クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:カルテット

 前回アウラを聴いたのはここ同じ会場で3年前のクリスマス・コンサートだった。3年ぶりに聴く彼女たちのハーモニーはやはりすばらしい。コーラスで歌うことが愉しくてたまらないのが手にとるようにわかるので、見て聴いてこちらも愉しくなるのはいつもの通り。そこに巧まざるユーモアが滲みでるのもこのグループならではだろう。

 3年のご無沙汰の間に大きな変化が起きていた。池田有希氏が卒業して、クインテットからカルテットになった。同じ卒業でも、アイドル・グループのものとは次元が異なる。50人近くいる中で1人抜けても、全体の姿形には響かない。5人から1人抜けるのは、量にして2割減。音にしては数字では測れない。単に音量が減るとかいう話ではない。アレンジもすべてゼロからやりなおしになる。

 1人抜けることになった時点で、あえて後を補充せず、減ったままのカルテットでやると決めるのは並大抵のことではなかっただろう。アウラもすでに10年選手。ここで新たなメンバーを加えるのは、入る人、迎える人たち双方にとってハードルは高い。おそらくはそれ以前に、適切な人が見つからなかったのかもしれない。ソロでも十分やっていける実力をもち、なおかつ、アカペラ・コーラスでもやろうという積極的な意欲があり、さらに、他のメンバーとも気が合う、という条件を満たす人となると、おいそれとは見つかるまい。あるいはやむをえぬ選択だったのかもしれない。

 とはいえ、その結果は、雨降って地固まる、災い転じて福となる。カルテットのアウラはまことに新鮮だった。クラシックの世界ではクインテットは珍しくないのかもしれないが、あたしは他では五人組のアカペラ・コーラス・グループは聴いたことがない。だからだろうか、アウラのハーモニーはどこか不安定、というと言過ぎだろうが、どっしり安定しきったわけではないところを感じていて、そこが魅力の一つでもあった。聴いていると、4+1になったり3+2になったり、1対4、2対3になったりして、しかもその変化が規則的ではなく、千変万化していた。つまり五声であることでどこかが均衡が破れる。それが面白かったのだ。

 四声は安定する。それが最も明瞭にわかるのはコーダ、歌が終る最後の終止音のところ。そしてそこのハーモニーにアウラがクラシックとして歌っていることもまた最も明瞭に出る。先日のカルデミンミットのハーモニーとの違いがまざまざと現れる。たまたま二つの、女声4人の形は同じながら、まったく性格の異なるハーモニーをたて続けに聴くことができて、いろいろ発見があり、これまたたいへん面白かった。

 五声が安定しないことが魅力であったことはたぶん自覚されていたのだろう。四声の安定を、破るのではなく、一部をはずして傾むける試みも随所にされていたと聞えた。一番はっきりしていたのは歌詞を歌わず、スキャットを多用すること。1人ないし2人が歌詞を歌い、他のメンバーが声だけでハーモニーをつけたり、あるいは全員が声だけで「演奏」することもある。これはおそらく、全体の音量減をカヴァーして、瘠せて聞えるのを防ぐ効果も狙ってのことではないかとも思われる。そして、うまく一石で二鳥をとらえていたと思う。あたしの耳には、ドローンのように一つの音を長くひっぱるのがことによい効果を上げていた。

 〈芭蕉布〉では、沖縄の歌ということもあってか、発声法もクラシック標準のものからは変えていたように聞えたけれど、これはあたしの耳のせいかもしれない。

 1人減ったことの影響は必ずしも悪いものだけではない。良い効果とあたしには思えたのは、一人ひとりの声がよりはっきり聞えるようになったことだ。星野氏の低音がより大きくはっきり響いてきたのは、とりわけ嬉しかった。リードをとる場面も増えている。他のメンバーのソプラノと彼女の低音の対比もまたアウラの魅力の一つなので、ここがより増幅されたのは大きいと思える。こうなると、奈加靖子さんが歌詞を書いた〈ダニー・ボーイ〉の日本語版を、あの低いキーのままアウラが歌うのを聴いてみたくなる。

 カルデミンミットとの対比で面白いと感じられたことの一つは、さっきも言ったが、とりわけコーダのハーモニーに現れていた。カルデミンミットのハーモニーは倍音をより大きく響かせて解放しようとする。歌う方も聴く方も倍音に溺れようとする。アウラの、ということはクラシックのやり方は倍音が響くのにまかせず、響きをコントロールしようとする。ある点にむかって収斂しようとする。一点に向かうのはクラシックをクラシックたらしめる特性で、ここもその基本特性にしたがっている。倍音に溺れこまずに醒めようとする。音楽には演る方も聴く方も呑みこもうとする習性があって、そこにあらがおうとするところに西欧クラシックの面白みがあることが、このコーダを聴いていると浮上してきた。

 アレンジをまったくやりなおし、それを完全にモノにするのは、さぞかし大変だったろうなあ、とあらためて思う。一人ひとりの負担も当然増える。バッハやヴィヴァルディなど「新曲」もあったけれど、ほとんどはお馴染のレパートリィ。それを1人減ったと感じさせず、むしろより大きなスケールで歌われたのには感服する。どれも良かったけれど、個人的にはアンコールの〈アニー・ローリー〉日本語版がハイライト。つくづくこれは歌詞が良い。

 次はやはりこのカルテットでの新譜を期待してしまう。それも「新曲」で固めたもの。1曲ぐらいはアレンジ違いのセルフ・カヴァーがあってもいい。

 それにしても人間の声はええのう、とこれまたあらためて染々思い知らされたことでありました。(ゆ)

アウラ
畠山真央
菊地薫音
奥脇泉
星野典子

 9月下旬からそろそろとライヴに行きだした。しかし、どこかまだ腰が定まらない。かつてのように、いそいそわくわくというわけにはいかない。おそるおそるというほどでもないが、おたがい仮の姿のようなところがある。いや、ミュージシャンたちはそのつもりではないだろう。むしろ、一層魂をこめて、一期一会、次は無いかもしれないというつもりでやっているのだろう。問題はこちらにある。リハーサル、と言ってみるか。ライヴを見るのに練習もへったくれもないと言われるだろうが、毎月2、3回、多いときには週に2回というペースでなにかしらのライヴに通っていると、勢いがついているのだ。ランナーズ・ハイというのはこういうものではないかとすら思えてくる。それがぱたりと止まった。それは、まあ、いい。ちょうど仕事も佳境に入って、正直、ライヴに行かずにすむのがありがたいくらいだった。

 その仕事も一段落ついた頃、配信ライヴを見たり、ぽつりぽつりとライヴに行ってみたりしだした。どうも違う。同じではない。COVID-19は今のところ無縁だが、こちらの意識ないし無意識に影響を与えているのか。

 ひとつの違いは音楽がやってくる、そのやってくるあり方だ。ひょっとするとライヴがあった、そこに来れたというだけで野放図に喜んでしまっているのだろうか。どこを見ても、なにが聞えても、すばらしいのだ。個々の音、とか、楽曲とか、どの演奏とか、そんな区別などつかない。もう、全部手放しですばらしい。音が鳴りだすと、それだけで浸ってしまい、終ると目が覚める感覚。どんな曲だったか、どんな演奏だったか、何も残っていない。手許を見れば、曲目だけは一応メモしてあるが、それだけで、いくら眺めても、個々の曲の記憶はさっぱりない。ただ、ああ、ありがたや、ありがたや、と想いとも祈りとも呪文ともつかないものがふわふわと湧いてくる。

 今回はいくらか冷静になれた。冷静というよりも、酔っぱらっていたのが、少し冷めたと言う方が近いかもしれない。

 真先に飛びこんできたのは加藤さんのサックスの音。これまでの加藤さんのサックスはやわらかい、どんな大きく強い音を出してもあくまでもやわらかい響きだった。この日の加藤さんの音の押し出しは、これは無かった。パワフルだが力押しに押しまくるのではなく、音が充実していて、ごく自然に押し出されてくる。確信と自信をもってあふれ出てくる。たとえば最盛期のドロレス・ケーンのような、本物のディーヴァの、一見何の努力もせずに自然にあふれてくるように流れでる声に似ている。力一杯でもない。八分の力ぐらいだろうと見える。それでもその音はあふれ出て空間を満たし、聴く者を満たす。

 次に浮かびあがったのは Ayuko さんの声。谷川俊太郎の「生きる」に立岩潤三さんが曲をつけた、というよりもその曲をバックに自由に読む。後のMCでは読む順番もバラし、自由に入れかえていたそうだ。普通に朗読するように始まったのが、読む声も音楽もいつしかどこまでも盛り上がってゆく。いつもの「星めぐりの歌」は、これまでいろいろ聴いたなかで最もテンポが遅い。そして、ラスト、立岩さんの〈Living Magic〉のスキャット。

 そこまではわかった。らしい。アンコールの〈エーデルワイス〉が歌いおさめられると、やはり夢から覚めた。ふっと、われに返る。立岩さんが何をやっていたか、shezoo さんが何をやっていたか、覚えていない。あれだけダイナミック・レンジの広い各種打楽器の音が配信できちんと伝わるだろうか、いや、このシンバルを生で聴けてよかったと思ったのは覚えている。〈Moons〉のピアノのイントロがまた変わったのもぼんやり浮かんでくる。

 ライヴ、生の音楽をそのまま体験するのは、やはり尋常のことではないのだ、とあらためて思いしらされる。音楽の送り手と受け手が、その音楽が鳴っている空間を共有することには、時空を超越したところがある。非日常にはちがいないが、読書や映画やゲームに没頭するのとは決定的に異なる。パフォーマンス芸術ではあるが、演劇や舞踏の劇場空間とも違う。何なのだろう、この異常さは。

 あたしはたぶんその異常さに中毒してしまっているのだ。ライヴの全体に漬かってしまって、ディテールがわからないのは、禁断症状の一種なのかもしれない。もう少しまた回数を重ねれば、靄が晴れてきて、細部が聞えるようになるのだろうか。

 このライヴは同時配信されて、まだ見ることもできるが、見る気にはなれない。以前はライヴはそれっきりで、再現のしようもなかった。そしてそれで十分だった。いや、一期一会だからこそ、さらに体験は輝くのだ。

 ライヴの配信、あるいは配信のみのライヴというのは、また別の、新しい媒体なのだ。まだ生まれたばかりで、手探り、試行錯誤の部分も大きい。梅本さんから苦労話もいろいろ伺ったが、おそらくこれからどんどんそのための機材、手法、インフラも出てくるだろう。それはそれでこれから楽しみにできる。

 しかし、ライヴの体験は、その場で音楽を共有することには、代わるものがない。COVID-19は世界のもろさをあらためて見せつけている。世界は実に簡単に、派手な効果音も視覚効果もなく、あっさりと崩壊する。その世界のなかで、生きていることの証としてライヴに行く。それができることのありがたさよ。

 この日はハロウィーン。そしてブルー・ムーン。雲一つない空に冷たく冴えかえる満月に、思わず遠吠えしそうになる。(ゆ)


夜の音楽
Ayuko: vocals
加藤里志: saxophones
立岩潤三: percussion
shezoo: piano


 今年の聴き初め。

 ライヴでも録音でも、まったく新しい世界を開いてくれる演奏に出逢うことほど嬉しい体験はない。最初のライヴでそういう体験ができたのは、こいつは春から縁起がいいわい。

 サックス4本でバッハの〈ゴールトベルク変奏曲〉をやる、と聞いて、これは面白くないはずがない、と寒風をついて駆けつけた。年末からの風邪で耳が詰まり、ロクに音楽が聴けていない欲求不満も溜まっていたこともある。まだ治りきってはいないが、Winds Cafe の会場でサックス4本ならまずだいじょうぶであろう。

林田祐和: soprano sax
田村真寛: alto sax
貝沼拓実: tenor sax
坂口大介: baritone sax

の4人が左から、ソプラノ、テナー、バリトン、アルトと並ぶ。ジャズの、たとえば World Saxophone Quartet などとは別に、クラシックでも近年はサックスを演奏する人がおり、カルテットもあることは知ってはいたが、演奏に接するのは初めてだ。

 最初の1音が出たときに、今日は来てよかった、と思う。あとはもうひたすら快い。バッハがこの場にいたならば狂喜して、文字通り乱舞しただろう。これこそわしのやりたかったことなのじゃ、とわめきちらしただろう。

 まずもってこれはダンス・チューンなのだ。サックスで演奏されることで、そのことが疑問の余地なくわかる。体が動きだす。

 加えてひそかなユーモア。バッハはこれを心底楽しみながら、作ったはずだ。今度はこうしてやろう。こうしたらどうなるかな。あれ、こりゃだめだな。こっちはどうだ。おお、これなら面白い。うんうん、なら、これだ、どうだ。うひひひひ。というバッハの表情が、ありありと浮かんでくる。

 音の強弱、テンポの緩急、そして2本の手のかわりに8本の手、四つの声のハーモニーの、差し手引き手の妙。4本のサックスは音域だけではなく、音色も異なる。交互にメロディをうたい、リズムを刻み、ドローンをつけ、あるいはカデンツァを次々にうけわたしながら駆け上がり、駆け下りる。めくるめく祝祭には静謐そのものの祈りが続き、荘厳にことほぐかと思えば、フェアリーたちがはねまわる。それぞれの楽器の性質を存分に展開する編曲が心にくい。これはもう、世界のどこへ出しても第一級の音楽として聴かれるだろう。〈ゴールトベルク〉という曲の、ほんとうの魅力、作曲家も気づかない潜在能力が、今ここで、史上初めて、顕らかになったのではないか。

 いや、ひょっとすると、バッハもやろうとしたのだが、当時の楽器ではあれが限界だった、ということではないか。楽器も進化し、演奏法も工夫されて、初めて本当の〈ゴールトベルク〉が輝き出ることが可能になった。そうだ、きっとそうにちがいない。

 サックス・カルテットによって、手垢耳垢がぶあつく堆積した西欧古典音楽は、まったく新しい世界に入るだろう。バッハは、モーツァルトは、あるいはバルトークは、いやいやもっともっと他の音楽、そう、アイリッシュ・ミュージックだって、サックス・カルテット、少なくともクローバー・サックス・カルテットによって、まったく新しい、別の世界へ花開くだろう。

 楽器としてのサクソフォンの可能性も、まだまだ展開がはじまったばかりなのだ。この楽器の性格、特に巧まずして備わったユーモアのセンスは、あるいはジャズよりもクラシックの文脈での方が、より豊饒な効果を生むかもしれない。

 終演後のオークションでは、クローバーのレアなCDも落札でき、楽しみが重なる。

 この演奏は春に録音し、秋に CD としてリリース予定の由。もちろん買うが、その前に、メンバーも参加するウインド・オーケストラによるベートーヴェンの〈第九〉も、こうなると聴いてみたくなる。そう、西欧クラシックはそろそろ作曲家の専制に叛旗を翻して、演奏者が自由な編成でどんどんやるべきだ。復元楽器による演奏もたしかに楽しいが、ならばその対極があってもいい。それがどれほどの成果を生むか。ここにクローバー・カルテットの〈ゴールトベルク〉があり、かなたにはアウラの〈四季〉がある。

 この体験を可能にしてくれた川村龍俊さんと Winds Cafe を支える方々に感謝。(ゆ)


Precious
クローバー・サクソフォン・クワルテット
キングレコード
2011-01-26

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