好会でやっていたこと、例会の様子などは、具体的なことはほとんどまったく、不思議なほどすっぽりと忘れている。ほんとうにあそこで何をやっていたのだろう。

 このバスコさんを招いてのギグは定例にしたいと原田さんは言う。それはもう大歓迎で、ぜひぜひとお願いした。オールドタイムにはまだまだよくわからないところもあって、そこがまた魅力だ。(ゆ)

Bosco
Bosco
Old Time Tiki Parlou
2023-04-07



バスコ・タカギ: fiddle, vocals
加瀬浩正: banjo, vocals
原田豊光: fiddle
Dan Torigoe: banjo

内藤希花、城田じゅんじ& Alec Brown @ 大倉山記念館、横浜
 この会場への登り坂の急なことはいつも感心する。初めて行ったときには驚いた。横浜でもずっと南の港の見える丘公園のあたりも急な坂が多いけれど、ここのはずっと長い。つまり高い。帰りは遠くまで一望できる。視界が良ければ海も見えるか。今回はその入口近く、公園の手前の線路に沿っているところに何軒もマンションができていて、ここの住人は毎日この坂を昇り降りしているのかと、またまた感心する。健康には良いかもしれない。実家が建っていたのは丘の中腹で、下のバス道路から入る坂は相当に急だったが、その丘には長生きの人が多かった。

 2月に吉祥寺で内藤、城田のペアに高橋創さんが加わった形で見た時に、最近、チェロを入れたトリオでやっていて、6月にまたやると聞いて楽しみにしていた。フィドルとギターのペアにもう一人加えるとすればチェロがいいと内藤さんは思っていたそうだが、これにはあたしもまったく同意する。アイリッシュの Neil Martin やスコットランドの Abby Newton、アメリカで Alasdair Fraser と組んでいる Natalie Haas といった人たちはチェロでケルト系音楽を豊かにしてくれている。わが国でも巌裕美子さんが出現してくれた。

 あたしの場合、まずチェロの音が好きなのだが、内藤さんはどうやらまず低音が欲しかったらしい。コントラバスではどうしても小回りが効かない。そりゃ、ケルト系の細かい音の動きをコントラバスでやるのは、ジャコ・パストリアス級の天才でもムリだろう。そこでチェロを考えていたのだが、ケルト系をチェロでやっているのは、今のところ上記の4人でほとんど尽きてしまう。

 たまたま YouTube でアイルランドでのセッションの動画を見ていたら、チェロで参加しているやつがいた。あたしが訳した『アイリッシュ・ミュージック・セッション・ガイド』によれば、セッションにチェロを持ちこむ人間は「厳罰を受けて当然」(21pp.)ではあるが、この男は歓迎されていたらしい。そこでいきなり日本に来ませんか、とメッセージを送ったというのはいかにも内藤さんらしい。この人、相当に天然である。受け取った方は初めは詐欺と疑ったそうだが、まあ当然である。それでも何度かやりとりするうちに、ほぼ1年前、とうとうやって来た。一緒にやってみた。昨年秋、ツアーをし、今回が二度目。





 この Alec Brown なる青年はアーカンソー出身で、今はアイルランド留学中、伝統フルートで博士号をとったそうだ。クラシックの世界でチェロでメシが食えるだけでなく、アイリッシュ・フルートも吹けて、しかも歌もうたえる。アーカンソーと言えばド田舎もいいところで、よくもアイリッシュ・ミュージックに出会ったと思うが、その点はわが国も同じか。

 アレック君のチェロは基本はベースだ。ベースのハーモニーをつける。ダブル・ベースのようにはじくこともよくやる。時々、ギターのように横に抱いて親指でかき鳴らす。ただし、その演奏は相当に細かい。小回りはやはり効くのだ。

 で、かれが加わるとどうなるか。実はまだよくわからない。音は当然厚くなる。それがフィドルにどう作用しているか、1度聞いただけでは、まだよくわからなかった。内藤さんは全然変わらない。これも当然。むしろますますスケールが大きくなっていて、風格すら備わっている。それがチェロが加わったことで増幅されているのか、それとも彼女自身の成長か、よくわからない。

 城田さんもまるで変わらない。これもまた当然。音域としてはチェロはフィドルよりもギターに近いし、演奏スタイルもギターに近い。ギターよりはフィドルに接近はする。とすれば、ギターとともにチェロはフィドルを支える形になる。はずだ。そうなることもあるが、そうならないことも多い。むしろ、ギターとともに支えるというよりも、フィドルにからんでゆく。時にユニゾンでメロディを弾く。この場合、同じメロディを例えばオクターヴ低く弾くのではなく、同じ音域でユニゾンする。もっともこれもアイリッシュとしては当然。

 一番大きな変化は歌が増えたこと。アレックは昨年、一人で口ずさんでいるのを内藤さんが耳にして、ライヴで唄うよう薦めるまで、人前でうたったことはなかったそうだ。さすがにまだ荒削りなところもあるが、この人、一級のシンガーだ。うたい手としては城田さんよりも上かもしれない。城田さんはなにしろ経験の厚みが違うから、今はまだまだ比べられないが、うたい手の資質としては上ではないかとも思える。この二人のハーモニーもいい。声の質が合っている。

 アーカンソーの生まれというのはここに出ていて、全体にオールドタイムの曲が増えていた。そして、このトリオのオールドタイムはそれはそれは聴いて気持ちよい。アイリッシュよりも気持ちよい。というよりも、オールドタイムの歌の間奏にアイリッシュのジグをはさむというのは、このトリオでしか聴けない。今のところ。前半最後のこの〈The Cuckoo〉、後半の〈Sally in the Garden〉がハイライト。後者ではアレックは口笛で鳥の声のマネをしてみせる。器用な人だ。その前、かれが唄ったトム・ウェイツの曲もよかった。そしてアンコール、〈Ashokan Farewell〉のフィドルとチェロのユニゾンがたまりまへん。

 前半はあっさりと、後半たっぷりで終演21時を過ぎ、日曜の夜とて、バスの便が無くなるので、終ってすぐに失礼する。正面の扉を出たとたん、正面に満月、そのすぐ下に木星が輝いている。今聴いてきた音楽と同じく、なんとも豪奢だ。(ゆ)

 昨年11月の "Bellow Lovers Night, Vol. 17" でのフィドルの演奏に感嘆して、今の内藤さんのフィドルをもっと生でたっぷり聴きたいと思っていたから、このライヴには飛びついた。

 冒頭城田さんが、この会場の名前は希花の M とじゅんじの J が微笑んでいるんですよね、と言って笑わせる。小型のピアノとドラム・キットが置いてあり、ライヴも頻繁にされているらしい。壁に作りつけの棚の中のLPはクラシックのものばかりだが。吉祥寺の駅からは改札から5分かからないところで、こんな駅の直近に、こういう年季のはいった店があるのはこの街ならではだ。

 11月には内藤さんの風格を感じたが、久しぶりにこうして至近距離で生で聴くと、あらためて大きくなったと思う。かつて城田さんに引っぱられるように演奏していた初々しさはもはや無い。聞えてくるのがフィドルの音ばかりなのだ。フィドルの音に耳が惹きつけられて、他の音が聞えてこない。城田さんのギターは結構特徴的で、地味なようでいて、耳を奪うことが屢々だ。相手がパディ・キーナンとかの大物であってもそれは変わらない。ところが今回はほとんど耳に入ってこない。

 それと高橋さんのバンジョーである。これだけアイリッシュのバンジョーを弾く人は今わが国にはいないんじゃないかと城田さんも言う。もっともこれまでバンジョーをまともに弾く人はほとんどいなかった。長尾さんや中村さんがセッションで弾くのを聞いたくらいで、正式のギグでここまで正面きってバンジョーを聴くのは高橋さんがやるようになってからだ。バンジョーはむしろ好きな方だし、最近はバンジョーの良い録音も増えていて喜んでいるが、やはり生で聴くのは快感だ。

 内藤さんのフィドルと高橋さんのバンジョーが揃うと、そこはもうアイルランドである。目をつむれば、まったくアイルランドにいると錯覚できる。この二人の演奏には、日本人離れしたところがある。内藤さんと城田さんは毎年アイルランドに行っているそうだし、高橋さんは7年、アイルランドに住んで音楽で食べていた。同じことをやれば誰でもそうなる、というわけでもないだろう。近頃思うのは、異文化に触れて、何らかの形でこれを自分のものにするには、才能とか努力とかとは別の、いわば相性に属するものもあるのではないか、ということだ。異なる文化というものがどうしても合わない人もいるのである。

 音楽演奏は感性よりも肉体の運動として、ココロよりもカラダにしみこむ。音楽を聴くのも、一見ココロに入ってくるように思われるが、実際はカラダにしみこむものではないか。我々は本当はカラダで聞いているのではないか、と思う。異なる文化の産物である音楽を聴くと、そのことがより大きく感じられる。アイリッシュ・ミュージック演奏の上達方法として、まず音楽を聴け、浴びろと言われるのはそういうことではないか。理屈ぬきで、そこに没入する。母語ではない言語の習得にも同じことが言えるだろうが、異文化をモノにするには、おそらく他の方法は無い。好き嫌いを一度棚にあげてどっぷり漬かるわけだ。

 3人の演奏にはそうやって染み込んだものを感じる。本人たちがどう思ったり感じたりしているかはわからないが、あたしが聴くかぎりでは、肉体の要素、どの部分がそうだというのではなく、肉体を構成する要素の一つにアイリッシュ・ミュージックがなっている。姿を見れば演っているのはわが同胞だが、聞えているのは異文化だ。

 内藤さんのフィドルは音色が千変万化する。短かいフレーズの中だけでも目も綾に変わって、ひょっとすると一音ごとに変わるのではないかと思われる。それが派手にならない。音色が変化することは曲をドライヴする方に働く。聴いているとノってくる。スピード感はあるが、速いと聞えない。これは彼女の個性かもしれない。あるいは多少は意識しているのかもしれないが、だとしてもそうなっているというのに気がついているので、故意にそうしているのではないだろう。故意に付けているのなら、こんなに自然に滑らかにはなるまい。

 バンジョーは原理的に音色は単色で、音が切れる。とんとんと跳びはねてゆく。はねるバンジョーと流れるフィドルのユニゾンが快感だ。時にはズレたり、ハモったりする。ここにも相性が作用しているようにもみえる。

 フィドルとギター、バンジョーとギター、フィドルとバンジョーとギター、ハープとバンジョーとギター、コンサティーナとバンジョーとギター、いろいろな組合せでやる。内藤さんはハープもコンサティーナもすっかりモノにしている。城田さんのMCは、その場で決めているように思わせるが、実際はアレンジも選曲もかなり綿密に組み立てているのだろう。

 城田さんと高橋さんがギター2本でやった Paul Machlis の〈Shetland Air〉がまた良い。ギター2本のユニゾンは珍しいと思うが、きれいに決まっている。

 PAは3人の真ん中にマイクを1本立てるブルーグラス・スタイルで、いつかセツメロゥズが高円寺のムーンストンプでやっていた時もそうだったが、良い方式だと思う。

 お客さんは城田さんと同年輩の人が半分くらい。カップルも数組いて、ナターシャ時代からのファンであろう。アンコールで城田さんが〈Foggy Mountain Breakdown〉をやると湧く。日曜日の昼下り、たっぷりと良い音楽に浸ると、生きててよかったと実感する。しかし、今日はダブル・ヘッダー。夜は tipsipuca+ のレコ発リベンジだ。いざ、行かん。(ゆ)

 何とも不思議な味の、とても面白い一夜だった。原田さんはちょっと規格外のところがあって、関東ではこういう人はまずいない。そのキャラがそのまま現れたようなライヴだ。

 まずレパートリィが面白い。ご本人はアイリッシュがメインと言われて、確かに曲の数からいえばアイリッシュが大半を占めるが、ここにオールドタイムとそしてアラブ・フィドルが入る。実は音楽のジャンルよりもフィドルという楽器そのものに惚れていることに、比較的最近気がついたのだそうだ。アラブの音楽はチュニジアのミュージシャンに習っているそうで、いずれ本格的なアラブ・アンダルース音楽も聴かせていただきたいものだが、この日はベリーダンス向けの曲。そのせいか、アイリッシュに混じってもあまり違和感がない。あるいはそういう曲を選んだのか。

 オールドタイムの方は、ひょっとするとこれがルーツなのではと疑われるほどはまっている。関西ではバスコこと高木光介さんとも演っていたそうだが、関東では他にはほとんどいない。もっともじょんもブルース・モルスキィは大好きと言っていたから、いずれこちらでもオールドタイムが頻繁に聞けるようになるかもしれない。

 その昔、ブラックホークで高木さんが演っていた頃は、オールドタイムは何とも単調に聞えて、どこが良いのかさっぱりわからんかった。周りもほぼ同様で、高木さんは孤軍奮闘だったけれど、まったく意に介さず、一人我が道を行っていた。そのうちアメリカに行ってしまい、もどって来たときは故郷に帰ったから、もう長いこと会ってはいないが、こちらは少しずつオールドタイムの面白さがわかるようになってきた。何度も書くが、そのブルース・モルスキィがドーナル・ラニィとマイケル・マクゴールドリックと三人でオールドタイムをやっている Transatlantic Sessions のビデオは、このシリーズの中でもベストの一つだ。


 原田さんのオールドタイムを聴いていて、こちらがルーツと思ってしまう理由の一つは、かれのフィドルに独特の響きがあって、それがあたしにはオールドタイムのあのアクセント、ぐいと伸ばす音のアクセントにつながって聞えるからでもある。原田さんが好きだというポルカにそのつながりが最もはっきりと響く。

 この響きは、なんとも言葉にし難いが、聞けばわかるので、共演の高橋さんもあれはいいと言っている。いつどういうときに出るのか、まだよくわからないが、とてもいい具合にアクセントになっていて、ふわっと身体が軽くなる。

 こういうレパートリィの組合せとともに、この日のギグをユニークなものにしていたのはベリーダンサーの存在だ。それぞれタイプの違うお二人で、生のベリーダンスを見るのも初めてだし、生演奏をバックにするのも当然初めて。これまたどこまでが決まっていて、どこからが即興なのか、わからないのも面白い。最初と最後や、途中のキーポイントは決めてあって、途中、即興になるのだろうか。それにしても、フィドルとギターの伴奏というのは、あまり無いんじゃなかろうか。

 前半2曲はベリーダンスのための曲だそうだが、2曲めはほとんどアイリッシュに聞える速い曲。ベリーダンスは、どちらかというと上半身の踊りで、腕と手の動きもポイントなのは、わが国の踊りに通じる。アイリッシュのようなパーカッシヴな動きはほとんど無い。それと、ベリーと言う名前の通り、腰を使う。腰というより、腰を中心とした腹部。臍のあたりの筋肉を細かく震わせるのも技のうちらしい。文楽の人形の動きを連想させる。あちらはこんなに細かくは動かないし、たぶん動かせないだろうが。

 後半はなんとアイリッシュでベリーダンスを踊る。スローなリールで始め、途中からテンポを本来のものに上げる。踊り手は1曲は布を使い、もう1曲では先が大きく広がる扇を使う。これが結構合っている。ベリーダンスはもちろんエロティックな要素も活かすので、アイリッシュ・ミュージック自体にその要素はほぼ皆無だから、そこがうまく合うのかもしれない。ダンサーは客にもからむ。広くない店内が踊り手の周りだけキャバレーになる。こういう猥雑さは、アイリッシュだけの時にはまず現れない。

 そう、この猥雑さなのだ。アイリッシュは時にあまりに「健全」すぎる。潔癖すぎるのだ。まあ、音楽というもの自体が「ピュア」なものを求める傾向はあるにしても、アイリッシュはそこを強調しすぎる傾向がやはりある。エロもグロもあっての人間なので、アイリッシュももっと貪欲に猥雑になっていい。いや、いいというより、なるべきだ。

 原田さんの音楽は猥雑なのだ。そこがすばらしい。猥雑でありながら、下品にならない。ここは大事なところで、下劣になってしまっては、猥雑さも失われる。アイリッシュが潔癖なのは、ちょっとでもゆるめると、とめどなく崩れてしまうことを自覚しているからかもしれない。本性はとことん下品なので、そうなるのを防ぐためにことさらに潔癖をめざすわけである。外から見るとそれが魅力に感じられるわけだが、だからといってその潔癖さだけを受け継ごうとすると本質からはかえって離れることになる。アイリッシュほど「下品」ではない我々としては、むしろ猥雑なくらいがちょうど良くなる。

 あるいは我々もまた実は、本性のところではアイリッシュに負けないくらい「下品」ではあるのかもしれない。アイリッシュとは別の形で潔癖なところを演じているのだろう。とすれば、そんな仮面をひき矧がすためにも、もっと猥雑さが必要だ。

 オールドタイムもアラブも、あるいはことフィドルによる音楽であれば、何であれ呑みこもうとする原田さんの姿勢は、あたしには理想的でもある。原田さんの良いところは、一つひとつの要素は徹底しているのだ。アイリッシュやオールドタイムやアラブはそれぞれに突き詰めている。それぞれに突き詰められたものが、まったく同列に提示されることで生まれる猥雑さが面白いのだ。いずれはスカンディナヴィアやハンガリー、あるいはギリシャや中東のフィドル属にも挑戦してほしい。

 その原田さんの相棒として、高橋さんがまた理想的だ。これが長尾さんやアニーではこうはなるまい。高橋さんは面白い。アイリッシュの伝統の、最も本質的なところはちゃんと摑んで実践していながら、一方で、そこにはまらないものも何なく抱きとめる懐の深さもある。アラブ音楽の伴奏をギターでやってしまえるのは、高橋さんぐらいではないか。以前も披露した小学校の校歌も名曲の感を新たにする。谷川俊太郎作詞、林光作曲という豪華版だ。1曲、フィドルとバンジョーでやったリールもいい。

 アンコールはまたオールドタイムで、ダンサーたちも加わり、いやもう楽しいのなんの。

 ぜひぜひ、このギグは続けてほしい。原田さんはアイリッシュ・ミュージックで、緊縛ショーとのコラボもやったことがあるそうで、まあそれはやはり合わないだろうと思うけれど、もっといろいろなものとのコラボを見てみたい。そして、高橋さんとの録音も欲しいものではある。

 やはりあたしは、いろいろなものがほうり込まれた猥雑な音楽が大好きなのだと確認させられた夜であった。猥雑を煮詰めてピュアに見えるというのも好きだけれど。(ゆ)

 ほとんど2年ぶりに見る内藤さんは大きく成長していた。いや、そんな言い方はもうふさわしくない。一個のみごとな音楽家としてそこにいた。城田さんと対等、というのももはやふさわしくないだろう。かつては城田さんがリードしたり、引っ張ったりしていたところがまだあったが、そんなところも皆無だ。城田さんも、まるでパディ・キーナンやコーマック・ベグリーを相手にしているように、淡々とギターを合わせる。

 今日は〈サリー・ガーデン〉や〈庭の千草〉のような「エンタメ」はやりません、コアに行きます、と城田さんが言う。コアといってもアイリッシュだけではない。いきなりオールドタイムが来た。城田さんがもっと他の音楽、ブルーグラスもやろう、と言うのに内藤さんがむしろオールドタイムをやりたい、アイリッシュ、オールドタイム、ブルーグラスはみんな違うけれど、オールドタイムはどこかアイリッシュに近い、と言うのにうなずく。ブルーグラスは商業音楽のジャンルだが、アイリッシュとオールドタイムは伝統音楽のタイプなのだ。

 それにホーンパイプ。アイリッシュでもホーンパイプはあまり聴けないが、ぼくなどはジグよりもリールよりも、あるいはハイランズやポルカよりも、ホーンパイプが一番アイリッシュらしいと思う。〈The Stage〉はものすごく弾きにくい曲なんです、と内藤さんが言う。作曲者は19世紀のフィドラーだが、ひょっとするとショウケース用かな。

 その後も生粋のアイリッシュというのはむしろ少なく、アメリカのフィドラーのオリジナルやスコティッシュや、ブロウザベラの曲まで登場する。ブロウザベラは嬉しい。イングリッシュの曲だって、ケルト系に負けず劣らず、良い曲、面白い曲はたくさんある。速い曲も少なく、ミドルからスローなテンポが多いのもほっとする。

 コンサティーナもハープももはや自家薬籠中。コンサティーナの音は大きい、とお父上にも言われたそうだが、アコーディオンよりは小さいんじゃないか、とも思う。音色がどこか優しいからだろうか。ニール・ヴァレリィあたりになると音色の優しさも背後に後退するが、内藤さんが弾くとタッチの優しさがそのまま響きに出るようだ。

 今回の新機軸は城田さん手製のパンプレット。このバードランド・カフェのライヴ専用に造られたもの。主に演奏する曲の解説だが、曲にまつわる様々な情報を伝えることは、伝統音楽のキモでもある。伝統音楽というのは、音楽だけではなくて、こうした周囲の雑多な情報や慣習や雰囲気も含めた在り方だ。

 ここは本当に音が良い。まったくの生音なのに、城田さんのヴォーカルも楽器の音に埋もれない。それだけ小さく響かせているのかもしれないし、距離の近さもあるだろうが、こういう音楽はやはりこういうところで聴きたい。

 今回はイエメンとニカラグアをいただく。あいかわらず旨い。美味さには温度もあるらしい。熱すぎないのだ。あんまり熱くするのは、まずさを隠すためかもしれない。家では熱いコーヒーばかり飲んでいるが。

 終わってから、先日音だけはできたという、フランキィ・ギャヴィンとパディ・キーナンとの録音で、内藤さんの苦労話を聞く。今年の秋には二人を日本に招く予定で、それには間に合わせたい、とのこと。しかしこの二人の共演録音はまだ無いはずだし、ギターが城田さんで、内藤さんも数曲加わってダブル・フィドルもある、となると、こりゃ「ベストセラー」間違いなし。それにしても、内藤さんの話をうかがうと、アイリッシュの連中のCDがなかなか出ないのも無理はない、と思えてくる。

 城田さんは晴男だそうだが、近頃多少弱くなったとはいえあたしが雨男で、店の常連でこのデュオの昔からのファンにもう一人、やはり強烈な雨男がおられる、ということで、昨日は途中から雨になった。お店の近くの二ヶ領用水沿いの枝下桜は雨の中でも風情があって、帰りはずっと用水にそって歩いてみた。満開の樹とまったく花が咲いていない樹が隣りあわせ、というのも面白い。(ゆ)

    現役最高のオールドタイム・バンドと編集部が信じるカロライナ・チョコレート・ドロップスの先日のワシントン、DCでのライヴが、会場の国立アメリカン・インディアン博物館のサイトにあがっています

    全体は約80分のストリーミングで、CCD は前半分。実に実にサイコーのライヴ。画面を見ながら、思わず拍手してしまいます。これだけまとまって映像が見られるのは、初めてでしょう。
   
    先日亡くなったマイク・シーガーの名前も出して、今ぼくらがここでこういう音楽をやっているのはかれのおかげだとドムが言っていましたが、かれらこそは21世紀のニュー・ロスト・シティ・ランブラーズと呼ばれる資格は十分。そして汲みあげてくる源泉のヴァラエティの豊富なことでは、先輩たちを凌ぎます。マイク・シーガーたちはやはり白人がメインだったのではないか、とCCDを聞いていると思われます。黒人の文化に流れこんでいた、あるいはかれらが日常的に接触していた文化は、白人たちのものより実は遥かに多様で、幅広かったのでしょう。
   
    それを強く感じたのはリアノンがフィドルを持つときで、その際彼女が弾いたりうたったりする曲はあきらかに東欧やケルト系のメロディです。例えば冒頭から20分経過ぐらいから始まる、ジャスティンが手拍子と足拍子、ドムともう一人のゲストがそれぞれ両手にボーンズを持っての曲。
   
    もうひとつはドムが小型のパンパイプとブルース・ハープで披露した小品。声をアクセントに使う曲。こちらはアフリカにまっすぐつながっているようです。
   
    舞台さばきも堂に入ったもので、アンコール前の曲でのドムの「ドブロ回し」やリアノンのダンスも見せます。
   
    それにしても、出産のせいかリアノンが急に貫禄たっぷりになっていたのは少々びっくり。もっともその分、ヴォーカルに力が増すとともに深みが出て、いよいようたうたいとして成熟してきました。このライヴははじめから最後までハイライトの連続ですが、リアノンのうたはその中でも聞き物です。


    ちなみに後半はカナダ在住のインディアンがメンバーである4人組ブルース・バンド。良質の音楽を聞かせてくれますが、インディアンの伝統はほとんど感じられません。(ゆ)

    米PBS の "Our State" という番組で放映されたカロライナ・チョコレート・ドロップスのすばらしい紹介ビデオがネットで見られます。



Our State - The Carolina Chocolate Drops from Pete Bell on Vimeo.

    ノース・カロライナの故郷のフェスティヴァルでのものを中心とした演奏シーンに、メンバーのインタヴューを重ねたもの。

    番組の末尾近く、リアノンがフィドルで聴かせる曲が興味深いです。これはまだCDとしては録音されていないはず。

    念のためつけ加えておくと、カロライナ・チョコレート・ドロップスはご覧のとおり全員黒人のオールドタイム・トリオ。全員が黒人というのはオールドタイムでは珍しい。たぶん、初めて。で、このリアノンが、名前からもわかるようにウェールズの血を引き、ジャスティン(眼鏡をかけていない方)の祖父はアイルランド移民です。

    カロライナ・チョコレート・ドロップスという秀逸な名前はかれらの発明とおもっていたら、なんと1920年代にテネシー・チョコレート・ドロップスというバンドがあったのだそうです。録音も残っていて、こちらで聴けます。

    "Hear the songs" をクリックするとミュージシャン名のリストが出ます。

 年齢を考えては失礼になるかもしれないが、ニコラの泣きのクラリネットをたっぷりフィーチュアした二度目のアンコールが終わってほお〜とため息をついたら、反射的にメンバーの年齢が頭のなかに湧いてきた。いままでこの空間を満たしていた音楽の豊饒はかれらのキャリアにして初めて可能なのではないか。長年にわたる厖大な蓄積がまずある。この人たちがその生涯に吸収してきた音楽の「量」は、宇宙を満たしている「暗黒物質=ダーク・マター」に相当する。眼には見えない。電波その他の直接観測にもひっかからない。しかし、どうやら確かにそこにあって、宇宙全体の構造を支え、絶え間なく膨張させている。しかも膨張のスピードは時々刻々増している。宇宙が膨張するように、モザイクの音楽もより大きく、より深く、より複雑に、そしてより美しくなってゆく。同世代でも、チーフテンズやストーンズやのように、昔やっていたことを十年一日に繰り返しているのでは金輪際無い。モザイクの音楽はモザイクの前にはなかった。方法論が示され、実現可能なことも見せつけられている以上、これからは現われる可能性はあるが、これに匹敵するものはどうだろう。モザイクにしても、これができるのは今なのだ、たぶん。蓄積と熟成には時間がかかる。熟成とはおちつくことでも、充足することでもない。洗練の極致。猛烈なスピードで疾走しながら、疾走している本体はクールに冴えかえっている。それにしてもアンディはどうしてあんなに難しい指遣いをするアレンジばかり作るのか。そしてめまぐるしく複雑きわまる動きをしながら、見事なうたをうたえるのか。まるで、ああいうふうに指を動かすことで初めてちゃんとうたもうたえる、というようだ。そしてレンスの万能ぶり。バルカンでござれ、アイリッシュでござれ、オールドタイムでござれ、まるで生まれたときからやってたよという顔だ。モザイクを裏で支えているのは、この男ではないか。いやもうそういう個々のメンバーがどうのこうのという次元ではないのかもしれない。練りに練ったアレンジをまるで手が10本あるひとりのミュージシャンのようにうたい、演奏しながら、ここぞのところでそのアレンジを転換し、展開し、転回する。一個の生きものになり、分裂し、合体し、また二つに三つに分れる。俳句や短歌のように、枠組みがあるからこそ解放されてゆく音楽。アイリッシュやオールドタイムやバルカンやの伝統にどっしりと根を張りながら、もうそんな伝統はどこかに消えている。昇華すると物質は消えるのだ。これは今しか聞けない。体験できない。アンディは今年66だ。ドーナルは去年還暦だ。もちろんもっと凄くなる可能性も大いにある。そうなって欲しい。それでもなお、いまのモザイクがこれからも続く保証はどこにもない。今のモザイクのライヴを体験し、体に記憶として刻みこむのは、文字通りいましかできない。明日の吉祥寺スター・パインズはゲストも出るから、単独で見られるのはもう今日の渋谷 DUO Music Exchange だけだ。雨も上がりそうだ。いざ行かん。(ゆ)

 今日からいよいよモザイクの再来日ツアーが始まります。
念のため、日程を書いておきます。
時間はすべて 18:00 open/ 19:00 start です。
料金はすべて 前売り5,000円 当日5,500円(別途ドリンクチャージ有)
チケットは各会場に問合せてください。
会場によってはまだ前売りが間に合うところもあるはず。

◎4/4(金) 京都・磔磔
  info. 磔磔 075-351-1321

◎4/6(日) 名古屋・得三
  info. 得三 052-733-3709

◎4/7(月) 横浜・THUMBS UP
  info. THUMBS UP 045-314-8705

◎4/8(火) 東京・Shibuya duo Music Exchange
  info. duo Music Exchange 03-5459-8716

◎4/9(水) 東京・吉祥寺STAR PINE'S CAFE “End of Tour Party!”
  [出演]Mozaik
  [ゲスト]山口洋(HEATWAVE)、リクオ
  [オープニングアクト]大樹
  info. STAR PINE'S CAFE 0422-23-2251

 モザイクを聞く楽しみはスコッチのシングル・モルトの「バッティング」に似ています。
モルトとグレーンで作る「ブレンド」ではなく、
モルト同士を混ぜる「バッティング」。

 各地のルーツ・ミュージックはそれぞれ長い伝統があり、
そう簡単に「融合」できるもんじゃない。
「融合」しているように聞こえるのはたいてい、
どれかが妥協しているか、
あるいはジャズのような柔軟性のある語法を共通基盤にしているか、
のどちらか。

 それと似て非なるものが「バッティング」。
それぞれの味が独立しながら、並立共存している。
もちろん、どんなモルトでもよいわけではなく、
相性もあるし、比率つまりバランスもある。
しかしうまくゆくと、単一のモルトとは次元の違う深さと面白さが味わえます。

 モザイクには三種類の「シングル・モルト」が入っています。
ニコラ・パロフが代表するバルカンの酒を知らないんですが、
音楽から想像するに、めっぽう旨いものがあるはず。
アンディ・アーヴァインとドーナル・ラニィのアイルランドには
もちろん「ブッシュミルズ」があります。
ブルース・モルスキィのアパラチアだったらやはりバーボン、
「エヴァン・ウィリアムズ」か「メーカーズ・マーク」か「ブランドン」あたり。
レンス・ヴァン・デア・ザルムは美しくて持ちやすくて飲みやすいグラスかな。

 この三つ、だけではないように、時折思えたりもしますが、
基本的にはこの三つの音楽がたがいに独立しながら、
つまりはたがいに相手を尊重しながら、
同時に自己主張している。
「音が合う」
とはそういう状態。
アイリッシュのメロディから切れ目もなくバルカン・チューンにつながり、
さらにアパラチアのオールドタイムのグルーヴへと移り、
さらにはハンガリーのリズムにアイルランドのうたがのり、
オールドタイムとバルカンの旋律が同居する。
まるで違和感が無いどころか、
その変化、転換、つながりが快感になる。

 まず各原酒そのものの質が極上であることは当然ですが、
瞬間瞬間の各原酒の分量、バランスがすばらしい。
モザイクとはよくも名づけたものです。
もっとも原語は Mozaik でスペルはわざと違えてありますが。

 このバンドのライヴを見ていると、
ただ音楽を聞いてるという気がしません。
音楽が作りだす異次元空間に入っている。
それはもう幸福の空間。
耳で聞くより全身で浴びる、染みこんでくる。
よい音楽、よいライヴはみなそういうものですが、
モザイクの場合、他に類例が無いこともあるのでしょう、
とりわけ「異次元度」が高い。

 加えて、酒と同じで、音楽は同じブランド、同じ種類でも
まったく同じものは二つとありません。
比率もその時、その場所によって微妙に変わってきます。
一期一会とは、これまたどんな音楽の、どんなライヴでもそうでしょうが、
モザイクのライヴはとりわけ1回1回がユニークです。
今回は関東で3日連続でやるわけですが、
全部まるで違うはず。
同じ曲がどう変わるか。
それを確認するまたとないチャンスでもあります。

 時間とカネさえ許せば、全ツアーを追っかけしたいのですが、
それは到底かなわない夢のまた夢。
せめて関東だけでがまんすることにします。
おそらくこんなチャンスは二度とないでしょうから。(ゆ)

 03/05 発売のモザイクの新作《チェンジング・トレインズ》の
(ゆ)執筆のライナーに、誤植がありました。
誤植というより小生の変換ミスを、
校正でも見逃がしていたので、
申し訳ありません。

 ブックレット 3pp. の下から2行目、
[05] Rerben's Transatlantic Express の項で、

「ニコラがルーマニアの伝統曲をがドィルカで弾いていたところ」

とありますが、
これは

「ニコラがルーマニアの伝統曲をガドゥルカで弾いていたところ」

が正しいです。

 なんでこんなのを見逃がすか、
と後からは思えるのでが、
その時はわからないものなのです。

 お買い上げの皆様にはご訂正いただきたく、
お願い申しあげます。(ゆ)

 モザイクの新譜の歌詞対訳をひと通りあげ、わからないところをアンディにメール。ソッコーで返事が返ってきて驚く。アメリカに着いたばかりでこれから寝るから後で返事する。なにやらハンドヘルドから送ってきている。

 冒頭の〈オドノヒューの店〉(アンディは「オドノフー」と発音している)は、1962年、アンディが演劇から音楽の世界に転身するきっかけとなった店の様子をうたっていて、人名が続出。まったくの無名で、ネットをさらっても何も引っかかってこない人が数人いる。

 それにしても、アンディが音楽に転向するきっかけがダブリナーズというのは、あらためて興味深い。

 今度のはスタジオ録音で、さすがにドーナル、緻密な音作り。緻密だが、音楽のダイナミズムが増幅されるような緻密な音作り。こういう芸当はドーナルの独壇場。このメンツで悪いものができようはずはないが、むしろ、素材が良いだけに、本当の味をひきだすには料理人の腕が求められる。すなおにそのままストレートに処理するのはまだシロウトであらふ。ドーナルくらいになると、一見ストレートに見えながら、実は微妙な調整をして、ストレートよりもストレートに、生よりも生らしく、仕上げてくれる。

 午前中は、ライナーのため、あれこれ聞き比べ。ブルースのレパートリィであるオールド・タイム・チューン〈Sail away lads〉、本来は〈Sail away lady〉の Uncle Bunt Stephens の古い録音がハリー・スミスのアンソロジーに入っていて、聞きほれてしまう。なんと言うことはない曲なのだが、くりっという装飾音がカイカーン。SPからの復刻で、えらく音がいい。うーん、このアルバム、こういう風に断片的にしか聞いていないが、一度じっくり耳を傾けてもいいな。

 この曲、意外にも Gerry Goffin がソロのファースト、「ブラック・ホークの99選」にも入っている《IT AIN'T EXACTLY ENTERTAINMENT》で取りあげている。フィドルとバンジョーでさらりとやっている。バリバリのスワンプの中にこういう曲をひょいと入れるセンスはさすが。

 夜、「ケル・クリ」のチケットを買っていなかったことを思いだし、あわててネットで注文。横須賀のフロアはもう後ろのほうしか殘っていないので、あこがれのバルコニー席にしてみる。トリフォニーでも一度あそこに座ってみたかったのよね。(ゆ)

 アンディ・アーヴァイン、ドーナル・ラニィたちがやっているモザイクの新作ですが、いま出回っているのは、ニコラ・パロフがミックスしたものです。ただ、録っているはずの音がはずされたりしていて、あまり出来がよくないので、ドーナル自身は気に入っていませんでした。なので、ライヴ会場での手売りに限定しています。

 ヒデ坊に、あんたがやらないで誰がやる、と尻を叩かれて、結局ドーナルが自分でミックスしなおしたものができあがったそうです。

 これはまず日本で、以前と同じく、ヒデ坊がやっている Zo-san Records から出ます。

 いつ出るのか、はまだわからないんですが、まあ、年内目標、でしょうか。

 音はまだぼくも聞いてませんが、ヒデ坊はとても良いとのたもうていたので、期待していいでしょう。

 品切れしているファースト《LIVE FROM THE POWER HOUSE》も、ボーナス・トラックを付けて出しなおすことを計画しているそうで、まだ持っていない、聞いていない人は、これを機会にどうぞ。(ゆ)

 ああ、これがポール・ブレディの真の姿だったのだ。
 前置きは無かった。
 「この唄は1980年代に書いたのだが、この頃うたうほどに、ますます状況にふさわしくなってきている。初めての国にやってきて、歓迎されない状況だ」
 むろん〈いつもおなじみのあの話〉なのだが、その迫力たるや、鳩尾に深々と一発食らわされた。世界中の「歓迎されざる人びと」の積もりつもった哀しみ、悔しさが、「語り部」の声とギターをまとって現れたか。
 ギターはコード・ストロークとフィンガー・ピッキングを自在に混ぜあわせる。聞くものを引込み、集中度を高める。ぐいと引き寄せておいてかませる唄のカウンター・パンチ。
 さんざん唄いつくしたはずの〈ポンチャートレイン〉が、また新たな唄に響く。そう、これもまた異邦人を迎える唄だった。
 わずか5曲。いや、ティム・オブライエンがハーモニーをつける〈柳の庭〉と、ルナサも加わって全員がバックに着いた〈ドニゴールの家〉もあった。
 が、とにかくソロ・パフォーマンスの質量の大きさは比較を絶した。その唄とギターは宇宙を満たす。

 ポール・ブレディの陰に隠れてしまった形だが、他の二組も各々に持ち味を出した。
 ティム・オブライエンは期待通り、ユーモアのセンスがしゃれている。サンキュウ・ベリマッチ、ドウモ・アリガトウ、メルシ・ボクーを混ぜあわせて使う、はにかみ屋。もう何十年も人前で唄っているのに、ここにいるのは本意ではないという姿勢が見える。うたいだせばそこはティムのキッチンだ。フィドルもギターも達者だが、やはり一番馴染んでいるのはマンドリンらしい。
 唄はどこまでもさりげない。叫ぶことはない。ことさらに声をあげることすら無い。音を延ばすのも、強調というより、身についたリズムらしい。
 感情表現を剥出しにしない。伝統音楽の基本である。この人もあくまでも伝統に忠実な人なのだ。
 その点ではダーク・パウエルも同じ。1曲だけフィドルでリードしたが、音楽に没入する様は、求道者のようにも見えた。弦をつまむようにはじくバンジョーが新鮮。

 そしてルナサ。並ぶ位置が変った。トレヴァーが右端に行き、その左がギターのポール。後の三人が左にずれる。ということはトレヴァーが音楽監督なのだろうか。
 というようなことは瑣末で、ルナサはルナサ、あんたがたどこさ、ルナサ。
 が、どこか深いところで変わっている。どこと指摘できない。紛れもないルナサでありながら、ルナサではない。メンバーが代わったのだから当然ではある。
 それだけのことなのか。
 むろん良い変化である。一つひとつの音、フレーズ、演奏にこめられた確信というか、自信というか、それが一段深くなった。迷いが無い。前はあったのかと問われれば、あったようには見えなかった、としか言えない。あるいは突走っていたからわからなかった。このルナサは勢いに乗って走っているのではない。おのれのペースを知り、それを守って悠々と走っている。

 キャラ・バトラーとジョン・ピラツキのダンスについては、特に言うこともない。強いて言えば、ちょっと「お約束」の感じが見えた。チーフテンズの時にはもう少し暴れてほしい。

 すぐ後ろの席の若い女性二人の会話。
 女が多いねえ。
 この頃どこに行ってもそうだね。
 こないだ男のほうが多かったのはキング・クリムゾンだったよ。
 なるほど。
 こちらもなるほど。(ゆ)

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