クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:ギター

 滔々と音楽が流れでてくる。リアム・オブライエンの巨きな体に集められた音楽が、片方の腿の上に置かれた小さなコンサティーナから噴き出し、際限もなく、溢れつづける。音楽は空間を満たし、こちらを包みこみ、内側に入りこんでくる。耳からだけではない、全身の毛穴からも沁みこんでくる。音楽を聴くのではない。音楽に流されている。どこへ。わからない。わからないが、そんなことはもうどうでもよろしい。この流されているのがどこか、それもどうでもよろしい。眼を開けば、そこは夏の夕陽が右手のステンドグラスを照らしている教会だ。高い穹窿に向かって伸びる細長い窓に嵌めこまれたステンドグラス。正面には聖堂の形をしたオルガン。その前に人の姿。Tシャツ、短パンの巨体と、スーツにネクタイを締めた細身に見える影。そこから溢れる音楽が背の高い空間を、異郷に変えてゆく。異なる伝統が脈々と生き続ける異郷。その伝統は途方もなく巨きく、深く、果てなどあるとも思えない。オブライエンの体もそれに比べればけし粒でしかない、巨大で豊饒な伝統の厖大な水圧が、オブライエンという存在にかかって、その体の先端につけられた蛇口から、音楽となってあふれつづける。音楽は伝統を呼び出し、伝統は音楽を糧として空間を変え、変容した空間が圧力を増す。音楽と伝統がたがいに入れ替わりながら循環する。こちらはその循環に組みこまれ、体の中を音楽が流れつづける。音楽は次第にわが存在を満たしてゆき、自我は音楽に溶け込み、広がってゆく。

 伝統が人の形をとってそこにいる。その人の形からあふれてくる音楽は伝統そのものだ。たまたま音楽として世に顕現した伝統だ。

 これに近い体験をしたのは、ジョンジョンフェスティバルに同行してカナダのケルティック・カラーズに行った時だった。地元の若い女性のフィドラーが次から次へと曲を繰り出し、延々と続けていった、あの姿だ。

 その伝統は、少数のエリートが伝えてきた、あるいは伝えているものではない。無数の庶民が、それぞれにふさわしく参加し、歓びとして味わい、その中に没頭してくることで伝わってきたものだ。伝えようとして伝わるものではなく、伝統自身、音楽自身によって伝わってきた。それを歓びとする人間が次々に現れることで結果として伝わってきた。伝統とは本来そういうものだ。

 選ばれた人間が担い、伝える伝統もあるだろうが、それとても、担う人間が担うことを歓びとし、楽しまなければ、生きつづけることはできない。

 リアム・オブライエンも、ことコンサティーナに関しては文字通りの巨人と呼んでかまうまい。この楽器の名手は他にもいるし、楽器そのものの在り方を根底から変えるような活動をしている人もいる。とはいうものの、コンサティーナ、ここではアングロ・コンサティーナ演奏の中軸に、おそらくオブライエンは位置しようとしている。

 高橋さんによれば、オブライエンの出身地のミルタウン・モルベイは、装飾音を多用し、踊るためというよりは、聴くための演奏を好むという。その装飾音は指の動きと蛇腹を自在に細かく操ることで生んでいるらしい。体のサイズとの対比から錯覚しているかもしれないが、楽器を奏でているというよりも、体の一部を動かしているようでもある。

 はっと我に返ったのは Planxty Davies だった。高橋さんがギターでメロディを唄っている。滔々と流れる大河の面を、燕が一羽飛びぬけて、あとに澄みわたった帯を残したようだった。

 いつになく、ミュージシャンたちがお客さんとして来ていた。長尾、榎本、長濱、北川の諸氏はわかったが、楽器を持っていた人も数人いたし、音楽をやっている雰囲気をまとった人が多かった。これも高橋さんの人徳だろうか。かれのためならば、一肌脱ごうという気にさせるものを、かれは持っているようにも思える。一見不器用そうではあるし、MCも滑らかとはいえず、的をはずしていると聞える。しかしその裏、1枚皮をめくってみると、表面とは裏腹に、人を動かす、あるいは人が思わず動いてしまうような力の源が備わっているようだ。先日の tricolor BIGBAND でも、一人だけサングラスをかけて、浮いていると見えるのだが、その浮き具合が妙に全体の中にはまっていた。

 ギターの師匠は城田じゅんじさんとのことだが、演奏のスタイルは対極的に聞える。目指すところは同じでも、そこへ向かう出発点が対極にあるようだ。当然、アプローチも対照的になる。福江さんとのデュオ、マイキィ・オゥシェイとのデュオのライヴで、もう少しじっくり聴いてみたい。

 日曜日の哺下、アイルランドの音楽伝統の分厚さと豊饒にたっぷりと浸れて、その豊饒さを分け与えられた気分。もちろんアイルランドにこの伝統が生きているのは、それだけの犠牲を払っているからではある。われわれはその犠牲無しに、豊饒さの分け前をもらっている。とすれば、いただいたもののおすそ分けをどんどんとするのが筋であろう。

 まずは、リアム・オブライエン、高橋さんと関係者の方々、そして会場を提供された教会とその関係者の方々に感謝する。(ゆ)

 アイリッシュ・ミュージックが音楽によるおしゃべりなら、無伴奏ソロ演奏や歌唱は何だろう。

 独り言ではないし、独白でもない。勝手なことをわめき散らすには程遠い。こういう場合よく持ち出される、自分との対話というのとも違うように思う。

 というのも、アイリッシュ・ミュージックの無伴奏の歌唱や演奏では、演奏している、うたっている当人の存在が前面に出てこないのだ。音を出しているのは確かにひとりの個人だが、その人の個性をひしひしと感じる、のとは違う。これが他のジャンルの無伴奏では事情がまた違ってくる。

 クラシックは作曲家の専制が強いが、こと無伴奏になると演奏者の存在が前面に出てくる。この場合には作曲家と演奏者の一対一の対話になる。もともとクラシックでは無伴奏の演奏は珍しい部類だし、無伴奏歌唱はまず無い。このことはそれ自体、観察考察に値する面白い現象ではあるが、それはまた別の機会に讓る。

 ジャズでも無伴奏は少ないが、これはまた演奏者の個性、存在がすべての世界、くだけた言い方をすれば、「俺が、俺が」の世界だから、そこに響いているのは、演奏者の人間そのものだ。

 ポップス、ロックなどでアコギ一本というのはほとんど一つのジャンルといってもいいぐらいだが、これもジャズに準ずるし、他の楽器、ベースやドラムスの無伴奏ソロは、演奏の一部ではあっても、それで1本のライヴをする、1枚アルバムを作るというのは聞いたことがない。

 伝統音楽の世界では、アイリッシュに限らず無伴奏は、そこらじゅうにあるとは言えないまでも、ごく普通に行われる。アイリッシュやスコティッシュのバグパイプやハープは無伴奏が標準だ。伝統音楽のシンガーたるもの、無伴奏でうたって聞かせなければ一人前とは言われない。

 伝統音楽は、クラシックやジャズやロックやポップスのような商品として売るための音楽ではなく、本来はコミュニティの活性剤、潤滑剤、生活必需品であり、おしゃべりの一部、井戸端会議、床屋の政談の類だ。ここは肝心のところだが、アイリッシュ・ミュージックは芸術やグルメではない。日用品、生活雑貨であって、日々の暮しに欠かせないものなのだ。暮しに欠かせないからこそ、伝統として受け継がれてきている。

 もちろん、それに限られるわけではないし、そうでなければならないと誰かが決めているわけではない。もっと自然発生的で、おおいに民主的に動く。ハイランド・パイプのピブロックやアイリッシュのシャン・ノース歌唱のように、芸術として極められるものもある。それに、もともとの伝統継承の場から離れたところでは、また在り方が変わりもする。

 とはいえ、伝統音楽では無伴奏が尋常のことであるのは、やはり生活の場でおこなわれてきたからだろう。生活しながら音楽をするとなると、いつも誰かが傍にいて伴奏をつけてくれるわけにはいかない。

 となると伝統音楽、ここではもう一度アイリッシュ・ミュージックにもどってみれば、無伴奏の演奏、歌唱には演奏者、シンガーの個性というよりも、生活、暮しぶりが顕れる。つまりは生活しているコミュニティ、社会、そして伝統との関わりが出てくる。

 伝統は、なにもどこかの博物館に後生大事に保存されているわけではなく、〇〇保存会が守っているものでもなく、われわれのカラダとココロに刷りこまれている。したがって日々新たな要素が加わり、生生流転している。つまりは伝統音楽の無伴奏歌唱や演奏は、今というその時点での伝統が、演奏者やシンガーを通じて現れている。それが充実した音楽であるのは、演奏者やシンガーの暮しが充実し、その属するコミュニティが生き生きとしているところから生まれる。

 伝統はまた時空をも超えることができる。ここがまた音楽の玄妙なところでもあるが、異なる伝統から生まれている音楽を人は演奏し、うたうことができる。ということは、自分が生まれ育ったわけではない伝統からの音楽の出口になりうる。あるいはこれをして、異なる伝統に憑依されると言ってもいいかもしれない。

 さいとうさんや中村さんの無伴奏の演奏を聴き、見ていると、そのことを実感する。元来まるで縁の無いはずの伝統が、ここに憑依して、音楽として流れでてくる。まことに不思議なことが、目の前で起きている。それは不思議であると同時にまるであたりまえとも感じられる。他ではちょっと味わえない感覚だ。

 録音で聴いて感じたことが、生演奏でも確認できる。あの感覚は錯覚でも勘違いでもなかったと確認できる。これもまた嬉しい。

 そしてその伝統は聴いているこちらにも乗り移ってくるようでもある。アイリッシュ・ミュージックはそのように作用する。演奏される音楽を聴いているというよりも、自分の中にある音楽が目覚め、湧いてくるように感じる。少なくとも、良い演奏を聴くとそう感じる。あるいはそう感じる演奏が良い演奏だと思う。

 この日はまず中村さんがワン・ステージ、ギターとそしてうたも交えて演奏し、後半、さいとうさんが、先日出た《Re:start》を再現する形で演奏した。せっかく二人いるのだからと、最後に二人で演奏したのがまた良かった。互いの演奏が刺戟しあい、反響し、渦巻がより大きく、速く、タイトになってゆく。終ってから、一人でやっていると二人で演りたくなり、二人で演ると一人で演ることがどういうことかまた見えてくると二人が口をそろえていたのも印象的だ。

 あれから二人のソロの録音を繰り返し聴いている。聴いていると心がおちつく。荒らだち騒いでいても鎮まり、澄んでくる。無伴奏ソロはそのようにも作用する。(ゆ)


guitarscape
Hirofumi Nakamura 中村大史
single tempo / TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-26



Re:start
さいとう ともこ
Chicola Music Laboratry
2018-03-04


 アコーディオンとヴォーカルの服部阿裕未さんが、演りたい人を集めてトリオを組むシリーズの1回目。初回のお相手は高梨菖子さんと久保慧祐さん。

 ミュージシャンにもいろいろなタイプがあって、演奏を好むことでは同じでも、演奏自体を好む人と自分が出す音を好む人がいる。と服部さんの演奏を見聞して思う。つまり、こういう曲を演りたいというよりも、こういう音を出したいので、好みの音を出せる楽曲と演奏スタイルを選ぶという人だ。この二つは截然と別れるわけではむろんなく、音楽家は皆どちらの要素も持っていて、どちらかが濃いわけだ。TPOでそれが出る人もいる。

 とはいえ、ある楽器を選びとるのは、やはりその楽器の音、音色、テクスチャ、音の運びが好きだからではないか。

 服部さんはたまたまその好みが比較的はっきり出るタイプなのだろう。たとえばその好きな音を延ばしたり、アクセントをつけたりするし、またそういう音型がフレーズが出てくる曲を選んでいるようにもみえる。たとえば前半のポルカのセットで、3曲目が高梨さんの〈柏餅〉なのだが、これだけ独立して選んだのは、ああ、この音が出したかったのだな、とあたしは納得した。高梨さんの曲はフィドルや笛で聴くことが多く、アコーディオンで聴くのはとても新鮮だ。ちなみにこのセットの一曲目はAパートのシンコペーションが面白くて、これも出したい音に聞える。好きな音を出す歓びがあふれる。

 好みの音を出したいというのは、その音を聴きたいことでもあって、だから無闇に急がない。リールでもゆったりしたテンポで、自分たちの演奏にじっくりと耳を傾けている感じだ。聴いていると胸のうちがおちついてくる。後半のマーチではそれがうまくはまっていて、この方面のハイライト。

 服部さんのもう一つの顔はこういううたをうたいたい、声を出したい、といううたい手だ。この方面ではなんといっても高梨さんの〈春を待つ〉。高梨さんの東京音大作曲科の卒業製作用の曲だそうだが、これをうたいたいといううたい手の気持ちが、もともとの佳曲をさらに良くする。歌詞を書くのが気恥ずかしいと高梨さんはいうが、ならば作詞は他に頼んでも、もっとうたを作って欲しい。それを服部さんがうたって一枚アルバムを作ってもいいのではないか。

 高梨さんは例によって、ある時はユニゾンに合わせ、ある時は裏メロをつけ、ある時はハーモニーを作って、アコーディオンを盛りたてる。高梨さんのホィッスルとアコーディオンの組合せも珍しく、その音の動きがよくわかるのが愉しい。これがコンサティーナではやはり違う。サイズも違うが、コンサティーナの音はもともと繊細だ。音自体はシャープではあるが、細い。服部さんはリードのピッチをわずかにずらして、倍音を響かせるようにしているせいもあるだろうが、音の存在感がどっしりとある。アコーディオンとホィッスルだけの組合せというのは、あまり聴いた覚えがないが、おたがいの音が際立っていいものだ。

 この二人を見事に支えていたのが久保さんのギター。前半ではギターをミュージシャンの方に向けていて、アルジーナに注意されたのか、後半は客側に向けるようにしていた。まあ、ライヴとしてはその方がいいだろうが、ギターは客に聞えなくてもかまわないものではある。というのに語弊があれば、ギターは客よりもミュージシャンに向けて演奏しているのだ。デニス・カヒルのライヴを見ると、かれは客のことなぞ眼中にない。そのギターはひたすらマーティン・ヘイズのために弾かれている。

 クボッティと呼ばれるそうだが、リールのセットでは冒頭、単音弾きでリールを弾きこなして見事だった。何人か、ワークショップなどで学んだギタリストはいるようだが、基本的に独学だそうで、そうだとすると、豊田さんの言うとおり、天才と呼んでおかしくはない。豊田さんのソロではデニス・カヒル顔負けのギターを弾いてもいて、まことに末頼もしい。今は John Blake がマイブームの由。04/08の豊田さんのソロのアルバム・リリース・ライヴがたのしみではある。

 ライヴ当日になってようやくトリオとしての形ができてきた、と服部さんは言っていたが、アイリッシュ・ミュージックは音楽そのものよりも、コミュニケーションつまりおしゃべりが一番の目的だから、それもまたアイリッシュ的ではないか。隅々まできっちりと作るのではなく、基本のメロディとして提示して、たとえばきゃめるの仲間が、思いもよらないコード進行をつけたり、ハーモニーを編み出したりするのが何よりも愉しいと高梨さんも言う。音楽で楽器でおしゃべりしながら、ああでもないこうでもないといろいろ試し、やってみて、だめなものは捨て、うまくゆくものを拾ってゆく。そういうプロセスが透けて見えるのもアイリッシュの魅力だし、この日のライヴには、そうして出来上がってゆくときの愉しさが現れていた。完成した、非のうちどころのない演奏を聴くのも楽しいが、綱渡りしながら音楽を作ってゆくところが見えるのもまた楽しからずや。

 トリオ・シリーズの次回はまだ未定だそうだが、季節が変わる頃に、またホメリでということなので、たのしみに待ちましょう。音楽が愉しいと、ビールも旨い。(ゆ)

 デイヴ・フリンはこのツアーの告知で初めて聞く名前で、まったく何の予備知識もなく、ライヴにでかけた。聞けば5年前2013年にやはり小松さんの手引きで初来日しているそうな。

 結論から言えば、すばらしいミュージシャンに出逢えたことを感謝する。この人は確実に新しい。本人はポール・ブレディ&アンディ・アーヴァインとかボシィ・バンドを聴いて伝統音楽への興味を掻きたてられたと言うが、やはり世代は着実に代わっている。もちろん、あの世代とは天の運も地の時も違う。あの時代には、若い世代が伝統音楽をやることそのものが大変なことだった。伝統音楽はアイルランドにあっても、「田舎のジジババ」のやるものだったのだ。都会の若者たちにとっては1にも2にもロックンロールだった。それをひっくり返したのがクリスティ・ムーアであり、ドーナル・ラニィであり、ミホール・オ・ドーナルであり、あるいはアレック・フィンであった。

 しかし時代は変わって、このデイヴ・フリンのように、伝統音楽からクラシックからジャズからロックから、興味のあるものは何でもやってしまう、そしてそうしたジャンルの垣根を溶かしてしまって、どれにとっても新しいものを生み出している人たちが現れている。Padraig Rynne や Jiggy などもそうなのだろう。キーラはその先駆とも言えるかもしれない。そして、あちらではあたしなどが知らない、優れた人たちが、おそらく陸続と現れているのだ、きっと。

 フリンはまずギタリストとして出色だ。Wikipedia などの記事を見ると、エレキ・ギターでロックを弾くことから出発しているようだが、それにしては細かいニュアンスに満ちた、繊細なスタイルだ。メロディとリズムを同時に弾くところなどは、リチャード・トンプソンにも通じる。トニー・マクマナスよりはジョン・レンボーンだろう。ピックは使わず、コード・ストロークは中指以降の3本で上から叩くようにする。

 小松さんによればチューニングも特殊で、上4本をフィドルやマンドリンと同じにしているという。ダンス・チューンのメロディを弾くとき、うたの伴奏をするとき、小松さんのフィドルの相手をするとき、それぞれにチューニングを変えていた。

 ギターでダンス・チューンのメロディを演奏するのも、アイルランドでは少なくともあたしは初めてだ。ブズーキやマンドリンでメロディを演奏する人たちはいるが、ギターでは皆無というのがこれまでの認識だった。アイルランド以外ではトニー・マクマナスがいるし、ディック・ゴーハンもやるし、マーティン・シンプソン、ピエール・ベンスーザン、Gille de Bigot、Dar Ar Bras、Colin Reid などなど多彩な人たちがいるが、アイルランドではいなかった。Sarah McQuaid はアイルランド録音しているが、もとはアメリカ人だ。

 どちらかというと遅めのテンポ、装飾音を忠実につけてゆくよりは、ベースやコードも付けながら、全体のイメージを重視する。音量は大きくはないが、明瞭で、メリハリがある。どこかジャズの、それも80年代以降のギタリストたち、ジョン・スコフィールドとか、最近のカート・ローゼンウィンケルあたりに通じるところもある。ジャズのような即興をやるわけではないが、音楽から受ける印象が似ている。クールで控え目でクリア、一方で注ぎこまれているエネルギーの量、そこで燃えているものの大きさはハンパではない。

 2曲ほど披露したうたもいい。伝統音楽を直接ベースにしているものではないが、アイルランドからしか出てこないものでもあると聞える。ジミィ・マカーシィやノエル・ブラジルたちともまた違う。やはりもう少しジャズ寄りだ。

 全体に押し出しではなく、引っ込んで、聴く者の集中を誘う。

 同じことは後半、小松さんのフィドルに合わせたときにも言えた。相手を煽ることはしないが、ただ着実に土台を支えるというのでもない。音量は小さく、客席に聞かせるよりは、相手のプレーヤーに向かって演奏している。当然といえば当然だが、人に聴かせるときには、少なくとも並んで、ともに聴かせようとするのが普通だ。デニス・カヒルですら、ひたすらマーティン・ヘイズに注目しているものの、全く聴衆を無視しているわけでもない。周りにどう聞えるかは意識している。フリンも聴衆を無視するところはないが、かれにとって聴衆はいわば意識の外にあるのだろう。

 そしてその効果、相手のプレーヤーに対する効果ははっきりしていて、小松さんのフィドルは着実に熱を発してくる。もともとかれのフィドルの響きがあたしは大好きなのだが、独特のふくらみを孕んだその響きが一層艷やかになる。エロティックと言いたいくらいだ。いやらしいところはまったく無い、フィドルという楽器に可能なかぎりなまめかしい響きが引き出されてくる。

 年末からずっとグレイトフル・デッドのライヴ音源をひたすら聴きつづける毎日で、一昨日、ようやくそれが一段落した直後だったから、この二人の生の音はことさらに胸に染みる。こんなよい響きで聴けるのは、やはり生の、ライヴの場での特権だ。

 今年のライヴ初めは、かくてまことにめでたい一夜となった。デイヴ、小松さん、そしてグレインの加藤さんに心から感謝する。ごちそうさまでした。

 小松さんとは3月11日、下北沢の B&B で、アイリッシュ・フィドルの講座を予定している。本に囲まれたあの空間で、小松さんのフィドルの響きを聴くだけでも、足を運ばれる価値はあるでしょう。(ゆ)

 このタイトルは大袈裟なようだが、嘘いつわりのない真正直なものだ。聴けばそれがわかる。うたうことのよろこび。うたうことができることのよろこび。アルバムを作ることができるよろこび。こうしてうたをシェアできる、ともに生きることができるよろこび。そのよろこびはほとんど限りない。そして、今、このうたが聴けることを、河村さんがこのアルバムを作ってくれたことを、あたしは限りなくよろこぶ。

 そのよろこびには、しかし、わずかだがやりきれなさも混じる。この声を、このうたを、ソウル・フラワー・ユニオンの中で聴きたかった。

 河村さんがシンガーとして尋常ならざるものを持っていることを初めて知ったのは、5月にキタカラのライヴを見た時だ。その時も思ったことだが、こうして1枚、アルバムを聴いて、そのヴォーカルにじっくりとひたってみると、デッドのように、ユニオンも2枚看板のヴォーカルでやれたのではないかとあらためて思う。デッドほど対等に並び立つのではなくとも、一晩で2、3曲でも河村さんがうたうことで、また別の世界が開けた可能性は大いにあると思う。

 もっとも、あの当時、これだけのうたを河村さんがうたえたかどうか、それはわからない。バンドを離れて以来の体験があって初めてこのうたが可能になったことはありえる。最近ボブ・ウィアのソロ・ライヴ映像を見て感服したが、デッドが現役の時にこんな風にはうたえなかったはずだ。

 まず河村さんの声がいい。張りのあるテナーで、かすかに甘みがある。よりかかったところがない、品の良い甘みだ。こういう甘みは、ロックやポップスのすぐれたシンガーの声には共通している。ヴァン・モリソンやロバート・プラントにもある。対照的に中川さんの声には甘みはない。それはロック・シンガーというよりフォーク・シンガーの声だ。リチャード・マニュエルではなく、ボブ・ディランだ。こういうことはバンドの中だけで聴いているときにはわかりにくい。ソロとしてうたうのを聴くとよくわかる。河村さんの声は人なつこい声でもあって、かすかな巻き舌がその声を、うたを一層親しいものにする。

 そして河村さんはうたがうまい。全部で72分という、CD限界まで詰めこんだこのアルバムの根幹をなすうた、開幕冒頭の〈渚から〉、〈ローリングビーンズワルツ〉、〈フラクタル〉、タイトル曲、ボーナス・トラックを別として掉尾を飾る〈やわらかな時〉といった曲は、どれもスローなバラードというのは、また別の意味がありそうだが、こうしたうたを、悠揚せまらず、歌詞を明瞭に、安定感をもってうたう。スローなうたで、伸ばさない音がきっちりと支えられるのは実に気持がいい。〈青天井のクラウン〉の二度目のコーラスで一部力を抜いてうたうのがたまらない。

 特に美声でもないし、強い印象で迫ってくる声ではないのだが、人なつこい甘みのある声とうたのうまさ、そして、とにかくうたうことが大好きなその様子が相俟って、聴くほどに深みを増し、また聴きたくなる。

 河村さんを入れて57人のミュージシャンが織りなす世界は多彩だ。ロックンロール、ブルーズ、レゲエ、ポップス、そしてスロー・バラード。入念に作りこんだ、シングル・ヒットしない方がおかしいと思える曲もあれば、自身のエレキ・ギターとアコーディオンだけでうたわれる、きらりと光る小品もある。とはいえ全体としては河村さんの作る曲はすぐれたポップスのセンスが筋を通している。そして時に[11]のように思わず迸りでてしまうこともあるが、いつもは慎重に隠されているユーモアの味。こうした感性もSFUを離れてから身につけたのだろうか。これだけ大勢の、それぞれに個性の強い人たちから持ち味を引き出し、その貢献を裁いて、質の高い音楽を組み上げた河村さんのプロデューサーとしての腕も大したものだ。録音が良いのも嬉しい。

 次はキタカラの録音になるだろうか。ここにもその先駆けと聞えるところもある。とはいえ、まずは、このアルバム、シャッフルではなく頭から通して聴ける、そう聴いて楽しいこのアルバムを何度も聴くことになるだろう。(ゆ)


ミュージシャン
河村博司
朝倉真司
Alan Patton
荒谷誠人
Azuma Hitomi
磯部舞子
伊丹英子
伊藤コーキ
伊藤大地
伊藤ヨタロウ
岩原智
うつみようこ
大久保由希
大熊ワタル
太田惠資
大槻さとみ
奥野真哉
オラン
鹿嶋静
勝山サオリ
我那覇美奈
熊谷太輔
熊坂路得子
クラッシー
小平智恵
小山卓治
佐藤五魚
信夫正彦
白崎映美
鈴木正敏
高木克
高木太郎
多田三洋
Tsunta
塚本晃
寺岡信芳
徳田健
中川敬
中田真由美
中村佳穂
ハシケン
はせがわかおり
福岡史朗
福島ビート幹夫
藤原マヒト
本夛マキ
みっち
茂木欣一
森信行
モーリー
矢野敏広
ユキへい
リクオ
ティプシプーカ
桃梨

トラック・リスト
01. 渚から 6:46
02. この雨に濡れながら 5:37
03. 青天井のクラウン 3:12
04. ワルイ夢 3:03
05. ローリングビーンズワルツ 6:36
06. フラクタル 6:17
07. 嵐に揺れて 5:00
08. あのコと部屋とギターと 4:43
09. あなた 3:00
10. 風に乗って 2:34
11. 愛のテーマ 3:36
12. よろこびの歌 6:59
13. ウチウのテーマ 2:05
14. やわらかな時:イントロダクション 0:46
15. やわらかな時 6:13
16. 満月の夕 5:49

Produced by 河村博司
Recorded @ ウチウスタジオ, 2017-06/09
Drums Recorded @ Orpheus Studio 小岩, 2017-06-26
@ Mannish Recording Studio, 2017-06-20, 22 & 07-14
@ Sound Lab Oiseau, 2017-07-19
@ Ginjin Studio,2017-07-26
Mastered by 木村健太郎 @ Kimuken Studio, 2017-09-11


よろこびの歌
河村博司
ウチウレコード
2017


 一番好きなうたはアンコールで出た。〈寝顔みせて〉は、なんとか親になることをかろうじてはたしたあたしのような人間にはなんともたまらない名曲だ。子どもというものはとにかく眠ってくれない。目をつむって、すやすや寝息をたてているのを見て、そおっと、ほんとうにそおっと離れようとする。その瞬間、ぱちっと目を開くのだ。いいかげんにねろおっとどなりつけたそうになったことが、何度あったことか。

 中川さんもそういう気になったことが何度もあったにちがいない。それを、こんな美しいイメージにうたいこめるのは、アーティストとしての才能と精進の賜物だろう。それまでにも歌つくりとしての中川さんのエラいことは十分認めていたつもりだったが、初めてこのうたをデモ録音で聴いたときには、尊敬ととそして感謝の念がふつふつと湧いてきたものだ。

 以来、このうたは何度聴いたかわからないが、考えてみると、生で、ライヴで聴いたのは初めてだった。これを聴けただけでも、出かけてきた甲斐があった。

 会場に入ってまず目についたのは、がらんとしたステージだった。奥の壁際にギターが1本。小さな丸いサイド・テーブルにタオルと水。マイクが1本。譜面台。それだけ。簡素なステージは見慣れているはずだが、なぜか、そのミニマルな佇いがひどく雄弁に見えた。演奏中も照明などは何もしない。単純にアーティストを照らしている。ギターを抱えた人がそこにいて、うたっているだけだ。

 まあ、この人はしゃべりもする。うたっているより、おしゃべりしている時間の方が長いかもしれない。数日前、徳島でのライヴの際、腰を痛め、一時は歩くこともできなかったそうだが、それをネタにして笑いをとる。ギターをかき鳴らしても、声をだしても、腰に響くらしい。もうつらくてつらくて、と言いながら、実際、時おり、腰を伸ばしたりしながら、しかし演奏はそれによって影響があるとも見えない。いや、むしろ、腰にトラブルを抱えていることで、演奏が良くなるという影響があるようにも思える。

 うたい、しゃべり、一部だけで1時間半。「いつ、終るんだろうねえ」と言いながら、腰がたいへんと言いながら、立ったままだ。〈満月の夕〉で長い一部はしめくくり。大震災を体験したわけではないのに、このうたは冷静には聴けない。ユニオンでもモノノケでも、あるいは山口洋さんや河村博司さんでも、ライヴでも何度も聴いているが、どうしても他の曲と同じようには聴けない。ひとりでうたううたい手に、やさほーやと声を合わせてしまう。このうたを、ほんとうに焚火を囲みながら合唱する日の来ないことを祈る一方で、満月を見上げながら、当事者としてこのうたをうたうことへのうらやましさもどこかにある。

 二部で最も痛切に響いたのは〈デイドリーム・ビリーバー〉。モンキーズの忌野清志郎によるカヴァーの、そのまたカヴァーだが、もちろん中川さん自身のうたになっている。清志郎はこのうたを亡くなった二人の母、生みの母と育ての母の二人に捧げているが、中川さんがうたうと、「クイーン」は必ずしも母親とかかぎらなくなる。自分を支えてくれている誰か、自分では意識せず、しかしその人がいなければ「夢を見つづける」ことができない存在ならば、誰でもあてはまる。女性とも限るまい。そういう存在への感謝は、できるうちにしておくべきなのだ。清志郎も、おそらく猛烈な後悔の念にさいなまれ、それを解決するためにこのうたをうたったのではないか。中川さんのうたはそういうところまで響いてくる。

 腰がつらかったと言いながら、アンコールはなんと6曲もやる。〈平和に生きる権利〉からの4曲はカヴァーをほとんど途切れずにやる。ジェリィ・ガルシアと同じく、中川さんもまた、演奏をやめたくないとみえる。なんのかんのと言いながら、楽しそうだ。ソロでやることの楽しさを満喫しているようである。バンドでしかできないことはたくさんあるだろう。たとえばの話、東チモールやパレスチナで演奏できたのも、バンドとしての活動があったからだろう。一方で、ソロは自由だ。ライヴをやるにも、カヴァーをするにも、やろうと思うだけでできる。延々と終らずに演奏しつづけることもできる。まあ、グレイトフル・デッドはバンドとして延々と演奏しつづけたが、やはりあれは例外だ。

 見る方からすれば、ソロではうたの生地が顕わになる。一つひとつのうたのキモが眼の前に置かれて、ああこのうたはこういうことだったのか、と賦におちる。それにはMCも助けになる。〈豊饒なる闇〉の印象的な一行「風に散らない花になりたい」の背後の意味。〈あばよ青春の光〉の「光」とは何をさすのか。それによって、あらためてそのうたがより深くカラダに入ってくる。

 そしてライヴでのハプニング。腰の故障は本人にはたいへんなことだが、客からすれば、そういう状態のアーティストの演奏を聴けることは千載一遇のチャンスだ。トラブルによって演奏が良くなることだけではい、悪くなることもまた、ライヴの愉しみだ。愉しみというと語弊があるかもしれないが、一生に一度の体験はやはり貴重だ。ライヴというのは、いつも必ず素晴しい音楽を体験できる、安心安全なものなどでは無い。何が起きるかわからない。演る方にも、聴く方にも、リスクがある。だからライヴは行く価値がある。

 すべてがうまくいって、この世のものとも思えない体験ができることもある。ライヴに行くときはいつもそれを期待してもいる。中川さんも、バンドではそういうライヴができたことが何度かあり、ソロでもそれを目指していると言う。とはいえ、それはひょっとすると、万全の状態ではできるものではないのかもしれない。どこかに不備を抱え、不足があり、故障があり、それを凌いでやるうちに、なにかの拍子にあらゆるものがかちりとはまる。演る人、聴く人の境界が消え、その場がひとつになる。普通はありえないことが起きる。むしろ、すべてが完璧というときには起きないのかもしれない。

 サムズアップはどこに坐ってもステージとの距離が近いのがいい。デヴィッド・リンドレーとか、トニー・マクマナスとか、あるいは先日のアンディ・アーヴァイン&ドーナル・ラニィとか、ソロやデュオ、せいぜいトリオぐらいまでの、それもアコースティックな音楽をここで聴くのは好きだ。中川さんも半年に一度はここでやっている。これまではめぐりあわせが悪くて、ソロを生で見るのは初めてだったが、これからは最優先で来るようにしよう、と思ったことだった。(ゆ)

 ヴィオラの音は好きだ。たぶん最初に意識したのはヴェーセンで、次がドレクスキップだった。五弦ヴァイオリンはヴィオラの音域まで行くけれど、やはり響きが違う。ボディが大きいだけ、深くなる。もともとはオーケストラに必要でおそらく重宝がられたのだろう。さもなければ、こんな中途半端な楽器が残ろうとは思えない。ヴァイオリンの次はチェロになるのが自然だ。とはいえ、この深い響きもヴィオラが生き残ってきた理由の一つにはちがいない。

 小松さんはもともとクラシックではヴィオラ専門なのだそうだ。今でもクラシックでヴィオラを弾くこともある由だが、かれのフィドルに他のフィドラーでは、アイルランドやアメリカも含めて、聴いたことのない響きが聴けるのはたぶんそのせいだろう。いや、その点では、ジャンルを問わず、フィドルからああいう響きを聴いたことはない。金属弦とナイロン弦の違いだけではないはずだ。

 この響きは録音でも明らかだが、その本領はやはりライヴでしか味わえない。技術的に録音するのも難しいし、再生もたいへんだ。響きの深み、音の高低ではなく、音そのものがふくらんでゆく様は、ライヴでしかたぶん聴けない。

 その響きは演っているほうもたぶん好きなので、それを活かすためだろう、テンポがあまり速くない。リールなどでも、じっくりゆっくり弾く。このデュオでも始めは速く演奏していたらしいが、だんだん遅くなってきたとMCでも言っていた。それはよくわかる。響きとテンポのこの組合せはひどく新鮮だ。マーティン・ヘイズがゆっくり弾くのと、共通するところも感じる。意識してこのテンポに設定しようというのではなく、自然にこういうテンポにどうしてもなってしまう、おちついてしまうのだ。だから聴いていてそれは心地良い。最後にやった7曲のメドレーでもテンポは上がらない。

 ヴィオラで弾いたダンス・チューンも良かった。もちろんこんな試みは、本国でもほとんどいないし、これまたやはり生でしか本当の音は聴けない。うーん、ヴィオラを録音できちんと聴くのは結構難しいぞ。と生を聴いてあらためて思う。それとは別に、メロディが低域に沈みながら浮遊してゆくときのなんともいえない艷気は、ほとんどアイリッシュとは思えない領域。アイリッシュ・ミュージックは基本的に高音が大好きな音楽だから、こういう艷気は初めてだ。

 山本さんのギターが小松さんのフィドルにまたよく似合う。これはトニー・マクマナスだなあと思って聴いていたら、お手本はトニー・マクマナスと後で伺って納得した。コード・ストロークやカッティングよりもアルペジオを多用する。なので空間が拡がり、小松さんの響きがより浮かび上がるのだ。デニス・カヒルも入っているようで、音数がマクマナスよりも少ない感じもある。その少なさが、さらに空間を拡大する。そうみると、この二人、音楽的スタイルは違うが、あのデュオに一番近いのかもしれない。音楽の哲学がだ。

 山本さんはギター・ソロも披露し、そこでもリールのメドレーを弾いたし、フィドルとユニゾンもしたり、これまでわが国のアイリッシュ・ミュージック界隈にはあまりいなかったタイプのギタリストだ。もうすぐソロ・アルバムも出されるとのことで、こちらも楽しみだ。アプローチは対照的だが、中村大史さんのソロと聴き比べるのも面白そうだ。

 二人ともチューンに対しては貪欲で、珍しいが良い曲を掘り出すのが好きらしい。聴いたことのある曲がほんの数曲というのも、珍しくもありがたい体験だ。定番を面白く聴かせてもらうのも楽しいが、聴いたことのない曲をどんどんと聴けるのは、また格別だ。それにしても、カトリオナ・マッケイの〈Swan LK51〉は人気がある。演っていて楽しいのだろう。

 お客さんにいわゆる「民間人」はどうやらいなかったようで、お二人の知合いも多かったようだ。無理もないところもあるが、チーフテンズしか聴いたことのない人が聴いてどう思うか、訊ねてみたい気もする。次の東下は11月19日。ドレクスキップの野間さんと浦川さんのデュオとの対バンの由。これまた楽しみだ。(ゆ)

 ジョンジョンフェスティバルのワンマン・ライヴをちゃんと見た覚えがどうも無い。確かプラスの形で、複数のアクトの一つとして見たことがある気がする。3人だけの、本来のトリオで見たのは、あるいはカナダで見たのが初めてだったかもしれない。

 カナダでの演奏はどれもすばらしかったが、長くて30分なので、さあこれから、というところで終るという、やや欲求不満になる感じは否めなかった。こちらもやはり興奮しているので、フラストレーションが溜まってしかたがないというところまではいかないし、2日間で4本のステージは少なくはなかった。それでも、時間をかけて初めて現れる姿というものはある。とりわけ、たっぷり聴いた、堪能した、という満足感。むろん、出来がすばらしければ、それだけもっともっとと欲求も募る。しかし、そういう時、本当に満足するなんてことはありえなくなる。

 スケールが大きくなっている。カナダでも演奏のスケールの大きなことには感服したのだが、さらに一枚剥けた感じがする。個々のミュージシャンとしても、バンドとしても、カナダの時よりも深みが増し、密度が濃くなっている。おもしろいのは、その一方で新鮮な、ほとんど初々しいと言いたくくらい、生まれでたばかりの無邪気さもある。普通はこうなると成熟とか風格とかいった表現を使いたくなるが、これらの言葉は今のジョンジョンフェスティバルにはふさわしくない。

 昨夜とりわけ感心したのはまずうた。〈By the Time It Gets Dark〉でのコーラスでのじょんとアニーの声のハモりにぞくぞくする。〈思ひいづれば〉でのじょんコブシがまたいい。力がよい具合に抜けていて、声が自然にゆらゆらと廻る。重力とちょうど釣合がとれて、どの方向にもするすると動いてゆく。

 例えばドロレス・ケーンのような意味でじょんが一級のシンガーとは言えないかもしれないが、どうやら最適の発声法を掴んだようにもみえる。そうなると、一級のシンガーにも無い浮遊感があらわれる。いわゆるクルーナーのようなリスナーを引きずりこもうという下心もない。しかし、いつの間にか、聴く者の心の襞にするりと入りこんでいる。

 アニーのハーモニーもそのじょんの声によく合っている。あるいはこれも合わせているのだろうか。二人だけなのに、もっとたくさんの声が響いているようでもある。

 ジョンジョンフェスティバルはじっくり聴かせるところと、熱く乗せるところの使いわけがうまい。うまいというよりも、人間離れしている感じだ。3人がおたがいにぐるぐる猛スピードでつむじ風を巻きながら、すっ飛んでいくときでも、どこかで冷静なコントロールが利いている。

 いや、ちょっと違うようでもある。3人とも完全にキレていて、どうにも止まらなくなっているのは明らかなのだ。じょんの顔には、押えようとしても押えられない笑顔が現われて消えない。向う側に行ってしまっている。同時にそのバンドを冷静に見ているもう一つのバンドがすぐ裏の次元にいるらしい。もう一つのそのバンドの存在を、3人は意識しない。バンドがいることはわかっているのだろう。しかし、存在そのものを感じてはいない。そうした意識が忍びこむ余地もなくなっているのだ。

 そしてそのもう一つの冷静なバンドにするりと入れ替わる。それはもうするりと、スイッチが切り替わるのではなく、自然に入れ替わる。

 昨夜はそのことが見えたようだ。一度見えると、同じことがカナダでも起きていたのだとわかる。ただ、昨夜の方がより入れ替わりがスムーズだし、二つのバンドの差が大きい。

 これに似たことはラウーが来たときもあったのだが、ラウーでは3人とも表情が冷静だ。内実はわからないが、外見ではクールそのものだった。音楽の白熱とのその落差が面白かった。

 ジョンジョンフェスティバルは外見もイッてしまっている。どこへ行くのか、端から見れば心配になるかもしれない。しかし、その音楽に一体化していると、どこへ行こうとまるで気にならない。そんなことはどうでもいい。そして、ジョンジョンフェスティバルはちゃんと元のところへ戻してくれるのだ。

 求道会館は生音がすばらしいが、昨夜は200人満員ということでPAが入っていた。その様子はちょうどカナダのケルティック・カラーズと同じだった。使っているスピーカーも同じで、あるいは他も同様のものかもしれない。同様に音はすばらしく良かった。

 それにしても、立ち見の人もいて、しかも皆さんお若い。あたしはたぶん最年長だったろうが、嬉しいことではある。土曜ということもあったし、クリスマス・イヴでカップルで来ていた方もいたのか、若い男性も多かった。ちょっとおとなしいかなあというところもなきにしもあらずだが、あるいは大人なのかな。それにしても、わが国の聴衆はスタンディング・オーヴェーションというものをしないねえ。あれはなかなかいいもんだと思うんだが。

 新作CDもたくさん売れたようで、サイン会も長蛇の列で、なかなか終りそうもないので、一足先に失礼させていただいた。出てくると、近くの教会の前で、蠟燭をもってキャロルをうたっている人たちがいた。まったくクソったれと悪態のひとつもつきたくなる2016年の年の瀬だが、いのちの洗濯をしてもらって、なんとか年を越せそうだ。ジョンジョンフェスティバルの3人、そしてこのコンサートを支えてくれたすべての人びとに心から感謝。あなたがたの上に、祝福あれ。(ゆ)

 遅まきながら、土曜日の「アイリッシュ・ギター入門@本屋B&B、下北沢」には多数ご来場いただき、まことにありがとうございました。

 ゲストの長尾晃司さんがすばらしく、あたしにとってもメウロコな話が続出で、たいへん充実した内容になったと思います。本当は講師にお呼びしたいような方もお客様で見えていて、内心緊張してましたが、長尾さんの研鑽の深さはあたしのそんな不安も吹き飛ばしてしまいました。

 多様なギタリストの特徴を適確に掴んで、それを誰にもわかるように提示するのは、並大抵のことではないはずです。しかも多様でありながら、一方でやっていることの基本は同じなわけです。たとえばロックやジャズのギタリストを比較するのとはまったく違います。優れたミュージシャンはまた優れた物真似師でもあるのだということを思い知らされました。

 あそこでも話しましたが、ギターはアイリッシュにあっては「異端」の楽器です。これはギターという楽器のすぐれて普遍的な性格の裏返しです。言い換えればギターはきわめて融通性が高い。世界中ほとんどどんな音楽でもギターで演奏できるし、あるいはギターで伴奏をつけられるでしょう。一方でそれゆえにある音楽にあっては完全に融合することができません。

 アイリッシュ・ミュージックにあっては、この点同じリズム楽器であってもバゥロンとは決定的に異なります。起源は中東から北アフリカであってもバゥロンはアイルランドの土着性をまとっています。アイリッシュ・ミュージックでのギターはアメリカ経由ですが、アメリカからの到来物であることはこの場合有利に作用していません。

 その「異端性」がアイリッシュ・ミュージックにとっては積極的な刺激を与えているのがギターの面白いところでもあります。ギターでアイリッシュ・ミュージックのチューンに伴奏をつけるにはある種の飛躍が必要でした。これは「異端性」が原因でもありますが、その飛躍によってアイリッシュ・ミュージックの現代音楽、同時代音楽としての側面がやはり飛躍的に強化されてもいます。

 その飛躍を編み出したのがポール・ブレディであり、それを受け継いで磐石のものにしたのがミホール・オ・ドーナルでした。ミホールが開発したアンサンブルの中の一番下のベースを担当するギターの役割を極限まで強化したのがジョン・ドイル。ベースはダブルベースに任せ、もう一度リズムを刻む、その刻み方をこれまた徹底的に推し進めたのがドノ・ヘネシー。それまで誰もやらなかった、ガット弦のクラシック・ギターを持ち込み、同時にフラメンコの手法を採用したのがスティーヴ・クーニー。これをさらに発展的に継承したのがジム・マレィ。そしてマーティン・ヘイズとのコンビで、従来とはまったく対照的なミニマルなスタイルを考案したのがデニス・カヒル。

 こうした特徴的なギタリストたちの業績を踏まえて、もう一度リズム・ギターの原点にもどり、派手ではないけれど、より細やかで微妙な演奏で、現在、共演者たちから圧倒的な支持を得ているのがジョン・ブレイクという見立てです。

 最後のドナル・クランシィはギターによるダンス・チューンの演奏として、リズムではなくメロディもしっかり弾くことを録音でやってのけてくれました。スコットランドでは1970年代後半のディック・ゴーハンや近年のトニィ・マクマナスがいますが、アイルランドではほとんど初めてです。ギターの好きな方は、アイリッシュを演奏するか否かにかかわらず、一度は聴いてみていただきたい。

 またかれが編纂したオムニバス《MASTERS OF THE IRISH GUITAR》は、今回とりあげたギタリストたちがほとんど参加して、それぞれに味わい深い演奏を聴かせてくれます。

Masters of the Irish Guitar
Various Artists
Shanachie
2006-02-21

 

 長尾さんはアイリッシュ・ミュージックにおけるギター演奏のレッスンもされています。

 当日、かけた音源のリストを以下に掲げます。


Davy Graham (1940-2008)
1964, Angi from 3/4 AD (THREE SCORES & TEN)

Three Score & Ten: Voice to the People
Various Artists
Topic Records
2009-10-20

 

Paul Brady (1947-)
1968, Hand Me Down The Tackle from THE JOHNSTONS

The Johnstons/Give A Damn/The Barley Corn (3in2)
The Johnstons
Bgo (Beat Goes on) (UK)
2013-03-04

 
1976, The Kid on the Mountain from THE HIGH PART OF THE ROAD/ Tommy Peoples

High Part of the Road
Tommy Peoples
Shanachie
1994-11-23

 

Micheal O Domhnaill (1951-2006)
1971, Angela from SKARA BRAE

Skara Brae
Various Artists
Gael Linn
1998-08-11

 
1976, The Kid on the Mountain from OLD HAG YOU HAVE KILLED ME/ The Bothy Band

Old Hag You Have Killed Me
Bothy Band
Green Linnet
1993-01-05

 
1982, Willy Coleman's from PORTLAND/ Kevin Burke

Portland
Kevin Burke
Green Linnet
1993-01-05

 

John Doyle (1971-)
1997, The Big reel of Ballynacally from SUNNY SPELLS AND SCATTERED SHOWERS/ Solas


 
2005, Fremont Center set , from IN PLAY/ Liz Carroll

In Play
Liz Carroll
Compass Records
2005-09-13

 

Donogh Hennessy
2004, Trip to Windsor from THE KINNITTY SESSIONS/ Lunasa

Kinnitty Sessions
Lunasa
2016-01-08

 

Steve Cooney
1980, The Foxhunter’s Reel from UNDER THE MOON/ Martin Hayes

Under the Moon
Martin Hayes
Green Linnet
1995-07-11

 

Jim Murray
2005, The Cat's Miaow from TUNES/ Sharon Shannon, Michael McGoldrick, Frankie Gavin

Tunes
Sharon Shannon
Compass Records
2005-04-12

 

Dennis Cahill (1954-)
1971, The Old Blackthorn; Exile Of Erin; Humours Of Tulla from LIVE IN SEATTLE/ Martin Hayes 

Live in Seattle
Martin Hayes
Green Linnet
1999-09-14

 

John Blake
2003, In the Tap Room from THE TAP ROOM TRIO

Tap Room Trio
Tap Room Trio
Cladd
2011-11-29

 

Donal Clancy
2006, Tommy Coen's Memories/ Callaghan's (Reels) from CLOSE TO HOME

Close to Home
Donal Clancy
Compass Records
2006-09-26

 


 ラストに長尾さんがトシさんと2人でやった演奏もみごとでした。メロディ演奏とリズム演奏を一人で交互にやるという形でしたが、これで一度フルのライヴも見てみたくなりました。

 打ち上げの席で、若いギタリストたちが長尾さんを囲んで盛り上がったのも嬉しいことでした。個人的にはその人たちの一部がデッド・ヘッドであることも知って、大いに心強く感じたことであります。

 バゥロン、イルン・パイプ、ギターとやってきたこの連続講演の次は10月15日、同じ下北沢の本屋B&Bでフルートを予定しています。講師は豊田耕三さんです。乞うご期待。(ゆ)

 あたしなんかもアイリッシュだけ聴くということができない。ふるさとにもどるのはいいもんだが、しばらくするとふるさとは飽きてくる。あたしは東京生まれの東京育ちで、ふるさとと言えるものを持っていないからなのかもしれない。とまれ、また旅に出て、聴いたことのない土地や人びとの聴いたことのない音楽を探索したくなる。

 大渕愛子さんがギターの大橋大哉さんと組んでいる 橙 Duo は大渕さんのアイリッシュ以外の音楽をやりたい欲求から生まれているらしい。上のような理由からこれには共感する。そしてそこから生まれている音楽にも共感する。

 ふるさとから離れても、ふるさとに似たもの、共通する要素のあるもの、共振するようなものを求めるものだ。つまりルーツ音楽、伝統音楽であって、こんにちどこにでもあるポップス、ヒップホップ、ロックを求めるわけではない。

 橙 Duo の音楽も、根っこにアイリッシュがあることが良い方に作用している。無理をしていない。無理矢理アイリッシュと対極になるようなことをしようとはしていない。音楽が歪まないのだ。

 大橋氏のギターはジャズやボサノヴァあたりがベースと覚しいが、神経が細やかだ。でしゃばらないが存在感はしっかりある。そういう点では長尾さんはじめアイリッシュのすぐれたギタリストに通じる。この存在感が主役を引き立たせるのだ。演劇や映画だって、主役だけがめだって、脇役はみな大根ではいいものになるはずがない。音楽ではそれ以上に脇役は大事だし、聴きようによっては主客は逆転する。デュオではとりわけ主客は流動する。それがデュオの面白さでもある。

 この日は実は中村大史さんがアコーディオンとブズーキで客演していたのだが、抑えに抑えた演奏で、あくまでも2人を立てていた。しかもかれが加わることで確実に音楽が豊饒になる。フィドルとユニゾンしたり、ドローンで支えるアコーディオンや小さく裏メロをかなでるブズーキが心憎い。こういうところが中村さんの頼もしさだ。

 橙はメンバーのオリジナルを演奏するプロジェクトで、この日は3枚めになる Vol.0 のリリース・ライヴという触れこみ。どれも愛らしい小品という趣。一方でかなり複雑で工夫の深い曲でもあって、何度か聴かないと味わいが沁みてこないようでもある。半分は大渕さんがうたう。

 大渕さんのうたは中性的でもあり、感情をこめない。これまたアイリッシュ的であって、感情は演奏そのものには現れず、聴く人間の内部に入ってから醗酵する。ノーマイクということもあって、ますますその傾向が強まる。じっくり録音を聴きたくなる。

 曲が短かいせいか、ギターの持ち替えやチューニングのためか、MCが多めで、楽しい。ミュージシャンの日常の音楽生活の機微にも触れる、かなり突っこんだ話も聞けた。

 とはいえハイライトはアンコールのアイリッシュのセットでした。

 ここは千駄木の、谷中銀座にも近いカフェ兼写真館で、会場は1階のカフェのテーブルと椅子を並べかえ、ミュージシャンは通りに面した一面ガラスの壁を背にする。外の路地を通る人は聴衆を見ることになる。20人も入ればいっぱいで、ミュージシャンとの距離はひどく近い。このライヴの数日前が3周年だそうで、アンコール前にハッピバースデーが始まったのはそれかと思ったら、大渕さんの誕生日祝いだった。大台にのってひどく気が楽になったそうだ。

 ここでは今年9月にハモクリ・アコースティック・トリオ版のライヴが予定されている。これは楽しみだ。(ゆ)

 ジェリィ・ガルシアの未発表インタヴュー集 JERRY ON JERRY 着。Dennis McNally が1973年から1989年の間に5回にわたって録音したものを活字にし、再構成している。録音もオーディオブックとして、配信とCDで出ている。いずれ買おう。

Jerry on Jerry Part 3
 

 トリクシーのまえがき、マクナリィの序文に続いて、音楽に関するところを読む。インタヴューないし会話なので、すいすい読める。が、何を言っているか必ずしもすぐにわかるわけではない。

Jerry on Jerry bear?
 

 ではあるにしても、マクナリィが言うとおり、即興演奏のとき、実際になにが起きているのか、これだけ明確に語られるのには興奮する。やはりあれはメンバー間の会話で、ガルシアが一人ですっ飛んでいるわけではないのだ。会話の相手によっても、また相手がどう返すかによっても、ガルシアのギターは変わってくる。そのことは 30 TRIPS AROUND THE SUN でもキース・ガチョークの最後の年とブレント・ミドランドの最初の年の対照としても鮮かに聴くことができる。

Jerry on Jerry guitarist on stage
 

 これを読むと、ザッパが自分の即興についてどういうことを言っているのか、気になってくる。『自伝』にはあったっけ。

 豊冨な写真とガルシアの絵画作品が楽しい。写真はよく使われるものも多いが、ガルシア家に保存されているものからのものは珍しい。絵がどれも面白い。ガルシアの絵はスタイルが複数ある。写実、抽象、ざっくりとしたスケッチ、細かく描きこんだ細密画。この人は画家としても大成しただろう。ガルシアの絵の個展を見てみたい。

Jerry on Jerry 2 players
 

 版元の Black Dog & Leventhal Publishers は Hachette のインプリントのひとつで、あまりインプリントらしくない名前だなあ、どんなところなのかと検索すると、1993年、J. P. Leventhal という人物が創設した出版社だった。これを昨年11月アシェットが買収している。このことを報じたブログは Melville House というブルックリンの独立出版社のもの。

 この変わった社名は上記ブログが引用している創設者の文章によれば、かれの一族が妹の前夫まで含めて全員が出版業に携わっているなかで唯一いなかったのが黒犬 Tess だったので、当初 Black Dog Press とするつもりが、流通を担当する Peter Workman が人名も入れるべきだと主張したためだそうだ。このワークマンはあのワークマン社のようだ。

 メルヴィルのいうとおり、アシェットが買う前になぜワークマンが買わなかったかと思うが、買えない事情があったのだろう。Black Dog & Leventhal Publishers は美術関係など、いわゆるコーヒー・テーブル・ブックが得意で、美術館のショップに販売網を持っているらしい。確かにガルシア本のデザインもキレがいい。アシェットはアマゾンに対抗するため、アマゾン以外の流通網の整備を精力的にやっており、この買収もその一環、というのがメルヴィルの見方。ランダムハウスとペンギンの合併で他のメガ版元に圧力がかかってもいるのもたしかにあるのだろう。アシェットはロングセラーを持っている小規模版元を次々に買収しているという。

 では、小規模な独立版元が消えるかというと、そうでもないようなのも面白い。こうして買われた版元の創設者たちは、当初はそのまま残っているが、しばらくするとまた独立したりする。コングロマリットになると、売れるものを出せという圧力がかかるなどするからだろう。先日 NYRB にも誰か書いていたが、出版というのはつまるところメディアの規模としては小さなものなのだ。

 メルヴィル・ハウスの方は、結構多彩な本を出している。ウエブ・サイトには Fantasy や Science Fiction という項目もあって覗いてみるとストルガツキー兄弟などがある。フィクションは翻訳がメインらしい。新刊としてフィーチュアされている1冊に Manuel Vazquez Montalban の THE BUENOS AIRES QUINTET があり、紹介文によればメタフィジカルな探偵で、テーマは資本主義の本質をなすブラックな要素らしい。資本主義はほおっておけばブラックになってしまうものだ。しかも資本主義は収奪される側だけでなく、収奪する側も縛る。その道理にしたがって大きくなると、カネの奴隷にされてかえって動きがとれなくなる。カネが欲しいという人間の欲望から資本主義は生まれたわけだが、そうなるとカネが手段でなく目的になる。目的となったカネは独自の意志を持ち、人間を収奪して太る。結果、カネだけは増えるが、そのことで幸せになれる人間は誰もいない。ドナルド・トランプも渡邉美樹もちっとも幸せそうではない。バスケス・モンタルバンはバルセロナ生まれの詩人。国会図書館で検索すると、このペペ・カルバロというスペインの私立探偵のシリーズが3冊邦訳されている。創元から出た最初のものを図書館で取寄せてみる。(ゆ)

 20年以上前になるが、このCDが Vivid Sound から国内盤仕様で出た際に書いたライナーを再掲して、レンボーンの追悼に代える。

 今回も段落ごとに1行開けたのと、漢数字の一部をアラビア数字にし、明らかな誤字を訂正した他は当時のままだ。


  『隠者』という暗示に満ちたタイトルのもと、1976年に発表されたこのアルバムは、ジョン・レンボーンのソロとしては6作目にあたる。オリジナルのジャケットには、タロットの大アルカナ〈隠者〉をモチーフにしたデューラー風のイラストが描かれていた。ソロとしての前作 FARO ANNIE (1971) からは5年、ペンタングル最後のアルバム SOLOMON'S SEAL (1972) からとしても4年の隠遁生活を破っての登場だった。

  内容は、昨年国内盤の出たソロ第3作『鐵面の騎士』と第4作『ザ・レディ・アンド・ザ・ユニコーン』の流れを組み、またこれ以降の作品としては THE BLACK BALLOON (1979)、THE NINE MAIDENS (1983) へと続く。レコードでは一枚一枚新たな地平を開拓し、駄作を作らないJRだが、中でも『ザ・レディ・アンド・ザ・ユニコーン』『隠者』そして『ブラック・バルーン』のソロ3部作は、ギター・アーティストJRのユニークな音楽世界の完成への軌跡を示すとともに、ジャンルの枠を越えていく傑作だ。白石和良氏は『ザ・レディ・アンド・ザ・ユニコーン』を評し「トラッドと古楽の谷間に咲いた希有の名花」と書いておられるが、この言葉を敷衍すれば、『隠者』はその花をJRのギター一本に収斂して結晶化し、その結晶から『ブラック・バルーン』においてJRの美の世界そのものの化身が眼も眩む大輪となって開花する、と言えようか。それにしてもこのアルバムは厳しい。2曲を除いてすべてJRのギター一本のみで貫かれていて、しかもその2曲もやはりギターによる2重奏なのだ。これ以外のインスト・アルバムでは最低でもフルートやパーカッションがついている。これほど厳格・簡素なスタイルはこれが最初で最後だ。
  
 ところで今回の再発では曲順がオリジナルのものとかなり変っている。もとの曲順にもどしてみると、[05][10][06][07][04][11]ここまでがA面。B面が[02][03][09][08][01]となる。つまりA面にはブルース、フォークを集め、B面は中世・ルネッサンス音楽で固めているのだ。CDというメディアの特性を計算しての変更ではあろうが、お手元のCDプレーヤーがプログラムできるものであれば、試みにこの順番でお聴きになれば、オリジナル・アルバムの意図するところがよりはっきりわかるだろう。

 ひとことで言えば、ここに聴かれる音楽は、フォークでもクラシックでもない、他に類例を捜すことの難しい、あの希少な秘宝なのだ。かれの出発は紛れもなくフォークにちがいない。しかし、JRの関心は何よりもまず楽器にあり、ギターという楽器を媒介にして自らの美意識に律せられた世界を構築することにあった。そこではフォーク・ミュージックの素材や手法も独自の世界を作りあげるために奉仕させられる。とすればそれは、普通の人びとの平凡な日常生活の中に非凡な瞬間をすくいとっていくフォークの手法とは異なるものだ。一方で楽器への関心からJRは中世・ルネサンス期の音楽へ向かうことになるが、その姿勢は、あるヒエラルキーを持った価値基準にしたがって過去の蓄積から砂上楼閣を築こうとする従来のクラシックのものではないだろう。あるいは、過去のある時期の音楽を可能なかぎり当時の姿に近づけて再現することで、音楽そのものの原初的エネルギーをとりもどそうとするいわゆる古楽の姿勢とも一線を画する。

 空前絶後のペンタングルをも含むこれまでの全業績を踏み台としてしまうような本作でJRがしようとしたことを、いささか牽強付会を承知であえて分析してみれば、バロックによって科学的整合性の下に再編成される以前のクラシック音楽、出発点からペンタングルまで練りあげてきたフォーク/ブルース、それにラグタイム(発表当時ファンを驚愕させた)に象徴されるポピュラー音楽を、もともとのコンテクストから一度切りはなし、ギターという優れて現代的な楽器によって再現する。そこから生じるずれ、意図的な踏みはずしを拡大・深化していくことで新たな世界をきり開こうとする。少々使いふるされた言い方を借りれば、それぞれに伝統を背負い、確固たる基盤を築いているこうした形式を脱構築しようとするといえるだろう。ここにみられるJRの極めてパーソナルな姿勢は、その意味で反近代・非西欧的な音楽、アイリッシュ・ミュージックやジャズの世界の住人のそれに近い。例え聴衆が他にひとりもいなくとも、JRはおのれとそのギターのためだけに音楽を奏でつづけるはずだ。すなわち『隠者』というタイトルにはそれに先だつ4年の沈黙期間を代弁させるとともに、孤独の中でひとつの道を極めんとする求道者の姿も重ね合わせられているにちがいない。

  タイトル通り、このアルバムによってJRのギター・スタイルは完成の極に達し、ここに精妙、繊細、そして変幻自在な音楽世界がその全貌を現わすことになった。この点で意味深いコメントをしているのが、ソロとしては前作に当たる FARO ANNIE (1971) のプロデューサーでありJRの永年の協力者でもあるビル・リーダーだ。FARO ANNIE の録音セッションの際、最も苦労したのはJRのマイク・セッティングだった。というのもかれのギターがあまりに繊細で、アンサンブルの中できちんと捉えることが恐ろしく難しかったからだった。

  「かれの演奏があまりに静かなものだったので、ジョンがたてる一番大きな音というのはギターをこする服の袖の音だったことも少なくなかったんだ。でもあのセッションはいいできだったと思う」

  この後でバート・ヤンシュの MOONSHINE と同時にリプリーズに録音されたというテープが陽の目を見れば、本作に向かってJRのギターが深化していく過程が聴けるかもしれないが、それまではこの言葉から想像をたくましくする他はなさそうだ。

  ではJRの類例のない美意識はどこに立脚しているのだろうか。その点を詳しく考察する余裕は今はないが、ここで興味深いのがキャロラン・チューンをとりあげたことである。キャロランはアイルランド音楽にユニークな地位を占めるハーパー/作曲家だ。その業績をひとことで言えば、アイルランドの古くからの社会組織=ゲーリック社会がその長い衰退の最後の段階にあった時代に生きて、古来の価値観とイタリア・ルネサンスに象徴される新しい文化の融合を果たした人物だ。キャロランのおもしろさはもともと上流階級だけのものだったその音楽がその後フォークの伝統にとりこまれ、現在ではフォークの文脈で演奏されることが普通になっていることである。例えばヴィヴァルディやコレッリの音楽をイタリアのフォーク・ミュージシャンたちが演奏しているところをおもい描いてみればいい。死後、キャロランの頭蓋骨は厳しい禁酒の時期に当たったことから、地元の人びとの手によって保存され、これで酒を飲むと癲癇が治るとされたという伝説を自筆のノートで紹介しているのは気まぐれではあるまい。

  今回原盤に一部タブ譜がついているので、ギターのできる方は各々演奏を試みられれば、JRが達成したものがどれほどのものか身をもって体験するという特権を得られるだろう。以下、オリジナル・アルバムにつけられたJRのノートを中心に各曲について述べてみよう。
  
 [06]でデュエットをつけ、曲のクレジットも得ているドミニク・トレポーについては、これ以外の録音も知られておらず、詳細はわからない。パリからJRのもとへ遊びにきていた際にこの曲を作ったという。[01]の原曲を書いてJRにラグタイムを弾かせる契機を作り、[01]で共作・共演しているジョン・ジェイムズはラグタイムやブルースを得意とするウェールズ出身のギタリスト。JRはジェイムズの4作目 HEAD IN THE CLOUDS (Transatlantic、 1975) に参加し、そのタイトル・チューンを元に㉂を作った。

 [01]aは1603年にトマス・ロビンソンが出版した SCHOOLE OF MUSIKE に載っている3曲のデュエット曲の一曲。本来はリュートのためのもの。[01]bはエリザベス朝で非常にポピュラーだった曲で原曲の作曲者は不詳。JRが編曲者のひとりとして名を挙げているトマス・ロビンソンは、黒田史朗氏によればやっていないはずで、手掛けたのは Francis Cutting、ニコラス・ヴァレ、スート・ロッベル、それにジョン・ダウランド、さらにウィリアム・バードが「フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック」に編曲をひとつ載せている。いずれもリュート用。この曲はウィル・ケンプによって有名になった。ケンプはロバート・ダドリー(1573-1649)に従ってオランダへ赴くが、ダドリーが追放されウィロビー卿が後を継ぐと、卿にとりいるために曲を改題した。

  キャロランの3曲はいずれもアイリッシュ・ハープのための曲。[02]a:死者に捧げられた哀歌は非常に古くからあるジャンルだ。この曲の対象オーウェン・ロゥ・オニール (1590?-1649) はクロムウェルに対抗したアイルランドの軍人で、アイルランド古来のゲーリックの伝統を継いだ最後の「チーフテン」ティローン伯ヒュー・オニール (c1540-1616) の甥。はじめイングランド側を大いに破るが、クロムウェルとの直接対決の直前に急死した。フランシス・オニールの『アイルランドの音楽』収録。[02]bはベルファストのクィーンズ・ユニヴァーシティ図書館所蔵のエドワード・バンティングによる採録譜が原典。キャロランは各地の上流階級の人士のために曲を作るのが主な商売で、タイトルはその曲を捧げられた相手の名前。これはおそらく1719年に名跡を継いでクレア州に住んだ第4代インチキン伯であろう。[02]cは「キャロランズ・コンチェルト」の別名で、キャロランの作品中最も有名な曲。メイヨ卿の屋敷に滞在していた折り、コレッリの弟子ジェミニアーニといっしょになり、作曲試合をした際の作品という伝説がある。

 他はすべてJRのオリジナル。[03]はフルーツ・パイの有名なメーカー数社の依頼で書いた45秒の曲を引き伸ばしたもので、テューダー朝音楽のパスティッシュ。[04]はこのレコードの中で正統的なものに最も近いピッキングの曲。[05]ギタリストならば遅かれ早かれひねりだすことになるだろうタイプの曲、と本人は言う。[07]は高潔で鉄のごとき威厳のあるタイプの曲だが少々使いふるされた部品で作られている。[08]はある卓越したギタリストの幼い娘に捧げられた小品。[09]ははっきりした終りのない曲なので、ブレーキが聴かなくなると終れなくなる。

 もしJRが現れず、世に出たのが、デイヴィ・グレアムとバート・ヤンシュだけだったとしたら、現在のギターの地位はどんなものになっていただろう。17年前のレコードを聴きながら、ふとそんな妄想が頭をよぎった。

1993年9月
大島 豊

(いつもながら白石和良氏に貴重な資料・助言をいただいた。また以前発売されていた国内盤LP(コロムビア YS-7051-LA、 1980)添付の黒田史朗氏のライナーを一部参考にさせていただいた。篤く御礼申し上げる。)


 個人的には《BLACK BALLOON》が一番好きだが、最後の録音となった《PARELMO SNOW》に現れた、ペンタングル以来のジャズへの接近がその後どう展開されていたかは聴きたいと思う。(ゆ)


The Hermit
John Renbourn
Shanachie
1991-09-30


 ほとんど2年ぶりに見る内藤さんは大きく成長していた。いや、そんな言い方はもうふさわしくない。一個のみごとな音楽家としてそこにいた。城田さんと対等、というのももはやふさわしくないだろう。かつては城田さんがリードしたり、引っ張ったりしていたところがまだあったが、そんなところも皆無だ。城田さんも、まるでパディ・キーナンやコーマック・ベグリーを相手にしているように、淡々とギターを合わせる。

 今日は〈サリー・ガーデン〉や〈庭の千草〉のような「エンタメ」はやりません、コアに行きます、と城田さんが言う。コアといってもアイリッシュだけではない。いきなりオールドタイムが来た。城田さんがもっと他の音楽、ブルーグラスもやろう、と言うのに内藤さんがむしろオールドタイムをやりたい、アイリッシュ、オールドタイム、ブルーグラスはみんな違うけれど、オールドタイムはどこかアイリッシュに近い、と言うのにうなずく。ブルーグラスは商業音楽のジャンルだが、アイリッシュとオールドタイムは伝統音楽のタイプなのだ。

 それにホーンパイプ。アイリッシュでもホーンパイプはあまり聴けないが、ぼくなどはジグよりもリールよりも、あるいはハイランズやポルカよりも、ホーンパイプが一番アイリッシュらしいと思う。〈The Stage〉はものすごく弾きにくい曲なんです、と内藤さんが言う。作曲者は19世紀のフィドラーだが、ひょっとするとショウケース用かな。

 その後も生粋のアイリッシュというのはむしろ少なく、アメリカのフィドラーのオリジナルやスコティッシュや、ブロウザベラの曲まで登場する。ブロウザベラは嬉しい。イングリッシュの曲だって、ケルト系に負けず劣らず、良い曲、面白い曲はたくさんある。速い曲も少なく、ミドルからスローなテンポが多いのもほっとする。

 コンサティーナもハープももはや自家薬籠中。コンサティーナの音は大きい、とお父上にも言われたそうだが、アコーディオンよりは小さいんじゃないか、とも思う。音色がどこか優しいからだろうか。ニール・ヴァレリィあたりになると音色の優しさも背後に後退するが、内藤さんが弾くとタッチの優しさがそのまま響きに出るようだ。

 今回の新機軸は城田さん手製のパンプレット。このバードランド・カフェのライヴ専用に造られたもの。主に演奏する曲の解説だが、曲にまつわる様々な情報を伝えることは、伝統音楽のキモでもある。伝統音楽というのは、音楽だけではなくて、こうした周囲の雑多な情報や慣習や雰囲気も含めた在り方だ。

 ここは本当に音が良い。まったくの生音なのに、城田さんのヴォーカルも楽器の音に埋もれない。それだけ小さく響かせているのかもしれないし、距離の近さもあるだろうが、こういう音楽はやはりこういうところで聴きたい。

 今回はイエメンとニカラグアをいただく。あいかわらず旨い。美味さには温度もあるらしい。熱すぎないのだ。あんまり熱くするのは、まずさを隠すためかもしれない。家では熱いコーヒーばかり飲んでいるが。

 終わってから、先日音だけはできたという、フランキィ・ギャヴィンとパディ・キーナンとの録音で、内藤さんの苦労話を聞く。今年の秋には二人を日本に招く予定で、それには間に合わせたい、とのこと。しかしこの二人の共演録音はまだ無いはずだし、ギターが城田さんで、内藤さんも数曲加わってダブル・フィドルもある、となると、こりゃ「ベストセラー」間違いなし。それにしても、内藤さんの話をうかがうと、アイリッシュの連中のCDがなかなか出ないのも無理はない、と思えてくる。

 城田さんは晴男だそうだが、近頃多少弱くなったとはいえあたしが雨男で、店の常連でこのデュオの昔からのファンにもう一人、やはり強烈な雨男がおられる、ということで、昨日は途中から雨になった。お店の近くの二ヶ領用水沿いの枝下桜は雨の中でも風情があって、帰りはずっと用水にそって歩いてみた。満開の樹とまったく花が咲いていない樹が隣りあわせ、というのも面白い。(ゆ)

 いよいよ来月になって、公式リリースも出たので、こちらでも案内します。

 昨年春に続き、今年も Winds Cafe に参加します。

--引用開始--
● WINDS CAFE 215 in 三軒茶屋 ●

【メランコリーの妙薬
——英国シンガー/ギタリストのうたう伝統歌謡を聴く】

おおしまゆたか(翻訳屋)
川村恭子(文筆家)

2014年11月16日(日) 午後2時開場+開演

レンタルスペースSF 東京都世田谷区太子堂2-12-10

入場無料(投げ銭方式) 差し入れ大歓迎!(特にお酒や食べ物)

※出入り自由ですが、できるだけ開演時刻に遅れないようご来場ください。

14:00 開場+開演(休憩をはさんで、前後半各1時間の予定)
17:00 パーティー+オークション

▼川村からひとこと

 ディスクジョッキーの楽しさをライヴで味わわせてくださるおおしまさん。

 これまでに【ケルト音楽の正体——その浸透と拡散】、【『ユーロ・ルーツ・ポップ・サーフィン』実践篇】、【録音でたどるアイルランド音楽の軌跡 第1部 2003〜1983】、【録音でたどるアイリッシュ・ミュージックの歴史 後篇 1904〜1983】、【「水」はいかに広いか】、【エキゾティック・イングランド——遅れてきたワールド・ミュージック】、【もう一つのチーフテンズ】と7回出演していただきました。

 今回も、前回に続き、川村恭子さんがご一緒してくださいます。もともとおおしまさんとは、川村恭子さんのご紹介で知り合ったのですが、それから早いものでもう15年目。今や、音楽・文学人生の大いなる先輩として頼りまくっております。

 当日は、おおしまさんも私も愛用しているタイムドメイン方式のオーディオ装置で音楽を再生します。装置は設計者栗田真二氏自らの運搬(!)と設置による bauxar社の Jupity301 ですので、こちらもお楽しみに。
http://www.bauxar.com/


▼おおしまゆたかさんからの手紙

 前回の WINDS CAFE で初期チーフテンズをやらせていただいて、アイルランドには一応ケリを着けたので、今回は英国、つまりブリテン島にもどり、主に英語の伝統歌謡を聴こうと思います。それも、ギター伴奏ないし無伴奏という形です。

 ギターはむろん伝統楽器ではなく、伝統音楽に使われるのは1950年代以降です。が、ぼくらにとってギターは最も身近な楽器でもあり、20世紀後半を象徴する楽器でもあります。また、ギターは伝統楽器ではない故に、英国の伝統歌謡を革新しました。

 今回は、けれどもそういう歴史的な文脈や英国の現代社会における伝統歌謡の位置といった筋にはあえて踏みこみません。つまり、ぼくとしてはそれを提示するつもりはありません。

 ギター伴奏による英国伝統歌謡は、ぼくがこの方面の音楽に引きこまれた機縁となったものです。それを、ともに味わっていただこうという、いたってシンプルな内容です。

 この形の音楽の性格として、昏いことがあります。ひたすら陰々滅々、昏い話を昏いメロディに載せ、昏くうたう。それを聴くのが何よりも悦びなのであります。その愉しみをご提供すべく、できるかぎり昏い演奏を選びます。聴きながら、あまりの昏さにいたたまれなくなって、次々に退場してゆき、ついには誰もいなくなる、というのをめざします。

 どんな明るい人もメランコリーになるように、メランコリーの人はますますドツボにはまるように。つまり、メランコリーを治す妙薬ではなく、メランコリーを引き起こす妙薬が提供できますように。

 今回も畏友・川村恭子氏(主宰者と血縁ではありません、念のため)にツッコミ役をお願いしました。うまくボケられますように。
--引用終了--

 ということで、イングランドとスコットランド英語圏のギタリスト/シンガーの録音を聴きます。

 ディック・ゴーハン、クリス・フォスター、クリス・ウッド、ヴィン・ガーバット、トニー・ローズあたりは当確。新しい人で Jimmy Aldridge & Sid Goldsmith も当選。

 その気になって探してみると、案外、みんな明るいんですね。ニック・ドウとかも明るい。イングランドの冬のくらさの中をどこまでも墜ちてゆくようなうたは、なかなかありません。

 あと、タイトルには「伝統歌謡」と掲げましたが、必ずしも「伝統」とはいえないものも出てくるかもしれません。

 今週末は別件のイベントなんで、それが終わってからおいおい最終選考に入ります。


 ちなみにそのイベントはこういうものです。あたしもどこかのブースにうろうろしております。結構面白そうなモノもあるので、おヒマな方はお立ち寄りください。(ゆ)

 うーん、ショックだ。それも自殺とは。1980年の交通事故の後遺症とのことだけど、前世紀末、平安隆さんと録音を出していた頃にインタヴューした時には、そんな気配はまるでなかった。年をとると出てきたのか。

 とまれ、合掌。(ゆ)

 こういうライヴに接すると生き延びてよかった、と実感する。死ぬことはこわくない、と言えば嘘になるが、それ以上につまらない。新しいことに出逢えなくなるから。

 ティム・スカンランは新しい。さまざまな音楽がまざりあっているその様が新しい。

 ベースになっているのは、名前からも連想できるとおり、アイリッシュだ。1週間前にポール・ブレディとアンディ・アーヴァインのデュオがオーストラリアに来たんだ、と興奮していた。あのアルバムは永遠のベストだよなあ、そりゃあ、すごかった、アンディは天才だ、あれで70近いんだぜ、おれもあの年になってもあれくらいできていたいもんだ。

 アイリッシュを核として、それにレゲエやブルースやフレンチ・カナディアンやなんだかよくわからない、ひょっとすると本人にもよくわからないあれやこれやが、あるいは融合し、あるいは混合している。その度合いも様々だ。あくまでもパーソナルな音楽、個人のフィルターを通ることで形をとっている。そこにはこれからも様々なものがあるいは融合し、あるいは混合してゆくだろう。その中には日本や琉球のものもあるかもしれない。そして、その全体は、全体としてみれば、やはりアイリッシュ・ミュージック、その変奏のひとつではある。

 ジョンジョンフェスティバルとともに演奏する姿を見ていると、アイルランドから流れでたものが、はるかな時空を隔てて、ここに束の間、合流しているのを見る想いがする。ティムも、ジョンジョンフェスティバルも、アイリッシュに敬意をはらいながら、そこにべったり依存してはいない。ひたすら模倣するのでもない。その流れから汲み上げたものをもとにして、それぞれに合った味付けをしている。汲み上げたものを変容させるのではなく、そこに自分たちにそなわるものをつけ加える。調味料を加える。そうしてアイリッシュから、新しい味をひきだす。調味料も、調理方法やスタイルも、ティムとジョンジョンフェスティバルでは異なる。それでいて、核となる材料を同じくすることでまず同居が可能になる。あるいはアイリッシュが触媒の作用をする。結果現れるのは、どこまでもアイリッシュでありながら、すでにアイリッシュとは別のなにか、だ。ユーラシア大陸の東端の列島と、オーストラリア大陸の東端にぞれぞれ現れた「なにか」同士が、共鳴し、反応し、これまでどちらにもなかったものが現れようとしている。

 とりあげていた曲も、自作のうた以外はほぼアイリッシュだった。フレンチ・カナディアンも少しあって、一緒にやったジョンジョンフェスティバルのじょんとあにいが、あれは癖になりそう、と言うのを頼もしく聞いた。そのフレンチ・カナディアン式のフット・パーカッションはやはりカナダで習った由。黒い靴は着ている服とそぐわず、特別なのかと訊いたら、実は街で拾ったのだという話。ある日、街中で、結婚式か葬式の帰りらしいスーツ姿の3人づれに出逢った。そのうちの一人が目の前ではいていた黒靴を脱ぎ、ゴミ缶の上に置き、靴下裸足で行ってしまった。往来の激しい通りで、しばらく見ていたが、誰も気がつかない。そっといただいて帰った。カナダでフレンチ・カナディアンお得意のフット・パーカッションを習い、これにはあの靴がぴったり、と帰って試したら、どんぴしゃ。最高の音がする。と歩いてみせると、なるほどぱきんぱきんといい音がする。かなり重いらしい。手に入れた方法がほんとうの話かは保証のかぎりではない。

 足は主にパーカッション。左でフット・シンバル、右でカホンにキック・ペダル。時に中央にそろえて、靴底を鳴らす。左ききのギター。左手にはエッグ・シェイカーを握って、ストロークをかきならしながら振ったり、ボディに当ててアクセントをつける。メイン・メロディはホルダーに付けたハーモニカ。

 どれもこれも尋常でなくうまい。どれか一つだけでも悠々メシが食える、というより第一級の腕の持ち主。アイルランド流のコンテストがあれば、優勝の常連になるだろう。だけでなく、そのうち、上の三つを全部あやつりながら、踊りだすのではないか、とすら思われる。

 そして、リズム感覚がどこか違う。どう違うかと言われると困る。とにかくアイリッシュのそれではない。少なくとも、アイリッシュ・ミュージック固有のものではない。むろんアメリカンではない。レゲエは大好きなようだが、カリブのものでもないだろう。今のところは、他にないユニークな感覚、とのみ言っておく。かなりしなやかな感覚ではあるようだ。とにかくそれが生む効果はゆるくたくましく高揚感をよびおこす。

 ひとつすぐわかる成果としては、レゲエとアイリッシュ・チューンの融合だ。こんなによく合うものとは意外と驚く一方でさもありなんとも思う。イングランドではかつて1980年代に Jumpleads がモリス・チューンをゲレエで処理して大成功しているし、スコットランドでは Salsa Celtica をはじめ、カリブのリズムとケルト系チューンを組み合わせて成功している例はいくつかあるが、アイルランドではたぶん聞いたことはない。これはもっと聴きたい。ティムのルーツのひとつではありそうで、口三味線をまじえてレゲエを再現しながら、ダンス・チューンをくりだす。

 シンガーとしても一級で、実際のところ、ポール・ブレディやアンディ・アーヴァインと肩をならべてもおかしくはない。うたそのものもユニークなものであり、その声の質もあいまって、ヴィン・ガーバットのうたを連想させる。そういえば風貌全体のかもしだす雰囲気もガーバットに似ている。

 乗った飛行機が中継地の香港で10時間立ち往生し、羽田に着いたのが昨日の朝2時、ということで、一晩熟睡したとはいえ、ジョンジョンフェスティバルの前座に続いてステージを始めたときは、まだ半分眠っている感じだったのはやむをえないだろう。前半の終わる頃にようやくエンジンがかかってきたようだ。これもアンディ・アーヴァインと同じで、ツアーが進むにつれて良くなってゆくにちがいない。2週間後に東京にもどってくる時には別人になっているはずだ。

 生き延びた甲斐があったとあらためて実感させてくれたトシバウロンに感謝。高円寺の Cluracan はギネスも旨い。(ゆ)

 三連荘の初日。

 隆慶一郎はそのエッセイで、小林秀雄の「幻のスピーチ」について一度ならず触れている。小林の恩師、東大仏文の名物教授辰野隆退官記念講義で弟子代表として送別の辞に立った小林が感極まり、最初の一節だけで後が続かず降壇した。一瞬静まりかえった講堂は、次の瞬間割れんばかりの拍手が満たした。その時その場に居合わせた人間だけが体験できたそのできごとを記して隆は言う。

 ここにいないやつはかわいそうだな。

 週末夜の吉祥寺。ポール・ブレディの1年ぶりのライヴというのにやけに客が少ないフロアで、最初の1曲が終わったとき、その一節が浮かんだ。

 隆の書くごとく、不遜といわれてもやむをえないだろう。それでも、その感動、いや感動などということばではとうてい汲みつくせない、存在の根柢からゆさぶられる感覚はそういう想いが出てきても不思議はない、いや、出てこなくてはおさまらないものだった。そしてその感覚は、しずまるどころかどんどん強くなり、アンコールではとうとう限界を超えてしまった。流行りの表現を借りれば、なにかが降りてきていた。それもポールだけにではなく、ステージの上だけでもなく、客席にも、店内の空間そのものにも、降りてきていた。その時その場かぎりの、空前にして絶後の体験。そこにいあわせた者にしかわからない、どう伝えようもない体験。およそ人として可能なかぎりの至上の体験。これ以上は踏みこんだら最後もどってはこれない絶対領域。ブラックホールのシュヴァルツシルド面、事象の地平線の彼方に行ってしまうだろう、その寸前。そこに居合わせた人間にできることは、ただそういうことがあった、と記録することだけだ。隆慶一郎とて、「幻のスピーチ」の概要は記録できても、その時の体験を伝えることはできなかった。

 そのできごとの成立に貢献していたのは、サウンドの良さだ。ふつうのマイクとは違う、録音スタジオで見るようなマイクが2本、ステージ中央に立てられていて、ポールも山口さんも、特にマイクに近寄らなくてもヴォーカルもギターも適度に増幅される。そのバランスと音質の極上なこと。

 スター・パインズも含め、マンダラ系のライヴハウスはどこも音が良いが、その水準に比べても格段に良い。

 マイク位置に縛られないから、ポールはかなり自由に動ける。それが最も発揮されたのは〈Nothing but the same old story〉。1980年代半ば、ブリテンで過ごした体験から生まれたこのうたは、第二次大戦中から戦後にかけてアイルランドからブリテンに渡った移民たちが置かれた情況とそこから生まれる想いをうたっている。ポールはまさにその移民の一人になりきってうたう。ほとんど演劇の範疇だ。このうたのこんな演唱は初めてだし、それはまたベストのパフォーマンスでもある。

 PAシステムの音質の良さが発揮されるのは、まずなによりポールの声だ。力強く、大きくふくらみ、深く響くその声は、聞く者の全身を包みこみ、胸にするりと入りこみ、内側から満たしてくる。その快感はオルガスムスに近づく。音楽を、うたを、人間の声を聴くことの悦びが凝縮している。

 そしてギター。単にうまいだけではない。ポールはギターの限界に正面きって対峙し、突破をはかり、そうしてギターの限界をおし広げる。それも楽器としてギター単体だけではなく、うたとの組合せ、相互作用においてやってのける。うたとアコースティック・ギターの組合せの潜在能力、可能性をひとつの極限まで展開している。ストローク、アルペジオ、単音演奏、リズム、メロディ、カウンターメロディ、ハーモニー、あらゆるスタイルと位相が一体となるめでたさよ。

 そのすべてが今年66歳になる人間から生みだされていることをあらためて思うとき、驚きはさらに増す。先日のドーナル・ラニィもそうだったが、こいつらに老化ということは起きないのか。それとも音楽は人を若返らせるのか。よい年のとりかた、とか、円熟の味わいとか、枯淡の境地とかいうものとは、まるで無縁の音楽ではないか、ここで鳴っているのは。

 あと20年ぐらいしたら、山口さんもこうなれるだろうか。その可能性は小さくないと思うが、その頃にはもうこちらはいない。

 終演直後、これはこのままでは終われない、と思った。もう一度来なくてはならない。明日は無理だが、日曜日はなんとかしよう。

 しかし、一夜明けて、想いなおした。あんなことを体験したら、むさぼってはいけない。明日はもっと良くなるだろう。それは確実だ。だが、それをも体験してしまえば、昨日のような体験を時をおかず再びしてしまっては、おそらく限界を超えてしまう。自分の許容量はそう大きくはない。はじめから三連荘通うつもりで準備している時とは違う。容量を超えるものを注がれると、感覚は麻痺する。すでに入っているものも壊れ、変質し、すべてが失われる。昨日の体験をたいせつにするために、今回はもう見まい。

 代わりにポールのこれまでの録音を聴きかえそう。山口さんの録音を聴きかえそう。次にそなえるために。(ゆ)

 11月上旬、列島西部5箇所で公演する。

 6回めの来日、となると、アイリッシュとしては、日本に住んでたドーナル・ラニィは別として、チーフテンズに継ぐ回数になるのかな。それで、今回はわが国伝統文化とのコラボレーションがモチーフなのだそうな。会場も、東京こそトッパンホールだけれど、その他は日本画家の作品を集めた美術館とか、小泉八雲ゆかりの寺とか、ちょっと変わったところばかり。もっとも、あの二人の音楽は、ヘタなライヴハウスよりも、そういう歴史が蓄積された、あるいは聖別された空間の方が共鳴が大きくなるだろうね。

 トッパンホールでは尺八の田辺冽山氏が「前座」で、共演もあるとか。

 それも面白そうだけど、個人的には小諸の美術館で聴いてみたい。北信はその頃ならもうそろそろ晩秋よりは初冬で、聴きおわって出てきた時に感じるものが、東京なんかとはまるで違うはずだから。

 まったく根拠はないのだけれど、アイリッシュ・ミュージックって、この列島では信州とか北海道で聴くのがベストと思う。

 チケット販売はそれぞれの公演に掲げてある他、すべて The Music Plant にて扱っている。


11/03(土)東京 トッパンホール
オープニングアクト 田辺冽山(尺八)
18:00開場 18:30開演
前売 6,000円(指定)5,500円(自由 e+のみ)
チケット販売
 トッパンホール・チケットセンター 03-5840-2222
 e+(自由席のみ)

18:00開場 18:30開演
前売 3,500円
問い合せ 天地窯 090-4153-0301

11/06(火)名古屋 秀葉院
18:30開場 19:00開演
前売 4,000円 当日4,500円

11/08(木)京都 永運院
18:30開場 19:00開演
前売 6,000円

11/10(土)松江 洞光寺
18:00開場 18:30開演
前売 3,500円 当日4,000円



Thanx! > のざきさん@ミュージック・プラント

ライヴを見るのは2回目。デュオとしてのラ・カーニャでのライヴはたしか3回目。定期的に回を重ねられているのは重畳。前回からもだいぶ変わっている。
    
    ひとつには内藤さんが力をうまく抜けるようになってきていて、スローな曲や本来うたの曲などの演奏の味わいが深くなっている。もともとクラシックの技法もとりいれた多彩なフレージングや音色がすばらしいが、それとはまた別の次元で、表現の幅も広くなった。
    
    こういうことは他での活動、たとえば O'Jizo での演奏にも良い形で波及しているはずだ。あちらはまた対照的に、ぴーんと張りつめた緊張感が快いのだけれど、うまくリラックスしてこそ本物の緊張感が生まれるというものだ。
    
    おそらくは城田さんの感化によるものだろう。意識しないでも一緒にやっていると伝染し、沁みこんでくるものなのだ、きっと。城田さんが伴奏者というより、パートナーとして幅広いミュージシャンたちから引っぱりだこなのも、たぶん、そういうふうに、一緒にやっているとリラックスして、ふだんなかなか表に出てこないような深いところからの音楽が湧いてくるからではなかろうか。
    
    内藤さんが手に入れたままほおっておいたハープを手にとる気になったのも、そうしてリラックスして気持ちに余裕が生まれたせいではないか。新しいことに挑戦する意欲が湧いてくるには、余裕が大事。
    
    もちろん技術的にはまだまだだが、さすがにミュージシャンとして天性のものを持っている人だから、音楽として楽しく聴かせてくれる。精進されればハープでも一級の演奏ができるようになるはずだ。フィドルへの良いフィードバックもあるだろう。
    
    それにしてもお二人によるホーンパイプの味わいは格別で、もっとホーンパイプをやってほしい。ホーンパイプをあまり国内の人たちはやらないが、ぼくなどはあれこそがアイリッシュの要と思っている。ジグやリールに比べるとどことなくとぼけたユーモアを感じるのもアイリッシュらしい。まあ、ノってしまえば恰好がつくジグやリールとは違って、ホーンパイプをまっとうに演奏するのは、ネイティヴ以外には難しいのかもしれない。それだけにホーンパイプの良い演奏に出逢うと嬉しくなる。
    
    とはいえハイライトはフランキー・ギャヴィン(と城田さんは発音する)と一緒にやったという〈Jewish reel〉。あの曲があんなにクレツマーを取り入れているとは、初めて気がついた。フランキーの演奏を聴きかえしてみなければならない。
    
    それとムーヴィング・ハーツの曲。いま確認できないけれど、あれはドーナル・ラニィの曲のはず。アイリッシュ・ビートのお約束をわざとはずしてゆく変則リズムが気持ちよく決まっていた。アイリッシュのノリはやはりスイングだと確認する。
    
    城田さんのバンジョーやうた、ブルーグラスのフィドル・チューンもあって、それはまたすばらしいものだけれど、前回よりもそうした脇道は少なく、アイリッシュを中心としたヨーロッパ・ルーツ音楽に重心が移っている感じではある。この辺は、今夏に二人ともアイルランドに行き、音楽三昧してきた影響かもしれない。
    
    待望のアルバム《KEEP HER LIT!》も完成したそうで、11/16の発売。とにかく楽しみである。録音にはライヴとは違った楽しみがあるので、こうして定期的にライヴに接することができる人たちでも録音は楽しみだ。何より好きなだけ何度も同じ演奏を聴きこめる。演奏もそうだろうが、良い演奏を何度も聴きこむことで聴く力も鍛えられる。というより、それしか聴く力を鍛える方法は無いだろう。
    
    アルバムを持って11月に西の方を回った後、12/22(木)に吉祥寺の Mandala-2 でレコ発ライヴがある。ここにはアルバムでもゲスト参加しているベースの河合徹三氏が加わる。
    
    以下、レコ発ツアーのスケジュール。

11/12(土)徳島・寅家(088-677-3233) 開演20:00
    前売 3,000円/ 当日3,500円 1ドリンク付き
11/13(日)高知・Caravan Sary(088-873-1533)開演18:30
    前売 3,000円/ 当日3,500円 1ドリンク付き
11/19(土)群馬・Sound Tam(027-385-3220)開演18:30
    前売 3,000円/ 当日3,500円
11/26(土)京都・都雅都雅(075-361-6900)開演19:00
    前売 3,000円/ 当日3,500円 別途飲食
11/27(日)名古屋・オキナワAサインバー KOZA(052-221-5244)開演15:30
    3,000円 1ドリンク付き
12/22(木)東京・Manda-la2(052-221-5244)開演19:30
    前売 3,000円/ 当日3,500円+1ドリンク・オーダー
    
    
    以下は城田じゅんじさんのライヴ・スケジュール。

10/30(日)浜松・東上池川公会堂 開演17:00
    3,000円 限定50席
    居酒屋ぴっぴ 0534-74-2778
11/05(土)中川イサト+城田じゅんじ@秩父・ホンキートンク 開演18:30
    前売4,000円 当日4,500円+オーダー
11/10(木)松山・スタジオOWL 開演19:30
    前売3,000円 当日3,500円 1ドリンク付き
11/11(金)高松 BEATLES 開演20:30
    前売3,000円 当日3,500円 1ドリンク付き


    そうそう、それと内藤さんが参加する O'Jizo もCDが出て、レコ初ライヴが今週末蒲田である。このアルバムは凄いよ。今年のベストの1枚。

10/22(土) O’Jizo 1st album《Highlight》発売記念ライブ

日本キリスト教団 蒲田教会
12時オープン / 13時スタート

前売2000円 / 当日2500円
問い合せ:tokyoirishcompany@gmail.com

    昼間なのはありがたいのだが、あたしは今週入院して抗がん剤投与を受けるので、土曜日はダウンしている。まことに残念。ご盛会を祈る。

バート・ヤンシュが亡くなりました。現地時間10/05の朝、ロンドン北部ハムステッドのホスピスでのこと。1943年11月3日スコットランドのグラスゴー生まれですから、67年と11ヶ月の生涯でした。
    
    2009年に肺ガンが発見され、手術したものの、翌年にはニール・ヤングとアメリカ・ツアーもしています。ヤングにとってヤンシュはヒーローのひとりでした。
    
    何かと比較されるジョン・レンボーンは今年、13年ぶりのスタジオ録音をリリースし、ひょっとしてヤンシュもと期待していましたが、8月のギグが病気のためキャンセルとなりました。2006年の《THE BLACK SWAN》が生前最後のリリースでした。
    
    ヤンシュがどういう人でどんな影響を与えたかはネット上にたくさん情報があります。YouTube にもたくさん映像があがっています。ひとつだけ言えることは、かれの影響は生前にとどまらず、これからも長く拡がってゆくにちがいない、ということです。ヤンシュ・チルドレンの一人、ニック・ドレイクのように、あるいはフランク・ザッパのように、亡くなって初めてその真の大きさが、徐々に現れてくる。そういう人でありましょう。
    
    ぼくにとってヤンシュはギタリストというよりも、ソングライターであり、歌唄いでした。シンガーとして押しも押されもせぬ存在というよりは、うたとギターが一体となったそのありように、ひとつの原型を見ます。
    
    ジョン・レンボーンはどこまでもギタリスト、ギターに手足が生えた存在であり、マーティン・カーシィはどこまでもシンガー、独創的なギター伴奏を編み出した偉大な歌唄いです。バート・ヤンシュにあって、うたとギターを分けることはできません。
    
    ペンタングルはもちろん巨大な存在ですが、ヤンシュの全録音から1枚だけ選べと言われれば、ですから《HEARTBREAK》(1982) を挙げます。
    
    英国のフォーク・シーンは今年、マイク・ウォータースンに続いてバート・ヤンシュを失いました。どんな人でもいずれたどる道とは言え、1960年代、70年代に20世紀後半の文化を作った人びとが世を去るのは衝撃が大きい。ヤンシュの魂がどこかで再び音楽家として生まれかわっていることを祈ります。(ゆ)

ホット・ウィメン〜1920〜50年代の78回転レコードに聞く暑い国の女性歌手たち    レヴューを頼まれた《ホット・ウィメン〜1920〜50年代の78回転レコードに聞く暑い国の女性歌手たち》を聞いていると、先日 Oxford Dictionary of National Biography の無料配信にギタリストの Francisco Antonio [Frank] Deniz (1912–2005) が載ったのはシンクロニシティに思えてくる。

    DNB では邦訳400字詰め20枚弱ほどの長さ。両親の出身や経歴がくわしく語られる。ところが録音を聞こうとすると、ブリティッシュ・ブラック・スイングの音源を集めたオムニバスに1曲入っているものしかみつからない。DNB の記事によれば、1950年代にはかなりの人気があったらしいのに。
   
    あるいはセッション・マンとしての仕事が多く、それもジャズ方面が多かったせいか。どうやらこの人はジャズにカテゴライズされることを嫌い、カリビアン・アフリカンを本領としたせいか。ひょっとするとアメリカが嫌いだったのかもしれないが、分類されにくいところへ向かったのは、おのれの嗜好に忠実だったからかもしれない。そのおかげでさらに自分の名を冠した録音は残りにくくなっても。セッション・マンとしてはホーギー・カーマイケルのバックでの仕事が一番入手しやすいようだ。
   
    とはいえ、コード・ストロークではない、メロディを弾くギタリストとしては、先駆者のひとりに数えられ、当時は他への影響も大きかったと思われるのに、ソロのタイトルが1枚もないとは首をかしげる。探し方が悪いだけか。
   
   
    《HOT WOMEN》の方に出てくる女性シンガーたちはほとんどが無名だ。時代は1920年代から30年代。すべてSPからの復刻。このインターネットの時代でもまったく情報が無い人たちも一人や二人ではない。「熱帯地方の女性シンガーたち」とのことで、メヒコからハワイまで、地球をぐるりとまわるうたの旅ができる。しかし、アラン・ロマックスがとらえたあのセビーリャの名もしれぬ女性のように、この女たちの声は後々まで残り、それぞれの時代に聴く者をゆり動かすだろう。編者のロバート・“フリッツ・ザ・キャット”・クラムがライナーで言うように、ことばなどわからなくても、本人が何者かわからなくても、デジタル録音ではなくとも、どうでもよくなってくる。彼女たちのうたには聴くたびにゆりうごかされる。足を踏みしめているはずの基礎岩盤がゆりうごかされる。そしてまた聴きたくなる。
   
    SPからの復刻は音が良いものが多いが、これはまた格別で、エンジニアも誉めたたえられるべきであるが、それとともに、女性たちの声がSPの特性に合っていたのかもしれない。オーディオ機器のテストには、むしろこういう録音の方が適切ではないか。これが気持ち良く再生できるシステムは信用できる。(ゆ)

キーブルダッチャー・ミュージック 本日正午付で本誌新年号を配信しました。届かない方は編集部までご一報ください。


 本誌からこぼれた情報ひとつ。

 昨年、トニー・マクマナスを招聘した打田十紀夫氏が、4月にボブ・ブロッツマンを呼ぶそうです。リゾネーター・ギターの魔術師として有名ですが、近年は世界の島音楽探訪をやっていて、そこから生まれた録音はどれもすばらしい。例えばこの平安隆さんとの共作。

 ギタリストとしてはもちろんですが、よりスケールの大きな「音楽家」として第一級です。ギターにはあまり興味はないよ、という向きもぜひライヴを体験してください。(ゆ)

 デンマークの至宝、ハウゴー&ホイロップが今度の「ケル・クリ」でのライヴをもって解散することが、招聘元のプランクトン社長川島さんのブログで発表になりました。

 10年やって、ひと区切りつけようということで、別に喧嘩別れするわけではないようなので、将来、また別の形でこの二人が一緒にやるところを見られるではありましょう。

 とはいえ、デュオとしての「マジック」、1+1が10にも100にも、時には無限大にもなる二人の組合せの妙を体験できるのは、やはり今回が最後でしょう。世にデュオは多いですが、この二人はこの形式の意味を完全に書き換えてしまいました。たった二人なのに、変幻自在、大胆さと繊細さがまったく同時に現われる、スリルと美しさに満ちた音楽。いやおそらくこれは三人以上では不可能なので、二人だからこそ産み出せるものでしょう。

 デュオならではの豊饒の点では、マーティン・ヘイズ&デニス・カヒルも負けていませんが、あちらがあくまでもアイリッシュ・ミュージックに収束してゆくのに対し、ハウゴー&ホイロップの音楽はデンマークの地にどっしりと足を踏んばりながら、どんどん広がってゆきます。そういえば、先日のラウーの音楽とも共鳴しているかもしれません。

 思えばあれはもう何年前だろう、グラスゴーの Celtic Connections で、何の予備知識もなく、なにかの「前座」で出てきたかれらのステージに釘付けになって、こいつら何者?と仰天した、その新鮮な驚きを、毎回追体験させてくれるのも、ハウゴー&ホイロップの特異なところです。

 解散を惜しむのではなく、祝福するつもりで、相模大野に行こうと思います。(ゆ)

 長野・諏訪のデュオ亀工房の招きで、カナダのギタリストが来日するそうです。先日トニー・マクマナスが来たばかりですが、アコースティック・ギター・ファンには嬉しい来日ラッシュ。

 詳しくはこちら

 ドン・ロスについては MySpace があります。

 初めて聞きましたが、音楽的にも技法的にもかなり多彩でおもしろい。
うーん、完全生音は魅力ですねえ。トニー・マクマナスもライヴを見て、やはり生音で見たかったと思いましたからねえ。


09/12(金)東京・新宿 バック・イン・タウン
09/13(土)山梨・甲府 ボデガー 東スタジオ
09/14(日)ドン・ロス ギター・セミナー@東京 江東区
<What's the "HEAVY WOOD MUSIC">
 詳細はこちら
09/15(月・祝)長野・伊那 いなっせホール
09/19(金)名古屋 TOKUZO
09/20(土)大阪・吹田 5th Street
09/21(日)東京・中目黒 楽屋
09/22(月)東京・日暮里 日暮里サニーホール(コンサート・サロン)

 「ドン・ロスの東京公演を3回実施しますが、3回とも内容を変えて演奏して貰います。
(注:曲目が全て変わる訳ではありません)
09/22は音響の良いホールで”全くの”生音でピュアな魅力を。
他2箇所はピック・アップの迫力サウンドでお送りします

09/12 と 09/22 は亀工房がオープニング、その他は亀工房のギタリスト、前澤勝典さんがオープニング。


Thanx! > 前澤さん

 先日来日したトニー・マクマナスのツアー中の写真が、招聘された打田氏のサイトに掲載されています。

 大阪や名古屋はずいぶん盛りあがったんですね。

 満員のライヴももちろん客としても嬉しいですが、ラズウエル細木も描いているように、お客の少ないライヴもゆったりして良いものであります。主催者にはもうしわけないけど、横浜はほど良い感じでした。

 ぜひ、再来日を!

 編集部が京都四条烏丸にある関係で、毎年この時期は祇園祭でてんてこ舞いになります。そのあおりで今月の配信は23日を予定してます。乞うご容赦。

 それにしても良かったです、トニィ・マクマナス。ギターというのがあんなに美しい音を出す楽器だとは、あらためて思いしらされました。こうしてみると、ギターはピアノに似ています。音を出す原理も似たようなものですが、楽器の在り方として似ている。終わっててくてく帰りながら、キース・ジャレットに似ていると思ったことであります。

 ケルト系でも、楽器のソロ演奏はもちろんあるし、それぞれに味わい深いものですが、ギターのソロはちょっと立場が違いますね。フィドルにしてもフルートにしてもパイプにしても、ソロはあくまでもソロ、いわば単相であるわけですが、ギターは単相にも福相にもなる。リズムも刻めるし、メロディも奏でられる。両方同時にもできる。ですから、ギターでしか演奏できない、聞くことができない音楽がある。

 極端に言えば、ギターでやると言うだけで、新しいアイリッシュ・ミュージック、スコティッシュ・ミュージック、ケルト音楽を生みだせる。昨夜はそれだけでなく、イタリアやギリシアやブルガリアも聞かせてくれましたが、そのどれもが瑞々しく、新鮮。聞き慣れた曲でも、初めての出会いのようでした。

 もう一つ感心したのは、動きに無駄がない。アコースティック、エレクトリック問わず、ギタリストは演奏しているその動きを見ている凄いことをしていても、眼をつむって音だけ聞くとなんてことはないことがままあるんですが、トニィ・マクマナスは動きが凄いと音も凄い。見て楽しく、聞いて一層楽しい。

 ギタリストとしても、またケルト音楽家としても、これを見ないで何を見るのだ。今日は大坂、明日は名古屋です。仕事はほうりだしなさい。デートはすっぽかしなさい。親の死に目に会えずとも、これに行くというなら、親も安心して往生してくれます。何が何でも行くべし。(ゆ)

 アコースティック・ギターの打田十紀夫氏が招聘して、スコットランドの名ギタリスト、トニー・マクマナスが来日するそうです。

 打田氏はこれまでにもジョン・レンボーンやピエール・ベンスーザンを招聘した方。

 ケルト系の音楽にとってギターは異端の楽器ながら、それ故また名手も多いわけですが、トニー・マクマナス Tony McManus は、演奏語彙の豊富さとスタイルの多様さで、まず世界一といっていいと思います。ヨーロッパ音楽のギタリストとしても、この人に匹敵するといえば、ジョン・レンボーンやピエール・ベンスーザン、マーティン・シンプソンというクラス。同世代では肩をならべられる人はまずいません。

 本人名義のCDは共作も含めて5枚。どれもすばらしい。また、Catherine-Ann McPhee や Deaf Shepherd、Gordon Duncan、Gary West などのアルバムのプロデューサーとしても手腕を発揮しています。

 こちらももうすぐ来日するモザイクの前回の全米ツアーには、ドーナル・ラニィが参加できなかったため、代役を務めてもいます。

 一応のスケジュールはこちら。詳細は後日の由。

トニー・マクマナス Live in Japan 2008

07/17 (木) 東京 Back In Town
07/18 (金) 横浜 Thumbs Up
07/19 (土) 大阪 May Theater
07/20 (日) 名古屋 Tokuzo
07/21 (月・祝) 東京 Back In Town


Tanx! > タムボリン

  さりげない。
  ちょんちょんと弦をこすり、次の瞬間、曲に入る。
  と、世界が変わる。

  マーティンとデニスの音が鳴っている間、ぼくらは別世界にいる。
「日常世界ではしらないような感情」に満たされた世界。
うちくだくことも押し戻すこともできない何かが、
二人の手の先からとうとうとあふれ出てくる。

  あふれ出て空間を満たし、
ぼくの体を満たし、
心を満たす。
するとさらわれる先は生死の境。
もうほんの少しでも増えたなら、
あっさりと幽明の境を越えてしまうだろう。
それもまたよし。

  いや、そうではない。
よしも何もないのだ。
もっと静かにすみきった、
まったき抱擁。
かすかなやるせなさが残って
一層歓びを深くする。

  音楽はいつか止む。
ぼくらはいつか捕まり殺される。
しかし殺すものもまた、そうせざるをえない。
ぼくらを捕え殺すのがかれらの道、義務、ダルマだからだ。
命とはその原理の表象につきる。
音楽はその命の表象につきる。

  マーティンとデニスの音楽には余分なものがなにもない。
同時に音楽のすべてがある。
ジャズもクラシックもポップスも
無伴奏もフルオケもロック・バンドも
伝統も前衛も
アルタミラの洞窟に響いていた音も
太陽が滅ぶ時にたてるだろう音も
すべてを備え、生みだしてゆく。

  あえてハイライトをあげるなら、
後半、スロー・エアからマーチを経て展開されたメドレー。
そうだ、もう遠慮は要らない。
長い長いメドレーにこそひたりたい。

  あえてアイルランドにひきつけるなら、
この二人の音楽はアイルランドの伝統からしか現れない。
長い「逸脱」の積み重ねの末に
この二人とその音楽を生みだしたことで
アイルランドは称えられるべし。
そしてまたここから次なる伝統が流れだす。

  マーティンとデニスに感謝を。
  のざきさんに感謝を。
  武蔵野文化財団に感謝を。



Special thanks to Mr Naka
(ゆ)

Sarah McQuaid (Photo by Alastair Bruce)  はじめのほうの Root Salad にタムボリンの船津さんのインタヴュー記事。
インタヴュアーはポール・フィッシャー。
掲載写真の背景に写っているのは、
fRoots編集長イアン・アンダースンのソロ・アルバム、
まだ、Ian A Anderson と名乗っていた時期の
《ROYAL YORK CRESCENT》The Village Thing, VTS3, 1970。
記事の内容は、われわれにとっては特に目新しいことはありません。
「ブラック・ホーク」と松平さんの名前が、
海外の雑誌で紹介されたのは初めてかも。


 それよりはやはりアン・ブリッグスへの
コリン・アーウィンのインタヴュー記事が気になります。
セカンド《THE TIME HAS COME》の再発で、
またアンにたいする関心が高まっている由。
とはいえ、これもまた数年前 MOJO に出た記事につけ加わるものは特になし。

 ミュージシャンとして活動した時期は本当に楽しかったが、
引退したことを悔いたこともない。
いまの生活にはまったく満足している。

 こういうところが彼女の特別なところなんでしょう。
巨大な影響をあたえつづけながら、
その影響自体をクールに眺めていられる。
自分の名声に舞いあがることもない。

 初めて聞いたように想うのは、
親友でもあったサンディ・デニーのいた頃のフェアポートは良いが、
それよりはザ・バンドのようなアメリカのグループや
初期のクリームのほうが好み
ということ。
サンディの作品のなかでもベストのひとつ〈The pond and the stream〉、
フォザリンゲイのアルバムに入って入る曲が、
アンをうたっていたことは、
前にもどこかで読んだ気がしますが、
リチャード・トンプソンの、
これまた傑作のひとつ〈Beeswing〉も、
アンのことだ、というのは迂闊にもはじめて知りました。

 最近のできごとでは、
セカンドに入っている〈Ride, ride〉が
2002年にジェニファ・アニストン主演の
映画『グッド・ガール The Good Girl』に使われたこと。
うたったのはジリアン・ウェルチ。

 ジリアンの歌唱は自分のほど良くないけれど、
ソニーはわたしのを使わせたくなかったのよ、
でも、作曲者印税をたくさんもらったので文句はないわ(笑)。

 若いシンガーが自分のテープを送ってきて、助言を求めたり、
実際に家までやってきたりすることが、
そう頻繁でないにしても、絶えず続いているそうな。
そうしたなかでここ6年ほど、
特に親しくなったのが Alasdair Roberts

 最後にアーウィンがお定まりの質問をしていますが、
そして、それに対して長い長い沈黙に考えこんでもいますが、
やはり「復帰」はないんでしょう。

 これからも、
彼女の録音に人びとは耳を傾け、
彼女をめぐっていくつものうたが書かれ、
たくさんの人が彼女のうたをうたい、
こうした記事が載ればまず真先に読まずにはいられない、
そういう存在であり続けるのでしょう。
その点では、ニック・ドレイクやサンディ・デニーと同じなのかもしれません。


 アン・ブリッグスの記事は途中から後ろのほうに飛んでいますが、
その続きのページの反対側に
Sarah McQuaid のデビュー作《WHEN TWO LOVERS MEET》復刻のうれしい記事。
ひじょうにすぐれたシンガーであり、ギタリストでもある人。
DADGAD ギターの教則本を書いてもいます。
ついでに美人(上の写真 Photo by Alastair Bruce)。

 マドリード生まれ、シカゴ育ち。
1994年からつい先日までアイルランドに住み、
結婚してふたりの子どもをもうけています。
今年、コーンワルに引っ越し、
セカンド・アルバムの録音を完成させた由。

 このデビュー作はアイルランドに住んでいた1997年に
録音、リリースしたもの。
名曲名演名録音。
プロデュースはジェリィ・オゥベアン。
ジェリィ自身の他、ジョン・マクシェリィ、ニーヴ・パースンズ、
トレヴァー・ハッチンソン、ロッド・マクヴィー等々がサポート。
録音はトレヴァーのスタジオ。

 セカンドも今年5月、
ふたたびトレヴァーのスタジオで録音。
ふたたびジェリィ・オゥベアンのプロデュース。
ジェリィの他にはリアム・ブラドリィとモイア・ブレナックがサポート。
テーマはオールド・タイムだそうです。
リリースは来年初め。(ゆ)

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