クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:カントリー

06月06日・月
 Kelly Joe Phelps の訃報。形はブルーズ、カントリーだったが、かれの音楽は表面的なジャンル分けを超えていた。およそ人間が音楽として表現できるかぎりのものがぞろりと剥出しになる。それがたまたまブルーズやカントリーに聞える、というだけだ。

 フェルプスの音楽を聴くことは、吹きさらしの断崖絶壁か、おそろしく高い塔のてっぺんに立たされるような体験だ。むろん、怖い。しかし、そもそも音楽は怖いものであることをそっと、しかし有無を言わせず突きつけられる。

 似たような立ち位置の人にボブ・ブロッツマンがいる。しかし、ブロッツマンの音楽はあくまでも島の音楽で、だから底抜けに愉しい。フェルプスの音楽は大陸の音楽で、だからどこまでも厳しい。

 その厳しさにさらされたくて、また聴くことになるだろう。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月06日には1967年から1993年まで6本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 火曜日。このヴェニュー10日連続のランの6日目。セット・リスト不明。

2. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー5日連続のランの2日目。3.50ドル。Jr ウォーカー、Glass Family 共演。
 第一部とされている6曲80分弱のテープがあるが、むろん、これは一部だろう。ここにエルヴィン・ビショップが参加。うち1曲〈Checkin' Up On My Baby〉ではビショップがヴォーカル。
 ガルシアがこの日、ヤクでヘロヘロになり、ステージに立てなかったので、ビショップが替わりに出たとも言われる。
 Jr Walker は本名 Autry DeWalt Mixon Jr. (1931 – 1995)、アーカンソー出身のサックス奏者で歌も歌う。1960年代にモータウンから Jr Walker & the All Stars として何枚もヒットを出し、1969年にも〈What Does It Take (To Win Your Love)〉がトップ5に入った。
 Glass Family は West Los Angeles で結成されたサイケデリック・ロック・バンドのことだろう。この年ワーナーからアルバムを出している。バンド名はサリンジャーの諸短篇に出てくる虚構の一家からとったものと思われる。1970年代にはディスコ・バンドに転身したそうだ。

3. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー4日連続のランの3日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、サザン・カンフォート共演。3.50ドル。第一部はアコースティック・セット。
 第二部11曲目〈Attics Of My Life〉が《The Golden Road》収録の《American Beauty》ボーナス・トラックでリリースされた。

4. 1991 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。23.50ドル。開演7時。
 デッドとしては平均的できちっとしたショウだが、突破したところは無い由。

5. 1992 Rich Stadium, Orchard Park, NY
 土曜日。開演6時。

6. 1993 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。28.50ドル、開場4時、開演6時。スティング前座。スティングは前日も前座に出ている。スティングの1曲にドン・ヘンリーが一節だけ参加。また別の曲にガルシアが参加。
 終日雨が降っていて、開演直前陽がさしてきた。それでオープナーは〈Here Comes Sunshine〉。(ゆ)

 古い知人からもう何年も放置している Mixi にメッセージが来て、驚いた。中身を見て、一瞬茫然となる。ナンシ・グリフィスの訃報だった。


 ナンシを知ったのは何がきっかけだったか、もう完全に忘却の彼方だが、たぶん1990年前後ではなかったか。リアルタイムで買ったアルバムとして確実に覚えているのは Late Night Grande Hotel, 1991だ。けれどその時にはファーストから一応揃えて聴きくるっていた。あるいは Kate Wolf あたりと何らかのつながりで知ったか。






 あたしはある特定のミュージシャンに入れこむことが無い。もちろん、他より好きな人や人たちはいるけれど、身も世もなく惚れこんで、他に何も見えなくなるということがない。そういうあたしにとって最もアイドルに近い存在がナンシだった。一時はナンシ様だった。


 アイドルは皆そうだろうが、どこがどう良いのだ、とは言えない。彼女の声はおそらく好き嫌いが別れるだろう。個性は結構シャープだけど、一見、際立ったものではない。でも、この人の歌う歌、作る歌、そしてその歌い方は、まさにあたしのために作り、歌ってくれていると感じられてしまう。そういう親密な感覚を覚えたのは、この人だけだった。後追いではあったけれど、ほぼ同世代ということもあっただろう。


 MCA 時代も悪くはなく、中でも Storms, 1989 は Glyn Johns のプロデュースということもあり、佳作だと思う。優秀録音盤としても有名で、後からアナログを買った。とはいえ、やはりデビューからの初期4枚があたしにとってのナンシ様だ。初めは Once In A Very Blue Moon と Last Of The True Believers の2枚だったけど、後になって、ファーストがやたら好きになって、こればかり聴いていた。でも、ナンシの曲を一つ挙げろと言われれば、Once in a very blue moon ではある。


Storms [Analog]
Griffith, Nanci
Mca
1989-08-03




Last of the True Believers
Griffith, Nanci
Philo / Umgd
1990-10-25


There's a Light Beyond These Woods
Griffith, Nanci
Philo / Umgd
2002-01-08



 ナンシのピークはやはり Other Voices, Other Rooms だろう。グラミーも獲ったけど、これはもう歴史に残る。狙った通りにうまく行ったものが、狙いを遙かに跳びこえてしまったほとんど奇蹟のようなアルバム。一方で、あまりに凄すぎて、他のものが全部霞んでしまう。本人もその後足を引っぱられる。それでも、この1枚を作ったことだけで、たとえて言えば、ここにもゲスト参加しているエミルー・ハリスの全キャリアに比肩できる。






 と書いてしまうとけれどこのアルバムの聴きやすさを裏切るだろう。親しみやすく、いつでも聴けるし、BGM にもなれば、思いきり真剣に聴きこむこともできる。そして、いつどこでどんな聴き方をしても、ああ、いい音楽だったと思える。でも、よくよく見直すと凄いアルバムなのだ。アメリカン・ミュージックのオマージュでもあり、一つの総決算でもあり、そう、ここには音楽の神様が降りている。選曲、演奏、録音、プロデュース、アルバムのデザイン、ライナー、まったく隙が無い。隙が無いのに、窮屈でない。音楽とは本来、こうあるべきという理想の姿。この頃のジム・ルーニィは実にいい仕事をしているけれど、かれにとっても頂点の一つではあるだろう。


 ここにも Ralph McTell の名曲 From Clare to Here があるけれど、ナンシはアイルランドが大好きで、カントリー大好きのアイリッシュもナンシが大好きで、ひと頃、1年の半分をダブリンに住んでいたこともある。チーフテンズとツアーもし、ライヴ盤もある。


An Irish Evening
Chieftains
Sbme Special Mkts.
1992-01-28



 今世紀に入ってからはすっかりご無沙汰してしまって、ラスト・アルバムも持っていない。それが2012年。サイトを見ても、コロナの前からライヴもほとんどしておらず、あるいは病気だろうかと思っていた。死因は公表されていない。これを機会に、あらためて、あの声と、テキサス訛にひたってみよう。合掌。(ゆ)



2021-08-17追記
 Irish Times に追悼記事が出ていた。それによると 1996年に乳がん、1998年に甲状腺がんと診断されていた由。さらにドゥプウィートレン攣縮症という徐々に中指と薬指が掌の方へ曲る病気のため、指を自由に動かせなくなっていたそうな。
 

 ジェリィ・ガルシアは孤独な人だった。凄絶なまでに孤独な人だった。その孤独がグレイトフル・デッドの音楽を生み出し、バンドを支え、コミュニティを形成していった。われわれはその残光のなかを生きている。

 ガルシアは典型的に外向的な人間で、親分肌でもあり、他人との交わりを楽しみ、またそれを必要としていたことは、この本からもよくわかる。その性格のおかげもあって、かれが厖大な数の人間から深く愛されていたことは、たとえば1995年8月13日、ゴールデン・ゲイド・ブリッジ・パークで開かれた追悼集会で「祭壇」に捧げられた数千にのぼる贈り物でもよくわかる。

 にもかかわらず、ガルシアは、巨大なデッド・コミュニティの中で誰よりも、そして群を抜いて孤独だった。というのが、本書を読んでの結論だ。

 グレイトフル・デッドのスポークスマン、暗黙のうちに誰もが認めるリーダーであるがゆえに、かれ個人にかかってくる圧力は想像を絶するものがある。誰もがかれと一緒に音楽をつくりたがり、演奏したがる。誰もが自分の思うこと感じることをかれに聞いてもらいたがる。そして、自分の一言に何千何万の人間が反応する。その上、バンドのまとめ役としても、陰に陽に頼られる。ここにははっきりとは書かれていないが、バンドの各メンバー間の軋轢がガルシアをクッションにすることで解消されることもあったようにも思われる。それは時にはスケープゴートの様相を呈したことさえあったのではないか。たとえ意識的なふるまいでは無かったにしても、だ。

 こうした圧力が四六時中かかっていれば、そこから逃れるためにドラッグの助けを借りようとするのも無理はないと思える。この点では、ノンシャランなガルシアの人となりがマイナスに作用する。かれは学校教育や軍隊に適応できない。規則正しい生活とか、同じことを毎日繰り返すトレーニングといったことができない。バンジョーもギターもうたもすべて我流だ。自分の好悪や欲望とは一度切り離されて外から叩きこまれたものが無い。そういうものは教養や伝統として基礎岩盤を形成し、危機にあたって己を支える。落ち込んだとき、支えてくれるものを内部に持たない人間は外部の何かに頼らざるをえない。

 人によって頼るものは異なるが、たいていの人間にとってセイフティ・ネットとなる家族も、ガルシアは頼れない。ガルシアはおそらく自分自身も含めて、誰も信じていなかった。信じられなかったのだろう。幼くして「目の前で」父を失い、兄の手にかかって指を失い、母に「棄てられた」ガルシアは、その性格と生い立ちによって、音楽以外の逃げ道を断たれたようにすらみえる。音楽をやっている時だけは、誰かに頼る必要もなくなる。その意味では音楽もドラッグの一つだった。好き嫌いのレベルではない。それは取り憑かれた状態、音楽を演らずにいられない状態だ。むろん、優れたアーティスト、芸術家はどんな分野でも皆多かれ少なかれ取り憑かれている。ガルシアの場合、取り憑かれ方が徹底していた。

 ガルシアが人間を信じていなかったことの結果として、周囲の人間も、ガルシアに接触することで必ずしもポジティヴな効果ばかりを得るわけではない。ガルシアと関係したおかげで悲惨な目にあわされた者も少なくない。1986年の昏睡からの回復期間中、ガルシアの食生活を管理して健康回復の原動力となった女性は、まるでそのことがガルシアにとっては許せない裏切り行為であったかのように、第三者から見ればこれといった理由もないまま、あっさりと追い出される。

 グレイトフル・デッドに関してある程度まとまった書物を読もうとして最初にこれを選んだのは、デッドという集団ではなく、個人のキャリアとして読みたかったからだ。本人がどう言おうと、ガルシアがデッドの核であり、プライム・ムーヴァーであったことはまちがいない。その死とともにバンドは解散する。ガルシアなくしてデッドはありえなかった。ならば、ガルシアの生涯をみれば、デッドもまたおのずから見えてくる。視点を1ヶ所に固定する方が、混沌として、まだ動いている宇宙へは入りやすいだろう。

 本人は死んだが、関係者はまだほとんどが生きている人間の伝記を書くのは難しい。とはいえ、伝記というジャンルの始祖にしてその最高傑作であるボズウェルの『ジョンソン伝』もまた、本人は死んだが関係者は皆生きている時期に書かれた。

 関係者のほとんどがまだ生きている中で、ガルシアのような複雑で多面的で活動的な人間の生涯をあとづけようとするにあたって、著者が採用した手法は巧妙だ。まず、インタヴューからの引用を多用する。つまり関係者たち自身の言葉に語らせる。ガルシアのふるまいや発言、他人との関係は、事実として確認できることを叙述し、論評はできるだけ避ける。そしてもう一つ、ガルシアの生み出した音楽について語る。

 この伝記が出版された時点で、伝記の記述の対象となるような関係をガルシアと築いていた人間で死んでいたのはバンドの旧メンバーであるピグペン、キース・ガチョーク、ブレント・ミドランド、それにビル・グレアムとジョン・カーンだけである。カーンはガルシアのソロ活動のパートナーとして、その初めから最後までいた唯一の人物だ。

 ここに登場し、あるいはその発言が引用されている人びとのうち、唯ひとり著者が直接インタヴューしていないのはデボラ・クーンズだ。ガルシア死亡時の夫人で、ガルシアの葬儀に際して歴代のガルシアの結婚相手に参列を認めなかった人物である。著者が取材を申し込まなかったはずはないから、クーンズの方で拒否したのだろう(ついでに言えば、Dennis McNally が A LONG STRANGE TRIP のために行なったより広範囲で300人を超えるインタヴュー対象リストにも無い。ちなみにこちらのリストにはパディ・モローニの名前すらある)。ガルシアが最も深く関った女性は5人数えられるが、本書を読むかぎり、クーンズはガルシアやデッドの周辺でとびぬけて評判が悪い。著者は注意深く好悪の感情を出さないようにしているが、それでも思わず漏らしてしまうほどだ。

 著者が参考資料としてあげているインタヴューの相手は124人。複数回している相手も少なくない。対象はガルシア本人とその家族、親族、バンド・メンバーをはじめとするミュージシャン、デッドやガルシアを支えたスタッフやその家族など。とはいえ、あたしなどは名前を見ただけでは何者なのかわからない人の方が多い。また、本文中にインタヴューからの引用がまったくされていない人や、そもそも名前すらあがっていない人もかなりいる。

 加えるに公刊されている文献はむろんのこと、デッドのアーカイヴ、バンドの活動やビジネス関係の記録から、バンドが発表したもの、ファン・レター、雑誌・新聞などの媒体の記事切り抜き、さらには他の人びとによるデッドやガルシア関係者への取材の記録まで、調査時点すなわち1996年前後で参照可能なもので漏れた資料は無いとおもえる。

 デッドが収集・蓄積・保管してきたこうした資料は、テープなどの視聴覚資料も含めて、2008年以降、 UC Santa Cruz の図書館に寄付され、整理が進められている(ライヴ音源は別にバーバンクのワーナー・ブラザースの施設に保管されている)。整理中で一般には公開されてはいないが、研究者として申請すれば利用することができる。このデッド・アーカイヴの管理人 Nicholas Meriwether がデッドの公式サイトに連載しているブログによれば、デッドはごく初期の頃から丹念に記録を集め、保管してきた。デッドに関して紙媒体に掲載された記事を切り抜いて送らせる、いわゆるクリッピング・サーヴィスの会社と、バンド活動を始めた当初から契約し、現在も継続している。アーカイヴに含まれるファン・レターで最も古いものは1970年。この時期のものはさすがに多くないが、《SKULL & ROSES》での有名な「デッドヘッドへの呼び掛け」によって爆発的に増加する。そしてデッドはこのファン・レターの洪水を裁き、全てに眼を通し、整理してメーリング・リストを作成・管理するために専門のスタッフを雇う。ちなみにこの人物 Eileen Law は現在でもこの仕事を続けている。こうした点でも、デッドはただのロック・バンドではない。自分たちが文化を歴史を造っていることを自覚していた。良いものも悪いものも、すべての演奏の録音を残そうとしたのも、そうした歴史意識から出たのだろう。

 著者はこうした豊冨なデータをもとに、ジェリィ・ガルシアの生涯を組み立てる。厖大なデータの分析、解釈にあたって頼りとしたのは、著者自身の豊冨なライヴ・デッド体験と、永年のデッドヘッドとしての活動から身につけた皮膚感覚だ。

 叙述の基本姿勢はジャーナリストのものだ。ガルシアがいつ、どこで、何を、誰と、どのようにしたか、をできるかぎり感情を交えず、客観的に述べる。そこからガルシアの人となり、言動の癖、存在がかもしだす雰囲気、直接の相手や周囲におよぼす影響を、読む者に類推させる。文章は平明で、文学的な表現は、他人の発言の引用を除いて、皆無だ。あまりに坦々としているので、うっかりすると単調に見える。これによってガルシアという人物が生き生きと眼前に浮かびあがる、ということもまずない。それは書き手としての著者の力量の限界が現れているとも言える。あるいはガルシア本人を直接知っていた著者が意識せずに前提としたからかもしれない。また、生存者たちへの配慮もあろう。

 その欠陥を埋めているのが、デッドやガルシアのソロ活動における音楽の描写だ。リリースされた録音、ライヴの内容やその特徴、効果を的確に描き、簡潔な評価を加える。ガルシアが生み出した音楽を、可能なかぎり具体的に述べようとする。ここでは著者の趣味、感覚が前面に出る。独断的ではないが、評価は明確だ。つまりこの部分は芸術家の評伝になっているのだが、他の部分の、対象から距離をとったクールな文章とならぶと、対象を文章化することの歓びが伝わってくる。同時に、現場体験のない、できない読み手としては、デッドを聴いてゆく際の貴重な手がかりとなる。

 これはガルシアの伝記であるから、デッド以外の活動もとりあげる。ジェリィ・ガルシア・バンドやその前身、あるいはオールド・イン・ザ・ウェイやニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、あるいはデヴィッド・グリスマンとのデュオなどの音楽活動、画家としての活動、ガルシア・ブランドのマーチャンダイズなどのビジネス方面までカヴァーする。唯一、具体的に触れられないのは、レックス財団などの慈善事業だ。あるいはこういうことは表立って扱わないという了解があるのか。関係者がまだ生きていることの最も大きな影響だろうか。

 もう一つ、ほとんど触れられていないのは、他のバンド・メンバーとの人間関係だ。この点はむしろ結婚相手の女性たちよりも薄い。対象が全員まだ生きていることのマイナス面ではある。キース・ガチョークとブレント・ミドランドは死んでいるが、この二人との関係を突っこめば、他のメンバーにも言及せざるをえなくなる。

 グレイトフル・デッドがジェリィ・ガルシアのワンマン・バンドではなかったように、ガルシアもまたデッドが全てではなかった。もちろん他のメンバーも事情は同じはずだが、ガルシアはそのソロ音楽活動にも表れたように、とびぬけた創造力を備えていた。ということはインプット、摂取能力も巨大であり、その片鱗は晩年の自宅の様子に見ることができる。

 ガルシアがインターネットがデフォルトになる前に死んだことは、かえすがえすも残念だ。ネットによる情報の洪水をガルシアならばある程度まで裁き、余人になしえないものを生み出したのではないか。「ある程度まで」とはたいしたものではないかもしれないが、われわれは誰もその程度すらできていない。ただ、水面の上にかろうじて鼻と口を出し、あっぷあっぷしているだけだ。ガルシアならば、泳ぐとまではいかなくとも、波乗りをするように情報の洪水に乗ってみせてくれたのではないか。

 ガルシアは何よりも一個の芸術家だった。そして20世紀後半にあって、芸術に何ができるか、実験しようとした。いやむしろ、実験することそのものが芸術だと確信していた。デッドの奇蹟は、この確信を何人もの人間が共有したことだ。バンド・メンバーだけではない。マネージャーやアイリーン・ロウのようなスタッフ、サウンド・エンジニアからコンサート会場に設けられた託児所の担当者まで。さらにこの確信はデッドヘッドたちの支持を得る。デッドの音楽を聴くことは、実験に参加することだ。それによって何かを得るためではなく、参加することそのものに価値がある。デッドヘッドとはその確信に共鳴し、聴衆として参加していった人びとだ。

 これは20世紀後半のアメリカにおける芸術かもしれない。とはいえ、ガルシアはこの実験を始動し、推進しつづけた。それによって芸術を変え、世界を変えた。どう変えたかはここではまだ問われない。それはもっと時間が経ってからの課題だ。たとえば昨年の Peter Richardson, NO SIMPLE HIGHWAY: a Cultural History of the Grateful Dead はその問いに答える試みのひとつだ。その変化の方向、性格は、従来芸術家が変えてきた方向や性格とは根本的に異なるということは、この本の主張でもある。

 もちろん、ガルシアはそうした変化を起こした張本人としての報いを受ける。53歳であっけなく死んでしまったのはその最たるものだ。死因は心筋梗塞。麻薬中毒ではない。体調の不良を本人も周囲もドラッグのせいと思い込み、その治療をしようとした。が、実際には血管が詰まり、細くなっていたのだ。永年の偏食と不摂生のためである。

 本書はガルシアの死の直後、著者が執筆を依頼される形でプロジェクトが始まり、1997年に原稿がほぼ完成し、1999年に刊行された。著者はさらに本の中ではスペースなどの事情により使えなかった資料や背景情報を自分のサイトにアップしている。これもハンパな量ではない。

 著者は1970年にデッドに遭遇し、熱烈なファンとなり、ファンジンを発行してデッドヘッドの活動のノードのひとつとなる。デッドのライヴ・アーカイヴ録音のライナーを多数書いている他、未発表ライヴ録音のアンソロジー《SO MANY ROADS》の編者の一人であり、楽曲解説を書いてもいる。これはデッドの全キャリアから選りすぐった録音を集めているが、ここに収められた録音のほとんどは公式の形ではまだ他にはリリースされていない。

 それにしても53歳という年齡にはなにか呪いがあるのか。アメリカの生んだもう一人の芸術家フランク・ザッパも53歳で死んだ。そしてコードウェイナー・スミスが死んだのも53歳だった。(ゆ)

 フジヤエービックのバーゲンでウルトラゾーネの iCans が4,800円だったので、買ってみました。いわゆる「ゾネ」フォンは以前から聞いてみたかったのであります。

 まだ、CD1枚聞いただけですが、結論からいうと、これは「当たり」でした。これから聞いてゆくと、ひょっとすると「大当たり」かもしれません。

 缶から出した時の印象は、どうにもチープ。ユニットそのものはまだ良いのですが、ヘッドバンドや長さ調節のメカニズムを見たときには、5,000円でちょうど良い値段ではないの、と言いたくなりました。

 とりあえず、iPod 80GB に直接つなぎました。

 最初の曲は聞きかけていたケパ・フンケラの新作《HIRI》の〈Kerman Sunne-n〉で、女性コーラスがほとんど人間の声とも思えません。もっとも、次の曲ではすぐにだいぶマシになり、CDが終わるまでにはちゃんと人間の声が聞こえるようになりました。

 その時点ですでに「これは」と思っていたんですが、次に聞いたティム・オブライエンの《WHEN NO ONE'S AROUND》を聴きすすむうちに、良い買物をした喜びがわいてきました。

 ぼくは右の耳の聞こえが良くありません。小さい音が聞こえにくいのです。一定レベルの音量になると機能は正常ですが、それ以下ではほとんど聞こえなくなります。日常生活ではまったく不自由はないし、音楽を聞くときもスピーカーで聞く分には、問題ありません。が、ヘッドフォンで聞くときには、やや支障が出てきます。つまり、音場が全体に左に寄るのです。センターにあるはずのヴォーカルもこころもち左から聞こえます。開放型では多少良くなりますが、いずれにしても自分ではコントロールできない肉体的条件である以上、やむをえないことと諦めていました。

 それが、iCans ではみごとに左右に均等に広がっています。オブライエンの声もちゃんと中央から聞こえます。これがどれほど気持ちがよいものか、自分でも忘れていたようです。これが S-LOGIC の威力なのでしょうか。

 《WHEN NO ONE'S AROUND》自体もすばらしいアルバムで、ツボにビンビン来ます。John Gardner というドラマーは初めて聞きますが、曲の特徴に合わせて表情の豊かなドラミングを聞かせます。〈When you come back down〉に入っている Sam Levine という人のサックスも、右耳からぐいぐいとスイングしてきて、思わず追っかけをしたくなりました。フィドル一本の伴奏でうたうブリテンのトラディショナル〈Love is pleasin'〉の緊張感は、この後の傑作群《THE CROSSING》や《TWO JOURNEYS》への布石。

 これが「ゾネ」の性格なのでしょうか。このフィドルの音はやはり少々エッジが立ちすぎている気もしますが、この録音ではこのぐらいの方が良いかもしれません。フィドルでは特にめだちますが、各楽器の音に各々明確なキャラが立ち、輪郭もくっきりと描きだされるます。しかし、ばらばらではなく、あくまでも有機的に融合した音楽として楽しめます。ぼくはこういう音が実は嫌いではないらしい。あえて言えば、楽器のキャラが立つあまり、時によるとヴォーカルが弱く感じることもあります。この辺は、これから馴らしていってどうなるか。

 後で調べたら、ジョン・ガードナーはグランド・オウル・オープリーのレジデンス・ドラマーで、Dixie Chicks、Jim Lauderdale、Kimmie Rhodes 始め、カントリー系では引っぱりだこの人でした。
 サム・レヴァインはセッション・マンらしい。

 とまあ、大喜びで音楽に聴き惚れて1枚おわりました。うーん、こうなると、ウルトラゾーネはオレのために作られたヘッドフォンではないか(^_-)。上級機が気になってきました。あるいは来年あたり出そうな、新製品かな。ゾネにはポータブル用のショート・ケーブルが用意されているのもポイント高いです。3メートルのケーブルを iPod に刺すのはちょっとしんどい。

 ちなみにケパ・フンケラの新作は快作。前作を聞きそこなっていますが、ケパはひょっとして、バスクでピアソラに相当する位置に立とうとしているのかもしれません。

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