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RIP Nanci Griffith
古い知人からもう何年も放置している Mixi にメッセージが来て、驚いた。中身を見て、一瞬茫然となる。ナンシ・グリフィスの訃報だった。
ナンシを知ったのは何がきっかけだったか、もう完全に忘却の彼方だが、たぶん1990年前後ではなかったか。リアルタイムで買ったアルバムとして確実に覚えているのは Late Night Grande Hotel, 1991だ。けれどその時にはファーストから一応揃えて聴きくるっていた。あるいは Kate Wolf あたりと何らかのつながりで知ったか。
あたしはある特定のミュージシャンに入れこむことが無い。もちろん、他より好きな人や人たちはいるけれど、身も世もなく惚れこんで、他に何も見えなくなるということがない。そういうあたしにとって最もアイドルに近い存在がナンシだった。一時はナンシ様だった。
アイドルは皆そうだろうが、どこがどう良いのだ、とは言えない。彼女の声はおそらく好き嫌いが別れるだろう。個性は結構シャープだけど、一見、際立ったものではない。でも、この人の歌う歌、作る歌、そしてその歌い方は、まさにあたしのために作り、歌ってくれていると感じられてしまう。そういう親密な感覚を覚えたのは、この人だけだった。後追いではあったけれど、ほぼ同世代ということもあっただろう。
MCA 時代も悪くはなく、中でも Storms, 1989 は Glyn Johns のプロデュースということもあり、佳作だと思う。優秀録音盤としても有名で、後からアナログを買った。とはいえ、やはりデビューからの初期4枚があたしにとってのナンシ様だ。初めは Once In A Very Blue Moon と Last Of The True Believers の2枚だったけど、後になって、ファーストがやたら好きになって、こればかり聴いていた。でも、ナンシの曲を一つ挙げろと言われれば、Once in a very blue moon ではある。
ナンシのピークはやはり Other Voices, Other Rooms だろう。グラミーも獲ったけど、これはもう歴史に残る。狙った通りにうまく行ったものが、狙いを遙かに跳びこえてしまったほとんど奇蹟のようなアルバム。一方で、あまりに凄すぎて、他のものが全部霞んでしまう。本人もその後足を引っぱられる。それでも、この1枚を作ったことだけで、たとえて言えば、ここにもゲスト参加しているエミルー・ハリスの全キャリアに比肩できる。
と書いてしまうとけれどこのアルバムの聴きやすさを裏切るだろう。親しみやすく、いつでも聴けるし、BGM にもなれば、思いきり真剣に聴きこむこともできる。そして、いつどこでどんな聴き方をしても、ああ、いい音楽だったと思える。でも、よくよく見直すと凄いアルバムなのだ。アメリカン・ミュージックのオマージュでもあり、一つの総決算でもあり、そう、ここには音楽の神様が降りている。選曲、演奏、録音、プロデュース、アルバムのデザイン、ライナー、まったく隙が無い。隙が無いのに、窮屈でない。音楽とは本来、こうあるべきという理想の姿。この頃のジム・ルーニィは実にいい仕事をしているけれど、かれにとっても頂点の一つではあるだろう。
ここにも Ralph McTell の名曲 From Clare to Here があるけれど、ナンシはアイルランドが大好きで、カントリー大好きのアイリッシュもナンシが大好きで、ひと頃、1年の半分をダブリンに住んでいたこともある。チーフテンズとツアーもし、ライヴ盤もある。
今世紀に入ってからはすっかりご無沙汰してしまって、ラスト・アルバムも持っていない。それが2012年。サイトを見ても、コロナの前からライヴもほとんどしておらず、あるいは病気だろうかと思っていた。死因は公表されていない。これを機会に、あらためて、あの声と、テキサス訛にひたってみよう。合掌。(ゆ)
2021-08-17追記
Irish Times に追悼記事が出ていた。それによると 1996年に乳がん、1998年に甲状腺がんと診断されていた由。さらにドゥプウィートレン攣縮症という徐々に中指と薬指が掌の方へ曲る病気のため、指を自由に動かせなくなっていたそうな。
GARCIA: an American Life by Blair Jackson
iCans
まだ、CD1枚聞いただけですが、結論からいうと、これは「当たり」でした。これから聞いてゆくと、ひょっとすると「大当たり」かもしれません。
缶から出した時の印象は、どうにもチープ。ユニットそのものはまだ良いのですが、ヘッドバンドや長さ調節のメカニズムを見たときには、5,000円でちょうど良い値段ではないの、と言いたくなりました。
とりあえず、iPod 80GB に直接つなぎました。
最初の曲は聞きかけていたケパ・フンケラの新作《HIRI》の〈Kerman Sunne-n〉で、女性コーラスがほとんど人間の声とも思えません。もっとも、次の曲ではすぐにだいぶマシになり、CDが終わるまでにはちゃんと人間の声が聞こえるようになりました。
その時点ですでに「これは」と思っていたんですが、次に聞いたティム・オブライエンの《WHEN NO ONE'S AROUND》を聴きすすむうちに、良い買物をした喜びがわいてきました。
ぼくは右の耳の聞こえが良くありません。小さい音が聞こえにくいのです。一定レベルの音量になると機能は正常ですが、それ以下ではほとんど聞こえなくなります。日常生活ではまったく不自由はないし、音楽を聞くときもスピーカーで聞く分には、問題ありません。が、ヘッドフォンで聞くときには、やや支障が出てきます。つまり、音場が全体に左に寄るのです。センターにあるはずのヴォーカルもこころもち左から聞こえます。開放型では多少良くなりますが、いずれにしても自分ではコントロールできない肉体的条件である以上、やむをえないことと諦めていました。
それが、iCans ではみごとに左右に均等に広がっています。オブライエンの声もちゃんと中央から聞こえます。これがどれほど気持ちがよいものか、自分でも忘れていたようです。これが S-LOGIC の威力なのでしょうか。
《WHEN NO ONE'S AROUND》自体もすばらしいアルバムで、ツボにビンビン来ます。John Gardner というドラマーは初めて聞きますが、曲の特徴に合わせて表情の豊かなドラミングを聞かせます。〈When you come back down〉に入っている Sam Levine という人のサックスも、右耳からぐいぐいとスイングしてきて、思わず追っかけをしたくなりました。フィドル一本の伴奏でうたうブリテンのトラディショナル〈Love is pleasin'〉の緊張感は、この後の傑作群《THE CROSSING》や《TWO JOURNEYS》への布石。
これが「ゾネ」の性格なのでしょうか。このフィドルの音はやはり少々エッジが立ちすぎている気もしますが、この録音ではこのぐらいの方が良いかもしれません。フィドルでは特にめだちますが、各楽器の音に各々明確なキャラが立ち、輪郭もくっきりと描きだされるます。しかし、ばらばらではなく、あくまでも有機的に融合した音楽として楽しめます。ぼくはこういう音が実は嫌いではないらしい。あえて言えば、楽器のキャラが立つあまり、時によるとヴォーカルが弱く感じることもあります。この辺は、これから馴らしていってどうなるか。
後で調べたら、ジョン・ガードナーはグランド・オウル・オープリーのレジデンス・ドラマーで、Dixie Chicks、Jim Lauderdale、Kimmie Rhodes 始め、カントリー系では引っぱりだこの人でした。
サム・レヴァインはセッション・マンらしい。
とまあ、大喜びで音楽に聴き惚れて1枚おわりました。うーん、こうなると、ウルトラゾーネはオレのために作られたヘッドフォンではないか(^_-)。上級機が気になってきました。あるいは来年あたり出そうな、新製品かな。ゾネにはポータブル用のショート・ケーブルが用意されているのもポイント高いです。3メートルのケーブルを iPod に刺すのはちょっとしんどい。
ちなみにケパ・フンケラの新作は快作。前作を聞きそこなっていますが、ケパはひょっとして、バスクでピアソラに相当する位置に立とうとしているのかもしれません。