クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ギター

 こういうところでライヴをやってくれるおかげで、ふだん行かない珍しいところに行ける。珍しいとは失礼かもしれないが、このライヴがなければ、まず行くはずのない場所だ。一度来れば、二度目からはハードルが下がる。

 御殿場線に乗るのは生まれてから2度目。最初は御殿場でのハモニカクリームズのライヴに往復した。4年前のやはり秋。御殿場線の駅の中でも谷峨は寂しい方で、これに比べれば御殿場は大都会。言われなければ、こんなところでアイリッシュのライヴがあるなどとは思いもよらない。どころか、降りてもまだ信じられない。それでも駅からそう遠くはないはずで、スマホの地図を頼りに歩く。りっぱな県道が通っているが車もめったに通らない。一緒に降りた地元の人らしき老夫婦は、近くの山陰に駐めてあった軽トラックに乗りこんだ。その先をどんどん行き、角を曲がったとたん、コンサティーナの音が聞えてきた。おお、まちがいない。ここだ、ここだ。

 この店は「スローンチャ」と名づけたライヴ・シリーズを続けていて、今回が18回目。ギターのサムはここでやるのはこれが5回めか6回めになるそうな。他に客がいるのかと思ったら、ちゃんと先客もいて、後から何人もやってくる。半分くらいは車で来たのだろう。

 ここはパンが売りもので、昼飯にクロックムッシュなど二つ三つ買って食べる。なかなか美味。雨が降っていなければ、家で食べるためにいくつか買いこんでいたところではある。飲物ははじめはガマンしてコーヒーにしたが、後でやはり耐えきれずにギネスを飲む。久しぶりでこちらも美味。マスターの話を聞いていると、ビールが美味いそうだが、もう飲めないカラダになってしまった。

 店の建物は宿泊施設を増やすために工事中で手狭ということもあって、すぐ外にモダンなスタイルの天幕を張った下がステージ。その正面、建物から斜めの位置にももう一つ天幕を張って、こちらは客席。少し距離があり、PAを入れている。外の天幕の下で聴くと、音は最高だった。

 生憎の雨模様で、後半、薄暗くなってくると、いささか冷えてきたけれど、山肌を埋めた木々をバックに、脇では薄の穂が揺れている中で聴くアイリッシュはまた格別。サムに言わせれば、この天気もアイルランドになる。

 このトリオでやるのは今回の二連荘が初めてだそうだ。沼下さんのフィドルを生で聴くのはパンデミック前以来だが、どこか芯が太くなって、安定感が増したように聞える。音色がふらつかない。それが須貝さんのフルートと実によく合う。考えてみると、須貝さんがフィドラーとやるライヴを見るのは実に久しぶりだ(記録をくってみたら、2017年の na ba na 以来だった)。この二人のユニゾンは気持ちがいい。片方がハーモニーにずれるのも快感。やはりあたしはフィドルの音、響きが好きなのだ、とあらためて思いしらされる。そして須貝さんのフルートとならぶと、両方の響きにさらに磨きがかかる。須貝さんのフルートには相手を乗せてともに天空を駆けてゆく力があるようだ。

 サムのギターも全体の安定感を増す。一番近いのはスティーヴ・クーニィだとあたしは思っている。派手なことはやらないが、ふと耳がとらわれると、ずんずんと入ってくる。この日は音のバランスも見事に決まっていて、3人の音が過不足なく聞える。それも快感を増幅する。

 前半はオーソドックスなユニゾンを軸に、ジグ、リール、ホーンパイプ? ポルカと畳みかける。曲も地味ながら佳曲が並ぶ。トリッキィなこともやらないし、冒険もしない。そこが気持ちいい。つまり、うまくいっているセッションを聴いている気分。先日の木村・福島組のようなすっ飛んだ演奏もいいし、こういうのもいい。どちらも可能で、どちらも同じくらい愉しい。というのは、アイリッシュの美味しいところではある。

 そう、そして八ヶ岳と木村・福島組の時と同じような幸福感が湧いてきた。それをモロに感じたのは2番目のセットの3曲目のリールが始まったとき、3曲目に入ったとたん、ふわあと浮きあがった。このリールはどちらかというとマイナーなメロディなのだが、気分はメアリ・ポピンズの笑いガスでも吸ったようだ。浮上した気分はワルツでも前半最後のストラスペイでも降りてこない。

 ワルツはベテラン蛇腹奏者 Josephine Marsh の作。その昔サンフランシスコ・ケルティック・フェスティバルに行った時、公式のコンサートがはねてからのパブのセッションで、ロレツも回らないほどべろんべろんに酔っばらいながら、見事な演奏をしていたあのおばさん、いや、あの時はお姉さんでしたね。

 後半は前半よりヴァラエティに富むスタイルということで、ソロでやったり、オリジナルをやったりする。

 スタートはスローなジグのセットで2曲目がいい曲。次はフィドルのソロのリールで始め、一周してからフルートとギターが加わる。シンコペーションのところ、フルートが拍をとばさずに、細かい音で埋めるのが面白い。

 次はフルートのソロで、スロー・エアから2曲目が須貝さんのオリジナル。鳥がモチーフなので、こういうロケーションで聴くのは最高だ。セットの3曲目〈Rolling Wave〉の演奏がいい。

 さらにギターのソロ。サムのオリジナルで〈喜界島の蝶々〉。これを〈町長〉と勘違いした人がいたそうな。そういうタイトルの曲を作るのも面白いんじゃないか。そこから〈Rolling Wave〉と同名異曲。このタイトルの曲はあたしの知るかぎりもう1曲ある。

 後半のワルツは前半のしっとりワルツと対照的な〈Josephin's Waltz〉。元気闊達な演奏で、フィドルとフルートが交替に相手のメイン・メロディにつけるハーモニーが美味しく、この曲のベスト・ヴァージョンの一つ。もう一度聴きたい。

 ラストは〈Mountain Road〉をたどれば〈Mountain Top〉に行くとのことで、この組合せ。スロー・テンポで始め、2周目(だと思う)でテンポを上げ、3周目でさらにもう一段速くする。かっこいい。マーチ、ストラスペイ、リールと曲の変化でテンポを上げるのは定番だけど、曲はそのままでテンポを上げるのも面白い。そのまま2曲目に突入して、最高の締めくくり。ここでようやくエンジン全開。

 アンコールのスライドがまたいい。セットの2曲目、途中で音を絞って3人でユニゾン、ギターがリズムにもどってまた音を大きくするのに唸る。尻上がりに調子が出てきて、第三部があれば文句ないところだけれど、山あいはもう暗くなりかけ、御殿場線の国府津行きの電車の時刻(1時間に1本)も迫ってきたので、それは次回に期待しよう。

 このトリオもいいし、ロケーションもいいので、どちらも次があれば行くぞと思いながら、また降りだした雨の中を駅に急いだ。(ゆ)

07月14日・木
 朝、起きぬけにメールをチェックするとデッドのニュースレターで今年のビッグ・ボックスが発表されていた。



 1981, 82, 83年の Madison Square Garden でのショウを集めたもの。2019年のジャイアンツ・スタジアム、昨年のセント・ルイスに続いて、同じ場所の3年間を集める企画。嬉しい。80年代初めというのも嬉しいし、MSG というのも嬉しい。
 MSG では52本ショウをしていて、常に満員。演奏もすばらしいものがそろう。《30 Trips Around The Sun》では1987年と1991年の2本が取られている。1990年が《Dick's Picks, Vol. 9》と《Road Trips, Vol. 2, No. 1》でリリースされている。今回一気に6本が加わるわけだ。わが国への送料は70ドルかかるが、そんなことでためらうわけにはいかない。

 同時に《Dave's Picks, Vol. 43》も発表。1969年の11月と年末の2本のショウ、どちらもベア、アウズレィ・スタンリィの録音したもの。また1曲だけ、年末ショウの〈Cold Snow and Rain〉が次の Vol. 44 にはみ出る。



 いやあ、今日はいい日だ、とほくほくしていたら、夜になって、今度は Earth Records からバート・ヤンシュの《Bert At The BBC》の知らせ。バートが BBC に残した音源の集大成で、147トラック。LP4枚組、CD8枚組、デジタル・オンリーの3種類。Bandcamp は物理ディスクを買うとデジタル・ファイルもダウンロードできるから、買うとすればLPの一択。それにこのアナログのセットには3本のコンサートを含む6時間超の音源のダウンロード権もおまけで付いてくる。というので、これは注文するしかない。



 神さま、この2つの分のカードが無事払えますように。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月14日には1966年から1990年まで8本のショウをしている。公式リリース無し。

1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 木曜日。"A Pleasure Dome" と題されたこのヴェニュー4日連続のランの初日。開場9時。共演 Hindustani Jazz Sextet、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー。セット・リスト不明。
 Hindustani Jazz Sextet は主にトランペットの Don Ellis (1934-78) が1966年頃に西海岸で結成したバンド。メンバーはエリス、シタールとタブラの Harihar Rao、ヴィブラフォンの Emil Richards、 Steve Bohannon のドラムス、ベースに Chuck Domanico と Ray Neapolitan、それに Dave Mackay のピアノ。サックスの Gabe Baltazar が参加したこともある。

2. 1967 Dante's Inferno, Vancouver, BC
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。3(カナダ)ドル。6時と12時の2回ショウらしい。共演 Collectors、Painted Ship。セット・リスト不明。

3. 1970 Euphoria Ballroom, San Rafael, CA
 火曜日。このヴェニュー2日連続の初日。3ドル。デヴィッド・クロスビー、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、Rubber Duck Company with Tom Constanten 共演。
 第一部がアコースティック・セット。クローザーの2曲〈Cumberland Blues〉と〈New Speedway Boogie〉でデヴィッド・クロスビーが12弦ギターで参加。ガルシアはこの2曲でエレクトリック・ギター。
 Rubber Duck Company はベイエリアのマイム・アーティスト Joe McCord すなわち Rubber Duck のバック・バンドとしてトム・コンスタンティンが1970年に作ったバンド。シンガー、ギター・フルート・シタール、ヴォイオリン、ベース&チェロ、それにコンスタンティンの鍵盤というアコースティック編成。

4. 1976 Orpheum Theatre, San Francisco, CA
 水曜日。このヴェニュー6本連続の3本目。6.50ドル。開演8時。
 良いショウだそうだ。

5. 1981 McNichols Arena, Denver, CO
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。13.75ドル。開演7時半。
 ベストのショウの1本という。

6. 1984 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。14ドル。開演5時。
 ここは音響が良く、デッドはそれを十分に活用しているそうな。

7. 1985 Ventura County Fairgrounds, Ventura, CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。15ドル。開場正午、開演2時。
 空はずっと曇っていて、第一部クローザー前の〈Looks Like Rain〉でぱらぱら来たが、すぐに陽が出て、海からの風が心地良かった。

8. 1990 Foxboro Stadium, Foxboro, MA
 土曜日。23.50ドル。開演4時。エディ・ブリッケル&ザ・ニュー・ボヘミアンズ前座。ヴェニューは名前がころころ変わっている。
 ショウは良い由。(ゆ)

 なんと、デニス・カヒルが亡くなってしまいました。パディ・モローニの死去にも驚きましたが、こちらはまさしく青天の霹靂。いったい、何があったのか。享年68歳。あたしと1歳しか違わないではないか。死因は公表されていません。やすらかに亡くなった、ということだけ。重い病気ではあったのでしょう。

 いや、しかし、これは痛い。惜しい。The Gloaming はどうなるのだ。その他でもマーティン・ヘイズのプロジェクトには欠かせない人だったのに。ヘイズの喪失感は想像するのも怖いほどですが、単にファンであるこちらも茫然としてしまいます。

 かれのギターはアイリッシュ・ミュージックのギターとして革命的だったけれど、それ以上に、マーティン・ヘイズの音楽を現代の、アイリッシュ・ミュージックの伝統の外の世界とつないだことが大きい。ヘイズのフィドルもまたカヒルのギターを受けて、伝統のコアにしっかり根を下ろしながら、なおかつ同時に現代の、最先端の音楽にもなりえていました。《Live In Siattle》に捉えられた30分のメドレーはカヒルのギターがなくては生まれなかったでしょう。The Gloaming でバートレットのピアノとヘイズのフィドル、オ・リオナードの歌をカヒルのギターがつないでいます。

 それはカヒル本人の精進の賜物でしょう。かれ自身、アイルランドの音楽伝統の外から入ってきて、その最もコアに近いものの一つであるヘイズのフィドルに真向から、愚直に向き合うことで、外と内をつなぐ術を編み出し、身につけていったと思われます。かれは自分が伝統のコアそのものになれないことを承知の上で、あえてそこと自分のいる外をつなぐことに徹したと見えます。こういう人はやはり稀です。

 アイリッシュ・ミュージックに魅せられた人間は、たいてい、そのコアに入ることを目指します。それが不可能だとわかっていても目指します。そうさせるものがアイリッシュ・ミュージックにはあります。カヒルもおそらくその誘惑にかられたはずです。しかし、どうやってかその誘惑を斥けて、つなぐことに徹していました。あるいはギターという楽器の性格が後押しをしていたかもしれない。それにしてもです。

 The Gloaming や Martin Hays Quartet がどう展開してゆくかは、とても愉しみにしていたのですが、カヒルが脱けるとなると、活動そのものが停止するのではないかと危惧します。

 人が死ぬのは常、とわかっているつもりでも、なんで、いま、あなたが死ぬのだ、とわめきたくなることはあります。ご冥福を、などとも言いたくない時があるものです。あたしなどがうろたえてもどうしようもありませんが、なんともショックです。(ゆ)

06月06日・月
 Kelly Joe Phelps の訃報。形はブルーズ、カントリーだったが、かれの音楽は表面的なジャンル分けを超えていた。およそ人間が音楽として表現できるかぎりのものがぞろりと剥出しになる。それがたまたまブルーズやカントリーに聞える、というだけだ。

 フェルプスの音楽を聴くことは、吹きさらしの断崖絶壁か、おそろしく高い塔のてっぺんに立たされるような体験だ。むろん、怖い。しかし、そもそも音楽は怖いものであることをそっと、しかし有無を言わせず突きつけられる。

 似たような立ち位置の人にボブ・ブロッツマンがいる。しかし、ブロッツマンの音楽はあくまでも島の音楽で、だから底抜けに愉しい。フェルプスの音楽は大陸の音楽で、だからどこまでも厳しい。

 その厳しさにさらされたくて、また聴くことになるだろう。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月06日には1967年から1993年まで6本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1967 Cafe Au Go Go, New York, NY
 火曜日。このヴェニュー10日連続のランの6日目。セット・リスト不明。

2. 1969 Fillmore West, San Francisco, CA
 金曜日。このヴェニュー5日連続のランの2日目。3.50ドル。Jr ウォーカー、Glass Family 共演。
 第一部とされている6曲80分弱のテープがあるが、むろん、これは一部だろう。ここにエルヴィン・ビショップが参加。うち1曲〈Checkin' Up On My Baby〉ではビショップがヴォーカル。
 ガルシアがこの日、ヤクでヘロヘロになり、ステージに立てなかったので、ビショップが替わりに出たとも言われる。
 Jr Walker は本名 Autry DeWalt Mixon Jr. (1931 – 1995)、アーカンソー出身のサックス奏者で歌も歌う。1960年代にモータウンから Jr Walker & the All Stars として何枚もヒットを出し、1969年にも〈What Does It Take (To Win Your Love)〉がトップ5に入った。
 Glass Family は West Los Angeles で結成されたサイケデリック・ロック・バンドのことだろう。この年ワーナーからアルバムを出している。バンド名はサリンジャーの諸短篇に出てくる虚構の一家からとったものと思われる。1970年代にはディスコ・バンドに転身したそうだ。

3. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー4日連続のランの3日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、サザン・カンフォート共演。3.50ドル。第一部はアコースティック・セット。
 第二部11曲目〈Attics Of My Life〉が《The Golden Road》収録の《American Beauty》ボーナス・トラックでリリースされた。

4. 1991 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。23.50ドル。開演7時。
 デッドとしては平均的できちっとしたショウだが、突破したところは無い由。

5. 1992 Rich Stadium, Orchard Park, NY
 土曜日。開演6時。

6. 1993 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。28.50ドル、開場4時、開演6時。スティング前座。スティングは前日も前座に出ている。スティングの1曲にドン・ヘンリーが一節だけ参加。また別の曲にガルシアが参加。
 終日雨が降っていて、開演直前陽がさしてきた。それでオープナーは〈Here Comes Sunshine〉。(ゆ)

04月26日・火
 クーキー・マレンコが紹介しているジャズ・ヴァイオリニスト Mads Tolling はデンマーク出身、というとハラール・ハウゴーの同類で、ジャズに振れた感じか。デッドに関連があるというので検索すると、ボブ・ウィアがやっている The Wolf Brothers のサポート・グループ The Wolfpack という弦楽カルテットのメンバー。また、自分のバンド Mads Tolling & The Mads Men という60年代の楽曲を演奏する集団のレパートリィにもしているそうな。とりあえず、The Mads Men の今のところ唯一のアルバムの中古をアマゾンで注文。Blue Coasts のレコードも購入。
 川村さんから知らせてきた山田岳氏の新譜を注文。
 Dave's Picks, Vol. 42 発送通知。Dave's Picks, Vol. 01 アナログ盤も5月発売のはずだ。


##本日のグレイトフル・デッド
 04月26日には1968年から1984年まで8本のショウをしている。公式リリースは4本、うち完全版2本。

1. 1968 Electric Factory, Philadelphia, PA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。セット・リスト不明。

2. 1969, Electric Theater, Chicago, IL
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。5ドル。開場7時、閉場午前3時。2時間の一本勝負にアンコールを40分やる。
 アンコールの1曲目20分弱の〈Viola Lee Blues〉が《Fallout From The Phil Zone》で、オープナー〈Dupree's Diamond Blues〉から13曲目〈I Know It's A Sin〉まで、途中2曲を除いて計11曲が《Dick's Picks, Vol. 26》でリリースされた。
 アンコールの中でステージではバンドがスペーシィなジャムをしている間、〈What's Become Of The Baby〉のスタジオ録音が流された。《Aoxomoxoa》収録のこの曲は結局ライヴでは演奏されていない。この曲の再生のためにオープン・リールのテープ・デッキが使われたために、このショウの SBD のオープン・リール版ではアンコールが入っていない。

3. 1970 York Farm, Poynette, WI
 日曜日。Sound Storm Rock Revival と題された3日間のイベントの最終日で、デッドはヘッドライナー。出演はこの日のみ。セット・リスト不明。午後2時半から5時間演奏した由。2セットで第一部は2時間、第二部は1時間半、オープナーは〈Turn On Your Lovelight〉と Paul Gudel は DeadBase XI で書いている。出演者は多数で、Biff Rose, ケン・キージィ、イリノイ・スピード・プレス、Rotary Connection, Crow などが共演。
 Biff Rose は1937年ニューオーリンズ生まれのシンガー・ソング・ライター。初めハリウッドで漫才の台本を書き、後、音楽に転ずる。
 Rotary Connection は1966年シカゴで結成されたサイケデリック・ソウル・バンド。マディ・ウォーターズの《The Electric Mud》でバックバンドを勤めたことで知られる。

4. 1971 Fillmore East, New York, NY
 月曜日。このヴェニュー5日連続のランの2日目。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。第二部最初の3曲〈Sugar Magnolia; It Hurts Me Too; Beat It On Down The Line〉にデュアン・オールマンが参加。3.50ドル。開演8時。第一部3曲目〈Big Boss Man〉、8曲目〈Wharf Rat〉、第二部7曲目〈Mama Tried〉が《Skull & Roses》でリリースされた。
 NRPS のステージから、凝ったライト・ショウが演じられた、と G. M. が DeadBase XI で書いている。

5. 1972 Jahrhundert Halle, Frankfurt, West Germany
 水曜日。ヨーロッパ・ツアー9本目。14マルク。開演8時。第一部クローザー前の〈The Stranger〉が《The Golden Road》所収の《Europe '72》のボーナス・トラックで、オープナー〈Bertha〉から第一部8曲、第二部5曲が《Hundred Year Hall》でリリースされた後、《Europe '72: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。
 デッドは MC で曲紹介をやらないから、ピグペンの〈The Stranger〉は《The Golden Road》で公式リリースされるまでタイトル不明で、AUD のテープでは〈Two Souls In Communion〉と呼ばれていた。
 全体の録音は CD4枚組計3:51:05で、ツアー中最長。デュッセルドルフとは異なり、この日は二部構成でクローザーに〈One More Saturday Night〉を演奏してアンコール無し。
 ツアーを毎日聴いていると、個々のメンバーの好不調の波もわかってくる。必ずしも全員がいつも絶好調をキープしているわけではない。このツアー、に限らずたいてい最も安定しているのはレシュとクロイツマン。2人の中で、クロイツマンはこのツアーを通じてすばらしく、「ほとんど神がかっていた」とレシュが言うくらいだ。この「神」は最近の強調用法ではなくて、本来の意味である。この後、まだ1974年秋までは単独で支えるわけだが、確かにこのツアーのドラミングは際立っている。
 逆に最も波が大きいのがガルシア。波が大きく出やすい位置でもあるし、また実際に様々な事情で波があったと推測する。このツアーでも日によって上下するが、下のレベルが高いのと、上のレベルが突出しているので、全体として好調を維持した。
 この日はガルシアのギターがとりわけ調子が良い。彼本来の、意表をつくフレーズがあふれ出てくる。ソロをとる度に面白いギターを聴かせ、しかもその度にキャラや語彙が異なる。オープナーの〈Bertha〉からして良く、〈Mr. Charlie〉〈Next Time You See Me〉〈Chinatown Shuffle〉〈Good Lovin'〉〈Turn On Your Lovelight〉などのピグペンの歌、〈Tennessee Jed〉のような自分の曲、〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉〈Playing In The Band〉〈Truckin'〉〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉といった長くなる曲、どれもすばらしい。
 デッドの場合、ガルシアのギターの出来の良し悪しと全体の出来の質とは必ずしも連動しないのだが、それでもガルシアのギターが面白いと、それを核としたり、あるいは先頭に押したてたりしてゆく全体の集団即興もより面白くなる。
 〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉についてデヴィッド・ガンズがライナーで書いている1件はその象徴ではある。その前の〈Turn On Your Lovelight〉の後半で、ガルシアが〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉を速いテンポで始める。1度、バンドはそれにもう少しゆっくりと従おうとするのだが、そこで誰かが〈Not Fade Away〉のフレーズを始める。そこでわずかな間だが、バンドの半分は〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉をやり、もう半分は〈Not Fade Away〉をやっている。テンポやハーモニーが変化して、一瞬、〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉から〈And We Bid You Goodnight〉のリフが顔を出す。次の瞬間、全体が〈Not Fade Away〉に傾くのだが、そこでまた気が変わって結局〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉へ突入する。言葉で書くとまどるっこしいが、聴いている分には混乱ではなくむしろ崖っ縁を渡ってゆくようにスリリングで美しい。
 もう一つ興味深いのは〈He's Gone〉だ。これが3回目の演奏で、テンポはまだ速い。それ以上に、ガルシアのソロがここだけ面白くない。というより、ほとんどソロを弾かない。歌は良いが、後のようにソロを展開しない。どのように演奏を組み立てるか、まだ模索しているように聞える。ギター・ソロの展開も、ただゼロからその場で湧きでてくるわけではないはずだ。どういう方向でやるか、メロディを崩すにしても、どのように崩すか、おそらく何度もステージでやりながら試行錯誤を重ねてゆく。その過程を目の前にしているのだ。
 〈Playing In The Band〉はもう少しアレンジが進んだ段階で、やる度に面白くなるステージにある。〈Tennessee Jed〉はさらに進んだ段階で、この曲としてはほぼ完成の域だ。ここでのガルシアのギターはこの日の中でもベストで、〈He's Gone〉と同じ人間が弾いているとも思えない。
 〈The Other One〉はまたまったく別の性格を備え、中心になるメンバーそのものが次々に変わってゆく。ビートが消え、ドラムそのものが消えたりもする。ロックに始まり、まったくのジャズになったり、フリーになったり、わけのわからないものになったり、何でもありになる。緊迫感がみなぎったり、ひどく抒情的になったり、暗い不安いっぱいになったり、ただひたすら美しくもなる。他の曲は一定のメロディ、ビートから外れないことを一応の決まりにしているが、ここではいくら外れてもかまわない、むしろ積極的に外れようとすることを決まりにしているようにみえる。〈Dark Star〉も似たところがあり、このツアーではほぼ交替にやっているが、〈The Other One〉はどちらかというと陰の側面、〈Dark Star〉は陽の側面と言えようか。この日の〈The Other One〉は35分超で、出来としてもツアー中でもベストと思える。その後にガルシアが〈Comes a Time〉をもってくるところがさらに良い。
 全体として、ツアー中のピークの一つで、演奏時間が長いのもその結果だろう。

6. 1977 Capitol Theatre, Passaic, NJ
 火曜日。8.50ドル。開演8時。このヴェニュー3日連続のランの中日。

7. 1983 The Spectrum, Philadelphia, PA
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。04-09以来の春のツアーの千秋楽。9.50ドル。開演7時。《Dave’s Picks, Vol. 39》で全体がリリースされた。

8. 1984 Providence Civic Center, Providence, RI
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。11.50ドル。開演7時半。
 ガルシアの健康とドラッグ使用量の増加が演奏に影響を与えているのがそこここに現れたショウらしい。(ゆ)

04月23日・土
 クーキー・マレンコがニュースレターで Rick Turner というギター・メーカーの死を悼んでいた。この人は1943年生まれだから、ジェリィ・ガルシアの一つ下。Alembic の創設者の1人で、ガルシアが1970年代初めに使っていたギブソン SG を修復した人物でもある。つまり、ぶち壊された SG とその部品から、新しいギターを組み立て、それをガルシアが買って使った。その音は《Skull & Roses》で聴ける。ということは《Ladies & Gentlemen…》でも聴けるわけだ。アレンビックはアウズレィ・スタンリィも創設者の1人で、The Wall of Sound を開発する。ターナーの Model 1 というエレクトリック・ギターはフリートウッド・マックのリンゼイ・バッキンガムのために開発し、バッキンガムは今でもこれを使っているそうだ。
 
 マレンコとターナーの関係は、10年ほど前のある日、ターナーが薮から棒に電話してきて、あんたの録ったギターの音はおれの出したかった音だと言った由。その音は Keith Greeninger のギターだったらしい。グリーニンガーがベースの Chirs Kee、ドラムスの Brain とマレンコのスタジオで作った《Close To The Soul》は好きな録音。オープニングのヴァン・モリソンの〈Into the Mystic〉のカヴァーがとりわけすばらしい。
 


 それにしても、マレンコが Grateful Dead の名を口にしたのはそれこそ out of blue だった。


##本日のグレイトフル・デッド
 04月23日には1966年から1988年まで、6本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1966 Longshoreman's Hall, San Francisco, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。ローディング・ゾーン共演。セット・リスト不明。

2. 1969 The Ark, Boston, MA
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。この3日間はかなり良いショウらしい。

3. 1977 Springfield Civic Center Arena, Springfield, MA
 土曜日。6.50ドル。開演8時。コーネル大学バートン・ホールに次ぐ、と言われる。いずれ、公式にリリースされると期待。77年春のツアーは全部きちんと出してもらいたい。

4. 1983 New Haven Coliseum, New Haven, CT
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。この2日間はこの年を代表するショウの由。

5. 1984 New Haven Coliseum, New Haven, CT
 月曜日。このヴェニュー2日連続の初日。12.50ドル。開演7時半。第二部半ば〈Space> Only a Fool〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。この Space は Space 全体の後半。
 〈Only a Fool〉はミドランドの曲だが、なぜかレシュはこの曲が大嫌いで、やめるようにミドランドにステージ上でどなったが、ミドランドは無理押しした、という証言がある。この曲の演奏はこの時のみ。

6. 1988 Irvine Meadows Amphitheatre, Irvine , CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時半。(ゆ)

0124日・月

 Bandcamp で注文したバート・ヤンシュのスタジオ盤をまとめたボックス・セット4タイトルと《Santa Barbar Honeymoon》の Earth Records からの再発着。2009年版。ミュージシャンやスタッフのクレジットが無い。ボックス・セットは後半をまとめた2タイトルにデモ、未発表を集めたディスクが1枚ずつ入る。ライナーはバートへのインタヴュー。オリジナルはもちろん全部持っているが、この未発表トラックの2枚に惹かれたのと、ライナーが読みたかったのと、こうしてまとまっているのもあれば便利、というので結局買ってしまう。まとめて買うと安くなるし。バートのものは、目につけば、ついつい買ってしまう。



##本日のグレイトフル・デッド

 0124日には1969年から1993年まで、4本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1969 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 このヴェニュー3日連続の初日。サンズ・オヴ・シャンプリンが前座。1時間半のおそらくは一本勝負。2曲目〈New Potato Caboose〉が《Aoxomoxoa50周年記念版でリリースされた。

 〈New Potato Caboose〉は Robert Petersen 作詞、フィル・レシュ作曲。19670505日、フィルモア・オーディトリアムで初演。19680608日、フィルモア・ウェストが最後。計25回演奏。スタジオ盤は《Anthem Of The Sun》。ウィアの歌の後、まずベースが長いソロを披露し、後半はガルシアがこれに応えて長いソロを聴かせる。この曲の演奏としては一番面白いヴァージョン。レシュのソロは公式リリースの中ではこれがベスト。この歌はしかし実にやりにくそうに聞える。レシュの曲が尋常でないほど複雑で、ほとんど前衛音楽の領域。ガルシアもギター・ソロをどう展開すべきか、あぐねている。デッドの即興はジャズのそれとは違って、テーマと無関係なものではなく、歌の延長であって、そこからの必然的な流れに沿う。この曲ではその流れを摑みかねている。レシュのベース・ソロも、なかなかうまくいかないので、レシュの曲だから、たまにはソロをやってみろということではないか。

 この歌詞もハンターやバーロゥのものと同じく、歌詞である前に詩であって、読んですぐ意味のとれるものではない。何度も繰返して読み、聴きながら、自分なりのイマージュをふくらませるものだ。

 Robert M. Petersen1936-87)はオレゴン出身。デッドには3曲の歌詞を提供している。これと〈Unbroken Chain〉〈Pride of Cucamonga〉。いずれもレシュの作曲。〈Unbroken Chain〉はデッドヘッドのアンセムと言われる。"Fern Rock" はじめ、デッドについての詩も書いている。詩集 Alleys Of The Heart, 1988 がある。


2. 1970 Honolulu Civic Auditorium, Honolulu, HI

 このヴェニュー2日目。5曲目〈Mason's Children〉が《The Golden Road》所収の《Workingman's Dead》ボーナス・トラックでリリースされた後、ほぼ全体が《Dave’s Picks, Vol. 19》でリリースされた。判明しているセット・リストの曲はすべて収録されているが、1時間弱で、これで全部とは思われない。〈Good Lovin'〉はフェイドアウト。

 演奏は前日と同じくすばらしい。デッドの調子の良い時の常で緊張と弛緩が同居している。ただ、この2日間は緊張の底流がより強く感じられる。〈Black Peter〉やアンコールの9分を超える〈Dancing In The Street〉のような、弛緩の方が強そうな曲がむしろ張りつめている。その大きな要素の一つはガルシアのギターで、それまでのバンドの後ろからまとめてゆくような姿勢から、先に立って引張る意識が現れているようにみえる。

 この年、デッドは忙しい。ショウの数は前年に次ぐ142本。大きな休みは無い。新曲は27曲。レパートリィは119曲。ここでレパートリィというのは、この年のセット・リストを集計して重複を除いたもの。この119曲はいつでも演奏可能ということになる。春と秋に2枚のスタジオ盤を録音して出し、5月には初めてヨーロッパに渡り、イングランドでショウをする。1月末、トム・コンスタンティンがニューオーリンズでバンドを離れ、3月、マネージャーだったレニー・ハートが大金を盗んで逃亡。一方、オルタモントの後、ストーンズのロード・マネージャーをクビになっていたサム・カトラーを、新たにロード・マネージャーとして雇う。カトラーはバンドのショウからの収入を大いに増やす。Alan Trist を社長として、楽曲管理会社 Ice Nine Publishing を設立。弁護士ハル・カントと契約する。カントはエンタテインメント業界のクライアントをデッドだけに絞り、業界の慣行を無視したデッドのビジネス手法をバックアップする。


3. 1971 Seattle Center Arena, Seattle, WA

 北西太平洋岸3日間の最終日。開演8時。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジとイアン&シルヴィアが共演。あまり長くないのは会場の制限か。それでも、「ちょうどあと1曲できる時間がある」とピグペンが言って、〈Turn On Your Lovelight> Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad> Turn On Your Lovelight> Drums> Good Lovin'〉というメドレーをやった。

 この後は0218日からのニューヨーク州ポートチェスターでの6本連続。


3. 1993 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 23.50ドル。開演7時。中国の春節記念の3日連続のショウの初日。酉年でラミネートの絵柄は鶏。春節に合わせたショウは19878889、この年と94年の5回。この年が一番早い。この年はさらに2月下旬にマルディグラを祝うショウを同じヴェニューで3日連続でやった後、3月上旬春のツアーに出る。

 これは良いショウで、ウィアがとりわけ調子が良かったそうな。(ゆ)



 
Custy's のオンラインストアで別のものを探していて遭遇する。

 アルゼンチン出身でエニスに住むシンガー/ギタリストのデビュー作。ギターはテクニシャンではないが、味のある伴奏をつける腕に不足はない。声に特徴があり、いわゆる「かわいい」声に聞えるが、その声に頼ることを拒否して、正面から歌う。結果、この声をさらに聴いていたくなる。

 詞はすべて英語で Eoin O’Neill が書き、バトラーが曲をつける。当然、アイルランドの伝統的メロディーではないが、そこから完全に離れてもいない。歌によって生まれでるある空間の産物。発音はスペイン語の訛か、ひどく聴きとりやすい。初聴きでのベスト・トラックは [08] The Stranger's Song。自らの立場を歌うとも、異邦の地に立って生きようとするすべての人を歌うとも聞える。

 数曲でオゥエン・オニールがブズーキでいいサポートをしている。


##本日のグレイトフル・デッド

 1125日には1973年と1979年の2本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1973 Feyline Field, Tempe, AZ

 第一部クローザーの〈Playing In The Band〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 オープナーが〈The Promised Land〉で第二部オープナーが〈Around And Around〉はありそうで、珍しい。〈Sugar Magnolia〉がクローザーではないのも滅多にない。〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉に続く。

 この週末はずっと雨で、会場は小さな野球場で、正午開演予定だったため、払い戻しになると思いながら朝10時に着くと Wall of Sound はすでに設置が終り、全体にプラスティックのカヴァーがかけられていた。スピーカーは背後の客席よりも高く聳えていた。そのサウンドは狭い球場からあふれんばかり。雨が止むのを待って、午後2時半、演奏が始まる。聴衆は34,000人と「ごく少なかった」。ステージには妊娠6、7ヶ月だったドナのために、やたらクッションのきいた大きな椅子が置かれて、ドナは実際これに座っていた。アンコールの時、雲間から太陽が現れ、ウィアが「日没を味わおうぜ」と言い、〈And We Bid You Goodnight〉が歌われる中、太陽が沈んでいった。帰りはまた土砂降りの雨。以上 DeadBase XI Jeffery Bryant のレポートによる。

 小さなものであれ、スタジアムが会場に選ばれたのは Wall of Sound を設置するためだろう。この前のショウは前々日、テキサス州エル・パソで、おそらく別のセットが先行して送られ、前日に組み立てられていたと思われる。


2. 1979 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA

 セット・リスト以外の情報が無い。(ゆ)


6月17日・木

 市から介護保険料通知。昨年の倍になる。年収2,000万以上の金持ちはいくら稼いでも金額が変わらない。「不公平」だ。金があればあるほど、収入に対する保険料の比率は減るんだぜ。余裕のある奴はますます余裕ができる。その1割しか年収のない人間はちょっと増えると月額倍増って、そりゃないだろう。

 散歩の供は Ariel Bart, In Between
 Bandcamp で購入。ファイルは 24/44.1 のハイレゾ。

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 ハーモニカ・ジャズ。ピアノ・トリオがバック。チェロも数曲で参加。いや、いいですねえ。ハーモニカの音か、この人の音か、線は細いが芯はしっかり通っているというやつで、繊細な抒情と骨太な叙事が同居している。ハーモニカの音には軽さとスピードもありながら、鋭どすぎない。それにわずかに音が濡れている。文字通り瑞々しい。とんがったことをしないで、まあ普通のジャズをしている一方で、惰性でやっているのでもなく、故意にそうしているわけでもなく、自然にやっている感じが新鮮さを醸しだす。聴いていて、またか、とは思わない。はっと驚くようなこともないが、むしろじわじわと効いてくるするめ盤の予感。曲はすべて本人のオリジナル。愁いのある昏いメロディはあるいはセファルディム系だろうか。参加ミュージシャンの名前だけではアラブ系の人もいる。

 1998年3月生まれ。7歳からクロマティック・ハーモニカを吹いているそうな。The New School University in New York でジャズ演奏の学位を取得。ベーシストの William Parker と2枚、Steve Swell and Andrew Cyrille がポーランドのレーベル Not Two から出したアルバムに参加。本人のリーダー・アルバムとしてはこれが初めて。ようし、追いかけましょう。


 夜は YouTube の宿題をかたづける。MacBook Air (M1, 2020) から AirPlay で FiiO M11Pro に飛ばし、DSD変換して聴く。YouTube 側はノーマルでも聴くのは DSD だ。M11Plus は本家ではリリースされたが、国内販売開始のアナウンスはまだ無い。数が少なすぎて、回せないのか。やはり M17 狙いかなあ。

 スナーキー・パピーの Grount Up Records が提供する The Secret Trio のライヴ音源が凄い。凄いとしかいいようがない。ウードはアラ・ディンクジャンではないか。お久しぶり。お元気なようで何より。



 shezoo さんに教わった、行川さをりさんの YouTube 音源をあれこれ視聴。Asu とのデュオ Kurasika の〈写真〉。向島ゆり子さんがすばらしい。Kurasika と上田健一郎による、どこでもスタジオにしてしまう「旅するレコーディング」もいい。これはまさにクーキー・マレンコが言っていたものではないか。周囲の音も音楽の一部で、でかいせせらぎの音が歌とギターに耳を引付ける。うぐいすは絶妙の合の手を入れてくれる。引き込まれて、次々に聴いてしまう。(ゆ)






 横浜・エアジンで玉響のライヴ。石川氏が入っているので買ってみた玉響のデビュー《Tamayura》があまりに良いので、ライヴに行く。

tamayura
玉響 〜tamayura〜
玉響
2021-03-10

 

 ライヴを見るのはミュージシャンの演奏している姿を確認するのが第1の目的だが、まず前原氏が面白い。体はほとんど動かさず、ギターも動くことなく、手と指だけが動いている。フィンガー・ピッキングだが、時にどうやって音を出しているのか、指が動いているとも見えないこともある。冒頭と第二部途中で MC をするが、させられてますオーラがたっぷり。人前でしゃべる、というより、しゃべることそのものがあまり得意ではないオーラもたっぷり。ギターを弾いていられさえすればいい、そのためにはどんなことでも厭わない、という感覚。まことにもの静かで、控え目だが、芯は太く、こうと決めたらテコでも動きそうにない。ソロをとる時も譜面を見つめていて、あれ、予め作曲ないしアレンジしてあるのかなとも見えるが、演奏はどう聴いても、そうとは思えない。さりげないところと、すっ飛んでいるところがいい具合にミックスされている。楽器はクラシックで、お尻にコードが挿さっているが、シンプルな増幅のみらしい。少なくともこのアンサンブルでは、エフェクタなどはほとんど使っていないように聞える。4曲め Pannonica でのソロ、5曲め Calling You でのソロ、それにアンコール Softly as in a Moring Sunrise でのソロが良かった。

 Calling You は録音はしたけれど、CDからは外したものの由。いつもと違って速めのテンポのボサノヴァ調。前半ピアノ、後半ギターがソロをとり、どちらもいい。

 太宰氏もあまり体を動かす方ではない。鍵盤をいっぱいに使うけれど、上半身はそれほど動かない。この人のピアノは好きなタイプだ。リリカルで、実験も恐れず、ギターや歌にも伴奏より半歩踏みこんだ演奏で反応する。それでいて、ソロの時にも、控え目というほど引込んではいないが、尊大に自我を主張することはしない。

 このトリオの面白さはそこかもしれない。独立している個のからみ合いは当然なのだが、そのからみ合い方がごく自然でもある。自己主張のあまり相手の領域に土足で踏みこむのでもなく、ひたすら相手を盛りたてることに心を砕くのでもなく、絶妙の距離を保ちながら、音をからみ合わせる快感を追求する。

 石川氏のヴォーカルも突出しない。歌とその伴奏ではなく、歌はあくまでも対等の位置にある。かなり多種多様な性格の声と唄い方を駆使するのがあざとくならない。一方、変幻自在というよりも歌に一本筋が通って、ひとつの方向に導く。このピアノとギターにその声がうまくはまっている。

 そしてアレンジの面白さ。知っている曲だとよくわかるのは、一見かけ離れた新鮮さによってもとの楽曲の良さがあらためて感得できる。あたしにそれが一番明瞭なのは Yesterday Once More で、とりわけあのコーラスをゆっくりと、一語一音ずつはっきりと区切るように歌われる快感は他ではちょっと味わえない。

 レコ発なので、CD収録曲中心。即興はもちろん録音とはまた違い、まずはそこが楽しい。3人とも抽斗は豊冨で、録音よりさらに良い時もいくつもある。配信も見て、記録したくなる。

 配信用もあるせいか、サウンドもすばらしく、アコースティックな小編成の理想的な音だ。エアジン、偉い。ごちそうさまでした。(ゆ)

玉響
石川真奈美: vocal
太宰百合: piano
前原孝紀: guitar

 今年最初のライヴ。個人的な事情もあって、年明けとはいえ、にぎやかでアゲアゲな調子のものは願い下げという想いがあったのだが、このソロ・ライヴはひそやかに、静かに、しかし決してネガティヴではない、あくまでも明るく前を向いていて、今のあたしの気分にはまことにぴったりのひと時を過ごさせてくれた。聴いていると「明るいニック・ドレイク」という言葉が浮かんできて、後でアニーに言ったらまんざらでもない様子だった。

 アニーとしてもインストルメンタルではなく、うたを唄う、弾き語りのスタイルのライヴは初めてだそうで、緊張してます、不安です、と口ではいうのだが、演奏している姿にはそんなところは微塵も無い。MCはいつもに比べれば多少ぎこちなくもないが、音楽そのものの質はいつもの中村大史のレベルはしっかり超えている。

 ひとつにはこのホメリという空間のメリットもある。ここは生音がよく響くところで、声もやはりよく通る。後半は結構力を入れてストロークを弾いてもいたが、声がそれに埋もれてしまうことはない。もっとも、その辺りの音量の絞りかた、力の加減、押手引き手の呼吸は心得たものだ。

 ギター一本の弾き語りというスタイルはあたしにとっては他のどんな形よりもおちつく。基本中の基本。極端にいえば、ギター一本とうただけで満場を唸らせることは、一人前のミュージシャンとしての最低の条件ですらあると思っている。アイルランドの音楽、ばかりでなく、その前のスコットランドやイングランドの音楽を聴いた初めもギターとうたの弾き語りだった。ディック・ゴーハン、ニック・ジョーンズ、ヴィン・ガーバット、マーティン・カーシィ、デイヴ・バーランド、クリスティ・ムーア、アンディ・アーヴァイン、ポール・ブレディ、ミホール・オ・ドーナル、アル・オドネル、クリス・フォスター、マーティン・シンプソン、スティーヴ・ティルストン等々々。こうした人たちのうたとギターに誘われて、伝統音楽の深みへと誘われ、はまりこんでいったのだ。

 わが国でもこうしてギター一本とうたで、異国の、また故国のうたを聴かせてくれる人が現れているのは、頼もしく、嬉しい。たとえば泉谷しげる。ここでまさか泉谷のうたをこういう形で聴こうとは思わなんだが、アニーはまるで自分が作ったうたのようにうたう。ここから森ゆみ、そして自作の〈夏の終りに〉の3曲がハイライト。

 まだ自作がそれほど多くないので、と言ってカヴァーをうたうが、どれもが原曲を離れて、アニーの血肉になっている。カヴァーには曲に引っぱりあげられることを期待する場合も少なくないが、アニーはそんなことは夢にも考えていない。クリスティ・ムーアにうたわれることで有名になった曲は数知れないが、それらはどれもムーアが自作とまったく同じレベルまで咀嚼消化吸収して、あらためて自分のうたうべきうたとして唄った結果だ。アニーのカヴァーにも同じ響きがある。

 アニーはどのうたも急がず騒がず、ゆったりと静かにうたう。ソロ・アルバム《Guitarscape》は静謐さに満ちているが、うたが入ってもやはり静かだ。静まりながら、前へ前へと進む。そう、これは明るいニック・ドレイクよりも、クールなクリスティ・ムーアと呼ぶべきかもしれない。ムーアも静かにうたうこともあるが、どんなに小さな声でうたっても、かれの場合にはその奥がいつもふつふつと煮えたぎっている。アニーも煮えたぎっているのかもしれないが、あえてそれがそのまま出るのを抑えて、どこまでもクールに唄う。それが気持ち良い。

 年末から気が重い状態が続いていて、まだ当分この状態に耐えていかねばならず、ますます気が重かったのだが、こういうクールでポジティヴな音楽には救われる。他の形でも超多忙の人だから、毎月とか隔月とかは無理だろうが、春夏秋冬や、あるいは4ヶ月に一度ぐらい、こういう音楽を聴かせてくれることを願う。そしていずれはうたとギターだけのアルバムも期待する。

 ライヴ通いの上では、まずこれ以上は望めない形で2020年は始まった。(ゆ)

guitarscape
Hirofumi Nakamura 中村大史
single tempo / TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-26


 ギタリストのアーティ・マッグリンが12月18日、亡くなったそうです。享年75歳。死因は公表されていません。フィドラーの Nollaig Casey と結婚していて、娘さんが2人、息子さんが3人いる由。

 出身はノーザン・アイルランド、タイローン州。父親がアコーディオン奏者、母親はフィドラーという音楽一家に生まれ、初めは父親にならってアコーディオンを弾いていました。11歳の時、母親がギターを与えて人生が変わります。まずジャズに行き、ウェス・モンゴメリー、バーニー・ケッセルなどをフォローします。1960年代から70年代にかけてはケイリ・バンド、ショウ・バンドで食べていました。1970年代半ば、時代の風を感じたのでしょう、伝統音楽に回帰します。1979年、ソロの《McGlynn's Fancy》をリリースして、アイリッシュ・ミュージックにおけるギタリストとして、ミホール・オ・ドーナル、ポール・ブレディと並べられます。ここではまたギターでダンス・チューンのメロディを弾きこなしてもいます。

Mcglynn's Fancy
Arty Mcglynn
Traditions Alive Llc
2008-01-01



 以後は常にアイリッシュ・ミュージックの第一線にあって、ドーナル・ラニィ、クリスティ・ムーア、アンディ・アーヴァイン、リアム・オ・フリン、フランキィ・ギャヴィン、クリスティ・ヘネシィ、ジョン・カーティなどと共演していました。最も有名なのはパトリック・ストリートとフォー・メン・アンド・ア・ドッグへの参加でしょう。ヴァン・モリソンのバンドにいたこともあります。個人的に最高だと思うのはフランキィ・ギャヴィンがフランスのオコラで作った《Irelande》1994 です。アコーディオンの Aidan Coffey とのトリオで、フランキィのものとしても、アイリッシュ・ミュージックのものとしても、最高の1枚です。ライヴ録音なのも嬉しい。

PATRICK STREET
PATRICK STREET
2017-06-16



 2016年、TG4 の Gradam Saoil / Lifetime Achievement Award を受賞しました。

 ナリグ・ケイシーとは2枚のアルバム《Lead The Knave》1989と《Causeway》1995を作っています。ここでのかれの流麗なエレキ・ギターによるダンス・チューン演奏は他に比べるものがありません。

Lead The Knave
Arty McGlynn
Ringsend Road Music
1989


Causeway
Arty Mcglynn & Nollaig Casey
Tara Records
1995-10-24



 リアム・オ・フリンが最初に来日した時に同行していました。普段は無口で、もの静かなリアム・オ・フリンよりももっと静かで、ほとんどいるのかいないのかわからない感じで、ステージに上がって楽器を持ってもクールなままですが、音を出すと世界を一変させる力のあるギターでした。繊細で抜き身の刃のような存在感がありました。闇の中で静かにわずかな光を反射している脇差の逸品、というところ。

 かれのギターの特色、性格については、ギタリストたちにお任せしましょう。まずは、パトリック・ストリートの3枚め《Irish Times》1990 冒頭の〈Music for Found Harmonium〉を聴いて、偲ぶことにします。この曲がアイリッシュ・ミュージックのレパートリィに入ったのはこの録音がきっかけです。合掌。(ゆ)

 菜花は西調布の駅からほど近いところで、ふだんはレストランらしい。トシバウロンがプロデュースして、ここでケルトや北欧の音楽のライヴを定期的に開く企画「菜花トラッド」の皮切りがこのデュオである。

 ここは須貝知世さんのデビュー・アルバム《Thousands of Flowers》レコ発で来たことがある。広々とした板の間で、テーブルや椅子もいずれも木製。生楽器の響きがいい。このイベントは食事付きとのことで、この日は二人が演奏するアイリッシュ・ミュージックに合わせてアイリッシュ・シチュー。実に美味。量もあたしのような老人にはちょうどいいが、トシさんには足らないかもしれない。

 この二人ではしばらく一緒にやっていなかったとのことで、ゆったりと始める。ホーンパイプからスローなリールのセット。次もゆったりとしたジグ。そのゆったり具合がいい。

 マイキーはクレアの出で、フィドルもそちらだが、西クレア、ケリィに近い方だろう。ポルカやスライドの盛んな地域で、もちろんそれも演るのだが、この日はとにかく走らない。勢いにのって突っ走るのは、まあ誰でもできるが、こんな風にゆったりと、充分にタメて、なおかつ曲の備えるグルーヴ、ノリが湧き出るように演奏するのは、そう簡単ではないはずだ。このあたりはやはりネイティヴの強み、血肉になっている伝統から、どっしりと腰のすわった安定感がにじみ出る。安定しきったその流れにただひたすら身をまかせられるのは、アイリッシュ・ミュージックの醍醐味のひとつではある。

 伝統音楽にはそれぞれに固有のグルーヴ、ノリがある。アイリッシュにはアイリッシュの、スコティッシュにはアイリッシュと似ているが、やはりスコティッシュならではのノリがある。スウェーデンのポルスカのノリはまた別だ。そういうノリを身につけるのは、ネイティヴなら幼ない頃から時間をかけられるし、どっぷりと浸ることもできるが、伝統の外では難易度は高い。一つの方法はダンスの伴奏、アイリッシュならケイリ・バンドなどで、ダンスの伴奏をすることかもしれない。トヨタ・ケーリー・バンドのメンバーは一晩で何時間もぶっつづけで、それも半端ではないテンポで演奏することで鍛えられていて、他のアンサンブルで演るときも抜群の安定感を体験させてくれる。

 それでもやはり、優秀なネイティヴが備える安定感は次元がまた別だ。マイキーがこの国に住んで、音楽をやってくれていることは、あたしなどには本当にありがたい。

 かれはまったくの1人でもすばらしい音楽を聴かせてくれるだろうが、アイリッシュは基本的にソーシャルな音楽だ。つまり、一緒にやって初めて本当に面白くなる。だから高橋さんのような相手がいることはマイキーにとっても嬉しいことだろう。

 高橋さんはこの日は得意のバンジョーは弾かず、ギターに徹していたが、かれのギターはミホール・オ・ドーナルを祖型とする従来のものからは離れている。ストロークで使うコードやビートの刻み方も違うし、ピッキングでメロディを弾くことも多い。フィドルやホィッスルとユニゾンしたりさえする。あるいは前半の最後にやったスロー・エアのように、アルペジオからさらに音を散らして、ちょっとトリップでもしているような感覚を生む演奏。かれは長年、アイルランドでプロの伝統音楽家として活動していて、伝統のコアをきちんと身につけているが、一方で、というよりもおそらくはそれ故に、実験にも積極的だ。そのギターは相当にダイナミックで、マイキーのむしろ静謐な演奏と好一対をなす。

 ライヴのプロデュースをするトシさんももちろんプロデュースだけして、黙って腕組みして見ているはずはない。バゥロンで参加して、ソロまでとる。こういう時にはジョンジョンフェスティバルのようなバンドの時よりもかれの個性が現れる。そして、見るたびに進化しているのには感心する。いつも新鮮な響きを、あのシンプルな太鼓から叩きだしてみせる。

 実は最近、あるきっかけでザッパに復帰したり、ジミヘンとかサンタナとか、今でいう「クラシック・ロック」熱が再燃していて、アイリッシュはほとんど聴いていなかったのだが、こういうライヴを見聞すると、カラダとココロがすうっとして、落着いてくるのを実感する。このレベルのライヴが期待できるのなら、この「菜花トラッド」は毎回来たくなろうというものだ。とりあえず次回は来月23日、奥貫史子&梅田千晶、フィドルとハープのデュオだそうだ。この組合せで見たことはないから楽しみだ。ケープ・ブレトン大会になるのか、クレツマー祭になるのか。

 それにしても、菜花のアイリッシュ・シチューはおいしかった。次は何か、とそちらも楽しみ。ごちそうさまでした。(ゆ)

 いやしかし、ここまで対照的になるとは思わなんだ。やはりお互いにどこかで、意識しないまでも、対バン相手に対する距離感を測っていたのかもしれない。これがもし na ba na と小松&山本の対バンだったならば、かえってここまで対照的にはならなかったかもしれない。

 対照的なのが悪いのではない。その逆で、まことに面白かったのだが、各々の性格が本来のものから増幅されたところがある。違いが先鋭化したのだ。これも対バンの面白さと言えようか。

 須貝&梅田のデュオは、この形でやるのは珍しい。メンバーは同じでも、トリオとデュオではやはり変わってくる。トリオでの枠組みは残っていて、一応の役割分担はあるが、自由度が上がる。それにしても、こうして二人として聴くと、須貝さんのフルートの音の変わっているのに気がつく。もともと芯の太い、朗らかな音だったのが、さらにすわりが良くなった。〈Mother's Lullaby〉では、これまでよりも遅いテンポなのだが、タメが良い。息切れせず、充分の余裕をもってタメている。一方でリールではトリオの時よりもシャープに聞える。中藤さんと二人揃うと、あの駘蕩とした気分が生まれるのだろうか。あるいは梅田さんのシャープさがより前面に出てくるのか。

 小松&山本は初っ端から全開である。音の塊が旋回しながら飛んできて、こちらを巻きこんで、どこかへ攫ってゆくようだ。

 今回は良くも悪しくも山本さん。メロディをフィドルとユニゾンするかと思えば、コード・ストロークとデニス・カヒル流のぽつんぽつんと音を置いてゆくのを同時にやる。一体、どうやっているのか。さらには、杭を打ちこむようにがつんと弾きながら、後ろも閉じるストローク。ビートに遅れているように聞えるのだが実は合っている、不思議な演奏。

 その後の、ギター・ソロによるワルツがしっとりとした曲の割に、どこか力瘤が入ってもいるようだったのだが、終ってから、実は「京アニ」事件で1人知人が亡くなっていて、今のは犠牲者に捧げました、と言われる。うーむ、いったい、どう反応すればいいのだ。

 これは小松さんにもサプライズだったようだが、そこはうまく拾って、ヴィオラのジグ。これも良いが、フィドルでも低音を多用して、悠揚迫らないテンポで弾いてゆく。こういう器の大きなフィドルは、そう滅多にいるものではない。

 最後にせっかくなので、と4人でやったのがまた良かった。のんびりしているのに、底に緊張感が流れている。2曲めでは、初めフィドルとギターでやり、次にフルートとハープに交替し、そこにフィドルとギターが加わる。フィドルはフルートの上に浮かんだり、下に潜ったり、よく遊ぶ。そこから後半は一気にスピードに乗ったリール。この組合せ、いいじゃないですか。

 やはり対バンは楽しい。たくさん見てゆけば、失敗に遭遇することもあるだろうが、今のところはどの対バンも成功している。失敗するにしても、おそらくは収獲がたくさんある失敗になるのではないか。(ゆ)


はじまりの花
na ba na ナバナ
TOKYO IRISH COMPANY
2015-11-15


Thousands of Flowers
須貝知世
TOKYO IRISH COMPANY
2018-09-02



 こういう音楽を聴くと、アイルランドは不思議なところだとあらためて思う。こういう音楽が生まれて、今に伝えられて、わがものとして演奏し、楽しんでいる人たちがいる。そして21世紀のこの国でこうして生で奏でられ、それを熱心に聴く人たちがいる。これはほとんど奇跡ではあるまいか。

 まずゆるいのである。コンサートというあらたまったものというよりは、終演後、村上淳志さんが言っていたように、友人の家の居間かキッチンで、くつろいでいる感覚だ。音楽を聴くことが目的で集まってはいるけれど、演る方も聴く方も、それだけに執着することもない。音楽は場の中心にあって、その場にいる人たちをつないではいるが、他は全部捨てて集中する、なんてことは、どちらもない。むしろ、音楽が奏でられているこの空間と時間を共有する、シェアすることが歓びになる。

 昼間の hatao & nami のライヴからたまたま一緒になった石原さんと話していて我ながらあらためて腑に落ちたのは、アイリッシュ・ミュージックのキモはこの共有、シェアというところにある、ということだった。セッションというのはそれが最も裸の形で顕われたものだが、アイリッシュ・ミュージックの演奏にはどんな形のものにも、それがある。つまりオレがアタシが演っているこの音楽を聴け、聴いてくれ、ではない。アタシはオレはこういう音楽を演るのがとても楽しいので、よかったら一緒に聴きましょう、なのだ。アイリッシュの現地のミュージシャンたちが来るようになってまず印象的だったのは、誰もかれも楽しそうに演ることだった。なにやら深刻なことを真剣にやっているんだからこちらも集中しなければ失礼だ、なんてことはカケラも無い。ここでこうして演っているのがとにかく楽しくてしかたがない、という表情が全身にみなぎっている。それを見て音楽を聴いていると、すばらしい音楽がさらにすばらしくなる。

 キャサリンとレイを中心としたこのライヴは、たとえばトリフォニーのアルタンのライヴよりもさらにずっとゆるい。シェア、共有の感覚が強い。

 どちらかというとハープがメインということで、演奏されるのはハープの曲、カロランやその関係の曲が多い。これがまたいい。キャサリンも言っていたように、日曜の夜をのんびりと楽しむのにふさわしい音楽だ。アイリッシュ・ミュージックとて、なにもいつもダンス・チューンでノリにのらなければならないわけでもない。渺渺たるスロー・エアに地の底に引きこまれなくてもいい。速すぎず遅すぎず、まさに、カロランが生きていたときも、こんな風に人びとは集まって、その音楽を中心にくつろいでいたんじゃないか、と思えてくる。ただ、そこに集まっていたのは当時のアイルランドの貴族やその係累で、ここでは、アイルランドとは縁もゆかりもない、遙か遠い島国に生まれ育った人たちであるというのが、違うわけだ。

 あらためて考えてみればこれは凄いことなのだが、それはまあ別の機会にしよう。キャサリンとレイの音楽は、300年の伝統の蓄積を元にして、時空を超える普遍性を備えるにいたっている。わけだが、それをそんなに凄いこととは露ほども感じさせない、そういうものでもある。あたかもその音楽は、われわれ自身の爺さん祖母さんたちが炉辺で演っていたもののように聞える。

 レイはギターも弾くが、ぼくらが聴きなれたようにコード・ストロークをしない。ピッキングでメロディを弾く。ハープとユニゾンする。これはなかなか新鮮だ。ギターによるカロラン・チューン演奏はそろそろ伝統といってもいいくらいになってきたかとも思うが、まずたいていはソロで、ハープとのユニゾンは初めて聴く。こういうユニゾンが、ぴたりと決まっていながら、またゆるく聞えるのは、この二人のキャラクターでもあろうか。

 レイは歌もいい。〈Mary and the Soldier〉はポール・ブレディにも負けない。もっと歌は聴きたかった。

 ゲストがたくさん。奈加靖子さんが唄い、村上さんがハープをソロで弾き、二人と合わせる。これもゆるい。いや、奈加さんの歌はますますピュアになっているけれど、この場ではいい具合に溶けている。そして、サプライズ。小松大さんがフィドルで入って、キャサリンがピアノを弾いて、レイと二人でケイリ・スタイルのダンス・チューン。これがなんともすばらしい。演っている方も気持ちよかったのだろう、最後の最後のアンコールにもう一度やる。

 そうそう肝心なのは、ゆるいはゆるいのだが、ぐずぐずに崩れ、乱れてしまうことがない。一本筋が通っているというと、またちょっと違うような気もする。しぶとい、といおうか。どこか、底の方か、奥の方か、よくわからないのだが、どこかでゆるいままに締まっている。ヘンな言い方だが、そうとしか今のところ言いようがない。それで思い出すのは、大昔、サンフランシスコのケルティック・フェスティヴァルに行ったとき、夜のパブのセッションで、たまたま隣に座っていた妙齢の女性がろれつも回らないほどぐでんぐでんになっていたのが、やおらアコーディオンを持つや、まったく乱れも見せずに鮮やかに弾きつづけていた姿だ。これが Josephin Marsh だった。

 それにしても、二人とも現地ではともかく、こちらではまったく無名、本人たちはそこらへんにいるおばちゃんおじちゃんで、見栄えがするわけでもない。それが小さな会場とはいえ昼夜2回の公演が満杯、ワークショップも盛況、というのだから、世の中変わったものである。大阪から追っかけで来ていた人たちも何人かいた。

 まあ、それも主催の松井ゆみ子さんの人脈と人徳のなせるわざではあろう。まことにいい思いをさせていただいて、ありがとうございました。

 会場は西荻窪の駅からは20分ほど歩く。東京女子大の裏、善福寺公園のほとりにある洒落たホール。面白いのは、入口に近い、部屋の真ん中のところにミュージシャンたちがいて、リスナーはその両側からはさむ。アトホームなゆるさはあの形からも生まれていたようでもある。日曜日の夜、そろそろ花粉のシーズンも終わりに近づき、まさに空気がゆるい。(ゆ)

 今年の初ライヴはギター・デュオ。この二人のライヴは昨年8月以来。

 レパートリィは前回とほぼ同じ。前回は福江さんのソロ・アルバム・リリース記念でもあって、そのソロからの選曲が多かった。今回は若干それが減って、高橋さんのレパートリィが増えたぐらい。

 ライヴの形式としてはデュオでの演奏と、それぞれのソロが3分の1ずつで、あらためてギタリストとしての二人の違いが浮彫りになるのがまず面白い。

 もっとも二人ともルーズで野生を感じさせる外見とは対照的に、繊細で隅々にまで凝った演奏をする。アレンジも細かく、のんびりしたMCにつられていると、耳が引きこまれて焦ることもある。と思えば、駘蕩とした気分になってしまって肝心なところを聴き逃した気分になることもある。一筋縄ではいかない。小さな音でそっと始めたのに、気がつくとパワフルに迫ってもくる。やはり二人とも、シンプルに見せているが、実体は相当に複雑なミュージシャンだ。一見シンプルであるのが意識的に作っているのか、意識せずににじみ出ているのか。これまたおそらくはどちらでもあり、どちらでもないのだろう。

 二人の違いは、アコースティック・ギターの演奏者の二つの類型を代表しているようでもある。福江さんは楽器としてのギターの可能性を拡大することを志向する。ボディや弦を叩いたり、ハーモニクスを多用したり、ネックの上側つまり高音弦側から弦を押えたり。とりわけ彼のオリジナルでは、単純に弦を弾くことはほとんど無いようにすら見える。

 高橋さんは正統的な形で弦を弾いてどこまで行けるか、挑んでいる。リールのメロディをピッキングで演奏するのも、例えばトニー・マクマナスのように、他のメロディ楽器、フィドルやフルートなどと同じレベルで演奏するよりも、一つの曲を繰り返すごとに少しずつアレンジを変えてゆく。面白いことに、こういうことはバンジョーではあまりやらない。バンジョーは良く言えば頑固、別の言い方をすると融通が効かない。ギターはその点、ひどく柔軟だ。少なくとも柔軟に見えて、高橋さんの変奏はそのギターならではの柔軟性をフルに活用しているように聞える。

 で、その二人が一緒にやると、妙に合うのである。重なるところが無いせいだろうか。高橋さんが正面突破してゆくと、その左右から深江さんが茶々を入れるかと思うと、下からふうわりと押し上げたりもする。あるいは深江さんがすっ飛ぶのを高橋さんがつなぎ留める。

 その接着剤になっているのが、アイリッシュということになる。二人が出会ったのもアイリッシュが縁でもある。とはいえ、接着剤は表からは見えない方が美しい。ここでもアイリッシュ・ミュージックは表面にはあまり出てこないのは、むしろ奥床しくもある。

 今年は二人でツアーもするそうだ。となると、あらためてレパートリィを増やし、アレンジも練りなおすことになるだろう。いずれ録音もするにちがいない。今年の楽しみの一つになろう。

 この店はウィスキーが売りとのことで、実に久しぶりにラフロイグを飲んでみる。あたりまえだが、あいかわらず旨い。ネットで出てくる地図が全然違う場所を示すので、現地に着いて面喰ってしまった。幸い、小泉瑳緒里さんにばったり遭って救われる。いやあ、ありがとうございました。(ゆ)

fluctuation
福江元太
gyedo music
2018-08-29


 明けましておめでとうございます。
今年が皆さまにとって、充実した年でありますように。

 早々に年賀状をいただいた方々、恐縮です。
例によって年賀状は出しておりません。不悪。

 今年もぬらりくらりとしのぐことになろうかと思います。なにとぞご贔屓のほどを。
少しは仕事もいただいているので、ぼちぼちやっております。

 4日に大山阿夫利神社に初詣に行って、ちょっと無理をしたら、昨日から両脚の筋肉痛で歩くのもままならず。身体の衰えを思い知らされました。今年はちゃんと歩こうと思います。

 ライヴなどに行った時のメモがわりにブログを書くことはどうやら癖になってきたので、今年はCDなどの音源の「発見」についても書くようにしようと思ってます。本も少しは読まねばなりませんが、昨年後半からまた田川建三にハマってしまいました。おかげで初めて新約聖書をまともに読んでいます。これに時間をとられて、他の本が読めません。


 今夜は今年の初ライヴで、福江元太&高橋創のデュオを見に行きます。

 昨年夏の高円寺はグレインでのライヴがすばらしかったので、今日も期待してます。その時の報告はこちら


 このライヴ、あんまり予約が入っていないとのことで、割引もあるそうです。高橋さんに連絡すると、お得に見られるでしょう。
info.walkslow (at) gmail.com


 ということで、どうぞ、よしなに。(ゆ)

 名古屋をベースに活動するフィドルの小松大さんとギターの山本哲也さんのデュオがセカンド・アルバムを出した、そのレコ発ツアーの一環。ハコは下北沢のとあるビルの地下にあるライヴハウス。ステージ背後には木製の壁が立ち上がり、上端は丸く前に張出している。これなら生音でも良さそうだ。店のサイトを見ると、アイリッシュ系とは毛色の違うミュージシャンが多いが、環境そのものは生楽器との相性が悪いわけではない。小松さんたちももちろん演るのは初めてだが、雰囲気がいいと気に入っている。あんまりライヴハウス然としていないところは面白い。ただ、入口がわかりにくくて、ビルの前に着いてから、さあ、どこから入るのだとしばし途方に暮れる。それにしても、音楽のライヴができるこういう施設は下北沢にいったいいくつあるのだろう。新陳代謝も激しいんじゃないか。

 MCの調子が今一つ、と小松さんは言うが、何も言わずに次の曲を始めたり、延々と曲についてしゃべったり、メリハリがきいている。この日も冒頭、何も言わずにいきなり演奏を始め、2曲やったところでマイクをとる。

 前から思ってはいたが、この二人、ますますマーティン・ヘイズ&デニス・カヒルに似てきた。演奏スタイルもだが、雰囲気が似ている。小松さんのフィドルはマーティンと同じく、イースト・クレアがベースで、リールでも急がず慌てず、ゆったりと弾いてゆく。なごむ。血湧き肉踊るよりも、ゆったりとおちついてくる。いい気分だ。

 小松さんはヴィオラもやるせいか、フィドルもあまり高域にいかない。高音が大好きで、なにかというと高く行こうとするアイリッシュ・ミュージックでは珍しい。この点もイースト・クレアに習っているのか。この重心を低くとる演奏が、ますます気持をおちつかせ、なごませてくる。

 レコ発ということもあり、新作《Shadows And Silhouettes》をほぼ収録順に演ってゆく。ああ、音が膨らむ、いい湯だ、じゃない、いい中域だ、と思ったら、やはりヴィオラだった。

 ヴィオラというのは不思議な位置にある。クラリネットも音域の違うタイプがいろいろあり、低いものはバスクラと呼ばれるが、楽器としては独立したものではない、と聞いたことがある。ヴィオラもサイズと音域にいくつか異なる種類があるそうだが、いずれにしてもヴァイオリンとは別物とされている。クラシックでは両方演る人はまずいないらしい。しかし、クラシックのオーケストラ、カルテットではヴィオラは必須だ。弦楽だけの室内オケでもヴィオラはいる。ヴィオラのいないトリオは、トリオロジーのように、クラシックの範疇からははみ出てしまう。ヴァイオリンとチェロの間をつなぐ楽器が必要なのだ。

トリオロジーII~誰が殺した、ヴィオラ・プレイヤー?
トリオロジー
BMGインターナショナル
2000-07-05



 一方、フィドルがほぼ唯一の擦弦楽器であるルーツ系ではまったく使われない。ヴェーセンのミカルは例外だ。むしろ彼のおかげで、ヴィオラもそんなに特別なものではなくなっているほどだ。

 似たものにアイルランドの Caoimhin O Raghallaigh が使っている hardanger d'Amore がある。こちらはハーダンガー・フェレのヴィオラ版のようなものだ。当然伝統楽器ではなく、最近作られたものである。これを演る気はないか、と小松さんに訊いてみようと思っていて、忘れた。

 ヴィオラの音の膨らみ方は、同じ音域をフィドルでやってもまったく違う。これはもう物理的な違いが音に出ているのだろう。音が膨らむことではチェロもそうだが、ヴィオラの膨らみにはチェロにはない華やぎがある。コケティッシュになるぎりぎり寸前で止まっているのが、フィドルとは一線を画す。逆に気品と言ってしまうと、やはり言い過ぎになる。洗練が足りないわけではないが、親しみがもてる。人なつこいのだ。

 とすれば、人なつこい音楽であるアイリッシュなどではもっと使われてもいいような気がするが、それにはやはりサイズが大きすぎるのであろうか。

 だから、ヴィオラでダンス・チューンを弾く小松さんの存在は貴重である。もっともっと弾いてもらいたい。アルバム1枚、ヴィオラで通してほしい。無伴奏ヴィオラ・ダンス・チューン集をつくってほしい。いや、その前に、ヴィオラ・ソロを聴いてみたい。

 二人がマーティン&デニスに似てきたのは、山本さんのギターがデニス・カヒルに似てきたことも大きいだろう。演奏している小松さんの顔を見つめている表情まで似ている。小松さんの方は、これまたマーティンのように眼を瞑って弾いている。セッティングの妙か、新しい楽器のせいか、この日はベースの音がいい具合に深く響いて、気持がよかった。アンコールにソロで弾いた〈Danny Boy〉も良かった。この曲は歌われるより、こういうソロ楽器で聴く方が好きだ。

 表面的に明るくはないのだが、後味は清々しい。いい音楽にゆったりと浸かって、さっぱりとまことによい心持ち。こうして一度生で聴いておくと、録音を聴いても、これが甦り、重なって、格別の味わいになる。聴いてから見るか、見てから聴くか。どちらでもいいが、両方やるのが理想ではある。これから名古屋へ帰ってのレコ発ライヴでは小松崎健さんがゲストだそうだ。〈Lord Inchiquin〉は健さんとやるので、そちらにとっておきました、と言われると、見にいきたくなるではないか。(ゆ)

dk-ty-sas

 アラキさんが初めて来日してから20年になるそうな。20年間、ほとんど毎年来日してツアーをしている、そういうことができるのも大したものである。新作《The East West Road》のジャケットには、国内で世話になった人びとの名がずらりと並んでいる。ほとんど全国におよぶ。人なつこいかれの人柄と、そしてもちろん音楽のすばらしいことがその裏にはある。

 バゥロンとヴォーカルの Colleen Raney、ギターの福江元太とのトリオでの、今回東京では唯一のライヴ。ラ・カーニャは世界中で一番好きなヴェニューとアラキさんは言う。あたしもここは好きだ。ミュージシャンとの距離が近いし、ステージが一段高いので、よく見える。マスターの操るサウンドもバランスがとれて気持ち良い。横浜のサムズアップとあたしには双璧だ。

 昼間のジャン=ミシェル・ヴェイヨンからのハシゴで、始まる前は前の余韻が残っていたというか、まだ茫然としたままで地に足が着いていなかった。2曲めあたりで、だんだん地上に降りてこれた。聴き慣れたアイリッシュ主体の楽曲と3人の演奏の親しみやすさのおかげか。

 ジャン=ミシェル・ヴェイヨンの音楽はそこを異界にしてしまうのだが、このトリオの音楽が響いているのは通常の空間だ。どこか tricolor の音楽に通じる。アイリッシュ・ミュージックとしてはあたりまえのことをきっちりと演る。それによって、日常空間を日常のまま位相をずらす。電子レンジでチンした材料で用意したようなふだんの食事が、食べてみるととんでもないご馳走に化けている。

 ブルターニュとの違いを如実に感じて、大袈裟に言えばふるさとに帰った想いがしたのは4曲目のホーンパイプ。やはりホーンパイプこそはアイリッシュの真髄、これをちゃんとできなくては一級のアイリッシュ・ミュージシャンとは言えない。3曲メドレーの2曲めが良かったが、名前がわからん。

 アラキさんはフルートと各種ホィッスルを結構頻繁に持ち替える。レイニィさんのバゥロンはハデなことは一切やらず、シュアにビートを刻むのに徹している。遊んでいるのはむしろ福江さんのギターで、やや大きめの音量とも相俟って、それを追うのも楽しい。

 そして何といってもこのトリオの、あたしにとっての最大のポイントは歌だ。アラキさんも、レイニィさんも一級のシンガーで、二人の歌をたっぷりと聴けたのは、この日、一番嬉しかった。とりわけ新作にも入っている〈Peggy-O〉からはアンコールまで歌が続いて、大いに喜ぶ。

 前半ではレイニィさんの〈Shades of Glory〉がハイライト。後半オープナーの軽快で明るい〈Reynardine〉がすばらしい。アラキさんはこういう「シリアス」なバラッドを、さらっと軽快に明るく唄って、しかも軽薄にならないところが面白い。レイニィさんの唄はむしろ抑えたタメのなかに艶かしさを秘めたところが魅力だ。一つのバンドでこういう二つの異なる色調が楽しめるのは珍しい。そして、どちらも相手がメインのときにつけるハーモニーが快感だ。

 福江さんの MC のおとぼけぶりにも堂が入ってきて、アイリッシュ色が強くなっている。

 一日のうちで、音楽の対極の相を二つながら味わえたのは貴重な体験だが、やはりひどくくたびれる。音楽を聴いている間はよいのだが、ライヴが終ってみると疲労困憊していることに気がついた。(ゆ)

 あまりに圧倒的で、その印象を言葉にしようとしてみても、どうにもならないことがある。受け取ったもの、いや、本当には受取れてはいるかどうかもわからないので、滔々と流れてくる音楽にひたすら身を任せていただけなのだ。うまくすれば、そしてこちらの器が多少ともふさわしいものであるならば、何らかの形でその一部なりとも受け止められたものが、後になって浮上してくることを祈るしかない。

 ジャン=ミシェル・ヴェイヨンがフルートをその楽器として選んだことに何らかの理由はあるのだろうが、それは重要なことではない。それは譬えばジミヘンがギターをとったとか、キース・ジャレットがピアノをおのれの楽器としているとかいうレベルの話だ。フルートと出逢わなかったとしても、音楽家として大成していたはずだ。とはいえ、フルートを選んだからこそ、hatao がかれをわが国に招くことにしたので、だからこそ我々はかれの生の演奏に触れることができたわけだから、この天の配剤には感謝せざるをえない。

 ジャン=ミシェル・ヴェイヨンの音楽は「音楽」なので、誤解を恐れずに言えば、ブルターニュとか、フルートとかいった枠組み自体に何か意味があるわけではない。バッハの『音楽の贈り物』には演奏楽器、形態の指定が無い。どんなもので、どのような編成で、演奏してもかまわない。もっとも、楽曲とは本来そういうもので、作曲家の「指定」は本来はデフォルトとして、実例の一つ、出発点でしかないはずなので、何がなんでも守らねばならないものではない。というのは余談だが、ヴェイヨンには「贈り物」としての音楽が備わっていて、それがブルターニュの伝統音楽、フルートという形を借りて流れでてくる。

 人間はどこの誰であっても、その歴史的社会的条件から逃れられない。つまりは時代と生れ育った環境の外に出られない。ヴェイヨンもまた、人間の一人としてブルターニュの伝統音楽をそのフォームとしている。もっともフルートはブルターニュの音楽伝統に昔からあったわけではない。そこにはかれの意志が働いているようにみえる。一方で、各地の音楽伝統で伝統的とされている楽器のほとんどは、その土地土着のものでは無い。アイリッシュ・ミュージックにおいて現在中心となっているフィドル、パイプ、蛇腹、すべて外来の楽器だ。すなわち、各々の時代にあって、それらの楽器をその伝統の中で初めて演奏し、導入した人びとが存在したのだ。してみれば、外来の楽器を初めは借り、やがて伝統の一部にしてしまうことは、音楽伝統の作用の一つである。ヴェイヨンもたまたまフルーツをブルターニュ音楽に導入する役割を担うことになった。人間の意志は、必ずしも個人にのみ還元されるものではない。自分の意志、おのれ一個の判断だと思っていることは、実のところ、良く言えば時代の要請、悪く言えば他人の吹込みであることの方が普通なのだ。別の言葉で言えば、めぐりあわせである。

 より重要なのは、ヴェイヨンの音楽そのものの方だ。これまたヴェイヨンの中にもともと備わっているというよりは、巨大な貯水池がどこかにあって、そこからヴェイヨンを通じて流れでるものが我々の耳に入る。おそらく音楽家はそれぞれの器に応じてその貯水池からの音楽を貯め、放出する。ヴェイヨンはその一時的なバッファのサイズが並外れて巨大でもあり、そして放出口のサイズもほとんど類例の無いほど巨大なのだ。

 それはかれのフルートから溢れでた最初の一音を聴いて実感された。量が豊冨なだけでなく、水そのものがどこまでも澄んで、かぎりなく甘美なのだ。あとはもうひたすらその流れに身をゆだねるだけ。音楽を聴くという意識すら消える。何か途方もなく大きなものの懐に抱かれる感覚。暖かいのだが、皮膚の表面に感じるよりは肌の裏にはじまって内側へと広がってゆくようだ。

 ケルトの音楽の常として、ブルターニュの音楽もくるくると繰返される。はじめはゆったり、やがて速度を増し、ついにはトップ・スピードに乗る。各曲の繰返しとともに、この組合せの繰返しそのものも快感となる。

 そのメロディはアイルランドのものほど流麗ではなく、むしろ突兀としたスコットランドに近い。一方で独自の華やぎがある。茶目っ気とも言いたいが、アイリッシュのすっとぼけたところが無いのはほっとしたりもする。

 音楽家はすべからく音楽の憑代であるとすれば、ヴェイヨンは抜きんでて大きな憑代なのだ。音楽家としての器の大きさは人格とは一応別のものではある。日常的につきあうとなると、どうしようもなくシミったれで、嫌らしく、こんなやつと金輪際一緒にいたくはないと思える人間が、音楽家としては圧倒的に大きな器を備えていることはありえる。ひょっとするとその方が多かったりする。まあ、伝統音楽の世界ではそういう人間はごく少ない。音楽が生活と密着しているからだ。親しむ余裕は無かったが、MCや物腰からして、ヴェイヨンもおそらくは人間としても器の大きな、いわば「せごどん」のような人物ではないかと想像される。

 こういう存在に遭遇すると、音楽の不思議さに圧倒される。その玄妙さにあらためてしみじみと思いいたる。音楽は人間を人間たらしめているものだ。音の連なりを、それを聴いて愉しいというだけで生み出し、鑑賞し、それに乗って踊ったり、聴いて涙を流したりするのは、あらゆる生物のなかで人間だけだ。その人間存在の一番奥にある本質がよろこんで現れてくる想いがする。天の岩戸の話は、実はこのことを語っているのではないかと思えてくる。

 オープニングの一噌幸弘氏の笛は、天の岩戸の前で鳴っていただろう響きにつながるものではある。表面的にはヴェイヨンの音楽とは対照的だが、これまた音楽家の器としては、おさおさ劣るものではない。能はどちらかというと「静」を基本とすると思うが、一噌氏の音楽は一瞬も留まることがない。メロディとか拍とか構造すらも無視して、まさに目にも耳にも止まらぬスピードでかっ飛ぶ。まるで加速装置でもつけているようだ。まあ、舞台での音楽とこうした場でソロで演奏する音楽とは別物なのだろう。

 凄いのは、それを演じるのに格別の努力をしているわけではないことだ。音だけ聴くと、ひっちゃきになって汗をとばして渾身の力と技を繰り出しているように聞えるが、実際の姿はむしろ平然として、ごくあたりまえのことを、いつもどおりやってますというように見える。異なる種類の笛を2本、3本と口に含んで同時に吹く時ですらそうだ。普段からこういうことを日常的にやっているにちがいない。むしろ、一噌幸弘がこういう音楽を奏でているというよりも、音楽そのものが一噌の肉体を借りて顕現しているので、こういう猛烈な音楽に平然と耐えられるだけの精進を積んでいるということなのだろう。

 合わせて、何かとんでもないものを体験してしまった、という感覚を抱いて会場を出る。しかし体験したものを消化して、己のものとするには程遠い。そもそも消化できるのかどうかすらあやしい。ベスト・コンサートなどというケチなものでもない。たぶん、ずっと後になって、何かの折りにふと蘇えってきて、あれはこういうことだったのかた想いあたる。ことがあるのではないかと期待している。

 ヴェイヨンの相棒のギタリスト Yvon Riou もヴェイヨンにふさわしい、器の大きな、当然まことにユニークなギターを演奏する。とはいえ、かれのギターもヴェイヨンの音楽と渾然一体となってしまっている。

 まずは、この体験を可能にしてくれた hatao さんに感謝する。(ゆ)

 とても初めてのギグとは思えない息の合い方だ。レベルの高いミュージシャン同士だからといって、いつも息が合うというものでもないはずだ。これはひょっとするとミホール・オ・ドーナル&ケヴィン・バークとか、アリィ・ベイン&フィル・カニンガムとかと肩を並べるコンビになるかもしれない。

 いろいろな意味でかなり細部まで練られているのも、いつものアイリッシュ・ミュージックのギグとはいささか趣を異にする。音楽はすばらしいが、それ以外は結構ルーズで、いい加減で、だらだらしている、というのも、アイリッシュらしくてあたしは嫌いではないが、なるほど、アイリッシュでもやろうと思えばこういう風にもできるのだ。

 演奏曲目が印刷された洒落たカードや関係のある映像のスライドが用意され、カードには数字が書かれた別の小さなカードが付随していて、これでビンゴをやる。賞品はマイキィ特製のソーダ・ブレッドと紅茶のセットや、次回ギグのチケットだ。

 このコンビならフィドルとギターを延々と聴けるものと予想していたら、これも良い方に裏切られる。同じ楽器ばかりだと飽きますよね、と高橋さんは言うが、あたしはそうでもない。演奏の質がある閾値を超えると、おんなじ組合せでもいくらでも聞いていられる。もっとも、様々に楽器を変えるのももちろん楽しい。マイキィがホィッスルも巧いのは以前 O'Jizo のライヴにゲストで出たのを聞いて承知していた。

 マイキィのフィドルには良い意味の軽みを感じる。俳諧の、それも蕉風というよりは蕪村や一茶の軽みだ。剽軽というのとはちょと違う。強いて似たものをあげれば、Ernie Graham の〈Belfast〉のバックのフィドルが一番近いか。マイキィがもっと年をとると、あの飄々とした、可笑しくて、しかも哀愁に濡れた響きを聞かせるかもしれない。不思議なことにあたしはアイルランドのフィドルに哀愁を感じたことがない。スロー・エアでも、フィドルで奏でられると明るくなる。明るくて哀しい演奏もないではないが、哀しさはずっと後景に退く。これがパイプとかフルートとかだと哀愁に満ちることもあるのだが、フィドルはどうやっても哀しくならないところがある。アイルランドでは。スコットランドのフィドルは対照的に陰が濃いときがある。マイキィのフィドルの軽みは、あるいはアイルランドでは最も哀愁に近くなってゆくかもしれない。

 面白いのはホィッスルの音色にも同様の軽みが聞えることだ。これもどうもあまりこの楽器で聞いた覚えがない。

 高橋さんの演奏は芯が太く、どちらかというと重い。鈍重というのではもちろん無く、重みがあるということだ。高橋さんのギターの師匠は城田じゅんじさんだそうだが、城田さんのギターはむしろ軽い。このあたりは音楽家としての性格で、良し悪しの話ではないが、相性はそれによって変わってくる。たぶんマイキィと城田さんではあまり合わないだろう。高橋さんの重みを含んだ音がマイキィの軽みにちょうどぴったりなのだ。

 この日はギターの方が音が大きめで、その動きがよくわかる。相当に複雑なことをしている。ビートをキープするだけでなく、時にはユニゾンでメロディを奏でたり、ハーモニーをつけたりもする。それが音楽をエキサイティングにする。聴いていると熱くなってくる。いつもは否が応なく耳に入ってくるフィドルは、軽さもあってか、耳を傾むけさせる。集中を促すのだ。なかなか面白い体験だ。

 楽器の選択だけでなく、選曲もバラエティに富み、テンポも変える順序にしている。まずリールのセットで始め、次はスローな曲、その次はジグのセット、という具合。前半にギターの、後半にフィドルのソロも入れる。これが各々にまた良い。ハイライトはまず前半のワルツ。その次のスロー・エアで、ひとしきり演奏してからマイキィがそのメロディのもとになっている歌のアイルランド語詞を朗読する。なかなか良い声だ。それからジグにつなげるのも良い。

 後半で、ひきたかおりさんがゲストで入り、この前の高橋さんのギグの折りにも唄った〈Down By The Sally Garden〉の日本語版を、ロゥホィッスルとギターの伴奏でうたう。この歌詞はすばらしいし、ひきたさんの唄もまた良し。ぜひ、唄がメインのギグもやってください。

 アンコールは何も考えていなかったらしく、その場で楽器は何を聴きたいかと客席に問いかける。結果、フィドルとバンジョーの組合せでのリールのセットになり、これがもう一つのハイライト。良いセッションを聴いた気分。

 正直、客の入りは心配していたのだが、お二人の人脈は幅広く、満杯。新しいデュオの、まずは上々の出だしではなかろうか。来年ぐらいには録音も期待しよう。(ゆ)

あかまつさん
チェルシーズ
DANCING PIG
2013-07-14


 リリースから5年経つ。この5年はグレイトフル・デッドにあれよあれよとのめりこんでいった時期なのだが、一方で、その5年間に聴いた回数からいえば、このアルバムが最も多いだろう。いつも念頭にあるわけではない。しかし、折りに触れて、このタイトルがふいと顔を出すと聴かずにはいられない。聴きだすと、40分もない長さのせいもあり、最後まで聴いてしまう。聴きだすと、他に何があろうと、終るまで聴きとおす。

 これはコンセプト・アルバムとか首尾一貫アルバムというわけではない。各々の曲は自立し、完結している。にもかかわらず、あたしにとって、これは1本のまとまった映画というか長篇というか、いや音楽なのだ。この九つの曲がこの順番で出てくる、この順番で聴くのが快感なのである。そうしてラストのタイトル曲のイントロが聞えてくると、いつも戦慄が背筋を駆けぬける。悦びなのか、哀しみなのか、単なる感動なのか。それはもうどうでもいいことで、気がつけば、あかまつさんのコーラスに力一杯声を合わせている。8回ぐらいのリピートでは短かすぎると思いながら。

 チェルシーズはまりりんとラミ犬のデュオだ。まりりんがピアニカ、トイ・ピアノ、ホィッスルを担当し、ラミ犬がギター、ベース、ウクレレ、フルート。二人とも様々なパーカッションを操り、そしてもちろんうたう。どちらもリードがとれるし、ハーモニーもできる。ここで言えば01, 02, 04, 06, 07, 09 がまりりん、それ以外がラミ犬のリード・ヴォーカル。リードをとらない方はたいてい何らかの形でハーモニーを合わせる。スキャットしたり、コーラスを唄ったり。どちらも遜色はないが、声の性質からか、ラミ犬のリードにまりりんが合わせるハーモニーはよくはまる。

 まずはこの声だ。まりりんの声はいわゆる幼女声でしかもわずかに巻き舌。アニメの声なら天真爛漫な幼児のくせに肝心なところで舞台をさらうキャラクター。一方で、そういうキャラにはよくあるように、妙に成熟したところもある。幼生成熟と言えなくもないかと思ったりもする。その眼は醒めて、人やモノの本質を見抜く存在の声だ。

 ラミ犬の声も年齡不相応に響く。あるいは年齡不詳か。声域は高めでかすかにかすれる。

 二人ともどこから声が出ているのかわからない。どこにも力が入っていない。張りあげることも、高く澄むことも、低く沈みこむことも、まったくない。クルーナーでもないし、囁くスタイルでもない。しかしふにゃふにゃにはならない。明瞭な発音と相俟って、確かな説得力をもって聴く者に浸透する。浸透力は並外れている。ということはまず唄が巧い。そして声には芯が1本通っているのだ。

 この声で湛々と唄われるうたは、シュールリアリスティック(〈バナナの木〉〈つらら〉)だったり、飾りも衒いもないストレートなもの(〈上司想いの部下のうた〉〈あかまつさん〉)だったりする。時に何を唄っているのか、よくわからなかったり(〈ひるねのにおい〉)もする。一聴、わかりやすいと思うが、よく聴いてみると実はもっと深いところまで掘りさげているのではないかと思えたりするもの(〈ぐるぐる〉)もある。夏が来て、秋に移り、そして冬に凍てつくうたもある。いずれにしても一筋縄ではいかないし、何度聴いても面白い。

 歌詞が乗るメロディとリズムも一見あるいは一聴、とりわけ特徴的なものがあるわけではない。いわばごくありきたりなポップス。現代日本語のうたの範疇のうちだ。ありふれた、といえばこれほどありふれたものもない。どちらかというと歌詞が先に出てきて、楽曲はそれに合わせる形で生まれたように聞える。どれもうたわれている詞にどんぴしゃだ。とりわけあたしのお気に入りは〈眠れぬ夜のかたつむり〉。力の抜けたこのアルバムの中でも、飛び抜けて力が抜けている。

 こうしたうたを、二人はほとんどがギターと、せいぜいがピアニカの伴奏だけのシンプルな組立てでうたう。ドラム・キットを使わず、パーカッションをめだたないように、要所をはずさず、アクセントをつけて使う。〈おはよう〉の手拍子。〈眠れぬ夜〉の終り近く「あくびをすると」で入る鉦。すると、楽曲は立体的に立ち上がってくる。シンプルだが一つひとつのディテールが綿密に練りこまれている。聴きこんでゆけばゆくほど、複雑な絡みが聞えてくる。聴くたびに発見がある。つい先日も、〈眠れぬ夜のかたつむり〉の間奏のギターの後ろでカラカラカラと金属の打楽器を鳴らしていることに初めて気がついた。

 唄も巧いが、楽器の技倆も確かだ。とりわけ難しいことをやっているようにもみえないが、シンプルなことをみごとにこなす。〈うろこ雲〉のピアニカ・ソロ。〈つらら〉コーダの口笛。〈上司想いの部下のうた〉のギター。ギターは時に電気も通し、多彩な奏法を聴かせるが、どれも適切的確。派手なことは何もやらないが、相当に巧い部類だ。そして〈あかまつさん〉のイントロのギターはあたしにはひどく郷愁を起こさせる。こういうギターの響きに誘われて、音楽の深みに惹きこまれていったのだ。

 加えてやたらに録音がいい。練りこまれたディテールが隅々まできちんととらえられている。システムの質が上がってくると、そうしたディテールがあらためて姿を現わす。録音がいいことが何回も聴く要因の一つではある。何か新しい機材を手に入れたり、エージングが進んで音が良くなったりしてくると、それで《あかまつさん》を聴いてみたくなる。そして聴きだせば、最後まで聴いてしまう。

 ことさらに録音がいいからと薦められた、いわゆるオーディオファイル向けのリリースには、録音は良いかもしれないが、肝心の音楽がさっぱり面白くないものが多い。そういう中ではミッキー・ハートの《Dafos》やブラジルの Jose Neto の《MOUNTAINS AND THE SEA》は音楽もすばらしく、録音も優秀な例外だが、あたしとしてはむしろ音楽が面白いものがたまたま録音も良いのが理想だ。Lena Willemark & Ale Moller のECM盤や英珠の《Cinema》はその代表だが、《あかまつさん》もそういう音楽録音共に優秀なものの一つではある。最近は《tricolorBIGBAND》やさいとうともこさんのソロなど、音楽も録音もすばらしいものが増えているのは嬉しい。ついでに言えば、アイルランドの録音はだいたいにおいて水準以上だし、ダブリンは Windmill Lane Studio を根城にする Brian Masterson の録音はどれも優秀だ。

 それにしても、タイトル曲にうたわれる人も、数は多くないかもしれないが、どこの集団、場所にも一人はいるはずだ。その皆が皆、あかまつさんのように、少なくとも一人は好んでつきあってくれる相手がいるとは限るまい。むしろ、邪魔者扱いされたり、あるいは差別の対象にされたりすることもあろう。チョコレートの虫ではなく、本物の虫をロッカーに入れられることの方が多そうだ。そしてそれはそのまま、この国の表象にもなる。あかまつさんという名には赤塚の『おそ松くん』の谺も響いているかもしれない。あそこには出てこないこの名前を選んだのだろうか。

 この歌の語り手もまたあかまつさんの同類とされている。そのあかまつさんが急にいなくなる。そのやるせなさ、これからどうすればいいのかという不安が、あかまつさんと繰り返し呼びかけるコーラスに響く。ユーモアにくるんで悲痛な想いを唄うことでかろうじて自分を支える。そのコーラスに声を合わせてしまうのは、これを聴いている自分もまた、あかまつさんであるとわかっているからだ。

 ラミ犬はソウル・フラワー・ユニオンのサポート・サイトを主宰していた。チェルシーズはつい先日、台風直撃の中、10周年記念ライヴを無事やり了せたようだ。まりりんが東京に転居とのことで、ひょっとするとこちらでチェルシーズのライヴを見られるかもしれない。(ゆ)


[Musicians]
まりりん: vocals, pianica, toy piano, tin whistle, percussions
ラミ犬: vocals, guitar, bass, ukulele, flute, pandeiro, percussions

Recorded, Mixed & Mastered by 西沢和弥(のんき楽園

[Tracks]
01. バナナの木 02:47
02. ひるねのにおい 04:24
03. おはよう(また夏が来たみたい) 03:22
04. 眠れぬ夜のかたつむり 06:11
05. うろこ雲 03:01
06. つらら 03:27
07. 上司想いの部下のうた 03:49
08. ぐるぐる 03:37
09. あかまつさん 05:32

 ギターという楽器は有無を言わさず引きこむところがある。ルーツ・ミュージックを聴くようになって、フィドルとかパイプとか、いろいろな楽器の魅力を知っても、20世紀後半に青春を過ごしたあたしのような人間には、ギター、それもアコースティック・ギターは特別の存在だ。そもそもアイルランドやスコットランドの音楽に惹かれていったのも、ギターの音に誘われてのことだった。スコットランドのディック・ゴーハン、イングランドのニック・ジョーンズ、アイルランドのクリスティ・ムーア。ペンタングルは初めに聴いていたけれど、本当にいいと思えるようになるには時間がかかった。わかってしまえば、やはり最高ではある。

 ギターはまたリズムとメロディを両方できるし、同時に演奏できる。主役にも脇役にも、まったくのサポートにもなれる。比較的習得が容易で、1台でこういうことができる楽器は他にはほとんどない。20世紀後半にギターが普及したのには、この特徴が一役買っているだろう。昨日は弦を弾くだけでなく、ボディを叩いて音をだす奏法も使われた。叩く場所と叩き方によって、かなり多彩な音を出す。

 福江さんはどちらかというとカッティング主体のリズム・ギターの奏者というイメージだったのだが、昨日はソロ・ファースト・リリースを記念してのライヴでもあるからか、実に多彩な奏法を駆使して、初めて正体を顕した。特徴的なのはハーモニクスとボディを打楽器にする手法だが、右手でボディを叩きながら、左手で弦を弾いてメロディを奏でたり、右手の指の爪側を叩きつけたり、ネックの上側に左手を回して弦を押えたり、まあ、それはいろいろやる。もちろん、そういうことをやる、披露するのが目的ではなくて、それらはあくまでも手段だ。ただ、福江さんの手は大きく、指は長く、見ていてもなかなか面白い。

 曲はオリジナルで、ソロに収めたものが中心。どれも佳曲で、面白い。もともとはパンクやグランジが出発点だそうだが、曲は細部まで神経のゆきとどいた、繊細な要素が美しい。一方で、大らかで、開放的でもあり、全体の印象はゆったりしている。

 高橋さんはライヴでギターを弾くときはこれまで常に伴奏だったので、ギターを正面から弾くライヴは初めてだそうだ。福江さんと高橋さんは、最近、名古屋で偶然初めて顔を合わせたのだが、会った瞬間、波長が合うことを二人とも感じたという。相性の良さはなるほど尋常ではなく、冒頭、〈Music for Found Harmonium〉でたがいにリードをとり、リズムに回って、いきなり全開になる。

 高橋さんがリードを弾くのはあたしも初めて聴くので新鮮。福江さんに比べると、シャープで芯が太く、突破力がある。これが一番出たのは、前半の後の方で、リールをピッキングで弾いたとき。ソロでやっている高橋さんに、もうたまらんという調子で福江さんが合わせたのはまず最初のハイライト。メドレーにはせず、結局1曲を何度もリピートしたのだが、そうは思えないくらい、充実した演奏。

 それぞれのソロも良いのだが、二人での演奏は格別だ。今日の昼間、初めて合わせてみたというのは信じられない。アップテンポだけでなく、カトリオナ・マッケイの〈Swan LK243〉がすばらしい。スローなメロディがユニゾンになるのがそれはそれはカッコいい。

 ギター2本のライヴはどんなになるのだろうと、半分不安も無いといえば嘘になるが、実際のライヴは今年ベストと言ってもいいくらい。例によってベストはいくつかあるけれど、美味しい音楽を腹一杯聴かせてもらった、堪能したということでは、tricolor BIGBAND のものにも匹敵する。

 シンガーのひきたさんが来ていて、1曲唄う。〈Down by the Sally Garden〉のメロディに、福岡の笛吹きのおじいさんがつけた日本語の歌詞が良い。これまた、この日の昼に合わせてみたという、二人のギターをバックにした唄はもう一つのハイライト。間奏で、思わず自然に出るようにスキャットしたのもさらに良かった。

 ギターという楽器の魔法、相性の良い、それぞれに優れたミュージシャンの組合せという魔法、そして場所の魔法が合わさるとこういうことになる。あまりに良いので、今日は下北沢・レテである福江さんのライヴにも急遽行くことにする。今日の相手はアニーだそうで、これはまた楽しみ。今年はセーヴしようと思って、8月はあまりライヴを入れていないのだが、これだからライヴ通いはやめられない。(ゆ)


fluctuation
福江元太
gyedo music
2018-08-29


 最初の1曲を聴いたところで、不安は払拭された。初めてライヴを聴く、それもまだ若い人となれば、始まる前はこちらも期待と不安が半分ずつである。これなら大丈夫、今夜はいい夜になる。あとはたっぷり2時間、いい音楽にひたすら浸れた。

 音に確信がある。迷いが無い。というよりも雑念が無い。良い音楽と信じた曲をまっすぐに演奏する。そのことだけに没入している。これでいいんだろうかとか、こういう音楽を自分がやることの意義とか、ミスったらイヤだなとか、あるいは内心ではそういうことも考えているのかもしれないが、音にはカケラも出てこない。今、できることをすべてやる。全身全霊をこめて、と言うには、しかし肩に力が入っていない。楽器を始めて3年半とのことで、確かにまだ熟していないところは散見されるけれど、そういうことが気にならない。聴いていて気持ちがいい。それがアイリッシュ・ミュージックの性格であることもあるだろうが、やはりご本人の性格と、そして良い音楽にすなおに感応し、増幅できる能力が大きいのだろう。音楽を演ることの原点を摑んでいる。

 レパートリィも広い。アイリッシュ・ミュージックを始めてそれほど経っていない人たちの演奏は時に有名曲のオンパレードになりがちだが、あたしにとっては新鮮で、しかも良い曲が次々に出てくる。あまり知られていない曲と有名曲の組合せもうまい。どちらかというとジグがお好きなようだが、ホーンパイプもちゃんと聞かせる。ホーンパイプは各種ダンス・チューンの中で最もアイリッシュらしいもので、これがちゃんと演奏できればアイリッシュ・ミュージックのビートのキモを身につけていると言えるとあたしは思う。1曲、リアム・オ・フリンのエミュレートとて演ったスロー・エアも良かった。

 この時だけ、ドローンを入れ、レギュレイターも使う。スロー・エアからそのままギターが入って、ホーンパイプにつなげたのがハイライト。ギターが入るとドローンを切るのは見識だ。

 ラストやアンコールでは音がいささか乱れたが、後で訊くとリードが保たなかったそうだ。猛暑の一夜に狭い店内に30人以上詰めかけてぱんぱんになっていれば、いくらエアコンをフル回転させ、扇風機をつけても、湿度の高さは半端ではなく、もともと湿度に弱いリードはそりゃ参ってしまうだろう。

 確信に満ちた音では久保さんも同じで、豊田さんの時とはがらりと変えて、余計なことは一切せず、シュアにカッティングに徹している。もっとも、完全に背中がこちらに向いていて、完全生音なので、細かいことは聞えていなかったではあろう。

 久保さんは9月初旬にアイルランドに出発され、それまでは豊田さんとのツアーとのことで、当分ライヴを見られないのは残念だが、来年帰ってきた時が楽しみだ。

 水上さんは10/27にやはりさんさき坂カフェでのライヴがあるそうだ。レディチーフタンズにも、中原さんの代役で参加することもあるそうなので、そちらも期待する。それにしても、野口、中原に続いて、イリン・パイプの有望株が現われたのは、まことに嬉しい。水上さんの楽器は中津井パイプで、氏の存在はやはり大きい。

 予約もなし、投げ銭制で、客席がらがらでのんびり見られるだろうとの予測は完全に外れた。後から後から人が入ってきて、ただでさえ狭い店内は立ち見が出ようかという勢い。お二人と何らかのつながりがある人たちなのだろうが、ほとんどは同年代らしい。中にはイリン・パイプはおろか、アイリッシュ・ミュージックも初めて、という人もいたようだ。音楽そっちのけで話しこんでいる人たちもいる。そういう人たちを集めてしまうのも、お二人の人徳であろう。

 いろいろな意味で励まされ、元気をもらい、いい具合に昂揚した気分で家路についた。空には半月と火星が並んでいる。(ゆ)

 滔々と音楽が流れでてくる。リアム・オブライエンの巨きな体に集められた音楽が、片方の腿の上に置かれた小さなコンサティーナから噴き出し、際限もなく、溢れつづける。音楽は空間を満たし、こちらを包みこみ、内側に入りこんでくる。耳からだけではない、全身の毛穴からも沁みこんでくる。音楽を聴くのではない。音楽に流されている。どこへ。わからない。わからないが、そんなことはもうどうでもよろしい。この流されているのがどこか、それもどうでもよろしい。眼を開けば、そこは夏の夕陽が右手のステンドグラスを照らしている教会だ。高い穹窿に向かって伸びる細長い窓に嵌めこまれたステンドグラス。正面には聖堂の形をしたオルガン。その前に人の姿。Tシャツ、短パンの巨体と、スーツにネクタイを締めた細身に見える影。そこから溢れる音楽が背の高い空間を、異郷に変えてゆく。異なる伝統が脈々と生き続ける異郷。その伝統は途方もなく巨きく、深く、果てなどあるとも思えない。オブライエンの体もそれに比べればけし粒でしかない、巨大で豊饒な伝統の厖大な水圧が、オブライエンという存在にかかって、その体の先端につけられた蛇口から、音楽となってあふれつづける。音楽は伝統を呼び出し、伝統は音楽を糧として空間を変え、変容した空間が圧力を増す。音楽と伝統がたがいに入れ替わりながら循環する。こちらはその循環に組みこまれ、体の中を音楽が流れつづける。音楽は次第にわが存在を満たしてゆき、自我は音楽に溶け込み、広がってゆく。

 伝統が人の形をとってそこにいる。その人の形からあふれてくる音楽は伝統そのものだ。たまたま音楽として世に顕現した伝統だ。

 これに近い体験をしたのは、ジョンジョンフェスティバルに同行してカナダのケルティック・カラーズに行った時だった。地元の若い女性のフィドラーが次から次へと曲を繰り出し、延々と続けていった、あの姿だ。

 その伝統は、少数のエリートが伝えてきた、あるいは伝えているものではない。無数の庶民が、それぞれにふさわしく参加し、歓びとして味わい、その中に没頭してくることで伝わってきたものだ。伝えようとして伝わるものではなく、伝統自身、音楽自身によって伝わってきた。それを歓びとする人間が次々に現れることで結果として伝わってきた。伝統とは本来そういうものだ。

 選ばれた人間が担い、伝える伝統もあるだろうが、それとても、担う人間が担うことを歓びとし、楽しまなければ、生きつづけることはできない。

 リアム・オブライエンも、ことコンサティーナに関しては文字通りの巨人と呼んでかまうまい。この楽器の名手は他にもいるし、楽器そのものの在り方を根底から変えるような活動をしている人もいる。とはいうものの、コンサティーナ、ここではアングロ・コンサティーナ演奏の中軸に、おそらくオブライエンは位置しようとしている。

 高橋さんによれば、オブライエンの出身地のミルタウン・モルベイは、装飾音を多用し、踊るためというよりは、聴くための演奏を好むという。その装飾音は指の動きと蛇腹を自在に細かく操ることで生んでいるらしい。体のサイズとの対比から錯覚しているかもしれないが、楽器を奏でているというよりも、体の一部を動かしているようでもある。

 はっと我に返ったのは Planxty Davies だった。高橋さんがギターでメロディを唄っている。滔々と流れる大河の面を、燕が一羽飛びぬけて、あとに澄みわたった帯を残したようだった。

 いつになく、ミュージシャンたちがお客さんとして来ていた。長尾、榎本、長濱、北川の諸氏はわかったが、楽器を持っていた人も数人いたし、音楽をやっている雰囲気をまとった人が多かった。これも高橋さんの人徳だろうか。かれのためならば、一肌脱ごうという気にさせるものを、かれは持っているようにも思える。一見不器用そうではあるし、MCも滑らかとはいえず、的をはずしていると聞える。しかしその裏、1枚皮をめくってみると、表面とは裏腹に、人を動かす、あるいは人が思わず動いてしまうような力の源が備わっているようだ。先日の tricolor BIGBAND でも、一人だけサングラスをかけて、浮いていると見えるのだが、その浮き具合が妙に全体の中にはまっていた。

 ギターの師匠は城田じゅんじさんとのことだが、演奏のスタイルは対極的に聞える。目指すところは同じでも、そこへ向かう出発点が対極にあるようだ。当然、アプローチも対照的になる。福江さんとのデュオ、マイキィ・オゥシェイとのデュオのライヴで、もう少しじっくり聴いてみたい。

 日曜日の哺下、アイルランドの音楽伝統の分厚さと豊饒にたっぷりと浸れて、その豊饒さを分け与えられた気分。もちろんアイルランドにこの伝統が生きているのは、それだけの犠牲を払っているからではある。われわれはその犠牲無しに、豊饒さの分け前をもらっている。とすれば、いただいたもののおすそ分けをどんどんとするのが筋であろう。

 まずは、リアム・オブライエン、高橋さんと関係者の方々、そして会場を提供された教会とその関係者の方々に感謝する。(ゆ)

 アイリッシュ・ミュージックが音楽によるおしゃべりなら、無伴奏ソロ演奏や歌唱は何だろう。

 独り言ではないし、独白でもない。勝手なことをわめき散らすには程遠い。こういう場合よく持ち出される、自分との対話というのとも違うように思う。

 というのも、アイリッシュ・ミュージックの無伴奏の歌唱や演奏では、演奏している、うたっている当人の存在が前面に出てこないのだ。音を出しているのは確かにひとりの個人だが、その人の個性をひしひしと感じる、のとは違う。これが他のジャンルの無伴奏では事情がまた違ってくる。

 クラシックは作曲家の専制が強いが、こと無伴奏になると演奏者の存在が前面に出てくる。この場合には作曲家と演奏者の一対一の対話になる。もともとクラシックでは無伴奏の演奏は珍しい部類だし、無伴奏歌唱はまず無い。このことはそれ自体、観察考察に値する面白い現象ではあるが、それはまた別の機会に讓る。

 ジャズでも無伴奏は少ないが、これはまた演奏者の個性、存在がすべての世界、くだけた言い方をすれば、「俺が、俺が」の世界だから、そこに響いているのは、演奏者の人間そのものだ。

 ポップス、ロックなどでアコギ一本というのはほとんど一つのジャンルといってもいいぐらいだが、これもジャズに準ずるし、他の楽器、ベースやドラムスの無伴奏ソロは、演奏の一部ではあっても、それで1本のライヴをする、1枚アルバムを作るというのは聞いたことがない。

 伝統音楽の世界では、アイリッシュに限らず無伴奏は、そこらじゅうにあるとは言えないまでも、ごく普通に行われる。アイリッシュやスコティッシュのバグパイプやハープは無伴奏が標準だ。伝統音楽のシンガーたるもの、無伴奏でうたって聞かせなければ一人前とは言われない。

 伝統音楽は、クラシックやジャズやロックやポップスのような商品として売るための音楽ではなく、本来はコミュニティの活性剤、潤滑剤、生活必需品であり、おしゃべりの一部、井戸端会議、床屋の政談の類だ。ここは肝心のところだが、アイリッシュ・ミュージックは芸術やグルメではない。日用品、生活雑貨であって、日々の暮しに欠かせないものなのだ。暮しに欠かせないからこそ、伝統として受け継がれてきている。

 もちろん、それに限られるわけではないし、そうでなければならないと誰かが決めているわけではない。もっと自然発生的で、おおいに民主的に動く。ハイランド・パイプのピブロックやアイリッシュのシャン・ノース歌唱のように、芸術として極められるものもある。それに、もともとの伝統継承の場から離れたところでは、また在り方が変わりもする。

 とはいえ、伝統音楽では無伴奏が尋常のことであるのは、やはり生活の場でおこなわれてきたからだろう。生活しながら音楽をするとなると、いつも誰かが傍にいて伴奏をつけてくれるわけにはいかない。

 となると伝統音楽、ここではもう一度アイリッシュ・ミュージックにもどってみれば、無伴奏の演奏、歌唱には演奏者、シンガーの個性というよりも、生活、暮しぶりが顕れる。つまりは生活しているコミュニティ、社会、そして伝統との関わりが出てくる。

 伝統は、なにもどこかの博物館に後生大事に保存されているわけではなく、〇〇保存会が守っているものでもなく、われわれのカラダとココロに刷りこまれている。したがって日々新たな要素が加わり、生生流転している。つまりは伝統音楽の無伴奏歌唱や演奏は、今というその時点での伝統が、演奏者やシンガーを通じて現れている。それが充実した音楽であるのは、演奏者やシンガーの暮しが充実し、その属するコミュニティが生き生きとしているところから生まれる。

 伝統はまた時空をも超えることができる。ここがまた音楽の玄妙なところでもあるが、異なる伝統から生まれている音楽を人は演奏し、うたうことができる。ということは、自分が生まれ育ったわけではない伝統からの音楽の出口になりうる。あるいはこれをして、異なる伝統に憑依されると言ってもいいかもしれない。

 さいとうさんや中村さんの無伴奏の演奏を聴き、見ていると、そのことを実感する。元来まるで縁の無いはずの伝統が、ここに憑依して、音楽として流れでてくる。まことに不思議なことが、目の前で起きている。それは不思議であると同時にまるであたりまえとも感じられる。他ではちょっと味わえない感覚だ。

 録音で聴いて感じたことが、生演奏でも確認できる。あの感覚は錯覚でも勘違いでもなかったと確認できる。これもまた嬉しい。

 そしてその伝統は聴いているこちらにも乗り移ってくるようでもある。アイリッシュ・ミュージックはそのように作用する。演奏される音楽を聴いているというよりも、自分の中にある音楽が目覚め、湧いてくるように感じる。少なくとも、良い演奏を聴くとそう感じる。あるいはそう感じる演奏が良い演奏だと思う。

 この日はまず中村さんがワン・ステージ、ギターとそしてうたも交えて演奏し、後半、さいとうさんが、先日出た《Re:start》を再現する形で演奏した。せっかく二人いるのだからと、最後に二人で演奏したのがまた良かった。互いの演奏が刺戟しあい、反響し、渦巻がより大きく、速く、タイトになってゆく。終ってから、一人でやっていると二人で演りたくなり、二人で演ると一人で演ることがどういうことかまた見えてくると二人が口をそろえていたのも印象的だ。

 あれから二人のソロの録音を繰り返し聴いている。聴いていると心がおちつく。荒らだち騒いでいても鎮まり、澄んでくる。無伴奏ソロはそのようにも作用する。(ゆ)


guitarscape
Hirofumi Nakamura 中村大史
single tempo / TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-26



Re:start
さいとう ともこ
Chicola Music Laboratry
2018-03-04


 アコーディオンとヴォーカルの服部阿裕未さんが、演りたい人を集めてトリオを組むシリーズの1回目。初回のお相手は高梨菖子さんと久保慧祐さん。

 ミュージシャンにもいろいろなタイプがあって、演奏を好むことでは同じでも、演奏自体を好む人と自分が出す音を好む人がいる。と服部さんの演奏を見聞して思う。つまり、こういう曲を演りたいというよりも、こういう音を出したいので、好みの音を出せる楽曲と演奏スタイルを選ぶという人だ。この二つは截然と別れるわけではむろんなく、音楽家は皆どちらの要素も持っていて、どちらかが濃いわけだ。TPOでそれが出る人もいる。

 とはいえ、ある楽器を選びとるのは、やはりその楽器の音、音色、テクスチャ、音の運びが好きだからではないか。

 服部さんはたまたまその好みが比較的はっきり出るタイプなのだろう。たとえばその好きな音を延ばしたり、アクセントをつけたりするし、またそういう音型がフレーズが出てくる曲を選んでいるようにもみえる。たとえば前半のポルカのセットで、3曲目が高梨さんの〈柏餅〉なのだが、これだけ独立して選んだのは、ああ、この音が出したかったのだな、とあたしは納得した。高梨さんの曲はフィドルや笛で聴くことが多く、アコーディオンで聴くのはとても新鮮だ。ちなみにこのセットの一曲目はAパートのシンコペーションが面白くて、これも出したい音に聞える。好きな音を出す歓びがあふれる。

 好みの音を出したいというのは、その音を聴きたいことでもあって、だから無闇に急がない。リールでもゆったりしたテンポで、自分たちの演奏にじっくりと耳を傾けている感じだ。聴いていると胸のうちがおちついてくる。後半のマーチではそれがうまくはまっていて、この方面のハイライト。

 服部さんのもう一つの顔はこういううたをうたいたい、声を出したい、といううたい手だ。この方面ではなんといっても高梨さんの〈春を待つ〉。高梨さんの東京音大作曲科の卒業製作用の曲だそうだが、これをうたいたいといううたい手の気持ちが、もともとの佳曲をさらに良くする。歌詞を書くのが気恥ずかしいと高梨さんはいうが、ならば作詞は他に頼んでも、もっとうたを作って欲しい。それを服部さんがうたって一枚アルバムを作ってもいいのではないか。

 高梨さんは例によって、ある時はユニゾンに合わせ、ある時は裏メロをつけ、ある時はハーモニーを作って、アコーディオンを盛りたてる。高梨さんのホィッスルとアコーディオンの組合せも珍しく、その音の動きがよくわかるのが愉しい。これがコンサティーナではやはり違う。サイズも違うが、コンサティーナの音はもともと繊細だ。音自体はシャープではあるが、細い。服部さんはリードのピッチをわずかにずらして、倍音を響かせるようにしているせいもあるだろうが、音の存在感がどっしりとある。アコーディオンとホィッスルだけの組合せというのは、あまり聴いた覚えがないが、おたがいの音が際立っていいものだ。

 この二人を見事に支えていたのが久保さんのギター。前半ではギターをミュージシャンの方に向けていて、アルジーナに注意されたのか、後半は客側に向けるようにしていた。まあ、ライヴとしてはその方がいいだろうが、ギターは客に聞えなくてもかまわないものではある。というのに語弊があれば、ギターは客よりもミュージシャンに向けて演奏しているのだ。デニス・カヒルのライヴを見ると、かれは客のことなぞ眼中にない。そのギターはひたすらマーティン・ヘイズのために弾かれている。

 クボッティと呼ばれるそうだが、リールのセットでは冒頭、単音弾きでリールを弾きこなして見事だった。何人か、ワークショップなどで学んだギタリストはいるようだが、基本的に独学だそうで、そうだとすると、豊田さんの言うとおり、天才と呼んでおかしくはない。豊田さんのソロではデニス・カヒル顔負けのギターを弾いてもいて、まことに末頼もしい。今は John Blake がマイブームの由。04/08の豊田さんのソロのアルバム・リリース・ライヴがたのしみではある。

 ライヴ当日になってようやくトリオとしての形ができてきた、と服部さんは言っていたが、アイリッシュ・ミュージックは音楽そのものよりも、コミュニケーションつまりおしゃべりが一番の目的だから、それもまたアイリッシュ的ではないか。隅々まできっちりと作るのではなく、基本のメロディとして提示して、たとえばきゃめるの仲間が、思いもよらないコード進行をつけたり、ハーモニーを編み出したりするのが何よりも愉しいと高梨さんも言う。音楽で楽器でおしゃべりしながら、ああでもないこうでもないといろいろ試し、やってみて、だめなものは捨て、うまくゆくものを拾ってゆく。そういうプロセスが透けて見えるのもアイリッシュの魅力だし、この日のライヴには、そうして出来上がってゆくときの愉しさが現れていた。完成した、非のうちどころのない演奏を聴くのも楽しいが、綱渡りしながら音楽を作ってゆくところが見えるのもまた楽しからずや。

 トリオ・シリーズの次回はまだ未定だそうだが、季節が変わる頃に、またホメリでということなので、たのしみに待ちましょう。音楽が愉しいと、ビールも旨い。(ゆ)

 デイヴ・フリンはこのツアーの告知で初めて聞く名前で、まったく何の予備知識もなく、ライヴにでかけた。聞けば5年前2013年にやはり小松さんの手引きで初来日しているそうな。

 結論から言えば、すばらしいミュージシャンに出逢えたことを感謝する。この人は確実に新しい。本人はポール・ブレディ&アンディ・アーヴァインとかボシィ・バンドを聴いて伝統音楽への興味を掻きたてられたと言うが、やはり世代は着実に代わっている。もちろん、あの世代とは天の運も地の時も違う。あの時代には、若い世代が伝統音楽をやることそのものが大変なことだった。伝統音楽はアイルランドにあっても、「田舎のジジババ」のやるものだったのだ。都会の若者たちにとっては1にも2にもロックンロールだった。それをひっくり返したのがクリスティ・ムーアであり、ドーナル・ラニィであり、ミホール・オ・ドーナルであり、あるいはアレック・フィンであった。

 しかし時代は変わって、このデイヴ・フリンのように、伝統音楽からクラシックからジャズからロックから、興味のあるものは何でもやってしまう、そしてそうしたジャンルの垣根を溶かしてしまって、どれにとっても新しいものを生み出している人たちが現れている。Padraig Rynne や Jiggy などもそうなのだろう。キーラはその先駆とも言えるかもしれない。そして、あちらではあたしなどが知らない、優れた人たちが、おそらく陸続と現れているのだ、きっと。

 フリンはまずギタリストとして出色だ。Wikipedia などの記事を見ると、エレキ・ギターでロックを弾くことから出発しているようだが、それにしては細かいニュアンスに満ちた、繊細なスタイルだ。メロディとリズムを同時に弾くところなどは、リチャード・トンプソンにも通じる。トニー・マクマナスよりはジョン・レンボーンだろう。ピックは使わず、コード・ストロークは中指以降の3本で上から叩くようにする。

 小松さんによればチューニングも特殊で、上4本をフィドルやマンドリンと同じにしているという。ダンス・チューンのメロディを弾くとき、うたの伴奏をするとき、小松さんのフィドルの相手をするとき、それぞれにチューニングを変えていた。

 ギターでダンス・チューンのメロディを演奏するのも、アイルランドでは少なくともあたしは初めてだ。ブズーキやマンドリンでメロディを演奏する人たちはいるが、ギターでは皆無というのがこれまでの認識だった。アイルランド以外ではトニー・マクマナスがいるし、ディック・ゴーハンもやるし、マーティン・シンプソン、ピエール・ベンスーザン、Gille de Bigot、Dar Ar Bras、Colin Reid などなど多彩な人たちがいるが、アイルランドではいなかった。Sarah McQuaid はアイルランド録音しているが、もとはアメリカ人だ。

 どちらかというと遅めのテンポ、装飾音を忠実につけてゆくよりは、ベースやコードも付けながら、全体のイメージを重視する。音量は大きくはないが、明瞭で、メリハリがある。どこかジャズの、それも80年代以降のギタリストたち、ジョン・スコフィールドとか、最近のカート・ローゼンウィンケルあたりに通じるところもある。ジャズのような即興をやるわけではないが、音楽から受ける印象が似ている。クールで控え目でクリア、一方で注ぎこまれているエネルギーの量、そこで燃えているものの大きさはハンパではない。

 2曲ほど披露したうたもいい。伝統音楽を直接ベースにしているものではないが、アイルランドからしか出てこないものでもあると聞える。ジミィ・マカーシィやノエル・ブラジルたちともまた違う。やはりもう少しジャズ寄りだ。

 全体に押し出しではなく、引っ込んで、聴く者の集中を誘う。

 同じことは後半、小松さんのフィドルに合わせたときにも言えた。相手を煽ることはしないが、ただ着実に土台を支えるというのでもない。音量は小さく、客席に聞かせるよりは、相手のプレーヤーに向かって演奏している。当然といえば当然だが、人に聴かせるときには、少なくとも並んで、ともに聴かせようとするのが普通だ。デニス・カヒルですら、ひたすらマーティン・ヘイズに注目しているものの、全く聴衆を無視しているわけでもない。周りにどう聞えるかは意識している。フリンも聴衆を無視するところはないが、かれにとって聴衆はいわば意識の外にあるのだろう。

 そしてその効果、相手のプレーヤーに対する効果ははっきりしていて、小松さんのフィドルは着実に熱を発してくる。もともとかれのフィドルの響きがあたしは大好きなのだが、独特のふくらみを孕んだその響きが一層艷やかになる。エロティックと言いたいくらいだ。いやらしいところはまったく無い、フィドルという楽器に可能なかぎりなまめかしい響きが引き出されてくる。

 年末からずっとグレイトフル・デッドのライヴ音源をひたすら聴きつづける毎日で、一昨日、ようやくそれが一段落した直後だったから、この二人の生の音はことさらに胸に染みる。こんなよい響きで聴けるのは、やはり生の、ライヴの場での特権だ。

 今年のライヴ初めは、かくてまことにめでたい一夜となった。デイヴ、小松さん、そしてグレインの加藤さんに心から感謝する。ごちそうさまでした。

 小松さんとは3月11日、下北沢の B&B で、アイリッシュ・フィドルの講座を予定している。本に囲まれたあの空間で、小松さんのフィドルの響きを聴くだけでも、足を運ばれる価値はあるでしょう。(ゆ)

 このタイトルは大袈裟なようだが、嘘いつわりのない真正直なものだ。聴けばそれがわかる。うたうことのよろこび。うたうことができることのよろこび。アルバムを作ることができるよろこび。こうしてうたをシェアできる、ともに生きることができるよろこび。そのよろこびはほとんど限りない。そして、今、このうたが聴けることを、河村さんがこのアルバムを作ってくれたことを、あたしは限りなくよろこぶ。

 そのよろこびには、しかし、わずかだがやりきれなさも混じる。この声を、このうたを、ソウル・フラワー・ユニオンの中で聴きたかった。

 河村さんがシンガーとして尋常ならざるものを持っていることを初めて知ったのは、5月にキタカラのライヴを見た時だ。その時も思ったことだが、こうして1枚、アルバムを聴いて、そのヴォーカルにじっくりとひたってみると、デッドのように、ユニオンも2枚看板のヴォーカルでやれたのではないかとあらためて思う。デッドほど対等に並び立つのではなくとも、一晩で2、3曲でも河村さんがうたうことで、また別の世界が開けた可能性は大いにあると思う。

 もっとも、あの当時、これだけのうたを河村さんがうたえたかどうか、それはわからない。バンドを離れて以来の体験があって初めてこのうたが可能になったことはありえる。最近ボブ・ウィアのソロ・ライヴ映像を見て感服したが、デッドが現役の時にこんな風にはうたえなかったはずだ。

 まず河村さんの声がいい。張りのあるテナーで、かすかに甘みがある。よりかかったところがない、品の良い甘みだ。こういう甘みは、ロックやポップスのすぐれたシンガーの声には共通している。ヴァン・モリソンやロバート・プラントにもある。対照的に中川さんの声には甘みはない。それはロック・シンガーというよりフォーク・シンガーの声だ。リチャード・マニュエルではなく、ボブ・ディランだ。こういうことはバンドの中だけで聴いているときにはわかりにくい。ソロとしてうたうのを聴くとよくわかる。河村さんの声は人なつこい声でもあって、かすかな巻き舌がその声を、うたを一層親しいものにする。

 そして河村さんはうたがうまい。全部で72分という、CD限界まで詰めこんだこのアルバムの根幹をなすうた、開幕冒頭の〈渚から〉、〈ローリングビーンズワルツ〉、〈フラクタル〉、タイトル曲、ボーナス・トラックを別として掉尾を飾る〈やわらかな時〉といった曲は、どれもスローなバラードというのは、また別の意味がありそうだが、こうしたうたを、悠揚せまらず、歌詞を明瞭に、安定感をもってうたう。スローなうたで、伸ばさない音がきっちりと支えられるのは実に気持がいい。〈青天井のクラウン〉の二度目のコーラスで一部力を抜いてうたうのがたまらない。

 特に美声でもないし、強い印象で迫ってくる声ではないのだが、人なつこい甘みのある声とうたのうまさ、そして、とにかくうたうことが大好きなその様子が相俟って、聴くほどに深みを増し、また聴きたくなる。

 河村さんを入れて57人のミュージシャンが織りなす世界は多彩だ。ロックンロール、ブルーズ、レゲエ、ポップス、そしてスロー・バラード。入念に作りこんだ、シングル・ヒットしない方がおかしいと思える曲もあれば、自身のエレキ・ギターとアコーディオンだけでうたわれる、きらりと光る小品もある。とはいえ全体としては河村さんの作る曲はすぐれたポップスのセンスが筋を通している。そして時に[11]のように思わず迸りでてしまうこともあるが、いつもは慎重に隠されているユーモアの味。こうした感性もSFUを離れてから身につけたのだろうか。これだけ大勢の、それぞれに個性の強い人たちから持ち味を引き出し、その貢献を裁いて、質の高い音楽を組み上げた河村さんのプロデューサーとしての腕も大したものだ。録音が良いのも嬉しい。

 次はキタカラの録音になるだろうか。ここにもその先駆けと聞えるところもある。とはいえ、まずは、このアルバム、シャッフルではなく頭から通して聴ける、そう聴いて楽しいこのアルバムを何度も聴くことになるだろう。(ゆ)


ミュージシャン
河村博司
朝倉真司
Alan Patton
荒谷誠人
Azuma Hitomi
磯部舞子
伊丹英子
伊藤コーキ
伊藤大地
伊藤ヨタロウ
岩原智
うつみようこ
大久保由希
大熊ワタル
太田惠資
大槻さとみ
奥野真哉
オラン
鹿嶋静
勝山サオリ
我那覇美奈
熊谷太輔
熊坂路得子
クラッシー
小平智恵
小山卓治
佐藤五魚
信夫正彦
白崎映美
鈴木正敏
高木克
高木太郎
多田三洋
Tsunta
塚本晃
寺岡信芳
徳田健
中川敬
中田真由美
中村佳穂
ハシケン
はせがわかおり
福岡史朗
福島ビート幹夫
藤原マヒト
本夛マキ
みっち
茂木欣一
森信行
モーリー
矢野敏広
ユキへい
リクオ
ティプシプーカ
桃梨

トラック・リスト
01. 渚から 6:46
02. この雨に濡れながら 5:37
03. 青天井のクラウン 3:12
04. ワルイ夢 3:03
05. ローリングビーンズワルツ 6:36
06. フラクタル 6:17
07. 嵐に揺れて 5:00
08. あのコと部屋とギターと 4:43
09. あなた 3:00
10. 風に乗って 2:34
11. 愛のテーマ 3:36
12. よろこびの歌 6:59
13. ウチウのテーマ 2:05
14. やわらかな時:イントロダクション 0:46
15. やわらかな時 6:13
16. 満月の夕 5:49

Produced by 河村博司
Recorded @ ウチウスタジオ, 2017-06/09
Drums Recorded @ Orpheus Studio 小岩, 2017-06-26
@ Mannish Recording Studio, 2017-06-20, 22 & 07-14
@ Sound Lab Oiseau, 2017-07-19
@ Ginjin Studio,2017-07-26
Mastered by 木村健太郎 @ Kimuken Studio, 2017-09-11


よろこびの歌
河村博司
ウチウレコード
2017


 一番好きなうたはアンコールで出た。〈寝顔みせて〉は、なんとか親になることをかろうじてはたしたあたしのような人間にはなんともたまらない名曲だ。子どもというものはとにかく眠ってくれない。目をつむって、すやすや寝息をたてているのを見て、そおっと、ほんとうにそおっと離れようとする。その瞬間、ぱちっと目を開くのだ。いいかげんにねろおっとどなりつけたそうになったことが、何度あったことか。

 中川さんもそういう気になったことが何度もあったにちがいない。それを、こんな美しいイメージにうたいこめるのは、アーティストとしての才能と精進の賜物だろう。それまでにも歌つくりとしての中川さんのエラいことは十分認めていたつもりだったが、初めてこのうたをデモ録音で聴いたときには、尊敬ととそして感謝の念がふつふつと湧いてきたものだ。

 以来、このうたは何度聴いたかわからないが、考えてみると、生で、ライヴで聴いたのは初めてだった。これを聴けただけでも、出かけてきた甲斐があった。

 会場に入ってまず目についたのは、がらんとしたステージだった。奥の壁際にギターが1本。小さな丸いサイド・テーブルにタオルと水。マイクが1本。譜面台。それだけ。簡素なステージは見慣れているはずだが、なぜか、そのミニマルな佇いがひどく雄弁に見えた。演奏中も照明などは何もしない。単純にアーティストを照らしている。ギターを抱えた人がそこにいて、うたっているだけだ。

 まあ、この人はしゃべりもする。うたっているより、おしゃべりしている時間の方が長いかもしれない。数日前、徳島でのライヴの際、腰を痛め、一時は歩くこともできなかったそうだが、それをネタにして笑いをとる。ギターをかき鳴らしても、声をだしても、腰に響くらしい。もうつらくてつらくて、と言いながら、実際、時おり、腰を伸ばしたりしながら、しかし演奏はそれによって影響があるとも見えない。いや、むしろ、腰にトラブルを抱えていることで、演奏が良くなるという影響があるようにも思える。

 うたい、しゃべり、一部だけで1時間半。「いつ、終るんだろうねえ」と言いながら、腰がたいへんと言いながら、立ったままだ。〈満月の夕〉で長い一部はしめくくり。大震災を体験したわけではないのに、このうたは冷静には聴けない。ユニオンでもモノノケでも、あるいは山口洋さんや河村博司さんでも、ライヴでも何度も聴いているが、どうしても他の曲と同じようには聴けない。ひとりでうたううたい手に、やさほーやと声を合わせてしまう。このうたを、ほんとうに焚火を囲みながら合唱する日の来ないことを祈る一方で、満月を見上げながら、当事者としてこのうたをうたうことへのうらやましさもどこかにある。

 二部で最も痛切に響いたのは〈デイドリーム・ビリーバー〉。モンキーズの忌野清志郎によるカヴァーの、そのまたカヴァーだが、もちろん中川さん自身のうたになっている。清志郎はこのうたを亡くなった二人の母、生みの母と育ての母の二人に捧げているが、中川さんがうたうと、「クイーン」は必ずしも母親とかかぎらなくなる。自分を支えてくれている誰か、自分では意識せず、しかしその人がいなければ「夢を見つづける」ことができない存在ならば、誰でもあてはまる。女性とも限るまい。そういう存在への感謝は、できるうちにしておくべきなのだ。清志郎も、おそらく猛烈な後悔の念にさいなまれ、それを解決するためにこのうたをうたったのではないか。中川さんのうたはそういうところまで響いてくる。

 腰がつらかったと言いながら、アンコールはなんと6曲もやる。〈平和に生きる権利〉からの4曲はカヴァーをほとんど途切れずにやる。ジェリィ・ガルシアと同じく、中川さんもまた、演奏をやめたくないとみえる。なんのかんのと言いながら、楽しそうだ。ソロでやることの楽しさを満喫しているようである。バンドでしかできないことはたくさんあるだろう。たとえばの話、東チモールやパレスチナで演奏できたのも、バンドとしての活動があったからだろう。一方で、ソロは自由だ。ライヴをやるにも、カヴァーをするにも、やろうと思うだけでできる。延々と終らずに演奏しつづけることもできる。まあ、グレイトフル・デッドはバンドとして延々と演奏しつづけたが、やはりあれは例外だ。

 見る方からすれば、ソロではうたの生地が顕わになる。一つひとつのうたのキモが眼の前に置かれて、ああこのうたはこういうことだったのか、と賦におちる。それにはMCも助けになる。〈豊饒なる闇〉の印象的な一行「風に散らない花になりたい」の背後の意味。〈あばよ青春の光〉の「光」とは何をさすのか。それによって、あらためてそのうたがより深くカラダに入ってくる。

 そしてライヴでのハプニング。腰の故障は本人にはたいへんなことだが、客からすれば、そういう状態のアーティストの演奏を聴けることは千載一遇のチャンスだ。トラブルによって演奏が良くなることだけではい、悪くなることもまた、ライヴの愉しみだ。愉しみというと語弊があるかもしれないが、一生に一度の体験はやはり貴重だ。ライヴというのは、いつも必ず素晴しい音楽を体験できる、安心安全なものなどでは無い。何が起きるかわからない。演る方にも、聴く方にも、リスクがある。だからライヴは行く価値がある。

 すべてがうまくいって、この世のものとも思えない体験ができることもある。ライヴに行くときはいつもそれを期待してもいる。中川さんも、バンドではそういうライヴができたことが何度かあり、ソロでもそれを目指していると言う。とはいえ、それはひょっとすると、万全の状態ではできるものではないのかもしれない。どこかに不備を抱え、不足があり、故障があり、それを凌いでやるうちに、なにかの拍子にあらゆるものがかちりとはまる。演る人、聴く人の境界が消え、その場がひとつになる。普通はありえないことが起きる。むしろ、すべてが完璧というときには起きないのかもしれない。

 サムズアップはどこに坐ってもステージとの距離が近いのがいい。デヴィッド・リンドレーとか、トニー・マクマナスとか、あるいは先日のアンディ・アーヴァイン&ドーナル・ラニィとか、ソロやデュオ、せいぜいトリオぐらいまでの、それもアコースティックな音楽をここで聴くのは好きだ。中川さんも半年に一度はここでやっている。これまではめぐりあわせが悪くて、ソロを生で見るのは初めてだったが、これからは最優先で来るようにしよう、と思ったことだった。(ゆ)

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