ジェリィ・ガルシアは孤独な人だった。凄絶なまでに孤独な人だった。その孤独がグレイトフル・デッドの音楽を生み出し、バンドを支え、コミュニティを形成していった。われわれはその残光のなかを生きている。
ガルシアは典型的に外向的な人間で、親分肌でもあり、他人との交わりを楽しみ、またそれを必要としていたことは、この本からもよくわかる。その性格のおかげもあって、かれが厖大な数の人間から深く愛されていたことは、たとえば1995年8月13日、ゴールデン・ゲイド・ブリッジ・パークで開かれた追悼集会で「祭壇」に捧げられた数千にのぼる贈り物でもよくわかる。
にもかかわらず、ガルシアは、巨大なデッド・コミュニティの中で誰よりも、そして群を抜いて孤独だった。というのが、本書を読んでの結論だ。
グレイトフル・デッドのスポークスマン、暗黙のうちに誰もが認めるリーダーであるがゆえに、かれ個人にかかってくる圧力は想像を絶するものがある。誰もがかれと一緒に音楽をつくりたがり、演奏したがる。誰もが自分の思うこと感じることをかれに聞いてもらいたがる。そして、自分の一言に何千何万の人間が反応する。その上、バンドのまとめ役としても、陰に陽に頼られる。ここにははっきりとは書かれていないが、バンドの各メンバー間の軋轢がガルシアをクッションにすることで解消されることもあったようにも思われる。それは時にはスケープゴートの様相を呈したことさえあったのではないか。たとえ意識的なふるまいでは無かったにしても、だ。
こうした圧力が四六時中かかっていれば、そこから逃れるためにドラッグの助けを借りようとするのも無理はないと思える。この点では、ノンシャランなガルシアの人となりがマイナスに作用する。かれは学校教育や軍隊に適応できない。規則正しい生活とか、同じことを毎日繰り返すトレーニングといったことができない。バンジョーもギターもうたもすべて我流だ。自分の好悪や欲望とは一度切り離されて外から叩きこまれたものが無い。そういうものは教養や伝統として基礎岩盤を形成し、危機にあたって己を支える。落ち込んだとき、支えてくれるものを内部に持たない人間は外部の何かに頼らざるをえない。
人によって頼るものは異なるが、たいていの人間にとってセイフティ・ネットとなる家族も、ガルシアは頼れない。ガルシアはおそらく自分自身も含めて、誰も信じていなかった。信じられなかったのだろう。幼くして「目の前で」父を失い、兄の手にかかって指を失い、母に「棄てられた」ガルシアは、その性格と生い立ちによって、音楽以外の逃げ道を断たれたようにすらみえる。音楽をやっている時だけは、誰かに頼る必要もなくなる。その意味では音楽もドラッグの一つだった。好き嫌いのレベルではない。それは取り憑かれた状態、音楽を演らずにいられない状態だ。むろん、優れたアーティスト、芸術家はどんな分野でも皆多かれ少なかれ取り憑かれている。ガルシアの場合、取り憑かれ方が徹底していた。
ガルシアが人間を信じていなかったことの結果として、周囲の人間も、ガルシアに接触することで必ずしもポジティヴな効果ばかりを得るわけではない。ガルシアと関係したおかげで悲惨な目にあわされた者も少なくない。1986年の昏睡からの回復期間中、ガルシアの食生活を管理して健康回復の原動力となった女性は、まるでそのことがガルシアにとっては許せない裏切り行為であったかのように、第三者から見ればこれといった理由もないまま、あっさりと追い出される。
グレイトフル・デッドに関してある程度まとまった書物を読もうとして最初にこれを選んだのは、デッドという集団ではなく、個人のキャリアとして読みたかったからだ。本人がどう言おうと、ガルシアがデッドの核であり、プライム・ムーヴァーであったことはまちがいない。その死とともにバンドは解散する。ガルシアなくしてデッドはありえなかった。ならば、ガルシアの生涯をみれば、デッドもまたおのずから見えてくる。視点を1ヶ所に固定する方が、混沌として、まだ動いている宇宙へは入りやすいだろう。
本人は死んだが、関係者はまだほとんどが生きている人間の伝記を書くのは難しい。とはいえ、伝記というジャンルの始祖にしてその最高傑作であるボズウェルの『ジョンソン伝』もまた、本人は死んだが関係者は皆生きている時期に書かれた。
関係者のほとんどがまだ生きている中で、ガルシアのような複雑で多面的で活動的な人間の生涯をあとづけようとするにあたって、著者が採用した手法は巧妙だ。まず、インタヴューからの引用を多用する。つまり関係者たち自身の言葉に語らせる。ガルシアのふるまいや発言、他人との関係は、事実として確認できることを叙述し、論評はできるだけ避ける。そしてもう一つ、ガルシアの生み出した音楽について語る。
この伝記が出版された時点で、伝記の記述の対象となるような関係をガルシアと築いていた人間で死んでいたのはバンドの旧メンバーであるピグペン、キース・ガチョーク、ブレント・ミドランド、それにビル・グレアムとジョン・カーンだけである。カーンはガルシアのソロ活動のパートナーとして、その初めから最後までいた唯一の人物だ。
ここに登場し、あるいはその発言が引用されている人びとのうち、唯ひとり著者が直接インタヴューしていないのはデボラ・クーンズだ。ガルシア死亡時の夫人で、ガルシアの葬儀に際して歴代のガルシアの結婚相手に参列を認めなかった人物である。著者が取材を申し込まなかったはずはないから、クーンズの方で拒否したのだろう(ついでに言えば、Dennis McNally が A LONG STRANGE TRIP のために行なったより広範囲で300人を超えるインタヴュー対象リストにも無い。ちなみにこちらのリストにはパディ・モローニの名前すらある)。ガルシアが最も深く関った女性は5人数えられるが、本書を読むかぎり、クーンズはガルシアやデッドの周辺でとびぬけて評判が悪い。著者は注意深く好悪の感情を出さないようにしているが、それでも思わず漏らしてしまうほどだ。
著者が参考資料としてあげているインタヴューの相手は124人。複数回している相手も少なくない。対象はガルシア本人とその家族、親族、バンド・メンバーをはじめとするミュージシャン、デッドやガルシアを支えたスタッフやその家族など。とはいえ、あたしなどは名前を見ただけでは何者なのかわからない人の方が多い。また、本文中にインタヴューからの引用がまったくされていない人や、そもそも名前すらあがっていない人もかなりいる。
加えるに公刊されている文献はむろんのこと、デッドのアーカイヴ、バンドの活動やビジネス関係の記録から、バンドが発表したもの、ファン・レター、雑誌・新聞などの媒体の記事切り抜き、さらには他の人びとによるデッドやガルシア関係者への取材の記録まで、調査時点すなわち1996年前後で参照可能なもので漏れた資料は無いとおもえる。
デッドが収集・蓄積・保管してきたこうした資料は、テープなどの視聴覚資料も含めて、2008年以降、 UC Santa Cruz の図書館に寄付され、整理が進められている(ライヴ音源は別にバーバンクのワーナー・ブラザースの施設に保管されている)。整理中で一般には公開されてはいないが、研究者として申請すれば利用することができる。このデッド・アーカイヴの管理人 Nicholas Meriwether がデッドの公式サイトに連載しているブログによれば、デッドはごく初期の頃から丹念に記録を集め、保管してきた。デッドに関して紙媒体に掲載された記事を切り抜いて送らせる、いわゆるクリッピング・サーヴィスの会社と、バンド活動を始めた当初から契約し、現在も継続している。アーカイヴに含まれるファン・レターで最も古いものは1970年。この時期のものはさすがに多くないが、《SKULL & ROSES》での有名な「デッドヘッドへの呼び掛け」によって爆発的に増加する。そしてデッドはこのファン・レターの洪水を裁き、全てに眼を通し、整理してメーリング・リストを作成・管理するために専門のスタッフを雇う。ちなみにこの人物 Eileen Law は現在でもこの仕事を続けている。こうした点でも、デッドはただのロック・バンドではない。自分たちが文化を歴史を造っていることを自覚していた。良いものも悪いものも、すべての演奏の録音を残そうとしたのも、そうした歴史意識から出たのだろう。
著者はこうした豊冨なデータをもとに、ジェリィ・ガルシアの生涯を組み立てる。厖大なデータの分析、解釈にあたって頼りとしたのは、著者自身の豊冨なライヴ・デッド体験と、永年のデッドヘッドとしての活動から身につけた皮膚感覚だ。
叙述の基本姿勢はジャーナリストのものだ。ガルシアがいつ、どこで、何を、誰と、どのようにしたか、をできるかぎり感情を交えず、客観的に述べる。そこからガルシアの人となり、言動の癖、存在がかもしだす雰囲気、直接の相手や周囲におよぼす影響を、読む者に類推させる。文章は平明で、文学的な表現は、他人の発言の引用を除いて、皆無だ。あまりに坦々としているので、うっかりすると単調に見える。これによってガルシアという人物が生き生きと眼前に浮かびあがる、ということもまずない。それは書き手としての著者の力量の限界が現れているとも言える。あるいはガルシア本人を直接知っていた著者が意識せずに前提としたからかもしれない。また、生存者たちへの配慮もあろう。
その欠陥を埋めているのが、デッドやガルシアのソロ活動における音楽の描写だ。リリースされた録音、ライヴの内容やその特徴、効果を的確に描き、簡潔な評価を加える。ガルシアが生み出した音楽を、可能なかぎり具体的に述べようとする。ここでは著者の趣味、感覚が前面に出る。独断的ではないが、評価は明確だ。つまりこの部分は芸術家の評伝になっているのだが、他の部分の、対象から距離をとったクールな文章とならぶと、対象を文章化することの歓びが伝わってくる。同時に、現場体験のない、できない読み手としては、デッドを聴いてゆく際の貴重な手がかりとなる。
これはガルシアの伝記であるから、デッド以外の活動もとりあげる。ジェリィ・ガルシア・バンドやその前身、あるいはオールド・イン・ザ・ウェイやニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、あるいはデヴィッド・グリスマンとのデュオなどの音楽活動、画家としての活動、ガルシア・ブランドのマーチャンダイズなどのビジネス方面までカヴァーする。唯一、具体的に触れられないのは、レックス財団などの慈善事業だ。あるいはこういうことは表立って扱わないという了解があるのか。関係者がまだ生きていることの最も大きな影響だろうか。
もう一つ、ほとんど触れられていないのは、他のバンド・メンバーとの人間関係だ。この点はむしろ結婚相手の女性たちよりも薄い。対象が全員まだ生きていることのマイナス面ではある。キース・ガチョークとブレント・ミドランドは死んでいるが、この二人との関係を突っこめば、他のメンバーにも言及せざるをえなくなる。
グレイトフル・デッドがジェリィ・ガルシアのワンマン・バンドではなかったように、ガルシアもまたデッドが全てではなかった。もちろん他のメンバーも事情は同じはずだが、ガルシアはそのソロ音楽活動にも表れたように、とびぬけた創造力を備えていた。ということはインプット、摂取能力も巨大であり、その片鱗は晩年の自宅の様子に見ることができる。
ガルシアがインターネットがデフォルトになる前に死んだことは、かえすがえすも残念だ。ネットによる情報の洪水をガルシアならばある程度まで裁き、余人になしえないものを生み出したのではないか。「ある程度まで」とはたいしたものではないかもしれないが、われわれは誰もその程度すらできていない。ただ、水面の上にかろうじて鼻と口を出し、あっぷあっぷしているだけだ。ガルシアならば、泳ぐとまではいかなくとも、波乗りをするように情報の洪水に乗ってみせてくれたのではないか。
ガルシアは何よりも一個の芸術家だった。そして20世紀後半にあって、芸術に何ができるか、実験しようとした。いやむしろ、実験することそのものが芸術だと確信していた。デッドの奇蹟は、この確信を何人もの人間が共有したことだ。バンド・メンバーだけではない。マネージャーやアイリーン・ロウのようなスタッフ、サウンド・エンジニアからコンサート会場に設けられた託児所の担当者まで。さらにこの確信はデッドヘッドたちの支持を得る。デッドの音楽を聴くことは、実験に参加することだ。それによって何かを得るためではなく、参加することそのものに価値がある。デッドヘッドとはその確信に共鳴し、聴衆として参加していった人びとだ。
これは20世紀後半のアメリカにおける芸術かもしれない。とはいえ、ガルシアはこの実験を始動し、推進しつづけた。それによって芸術を変え、世界を変えた。どう変えたかはここではまだ問われない。それはもっと時間が経ってからの課題だ。たとえば昨年の Peter Richardson, NO SIMPLE HIGHWAY: a Cultural History of the Grateful Dead はその問いに答える試みのひとつだ。その変化の方向、性格は、従来芸術家が変えてきた方向や性格とは根本的に異なるということは、この本の主張でもある。
もちろん、ガルシアはそうした変化を起こした張本人としての報いを受ける。53歳であっけなく死んでしまったのはその最たるものだ。死因は心筋梗塞。麻薬中毒ではない。体調の不良を本人も周囲もドラッグのせいと思い込み、その治療をしようとした。が、実際には血管が詰まり、細くなっていたのだ。永年の偏食と不摂生のためである。
本書はガルシアの死の直後、著者が執筆を依頼される形でプロジェクトが始まり、1997年に原稿がほぼ完成し、1999年に刊行された。著者はさらに本の中ではスペースなどの事情により使えなかった資料や背景情報を自分のサイトにアップしている。これもハンパな量ではない。
著者は1970年にデッドに遭遇し、熱烈なファンとなり、ファンジンを発行してデッドヘッドの活動のノードのひとつとなる。デッドのライヴ・アーカイヴ録音のライナーを多数書いている他、未発表ライヴ録音のアンソロジー《SO MANY ROADS》の編者の一人であり、楽曲解説を書いてもいる。これはデッドの全キャリアから選りすぐった録音を集めているが、ここに収められた録音のほとんどは公式の形ではまだ他にはリリースされていない。
それにしても53歳という年齡にはなにか呪いがあるのか。アメリカの生んだもう一人の芸術家フランク・ザッパも53歳で死んだ。そしてコードウェイナー・スミスが死んだのも53歳だった。(ゆ)
Peter Richardson
St Martins Pr
2015-01-20


